肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の金森氏布陣場所
① 文禄・慶長の役
◇文禄の役 文禄元年(1592)4月~文禄2年(1593)に休戦した。
◇慶長の役 慶長2年(1597)の講和交渉決裂によって再開され、慶長3年(1598)の太閤豊臣秀吉の死をもって撤退で終結。
秀吉は、天正19年(1591)8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に前線基地としての城築造を九州の大名に命じた。秀吉は自分の地元尾張・那古野(氏)と同じ肥前・名護屋(氏)(古くは名久野)という地名を奇遇に感じ、城の立つ山の名前が勝(かつ)男(お)山と縁起がいいことにも気をよくし、この地への築城を決めている。
9月、平戸城主松浦鎮信(まつうらしげのぶ)に命じて壱岐の勝本に城を築かせた(勝本城)。その築城の担当は、松浦鎮信、日野江城主有馬晴信、大村城主大村喜前(よしあき)、五島城主五(ご)島(とう)純玄(すみはる)であった。(宇久(うく)純玄はこの年、姓を五島に改める。)
② 諸大名が九州へ
10月上旬、全国の諸大名が名護屋へ到着し、城普請に取りかかった。
『松浦古事記』によれば、205,570余の兵が高麗(こうらい)へ渡り、名護屋在陣は102,415兵で、総計307,985兵で陣立てされた。
九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で8ヵ月後の文禄元年(1592)3月に完成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。
唐入りの期間、肥前名護屋は日本の政治経済の中心となった。
③ 金森氏の陣所
金森氏の陣所の位置は名護屋城主体の南側の離れた箇所にあり、北に藤堂高虎、南に京極高次の陣所がある。秀吉は唐津から名護屋城までの街道「太閤道」を作り、石田と金森が諸将の統制のために布陣されたのであろう。
リーフレットより
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