アーカイブ年: 2020
素玄寺本堂(市指定文化財)
所在地 高山市天性寺町39番地
所有者 素玄寺
指定年月日 昭和49年12月13日
構造形式 単(たん)層(そう)入(いり)母(も)屋(や)造(づくり) 銅(どう)平(ひら)板(いた)葺(ぶき)
素玄寺は、慶長13年(1608)8月12日、京都伏見で没した高山城の初代城主金森長(なが)近(ちか)の菩提を弔うために、第2代可(あり)重(しげ)が建てた曹洞宗の寺院である。長近の法号「金竜院殿前兵部尚書法印要仲素玄大居士」にちなんで、素玄寺と称した。
当時にのこる文政2年(1819)の書上書によると、寛永年間(1624~1644)に炎上後、寛永12年(1635)高山城三ノ丸にあった評議場が移築されたとある。
化粧屋根裏の正面1間通しの板廊下は、元は入口土間であった。さらに1間半の長廊下を隔てて、中央に大間と内(ない)陣(じん)、その右側に4室、左に2室の平面を有するこの本堂は、もと大名の屋形を物語るにふさわしい書院造の遺構である。
高山藩主金森氏ゆかりの寺として知られ、金森長近が用いていた軍扇や采配等のほか、肖像画を所蔵している。寺内の観音堂にある馬頭観音は飛騨三十三観音霊場の4番札所本尊となっている。
説明板より
〈市指定〉昭和49年12月13日
〈所有者〉素玄寺
〈所在地〉天性寺町39番地
〈時代〉安土桃山時代(16世紀)
〈員数〉1棟
本堂(1棟)桁行22.8m、梁間15.1m、単層入母屋造、銅平板葺
素玄寺は、慶長13年(1608)8月12日、京都伏見で没した金森長近の菩提を弔うために第2代可重が建てた。長近の法号「金龍院殿前兵部尚書法印要仲素玄大居士」にちなんで、素玄寺と称したのである。
当寺に残る文政2年の書上書によると、寛永年間(1624~1644)に炎上後、寛永12年(1635)高山城三ノ丸にあった評議場が移築されたとある。
化粧屋根裏の1間通しの板廊下は、もと入口土間であった。1間半の長廊下を隔てて、中央に大間と内陣、その右側に4室、左に2室の平面を有するこの本堂は、もと大名の屋形を物語るにふさわしい書院造りの遺構である。
参考文献
『高山の文化財』54~55頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-3-7-1 素玄寺本堂・概要
1-3-7-2 市指定・素玄寺本堂
資料集
042_251_素玄寺本堂
高山市指定文化財(史跡)山岡鉄舟父母の墓
鉄舟の父小野朝右衛門高(たか)福(よし)は、弘化2年(1845)に江戸御蔵奉行から転じて飛騨郡代となった。嘉永5年(1852)閏2月2日、時勢を鑑み上野平で陣立を行なった。同月27日没、享年78。
鉄舟の母磯(いそ)女(め)は、夫に先立ち嘉永4年(1851)9月25日病没した。
碑面の法号は、2基とも鉄舟の筆跡である。
昭和30年8月25日指定
高山市教育委員会
説明板より
〈市指定〉昭和30年8月25日
〈所有者〉宗猷寺
〈所在地〉宗猷寺町218番地
〈時代〉江戸時代(19世紀)
〈員数〉2基ほか
父墓 棹石 高さ110.3㎝、厚さ43.6㎝、幅43.5㎝
台石三重 高さ91.8㎝
母墓 棹石 高さ100㎝、厚さ30.3㎝、幅36.6㎝
台石三重 高さ77.3㎝
東山宗猷寺本堂前に2基並んでいる。父の墓は棹石正面に「徳照院殿雄道堅達大居士」とあり、周囲に石柵をめぐらし、柵前に元締斎藤弘道・進野保寿・岩田幸通奉納の石燈籠1対がある。母の墓は棹石正面に「喬松院雪操貞顕大姉」とあり、周囲に石柵をめぐらし、柵前に小野高堅・塚原直昌・加藤師父造立の石燈籠1対、燈籠前に喬松院菩提のために設けた六道石がある。
鉄舟の父小野高福(たかよし)は通称を朝右衛門といい、幕府旗本の士で禄600石を受けた。弘化2年(1845)江戸御蔵奉行から飛騨郡代に転じた。外国船渡来の形勢にかんがみ、城山で狼煙(のろし)の実演をしたり、上野で陣立を行なったりした。嘉永5年(1852)2月28日高山で没、享年78。
鉄舟の母磯女は鹿島神宮の神官塚原石見の娘で、天保6年(1835)朝右衛門に嫁し、6男を生んだ。嘉永4年(1851)9月25日高山で没、享年41。
碑面の法号は、2基とも鉄舟の筆跡である。
参考文献
『高山の文化財』195~196頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日
関連資料
1-3-6-1 高山市指定文化財 山岡鉄舟父母の墓・概要
1-3-6-2 市指定・山岡鉄舟父母の墓
資料集
041_250_山岡鉄舟父母の墓
法華寺番神堂(市指定文化財)
所在地 高山市天性寺町62番地
所有者 法華寺
指定年月日 平成12年5月22日
構造形式 入(いり)母(も)屋(や)造(づくり)
正面に唐(から)破(は)風(ふ)を設ける
法華寺本堂南側に位置し、広い池にかかる石製の太鼓橋を渡って石段を上がると正面に番(ばん)神(じん)堂(どう)建物がある。外部軒廻りは、出(で)三(みつ)斗(と)組(ぐみ)で平(ひら)桁(げた)の上に大(だい)斗(と)をのせ枠(わく)肘(ひじ)木(き)を置き、巻(まき)斗(と)の上に秤(はかり)肘(ひじ)木(き)をのせて木(き)鼻(ばな)を置き、その上に実(さね)肘(ひじ)木(き)を置いて丸(がん)桁(ぎょう)を受ける。
向(こう)拝(はい)の柱は角柱で粽(ちまき)付(づけ)にて皿(さら)斗(と)、大(だい)斗(と)で唐(から)様(よう)連(れんで)三(みつ)斗(と)組(ぐみ)にて象(ぞう)鼻(はな)虹(こう)梁(りょう)の上に龍の彫刻を置き、手(た)鋏(ばさ)み、菖(しょう)蒲(ぶ)桁(げた)を置き、二重虹(こう)梁(りょう)の上に結(ゆい)綿(わた)付、大(だい)瓶(へい)束(づか)、大(だい)斗(と)、棟(むな)桁(げた)を置いた軒(のき)唐(から)破(は)風(ふ)で、兎の毛(け)通(どうし)で降(くだ)り懸(げ)魚(ぎょ)も菊の花をあしらってある。虹(こう)梁(りょう)の彫りは勢いがよく、力強い。脇(わき)障(しょう)子(じ)の痕跡があるが、今ははずされている。
安永6年(1777)に上棟が行なわれており、奥行1間の上段に五連の社(やしろ)が設けられ、三十番(ばん)神(じん)が祀られている。法華の三十番神とは毎日交代で人々を守る神々のことであり、31日目には五(ご)番(ばん)善(ぜん)神(じん)(鬼(き)子(し)母(ぼ)神(じん)と十(じゅう)羅(ら)刹(せつ)女(にょ)、薬(やく)王(おう)菩(ぼ)薩(さつ)、勇(ゆ)施(せ)菩(ぼ)薩(さつ)、毘(び)沙(しゃ)門(もん)天(てん)、持(じ)国(こく)天(てん))が任ずるといわれる。
説明板より
関連資料
1-3-5 法華寺番神堂
資料集
040_249_法華寺番神堂
大雄寺山門(県指定重要文化財)
所在地 高山市愛宕町67番地
所有者 大雄寺
指定年月日 昭和47年9月18日
構造形式 重(じゅう)層(そう)入(いり)母(も)屋(や)造(づくり) 銅板葺(どうばんぶき)
大雄寺は、もと吉城郡上広瀬村(国府町)にあったが、金森氏入国後現在地に移され、浄土宗の道場となった。上広瀬には「大雄寺屋敷」という地名が残っている。市内唯一の楼門造で、法華寺、宗猷寺の本堂と共に東山寺院群伽藍の代表的な建物である。
12本の丸柱は太く、カツラ材である。通常のヒノキやスギではなく、カツラやクリ、マツなど多彩な木材を使うことも、木材を知り尽くした飛騨匠の技の大きな特徴である。落し込み板で囲まれた仁王座前の南北が、透し菱形欄間になっている。透しを通して東山の景観を見せようとの配慮からである。両脇に仁王像を安置している。
二層柱間は下層より狭く、柱頭の二(ふた)手(て)先(さき)和様斗組(ますぐみ)が深い飛(ひ)檐(えん)軒を支える。下層屋根上に三(みつ)斗(と)組腰組で縁を張り出し、高欄で四面を囲む。ここからの市内の眺めはすばらしい。
寬政3年(1791)の大風で倒壊したが、17年後の文化4年(1807)、飛騨(ひだ)権守(ごんのかみ)宗安(むねやす)の流れをくむ近世の名工水(みず)間(ま)相模(さがみ)の手で再建された。
説明板より
〈市指定〉昭和47年9月18日
〈所有者〉大雄寺
〈所在地〉愛宕町67番地
〈時代〉文化4年(1807)
〈員数〉1棟
楼門(1棟)桁行7.85m、梁間4.53m、重層入母屋造、銅板葺
大雄寺は、もと吉城郡上広瀬村(国府町)にあったが、金森氏入国後現在地に移され、浄土宗の道場となった。上広瀬には「大雄寺屋敷」という地名が残っている。(『飛州志』)
市内唯一の楼門造で、法華寺・宗猷寺の本堂とともに東山伽藍の代表的な建物である。
12本の丸柱は太く、カツラ材である。落し込み板で囲まれた仁王座前の南北が、透かし菱形欄間になっている。透かしを通して東山の景観を見せようとの配慮からである。両脇に仁王像を安置している。
下層柱間より逓減(次第に減る)された柱頭に、二手先和様斗(と)栱(きょう)が深い飛(ひ)檐(えん)軒を支え、下層屋根上に三(みつ)斗(と)組腰組で縁を張り出し、高欄で4面を囲む。ここからの市内の眺めは素晴らしい。
寛政3年(1791)の大風で倒壊したが、17年後の文化4年(1807)、飛騨権守(ごんのかみ)宗安(むねやす)の流れを汲む近世の名工水間相模(みずまさがみ)の手で再建された。
参考文献
『高山の文化財』52~53頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-3-4-1 大雄寺山門(県指定重要文化財)・概要
1-3-4-2 市指定・大雄寺山門
資料集
039_248_大雄寺山門
雲龍寺鐘楼門(市指定文化財)
所在地 高山市若達町1丁目86番地
所有者 雲龍寺
指定年月日 昭和44年2月19日
構造形式 重(じゅう)層(そう)四(し)注(ちゅう)造(つくり) 銅(どう)平(ひら)板(いた)葺(ぶき)
高山城破却の際、城内の「黄雲閣」という建物を当寺へ下げ渡されたと伝えられる雲龍寺鐘楼門は、天正10年(1582)本能寺の変に際し二条城において19歳で戦死した金森長近の長子忠郎長則の菩提寺として長近が修営した。
屋根はゆるやかな曲線をもち、頂部に露(ろ)盤(ばん)と宝(ほう)珠(じゅ)をのせる。初層中央通路の両側にふところを設け、南東側に階段がある。上層外廻りに戸溝があり、中央通路の両側が入り込みとなっていることなどから、元は寺院の鐘楼門ではなかったことが分かる。
慶長6年(1601)、金森長近より「黄雲閣」という建物を賜り、のち鐘楼門となったと『高山市寺院由緒記』には記される。享保14年(1729)の大火にも、羽(は)目(め)板(いた)の一部に焼痕をとどめただけで焼け残った。
東山白山神社は、雲龍寺の鎮守として祀られてきた。塔頭(たっちゅう)(境内にある小寺)に栄鏡院、久昌寺がある。
説明板より
〈市指定〉昭和44年2月19日
〈所有者〉雲龍寺
〈所在地〉若達町1丁目86番地
〈時代〉安土桃山時代(16世紀)
〈員数〉1棟
鐘楼門(1棟)桁行4.15m、梁行3.7m、重層4注造、銅平板葺
当寺の草創は古く、古代に白山社(現在の東山白山神社)の別堂妙観寺という寺があった。のち、天台宗に属していたが、応永2年(1395)頃、堂宇を再建して曹洞宗に改めた。能登の総(そう)持(ぢ)寺(じ)前住「了堂真覚」をもって開山して海蔵山雲龍寺と改称し、応永30年(1423)6月7日に遷化したとある。真覚は高僧で、宮村の大幢寺も開いている。(『高山市史』)境内山上の白山権現(現東山白山神社)は、雲龍寺の鎮守として祀られてきた。塔(たっ)頭(ちゅう)(境内にある小寺)に栄鏡院、久昌寺がある。
金森入国後、天正10年(1582)本能寺の変に際し、二条城において19歳で戦死した金森長近の長子忠次郎長則の菩提寺として長近が修営した。
建物の外観は、緩やかな曲線を持つ屋根の頂部に、露盤と宝珠をのせる。初層中央通路の両側にふところを設け、南東側に階段がある。上層外廻りに戸溝があり、中央通路の両側が入り込みとなっていることなどから、寺院の鐘楼門として建てられたものではない。慶長6年(1601)、金森長近より「黄雲閣」という建物を賜わり、のち鐘楼門になったと『高山市寺院由緒記』には記される。享保14年(1729)の大火にも、羽目板の一部に焼痕を留めただけで焼け残った。
参考文献
『高山の文化財』49~50頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-3-3-1 雲龍寺鐘楼門・概要
1-3-3-2 市指定・雲龍寺鐘楼門
資料集
038_247_雲龍寺鐘楼門
高山市指定文化財(建造物)宗猷寺鐘堂
木造入母屋造り、四方転び柱
銅板葺き屋根、高さ5.6メートル
礎石上の柱間が4メートルを超える規模の大きな鐘堂で、四隅の柱頭にある「出組のます組」のほかに中備えといわれる組(くみ)物(もの)があり、いわゆる「禅宗様詰出組」のます組になる。
享保年間(1716~35)に、郡代長谷川庄五郎忠崇の助力で築いたと伝えられる。
昭和57年6月8日指定
高山市教育委員会
説明板より
〈市指定〉昭和57年6月8日
〈所有者〉宗猷寺
〈所在地〉宗猷寺町218番地
〈時代〉享保年間(1716~1736)
〈員数〉1棟
鐘楼(1棟)柱間4m4方、銅板葺、木造入母屋造り、4方転び柱、二軒(ふたのき)、繁垂木
禅宗様式を取り入れたこの鐘堂は、享保年間に飛騨郡代の長谷川庄五郎忠崇の助力で築いたと伝えられる。立派な石垣の上に建ち、市内でも有数の規模である。
4隅の柱頭にある「出組の斗栱」の他に中備えといわれる組物があり、いわゆる「禅宗様詰組」の斗栱になる。
宗猷寺第9世桃瑞禅郁の時代に、長谷川代官の知遇を受けて延享2年(1745)4月梵鐘を鋳たことが鐘銘にある。『斐山語草』また、『紙魚のやとり』には延享2年4月5日宗猷寺鐘鋳、大阪鋳物師とある。しかし、太平洋戦争中の昭和17年、金属類の不足に伴なう供出でこの梵鐘も別院へ集められて供出された。昭和37年、ようやく新しい梵鐘を備えた。
参考文献
『高山の文化財』61頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-3-2-1 高山市指定文化財 宗猷寺鐘堂・概要
1-3-2-2 市指定・宗猷寺鐘堂
資料集
037_246_宗猷寺鐘堂
高山市指定文化財(建造物)宗猷寺本堂
木造入母屋造銅平板葺
桁行18メートル
梁間15.9メートル
基壇上に建ち、前面三方吹抜け、敷石床となった禅宗様式の強いこの本堂は、文政7年(1824)8月26日落成され、大工棟梁は坂野半三郎であった。
高山地域唯一の臨済宗寺院の建物で、量感ある外観を持ち、仏殿や法堂の基本形である敷石床を前面に、内部を畳敷きとしたことは、その古い形式をよく表している。
五山の仏殿や法堂にならって外観を二重にするとともに、和様や大仏様の手法も取り入れている。
昭和50年7月10日指定
高山市教育委員会
説明板より
〈市指定〉昭和50年7月10日
〈所有者〉宗猷寺
〈所在地〉宗猷寺町218番地
〈時代〉文政7年(1824)
〈員数〉1棟
本堂(1棟)桁行18m、梁間15.9m、木造入母屋造、銅平板葺
宗猷寺は、高山市内で唯一の臨済宗妙心寺派の寺院である。開基は金森3代目の重頼、重勝(左京)の兄弟が、父可重の菩提を弔うため寛永9年(1632)、妙心寺前住の南叟宗安和尚を迎えて開山した。初め新安国寺といったが、重頼の法号真龍院殿と重勝の法号徽(き)雲宗猷居士から、山号を真龍山、寺号を宗猷寺と改めた。
南叟宗安は、永禄6年(1563)の兵火で荒れ果てた国府町の安国寺を復興したが、重頼の願いにより宗猷寺の開山として兼任をしたのである。
本堂は基壇上に建ち、前面3方吹抜け、敷石床となった禅宗様式の強いこの本堂は、文政7年(1824)8月26日落成され、大工棟梁は坂野半三郎であった。
量感ある外観を持ち、仏殿や法堂(はっとう)(講堂にあたる)の基本形である敷石・床を前面に、内部を畳敷きとしたことは、その古い形式をよく表わしている。
五山の仏殿や法堂にならって外観を二重にするとともに、和様や大仏様の手法も取り入れている。
参考文献
『高山の文化財』57~58頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-3-1-1 宗猷寺本堂・概要
1-3-1-2 市指定・宗猷寺本堂
資料集
036_245_宗猷寺本堂
県指定・赤保木遺跡
〈県指定〉昭和45年1月20日
〈所有者〉赤保木史跡保存会
〈管理者〉高山市
〈所在地〉赤保木町
〈時代〉古墳時代(5世紀)
〈員数〉5基
赤保木町は江戸時代、大野郡三枝郷赤保木村といい、後風土記によると村高148石、家数30、人数170人とある。明治8年(1875)に清見村の大字となり、明治22年(1889)からは上枝村の大字になった。産土神の熊野神社周辺には成田正利の墓、国分寺の瓦窯跡、住居跡など史跡が多い。
古墳群は川上川左岸の河岸段丘につくられる。江戸時代の絵図には9基の古墳が見られ、「九ツ塚」と呼ばれていたが、明治末期に2基が消滅、現在は5基が残っている。大正2年(1913)、5号古墳の北東にあった6号古墳が土採りのため破壊され、その際次の遺物が発見された。
環頭太刀1、直刀4、曲玉10、管玉12、小豆玉12、丸玉1、金環7、鉄鏃50。出土遺物は熊野神社と日下部家に所蔵される。
昭和24年、3号古墳の一部崩壊したところから直刀1口が出土している。(『高山市史』)
平成4年、古墳広場の整備に伴ない5号古墳の発掘調査をしたところ、竪穴式石室であることが判明した。また、北側に隣接して板状の石を組み合わせた箱式石棺も発見され、いずれも時期は5世紀と推定される。高山市で最も古い古墳は冬頭王塚古墳(5世紀中頃)とされているが、この5号墳との時期比較が課題となる重要な発見となった。
参考文献
『高山の文化財』185~186頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日
関連資料
1-2-20 県指定・赤保木遺跡
赤保木
資料集
035_244_赤保木遺跡
県指定・荘川桜、御母衣ダム
<荘川の概要>
荘川町(旧・荘川(しょうかわ)村)は農林業が主な産業で、昭和30年代には、養蚕が盛んであった。しかし、昭和36年白川村地内に御母衣(みぼろ)ダムが完成すると、ダム湖の南半分が荘川地域にかかり、主要集落のいくつかが水没してしまった。中野にあった照蓮寺(現・城山公園に移築)や岩瀬にあった若山家(現・飛騨の里に移築)が水没前に移築され、国の重要文化財に指定された。
また、照蓮寺と光輪寺にあった巨桜(おおざくら)2本も水没地点から、現在の「荘川桜公園」へ移植された。この2本の巨桜は樹齢500年、老桜の移植にまつわる秘話が語り継がれていて、関係者のふるさとを偲ぶよりどころとなっている。
河川は、荘川町内の谷、小さな川はすべて御母衣湖に注ぎ、庄川(しょうがわ)となって北へと流れている。庄川の源流は、荘川町と郡上市の境界である「山中(やまなか)峠」にある。この峠は、黒谷(くろだに)から寺河戸(てらこうど)方面へ南に登ったところにあり、ミズバショウで有名である。また、庄川へは、一色(いっしき)川、町屋川、野々俣(ののまた)川などが合流し、さらに尾神郷(おがみごう)川が加わる。一方、松ノ木峠と軽岡(かるおか)峠の中間に位置する「六厩(むまや)」から、北流する六厩川も荘川町と白川村境辺りで庄川に合流するのである。六厩には昔、金山があり、繁栄した。
町内を流れる綺麗な水、広葉樹林帯の山間を通る郡上街道と白川街道、中世からの長い歴史を秘めた町である。
<御母衣ダム建設>
昭和30年代の荘川村を、大きく変えた出来事は、御母衣(みぼろ)ダム建設工事である。村のおよそ3分の1にあたる岩瀬、赤谷、中野、海上の全地区と、牛丸、尾上郷の一部が湖底に沈み、長年住み慣れたふるさとから、人影が消えていった。
地区の人口はおよそ1,200人、戸数は230戸余りで、その中には照蓮寺をはじめ民俗学上貴重な建物もあった。田畑およそ140haは、村の経済を支えるほどの豊かな生産地域であった。日本の産業のエネルギー源となって、湖底に沈むことになり、地元の愛郷心と嘆きの気持ちには辛いものがあった。
<御母衣ダムの完成>
庄川(しょうがわ)の上流にある荘川村と、隣の白川村にまたがって御母衣(みぼろ)ダムがあり、尾上郷川の上流には、大黒谷(おおくろだに)ダムがある。
御母衣ダムの建設工事は、電源開発株式会社によって、昭和31年(1956)から始められ、昭和35年(1960)10月に完成した。それは、戦後、日本産業が立ち直ろうとしていた時期で、工事用機械などが今のように進んでいなかった。そのため、アメリカの技術者を招き、最新式の建設機械を輸入して仕事を進めた。5年間に延べ600万人の人がダムの仕事に携わったと言われ、難しい工事のために、68人もの尊い命が失われた。
工事費用は、当時のお金で400億円かかったとも言われ、高さ133m、幅405mの世界でも数少ないロックフィル式ダムが完成し、当時は東洋一と言われていた。
発電量は、最大出力21万5,000kwで、送電線で遠く関西地方に送っている。
大黒谷ダムは、昭和46年に完成したアーチ型ロックフィルダムである。尾神郷字大黒谷にあり、高さ34m、長さ140mである。
<荘川桜と御母衣ダム建設>
① 荘川桜公園に立って
荘川桜公園は、国道156号沿いにあり、御母衣湖畔に、荘川桜が移植されている。
昭和35年のダム建設を境として、ふるさとを離れ、岐阜市をはじめ各地に移住した人たちが、年に1度、お盆の頃に荘川桜のもとに帰ってきて、かつての生活を語り、互いの健康を確かめ合う。地元民は、いつもここを通るたびに、満水したダム・渇水したダム、そして荘川桜を眺め、この湖底に沈んだ中野・海上・岩瀬・赤谷地区などに思いをはせる。
大地に根を張って、そびえ立つこの荘川桜は、当時、電源開発総裁であった高碕氏が、住んでいた人々の金に替えられない純粋なふるさと意識に打たれ、その発案によって移植されたものである。樹齢およそ500年(平成30年現在)と言われる。この2本のアズマヒガンザクラは、水没した中野の照蓮寺(建物は高山市の城山公園へ移転)と、光輪寺(建物は関市へ移転)の境内に立っていたものである。
② ふるさとが湖底に
庄川水系の最上流に、発電所建設の計画が国の施策として発表されたのは、昭和27年のことである。
水没予定地の人たちにとっては、過去数百年の間、父祖伝来この地に住み、あらゆる困苦に耐えて互いに助け合い、平和な村を作っていただけに、先祖の墓もろとも湖底に沈むなど、思いもしないことであった。
一方、村全体にとっても、水没地だけの問題として考えることはできなかった。村をあげての計画の中止や、計画の変更運動が進められ、国や電力会社に対する反対運動は、昭和27年から始まった。
昭和33年6月、岐阜県議会電力特別委員会が調停役となり、当時の下田村長ら代表と電源開発株式会社側代表らが席を並べ、両者の話し合いがなされた。その結果、覚書が取り交わされた。
昭和34年11月、8年間に及んだ反対運動も終わりを告げた。そして、翌35年10月には、御母衣ダム建設が完了した。
関連資料
1-2-19 県指定・荘川桜、御母衣ダム
資料集
034_243_荘川桜、御母衣ダム