寿楽寺廃寺跡
天文学者「行心」飛驒へ
はるか昔、飛鳥時代に新羅の僧・行(こう)心(じん)(幸甚)が飛驒へ流された。朱(しゅ)鳥(ちょう)元年(六八六)、大(おお)津(つの)皇子(みこ)が謀反を起こし、それに関与した罪だという。行心は死罪を免じられ、飛驒の国にあった寺院に流されたと『日本書紀』に記されている。大津皇子は天武天皇の第三皇子で、文武に優れた人物であった。異母兄弟の草壁皇子が皇太子であるのに対し、大津皇子は太政大臣となってまわりから期待されていた。しかし天武天皇の死後、大津皇子は謀反の疑いで捕えられて自害させられてしまう。
この事件に関わった僧行心はどんな人であったのか。飛鳥時代、朝廷は朝鮮半島などから天文学者を呼び「天文(てんもん)卜筮(ぼくぜい)」という天文現象の読み解きをさせた。それは古代中国の天文学で天球の中心にいる天帝の意思や地上の出来事が天文現象に現れるのだという考えである。天文学者は何の予兆なのかを天皇のみに奏上する役目であった。
行心は子隆観を伴って配流された。その後十六年経って隆観は免罪されて都へ戻ったが、行心の生死については明らかではない。
行心が流された飛驒国伽藍はどこにあったのか、長い間わからなかった。しかし、八賀晋(故)の長年の研究により、その寺は飛騨市古川町太江にあった「寿楽寺廃寺」だと判明している。
寿楽寺跡地は道路改良に伴い、岐阜県教育文化財団が平成十~十二・十五年度の四次にわたり発掘。結果、講堂基壇跡と回廊遺構が発見された。奈良時代より前の飛鳥時代に、既に飛驒には古代寺院があったことになる。飛驒匠がこの頃都へ宮殿などを造りに行き、優れた技術を持ち帰っていたことは、大きな歴史的事実である。
寿楽寺廃寺 じゅらくじはいじ 所在地 岐阜県飛騨市古川町太江左近 よしきぐんふるかわちょうたいえさこん
立地環境 国府・古川盆地にあり、宮川支流の太江川右岸に位置する。現在、富山方面へ抜けるルートは国道41号(数河峠越え)であるが、40年程前は太江川沿いを神岡方面へ向かう道「神原峠」が主流であった。寿楽寺は太江川沿いの一段高い平地にあり、日当たりの良い好所に位置する。標高515m。
寿楽寺に関する文献
1.大塚章「寿楽寺廃寺出土の軒丸瓦について」『岐阜県博物館調査研究報告・第15号』平成6年
2.東海埋蔵文化財研究会岐阜大会資料集『古代仏教東へ ― 寺と窯 ― 寺院編』実行委員会事務局 平成4年
3.八賀晋「飛騨の古墳と古代寺院」『古代の飛騨 ― その先進性を問う ―』飛騨国府シンポジウム資料 1988
遺跡の概要 過去に発掘調査されたことがない。現在、曹洞宗寿楽寺があり、遺跡名となっているが地名から左近廃寺とされることもある。太江川沿いに神岡町へ向かう街道(神原峠)が通っているが、寺跡は、街道より一段高い段丘上に遺存していると思われる。
出土した軒丸瓦 現在までに4種類の軒丸瓦が知られる。
外縁重圏文の単弁蓮華文瓦 ①単弁8弁蓮華文瓦 蓮子1+4
②単弁8弁蓮華文瓦 蓮子1+8
③-1、2 単弁6弁忍冬文(パルメット)瓦
④単弁8弁蓮華文瓦(内部に菱形の子葉を配する)
①、②は1本造り、7世紀中葉
③忍冬(パルメット)文様を有する。直径18~19㎝で、①、②より大きめ、①、②の時期に後続する。野中寺(大阪府羽曳野市)、尾張元興寺(愛知県名古屋市)と同型。
④楔形の間弁を配する。
<参考文献>国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』140頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年
寿楽寺(じゅらくじ)は岐阜県飛騨市古川町にある曹洞宗の寺院。山号は南光山。本尊は鎌倉時代作の薬師如来で中部四十九薬師霊場38番札所。また、如意輪観音が奉祀されており、飛騨三十三観音霊場13番札所となっている。
古川町杉崎にあった宮谷寺の塔頭であったと伝わり、応永5年(1399年)の祈祷札にその名がみえる。飛騨国の支配者であった金森可重の母が慶長5年(1600年)に戦勝祈願を行って験があったため堂宇を整備した。その縁があって金森家の位牌所の一つとなっている。元禄2年(1689年)、素玄寺8世の古林道宣が現在地に移して再興している。
本堂は宝暦5年(1756年)、観音堂は明治12年(1879年)、鐘楼は昭和59年(1984年)のものである。寺宝として平安時代の大般若経を所蔵しており、岐阜県指定の文化財となっている。(編集中)
資料集
046_053_飛騨の古代寺院(寿楽寺廃寺跡)
杉崎廃寺
飛騨の古代寺院・杉崎廃寺
杉崎廃寺
岐阜県飛騨市古川町杉崎字あわら
杉崎廃寺は宮川右岸の微高地上に位置し、水田の中に整然と並ぶ礎石群と塔心礎の存在が古くから知られていた。
これまでの発掘調査により、7世紀末葉に創建された白鳳時代の寺院跡であることが明らかになった。小規模ながら主要堂塔を備え、金(こん)堂(どう)の東に塔を配し、中門・金堂・講堂が直線上に並ぶ伽(が)藍(らん)配置は他に例をみない。金堂や講堂・鐘楼の礎石は創建当時の位置を保ち、伽藍全体の遺構がよく残されている点でも比類がない。
伽藍中枢部の全面に敷き詰められた玉(たま)石(いし)敷(じき)は、全国でも初めての発見であり、その荘厳さは飛鳥(あすか)の宮殿遺構を彷彿させる。
建物の礎石は、すべて火を受けた痕跡があり、8世紀の末、一度に焼失したと推測される。瓦は金堂と塔の一部に使われたが、屋根が檜(ひ)皮(わだ)葺(ぶき)であったことも杉崎廃寺の特徴といえる。
出土遺物には浄(じょう)瓶(びょう)(水差)・獣(じゅう)足(そく)火(か)舎(しゃ)(香炉)などの供養具、丸瓦・平瓦などの瓦類、須(す)恵(え)器(き)を主とする食器類、それに建築部材を中心とした木製品などがある。出土した郡(ぐん)符(ぷ)木(もっ)簡(かん)には『和(わ)名(みょう)抄(しょう)』にみえる郷名の飽(あく)見(み)郷(ごう)が記されており、寺院の分布が郷単位であったことが推定される。 飛騨市教育委員会資料から
杉崎廃寺 すぎさきはいじ
所在地 岐阜県吉城郡古川町大字杉崎字あわら地内 ふるかわちょうおおあざすぎさき
調査年 1991~1995年
調査主体 古川町教育委員会
立地環境 飛騨古川盆地の北西に位置し、飛騨の風光明媚な水田地帯にある。標高480mにあり、地下水位の高い「あわら」と呼ばれる湿地に水田が営まれてきた。
発見遺構 中門・金堂・塔・講堂・鐘楼の礎石建物5棟、伽藍を区画する掘立柱塀、伽藍の北西に南北溝(寺域の西を限る排水施設)、僧房
発見遺物 伽藍中枢部を中心に土器と瓦類が出土。土器では、須恵器が主で、坏・椀・蓋を中心とする食器類と、壺・甕などの貯蔵容器類を主体とし、長頸瓶・水瓶・三足火舎などの仏器類もある。焼失した講堂の基壇上面から灯明皿、「見寺」と墨書された土器が出土し、杉崎廃寺の廃絶年代を示す資料となった。9世紀初頭の年代が想定されている。なお、創建年代を示す資料には、講堂基壇中と掘立柱塀柱穴から出土した岩崎41号窯式期比定資料、柱穴から出土した平城宮Ⅰに比定される土師器坏Aがある。
瓦類は金堂、塔の基壇回りを中心に出土、軒瓦は存在しない。全体的に出土量は少なく部分的な使用が考えられている。出土瓦の供給窯は、盆地の南西に位置する中原田古窯である。平瓦は、粘土板桶巻作りによるもの。
木簡は南北溝の多数の建築部材とともに、1点が出土した。荒城郡の郷名が推定できる資料である。・符 飽カ ・急□ 「飽」は、飛騨国荒城郡飽見郷を指すものと考えられ、郡符木簡の可能性をもつ。他の木製品は1,000点を超え、杓子、箸などの食事用具、蓋板などの容器、えぶり、田下駄、木槌、ヘラなどの農工具、籌木等多種に及ぶ。建築部材では桧皮がまとまって出土し、最終時の伽藍内の建物が桧皮葺きであったことが判明した。
年代 創建年代7世紀末、廃絶年代9世紀
出典文献 1.河合英夫・島田敏男「飛騨の伽藍 ― 杉崎廃寺の調査 ―」『月刊文化財』3月号1995 第一法規出版㈱
2.杉崎廃寺現地説明会資料1996 古川町教育委員会
遺跡の概要 杉崎廃寺は、平安時代後期から織豊時代にかけて存続した宮谷寺の跡といわれていたが平成3~5年の調査によって白鳳寺院であることが判明した。
伽藍や主要堂塔は、全体的に小規模であるが、非常によくまとまっており、また伽藍全体がこれほど良好な状態で遺存した例は少ない。伽藍配置は、全体としてやや変則的な形式をとるが、いわゆる法起寺式であることが判明した。特に金堂や講堂、鐘楼の礎石は、創建時の状態を良好に保ち、塔や中門についても根石の存在によって本来の位置が復元できるなど、高い価値を有している。また、伽藍地全面が丸い人頭大の河原石で敷き詰められ、荘厳な印象を与えている。伽藍地全面に石敷を施した例は、同時代の寺院跡には類例がなく、飛鳥の宮殿遺跡を思い浮かべる。
<規模>伽藍中枢部・東西37.5×南北35.8m 中門・桁行5.7 梁行3m 金堂・桁行7.8×梁行6m 塔・各面4.2×4.2m 講堂・桁行12.6×梁行9m 鐘楼・桁行4.5×梁間3.3m
<中門>礎石及び根石のレベルが、伽藍内の石敷上面レベルと大差なく、基壇は基壇化粧のない低い土壇状。桁行3間、梁間2間の八脚門。
<金堂>南を正面とする東西棟建物で、基壇、礎石ともほぼ完存。基壇は掘り込み地業を伴う版築による乱石積基壇。外周に石敷面より一段高い犬走りを巡らせる二重基壇。桁行3間、梁行2間の身舎の4面に廂が取り付く3間4面の形式。
<塔>金堂の東に位置する。基壇は金堂と同様、掘り込み地業を伴う乱石積の二重基壇。花崗岩製の礎石が15個現存。心礎は大きく南東に移動している。
<講堂>金堂の背面に位置する。基壇縁に自然石を並べただけの低い基壇であるが、掘り込み地業と版築によって築成される。桁行4間、梁行2間の身舎の南北二面に廂をもつ両廂付き建物である。特記すべきことに、建物内の中央2間分に、棟筋と身舎側筋の少し内側に、礎石状の石が置かれ、床束を支える束石、または須弥壇の束石と考えられている。
<鐘楼>西を正面とする南北棟建物で、基壇、礎石ともに完存している。基壇は見切石を並べただけの低いものである。桁行3間、梁間2間で、楼形式であったかどうかは不明。
<南北溝>伽藍の区画施設である、西面の掘立柱塀に沿って南に続き、南面の塀を通りこし、溝に並行して塀も延びる。この結果、中門の南には伽藍の外画施設と南門の存在が想定された。
<僧房関連施設>伽藍の北側に大きく2時期の変遷を示す、掘立柱建物で構成された僧房及び関連施設がある。伽藍中枢部とは仕切塀によって区画されていた。僧房は桁行4間、梁行2間の大形の掘立柱建物2棟を基本とする東西棟が一列に並んで構成され、最近2回の建替えが行なわれ、建物内部は4室ほどに区画されていたと推定される。
僧房の西側には桁行4間、梁行2間の南北棟が建つ。
<引用文献>
国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』135~136頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年
杉崎廃寺は古川盆地の北西隅杉崎地区に位置している。平成3年から平成7年にかけて行われた発掘調査により、やや変則的であるが法起寺式伽藍配置の白鳳寺院であることが判明した。
伽藍は小規模ながら、中門・金堂・塔・講堂・鐘楼などの主要堂塔を備えている。伽藍の内部に施設した石敷は、同時代の他の寺院跡には見られない杉崎廃寺独特のものであり、飛鳥の宮殿遺跡を彷彿させるものである。
また、伽藍の西で検出された南北溝から、多数の木製品と郡符木簡が発見された。この資料は全国的に見ても極めて貴重であり、律令国家の行政の末端を知るうえで価値が高い。
瓦類は、金堂および塔の基壇回りを中心に出土したが、軒瓦は1点も出土しなかった。
塔心礎は花崗岩製で、不正の長方形をなし、礎面に直径70cmほどの円形柱座をつくり、中央に直径32cm、深さ12cmほどの舎利孔をあけている。(編集中)
資料集
047_054_飛騨の古代寺院(杉崎廃寺跡)
日枝神社
遠く永治元年(1141)、時の飛騨守時輔朝臣が、ある日片野山中で狩りに出て、奇瑞のことがあったので、その城をかまえていた石光山(今の高山市片野地内)に近江の日吉大神を勧請して、城の鎮護としたのがはじまりである。その後、四代目景家の時、養和元年(1181)正月、源義仲の部将手塚光盛に攻められ、利あらずして敗亡、社殿も兵火にかかって消失したが、幸いにして御霊体は災禍をまぬがれ無事奉安することができ、里人によって社殿は再興され、片野村の産土神として奉祀されていた。(今、この地を「元山王」とよんでいる。)幾多の年月を経て天正13年(1585)、金森長近父子が豊臣秀吉の命によって飛騨へ入国、諸将を平らげて国内を統一し、国守に封ぜられて、同14年、城を天神山(今の城山)に築いた。金森氏の祖は近江国で、代々日枝大神の崇敬が厚かったことなどから、慶長10年(1605)、片野より現在の地へ奉遷して城の鎮護神とし、社地と社殿を寄進造営、社僧松樹院を置いて片野、高山南半分の産土神に定められた。かくして金森氏歴代100余年間、城主の崇敬あつく度々の社殿の改築修造が行われてきた。今に残る社殿の棟木、神輿等に見る国守の紋所梅鉢はじめ金森長近公愛用の陣羽織及び刀等にもそれを伺うことができる。元禄5年(1692)、城主移封となり、徳川幕府の直轄となってからも、歴代の代官・郡代の尊崇あつく、度々社殿の修築、参詣があった。明治以後は郷社を経て昭和に県社となり、一般に『山王さま』と親しまれ、氏子数2700戸はじめ高山市民の尊崇を集めている。(編集中)