田上家住宅(市指定文化財)
所在地 高山市丹生川町根方532番地
所有者 田上 智
指定年月日 平成19年2月22日
構造形式 3棟、庭園・門及び塀一式、建物敷地
田上家当主田上太郎四郎が、日下部家住宅を造った川尻治助に依頼した農家建築で、明治15(1882)年に建てられた。完成までに12年の歳月を要したといわれる。
主屋は桁行12.5間(けん)、梁間7.5間(けん)と大規模。建物は木造2階建ての切妻造で平入であり、屋根は現在瓦葺きである。主屋正面は真壁のデザインを基調としつつも隈切り窓を入れ、近代の様式も取り入れている。屋根と小庇がせり出し、屋根の軒は「せがい造り」。出桁を受ける腕木は、大工の稲尾三郎による「雲」と呼ばれる意匠の持ち送りが支えている。
土間では1尺角の大黒柱と、4間(けん)ものと呼ばれる松の巨木を使った豪快な梁に圧倒される。本座敷には付書院を持った本式の床の間があり、黒漆塗りの床框や違い棚といったしつらえである。
町屋建築である日下部家住宅と共通の意匠を取り入れ、贅を凝らした造りである。共に近世までの規制から解放されて、棟梁の技が光る近代民家建築の代表作である。
説明板より
資料集
074_081_田上家住宅
間連資料
1-3-23 田上家住宅
資料集
058_267_田上家
市指定 天然記念物 法正寺の枝垂桜
目通り4メートル、樹高推定14メートルで、樹齢は4百年を重ねる。法正寺の歴史をそのまま刻むかのように、根元はコブ状となり、長年の風雨に耐えている。
説明板より
関連資料
1-3-22 市指定 天然記念物 法正寺の枝垂桜
資料集
057_266_法正寺枝垂れ桜(市天然記念物)・その周辺
市指定・松倉観音
〈市指定〉昭和56年9月8日
〈所有者〉素玄寺
〈所有者〉松倉町2147番地
〈時代〉江戸時代
〈員数〉3棟
観音堂(3棟)普門院、大悲閣、お籠堂
元禄5年(1692)領主・金森頼旹(よりとき)が出羽国(山形県)上之山へ移封された後、故あって高山を離れ京都の泉涌寺に入っていた天電高幢(てんでんこうとう)和尚が帰郷し、松倉山窟に馬頭観音の堂を建てた。これが普門院といわれている。
松倉観音は素玄寺の守護により旧暦7月9日近郷の村人が堂の内外に宿泊し養蚕の繁栄を祈り、翌10日は村々の馬を飾り参詣し、牛馬の無病息災を祈願した。この風習が現在も松倉絵馬市として残されている。この建物は普門院、大悲閣、お籠堂からなり、通称松倉観音堂といわれている。
参考文献
『高山の文化財』208~209頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日
飛騨の絵馬(紙製)
「絵馬」とは、お祈りやお願いのために、神社やお寺に奉(ほう)納(のう)する絵の額(がく)のことをいう。生きた馬の代わりに絵に描いて奉納したのが始まりで、屋根形の板に描かれた小絵馬や大形の額絵馬(大絵馬)などがある。現在でも、神社で「合(ごう)格(かく)祈(き)願(がん)」、「家内安全」などの願い事が書かれた絵馬がたくさん掛(か)けられている。
飛騨の「絵馬」は、全国的にも珍しい紙製であり、神社だけではなく、それぞれの家の玄関に貼(は)る。古くは牛馬の安全や稼(かせ)ぎなどを祈願したものであった。牛馬は外で働くものなので、農家では外に向けて貼っていたといわれる。
一方、商(しょう)家(か)などでは、家の内側に向かって馬が駆(か)け込むように紙絵馬を貼って、商(しょう)売(ばい)繁(はん)盛(じょう)や家内安全などを祈願する縁(えん)起(ぎ)物(もの)として、現在では、この貼り方が一般的になっている。
説明板より
松倉絵馬市の由来
松倉山観音堂の本尊馬頭観世音菩薩は、古来牛馬の守護仏として信仰を集め、毎年8月9・10日の縁日法要には近郷はもとより遠くは高原郷、阿多野郷から、飼育している牛馬を美しく着かざって参詣し、牛馬の安全、さらには五穀豊饒を祈った。しかし参道を牛馬を引いて参詣することは大変困難を伴うので江戸後期、牛馬の代参として、絵馬をたずさえて参詣する人が増え、さらにはそうした人々の要望に応ずるように絵馬市が出来た。
町に住む人達もそれに習って家内安全、商売繁栄の縁起物として求めるようになり、絵馬市は盛んになった。
松倉絵馬には当時の素朴な参詣の牛馬の姿がそのまま写されている。
説明板より
史跡 松倉観音堂
高山市指定 昭和56年9月8日
この建物は普(ふ)門(もん)院(いん)、大(だい)悲(ひ)閣(かく)、お籠(こもり)堂(どう)からなり、通称松倉観音堂といわれている。
元禄5年(1692)領主・金森頼(より)旹(とき)が出羽国(山形県)上山(かみのやま)へ移封されたあと、故あって高山を離れ京都の泉(せん)涌(にゅう)寺(じ)で修業していた天(てん)電(でん)高(こう)幢(とう)和尚が帰郷し、松倉山窟馬頭観音の前にお堂を建てた。これが普門院といわれている。
松倉観音は素(そ)玄(げん)寺(じ)の守護により旧暦7月9日近郷の村人が堂の内外に宿泊し養蚕の繁栄を祈り、翌10日は村々の馬を飾り参詣し、牛馬の無病息災を祈願した。この風習が現在も松倉絵馬市として残されている。
松倉絵馬市は、毎年8月9・10日に開催される。観音堂の本尊馬頭観音は、普段高山市内の東山寺院群の中にある素玄寺にあるが、8月9・10日は、松倉観音に移され、夜を徹して法要が営まれ、絵馬市が開かれる。また、10日の夕方には本尊を素玄寺に戻し、夜まで法要と絵馬市が行なわれる。
市内はもとより、全国各地から絵馬を買い求めて、多くの方が松倉観音へお参りされる姿は、夏の飛騨高山を代表する風物詩のひとつであり、民間信仰にかかわる習俗として貴重なものといえる。
説明板より
関連資料
1-3-21-1 市指定・松倉観音
1-3-21-2 飛騨の絵馬(紙製)
1-3-21-3 松倉絵馬市の由来
1-3-21-4 史跡 松倉観音堂
資料集
056_265_松倉観音
立保神社拝殿舞台
吉城郡河合村大字保にあったもの。立保神社は、吉城郡河合村大字保(吉城郡小鷹狩郷保)の産土社で、鈿女神社・白山神社・国作大神社の3社を合祀した神社。3社の拝殿を集め、2つを上下に並べ、上を拝殿(5.5m×5.6m)、下を舞台(7.4m×5.5m)として使い、もう1つを神饌殿(5.6m×4.7m)としたもの。この地では、拝殿と舞台は元の形に、神饌殿は楽屋として花道(2.2m×8.5m)でつないだ。
関連資料
1-3-20 立保神社拝殿舞台
資料集
055_264_立保神社
木挽小屋
木挽は大鋸を用いて製材にあたる職人で、江戸時代には杣(伐木)・日(ひ)用(よう)(運材)と対置される林業職人で、三者は分業化していた。
この小屋は、木挽が寝食をしていた小屋である。中央の土間は炉で両側の大きい木は、おくらぶちと言い、また通路でもある。桁は入山、出山と言う方法で組まれ、鳥居造りで、垂木は右前合せとなっている。
この小屋には次のような掟がある。他の人の後は絶対に歩かないこと、また小屋内は絶対通り抜けないこと。以上の事は、かたく禁止されていた。1人分の所有面積は筵1枚分である。
説明板より
杣小屋
杣は伐木作業にあたる職人で林業労働の中枢を占めており、大伐採に従事する杣夫は、杣頭(庄屋)に統率された作業組とつくり、帳付(副頭)、小杣(欠損木の補修)、炊夫(かしき)など別の役割の者をも含め、きびしい規律のもとに山中の共同生活を送るのが例であった。
桁の組方等構造、小屋の掟などは、木挽小屋と同じである。
説明板より
関連資料
1-3-19-1 木挽小屋
1-3-19-2 杣小屋
資料集
054_263_木挽小屋、杣小屋、杣展示の大野家