アーカイブ年: 2019
郡上八幡博覧館
郡上八幡博覧館(ぐじょうはちまんはくらんかん)は、岐阜県郡上市八幡町にある博物館。
郡上八幡の様々な資料、伝統工芸などを展示紹介する施設であり、「博覧館」は「博物館」と「博覧会」を合わせた合成語である。
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041_044_郡上八幡博覧館
岸劔神社
祭神は素戔嗚尊・伊奘册尊・伊奘諾尊・菊理姫尊などである。気良村(奥明方村)字鳥居宮で、ある年連日の旱魃に神主が再三雨乞いをしたが霊験はなく、ついにこの村の氏神の御神体の宝劔を取り出して2間手村(奥明方村)の境の川岸で劔を洗ったところ、急に雲がわき起こり雨が激しく降りだした。その劔を岩上に置きなお祈祷を続けていると川水が急に増し劔を押し流してしまった。(以後この岩を神流岩という)数日後山田荘八幡城下の吉田川の岸(現在の宮ケ瀬橋の下)の岩間に劔のかかっているのを清水彦右衛門がみつけ自分の家に持ち帰った(現在この岩をかかり岩という)。郡上城主遠藤慶隆はそのことを聞き、慶長19年(1614)城下本町の宮ケ瀬橋の近くに社殿を建立し、この劔を祭り岸劔神社と名付け清水彦右衛門を神職とした。明治19年に現在の社殿の南側の低地に移転し、同40年2月無格社白山神社と合併し、3月27日神饌幣帛供進神社に、同41年12月26日には神社会計規定適用神社に指定され、昭和17年に現在の境内に移った。境内は97坪あり、神明造りの本殿(間口3間・奥行2間)・入母屋造りの幣殿(間口3間・奥行2間)・同拝殿(間口5間・奥行5間)・狛犬・燈篭などがあり、また文政4年に建立した大燈篭(高さ約2間)がある。
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040_043_岸劔神社
安養寺
安養寺(あんにょうじ)は、岐阜県郡上市八幡町柳町にある浄土真宗大谷派の寺院。山号は遠郷山。郡上御坊とも呼ばれ、郡上一帯における真宗大谷派の中心的な寺院である。間口、奥行き共に16間(約29メートル)の本堂は岐阜県下で最大といわれる。
佐々木高綱の三男・高重が出家し西信を名乗って近江国蒲生郡に「安要寺」として創建する。その後安要寺6世仲淳の時に美濃国安八郡に移転し、蓮如より「安養寺」と名を改められる。その後越前国穴馬(現・福井県大野市)、美濃国大島村野里(現・郡上市白鳥町)へ移った。戦国時代には朝倉氏の郡上侵攻に参戦してこれを撃退したほか、10世乗了の時には石山合戦に参加しており、その際に足利氏・武田氏・朝倉氏や本願寺と交わした文書が現代に伝わり、岐阜県指定有形文化財として指定されている。また、この頃に一時的に白川(現・岐阜県白川村)に寺を移しているが、当時の郡上領主である遠藤慶隆が安養寺の要請で一時的に武田方に寝返ったものの、後に織田方に帰参した事情と関連しているとする見方もある[1]。
1588年(天正16年)、稲葉貞通が郡上領主になったとき八幡中坪村園野へ移る。1661年(寛文6年)に院家、1838年(天保8年)に御坊分となった。
明治時代、本堂が焼失したのを機として1881年(明治14年)に八幡城三の丸跡地(現住所)に移転、1890年(明治23年)に本堂を再建した。その後、1919年(大正8年)の郡上大火で焼亡するも、1936年(昭和11年)に再建され現在に至っている。
岐阜県指定文化財として絹本著色阿弥陀如来像、絹本著色親鸞聖人御影、絹本著色十五尊像、紙本墨書蓮如上人名号、石山合戦関係文書及び安養寺文書、紙本墨書本願相応集、紙本墨書後世物語及び香炉台を有し、岐阜県指定重要有形民俗文化財として金森内室化粧道具を所蔵している。その他郡上市指定重要文化財を複数点有し、安養寺宝物殿で公開している。
かつては郡上八幡大寄席という落語会が開かれていたほか、現在では郡上八幡上方落語の会や郡上踊りむかし踊りの夕べなど各種催し物が開かれている。(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%A4%8A%E5%AF%BA_(%E9%83%A1%E4%B8%8A%E5%B8%82)
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039_042_安養寺
勝山城博物館
勝山城博物館は、勝山市の名誉市民第一号に選ばれた多田清さん(明治38年1905~平成3年1991)が平成元年から3年の歳月をかけて建設し、平成4年7月に開館いたしました。同時に財団法人多田清文化教育記念財団が設立され運営にあたってまいりました。財団は平成25年度よりさらに公益性の高い公益財団法人として認められ、現在にいたっています。
江戸時代、小笠原氏が治めた勝山藩には天守はありませんでした。早い段階で建設計画はあり、幕府の認可も降りていましたが、財政が苦しく実現しないまま明治を迎えました。昭和も後半に入ると勝山藩や勝山城の遺構は次々と失われていきました。多田さんは勝山にかつて一つの藩が確かに存在したということを、博物館建設という形で実現し、現在の勝山市の新たな顔の一つとしてこの博物館を築きました。
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038_041_勝山城博物館
首里城
首里城は沖縄の歴史・文化を象徴する城であり、首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものである。
首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられている。いくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在する。これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴であった。他のグスクは首里城との競争に敗れ滅んでしまったが、首里城はグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げたのである。
首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としている。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つである。中国や日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けている。正殿や南殿、北殿はその代表的な例である。
首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあった。また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していた。首里城は文化芸術の中心でもあったのである。
1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。1930年代には大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼した。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後に復元事業が推進され現在に及んでいる。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしている。2000年12月には、首里城跡が世界遺産に登録された。
(引用:http://oki-park.jp/shurijo/about/)
焼失後
古川祭
古川祭(ふるかわまつり)は毎年4月19日、20日に岐阜県飛騨市古川町(旧 吉城郡古川町)で開催される気多若宮神社の例祭。「神輿行列」と祭りの開始を告げるために打ち鳴らしたといわれる「起し太鼓」と、絢爛豪華な9台の「屋台巡行」からなる。国の重要無形民俗文化財に指定ならびに、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。
その起源は定かではないが、文献に最初に登場するのは屋台が1776年(安永5年)、起し太鼓が1831年(天保2年)である。
古川祭は古くは旧暦の8月6日(太陽暦の9月上、中旬頃)に開催されていたが、1886年8月に疫病が流行し例祭ができなくなったことから11月に変更された。また1887年(明治20年)より春祭へと変更し4月16日、17日としたが、1889年(明治22年)より現在の日程となった。
1980年(昭和55年)1月28日に「古川祭の起し太鼓・屋台行事」として国の重要無形民俗文化財に指定された[1]。また、日本三大裸祭りの一つに数えられる。
2016年(平成28年)10月には、18府県33件の「山・鉾・屋台行事」の中の1件として、ユネスコの無形文化遺産に登録勧告され、同年12月1日に登録された。
獅子舞
神幸行列の獅子(宮本)と屋台の獅子(神楽)の2種類がおり、神幸行列及び屋台巡行それぞれの露払いとして、各家々で獅子舞を舞い門付けしてゆく。
起し太鼓と付け太鼓
文献の上では、1831年(天保2年)に初めて登場する。通常例祭が行われる際には祭の開始を告げるために氏子地内を太鼓を鳴らして回る風習は各地に見られるが(朝太鼓・目覚まし太鼓・一番太鼓)、この太鼓行事そのものが独立した行事となったことが特徴的である。4月20日の本楽祭の開始を告げるために、19日の深夜から太鼓を鳴らして氏子地内を巡ったことが始まりである。太鼓を乗せた櫓を「起し太鼓主事」と呼ばれる当番組が担ぐ。その太鼓の上の両側に男がまたがり、その両側より交互に太鼓を鳴らす。この太鼓をめがけて各台組の付け太鼓(現在は12本存在する)と呼ばれる小さな太鼓が突入する。この付け太鼓は幕末頃より加わったものといわれ、元来この地域の人々は「古川ヤンチャ」といわれる激しい気性が有名であり、これによって起し太鼓も非常に荒々しいものとなった。そのため幾度となく「付け太鼓禁止」が出されたが、1901年(明治34年)に解禁になり現在に至る。
屋台
古川の屋台は1782年(天明2年)当地に来遊した近江の俳人、林篁の記した「飛騨美屋計」の一節で、9台の「屋台」が曳行した様子を知ることができ、当時すでに屋台文化が花開いていたものと推測されるが、各屋台組に残る記録・伝承からはその検証は難しい。屋台の形式や記録より近隣の高山祭の屋台の影響を受けたことは間違いなく、高山の中古屋台を譲り受けた記録もみられる。江戸時代には中段から舞台を出して、子供の歌舞伎・踊り、又はカラクリ人形を操るなど、全屋台に出し物があった。現在は白虎台の子供歌舞伎、青龍台・麒麟台のからくり人形が残る。現存する屋台9台は、「古川祭り屋台」として1970年(昭和45年)8月11日、岐阜県重要有形民俗文化財に指定されている[4]。
神楽台(向町組)
1840年(天保11年)二之町中組より屋台を譲り受けたのが始まりである。これを黄鶴台と名づけ、その後朱雀台と改名したが、間もなく廃台とした。1883年(明治6年)高山一本杉白山神社より神楽台を譲受け神楽台組を創設、神楽囃子、獅子舞と共に奉仕するようになる。1889年(明治22年)屋台の破損甚だしく、高山の工匠、村山英縄、古川の住人、西野彦次郎、同彫師蜂屋理八等の手により改修する。1925年(大正14年)より解体修理し現在に至る。この屋台は大きな御所車2輪と後部に内輪との3輪である。上段中央に枠をたて金色大太鼓を吊る。枠上に二羽の大鳳凰後面中段より上段にかけて神旗二本を立てる。烏帽子、直垂姿の5人衆が神楽囃子を奏し、獅子舞を行うのはこの屋台だけである。4月19日の午前に気多若宮神社より御分霊を賜る。また屋台主事を担当せず、屋台曳揃え時には常に先頭を行く。
三番叟(壱之町上組)
創建年代不詳(1754年(宝暦3年)8月の説あり)であるが、1894年(明治27年)以後になると老朽化から曳行中止し、1904年(明治37年)8月の古川大火のとき、大部分を消失した。現存するのは、猩々緋大幕と女三番叟踊りのからくり人形だけである。人形の製作年代・作者とも不明であるが、13本の綱を5人で操作するこの人形踊りの複雑巧妙なことは当町一番である。現在は屋台の所有がないため、例祭においては台名旗(屋台の名称を記した旗)のみ曳行に参加する。また当台組は神楽台に続き2番目に曳揃えられることになっており屋台主事は行わない。
鳳凰台(壱之町中組)
初代の屋台は文化年間(1804年~1817年)にあったと伝えられているが、1891年(明治24年)に廃台し、現在のものは1917年(大正6年)に竣工したものである。この屋台はやや小ぶりであるが、金具や飾りがきらびやかであり、その名の通り屋根には大鳳凰を飾る。見送りは長谷川玉純の「鳳凰の絵」上部を二匹の自彫飛竜がくわえている。
麒麟台(壱之町下組)
一番初めの屋台は文久年間(1861年~1863年)につくられたが、1865年(慶応元年)2月25日の大火により焼失した。1881年(明治14年)に再びつくられたが、1924年(大正13年)の祭りを最後に廃棄した。現在の屋台は3代目にあたるが、設計製作は名工上谷彦九郎が担当し、1933年(昭和8年)に完成したものである。1978年(昭和53年)より古い屋台にあったからくり人形を復活させた。見送りは前田青邨の「風神雷神の図」、替見送りは玉舎春輝の「日本武尊東征図」である。
三光台(弐之町上組)
創建年代は不明であるが、古くは竜門台と称し、のち三光台と改めた。三光とは日・月・星の意味である。現在の屋台の設計は、当町の加藤理八が設計し飛騨の名工石田春皐によって、1862年(文久2年)に完成したものである。その後、度々の改修により精巧華麗なものとなった。 見送りは幸野楳嶺の「素盞男命八股大蛇退治の図」がある。
金亀台(弐之町中組)
創建は安永年間(1772年~1780年)<貞享年間(1684年~1687年)の説あり>で、1840年(天保11年)に向町組に譲る。現在のものは1841年(天保12年)6月に竣工したもので、1902年(明治35年)と1926年(大正15年)に修理した。見送りは「双龍図」といい古代つづれ織りで雲に双竜の織出し、下方は波に虎で本金を織り込んでいる。天保年間(1830年~1843年)に購入したもので唐渡品という。四方ベリはテレフチンという生地。裏は印度更紗でできている。替見送りは塩瀬生地で鈴木松年の「亀上浦島の図」である。
龍笛台(弐之町下組)
初代の屋台は安政年間(1854年~1859年)に作られたものである。現在の屋台は1884年(明治17年)に着手したもので、1886年(明治19年)に竣工したもので古川祭の屋台で一番大きな屋台である。上段天井には竜が描かれ、見送りの「雲竜の図」とともに、京都の垣内雲麟の作品である。体をくねらせ、両側から見送りを抱えるようにした昇り竜、降り竜の彫刻は名作である。
清曜台(三之町上組)
1818年(文政元年)の創建で三之町全体の所有で、扇子台と称していたが抽選により下組と分離して三之町上組の所有となり、台名も清曜台と改めた。1893年(明治26年)祭礼当日曳行中に転倒し大破した。現在の屋台は1933年(昭和8年)から8年間をかけて、大工棟梁、上谷彦九郎によって新築をし、1941年(昭和16年)4月に竣工した。清曜の名にふさわしく清楚な姿を特徴としている。見送りは元公爵近衛文麿の「八紘一宇」である。替見送りは今尾景祥の「海浜老松の図」である。
白虎台(三之町下組)
以前は三之町全体で扇子台を所有していたが、三之町上組との抽選で扇子台を失ったことから1842年(天保13年)5月に完成した。これは古い形式を維持したもので下段が高く、彫刻や金具や装身具が少ないものであった。屋台の老朽化に伴い1943年(昭和18年)に曳行を中止した。1981年(昭和56年)~1984年(昭和59年)に大改修を行い現在に至る。当時の古い形式を現在にとどめる。また見送りをもたず、創建当時に演じられていたという子供歌舞伎を復活させ「橋弁慶」を演じる。下段の猩々緋幕は南蛮渡来のものであり、外に類を見ない貴重なものである。また屋根に千木(ちぎ)ではなく御幣(ごへい)をつけているもの非常に特徴的な屋台である。上段に源義経の武者人形をのせる。台紋は源義経を尊崇していたことから源氏の家紋である笹竜胆(ささりんどう)である。
青龍台(殿町組)
初代の屋台は創設年代は不明であるが、1817年(文化14年)以前に存在した記録が残る。その後、高山の山王氏子の黄鶴台を天保年間(1830年~1843年)に譲りうけ、1859年(安政6年)に玄翁台と改め、1861年(文久元年)に修築して、青龍台と名づけた。1926年(昭和元年)、1940年(昭和15年)に大改築して現在に至る。金森可重が増島城を築き、そのお膝元(殿町の名もこれに由来する)であったことから、台紋は金森氏の家紋であった梅鉢紋を掲げる。この屋台の車輪は外御所車であることが特徴である。(ちなみに高山春祭りにおける青龍台も高山城のお膝元であった青龍台が同様に梅鉢紋を掲げる)。からくり人形は福禄寿と童子の人形を操っている。見送りは、堂本印象の「昇天龍」である。
(引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B7%9D%E7%A5%AD)
資料集
142_152_古川祭
亀塚古墳
<立地と環境>
本古墳は、歩み山丘陵の北端が埋没する所に在って、荒城地区と広瀬地区の出合いである。現在国府小学校校庭となっている。近隣には、十王堂古墳が東北400mに在り、北150mに芦原古墳が在る。この地は国府町の中枢である。
<調査の経緯>
明治42年の『飛州志』によると、こう峠口古墳及び広瀬古墳のことが広瀬窟として紹介されている。したがって2つの古墳は、明治42年以前に盗掘されていることが知られている。明治28年7月発行の『飛州』の広瀬亀塚発掘記事(岡村季(り)坪(へい))によると、明治28年4月、この墳墓を壊して小学校を建てたとある。明治29年の小学校の落成写真を見ると校舎の左側に一部古墳が残っているのが確認できる。
また、大正7年の運動場拡張工事で亀塚古墳は完全に破壊された。大正7年の土砂取除き作業当時の写真は次の通りである。
<遺構と遺物>
墳丘は失われて古墳の規模を詳しく調査することができないが、ただ1つ当時の古墳の大きさを知る資料として、明治21年の広瀬町村の野(の)取(とり)丈量帳(じょうりょうちょう)の測量図によれば東西で73m、南北で70mを推定することができる。
また、明治28年7月号の飛州の記事(岡村季坪、「岡村利平の事」)では墳墓の大きさを記述している。一部抜粋すると「墳墓の周囲120間(218.4m、直径69.4m)、高さは5間(9.1m)、円形でアーチ形をしている。その形が亀の甲に似ているというので亀の字を用いたのであるが、瓶塚(かめづか)と書く一説もある。」
広瀬町村大塚(亀塚)の測量図が岡村季坪の斐太温古志料「楲田之(ひだの)玉(たま)秧(お)」吉城郡三に書かれている。その測量図によると古墳の基底が凡(おおよ)そ34間(61.9m)とあり、大きな違いは、野取丈量帳では亀の頭に似た出張り部分があるが、岡村季坪の斐太温古志料『楲田之玉秧』では、この部分が無いことである。おそらく明治21年から小学校建設当時の明治28年4月の間に削られたと思われる。亀塚古墳の基底の直径は、明治21年当初は70m前後の2段築成の円墳であった。
「土砂の芝生を均す工事にかかり、頂上の芝生より4尺~5尺も掘り下げたところ、川石を畳のように敷き、其の隙間を粘土で充たした、凡そ2間(3.64m)、幅凡そ6~7尺(10.92m~12.74m)の溝のような堀にあたった。西側の方から鉄鎧、鉄兜各1、両刃刀、片刃刀各数本、東側から両刃刀、片刃刀各数本、鉄鏃凡そ50程出土した。北側は偏って、石畳はあったが粘土はなかった。其の内より鉾1本、片刃刀1本を発見した。墳は砂と真土とが層をなしていた。工事は元々個人の受負なので日限も切迫してきた。考古学に眼中にない族なので、墳墓は容赦なく破壊される恐れがある。有志者が話し合い彼等と相談して、数日間の奇妙な部分の探検の許可を得たが、十分な調査ができず誠に残念である。」との感想を述べている。
現存する出土遺物は、鉄製鎧(兜含む)、鉄刀2個、鉄鏃11本である。鉄製鎧は三角板皮とじで5世紀前葉と推定できる。
前述のように、亀塚古墳は径70mに及ぶ大円墳であった。多量の武器のほか、全国的にも希有な甲冑を副葬しており、この古墳の被葬者は5世紀前葉の飛騨最大の豪族で、両面宿儺に象徴される飛騨の豪族たちの盟主と亀塚古墳は深い関わりがあることが指摘されている。
明治27年に小学校建設に伴って検出され、今日まで遺存した遺物は次のようである。
⑴武器類
①鉄剣 10本以上
②鉄刀 4本
③鉄鏃 11本
⑵甲冑
①三角板革綴短甲 1領
②肩冑 1具
③頸甲 1具
④三角板革綴衝角付冑及び錣(しころ) 1具
⑶鉄製蓋状鉄器鉄具 1個
【文献】
柏木城谷 飛州30号「広瀬王塚考」 1895
岡村利平 飛州31号「広瀬亀塚発掘記事」 1896
広瀬町 広瀬町村野取丈量帳 1888
岡村利平 斐太温古志料「広瀬亀塚測量図」
春日井市 春日井シンポジウム 2005
国府町史刊行委員会編集・発行『国府町史 考古・指定文化財編』 平成19年発行
資料集
143_153_亀塚古墳
飛騨国分尼寺と条里
奈良時代の古代寺院 飛驒国分尼寺跡
飛驒国分寺より西に770m進んだ位置にあり、JR高山駅西方の市街地に所在する。現在は、辻ヶ森三社の境内地となっている。宮川の支流・苔川に面した沖積世の微高地上に立地する。
大正年間、押上森蔵が辻ヶ森三社社殿下に礎石を発見し、飛驒国分尼寺跡と推定されるようになった。その後、社殿の改築や保育園移転など周辺建物工事に伴い、昭和63年以降5次にわたり発掘調査を行い、金堂を確認した。発掘調査により、桁行7間×梁間4の建物と判明した。基壇の版築も確認され、全体に深さ70㎝ほどの掘り込み地業を行い、高さは残りの良い基壇東側から1.2mと推定さ
れる乱石積み基壇である。
基壇の南側は15~20㎝大の川原石と山石とで敷石を施し、また、金堂の北側では、講堂建設の際に基準とした溝遺構・雨落ち溝、整地土を確認した。
遺物は、奈良時代から平安時代にかけての須恵器・灰釉陶器と瓦が出土した。軒瓦は、飛驒国分寺跡と同笵の軒丸瓦が採集されているが、この国分尼寺で使われていたものとは断定できない。軒平瓦は確認されていない。なお、発掘調査では軒瓦は確認していない。瓦類では、丸平瓦片のほか鬼瓦片が出土しているが基壇内部に包含されていた可能性があり、尼寺創建以前の寺院のものと推定
している。前身寺院があったかもしれない。
明治21年の字絵図調査によって、国分尼寺跡の寺域は小字「辻ヶ森」と「森下」の方約1町の範囲であること、国分寺と国分尼寺を包含する小字境を結ぶラインが条里の痕跡であることが推定された。条里、国分寺、国分尼寺が揃ったことにより、奈良時代の国府政庁は高山盆地にあると確認されている。
資料集
144_154_飛騨国分尼寺と条里
縄文時代の木工技術
寺東遺跡の石斧
寺東遺跡は高山市の郊外、岩井町地内にあって、昭和62年に発掘調査がなされた。岩井町公民館の前に小区画の水田があり、その地区の水田区画整理事業に先立って発掘調査がなされたが、調査前は地形を見る限り低湿地の印象があって遺存在を確信することができなかった。
しかし、表土を除去し、検出を進めると予想外に大量の土器片と石斧、大きめの住居址が検出された。縄文時代中期の住居址6基が発見され、、埋甕施設が各住居址に設けてあった。
特に一つの住居址が数回にわたって建て替えがなされ、そのたびに住居址入口の埋甕が設備し直され、角度を90度変えていた。建て替えをするたびに竪穴を深くし、住居の規模を大きくしていった痕跡が見られた。それは、埋甕の切り合いによって確認され、完形の埋甕土器が一番新しく、当初の埋甕は底部から少しのみのものもあった。寺東遺跡の住居址群は、岩井町地区の平地の狭さにより、建替えを同じ場所にせざるを得なかったと思われる。
また、出土遺物は大量の磨製石斧、硬玉製大珠、石棒、石冠などが出土している。
*「高山市教育委員会 高山市埋蔵文化財調査報告書 第13号『寺東遺跡、西保木(対岸)遺跡発掘調査報告書』昭和63年3月 発行」より
垣内遺跡の石斧
上野町の垣内遺跡からも大量の磨製石斧が見つかっており、しかもノミの機能を果たした小型の磨製石斧も見つかっており、ほぞ穴の建物が4000年前からあったことがわかる。関西方面の同時期の遺跡には無い傾向である。
資料集
145_155_縄文時代の木工技術
東山白山神楽台、飛騨総社
東山白山神楽台、飛騨総社(例年・5月5日の祭礼)
〈県指定〉2基とも昭和34年3月10日に指定
〈所有者(所在地)〉
飛騨総社(屋台蔵・神田町2丁目100番地)
東山白山神社(屋台蔵・鉄砲町60番地2)
〈時代〉江戸時代(19世紀)
〈員数〉2基
屋台(2基)1 神楽台(飛騨総社)2 神楽台(東山白山神社)
神楽(かぐら)台(たい)(飛騨総社)
沿革 飛騨総社を再興した国学者田中大秀(おおひで)の提唱で、初め箱形の台に高欄をめぐらし胴長太鼓をのせて2人で担いで祭礼に巡行したが、嘉永3年(1850)現在の台形に改造した。その後破損休台したが、昭和41年に修理した。
起案者 田中大秀
嘉永改造 工匠 松田亮長(すけなが)
天井雲龍図 垣内右嶙(ゆうりん)
構造 切破風屋根 太鼓昇降
4輪内板車
特色 「屋台神楽」といわれる形式で、屋根を持つ神楽台である。屋根飾りに常(とこ)世(よ)の長鳴鳥(ながなきどり)を配し、上段高欄には源氏物語の中の特に音楽に関連ある巻々の絵と源氏香を配し、下段に富士、鷹、茄子の彫刻を取りつける。見送りは、岩と花に獅子を配した図柄の朝鮮綴(つづれ)である。
神楽台(東山白山神社)
沿革 東山白山神社は往時安川通に鎮座されていたが、金森氏が城下町を経営するにあたり現在地に移された。弘化4年(1847)創建。明治12年(1879)修理。明治24年(1891)に、方形だった大太鼓の枠を丸枠に替え3段形態とした。昭和31年修理。
弘化創建 工匠 谷口与(よ)鹿(ろく)
明治改修 工匠 村山民次郎
構造 屋根無 太鼓昇降 3輪外御所車
特色 以前使われていた方形の大太鼓枠は、現在は社宝になっているが、谷口与鹿作の2頭の龍の彫刻がからませてある。他の神楽台と異なり、中段に隅切窓を設け、岩、笹、虎を刺繍した緋(ひ)羅(ら)紗(しゃ)の幕を張っている。祭礼時には5人の楽人を乗せて、獅子を舞わせながら神輿行列の先頭を行く。小形であるが、均整のとれた屋台である。
参考文献 『高山の文化財』
資料集
146_156_東山白山神楽台、飛騨総社