紫香楽宮
紫香楽宮<信楽町>
〔古代〕古代の宮名。甲賀郡紫香楽(現甲賀郡信楽町)にあったことから甲賀宮ともいわれた。天平14年8月、聖武天皇は近江国甲賀郡紫香楽村に行幸の詔を発し、同時に造離宮司が補任され、以後しばしば行幸があった。またすでに天平12年に甲賀宮の仕丁に月粮を請うたことがあるので(正倉院文書)、本格的な造営に先立って離宮が営まれたと考えられる。この頃、都は山背(やましろ)国の恭仁(くにの)京であったが、同15年10月には東海・東山・北陸3道25か国の当年の調庸物を、すべて紫香楽宮に貢進せしめ、また盧舎那仏像を造るための寺地を開き(甲賀寺)、あたかも事実上の遷都がなされたかのようであった。天平16年3月には紫香楽宮に朱雀門と大安殿があったが、翌4月になっても「百官いまだ成ら」ざる状態であったという。この間の相次ぐ遷都の事情については不明な点が多く、天平17年5月には再び平城京に帰ることとなり、紫香楽宮は無人の地となった(続日本紀)。その後、宮域および甲賀寺は国分寺とされたらしく、天平勝宝3年12月の「東大寺奴婢見来帳」には、奴忍人が「甲賀宮国分寺大工家」で捕えられた記事が見える(寧遺770)。現在の信楽町大字黄瀬(きせの)には、その遺構が現存し、多数の礎石や古瓦などが出土し、内裡野(だいりの)・寺野の字名が残っている。
<引用文献>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』359頁 角川春樹発行 昭和54年
紫香楽宮跡(甲賀寺跡)国史跡 所在地 滋賀県甲賀市信楽町黄瀬・牧
紫香楽宮は、聖武天皇の時代に造営された宮都である。
天平12年(740)の「藤原広嗣の乱」を契機に平城宮を離れた天皇は、天平14年(742)に信楽の地で離宮建設を開始し、天平15年(743)10月には、「大仏建立の詔」がこの地で発布された。
翌年11月の体骨柱(大仏鋳造の内型の芯柱)を立てる式典に際して、天皇自らが綱を引いたと記録されていることから、紫香楽宮での大仏建立は、順調に進んでいたことが推測されるが、天平17年(745)の紫香楽宮廃都とともに中断され、東大寺(奈良市)で新たな大仏が建立され現在に至っている。
この丘陵の遺跡は、大正15年(1926)に国史跡「紫香楽宮跡」として指定されたが、その後の発掘調査で、宮殿跡とされた礎石遺構が東大寺の建物配置に類似することや、山城国分寺跡と同笵瓦が出土することから寺院跡であることが判明し、甲賀寺跡と推測されている。(平成14年(2000)には、宮町遺跡で紫香楽宮の中心区画が発見されている。)
しかし、現存する礎石遺構が大仏建立のために建立された甲賀寺と仮定すると、東大寺の規模と比較して面積で3割弱に過ぎず、丘陵全体では東大寺に匹敵するほどの面積が確保できるにもかかわらず、「国中の銅を尽くし、大山を崩す」という大仏建立の詔の表現に対して、その規模は狭小である。
さらに紫香楽宮廃都後も、文献には「甲賀宮国分寺」と称される寺院が存在していることが確認されることから、現状の遺跡をどのように解釈するかが、今後の検討課題になっている。
※説明板より
紫香楽宮
天平14年(742)、恭仁(くに)の宮(みや)の造営中であった聖武天皇は、恭仁(京都府相楽郡)より東北の道を開き信楽に離宮の造営を始めた。たびたびの行幸の後、天平17年(745)の正月にはここを新京として百官朝賀の新年儀式を執り行なうに至ったのであった。朱雀門や大安殿・朝堂などが建ち役所も大部分この地に移って都の造営が続けられようとしたのであるが、同年4月ごろから周辺の山々に大火災が相次ぎ、その上、地震などの災害も起こって人心の不安が募ったために、ついにこの年の5月、都は奈良の平城宮へと戻されていったのである。
この遺跡は紫香楽宮造営の一環として建てられた寺院の遺跡であって、後に甲賀宮国分寺となったと推定されている甲賀寺の遺構とみられ、東大寺に先立つ寺院の遺跡としても貴重である。
なお、聖武天皇はこの間の天平15年に、大仏造立の詔勅を発し、この地にその造仏を開始したのであるが、遷都によってここでは完成に至らず、後に東大寺としてそれが完成したのである。
※説明板より
金堂(こんどう)
金堂は、本尊を安置する堂で、7堂伽(が)藍(らん)中、最も重要な建物である。周囲より一段と高い基壇上に、1.5m前後の大きな礎石をすえて、金堂の威厳を示している。正面7間、奥行4間の建物で、現在神社の立つ中央部が本尊を配した内陣と思われる。金堂の東西に、中門からまわった回廊が取り付いたらしい。おそらく盧(る)舎(しゃ)那(な)仏(ぶつ)はこの堂宇の本尊として造顕計画されたのであろう。
※説明板より
鐘楼(しょうろう)
鐘楼は、大鐘を装置した楼である。金堂、講堂の間、東の平地にあり、3間4面の礎石が完全に残っている。中間からのびてきた回廊が、東側では鐘楼に接続している。礎石からみて規模の小さい重層の建物であるが、寺院としてはなくてはならない堂宇である。奈良時代の遺構としては数少ない遺例であり、重要な資料である。
※説明板より
塔院(とういん)≪塔、塔院中門、回廊≫
塔は、仏舎利を奉安する建物である。飛鳥時代、主要伽(が)藍(らん)内に1基の塔を建てていたが、奈良時代になると、伽藍内で東西に塔を設けたり、本遺跡のように伽藍に接して塔院を作るようになった。おそらく五重塔であろう。塔を囲んで回廊をまわし、別区を作っており、南に出入口となる塔院中門がみられる。
※説明板より
経楼(きょうろう)
経楼は、経論を納置する庫蔵(くら)である。金堂、講堂の西にあり、3間4面の礎石が完全に残っている。鐘楼と同規模、同構造と思われ、経典を中心とするこの時代の寺院にあっては重要な建物である。現在発見されている例が少ないだけ重要な遺構である。ここに大般若経やその他経論が収蔵されていたことは正倉院文書などからも知られる。
※説明板より
紫香楽宮は、今からおよそ1,250年前の奈良時代中頃、滋賀県甲賀市信楽町の北部に聖武天皇が造営した都です。
天皇は奈良の都(平城京)で政治を行なっていましたが、天平12(740)年10月末に奈良の都を離れ、年末には奈良の北(今の京都府木津川市加茂町)とその周辺に新しい都を造り始めました。この都が恭仁京です。
恭仁京の建設が進められている間、恭仁京から甲賀郡紫香楽村に通じる道(恭仁東北道)が開通し、天皇は紫香楽村に離宮を造り始めました。
天皇は、天平14(742)年8月~9月、同年12月~翌15年正月、15年4月、同年7月~11月初め、というように、この離宮へたびたび出かけ(行幸)、離宮の建設を励ましています。
離宮というのは都とは異なり、天皇が保養などのため一時的に滞在する宮殿的施設で、紫香楽宮は離宮として造られ始めたのです。
このように、一方では恭仁京を造りながら、同時にもう一つの離宮・紫香楽宮の建設を進めたものですから、国家財政はたまりません。
天平15(743)年の年末には、遂に、それまで足掛け4年間続いてきた恭仁京の建設事業が停止されることになりました。
明けて天平16(744)年になると、朝廷では難波宮を都にする準備を進め、早くも2月末には正式に難波を都と宣言しました。
ところが、紫香楽宮の建設は引き続き進められていたのです。
天平15(743)年10月に天皇は紫香楽宮で「大仏造顕の詔」を発し、甲賀寺の建設と大仏造りに着手します。
そして天平16(744)年11月には甲賀寺で大仏の骨組みとなる体骨柱(中心柱)を建てる儀式が行なわれ、太上天皇(前天皇)も難波宮から紫香楽宮へ到着するなど、紫香楽は活気に満ちていきました。
その勢いが持ち越された天平17(745)年正月元旦、紫香楽宮は「新京」と呼ばれ、宮殿の門前に立てるのが習わしの大きな楯と槍が立てられました。
ようやく、紫香楽宮は正式な都になったのです。
しかし、4月になると、紫香楽宮や甲賀寺周辺の山々でしきりに火災が起こりました。
火災がおさまると、今度は美濃国(岐阜県)で起きた大地震の余震と思われる地震が相次ぎました。
これらが原因となって、5月には早くも都が奈良(平城京)へもどってしまいました。
紫香楽宮は、このように数年間めまぐるしく平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京と
都が移り変わった時期に、極く短期間ですが光を放って存在した都であったのです。
(引用:http://www.geocities.jp/tenpyounomiyako/history/h_text.html)
資料集
071_078_紫香楽宮
恭仁京
史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡)
恭仁京は、奈良時代に聖(しょう)武(む)天皇によって造られた都である。当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平(へい)城(じょう)京を離れ、各地を転々とした後、天(てん)平(ぴょう)12年(740)に現在の加茂町瓶原(みかのはら)の地を中心に新都を定めた。しかし、恭仁京は天平16年(744)にわずか4年あまりで廃(はい)都(と)されてしまう。
その後、宮域は大極殿(だいごくでん)を中心に、山城国分寺として再利用されることになる。山城国分寺跡は、恭仁宮の大極殿をそのまま用いた金堂(こんどう)跡を中心に南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域を持つ寺であった。山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基(き)壇(だん)と塔(とう)跡基壇が地表に残されている。周囲を塀に囲まれた踏は、残されている基壇跡や礎(そ)石(せき)跡から考えて七重塔であったと推定される。
※説明板より
恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代の都城の1つ。山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」。宮跡は山城国分寺跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。
藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。
741年(天平13年)の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。しかし、都としては完成しないまま743年(天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年(天平14)秋には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年(天平16年)2月に、穂積老を留守官に任じて難波京に遷都、さらに745年(天平17年)5月に都は平城京に戻された。
遷都後、748年(天平18年)恭仁宮大極殿は山背国分寺に施入されている。
宮は平城宮を簡略化した程度で、南北750メートル、東西560メートルの南北に長い長方形であった。朝堂院も平城宮より東西に幅が狭く、板塀で囲まれていた。西側は狭い谷間、東側は木津川の氾濫原によって宮や京の造営が制約され、全体的に小規模であったとみられ、条坊制を示す遺構も確認されていない。
(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AD%E4%BB%81%E4%BA%AC)
資料集
072_079_恭仁京
石山寺
滋賀県大津市石山寺辺町にある真言宗御室派の寺院。西国観音霊場三十三所第 13番の札所。山号は石光山。天平勝宝年間 (749~757) ,聖武天皇の勅願による良弁僧正の開基と伝える。しかし実際は大仏殿建立の用材採集の事務を司る石山院を建てたのが始りという説が有力。平安時代に醍醐寺の聖宝,観賢,淳祐らが再興し,公家貴族の崇敬を集め,石山寺詣が盛大に行われた。平安時代の古式を残す本堂,鎌倉時代の多宝塔 (ともに国宝) などの建造物,仏像仏画,聖教類,『石山寺縁起絵巻』など多くの文化財を所蔵している。(引用:https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%AF%BA-30662)
資料集
069_076_石山寺
近江大津宮跡
史(し)跡(せき) 近江(おうみ)大(おお)津(つの)宮(みや)錦織(にしこうり)遺(い)跡(せき)
西暦667年、天智天皇は新羅(しらぎ)・唐(とう)の連合軍と対戦した白村江(はくすきのえ)の戦いが敗北に終わった後、突然都を飛鳥から近江に移した。この近江に営まれた宮が大津宮である。天智天皇は律令制に基づいた天皇を中心とする統一国家を作ろうとしたが、遷(せん)都(と)後わずか5年でこの世を去り、その後に起きた壬申(じんしん)の乱によって大津宮自体も廃墟となってしまった。わずか5年5カ月の短命の都であった。
大津宮の位置については錦織説、南志賀説、滋賀里説等があり、その位置については容易に明確にすることができなかったが、昭和49年にここ錦織2丁目で行なわれた発掘調査により、東西南北に整然と並ぶ大型の柱穴が13基発見された。この遺構は東西に細長い建物跡と推定され、発見された地層や建物の規模などから、宮に関連するものとしか考えられず、ここが大津宮の有力な候補地として注目されるようになった。その後、昭和53年に、この建物跡の続きの部分を発掘調査したところ、さらに東に延びる柱列が発見されたことにより、この部分は、内(だい)裏(り)南門(なんもん)と宮の中心を囲う回廊(かいろう)とこれにつながる柵(さく)の跡と判断され、この部分が大津宮のまさに中心部分であることが明らかになった。
ここに、長年追い求め続けられてきた大津宮の位置が確定され、昭和54年に建物跡の見つかった部分が国の史跡に指定された。その後に発見された宮関連の建物跡などの遺構がある場所も順次史跡に追加指定されている。
※説明板より
大津宮錦織遺跡(第1地点)昭和54年7月2日指定
大津宮は『日本書紀』に、「浜台」「大蔵」「宮門」「朝廷」「殿」「漏刻台」「内裏西殿」「大蔵省第三倉」「新宮」「大炊」「大殿」などの建築物に関する記載がある程度で、その正確な位置や実態は長い間明らかではなかった。
ここ第1地点では、1辺140~170センチメートルの方形の掘方を持つ東西棟の建物(SB001)とそれに取り付く回廊(SC001)、さらに、回廊に直角に取り付いて北に延びる塀(SA001)などが見つかった。東西棟の建物(SB001)は内裏の南門、回廊(SC001)は複廊と考えられている。複廊は古代の宮殿において、その中心となる施設を囲む回廊に用いられる廊の型式で、格式の高いものと考えられている。
※説明板より
史跡近江大津宮錦織遺跡(第1地点)昭和62年12月25日追加指定
この場所は、大津宮の中心である内裏の東南隅にあたる。
この場所の2列に並ぶ柱は、内裏の入り口の門から東に延びる回廊の一部と考えられている。また、左手に見える1列に並ぶ柱は、回廊から北に延びる塀の一部と考えられている。
ここから北に約80メートルの地点では、内裏正殿の跡が見つかっている(第2地点)。
おそらく、正殿の南側は広場になっていて、第1地点と第2地点の間は、儀式などに使われる重要な場所だったと考えられる。※説明板より
錦織(にしこおり)の地名
古代よりある地名で、古くはこのあたり一帯が錦部(にしこり)郷と呼ばれていた。錦部郷の地名は、機織(はたおり)関係の職務に携っていた朝鮮半島からの渡来人である錦部(にしこり)氏が、奈良時代以前より、当地一帯を居住地としていたことに由来する。
※説明板より
大津宮錦織遺跡(第2地点)昭和62年12月25日追加指定
この場所は、内裏南門推定地(第1地点)の真北約80メートルの場所にあり、天智天皇が政(まつりごと)を執り行なった内裏正殿のあった場所、つまり大津宮の中心的位置だったと推定されている。
昭和57年(1982)の発掘調査では、建物の東南部分と考えられる10基の柱跡が見つかっている。建物の規模は、桁行5間・梁行2間の身舎(もや)の4面に廂が付く格式の高い大型建物で、東西7間・南北4間、東西が21.3メートル、南北が10.4メートルを測る。
この内裏正殿の建物は、道を挟んだ第7地点と第9地点まで広がっていたと考えられる。※説明板より
大津宮錦織遺跡(第7地点)昭和59年7月3日追加指定
この場所は、まだ発掘調査が行なわれていないが、県道を挟んだ東側からは東西7間・南北4間(21.3メートル×10.4メートル)の四方に廂を持つ、建物と推定される遺構の一部が見つかっている。この遺構は、その位置・規模から、天智天皇が直接政治を行なった内裏正殿の跡と考えられており、建物西南部分はこの場所まで延びていると考えられる。※説明板より
大津(おおつの)宮(みや)錦織(にしこおり)遺(い)跡(せき) 第8地点
昭和9年の発掘調査により、この第8地点の北に隣接する第1地点で内(だい)裏(り)南門跡(なんもんあと)が発見され、ここ大津市錦織の地に大津宮があったことが確認された。第8地点は、まだ発掘調査は実施されていないが、その位置関係から内裏南門の一部が存在するものと考えられる。まさに大津宮中枢の入口にあたる重要な地点である。
この第8地点の西を南北に走っている道路は、大津宮の南北中軸線にほぼ相当し、後世には西(にし)近江(おうみ)路(じ)と呼ばれた重要な交通路であった。この道を北へ辿ると、大津宮と同時代の遺跡である南(みなみ)滋賀(しが)町(ちょう)廃(はい)寺(じ)跡(あと)や崇福(すうふく)寺(じ)跡(あと)といった史跡がある。
※説明板より
白村江の敗北
朝鮮の白村江(はくすきのえ)において百済(くだら)・日本連合軍が、唐と新羅連合軍に大敗したのは天(てん)智(じ)2年(663)のことである。その惨状は、ベトナム戦争で敗れた南ベトナムとアメリカ軍が、洋上へ撤退した場面を思い出せば、理解しやすい。九州から大和まで瀬戸内海に沿って点々と築かれた山(さん)城(じょう)、飛鳥から近江の大津京への遷都。それら一連の事業は、大唐帝国と新羅に対する恐怖の産物であった。
しかし、唐と新羅が再編成した東アジア世界で、日本という国家が生き残るためには、行政改革を行ない、強力な政府を建設する以外に道はなかった。政府は法律によって国を統治する律令制度を導入し、仏教の国教化を促進する。改革の手本は先進国の唐帝国と定め、百済の遺民がブレーンとして加わった。
律令制度を演出する中央の舞台が都(と)城(じょう)であり、飛鳥浄(きよ)御(み)原(はら)宮・難波(なにわ)京・藤原京と都市建設の実験を繰り返しながら、平城京にいたって初めて完備する。それは、国土の中心に天皇の政府が所在する都城を営み、地方には政府の意志を代行する国府を置き、その傘下に郡(ぐん)・郷(ごう)・里(り)を配置するという、壮大な構想の一環であった。それらの行政機関を幹線道路で連結することによって支配網が整う。さらに、大陸に門戸を開く北部九州に大宰府を設置し、東国のまつろわぬ人々を屈服させ、領土を北に拡大するために、多賀城とその出先の城(じょう)柵(さく)を設けた。
参考文献 町田章編『古代史復元8 古代の宮殿と寺院』 (株)講談社発行1989年
昭和49年、錦織2丁目の住宅地の一角で行われた発掘調査により、大規模な掘立柱建物跡の一部が発見されました。続いて昭和53年2月にこの建物跡に連続する柱穴が発掘され、錦織を中心とする地域が大津宮の所在地であったことが確実視されるようになりました。その後十数地点で調査が行われ、大津宮の建物の位置もほぼ確定して、その中枢部の構造も復原されるまでに研究は進展しています。昭和54年7月に国史跡に指定されました。
昭和49年に発見された建物跡は、天皇の居所の内裏と政務を行なう朝堂院とを分ける内裏南門と想定され、復原すると東西7間と、南北2間で、その東西に掘立柱の複廊が付属しています。この門の北側が内裏、南側が朝堂院と考えられています。門の真北には三方を塀に囲まれた庇付きの建物の内裏正殿があります。この建物は、復原すると東西7間、南北4間の建物になると推定されています。
(引用:http://oumijingu.org/publics/index/112/)
資料集
066_073_都の移転・近江大津宮
長岡宮跡
長岡京
長岡京は、桓武天皇の命により、延暦3(784)年11月11日に奈良・平城京から、山背(やましろ)の(城)国(くに)乙訓郡(おとくにぐん)長岡村(ながおかむら)に遷された古代日本の都である。延暦13(794)年に京都の平安京に遷されるまでの10年間、当地一帯が日本の首都であった。都の大きさは、東西4.3km、南北5.3kmと広大である。
当時の詔(みことのり)に「水陸(すいりく)の便(べん)有(あ)りて、都を長岡に建つ」とあり、地名に因(ちな)んで「長岡京」と名付けられた。長岡という地名は、古来より、向日(むこう)神社(じんじゃ)のある低い丘陵(通称 向日(むこう)丘陵(きゅうりょう))を中心とする一帯を指(さ)す。「長岡の」と墨書(ぼくしょ)された飛鳥(あすか)時(じ)代(だい)の土器(どき)が、出(しゅつ)土(ど)している。
<都の中心地・長岡宮>
都は、宮域と京域に分かれる。宮域は、都の北部中央に位置し、天皇が政治を司(つかさど)る大極殿や天皇の住まいである内裏、国儀大礼をおこなう朝堂院、各役所など、国家(こっか)の中(ちゅう)枢(すう)部(ぶ)が所在(しょざい)したところである。長岡京の時代、「長岡(ながおか)宮(きゅう)」と呼ばれ、そのほぼ全域が向日(むこう)市(し)に含まれる。京域は、宮域を取り囲む街区(がいく)(道路に囲まれたブロック状の区(く)画(かく))である。中央に朱雀大路を配し、大(おお)路(じ)と小(こう)路(じ)を縦(じゅう)横(おう)に通して碁(ご)盤(ばん)の目状に区画されていた。区画内には、貴族の邸宅や役所に勤務する役人の住宅街、東西の市などが置(お)かれ、立派な都市空間を形成(けいせい)していた。
<史跡 長岡宮跡>
昭和36(1961)年の発掘(はっくつ)調(ちょう)査(さ)により確認された大極殿跡が、昭和39(1964)年に「長岡宮跡」として、国の史跡に指定された。以後、長岡宮跡に関する重要な遺跡が発見されるたびに、同一名称で追加指定が行なわれてきた。 ※説明板より
大極殿のルーツ
約1200年前の当地一帯には、現在の東京霞(かすみ)ヶ(が)関(せき)のように国の役所が建ち並んでいた。
大極殿と朝堂院は、その最も重要な施設である。長岡宮では、回廊(通路のある塀)や築地(土塀)に囲まれた大極殿院と朝堂院を南北に配し、瓦葺きの立派な建物が建てられていた。
大極殿は、天皇が政治を司る場所である。「大極殿」の名は、中国の宮殿の正殿(せいでん)「太極殿」に由来する。「太極」は、万物の根源、天空の中心たる北極星を意味する。日本の天皇は、中国の天文思想に習って、世界を支配する中心として、地上に「大極殿」を建てた。
建物の中心には、儀式や謁見の際(さい)に天皇が着座する「高御座」(玉座)が、南向きに据えられていた。長岡京遷都の翌年、延暦4(785)年正月の元旦朝賀が行なわれたと記録にあり、いち早く建設を進めなければならない重要な施設だった。
飛鳥時代以来、歴代の都では、天皇の住まいである内裏の南に連結して大極殿を設けていた。長岡京に都が遷されると、大極殿は内裏から完全に独立し、「朝堂院の正殿」としての性格が強まった。
大極殿は、主に朝堂院に出仕する官人(役人)のための天皇の謁見の場として使われるようになった。
※説明板より
大極殿の規模
東西(桁行)9間、南北(梁間)4間の瓦葺きの四面庇建物である。長岡京の廃都後に耕作などにより削られていたため、柱の規模は明確には確定することはできないが、建物の土台となる基壇が発見されている。
基(き)壇(だん)は東西42.8m(約145尺)、南北21.6m(約73尺)、面積約924㎡(約280坪)で、高さが2.4m(約8尺)であったと考えられている。南面に3つの階段、北面に2つの階段と後殿(こうでん)につながる軒廊(こんろう)(屋根付きの渡り廊下)がある。北側の公園の中央まで、コンクリートで1段高くなった部分が基壇を表わしている。
※説明板より
後殿(こうでん)
大極殿の真北に建てられた、東西(桁行)7間(27.9m)、南北(梁間)2間(12.8m)、面積357㎡(約108坪)の瓦葺きの建物である。基壇は、大極殿より低く約1.1mの高さと考えられている。
※説明板より
宝幢(ほうどう)
大極殿の南の前庭に、元旦朝賀(正月の儀式)の際、東西6m間隔に正確に配列された宝幢と呼ばれる7本ののぼり旗が立てられた。長岡宮の宝幢は、元旦の使用例を示す日本で唯一の遺構である。
長岡宮の大極殿・朝堂院の特徴は、奈良時代の難波宮(大阪市)を解体して移築された点である。それは、一刻も早く平城京(大和)の地を離れ、新しい都を建設するためであった。しかし、一方で、平安京の大極殿や内裏の配置に繋がる特徴も持つ、奈良から平安時代への過渡期の遺跡として長岡宮跡は歴史上重要な遺跡である。
※説明板より
京都府向日(むこう)市鶏冠井(かいで)町にある宮殿跡。京都盆地の西端を南流する桂川の右岸、淀川との合流点に近い向日丘陵に位置する。長岡京は桓武天皇の命により、784年(延暦3)に平城京から遷都し、平安京に移るまでの10年間、都であった。従来「幻の都」とされてきたが、1955年(昭和30)に朝堂院(ちょうどういん)の門跡が、1962年(昭和37)には大極殿跡が発掘されたところから、1964年(昭和39)に国の史跡に指定された。大極殿跡は周辺の石敷、凝灰岩の痕跡などにより、基壇は東西40.3m、南北21.6mと認められ、南面中央と東西に3ヵ所の階段の跡があった。小安殿跡は大極殿跡の北に接し、東西31.55m、南北15.25mの基壇上に桁行7間、梁行2間の建物があったと推定される。その後、築地跡や礎石建物である8つの朝堂の規模も明らかになり、1997年(平成9)には旗飾りのための宝幢(ほうどう)遺構3基が検出された。遺構は長さ約2.1m、幅約1.2m、深さ約0.8mの柱穴で、大極殿の南端から約30m南の位置に、3m間隔で計画的に配置された7基のうちの、東側3基と考えられる。平城宮の大極殿前庭で検出された同様の遺構は、天皇の即位式に際して建てられたものと考えられているが、長岡宮では即位式が行われなかったので、この宝幢は朝賀にともなうものとみられた。付近の向日市文化資料館では出土品と大極殿・朝堂院の復元模型が展示されている。
(引用:https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%AE%AE%E8%B7%A1-1444604)
資料集
067_074_長岡宮跡
難波宮跡
後期難波宮
後期難波宮模型(大阪歴史博物館)
奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。
その後、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都を行っているが、天平16年(744年)に入ると難波京への再遷都を考えるようになる。この年の閏1月11日、聖武天皇は行幸を名目に難波宮に入り、2月26日に難波京への遷都の詔が正式に発表された。もっとも、その2日前に聖武天皇は再々遷都を視野に入れて紫香楽宮に行幸しており、難波宮には元正上皇と左大臣橘諸兄が残された。このため、聖武天皇と元正上皇との間の政治的対立を想定する説や難波遷都は紫香楽宮の都城設備が完成するまでの一時的な措置であったとする説もある。
最終的に翌天平17年1月1日(745年2月6日)、難波京から紫香楽宮へ遷都が正式に発表された。難波遷都も紫香楽遷都も聖武天皇の意向であったと考えられ、短期間での方針変更が混乱を招いたと言えよう。
延暦3年(784年)[4]、桓武天皇により長岡京に遷都[7]された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.3
『日本書紀』や『続日本紀』に記された難波宮の所在地は、昭和29年(1954)から開始された、山根徳太郎を中心とする発掘調査により、現在の史跡指定地にあることが明らかにされました。
その後の調査により、2時期の宮殿遺構があることがわかり、それを前期難波宮、後期難波宮と呼び分けています。前期難波宮の遺構には火災痕跡があり、朱鳥元年(686)に焼失した天武天皇の難波宮にあたり、その創建は「大化改新」ののち、孝徳天皇により造営された難波長柄豊碕宮と考えられています。一方、後期難波宮は聖武天皇によって再建された難波宮です。史跡公園内には復元された後期難波宮の大極殿基壇や前期難波宮の八角形建物などが立体的に遺構表示されています。また、大阪歴史博物館の地下には前期難波宮の倉庫群の遺構が保存され、一般公開されています。
(引用:http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/bunkazai/naniwamiyaatokouen.html)
資料集
068_075_難波宮跡
平安京跡
平安京
延暦13年(794)、桓(かん)武(む)天皇の命により長岡京から遷(せん)都(と)された平安京は、京都盆地のほぼ中央に東西約4.5km、南北約5.2kmの規模で建設され、現在の京都市の市街地の原型はこの時より形づくられていった。
右図は、平安京を北方上方から南を見て復原したイラストで、上方右に廃(はい)都(と)された長岡京が見えている。手前(下方)には、建都の際に測量の基準になったとみられる船岡(ふなおか)山があり、平安宮北西(手前右)には、桓武天皇ゆかりの常住(じょうじゅう)寺(じ)(野(の)寺(でら))が見えている。
平安京北方には北山や船岡山(玄(げん)武(ぶ))がひかえ、東に鴨川(青(せい)龍(りゅう))、西には桂川と西国への街道(白虎(びゃっこ))が通り、遥か南方には巨(お)椋池(ぐらいけ)(朱(す)雀(ざく))がある。いわゆる四(し)神(しん)相応(そうおう)の地である平安京は1,000年以上にわたって我が国の首都として、政治・文化・経済の中心をなし、日本の歴史の舞台となった。
平安京は、九条大路にあった正門の羅(ら)城(じょう)門(もん)をくぐると幅80m以上もある朱(す)雀(ざく)大路が南北に通って、天皇の住居である内裏や、政治の中枢施設があった平安宮(大内(だいだい)裏(り))へ続いていた。
朱雀大路の左右には邸宅が並び、公設市場である東・西の市、外国からの賓客をもてなす東・西の鴻(こう)臚(ろ)館(かん)のほか、退位した天皇の後院である朱(す)雀院(ざくいん)や、広大な園池を有した神泉苑などがあった。
平安時代、この駅前付近は柳並木のある朱雀大路が南北に通り、すぐ北方には平安宮の正門である朱雀門が見え、天皇や貴族、庶民のほか外国使節など多くの人達が、輿(こし)や牛車(ぎっしゃ)に乗り、あるいは徒歩でここを往来していたのである。
*2004年3月京都市建設局建立 説明版より
平安宮
平安京の北方中央には、大内(だいだい)裏(り)とも呼ばれる平安宮があり、天皇の住まいである内(だい)裏(り)や、現在の国会議事堂に相当する朝(ちょう)堂院(どういん)のほか、饗(きょう)宴(えん)場である豊(ぶ)楽院(らくいん)や二官八省(神(じん)祇(ぎ)官・太(だい)政(じょう)官・中(なか)務(つかさ)省・式(しき)部(ぶ)省・治部(じぶ)省・民(みん)部(ぶ)省・兵(ひょう)部(ぶ)省・刑(ぎょう)部(ぶ)省・大蔵(おおくら)省・宮(く)内(ない)省)など、国家の重要な政治機構が集中した場所であった。
その規模は、東西約1.14km、南北約1.35kmで、北は現在の一条通(一条大路)、南は二条通(二条大路)、東は大宮通(大宮大路)、西は御前通(西大宮大路)となる。
平安宮の中央に位置する朝堂院は、八(はっ)省(しょう)院とも呼ばれ、その正殿が大極殿(だいごくでん)で、屋根は美しい緑(りょく)釉(ゆう)瓦(がわら)で縁取りされていた。ここでは天皇の即(そく)位(い)式(しき)や、正月に天皇が出御して百官と共に祝う朝(ちょう)賀(が)の儀式、外国使節の謁見(えっけん)など、国家の重要な行事が行なわれた。
この朝堂院は、東西約200m、南北約470mもある大規模なもので、正門が応天門、その内部には東西に朝集(ちょうしゅう)堂があり、さらに会(かい)昌(しょう)門をくぐって南北に広い内廷に入ると、各官庁の官人の座が設けられた12の堂があった。さらに、北方の一段高くなった龍(りゅう)尾(び)壇(だん)の左右には華麗な楼閣(ろうかく)が設けられ、最も奥には豪壮華麗な大極殿が聳(そび)えていた。
この大極殿跡は、ここより北方約850mの千本丸太町交差点の北寄りにあり、発掘調査で判明した場所のいくつかを明示し、また、交差点北西の内野児童公園内には大極殿遺址の石碑がある。なお、岡崎公園にある平安神宮は、明治28年に、この朝堂院の十二堂部分を省略し、約8分の5で再現されたものである。
*2004年3月京都市建設局建立 説明版より
平安宮 朱(す)雀門跡(ざくもんあと)
朱(す)雀門(ざくもん)は、平安宮(大内(だいだい)裏(り))の南面大垣中央に設けられた宮城門である。柱間は7間(梁間2間)、中央5間に扉が付く二階門で、宮城十二門の中で最も規模が大きい。
朱雀大路に面する平安宮の正門であり、南は平安京の朱雀大路南端にあった羅(ら)城(しょう)門(もん)、北は宮城内の応天門や大極殿と一直線上に並んでいる。
平安時代の終わり頃に描かれた国宝『伴大(ばんだい)納(な)言(ごん)絵(え)詞(ことば)』には、炎上する応天門へ急ぎ駆けつける群衆とともに朱雀門が描かれている。その姿は、壇(だん)上(じょう)積(づみ)基(き)壇(だん)の上に建てられた壮大な瓦葺き朱塗りの門で、五間戸の前面には階段が敷設されている。
朱雀門の造営当初の具体的な規模や、その後の変遷(へんせん)については、発掘調査例がなく不明である。ただ、千本通りで実施した朱雀門跡推定地における立会調査で、平安時代の整地層が確認されている。
なお、朱雀門の前面は広い儀礼の場となっており、毎年恒例の6月と12月の大(おお)祓(はらえ)とともに、斎内親王(さいないしんのう)(斎宮(さいくう))の伊勢(いせ)群行(ぐんこう)や大(だい)嘗(じょう)祭(さい)などに伴う臨時の大祓などが朱雀門前で行なわれた。また、寛弘4年(1007)の藤原道長による有名な金(きん)峯(ぶ)山(せん)参詣の折りにも、土(つち)御(み)門第(かどだい)から朱雀門大路に出て祓(はらえ)(身を清める神事)を行ない、羅城門(跡)から平安京を出立している。このほか、承和2年(835)9月には回転式の新型大(だい)弩(ど)(固定式の大弓)の試し打ちを、朱雀門前から朱雀大路にむけて発射しており、朱雀門前の広さを物語るエピソードとして興味深い。
このように、平安宮の象徴的な門である朱雀門も、承元2年(1208)9月に火災に遭い、翌年再建されたが、構造的欠陥からか建暦元年(1211)に自然倒壊し、以後は二度と再建されることはなかった。
*2004年3月京都市建設局建立 説明版より
朝堂院(ちょうどういん)
朝堂院は八省院とも言われ、現在の国会議事堂に相当する南北470mを越す大規模な施設である。正門の応天門を入ると左右に朝集堂があり、さらに会昌門を入ると12堂が建ち並び、それぞれに役人の座が設けられていた。12堂の北側には、身分差を表す龍尾壇が設けられ、広場の東には青龍楼・西には白虎楼があった。この交差点の北側に平安宮最大の建物で、屋根には緑釉瓦が葺かれた正殿の大極殿がそびえていた。
*2004年3月京都市建設局建立 説明版より
内裏(だいり)跡
天皇の居所(きょしょ)である内裏は、内外二重の郭で囲まれ、内側を内郭回廊と呼び、築(つい)地(じ)を挟んで内と外に回廊がめぐり、衛士(えじ)らが厳重に警(けい)護(ご)していた。
発掘調査では、下立売(しもだちうり)通の北と南側で内裏西面内郭回廊跡の西・東辺の一部が見つかり、凝(ぎょう)灰岩(かいがん)で構築された回廊基(き)壇(だん)石や河原石を敷き並べた雨落溝(あまおちみぞ)を検出、さらに南面内郭回廊跡では、内裏内の水を外へ排水するための暗渠(あんきょ)跡も見つかっている。
内郭回廊の基壇は、調査の結果から幅が10.5mと判明し、内裏の南西にあった朝堂院の回廊(11.58m)よりも狭いことが分かっている。現在、当該地は国の史跡に指定され遺構が保存されている。
*2004年3月京都市建設局建立 説明版より
平安京(へいあんきょう、たいらのみやこ)または平安城(へいあんじょう)は、かつて日本の首都であった都市。桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として山城国に建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。平安京は現在の京都市街にあたる山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京・右京(内裏側からみての左右になる)を置くという平面計画は基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものであるが、羅城(都市を囲む城壁)は羅城門の左右を除き造られなかったと考えられている。この地の選定は中国から伝わった陰陽道(風水)に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。平安京の範囲は現在の拡大した京都市街より小さく、北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅南方、東寺の南側を通る九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路の推定地はJR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線である。京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120メートル)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていた。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため、街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため、場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。道幅は小路でも4丈(約12メートル)、大路では8丈(約24メートル)以上あった。朱雀大路に至っては28丈(約84メートル)もの幅であったが、一方で東京極・西京極大路は大路であっても造営当初から10メートル前後と小路より狭い幅であった[2]。また、堀川小路と西堀川小路では中央に川(堀川、西堀川)が流れていた。
(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC)
資料集
065_072_平安宮跡
【報告書】沖縄デジタルアーカイブセミナー
- 開催趣旨
デジタルアーカイブは、さまざまな分野で必要とされる資料を記録・保存・発信・評価する重要なプロセスです。このデジタルアーカイブは、わが国の知識基盤社会を支えるものであり、デジタルアーカイブ学会でも、デジタルアーカイブ立国に向けて「 デジタルアーカイブ振興基本法「 仮称)」などの法整備への政策提言を積極的に行っています。今後、知識基盤社会おいてデジタルアーカイブについて責任をもって実践できる専門職であるデジタル・アーキビストが必要とされてきます。今回、沖縄で初めてデジタル・アーキビスト資格取得講座を開催しました。 - 主 催:岐阜女子大学・デジタルアーカイブ研究所
- 共 催:沖縄女子短期大学
- 後 援:北谷町・北谷町教育委員会
デジタルアーカイブ学会・日本デジタル・アーキビスト資格認定機 - 日 時:通信講習:2018年1~2月(2日間相当)
- 対面講習:2018年2月23 日(金) ~ 25日(日)
- 会 場:北谷町美浜メディアステーション(沖縄県中頭郡北谷町字美浜 16 番地 2)
日 程
2月23日
動画2月24日
2月25日
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【報告書】デジタルアーカイブinぎふ郡上 ~白山文化はいいもんだ~
日 時:平成31年2月23日(土)
時 間:13:00~16:30 受付12:30
場 所:郡上市総合文化センター(〒501-4222 岐阜県郡上市八幡町島谷207-1TEL:0575-67-1555 FAX:0575-65-2584)
参加費:無料
主 催:岐阜女子大学 共催:郡上市・郡上市教育委員会
後 援:デジタルアーカイブ学会・日本デジタルアーキビスト資格認定機構
郡上ケーブルテレビ放送センター
定 員::200名
内 容:(敬称略) 受付(12:30~13:00)
1.伝統文化芸能実演(13:00~13:30)
・「白鳥の拝殿踊」(国選択無形民俗文化財)
2.挨 拶(13:35~13:50)
松川 禮子氏(岐阜女子大学学長)
日置 敏明氏(郡上市長)
3.基調講演(13:55~14:45)
「文化遺産と記録」 佐々木正峰氏(国立科学博物館顧問・元文化庁長官・元文部科学省高等教育局長)
基調講演佐々木
文化遺産と記録
4.シンポジウム(15:00~16:30)
「デジタルアーカイブで地域の課題を解決できるか~白山文化を事例として~」
(パネリスト)
「白山芸能とデジタルアーカイブ」 曽我孝司氏(郡上市文化財保護審議会委員)
1パネリスト曽我
白山芸能とデジタルアーカイブ
「美濃馬場の文化財とその保存活用」 藤原 洋氏(郡上市教育委員会社会教育課)
2パネリスト藤原
「美濃馬場の文化財とその保存活用」
「加賀馬場と文化の再発見」 小阪 大氏(白山市教育委員会文化材保護課)
3パネリスト小阪
加賀馬場の文化の再発見
「越前馬場と文化財の保存活用」 宝珍伸一郎氏(勝山市教育委員会世界遺産推進室)
4パネリスト宝珍
プレゼン1
「地域資源デジタルアーカイブと地域活性化」 長丁 光則氏(東京大学大学院特任教授)
5パネリスト長丁
DAPCONパイロット事業
(コーディネータ)
久世 均氏(岐阜女子大学教授)
0シンポジウム