誠照寺
親鸞聖人ゆかりの寺で、真宗誠照寺派本山で越前四箇本山の一つ。御影堂は木造建物では県内最大規模を誇ります。山門は四足門で「鳥棲まずの門」とも言われ、左甚五郎作と伝えられる彫刻「駆け出しの龍」は特に有名です。
上野山誠照寺の起源は、およそ780年前、承元元年(1208)宗祖親鸞聖人越後へ配流のみぎり、越前上野ヶ原の豪族波多野景之の別荘にご滞在になり、弥陀本願の要法を説かれた、いわゆる、初転法輪の聖地に始る。景之はその一族と共に聞法して、溢るる法悦に随喜し、念仏の行者となり空然と称した。この地を世に「車の道場」と称している。その後景之は聖人の第五子道性上人を招請して此の車の道場にお迎えし、聖人の御孫第三代如覚上人とともに教線を張った。如覚上人の御代に車の道場の地が狭隘となったので、景之の寄進により現在の地に移り、時の帝、御二條天皇より「真照寺」の勅額を賜っている。
道性・如覚両上人は正信・和讃と、勧化章の創始と相まち、念仏の声は燎原の火の如く越前はもとより加賀・能登・越後・美濃へと広まり、草創にして隆盛を極め、世に「和讃門徒」と称し、第七代秀応上人の御代に御花園天皇より改めて「誠照寺」の勅願を賜った。その後一向一揆につづく秀吉の兵火により、一時衰微に向うが第十五代中興秀上人により厚い信徳と秘仏手引阿弥陀如来の本尊としての勧請により、誠照寺教団は一躍再興され、後年遂いに摂家二條卿を猶子家とするの格式を得て門跡寺となり、現法主二條秀瑞猊下まで三十代にわたり真宗本願他力念仏の根本道場として、一水瀉瓶伝灯相承され、今日に至っている。
又鯖江市は福井県のほぼ中央に在り、門前町として栄え今日の発展をみるに至った。
四足門
四足門は秀応上人(第七代)の御代に後土御門天皇の勅許により、文正元年に創建せられたもので、現大門は本山最古の建築物である。俗に「鳥棲まずの門」とも、また「北陸日暮し門」とも呼ばれ、一木一材からなっている。向梁には、左甚五郎苦心の作が多いが、中でも「駆出しの竜」や、「蛙股の唐獅子」などは特に有名で端麗荘重な姿を今にとどめている。
現在の境内地は往時所領の7分の1にも足らぬ面積で、約1万坪といわれる。その昔土地の豪族波多野景之が親鸞上人の御孫、如覚上人に寄進された御朱印地である。寺号は初め真照寺と称し同上人の御代に後二條天皇より勅賜せられ、のち秀応上人の時、後花園天皇の勅命により誠照寺と改められ共に勅額を寄せられている。
御影堂
御影堂(大師堂)は境内のほぼ中央に在り、二十間四面の総欅入母屋造りであって、今より百余年前(明治10年完成)に再建され、宗祖親鸞聖人の御木像並びに歴代法主の連座の御影を安置し、両余間には九字(南無不可思議光如来)十字(帰命盡十方無得光如来)の名号が掛けられている。
『獲信の法座戻りや春の風』 句仏上人
大庫裡
大庫裡は総欅材を以って建てられ、中は宗務所、志納所、厨房、湯殿等に分かれている。この奥に法主猊下の御館となっている御本殿、長生殿、春光殿等の御内事数棟がある。
阿弥陀堂
阿弥陀堂(本堂)は御影堂の南側にあって、堂内内陣の御宮殿は、宝歴3年に河内屋庄兵衛が尊仏を奉安するにふさわしき御宮殿須弥檀をと念じ、十余年構想を練り、細微に亘り丹精を込めて造り上げたもので、重層入母屋破風造りの優雅にして荘重たるたゝずまいは、まさに宮殿中の白眉といえよう。この御宮殿には、御本尊の秘仏三国伝来の閻浮檀金手引阿弥陀如来が奉安され、毎年御入山記念日の8月15日にに御開扉されている。
鐘楼堂
大門の南隣に鐘楼堂がある。弘化3年に当時の建築技術の粋を集めて建立され、その高雅で重厚な風姿と細部に至る彫刻は名鐘にふさわしく外に類をみない。
洪鐘は宝暦6年大阪の冶工大谷相模の椽藤原正次が苦心の鋳造にかかり、余韻しょうしょう遠く三里四方に聞こえるといわれ、第2次世界大戦中にも准国宝の名鐘として供出を免れ、黎名、昏時今にその妙音が絶えない。
対面所
大庫裡と御影堂との中間にあり、唐門書院造りで書院対面所の様式となっている。往時、前田加賀藩主を始め諸大名が参勤交代等のみぎり、上段の間において法主殿と互に挨拶を交された公式接見の場所(時には休息所)である。御宸殿/光華殿
奥の庭園に面して御宸殿と光華殿がある。この御宸殿は寝殿造りで京都御所の有名な紫宸殿を模して建てられたといわれ、光華殿と共に故閑院宮載仁親王御統裁宮殿下の御宿舎ともなった。
上野別堂
この別堂は北陸路における祖師聖人随一の御旧跡、真宗の初転法輪の地であって、聖人流罪途上の輿車に因んで「車の道場」とよばれ、現在は上野別堂とも称し、本山の別院となっている。
地方の豪族波多野景之(法名空然)が己の茶寮を道場に改め、聖人の第五子道性(幼名有房益方入道)を請うて住職たらしめた。別堂に安置する本尊は慈覚大師の直作の阿弥陀如来であって、これは宗祖聖人御形見の背負の御木像である。本堂は京都帝国大学工学博士天沼俊一氏の設計により復興された。総桧48本の柱を以って築かれ、室町時代を模した寝殿造りである。前庭には往時の古井戸を残す。
『音なくて涌井戸あふる春の水』 句仏上人
#左甚五郎
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178_189_誠照寺
成相寺
成相寺(なりあいじ)は日本三景天橋立を眼下に望む景勝地にあり、元々は日本古来の山岳宗教の修験場で、日本全国にある五つの「聖の住む所」の一つとして信仰を集めてまいりました。慶雲元年(704)に文武天皇の勅願寺として真応上人が創建したと伝えられ、本尊は身代わり観音、美人観音として名高い聖観世音菩薩です。
境内には悲話を伝える「撞かずの鐘」、奇怪な話の「底なし池」、左甚五郎作の「真向の龍」などがあり、しゃくなげの名所でもあります。車道もありますが、天橋立を眺めながらケーブルカーと登山バスを乗り継いでお参りされるのも楽しいでしょう。西国札所最北端に位置し、冬は雪が深くなりますが成相寺から見る雪の天橋立も格別です。
由 来
一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中、深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となりました。死を予感した僧は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈りました。すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に傷ついた鹿が倒れているのに気付きました。僧として肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して鹿の腿をそいで鍋に入れて煮て食べました。やがて雪も消え、里人達が登って来て堂内を見ると、本尊の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散っていました。 それを知らされた僧は観音様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになりました。此れよりこの寺を願う事成り合う寺、成合(相)寺と名付けました。
#左甚五郎
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180_190_成相寺
園城寺(三井寺)
天台寺門宗の総本山。境内に天智・天武・持統の三天皇の御産湯に用いられたとされる霊泉(井戸)があることから、「御井(みい)の寺」と称され、後に「三井寺」と通称されるようになった。国宝の金堂を始め、西国第十四番札所の観音堂、釈迦堂、唐院など多くの堂舎が建ち並び、国宝・重要文化財は100余点を数える。「閼伽井屋」の正面上部に左甚五郎の作と伝えられている「龍の彫刻」がある。 この龍は夜になると琵琶湖に出て暴れたため、甚五郎が自ら龍の目玉に釘を打ち込み鎮めたという伝説があるらしい。
#左甚五郎
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181_191_園城寺(三井寺)
白鳥の拝殿踊り
郡上市白鳥町は、岐阜県を流れる長良川の源流域に位置し、美濃馬場、白山中宮長滝寺(現白山神社・長滝寺)を中心に、白山信仰とともに栄えてきた町です。そして、白鳥の拝殿踊りは江戸時代の中頃から現在の白鳥町各地域において、お盆の時期に神社の境内で踊られていたもので、今は、白鳥神社・野添貴船神社・前谷白山神社などに残るのみとなっています。夕刻、神社の拝殿には大きな切子灯籠が吊るされ、その明かりの下で踊る素朴な踊りで白山の自然の恵みと信仰文化に培われた盆踊りです。
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057_060_白鳥の拝殿踊り_Part1
057_060_白鳥の拝殿踊り
057_060_白鳥の拝殿踊り_Part3
米倉寺
米倉寺の本堂に、左甚五郎の作といわれる雌雄の龍がある。あるとき、この二頭が喉を潤すため、葛川に出て水を飲み、のそのそ寺に帰ろうとするとき、洗濯婆さんに出会った。
婆さんは驚きのあまり腰を抜かし、しばらくは口もきけぬ有様であったそうな。このことがあって、再び龍が外出しないように、二頭とも両眼を鋸でひき潰したので、その歯跡が残っているという。
#左甚五郎
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165_176_米倉寺
桃原寺
浄土真宗本願寺派慶谷山桃原寺は口承によれば、1,000~1,200年ほど前に遡ると言われ、創建の地とされる医王山(富山県と石川県の県境)には「桃原寺」という地名が残っています。その後、その後早月川上流の虎谷、角川下流の慶野から現在地へ移ってきました。永正7年(1510)虎谷の地に仏閣があったころに真言宗から浄土真宗へ改宗しました。
本堂内陣の欄間には魚津市指定重要文化財に指定されている龍の彫刻があります。この龍が水を噴くと火事があるという言い伝えがあり、火災を予知し、水を噴くことで寺をお守りしてくれていると崇拝され、『水噴きの龍』と言われています。しかし、時々暴れ回って田畑を荒らして人々を驚かすので棕櫚縄で縛りつけて動けないようにし、左目に五寸釘が打たれています。昭和18年(1943)、昭和31年(1956)の魚津大火にも桃源寺が焼け残ったのは、この水噴きの龍のおかげといわれています。
水噴きの龍はお寺の本堂の中にあるので、扉の鍵が開いているときにだけ見られます。現在の建物は、部分的な増改築がなされているものの、江戸時代後期に東弘寺(高岡市)の伽藍(がらん)の一部を移築したと伝えられています。
桃原寺は、慶長年間に慶野から当地 (魚津城の外堀付近)に移ってきました。飛騨の名匠の製作になるという山門をく ぐって本堂へ入ると、正面の欄間に龍の彫刻があり、「左甚五郎の作」と伝えられています。
この龍は、しばしば欄間から抜け出 し付近の泥田で水遊びをして人びとを驚かせたり、龍が水を噴くと必ず火事が あるという言い伝えがあります。昭和十年 (1935年 )、龍が水を噴いた という噂が立ってから近所で火災があり、その後また水を噴いてあばれたので 、棕櫚縄で縛りつけて動けないようにしたといわれています。昭和十八年 (1943年)と三十一年(1956年)のそれぞれの大火にも桃原寺が焼け残っ たのは、この水噴きの龍のお陰といわれています。
#左甚五郎
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166_177_桃原寺
長国寺
真田家の菩提寺
真田山の山号を持つ、真田家の菩提寺。真田家歴代藩主の墓があるほか、信之、信弘の御霊屋があります。信之の御霊屋は重要文化財に指定されており、破風(はふ)の鶴は左甚五郎(ひだりじんごろう)、格天井(ごうてんじょう)の絵は狩野探幽(かのうたんゆう)筆と伝えられています。
#左甚五郎
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167_178_長国寺
誕生寺
誕生寺は、日家上人により建治2年(1276)に創建したと伝えられる日蓮宗の寺院で、明応7年8月(1498)と元禄16年(1680)に地震と津波により七堂伽藍を失う被害を受けた。その後再建された現存の仁王門は、宝永3年(1706)に建立されたものである。仁王門は5間3戸の楼閣門で、下層に和様三手先、上層に唐様三手先の組物を持ち、本蟇股の中備としている。いくつかの装飾の中でも、楼上に見える般若の彫刻は左甚五郎の作と伝えられている。幾度かの修理を経て、部分的な改変はあるものの全体として創建時の様子をとどめており、県内では最大規模の仁王門として貴重な建造物である。
#左甚五郎
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168_179_誕生寺
神野寺
神野寺は、房総三山の一つで、信仰と伝説の山として知られる鹿野山上に建つ真言宗智山派の古刹です。広い境内は雄大な規模を誇っています。寺伝では聖徳太子によって創建されたといわれています。杉木立に囲まれた境内には仁王門、本堂、経堂、六角堂、鐘楼堂、五重の石塔などがあります。運慶、左甚五郎の作といわれる彫刻や国の重要文化財である表門などがあり、由緒ある寺として知られています。
#左甚五郎
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169_180_神野寺
浄願寺
太平洋戦争中に供出された梵鐘は<吉原鐘>と呼ばれ、1799年に住職と
江戸吉原の人々と縁あって、浅草や吉原の人々から贈られた鐘であった。
その由来を書いた掛軸は今も残されている。
歌人・北原白秋が戦前に浄願寺に立ち寄った際に詠んだ句碑がある。
<梅雨はれて吉原鐘に人のほる>
浄願寺は親鸞聖人の弟子によって開創されたと伝えられ、1469年現在地に
移転したといわれている。
(1)寺名:浄願寺(じょうがんじ) (2)住所:岐阜県高山市丹生川町坊方1086
(3)山号:両足山 (4)宗派:真宗大谷派
(5)開山:実心坊浄観 (6)開創:不詳 (7)本尊:阿弥陀如来
(8)その他
1)本堂:市指定文化財 1751~64年
鐘楼:市指定文化財
2)吉原鐘鐘銘(掛軸):市指定文化財 1799年
3)大原正純漢詩額:市指定文化財
4)猿の彫刻(本堂柱):左甚五郎の作と伝える
#左甚五郎
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170_181_浄願寺
書写山圓教寺
西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である[4]。京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。
境内は、仁王門から十妙院にかけての「東谷」、摩尼殿(観音堂)を中心とした「中谷」、3つの堂(三之堂)や奥の院のある「西谷」に区分される[6]。伽藍がある標高371mの書写山は、兵庫県指定の書写山鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されている。
山内には、姫路藩本多氏の墓所である本多家廟所があり、そこには本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓もある[8]。室町時代の応永5年(1398年)から明治維新まで女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)に札を納めて帰った。
歴史
書写山の山上にあり、康保3年(966年)、性空の創建と伝えられる。もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前よりその地に祠が祀られていたといわれる。山号の由来はこの「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、この「曽左(そさ)」も素盞に由来する[15]。創建当初は「書写寺」と称した。仏説において書写山は、釈迦如来による霊鷲山の一握の土で作られたと伝えられ、「書寫山」の字が当てられたのは、その山がまさに霊鷲山を「書き写した」ように似ることによるといわれる[15]。また一つに、その名は、山上の僧が一心に経典を書写する姿に、山麓の人たちが崇敬をもって称したとも伝えられる。
性空の生年については、西暦903年説、910年説、928年説があるが[16]、『性空上人伝記遺続集』(三千院所有、重要文化財)によれば、性空は延喜10年(910年)の生まれで、貴族の橘氏の出身であったという。性空は出家した時、すでに36歳であり、それから約20年間、霧島山、脊振山など九州で修行を積んだ後、霊地を求める旅に出て、康保3年(966年)の57歳の時、書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりであるとされる]。入山して4年目の天禄元年(970年)[21]、天人が書写山内のサクラの霊木を賛嘆礼拝するのを見た性空が、弟子の安鎮に命じて生木のサクラに如意輪観音の像を刻み、その崖に3間四方の堂を建てた。これが如意輪堂(現・摩尼殿)の創建であるという。
性空の伝記や説話は『性空上人伝記遺続集』のほか、『元亨釈書』、『今昔物語集』などにも見られる[24]。それらによると、性空は俗事を厭い、栄華や名声に関心がなかったが、都の皇族や貴顕の崇拝が篤かったという[26]。なかでも性空に対する尊崇の念が強かった花山法皇は、寛和2年(986年)に来山して、圓教寺の勅号を与え[27]、米100石を寄進。性空はこの寄進をもとに講堂(現・大講堂)を建立したとされる[28]。花山法皇以外にも、後白河法皇[29]や後醍醐天皇[30]など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立が行われている。
花山法皇勅願の「円教」という寺号には、輪円具足を教えるという意味がある。円の形(輪円)は欠けたところがなく、徳において最も成就した状態を象徴していることから、自己を完成する道を教える寺の意となる。
武蔵坊弁慶は、一時期、書写山で修行したとされており、机などゆかりの品も伝えられ公開されている[34]。ただし史実である確証はない。一遍、一向俊聖、国阿らの時衆聖らが参詣したことでも知られる。一遍は入寂直前に書写山の僧に、聖教を預けた。
天正6年(1578年)、織田信長より中国地方征伐を命じられた豊臣秀吉が、播磨制圧のため乱入し、摩尼殿の本尊である如意輪観音像などを近江の長浜に持ち帰った[1][35]。その後、天正8年(1580年)に、長浜より如意輪観音像だけが戻された[1]。この摩尼殿の本尊は、性空の如意輪観音像と同木同作の如意輪観音であり、性空の生木如意輪観音像は、延徳4年(1492年)の[36]真言堂からの火災により、蓮鏡院、如意輪堂とともに焼失している。
開山堂
圓教寺開山の性空上人をまつる堂。
書寫山一千年の歴史のシンボルとして灯明が燃え続け朝夕欠かさず勤行がおこなわれている圓教寺奥之院の中核。
現在の建物は、江戸初期の開山堂建築の代表作。
軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説は有名。
(国指定重要文化財)
#左甚五郎
資料集
171_182_書写山圓教寺