下原八幡神社(水無八幡宮)
下原八幡神社(水無八幡宮)
鎮座地 金山町中津原字佃940番地 (旧社格 郷社)
1.祭神 応神(おうじん)天皇 他
1.由緒 『斐太後風土記』によると、第16代仁徳天皇の65年、強賊両面宿儺の討伐に、皇弟武振(たけふる)熊(くまの)命が飛騨入国の第1歩において、先帝応神天皇の尊霊を奉祀し、武運長久を祈願された斎場として鎮祭されたのが、その創始であると伝えられる。
皇弟進軍の各所において同様祭祀された、すなわち中津原をはじめ、乗政・森・久津・位山・一宮・石浦・高山等の八幡宮を後世称して、「飛騨八幡八社」と言う。
戸田釆女正による元禄検地に、6反4畝15歩の境内除地がある。また、古くより同地万福寺を別当とし、社人細江喜助以来明治維新(1868)に及び、下原・中原・上原3ヶ村の郷社に列した。
同40年神饌幣帛料の供進指定、並びに神社会計を指定され、同42年区内及び境内3社の合併合祀があった。
官制廃止後、単立社となった。
第2次大戦後、天然記念物の「蓮根杉」等の大樹を伐採されたのは、神社の風致上、誠に残念なことである。
1.祭祀 例祭4月1日。祈年祭2月17日。新嘗祭11月23日。
1.建造物 本殿(流造 1坪)・拝殿(平棟造 15坪)・鳥居(明神形 高2間 幅2間)・社務所(平棟造 15坪)。
1.氏子 旧下原村全戸を氏子とする600戸。
<引用文献>土田吉左衛門編集『飛騨の神社』1,308頁 飛騨神職会発行 昭和63年
下原八幡神社
祭 神 応 神 天 皇
創 立 仁徳天皇の御代 1,600年前
旧社格 郷社 下原郷(下原・中原・上原)17ヵ村
境内坪数 1,935坪
上古は、中津原水無八幡宮と称して飛騨八社の第一番であった。
由 緒
斐太後風土記によると仁徳天皇の御代、飛騨の国は「両(りょう)面(めん)宿(すく)儺(な)」という首長が治めていた。宿儺は、1つの体に両面があり手足は4本ずつあって、走ることは馬の如く左右に剣を佩し強弓を引く豪傑であった。時恰も大和朝廷の全国統一期にあたり、宿儺は天皇の命に反したので、皇弟の「難波根子武振熊命」が勅命を奉じて飛騨へ討入ることとなった。
武振熊は、武内宿称と共に神功皇后にお供して、三韓に渡り凱旋の後も香坂王忍熊王の軍に勲功のあった名将軍であったので、美濃国高沢山の要塞で両面宿儺の軍を打ち破り、道々心を配りつつ中津原に来て軍勢を宿め、飛騨入国の最初のこの地に仮の斎場を設けて先帝、応神天皇の御霊を奉祀して戦勝祈願された遺跡が下原八幡神社の起源である。武振熊は、どこからともなく舞い降りた1羽の白鳩の道案内によって無事討伐の任を果たした。
本殿の左側の注連を廻らした大岩を、昔から猫の形に似てもいないのに「ねこ岩」といっている。武振熊がこの大岩の上に八幡様を勧請されたので、難波根子武振熊命の「ねこ」から来たものといわれている。「根子岩」の横に国指定天然記念物で直径4mの「神代杉」と、傘のような大杉で乞食が年中いたという「乞食杉」や、穴がいくつもあってくぐることが出来た「蓮根杉」があったが、昭和24年、濃斐中学建設資金として伐倒された。
嘉永6年(1853)の神木改によれば、目通り1丈以上9本、6尺以上8本の記録がある。昭和21年神袛会となる。神社総代7名 内主管者1名、氏子数600戸。
文化財 12点 縣伝・神鏡・神輿・絵馬・山車・高寺権現の神鏡 花笠踊・御神刀・槍・長刀・狛犬・社叢
境内社 神明神社 祭神 天照皇大神
創立 安政4年(1858)お田植祭として、祭日が5月5日であったが、平成元年から4月祭と合併。
春日神社 祭神 武(たけ)甕(みか)槌(づきの)神(かみ) 経(ふ)津(つ)主(ぬしの)神(かみ) 天(あめの)児(こ)屋(や)根(ねの)神(かみ)
創立 元亀3年(1570)
歴代神職 中世飛騨守護職、京極氏の一族である京極四郎左衛門尉源高氏の後裔が当村に住み、その5世の孫、細江喜助が元和年間(1615)より当八幡神社に奉仕した。
代々「若宮大夫」と名乗り、その13世細江志津馬に至り断絶、以後明治初年より御番所役人市村用次郎、名主加藤三郎右衛門、医師加藤習古、門和佐今井頼吉、今井彦松、三渕足立高太郎、門和佐今井富郎、中津原細田徳全、細田秀州、森真男。
露払 中津原 森氏宗家の世襲となっている。現在 森(もり)里(さと)言(ゆき)
歴代主管者 森金兵衛・戸谷卓二・長瀬忠栄・千田市蔵・島崎松郎・千田茂・沢田多郎・亀山勝
※説明板より
重要文化財 下原八幡神社の山(だ)車(し) 金山町指定 昭和61年11月26日
この山車(だし)は、鳩(きゅう)峰(ほう)台(だい)と呼ばれ、天保7年(1836)高山市下二之町上組から譲り受けたものです。創建は延享4年(1747)で、高山祭初期の、今から254年前のことです。
かつては大(おお)津(つ)絵(え)のカラクリ人形を載せていたので、「大津絵」と呼ばれていました。高砂人形を載せたこともあり、のち、飛騨郡代芝与市衛門正盛の命により、八幡宮の御神号の守護役となりました。
この山車は、江戸型(天領型)とも言われ、現在高山には、この山車のように破風造りの屋根を持った屋台は25台中に1台しかなく、角柱の屋根も4台しか残っていません。また車が外側車で木製の「寸(ずん)胴(どう)式(しき)」は皆無であり、「くり型」と「戻し車」の装置のない型は1台も残っていません。
この鳩峰台は、改造されていない高山屋台の初期の祖型であり、歴史的にも貴重なものです。
※説明板より