アーカイブ年: 2018
越前馬場 平泉寺白山神社
[住所]福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上
[電話]0779-88-1591平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)は、福井県勝山市平泉寺町にある神社。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
白山国立公園特別指定区域内にある。正式には白山神社。あるいは白山平泉寺とも称す。しかし、現在は寺院ではない。
白山神社ではあるが、主神を菊理媛神とはしていない。本殿に伊奘冊尊、本殿右の別山社に天忍穂耳尊、左の越南知社(おおなむちしゃ)に大己貴尊(大国主命)を祀る。例祭は4月20日。
奈良時代初期の養老元年(717年)、泰澄大師によって創建された。そもそも早くから白山登拝を志していた大師は、この年白山へ登る途中で林泉を発見。
神託によってこの地が神明遊止の地であることを教えられ、ここに奉斎した。その林泉は今も御手洗池と呼ばれている。なお、この由緒は篠座神社とも共通する。
中世以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られた。白山信仰の越前側の禅定道の拠点、いわゆる越前馬場として、最盛期には48社36堂6000坊、僧兵8000人の巨大な宗教都市を形成した。
『平家物語』には、平家と木曾義仲(源義仲)方との燧ケ城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。
斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。
戦国時代には朝倉氏と肩を並べる越前国の一大勢力であったが、朝倉氏滅亡後の天正2年(1574年)、一向一揆が勃発、逃れてきた朝倉景鏡をかくまったために一向一揆に焼き討ちされ衰亡。
その後、豊臣秀吉などの崇敬を受けて顕海が復興し、江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受ける。
寛政8年(1688年)、いさかいが絶えなかった白山三馬場の問題が江戸幕府により裁定された際に白山山頂が平泉寺領と定められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得。
明治時代に神仏分離令により寺号を捨て現在に至る。
境内の苔は西芳寺と共に有名。旧玄成院(別当・平泉宮司邸)庭園は、昭和5年(1930年)に国の名勝に指定された。
境内は「白山平泉寺旧境内」として国の史跡に指定されている。平成になっても発掘調査が進められており、往時の壮大な遺構が発見されている。
なお、当社は進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。
また、「美しい日本の歴史的風土100選」(平成19年)、「かおり風景100選」(平成13年)に選定され、参道が「日本の道百選」(昭和61年)に、平泉寺から白山までの白山禅定道が「歴史の道百選」(平成8年)に選定されている。
資料集
010_012_越前馬場 平泉寺白山神社
白鳥神社 拝殿踊り
上市白鳥町は、岐阜県を流れる長良川の源流域に位置し、美濃馬場、白山中宮長滝寺(現白山神社・長滝寺)を中心に、白山信仰とともに栄えてきた町です。そして、白鳥の拝殿踊りは江戸時代の中頃から現在の白鳥町各地域において、お盆の時期に神社の境内で踊られていたもので、今は、白鳥神社・野添貴船神社・前谷白山神社などに残るのみとなっています。夕刻、神社の拝殿には大きな切子灯籠が吊るされ、その明かりの下で踊る素朴な踊りで白山の自然の恵みと信仰文化に培われた盆踊りです。
白鳥の拝殿踊りは美濃馬場白山信仰圏に成立した盆踊りである。白鳥及び郡上地域の踊りについては、長滝寺「荘厳講執事帳」(白鳥町史史料編)天和2年(1682)の項に、踊りの記録があり、また享保8年(1723)の経聞坊「留記」(白鳥町史史料編)に「盆中お宮にて踊申事、奉行より停止の書状到来」とあり、江戸時代中期以来、現白鳥町地域をはじめとする寺社境内において、盆踊りが行われていたことが判明する。江戸時代の盆踊りの内容については、「場所踊り」を中心に、いくつかの踊り曲が越前及び荘川方面から伝わり、踊られたと考えられる。白鳥拝殿踊り保存会は、「白鳥神社・貴船神社等でそれ以前まで盆踊りとして伝承されてきた古い踊り種目を伝承していく」という基本線を守ってきた。同保存会は白鳥神社拝殿において8月17日夜、貴船神社拝殿において8月20日夜、楽器や太鼓を伴わない本来の拝殿踊りを行っている。保存会が保存伝承している踊りは以下の8種目である。
(1)源助さん(2)シッチョイ(3)ヤッサカ(八ッ坂)(4)猫の子(5)ドッコイサ(神代)(6)ヨイサッサ(老坂)(7)エッサッサ(世栄)(8)場所踊り
資料集
009_011_白鳥神社 拝殿踊り
東大寺
東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。
金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら[1])ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である[2]。現別当(住職・222世)は狹川普文。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
資料集
042_047_東大寺
木谷白山神社 どぶろく祭り
白川郷では毎年、9月の終わりから10月にかけて、五穀豊穰・家内安全・里の平和を山の神様に祈願する「どぶろく祭」が盛大に行われます。
白川村の各地区の神社で、御神幸、獅子舞、歴史と民話にまつわる民謡や舞踊などの神事が繰り広げられる、歴史と伝統ある白川郷ならではの祭り。その名のとおり、祭礼に神酒として「どぶろく」が用いられ、人々にも振る舞われるのが最大の特徴です。
どぶろくの振舞
「どぶろく」は、古くから受け継がれてきた独特の技法をもって、雪に埋もれた1月下旬に神社酒蔵で造りこまれます。午後3時頃、神社に奉納する「どぶろくの儀」を終え、大きな酒樽から「きったて」と呼ばれるお酌用の容器に「どぶろく」が移されると、割烹着のおかみさんたちがいっせいに来客一人ひとりに「どぶろく」を盃についで回り、会場は芳醇な香りに包まれます。「どぶろく」は、和銅年間(約1300年前)頃から、すでに祭礼用として用いられていたと伝えられています。
白川村の民謡
奉芸殿では、子供大事(子大事)が転訛したものと言われている「こだいじん」をはじめ、「白川おけさ」「しょっしょ節」「白川わじま」など長い歴史とともに育まれてきた民謡が披露され、「どぶろく祭」は最高潮に達します。唄は各集落共通ですが、踊りがそれぞれ異なるのも見どころです。
生きびな祭り
春のおとずれの遅い飛騨はひと月おくれの”ひなまつり”を迎えます。
このお祭りは、昭和27年、もともと蚕糸業が盛んだったこの地方で、春秋の2回蚕糸業祭がおこなわれて蚕糸業農家の年中行事となっていた養蚕豊鐃と地域農業の振興を祈念する春の養蚕業祭に、寒冷地のためにひと月遅れて行われるひな祭りをとり入れ、絹に象徴される女性の気品と幸福を祈念するために始まりました。
また、戦後の新憲法により、神社が国の管理下を離れ、宗教法人の1つとして自立した経営を迫られたことや神社信仰を盛り上げようとしたのがきっかけともいわれ、いわば神社の振興と蚕糸業の振興のために始まったとも言われています。
近年では蚕糸業が廃れてしまったため、祭を主催していた『蚕糸業奉賛会』も『蚕糸農業奉賛会』と名前を変え、農業協同組合があとおしする農業全般の豊鐃と女性の幸せを祈願する華やかなお祭りとして毎年多くの人々を魅了しています。
祭典と祭行列
祭りでは、雅楽が奏でられる中、赤鬼と青鬼を露払いに、雅楽を演奏する伶人、稚児、菱餅や酒杯を手にした巫女、そして選ばれた女性9人が左大臣、右大臣、内裏、后、五人官女となって続き、その後に奉賛会の人々総勢100名余りが、平安の昔を偲ばせるきらびやかな祭行列となり、表参道から境内まで約900mを40分ほどかけて練り歩きます。祭典の最後には、特設舞台において、生きびな様の紹介や1年の豊作を祈願して、生きびな様による餅投げが行われ、菱餅や繭だんごが振る舞われます。
昔も今も農業(稲作)にとって水は命。この命の水の源である位山を神座(みくら)とする水無神社(みなしじんじゃ)のお祭りには、神通川の流域に拡がる富山方面などからも多くの参拝者が訪れ、例年大変な賑わいをみせています。(編集中)
資料集
043_050_水無神社 生きびな祭り
飛騨民俗村・飛騨の里
飛騨の里は、合掌造りをはじめとした飛騨の古い貴重な民家が移築復元されなつかしい農山村の暮らしや昔から飛騨に伝わる季節の行事を再現している博物館です。白川郷、五箇山の合掌造りを手軽に見ることができます。
飛騨の里では、体験コーナーも充実しています。旅の思い出に実演・体験はいかがですか?特にファミリーやカップルの方にはオススメです。わら細工、さしこ細工、機織り、ひのき細工など日常経験できないことが、体験できます。通りを少し下ったところにある想い出体験館もオススメ!さるぼぼ作り、せんべい焼き、小糸焼き、絵付けなどの手作り体験体験ができます。
アクセスは、高山駅からは車で10分程度です。駐車場は、飛騨の里通り下の民俗村前駐車場(無料)、飛騨の里前の駐車場(有料)があります。また、高山駅からバスもでています。さるぼぼバス「四季の丘コース」が便利です。(編集中)
資料集
044_051_飛騨の里
洲原神社(すはらじんじゃ)
洲原神社は、今より約1300年前、元正天皇の御代養老元年に(西暦717年)、越前国足羽郡麻生津村、神職三神安角の二男泰澄が加賀国白山の絶頂で厳かな修行行うていられた時に霊夢を感じ、其の状を具(つぶ)さに、天皇へ奏上されたので、元正天皇より泰澄に斎鎮の勅命下り、又当社御造営使として、伴安麿に御剣一口と封戸若干、従者二人に甲胃を添えて下し賜う。養老5年5月、実に宏大荘厳な御社殿が御造営の工を竣え、勅を奉じて泰澄が御祭神をお祀(まつ)り申し上げたのであります。
当社古来「正一位洲原白山」とも称(たたえ)奉り、洵に御由緒深い大社であります。
奈良時代に越前の名僧泰澄(たいちょう)大師によって創建されたと伝えられる洲原神社の社殿は、この近郷には稀な壮麗なものである。この神社は古来農桑の神として尊崇され、江戸時代から洲原講の組織があって各地からの参詣が多かった。
中央本殿
三間三面入母屋造り(いりもやづくり)桧皮葺、前面に向拝(こうはい)がつく。三手先斗組(みてさきときょう)であるが支輪(しりん)はなく、斗組(ときょう)の間に蟇股(かえるまた)を入れ、唐様を主として和様を混ぜ、市内で最も規模の大きい立派な本殿である。
社伝によれば康正(こうしょう)年間に建立し、天正13年(1585)に鉈尾山(なたおやま)城主佐藤歳次郎方政によって修理されたということであるが、さらに江戸時代にも大修理を加えたものと推定される。
東西本殿
どちらも三間三面の流れ造り(ながれづくり)、身舎(もや)は円柱、向拝は角柱を用い、斗組は出組(でぐみ)で勾欄をめぐらしている。江戸時代の建築と考えられるが、本殿と並んで三神殿並立の姿はまことに立派である。(編集中)
資料集
008_010_洲原神社
白山中居神社 (はくさんちゅうきょじんじゃ)
伊野原の郷には、9000年前より人々が住み着き(島口遺跡確認)、本社は縄文時代より、磐境に国常立尊の降神を仰ぎ、祭祀が斎行されたのが始まりで、現在は、七月第三日曜日の夏祭りに、石徹白創業祭が、磐境神事として、執行されています。ご本殿の創設は、景行天皇12年(83)に、白山の真南は、宮川の上流、長龍滝と短龍滝の間、朝日直射し、夕日輝く処に、伊弉諾尊を祀り給えのご神託のあったのが、正月中の日でありました。養老元年(717)越の大徳泰澄大師が白山を開闢の時、当社に3年間滞在し、別山を上社とし、中居神社を下社とした白山参道並びに、中居神社を整備なされました。鵜葺草葺不合尊の二の峰社・神鳩社・今清水社・美女下社等も含めて、神仏混淆となり、鳥居も両部鳥居になりました。そして、現在のご本殿は、安政2年から3年にかけて、福井県は永平寺町第27代大工棟梁玄之源左衛門が建築を担当し、彫刻は同地の後藤簾之助と諏訪の立川和四郎2代冨昌と昌敬の合作であります。本殿の「栗穂に鶉」の彫刻は「七十五歳立川富昌」の花押あり、海老虹梁の龍・脇障子の子育ての獅子は昌敬、大虹梁の菊は冨昌等、優れた傑作として、評価されています。境内は1400年有余の杉大樹が社叢を取り囲み、県の天然記念物指定となっています。今清水社境内には、樹齢1800年の日本一の大杉が、白山信仰の歴史を今に伝えています。四十代天武天皇・四五代聖武天皇寄進の刀剣、六十代醍醐天皇の時代藤原能信寄進白山大鏡五十余品奉納。九十一代後宇多天皇刀剣長光奉納。木曾義仲戦勝祈願立願状・伊藤加賀守秀盛主君豊臣秀吉と家族の立願状。無形文化財として、「五段神楽」、は宮廷を祝う祭りとして、奉納されたのが始まりの無形文化財です。神輿は、白黒の幕で覆われ、12人の担ぎ手により、天狗面を先頭に、御旅所まで賑々しく神楽に囃されながら、出御され、五段神楽の舞を奉納して、拝殿まで遷御の祭礼が、五月第三日曜日の春の例大祭に御神前に奉納されています。秋の祭りは、十月第三日曜日に「新嘗祭」が、「ゲド投げ祭り」として、執り行われています。
特殊神事 磐境神事・ゲド投げ祭り
文化財等 五段神楽
五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。吉田神道は、宝暦騒動の頃に、朝廷を中心とした、天下太平国家安全を祝う祭りの性格を、一地方の単なる春祭りの神楽に移行され、五行舞を五段神楽に改められた。五段神楽は、?舞いの楽器は、5種類であること。?舞いの方向と動きが、5行相生の5行であり、5行の輪廻と環境の舞いであること。?石徹白の五行又は五段のみの特徴として、鳶の舞いがあり、神武天皇の建国時の瑞兆の鳥の鵄(とび)の舞に始まるこの舞いは、建国と天下太平を祈る舞いに最もふさわしいこと。?御旅所への移動に先導して吹奏する笛の曲を五行と呼んでいること。?往事は、最後が舞姫3人が全員で5行相生の舞で終わっていたが、現在は2人が弊と鈴で、五行相生の舞で終わっていること。?巫女の装束は、金色の天冠・白鉢巻・後頭部五色(青・赤・黄・白・黒)のたけなが布・紅白の下着・緋の袴・赤地に金襴の胴衣・白足袋・紙緒草履・その他、たけながの布の色も五行であること。以上6点で五行舞の五行が継承されており、石徹白の五段神楽は、歴史的時代背景は、古代天武期を期限とした五行舞で、その後幕府や大名支配の時代の吉田神道の影響で、五段神楽として、里神楽的色彩を強めつつ、尚、古典の五行舞の要素を強く堅持している無形文化財は、石徹白の春の例祭に、御神前に、一年に1度だけ、奉納されています。
刀剣 天武天皇奉納剣・聖生天皇奉納太刀 能面 父尉(ちちのじょう)「日吉与十郎」墨書銘・男の面 室町時代作品、地塗り胡粉、唇は朱、葉は黒。若い女 「白山参柴山喜蔵天正八二月」寄進の銘、天正八年(1580)制作。女面 室町時代作品、胡粉地の白肉色、眼と歯は黒。天狗面 室町時代作品、「与十郎(花押)」墨書、朱
動画資料