ANAアーカイブスと共催で開催!準デジタルアーキビスト資格取得講座の開催
高校生をはじめ、情報関連企業、メディア関係、博物館、図書館、史料館、文書館、教育関係、出版関係、公務員などに向けたデジタル・アーキビスト資格取得講座、準デジタル・アーキビスト資格取得講座を開催しています。
岐阜のほかに東京、大阪、福岡の主要都市で行われ、多くの方が受講しています。
令和2年2月23日(日)に、ANA_Blue_Baseにて、準デジタル・アーキビスト資格取得講座を開催することになりました。
高校生のみなさん、ぜひご参加下さい。
ANA準DA講習会案内
酒列磯前神社
『文徳実録』によると、文徳天皇の斉衡3年(856年)12月29日に常陸国鹿島郡大洗磯前に御祭神大己貴命・少彦名命が御降臨になり、塩焼き(塩を精製する者)の一人に神がかりして、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり」と託宣され、当社「酒列磯前神社」が創建され、また現在の東茨城郡大洗町には「大洗磯前神社」が祀られました。翌天安元年8月には官社に列せられ、更に10月には「酒列磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。延喜の制では名神大社に明治18年4月には国幣中社に「大洗磯前神社」と共に列されました。御社殿はかつては現在の第一鳥居付近(ひたちなか市史跡-「比観亭跡」)に鎮座していましたが、水戸藩2代藩主徳川光圀公が由緒深い名社の荒廃を嘆き元禄年間御造営の計を起し、3代綱條公が現在地に遷座再興されました。現在の社殿は国費を持って昭和12年に改築竣工し、拝殿に施された「リスとブドウ」の彫刻は日光東照宮御造営後の左甚五郎の作と伝わっています。
#左甚五郎
資料集
184_195_酒列磯前神社
左甚五郎
左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。講談や浪曲、落語、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代 – 江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。逸話などでその存在さえも疑われているが[1]、実在の人物として記述している文献も見られる。
足利家臣・伊丹左近尉正利を父として、文禄3年(1594年)に播磨国明石に生まれた。父親の亡き後、叔父である飛騨高山藩士・河合忠左衛門宅に寄寓。慶長11年(1606年)、京伏見禁裏大工棟梁・遊左法橋与平次の弟子となった。元和5年(1619年)に江戸へ下り、将軍家大工頭・甲良宗広[注釈 1]の女婿となり、堂宮大工棟梁として名を上げた。江戸城改築に参画し、西の丸地下道の秘密計画保持のために襲われたが、刺客を倒し、寛永11年(1634年)から庇護者である老中・土井利勝の女婿で讃岐高松藩主・生駒高俊のもとに亡命。その後、寛永17年(1640年)に京都に戻り、師の名を継いで禁裏大工棟梁を拝命、法橋の官位を得た後、寛永19年(1642年)に高松藩の客文頭領となったが、慶安4年(1651年)頃に逝去。享年58[。
名工・左甚五郎のモデル、岸上一族の一人である初代・岸上甚五郎左義信は永正元年(1504年)に誕生し、66歳で没したとされている。16歳の時に多武峯十三塔その他を建立し、その時の天下人に「見事である。昔より右に出る者はいない。」「それでは甚五郎は左である。」「左を号すべし。」と言わしめた。そのお達しにより、位(号)として“左”を名乗ったといわれている。実在の人物であり貝塚生まれであるということを実証する資料として西光寺 (香芝市)鳳凰の欄間がある。
左甚五郎の伝承を持つ作品
眠り猫(日光東照宮)
閼伽井屋の龍(園城寺)
鯉山の鯉(京都の祇園祭)
日光東照宮(栃木県日光市) – 眠り猫
妻沼聖天山 歓喜院(埼玉県熊谷市) – 本殿 「鷲と猿」
秩父神社(埼玉県秩父市) – 子宝・子育ての虎、つなぎの龍
泉福寺(埼玉県桶川市) – 正門の竜
安楽寺(埼玉県比企郡吉見町) – 野あらしの虎
慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町) – 夜荒らしの名馬
国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大崎)
上野東照宮(東京都台東区) – 唐門 「昇り龍」、「降り龍」
上行寺(神奈川県鎌倉市) – 山門の竜
淨照寺(山梨県大月市)- 本堂欄間
長国寺(長野県長野市)- 霊屋 破風の鶴
龍潭寺(静岡県浜松市)- 龍の彫刻 鶯張りの廊下
定光寺(愛知県瀬戸市)- 徳川義直候廟所 獅子門
誠照寺(福井県鯖江市) – 山門 駆け出しの竜、蛙股の唐獅子
園城寺(滋賀県大津市) – 閼伽井屋の龍
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市)
養源院(京都府京都市東山区) – 鶯張りの廊下
知恩院(京都府京都市東山区) – 御影堂の天井に左甚五郎が置いていったという「忘れ傘」。鶯張りの長廊下もある。
祇園祭 (京都府)- 鯉山の鯉
稲爪神社(兵庫県明石市)
圓教寺(兵庫県姫路市) – 力士像
加太春日神社(和歌山県和歌山市加田)
出雲大社(島根県出雲市) – 八足門 蛙股の瑞獣、流水紋
西光寺(奈良県香芝市)- 鳳凰の欄間
飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)稲喰神馬(黒駒)
これらの中には、作風が似つかない物もある。他人の作品に甚五郎の名前を付けられることもあり、名の知れた彫刻師だったのだと考えられる。
#左甚五郎
西橋寺
天文年間、上舟岡に阿弥陀堂と称する草庵があった。関東18檀林の一つ武州鴻巣の勝願寺(埼玉県)の則伴頭を務め諸国を回っていた寂湛が、天正10年(1582)当所に一宇を造立した。現在の建物は享保5年(1720)造営のもの。切口8畳敷の欅1本で造られたといわれる。本堂向拝の上に左甚五郎作といわれる兎の彫刻がある。
本堂正面向拝の上に、左甚五郎作といわれる「波に兎」の彫刻があります。昔、田んぼの畦の豆を食べる兎が夜な夜な出没し、農家を困らせていました。その兎は西橋寺の兎に違いないとして、「波に兎」の彫刻に網がかけられました。正に生きた兎の彫刻は左甚五郎作のものであると言い伝えられています。
#左甚五郎
資料集
173_184_西橋寺
出雲大社
出雲大社(いずもおおやしろ、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神[2]。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社[1]。神社本庁の別表神社[1]。宗教法人出雲大社教の宗祠。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する[3]。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
八足門は蛙股(かえるまた)の瑞獣や流水文などの彫刻が施され、左甚五郎の作と云われる。
#左甚五郎
資料集
174_185_出雲大社
方広寺
方広寺(ほうこうじ)は、京都府京都市東山区にある天台宗の寺院。通称は「大仏」または「大仏殿」。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建された。
豊臣秀吉は天正14年(1586年)に、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。当初は東山の東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定で、小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺の古渓宗陳を開山に招請した。大仏と大仏殿の造立はいったん中止され遣迎院の移転も途中で中止(おかげで遣迎院は南北に分立)された。
のち天正16年(1588年)に、場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地に変更して再開(佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転)した。秀吉は大規模工事に巧みであった高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。
大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ、また大和大路の西側には秀吉の手により伏見街道も整備され、さらに秀吉は五条大橋を六条坊門に移し京外への出口とするとともに大仏への参詣の便とした。小田原征伐を挟んで天正19年(1591年)5月に大仏殿の立柱式が行われ(言経卿記)、文禄2年(1593年)9月に上棟(多聞院日記、三宝院文書)、文禄4年(1595年)に完成をみた。同年9月25日には秀吉自身の祖父母の供養のため寺内の南北15間東西21間の巨大な経堂で千僧供養会を行った。天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、浄土真宗(一向宗)の僧が出仕を要請された。千僧供養は以後豊臣家滅亡まで、毎月行われた。千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、妙法院に残る。当時の敷地は広大なもので、妙法院はもちろん、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。
現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重文)や南大門(重文・豊臣秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。
なお、東寺の南大門(重文)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである。この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという。
また、刀狩で没収した武器を再利用して釘にしたものも使われた。なお、造営期間短縮のため、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造「漆膠(シツクヰ)」で造られた(『太閤記』)。
この大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられる[1]。なおこのとき大仏殿は倒壊を免れている。秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した大仏に代わり、善光寺如来(善光寺式阿弥陀三尊)(当時は甲斐善光寺に在り)を移座して本尊に迎えることを計画。
木食応其の尽力により、慶長2年(1597年)7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された(義演准后日記)。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(『鹿苑日録』『義演准后日記』)、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった。
秀吉は翌慶長3年(1598年)病に臥したが、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年8月17日、善光寺如来は信濃国の善光寺へ戻されることとなった。しかし、翌8月18日に秀吉は没した。
その後、豊臣秀頼は慶長4年(1599年)、木食応其に命じて銅造での大仏復興を図るが、慶長7年(1602年)流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は烏有に帰した。
慶長13年(1608年)より再建が開始され、慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には大仏に金箔を押すところまで完成。慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。
上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものとみなされ、最終的には大坂の陣による豊臣家の滅亡を招いてしまったとされる(方広寺鐘銘事件)。なおこの事件を徳川方の言いがかりとする見方がある一方で、「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意を持たなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。片桐且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」とする指摘もある。
また大工棟梁を勤めた中井正清から家康への注進により大仏殿の棟札にも不穏の文字があるとされた。大仏自体は大坂の陣の後も残されたが、寛文2年(1662年)の地震で大破。大仏は寛文7年(1667年)に木造で再興され、壊れた銅造の大仏のほうは寛永通宝の原料とされた。この大仏も寛政10年(1798年)落雷による火災で焼失。以後は同様の規模のものは再建されなかった(大仏および大仏殿の建造と焼失の経緯は「京の大仏」の記事を参照)。
また、豊臣家が滅亡した直後の元和元年(1615年)8月18日には、豊国大明神の神号を剥奪された秀吉の霊が、「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられて、廃された豊国社本殿から大仏殿後方南に建立された五輪塔に移された。この石造五輪塔は現在の豊国神社境内宝物殿裏に「馬塚」として遺る。
なお、当時の史料ではこれを「墳墓」としている(『妙法院文書』)。なお、「方広寺」という名は創建当時から江戸初期にかけての文献には一切現れず当時はただ「大仏」とのみ呼ばれていた。方広寺命名の経緯・時期は不明だが、経典(大方広経)から採ったといわれ、また経典にかこつけて「豊公(ほうこう)」の名を託したとも考えられる。
だが庶民の間では江戸期を通じて「大仏」の名で親しまれた。長崎出島のオランダ人なども江戸参府のおりに訪れ、江戸幕府が朝鮮通信使を案内した際には「秀吉の寺」として拒絶反応を示されて対応に苦慮したことが記録に残る。江戸時代後期の天保年間(1830年 – 1844年)、尾張国の有志により、上半身のみの大仏が木造で再興された。
1871年(明治3年)、方広寺境内の大部分は収公され、現在の規模となった。1973年(昭和48年)の火災により、上述の天保再興の大仏は焼失した。
前述の「国家安康」の鐘は現存して重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。大仏殿は、2000年(平成12年)発掘調査により東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。大仏が安置されていた場所からは八角の石の基壇も発掘されている。
基壇に使われた花崗岩の切り石の多くは、1873年(明治6年)に京都市の内外に京都府により築造された6基の石造アーチ橋の建材に転用された。大仏殿のあった場所には明治になって豊国神社が建てられた。門前の餅屋が売っていた「大仏餅」は大仏を型押しした餅で、大仏を訪れた人々のよい土産となった。
この餅屋には石川五右衛門が住みこんでいたという伝説がある。鴨川河原まで通じる抜け道もあったという。門前、餅屋があった向かい辺りには、秀吉が築かせた耳塚がある。
#左甚五郎
資料集
175_186_方広寺
知恩院
知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。
18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。
承安5年(1175年)、43歳の時であった。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。
法然は建永2年(1207年)には讃岐国(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻るが、翌年の1月、80歳で没した。
法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと称されていた。
ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となった。ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていたが、嘉禄3年(1227年)、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう(嘉禄の法難)。文暦元年(1234年)、法然の弟子である紫野門徒の勢観房源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されるなどして紫野門徒の拠点となっていった。建治2年(1276年)、鎮西義の弁長の弟子良忠が鎌倉からやってくると、間もなくして紫野門徒の百万遍知恩寺3世信慧は東山の赤築地(あかつじ)において良忠と談義を行った。そこで両流を校合してみたところ、相違するところが全くなく符合したので、以後源智の門流は別流を立てずに、鎮西義に合流することとなった(「赤築地の談」)。
これにより、紫野門徒の拠点であった知恩院と百万遍知恩寺は鎮西義の京都での有力な拠点となった。永享3年(1431年)に火災にあって焼失するが、間もなくして再興されている。
応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱の際には、知恩院22世珠琳が現在の滋賀県大津市にある金蓮寺に避難、その後現在の大津市内に新知恩院を建立した[1]。そして、文明10年(1478年)に知恩院を再興するが、永正14年(1517年)にも消失する。大永3年(1523年)、知恩院25世存牛と百万遍知恩寺25世慶秀との間で本寺争いとなったが知恩院が勝利し、鎮西義で第一の座次となり本山となった。また、戦国時代には縁誉称念による専修念仏集団一心院流(捨世派)が成立して鎮西義から分派し、天文17年(1548年)に法然上人御廟の向かいに一心院を建立している。
さらに天正3年(1575年)には正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことである。
浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は江戸幕府2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。
寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代松平長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている。
江戸時代の代々の門主は皇族から任命されたが、さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。1947年(昭和22年)、法然上人御廟を中心とする「一宗一元運動」を提唱し、知恩院は自らを本山とする本派浄土宗(後に浄土宗本派に改称)を結成し、浄土宗から分派する。1950年(昭和25年)には法然上人御廟の向かいにある一心院が浄土宗捨世派を結成して浄土宗から分派した。
しかし、1961年(昭和36年)の法然上人750年忌を機に、翌1962年(昭和37年)に知恩院と浄土宗本派は浄土宗に合流し、知恩院が再び浄土宗の総本山となった。
勢至堂(重要文化財)
知恩院の境内は、三門や塔頭寺院のある下段、本堂(御影堂)など中心伽藍のある中段、勢至堂、法然廟などのある上段の3つに分かれている。このうち、上段が開創当初の寺域であり、中段、下段の大伽藍は江戸時代になって徳川幕府の全面的な援助で新たに造営されたものである。
三門
東大路通に面した総門(新門)を通り、緩い坂道を上った先に西面して三門が建つ。三門をくぐると急な石段があり、本堂などの建つ「中段」に至る。三門は徳川二代将軍徳川秀忠が寄進したもので、平成大修理時に上層屋根の土居葺板という部材から元和7年(1621年)の墨書が発見され、同年の建立と判明する。入母屋造、本瓦葺き、五間三戸の二重門である。(「五間三戸」は正面柱間が5つで、うち中央3間が通路になっているもの。「二重門」は2階建てで、1階・2階の両方に軒の張りだしがあるものをいう。)高さ24メートルの堂々たる門で、東大寺南大門より大きく、現存する日本の寺院の三門(山門)のなかで最大の二階二重門である。組物(軒の出を支える構造材)を密に並べた「詰組」とすること、粽(ちまき)付きの円柱を礎盤上に立てること、上層の垂木を扇垂木とすることなど、細部の様式は禅宗様であり、禅寺の三門に似た形式とする。門の上層内部は釈迦如来像と十六羅漢像を安置し、天井には龍図を描くなど、やはり禅寺風になっている。
日本三大門のひとつに数える説がある。
本堂(御影堂)
知恩院境内は下段、中段、上段の3段に整地されており、本堂はそのうちの中段に南面して建つ。寛永10年(1633年)の焼失により、寛永16年(1639年)に徳川家光によって再建。宗祖法然の像を安置することから、御影堂(みえいどう)とも呼ばれる。
知恩院で最大の堂宇であることから、大殿(だいでん)とも呼ばれる。入母屋造本瓦葺き、間口44.8メートル、奥行34.5メートルの壮大な建築で、江戸幕府造営の仏堂としての偉容を示している。
建築様式は外観は保守的な和様を基調としつつ、内部には禅宗様(唐様)の要素を取り入れている。柱間は桁行(正面)11間、梁間(奥行)9間で、手前の梁間3間分を畳敷きの外陣とし、その奥の桁行5間・梁間5間分を内陣とする。内陣の左右はそれぞれ手前の梁間3間分を「脇陣」、奥の梁間2間分を「脇壇前」と呼ぶ。
堂内もっとも奥の梁間1間分は、中央の桁行5間を後陣、左右の桁行各3間を脇壇とする。内陣の奥には四天柱(4本の柱)を立てて内々陣とし、宮殿(くうでん)形厨子を置き、宗祖法然の木像を安置する。
徳川幕府の造営になる、近世の本格的かつ大規模な仏教建築の代表例であり、日本文化に多大な影響を与えてきた浄土宗の本山寺院の建築としての文化史的意義も高いことから、2002年、三門とともに国宝に指定されている。屋根の上、中央に屋根瓦が少し積まれているが、これは完璧な物はないことの暗喩だとされる。
2007年から屋根の修復作業が行われている。法然上人像は毎年12月25日に御身拭式が行われているが、平成23年(2011年)12月25日には御影堂大修理に伴い、御身拭式の後、遷座式が執り行われ、修理の間、法然上人御堂(集會堂)に安置されている。
御影堂大修理
2011年に半解体をともなう大修理を発願し、8年計画で屋根瓦の全面葺き替えをはじめ腐朽、破損箇所の取り替えと補修、軒下の修正、耐震診断調査に基づく構造補強などを行い、2019年に竣工予定である。
一度外されて補修された屋根が2016年に再び御影堂に載り、修理現場が一般公開された。
忘れ傘 ―知恩・報恩
御影堂正面の軒裏には、骨ばかりとなった傘がみえます。当時の名工、左甚五郎が魔除けのために置いていったという説と、知恩院第32世の雄誉霊巌上人が御影堂を建立するとき、このあたりに住んでいた白狐が、自分の棲居がなくなるので霊巌上人に新しい棲居をつくってほしいと依頼し、それが出来たお礼にこの傘を置いて知恩院を守ることを約束したという説とが伝えられています。
いずれにしても傘は雨が降るときにさすもので、水と関係があるので火災から守るものとして今日も信じられています。
#左甚五郎
資料集
176_187_知恩院
石清水八幡宮
八幡造り御本殿
国家鎮護の社として都の裏鬼門に位置する男山山上に御鎮座されてより1150年以上の間、時の為政者を始め、幾多の人々の祈りが捧げられ、篤い崇敬を受けてきた当宮の根本である本殿は貞観元(859)年、木工寮権允・橘良基は清和天皇の勅命により六宇の宝殿を建立し、順次「八幡造り(はちまんづくり)」の社殿を完成させるに至りました。
以来、造営14度・修理17度におよび、現在の社殿は寛永11(1634)年、徳川三代将軍家光公の修造によるものです。
前後二棟(内殿・外殿)からなる八幡造りの社殿建築様式は稀少であり、桧皮葺屋根の軒が接するところに織田信長公寄進の「黄金の樋」が架けられています。
御本殿から幣殿・舞殿・楼門と続き、その周囲を約180mに及ぶ廻廊が囲む社殿の建造物全てが丹漆塗で、御本殿を囲む瑞籬(みずがき)の欄間彫刻をはじめ随所に当時の名工の極彩色彫刻が施された極めて壮麗な社殿であり、平成28年2月9日に本社10棟と附(つけたり)棟札3枚が国宝に指定されました。
《楼門》
社殿の顔である楼門の正面には、蟇股部分に一対の向かい合う鳩の錺金具(かざりかなぐ)があり、よく見ると向かって右側の鳩は少し口を開けています。神使である鳩が社殿の正面にて狛犬と同様に阿吽の呼吸で御神前をお守りしています。 また、その双鳩の少し上を見上げると、極彩色の壮麗な龍虎の欄間彫刻が施されています。南に朱雀、東に青龍、西に白虎、北に玄武という四方を守護する四神(神獣)の関係から考えると、当宮の龍虎の彫刻は東に虎、西に龍の彫刻が配置されており、これは、御祭神を祀る位置と順番に合わせて逆に配置されているとも、現在の社殿の修造した徳川家光公の生まれ年が辰年であり、家光公が尊崇した徳川家康公は虎年生まれであるため、自分の干支が尊敬する家康公の干支よりも上位(=東、下位=西)の位置に配することのないよう家光公が配慮したともいわれています。
《瑞籬欄間彫刻》
御本殿を囲む瑞籬には、壮麗な当宮の社殿を象徴する極彩色の欄間彫刻が150点以上も施されており、一説には江戸期の名工・左 甚五郎一派の作と伝えられています。 なかでも「かまきり」や「りすとぶどう」「天人(てんじん)」など珍しい彫刻もあり、荘厳にして堅牢な廻廊の内側では壮麗な瑞籬の動植物たちが見るものを圧倒し、楽しませます。
《織田信長公寄進の金銅製雨樋》
八幡造りである御本殿の内殿と外殿の「相の間」に架かる織田信長公寄進の通称「黄金の雨樋」。 天正7(1579)年12月、信長公が雨に遭って山崎寶積寺に逗留の際、木製の雨樋が朽ち雨漏りがしていることを聞き及び修理を命じ、翌、天正8年8月には木製から唐金の雨樋に造り替えられました。これには、もし再び当宮に天災などの有事が起こった際には、この「黄金の雨樋」を換金し、その対処にあたるようにとの信長公の信仰心の深さがあったという伝承があります。
長さ21.7m、幅54cm、深さ21cm。
《目貫きの猿》
西門の蟇股部分に、琵琶の木にぶらさがり木の実をくわえる一匹の猿の彫刻があります。実はこの猿、一説には伝説の名工・左甚五郎の作といわれ、数ある当宮の彫刻のなかでもとりわけ秀逸な作品のため、ある日、猿に魂が宿り、夜になると蟇股から抜け出して山麓の畑を荒らすので、困ったお百姓さんたちが八幡宮に相談した結果、かわいそうであるが抜け出せないようにと猿の右目に釘が打ちつけられ、それ以降猿の悪さがなくなった、という逸話が残っており、通称「目貫きの猿」と呼ばれています。
《流れ左三つ巴紋》
巴は橘とともに当宮の御神紋であり、御本殿の彫刻を始め軒瓦など各所に見られます。当宮の巴は「流れ左三つ巴」であり、いつの時代に何故御神紋になったのか定かではありませんが、尾が長い文様ほど古いとされています。 幣殿の蟇股には4つの巴紋の彫刻が施されていますが、実は1つだけ右巴があります。これは、社殿を完成させてしまうと、あとは朽ちるのを待つことになり、あえて未完成の箇所、間違いの箇所を造ることにより、まだその社殿が未完成であり、益々の発展を遂げるという願いと縁起が込められているとされています。
《橘の木》
京都御所紫宸殿前には「左近の桜、右近の橘」が配されていますが、当宮舞殿の東西両側には橘の木が植えられおり、秋から冬にかけて黄金色の実をつけます。 これは当宮を宇佐宮から勧請した行教律師の御紋が橘であり、また創建時の六宇の宝殿を建立したのが木工寮権允・橘 良基であったことに由来し、当宮の御神紋である「流れ左三つ巴」とともに御社紋として使われていることに起源があるのではないかとされています。
《徳川家の「隠し葵」》
男山四十八坊のひとつ、豊蔵坊は徳川家康公が三河の大名にすぎなかったころからの祈願所で、将軍家祈願所として幕府および徳川家から受けた待遇は格別のものがあり、家康公自身、42歳の本厄にあたり、自分の姿を写した等身大の御像を豊蔵坊本堂の神殿に祀っています。(現在は京都・等持院に安置されています) また、家康公の側室となり、尾張藩祖・徳川義直公の生母であった於亀の方は、石清水八幡宮累代祠官家である田中家の親族であり、当宮と徳川家は強い繋がりをもっていたことがうかがえます。 そして、現在の御社殿は寛永8(1631)~寛永11(1634)年にかけて徳川家光公の修造によるもので、そのことから考えると、徳川家の御紋である「葵の御紋」がいたるところに施されていてもよいものですが、見当たりません。 実は、楼門蟇股部分、正面の双鳩(錺金具)の裏側、すなわち参詣者からは見えない位置に、当宮の神紋とともに「葵の御紋」が、錺金具に彫られています。 「さすが徳川将軍家、なんと控えめなことか」と捉えられますが、実は、八幡大神様からは一番良く見える真正面に「葵の御紋」が施されている位置関係になっています。
#左甚五郎
資料集
177_188_石清水八幡宮
誠照寺
親鸞聖人ゆかりの寺で、真宗誠照寺派本山で越前四箇本山の一つ。御影堂は木造建物では県内最大規模を誇ります。山門は四足門で「鳥棲まずの門」とも言われ、左甚五郎作と伝えられる彫刻「駆け出しの龍」は特に有名です。
上野山誠照寺の起源は、およそ780年前、承元元年(1208)宗祖親鸞聖人越後へ配流のみぎり、越前上野ヶ原の豪族波多野景之の別荘にご滞在になり、弥陀本願の要法を説かれた、いわゆる、初転法輪の聖地に始る。景之はその一族と共に聞法して、溢るる法悦に随喜し、念仏の行者となり空然と称した。この地を世に「車の道場」と称している。その後景之は聖人の第五子道性上人を招請して此の車の道場にお迎えし、聖人の御孫第三代如覚上人とともに教線を張った。如覚上人の御代に車の道場の地が狭隘となったので、景之の寄進により現在の地に移り、時の帝、御二條天皇より「真照寺」の勅額を賜っている。
道性・如覚両上人は正信・和讃と、勧化章の創始と相まち、念仏の声は燎原の火の如く越前はもとより加賀・能登・越後・美濃へと広まり、草創にして隆盛を極め、世に「和讃門徒」と称し、第七代秀応上人の御代に御花園天皇より改めて「誠照寺」の勅願を賜った。その後一向一揆につづく秀吉の兵火により、一時衰微に向うが第十五代中興秀上人により厚い信徳と秘仏手引阿弥陀如来の本尊としての勧請により、誠照寺教団は一躍再興され、後年遂いに摂家二條卿を猶子家とするの格式を得て門跡寺となり、現法主二條秀瑞猊下まで三十代にわたり真宗本願他力念仏の根本道場として、一水瀉瓶伝灯相承され、今日に至っている。
又鯖江市は福井県のほぼ中央に在り、門前町として栄え今日の発展をみるに至った。
四足門
四足門は秀応上人(第七代)の御代に後土御門天皇の勅許により、文正元年に創建せられたもので、現大門は本山最古の建築物である。俗に「鳥棲まずの門」とも、また「北陸日暮し門」とも呼ばれ、一木一材からなっている。向梁には、左甚五郎苦心の作が多いが、中でも「駆出しの竜」や、「蛙股の唐獅子」などは特に有名で端麗荘重な姿を今にとどめている。
現在の境内地は往時所領の7分の1にも足らぬ面積で、約1万坪といわれる。その昔土地の豪族波多野景之が親鸞上人の御孫、如覚上人に寄進された御朱印地である。寺号は初め真照寺と称し同上人の御代に後二條天皇より勅賜せられ、のち秀応上人の時、後花園天皇の勅命により誠照寺と改められ共に勅額を寄せられている。
御影堂
御影堂(大師堂)は境内のほぼ中央に在り、二十間四面の総欅入母屋造りであって、今より百余年前(明治10年完成)に再建され、宗祖親鸞聖人の御木像並びに歴代法主の連座の御影を安置し、両余間には九字(南無不可思議光如来)十字(帰命盡十方無得光如来)の名号が掛けられている。
『獲信の法座戻りや春の風』 句仏上人
大庫裡
大庫裡は総欅材を以って建てられ、中は宗務所、志納所、厨房、湯殿等に分かれている。この奥に法主猊下の御館となっている御本殿、長生殿、春光殿等の御内事数棟がある。
阿弥陀堂
阿弥陀堂(本堂)は御影堂の南側にあって、堂内内陣の御宮殿は、宝歴3年に河内屋庄兵衛が尊仏を奉安するにふさわしき御宮殿須弥檀をと念じ、十余年構想を練り、細微に亘り丹精を込めて造り上げたもので、重層入母屋破風造りの優雅にして荘重たるたゝずまいは、まさに宮殿中の白眉といえよう。この御宮殿には、御本尊の秘仏三国伝来の閻浮檀金手引阿弥陀如来が奉安され、毎年御入山記念日の8月15日にに御開扉されている。
鐘楼堂
大門の南隣に鐘楼堂がある。弘化3年に当時の建築技術の粋を集めて建立され、その高雅で重厚な風姿と細部に至る彫刻は名鐘にふさわしく外に類をみない。
洪鐘は宝暦6年大阪の冶工大谷相模の椽藤原正次が苦心の鋳造にかかり、余韻しょうしょう遠く三里四方に聞こえるといわれ、第2次世界大戦中にも准国宝の名鐘として供出を免れ、黎名、昏時今にその妙音が絶えない。
対面所
大庫裡と御影堂との中間にあり、唐門書院造りで書院対面所の様式となっている。往時、前田加賀藩主を始め諸大名が参勤交代等のみぎり、上段の間において法主殿と互に挨拶を交された公式接見の場所(時には休息所)である。御宸殿/光華殿
奥の庭園に面して御宸殿と光華殿がある。この御宸殿は寝殿造りで京都御所の有名な紫宸殿を模して建てられたといわれ、光華殿と共に故閑院宮載仁親王御統裁宮殿下の御宿舎ともなった。
上野別堂
この別堂は北陸路における祖師聖人随一の御旧跡、真宗の初転法輪の地であって、聖人流罪途上の輿車に因んで「車の道場」とよばれ、現在は上野別堂とも称し、本山の別院となっている。
地方の豪族波多野景之(法名空然)が己の茶寮を道場に改め、聖人の第五子道性(幼名有房益方入道)を請うて住職たらしめた。別堂に安置する本尊は慈覚大師の直作の阿弥陀如来であって、これは宗祖聖人御形見の背負の御木像である。本堂は京都帝国大学工学博士天沼俊一氏の設計により復興された。総桧48本の柱を以って築かれ、室町時代を模した寝殿造りである。前庭には往時の古井戸を残す。
『音なくて涌井戸あふる春の水』 句仏上人
#左甚五郎
資料集
178_189_誠照寺
成相寺
成相寺(なりあいじ)は日本三景天橋立を眼下に望む景勝地にあり、元々は日本古来の山岳宗教の修験場で、日本全国にある五つの「聖の住む所」の一つとして信仰を集めてまいりました。慶雲元年(704)に文武天皇の勅願寺として真応上人が創建したと伝えられ、本尊は身代わり観音、美人観音として名高い聖観世音菩薩です。
境内には悲話を伝える「撞かずの鐘」、奇怪な話の「底なし池」、左甚五郎作の「真向の龍」などがあり、しゃくなげの名所でもあります。車道もありますが、天橋立を眺めながらケーブルカーと登山バスを乗り継いでお参りされるのも楽しいでしょう。西国札所最北端に位置し、冬は雪が深くなりますが成相寺から見る雪の天橋立も格別です。
由 来
一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中、深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となりました。死を予感した僧は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈りました。すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に傷ついた鹿が倒れているのに気付きました。僧として肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して鹿の腿をそいで鍋に入れて煮て食べました。やがて雪も消え、里人達が登って来て堂内を見ると、本尊の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散っていました。 それを知らされた僧は観音様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになりました。此れよりこの寺を願う事成り合う寺、成合(相)寺と名付けました。
#左甚五郎
資料集
180_190_成相寺
園城寺(三井寺)
天台寺門宗の総本山。境内に天智・天武・持統の三天皇の御産湯に用いられたとされる霊泉(井戸)があることから、「御井(みい)の寺」と称され、後に「三井寺」と通称されるようになった。国宝の金堂を始め、西国第十四番札所の観音堂、釈迦堂、唐院など多くの堂舎が建ち並び、国宝・重要文化財は100余点を数える。「閼伽井屋」の正面上部に左甚五郎の作と伝えられている「龍の彫刻」がある。 この龍は夜になると琵琶湖に出て暴れたため、甚五郎が自ら龍の目玉に釘を打ち込み鎮めたという伝説があるらしい。
#左甚五郎
資料集
181_191_園城寺(三井寺)