白山比咩神社
白山は日本三霊山にも数えられ、古代から崇敬の対象であった。社伝由緒によれば、崇神天皇の時代に白山を遥拝する「まつりのにわ」が創建された。元正天皇の霊亀2年(716年)に安久濤の森に遷座して社殿堂塔が造立された、と伝わる。
養老元年(717年)に越前の修験僧・泰澄大師によって白山に登って開山。主峰・御前峰に奥宮が創建され、白山妙理大権現が奉祀された、と伝わる。
史料文献初出は、白山比咩神(しらやまひめのかみ)は仁寿3年(853年)10月に従三位に初叙[注釈 1]された。
以後、一宮制度で加賀国一ノ宮と定められ、白山本宮・加賀一ノ宮の白山比咩神社は、平安時代中期から鎌倉時代を経て、室町時代前期に至る約500年間栄えた。
また、白山信仰の禅定道の拠点、加賀馬場・白山比咩神社、越前馬場・平泉寺白山神社、美濃馬場・長滝白山神社のうちの加賀馬場(ばんば)として、白山山頂の管理や入山料の徴収などの利権で潤った。
しかし室町時代中期の康正元年(1455年)以降加賀国に入った本願寺の加賀一向一揆のため年貢米が得られなくなり困窮した状況で、文明12年(1480年)に大火により全焼して、三宮の地に遷座。続く加賀一向一揆の戦乱で白山衆徒は廃絶し、社殿は再興できずその後100年間あまり荒廃した。
白山本宮の社殿堂塔復興は、安土桃山時代に綸旨を受けた前田利家により行われた。社名を白山本宮である白山比咩神社、神宮寺の白山寺も復興・併設、江戸時代は加賀藩主が社の経営をみるところとなった。
江戸時代全期にわたり、白山嶺上の祭祀権(社家権利、札発行、梵字押捺の勧進)と室管理(賽銭収入)を巡って「白山争議」が何度も起きた。尾添村と高野山真言宗、牛首村・風嵐村と越前馬場の平泉寺・比叡山天台宗、美濃馬場の越前国大野郡石徹白、それに巻き込まれた白山本地中宮長滝寺(現 長滝白山神社)、の間で訴訟が起きた。幕府寺社奉行所の裁決が繰り返され、平泉寺の権利に移っていった。
明治時代の神仏分離令により、白山寺は廃され、白山本宮・加賀一ノ宮の「白山比咩神社」と号した。そして歴史史料が調査され、加賀の白山比咩神社・越前の平泉寺白山神社・美濃の長滝白山神社の3社から「延喜式神名帳」に記載された加賀の白山比咩神社が最も古く、全国の白山神社の総本社とされ、白山天嶺の地は本社境内となり奥宮が置かれた。越前・美濃は分霊された白山神社とされた。越前・美濃の白山神社より勧請を受けた他の白山神社も、加賀の白山比咩神社の分霊社に由諸を書き換えた、とされる。
第二次世界大戦後、白山比咩神社は白山神社の総本社として神社本庁の別表神社となり、白山頂上の奥宮を中心とする約3000ヘクタールの広大な地域を本社境内として無償譲与を受け、現在に至る。平泉寺白山神社・長滝白山神社もそれぞれ「白山神社の総本社」を名乗る。
明治42年(1909年)7月23日に御鎮座二千年式年大祭が執行された。昭和33年(1958年)10月3日に御鎮座二千五十年式年大祭が執行された。昭和55年(1980年)10月3日に古宮から三宮の地への御本宮遷座五百年式年大祭が執行された。平成20年(2008年)10月7日に御鎮座二千百年式年大祭が執行された。
平成29年(2017年)、泰澄による白山開山1300年記念奉祝大祭(8月9日~11日)を開催した。(編集中)
資料集
013_016_白山比咩神社
長滝白山神社でででん祭
長滝白山神社の例祭は、5 月に行われる五月祭がある。慶安元年(1648)修正「延年並祭礼次第」(「若宮家文書」)によると 5 月 5 日は正月 6 日と同じく延年の舞が催され、加えて狩馬・御輿御幸行われていたという。
白山三社のご神体を奉じた 3 台の御輿を氏子が担いで、太鼓をデデデン・デデデンと打ち鳴らして御幸されるため、通称でででん祭と呼ばれている。
5 月 4 日に 3 台の御輿を拝殿に奉じ、総代が太鼓を打ち鳴らし、菖蒲・よもぎ・山吹が御輿前に飾られ、ちまきが供えられる。
5 日に神事が始まり、蒲安の舞が舞われる。太鼓が打ち鳴らされると御輿の御幸が始まる。かつては、約 800 m先の二日町駅付近まで行われていたそうであるが、現在は鳥居の外が御旅所となる。
御輿は、東・中・西の順で渡御される。御旅所で祝詞奏上があり、氏子。御輿舁きが御神酒を受ける。御腰は参道を登り、太鼓橋・銀杏坂を経て広庭に登る。広庭を右回りに 3 回ほど廻って、拝殿の左側からそれぞれの社殿に還御される。
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012_015_長滝白山神社でででん祭
関連資料
でででん祭
笥笠中宮神社
笥笠中宮神社は、村上天皇天暦11年(957)4月の創建と伝えられ、笥笠は「けがさ」とも呼び当地区の古地名で、八方を高山に囲まれた蓮華のような段丘に位置していたことと、白山山頂と本宮(白山比咩神社)の中間に位置していたことから、かつては「笥笠(すがさ)中宮」と呼ばれていました。白山七社のうち、別宮・佐羅宮と共に中宮三社と称され、加賀禅定道の事実上の起点であったため、南北朝時代以前には多くの社殿堂宇が建ち並び、白山五院・三ケ寺・中宮八院を傘下に置くなど、白山信仰の中心的な宮として、本宮をしのぐ大勢力でした。
平安末の安元年間、鵜川涌泉寺闘諍の折、三社八院の衆徒が佐羅宮の神輿を奉り比叡山延暦寺を動かし強訴に及びましたが、当社がその領導の任にあったこと夙(つと)に世に知られています。また、境内には七葉樹(とちのき)と桂があり、ともに白山市指定天然記念物になっています。
明治5年12月村社に列し、同10年3月白山比咩神社の摂社に定められ 同40年10月当区内に存した無格社貴峰社を合祀し、大正4年11月6日神饌幣帛料供進神社に指定されました。(編集中)
永平寺
大本山永平寺は1244年、道元禅師が45歳のとき、波多野義重(はたの よししげ)公の願いによって、越前(福井県)に大仏寺(だいぶつじ)を建立し、2年後に永平寺と改められたことに始まります。
深山幽谷の地にたたずむ山門(さんもん)、仏殿(ぶつでん)、法堂(はっとう)、僧堂(そうどう)、庫院(くいん)、浴室(よくしつ)、東司(とうす) の七堂伽藍(しちどうがらん)では、修行僧が道元禅師により定められた厳しい作法に従って禅の修行を営んでいます。
【所在地】 〒910-1228 福井県吉田郡永平寺町志比 TEL:0776-63-3102
資料集
011_013_永平寺
越前馬場 平泉寺白山神社
[住所]福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上
[電話]0779-88-1591平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)は、福井県勝山市平泉寺町にある神社。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
白山国立公園特別指定区域内にある。正式には白山神社。あるいは白山平泉寺とも称す。しかし、現在は寺院ではない。
白山神社ではあるが、主神を菊理媛神とはしていない。本殿に伊奘冊尊、本殿右の別山社に天忍穂耳尊、左の越南知社(おおなむちしゃ)に大己貴尊(大国主命)を祀る。例祭は4月20日。
奈良時代初期の養老元年(717年)、泰澄大師によって創建された。そもそも早くから白山登拝を志していた大師は、この年白山へ登る途中で林泉を発見。
神託によってこの地が神明遊止の地であることを教えられ、ここに奉斎した。その林泉は今も御手洗池と呼ばれている。なお、この由緒は篠座神社とも共通する。
中世以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られた。白山信仰の越前側の禅定道の拠点、いわゆる越前馬場として、最盛期には48社36堂6000坊、僧兵8000人の巨大な宗教都市を形成した。
『平家物語』には、平家と木曾義仲(源義仲)方との燧ケ城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。
斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。
戦国時代には朝倉氏と肩を並べる越前国の一大勢力であったが、朝倉氏滅亡後の天正2年(1574年)、一向一揆が勃発、逃れてきた朝倉景鏡をかくまったために一向一揆に焼き討ちされ衰亡。
その後、豊臣秀吉などの崇敬を受けて顕海が復興し、江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受ける。
寛政8年(1688年)、いさかいが絶えなかった白山三馬場の問題が江戸幕府により裁定された際に白山山頂が平泉寺領と定められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得。
明治時代に神仏分離令により寺号を捨て現在に至る。
境内の苔は西芳寺と共に有名。旧玄成院(別当・平泉宮司邸)庭園は、昭和5年(1930年)に国の名勝に指定された。
境内は「白山平泉寺旧境内」として国の史跡に指定されている。平成になっても発掘調査が進められており、往時の壮大な遺構が発見されている。
なお、当社は進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。
また、「美しい日本の歴史的風土100選」(平成19年)、「かおり風景100選」(平成13年)に選定され、参道が「日本の道百選」(昭和61年)に、平泉寺から白山までの白山禅定道が「歴史の道百選」(平成8年)に選定されている。
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010_012_越前馬場 平泉寺白山神社
白鳥神社 拝殿踊り
上市白鳥町は、岐阜県を流れる長良川の源流域に位置し、美濃馬場、白山中宮長滝寺(現白山神社・長滝寺)を中心に、白山信仰とともに栄えてきた町です。そして、白鳥の拝殿踊りは江戸時代の中頃から現在の白鳥町各地域において、お盆の時期に神社の境内で踊られていたもので、今は、白鳥神社・野添貴船神社・前谷白山神社などに残るのみとなっています。夕刻、神社の拝殿には大きな切子灯籠が吊るされ、その明かりの下で踊る素朴な踊りで白山の自然の恵みと信仰文化に培われた盆踊りです。
白鳥の拝殿踊りは美濃馬場白山信仰圏に成立した盆踊りである。白鳥及び郡上地域の踊りについては、長滝寺「荘厳講執事帳」(白鳥町史史料編)天和2年(1682)の項に、踊りの記録があり、また享保8年(1723)の経聞坊「留記」(白鳥町史史料編)に「盆中お宮にて踊申事、奉行より停止の書状到来」とあり、江戸時代中期以来、現白鳥町地域をはじめとする寺社境内において、盆踊りが行われていたことが判明する。江戸時代の盆踊りの内容については、「場所踊り」を中心に、いくつかの踊り曲が越前及び荘川方面から伝わり、踊られたと考えられる。白鳥拝殿踊り保存会は、「白鳥神社・貴船神社等でそれ以前まで盆踊りとして伝承されてきた古い踊り種目を伝承していく」という基本線を守ってきた。同保存会は白鳥神社拝殿において8月17日夜、貴船神社拝殿において8月20日夜、楽器や太鼓を伴わない本来の拝殿踊りを行っている。保存会が保存伝承している踊りは以下の8種目である。
(1)源助さん(2)シッチョイ(3)ヤッサカ(八ッ坂)(4)猫の子(5)ドッコイサ(神代)(6)ヨイサッサ(老坂)(7)エッサッサ(世栄)(8)場所踊り
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009_011_白鳥神社 拝殿踊り
東大寺
東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。
金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら[1])ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である[2]。現別当(住職・222世)は狹川普文。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
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042_047_東大寺
木谷白山神社 どぶろく祭り
白川郷では毎年、9月の終わりから10月にかけて、五穀豊穰・家内安全・里の平和を山の神様に祈願する「どぶろく祭」が盛大に行われます。
白川村の各地区の神社で、御神幸、獅子舞、歴史と民話にまつわる民謡や舞踊などの神事が繰り広げられる、歴史と伝統ある白川郷ならではの祭り。その名のとおり、祭礼に神酒として「どぶろく」が用いられ、人々にも振る舞われるのが最大の特徴です。
どぶろくの振舞
「どぶろく」は、古くから受け継がれてきた独特の技法をもって、雪に埋もれた1月下旬に神社酒蔵で造りこまれます。午後3時頃、神社に奉納する「どぶろくの儀」を終え、大きな酒樽から「きったて」と呼ばれるお酌用の容器に「どぶろく」が移されると、割烹着のおかみさんたちがいっせいに来客一人ひとりに「どぶろく」を盃についで回り、会場は芳醇な香りに包まれます。「どぶろく」は、和銅年間(約1300年前)頃から、すでに祭礼用として用いられていたと伝えられています。
白川村の民謡
奉芸殿では、子供大事(子大事)が転訛したものと言われている「こだいじん」をはじめ、「白川おけさ」「しょっしょ節」「白川わじま」など長い歴史とともに育まれてきた民謡が披露され、「どぶろく祭」は最高潮に達します。唄は各集落共通ですが、踊りがそれぞれ異なるのも見どころです。
生きびな祭り
春のおとずれの遅い飛騨はひと月おくれの”ひなまつり”を迎えます。
このお祭りは、昭和27年、もともと蚕糸業が盛んだったこの地方で、春秋の2回蚕糸業祭がおこなわれて蚕糸業農家の年中行事となっていた養蚕豊鐃と地域農業の振興を祈念する春の養蚕業祭に、寒冷地のためにひと月遅れて行われるひな祭りをとり入れ、絹に象徴される女性の気品と幸福を祈念するために始まりました。
また、戦後の新憲法により、神社が国の管理下を離れ、宗教法人の1つとして自立した経営を迫られたことや神社信仰を盛り上げようとしたのがきっかけともいわれ、いわば神社の振興と蚕糸業の振興のために始まったとも言われています。
近年では蚕糸業が廃れてしまったため、祭を主催していた『蚕糸業奉賛会』も『蚕糸農業奉賛会』と名前を変え、農業協同組合があとおしする農業全般の豊鐃と女性の幸せを祈願する華やかなお祭りとして毎年多くの人々を魅了しています。
祭典と祭行列
祭りでは、雅楽が奏でられる中、赤鬼と青鬼を露払いに、雅楽を演奏する伶人、稚児、菱餅や酒杯を手にした巫女、そして選ばれた女性9人が左大臣、右大臣、内裏、后、五人官女となって続き、その後に奉賛会の人々総勢100名余りが、平安の昔を偲ばせるきらびやかな祭行列となり、表参道から境内まで約900mを40分ほどかけて練り歩きます。祭典の最後には、特設舞台において、生きびな様の紹介や1年の豊作を祈願して、生きびな様による餅投げが行われ、菱餅や繭だんごが振る舞われます。
昔も今も農業(稲作)にとって水は命。この命の水の源である位山を神座(みくら)とする水無神社(みなしじんじゃ)のお祭りには、神通川の流域に拡がる富山方面などからも多くの参拝者が訪れ、例年大変な賑わいをみせています。(編集中)
資料集
043_050_水無神社 生きびな祭り
飛騨民俗村・飛騨の里
飛騨の里は、合掌造りをはじめとした飛騨の古い貴重な民家が移築復元されなつかしい農山村の暮らしや昔から飛騨に伝わる季節の行事を再現している博物館です。白川郷、五箇山の合掌造りを手軽に見ることができます。
飛騨の里では、体験コーナーも充実しています。旅の思い出に実演・体験はいかがですか?特にファミリーやカップルの方にはオススメです。わら細工、さしこ細工、機織り、ひのき細工など日常経験できないことが、体験できます。通りを少し下ったところにある想い出体験館もオススメ!さるぼぼ作り、せんべい焼き、小糸焼き、絵付けなどの手作り体験体験ができます。
アクセスは、高山駅からは車で10分程度です。駐車場は、飛騨の里通り下の民俗村前駐車場(無料)、飛騨の里前の駐車場(有料)があります。また、高山駅からバスもでています。さるぼぼバス「四季の丘コース」が便利です。(編集中)