宮川
宮川の清冽な湧水は、位山と川上岳を結ぶ峰と、それらを結 ぶ尾根の裾地から流れ始めます。東や南の絶壁の裾山、下方から 湧き出す水は、ツメタ谷となって渓谷の源流となります。そして 川上岳の山のふもと近くの、なだらかな丘地の水を集めたヌク イ谷の温かい水と合流します。その流水が一之宮町の盆地までの 源流・渓谷をつくりだしています。
飛騨の宮川は、日本全国の十数流もある宮川と称する河川の 中でも、最も大河と言われています。宮川は、飛騨市北端の富山 県境で高原川と合流し、神通川となって、富山湾(日本海)へ流 れます。宮川は、わが国大自然の中でも最大の神々の川なので す。
また、一之宮町の位山には中部日本の分水嶺があります。分水 嶺とは、水の流れの方向を分ける境界をなしている山の峰のこと です。位山に流れた北斜面の渓水は、餅谷川・常泉寺川となって 宮川に注ぎ、神通川を経て日本海へと流れていきます。
もう一方の南斜面の渓水は山之口川・無数河川となって益田 川に注ぎ、飛騨川・木曽川を経て太平洋へ と流れていきます。
※清冽(せいれつ):水などが清らかに澄んで冷たいこと。
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006_009_宮川
飛騨の木工家具
飛騨における洋家具発祥の歴史は、大正9年に取り組んだ家具づくりが源である。当時未活用材であったブナ材の活用を考え、多くの困難を乗り越えて飛騨を一大家具産地に発展させた歴史がある。木材を蒸して曲げる方法を1837年頃に考え出したのはドイツ人の「ミハエル・トーネット」であった。世界各国に5,000万脚も販売したといわれる。 日本では明治末期にこの家具が輸入され、日本政府によって民間にこの曲木椅子の製作が奨励された。大正9年(1920)飛騨に伝わり、飛騨産業㈱の前身である中央木工㈱でブナ材での曲木家具づくりが始まった。しかし、商品化するためには大変な苦労と技術開発が求められた。戦時中は曲木技術が認められて木製落下タンク(増槽)の製造、木製飛行機を試作している。昭和24年対米輸出を再開。戦後初めて木製折畳椅子をアメリカへ輸出した。昭和30年代前半には、総販売の80.3%が対米輸出となった。昭和30年代後半、それまで順調に推移してきた輸出も鈍化し始めたため、国内販売に力を入れることとなった。40年代前半の「いざなぎ景気」に支えられ、飛騨の各社とも国内需要に急成長を遂げていった。昭和40年、「暮しの手帳社」の大橋社長、飛騨をこよなく愛し続けてきた花森安治編集長の肝いりで、東京・日本橋の三越百貨店で飛騨民芸協会主催の飛騨高山展が開催された。その折、匠の技を伝える飛騨の家具が大きな反響を呼び、連日の賑わいを見せた。
参考文献/『飛騨産業株式会社七十年史』平成3年 『新飛騨匠物語』平成14年
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007_010_飛騨木工家具
吉島家
江戸初期に整備された越中街道沿いにあり、江戸時代後半から民家が建ち並ぶようになった町人地にある。主屋、倉は明治40年(1907)に建てられ、に国の文化財に指定。大工西田伊三郎が、建築士の考え方で建てた、バランスの良い優れたデザインの建物である。間口が広く、2階の階高を抑え建物全体が低いので、道路幅との均衡がとれている。建物全体は、間口約26m、奥行約26m。大工は主屋を川原町西田伊三郎が、座敷を吉城郡上宝村の内山新造が建てた。
吉島家の初代は文政6年(1823)に没した休兵衛で、代々生糸、繭の売買、金融、酒造業を営んだ。明治8年(1875)高山の大火後翌9年再建、しかし明治38年(1905)再び類焼し、明治40年に再建されて現在に至る。
隣つづきの日下部家と異なるところは、軒下にセガイ天井がなく、前側2階の柱間が広い。内部の吹き抜けを見ると、棟まで1本で通した檜の大黒柱は太く美しい。大黒柱に組み込まれた吹抜部分の梁組は、丁寧に鉋で仕上げられ、漆を塗られている。天窓から差し込む幾筋かの光が、斜めにこの吹抜けを通る構造はすばらしいものがある。約1.8m毎の梁組と小屋組の構成は優美で端正。大梁を、ウシ梁という。断面的に下部を細くすることにより、下から見上げたときに松の太鼓腹が美しく見えるように意匠を工夫している。
2階の床は三段形式になっており、家長が上段を、家人が中段と下段を使用していたようである。春慶塗のふすまや障子、桐の欄間など贅を尽くしている。
参考文献 『高山市史・建造物編』
日下部家
江戸初期に整備された越中街道沿いにある。昭和41年、主屋、文庫倉、新倉の3棟が国指定。主屋は明治12年(1879)、倉は明治12年。明治8年(1875)の大火で焼失後、東側の角屋敷から現在地に移り、明治12年(1879)1月22日上棟式が行なわれた。大工は名工川尻治助である。前庭をつくり、棟の高い2階家を建てることは江戸時代に許されなかったが、明治になって棟梁川尻治助が力量を発揮して造った住宅である。建物全体は、間口約25m、奥行約29mである。
蓄積していた良材で組み上げられた「オエ」、「ドジ」上の見事な梁組、美しく整った座敷まわり、よく整備された中庭などに風格の高さが現れている。内部へ入って見上げると、整然としてしかも躍動美のある梁組が見られ、磨き上げられた光沢がまた美しい。檜の大黒柱とウシ梁と呼ばれる大梁、束や梁・桁などが規則正しい軸組を構成し、構造美を演出している。ウシ梁は断面的に下部を細くすることにより、太鼓腹を美しく見せている。木組の構造美を見せる意匠である。畳が全部で147畳も敷いてある大きな旧商家である。
前側軒裏のセガイ天井、箱庇、出格子、角柄窓、隅切窓は前面の計算された調和と建築美をかもし出す。
ニワの奥に蔵が2棟(北側と南側の蔵)現存する。現在、日下部家では2棟とも文庫蔵(南側は展示場)としている。南側にある文庫蔵(新倉)の入口戸内側は、卍くずしの文様を、薄く削って、その中に青色を塗彩した精巧な技法である。高山には例がない文様と色調である。屋根下の蛇腹と出桁のプロポーションが良く、西洋的な様相を見せる。
参考文献 『高山市史・建造物編』
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008_011_吉島家・日下部家
高山市下二之町・大新町伝統的建造物群保存地区
平成16年7月6日、約6.6haが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。南北通りは約780m、東西幅は約180m。鳩峯車組町並保存会、神馬台組町並保存会、船鉾台組町並保存会、豊明台組町並保存会、浦島台組町並保存会、大新町1丁目3班町並保存会、越中街道町並保存会の7保存会により町並み保存がなされている。伝統的建造物は200棟、その他の工作物12件、環境物件が8件ある。
旧高山城下町では、安川通りの南側が日枝神社、北側が桜山八幡宮の氏子区域とされ、前者を上町(かみちょう)、後者を下町(しもちょう)と呼んだ。本伝建地区は下町のうち、特に越中街道と呼称された高山から富山に通ずる街道沿いに建てられた建造物群である。江戸時代後半から民家が密集するようになったが、特に大新町には職人や半農半商的な職能の者が多く、上町の商家とは異なった歴史と性格を持っている。
下二之町には、かつて商人町であったにぎわいが今も残り、高山市民はここへ用事に来る。時計店、表具師、菓子屋、餅屋、クリーニング屋、農機具屋、文房具店、家具店、郵便局、料理屋、喫茶店など市民向けの店が多い。
餅屋では、正月のお鏡モチ、笹ダンゴ、オケソクを扱い、交通混雑時もアクセスしやすいこの町は、今日も馴染みの客が訪れている。
町並みの色は、ベンガラとススを3対1で混ぜ合わせ、格子や外観柱などに塗り、荏の油で止めている。年月を経てあずき色になり、独特の町並みの色をかもしだす。
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009_012_下二之町・大新町伝統的建物群保存地区
高山市三町伝統的建造物群保存地区
昭和54、平成9年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。地区の面積は約4.4haで、南北通りは約420m、東西の幅は約150m。伝統的な建造物が172棟あり、秋葉様社が2棟ある。恵比須台組町並保存会、上三之町町並保存会、上二之町町並保存会、片原町町並保存会の4保存会により町並み保存がなされている。
天正14年(1586)、飛騨国主となった金森氏により商業経済を重視した城下町として形成された高山は、城を取り囲んで高台を武家屋敷、一段低い所を町人の町とした。この町人町の一部が現在の重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)である。また、東西南北の4街道は城下町の中へ引き込まれ、高山は近世以来飛騨における政治、経済の中心地となった。昭和30年代後半、観光地化に伴ない町が汚くなりつつあった際、子どもたちが宮川に鯉を放流する活動をした。これを契機に町並み保存、町の美化を進める市民運動へと発展し、昭和41年には「上三之町町並保存会」が結成された。
道路に面した部屋を「ミセ(店)」と呼ぶ。建物の間口は3~4間と狭く。奥に深い。中に入って見上げてみると吹き抜けの天井は今にも通ずる空間を利用した建築手法である。息苦しい感じがせず、自然光のよさ、光の帯が差し込む様はすばらしいものがある。
高山の町家は、前側の屋根の軒桁の高さは4.5m少しと大変低い。屋根は道路の水路まで飛び出て、屋根から落ちた雨水がちょうど水路に落ちるように工夫がされている。
敷地奥の土蔵は防火の役割を果たしていて、連続する土蔵の列は延焼をくい止める防火帯として大きな効果をあげてきた。現在、この土蔵を大事にしている。
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010_013_三町伝統的建物群保存地区
一位一刀彫
木の細工に匠の技を極めたのは江戸在住の平田亮朝である。亮朝は文化6年(1809)に高山で生まれ、若くして江戸の根付彫刻の大家といわれた山口友親(寛政13年江戸生まれ、3代続いた)の門に入り、江戸で根付彫刻の大家として大成した。浅草橋付近に住み、江戸で有名な日本橋通塩町の小間物問屋「日野屋」の大事なお抱え根付彫師として活躍。しかし、38歳と若くしてその生涯を終えている。亮朝が江戸にいたとき、高山から江黒亮春(すけはる)、中村亮芳(すけよし)、松田亮長(すけなが)が弟子入りし、共に高山に帰って身を立てた。特に亮長は若い頃より彫物にすぐれ、写実的な小動物の彫刻を最も得意とした。材料も檜(ひのき)、なつめ、梅、竹などを使っていたが、のち一位材を用いて簡潔な彫痕を残す一刀彫の様式を完成させた。
旅好きであった亮長は、生涯全国各地を巡って見聞を深めて自己研鑽に努め、1年の半分を高山で過ごすことは希であったという。旅先は絵日記等によって知ることができ、各地の名勝地を遊歴し、彫工の名家を訪ね、古寺社の彫刻を研究するなどして心技を磨いた。
旅の途中で奈良人形を見て、その着色が非常に濃く、刀痕を塗り込めてしまい、技術の良し悪しがわからないので、自ら意匠を練って刀法を考え、彩色を施さずに飛騨の名木一位の天然の美しさを生かした簡潔な彫痕を残す一刀彫の様式を考案したとされている。
亮長の作品には写実的なものと、今日の一刀彫に見られる極限まで簡略化され面で構成された、単純ではあるが、良くその物の特徴をつかんだ作品の2系統がある。亮長は明治4年(1871)3月14日、下向町の自宅において72年の生涯を閉じた。
参考文献 『民俗文化資料』高山市 平成12年、『木つつき』江黒亮聲 平成9年)
『新・飛騨の匠ものがたり』112~116頁 (協)飛騨木工連合会発行 平成14年
資料集
011_014_一位一刀彫
飛騨春慶塗
慶長年間(1596~1614)高山城下で、神社仏閣の造営工事に携わっていた大工棟梁、高橋喜左衛門が仕事中に、たまたま打ち割った材の批目の美しさに心を打たれ、その板を使って風雅な盆を作り、金森可重の子重近(金森宗和)に献上した。重近はその木目に感動し、御用塗師の成田三右衛門に木目の美しさを生かして漆を塗るよう命じた。三右衛門は素地を生かした透漆で、その盆を塗り上げた。
成田三右衛門義賢(晴正)は京都で塗師をしていたが、お抱え塗師として飛騨に入国して春慶塗を考案し、その子成田三右衛門正利(三休)もお抱え塗師となり春慶塗の改良に貢献した。飛騨が幕領になっても飛騨春慶塗は地場産業として存続する。
飛騨春慶塗という独特の漆器が生まれ育ったのは、飛騨が良材の産地であった背景と、伝統的に自然の樹木の美しさを知りつくし、木の魅力を引き出す木地師の優れた技があったからである。
春慶漆は、原料漆に透明度の高い日本産の漆を使い、精製するときに荏油などを混合することで光沢と透明度をより一層良くする。この透明度の高い透(すき)漆(うるし)が下地の表情を美しく魅せ、時を経るごとにその彩りを変化させながら、透明度をさらに増していく。木地は板物と、轆轤(ろくろ)による挽物(ひきもの)に分けられるが、飛騨春慶塗は板物の加工技術に特徴が見られ、「角物」と「曲物」がある。木肌の美しさを醸しだす木地師と、木肌の美しさを引き出す塗師の二者一体の共同芸術で成り立っている。
参考文献
『新・飛騨の匠ものがたり』109~111頁 (協)飛騨木工連合会発行 平成14年
資料集
012_015_飛騨春慶塗
秋の高山祭 八幡祭
桜山八幡宮(高山市桜町)を中心に祭礼が毎年10月9、10日に執行される。
「八幡祭」はおよそ400年前から始まった。江戸時代、例祭には金森国主より奉(ぶ)行(ぎょう)正副2名が特派され、奉行祭の祭式は、飛騨が幕府の直轄となってからも続けられている。
一番古い古文書は、享保3年(1718)に高山陣屋の地役人上村木曽右衛門が書いた「高山八幡祭礼行列書」を、天明6年(1786)に写した柚原三省の日記である。御榊・出し・神楽のほか屋台4台、笠鉾2台等々、御輿を別にして48番の出しものが行列を飾り、総勢数百人におよぶ大行列であったという。
「四元略筆記(飛騨遺乗合符 第9巻)」では、正徳六年、祭の行列が御坊坂(別院と真蓮寺の間の坂)を上り、馬場町へと進み城坂を下って中橋を渡り、御役所(高山陣屋)前に至り、ここで代官にお目にかけ氏子区域へ帰ったとある。
祭を統率する最高指揮官は「年行司」で、その年の祭事一切を司る最高の権限を持っている。廻番で役が回る。春祭は「宮本」が最高指揮官である。
秋祭りの特色は、絢爛豪華な屋台である。高山祭の屋台はおよそ300年前に出来、神輿の行列に参加するようになった。11台が現存する。各組の屋台は競って他の屋台と構造装飾が異なるように工夫して造り上げている。どの部分を見ても、決して同じものがない。しかも屋台の持つ型をはみ出さず、曳そろえられて全体的に美しいという配慮があって特筆すべきものといえよう。布袋台のからくり奉納は桜山八幡宮の境内で行なわれ、糸が無いのに唐子が綾を渡ってゆくという精巧無比のからくりに観客は驚嘆する。
参考文献
日下部省三編纂『八幡祭と屋台』桜山八幡宮発行 昭和63年
資料集
013_016_秋の高山祭_Part1
013_016_秋の高山祭_Part2
013_016_秋の高山祭_Part3
春の高山祭 山王祭
日枝神社(高山市城山)を中心に祭礼が毎年4月14、15日に執行される。
春と秋の高山祭は、今から約400年前に始まった。江戸時代初めの飛騨国主「金森氏」は、城下町高山を整備する際、城の守護神として日吉(ひえい)神社(現在の日枝神社)を設け、氏子の区域は商人町の南側としている。また、城下町の北方には産土(うぶすな)神(がみ)として八幡宮を設け、商人町の北側区域を氏子とした。以来商人町の祭礼として発達し、日枝神社は春祭り、八幡宮は秋祭りの祭礼として、現在も厳かに続いている。
高山祭りの屋台は、祭礼を盛り上げる「出しもの」として、今から300年ぐらい前から曳かれるようになった。江戸時代の「組」という単位の区域で屋台が作られ、各組が美しさを競い合い、絢爛豪華な屋台が作られるようになった。
神様が氏子の家々をまわる「御巡幸(ごじゅんこう)」、豪華な「屋台」の曳(ひ)きそろえ、多くの人に感動を与える。
奈良・平安時代に、秀れた木工技術を持っていた飛騨の匠は、都の宮殿などを作りに出向いたが、その技術は屋台の建造技術にも生かされ、絢爛豪華な屋台を作りあげた。屋台には、谷口与(よ)鹿(ろく)を始めとする飛騨の匠の技巧を凝らした木彫彫刻がある。どれも目を見張る作品ばかりで、鳳凰や鯉、唐子など、今にも動き出しそうな躍動感ある彫りがみられる。
また、春祭には、能を外題(げだい)とした三つの「カラクリ」が奉納される。カラクリ人形の後方で綱方(つなかた)が数10本の糸を操り、樋(とい)の先の人形を動かしてゆくカラクリの妙(みょう)を見ることができる。屋台は春祭りが12基、秋祭りが11基あり、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
資料集
001_001_春の高山祭_Part1
001_001_春の高山祭_Part2
001_001_春の高山祭_Part3
013_016_春の高山祭_Part1
013_016_春の高山祭_Part2
013_016_春の高山祭_Part3
高山陣屋
昭和4年に国の史跡に指定された。建物周辺の所有者は岐阜県、陣屋前広場は高山市。史跡範囲は11,219.05㎡。現在遺構は「御門」天保3年(1832)、「門番所」天保3年(1832)、 「御役所」文化13年(1816)、「御蔵」慶長年間(1596~1615)、「御勝手土蔵」天保11年(1840)、「書物蔵」天保12年(1841)、「その他・供待所、腰掛、中門」
元禄5年(1692)徳川幕府は金森頼旹を出羽国上ノ山に転封し、飛騨一円を幕府直轄領とした。それ以来、明治維新に至るまでの177年に、25代の代官・郡代が江戸から派遣され、領地の行政・財政・警察などの政務を行なった。この「御役所」を「高山陣屋」と称している。陣屋設置以来、享保10年(1725)、文化13年(1816)と数度にわたって改築がなされ、幸いにも火災を受けなかった。明治になると、主要建物はそのまま地方官庁として使用され、昭和4年には国の史跡に指定された。昭和44年12月、ここにあった飛騨県事務所が移転し、復元修理と復旧事業が行なわれ、江戸時代の高山陣屋の姿がほぼ甦っている。
内部は、玄関の間が文化13年改築のままで残り、10万石格を示す2間半の大床や、大名も使用をはばかった青海波模様が目を引く。御蔵は高山城三ノ丸に米蔵として建てられていたが、元禄8年現在地に移築された。軸部は慶長年間(1596~1615)のもので、良質のヒノキが使われ、仕上げも蛤刃手斧であり、年代、規模共に全国有数の穀物土蔵である。壁面の傾斜(四方転び)や通風の隙間など、飛騨匠の手法が見られる。
参考文献 『高山市の文化財』
資料集
014_018_高山陣屋
千鳥格子御堂
金鉱が発見されて賑わいを見せていた六厩で、慶長元和(1596~1624)の頃、この地の了宗寺の建立を終えた名工の棟梁が、その余材で旧軽岡峠の辻に「地蔵堂」を造った。御堂の扉として考えられたのが、謎に包まれた千鳥格子の秘法だった。この格子戸は檜の角棒を互い違いに組んでいるが、どこでどのように組み合わせたものか、外見では全くわからない立派な細工で、千鳥格子と呼ばれてきた。地蔵堂は昭和34年の新軽岡峠開削、平成4年の軽岡バイパスの開通に伴い、旧軽岡峠の辻から新軽岡峠口を経て現在地へ移されている。移築時には復元された千鳥格子の扉もできている。昭和46年に高山市の文化財に指定された。
当初の千鳥格子は、長い年月の風雪に耐え、切り取られたり、秘法を知りたい人々の手ですり減っているが、無残になりながらも伝えられてきた秘法の造形に、往時の名工の密かな誇りが込められているかのようで美しい。その秘法扉をつけた地蔵堂は、新しい鞘殿の中に安置されている。
高山の名工岡田甚兵衛は軽岡峠まで出向き、その組み方を解き明かそうと調べたが、外見からは全く解らない。やむなく扉の片隅を少し壊し、その秘法を盗んだという。その謎は噛み合わせ部分の切り込みの深さにあった。秘法を会得した甚兵衛は、早速高山で千鳥格子を使った御堂を建てたという。それが、高山市内東部を流れる江名子川に架かる助六橋の近くにある現存の稲荷堂(川上別邸)である。
参考文献 『新・飛騨の匠ものがたり』(協)飛騨木工連合会発行 平成14年
資料集
015_019_千鳥格子御堂