為真白山神社祭礼
神社名称 為真白山神社
所在地 岐阜県郡上市白鳥町為真1184
関連資料
為真祭スケジュール
為真祭表紙
為真白山神社チラシ
為真白山神社チラシ古典大神楽舞
資料集
090_104_為真白山神社祭礼
美山鍾乳洞
美山鍾乳洞は、世界でも珍しいタテ穴の鍾乳洞で【立体迷路型鍾乳洞】としては日本最大級です。立体迷路型とは、地下水が上から下へゆっくりと石灰岩層を溶かしてゆき、地中に段差をつけながら幾層にわたって洞窟が展開するもので、柔らかな曲線を描く壁面や鍾乳石は「胎内くぐり」の感があります。開発の際も人工の手を加えず、郡上市の天然記念物の指定を受けています。自然が2億年以上かけて作り上げたこの造形美と壮大なスケールには、誰もが圧倒されることでしょう。
資料集
089_103_美山鍾乳洞
郡上鍾乳洞
以前は「油石洞」と呼ばれていました。国道256号線沿いに大きな看板があります。郡上鍾乳洞の自慢といえば水です!。郡上鍾乳洞の水は「日本三大水泉」のひとつに数えられており、カルシウムが豊富に含まれています。 足元もしっかりしているので、歩きやすいのも特徴です。 水質は中性。鍾乳石はあまり発達をしていませんが、水量は豊富です。アットホームな感じの鍾乳洞を探検して下さい。
資料集
088_102_郡上鍾乳洞
縄文鍾乳洞
縄文鍾乳洞では遺跡のほかに高純度の鍾乳石や虫食い天井、石筍等の自然の造形美が楽しめます。 縄文鍾乳洞ミステリーツアーは洞窟内のアップダウンが比較的少なく歩きやすい通路であることと、洞窟内通路が迷路状になっている特長を活かして、洞窟内の照明を全て落とし、順路表示等を無くして、洞窟内を懐中電灯の明かりのみで探検してもらうツアーです。
資料集
087_101_縄文鍾乳洞
大滝鍾乳洞
日本三大民踊「郡上踊り」で有名な郡上八幡は名水の町としても全国に知られています。郡上八幡に名水を供給しているのは山間地に広がる石灰層の山々だといわれています。大滝鍾乳洞は郡上八幡の街並から15分ほどの石灰岩層に生じた断層が地下水によって溶解し拡大されて生成された鍾乳洞です。現在までの調査で約2km近い通路、広間が確認されています。現在公開されているのは鍾乳石の発達したやく700mの鑑賞コースです。鍾乳石が1cm伸びるのに必要な時間は約100年といわれています。豊富な水量に恵まれた大滝鍾乳洞は、今なお太古の時代と同じサイクルで鍾乳石が成長しています。
資料集
086_100_大滝鍾乳洞
戸隠神社
戸隠神社(とがくしじんじゃ)は、岐阜県郡上市和良町にある神社である。社格は旧郷社。天岩戸に関する伝承がある。
創建時期は不明であるものの、『美濃国神名帳』に載る郡上郡7社の中の「正六位上 国津明神」であるという。建治元年(1275年)に橘頼納により大般若経600巻が奉納され、鎌倉時代以降「九頭宮」と称された[注釈 1]。江戸時代の慶長12年(1607年)、郡上藩主遠藤慶隆によって5保内の総社として社殿が再興され、以後領主や藩主から篤く崇敬された。
明治6年(1873年)、社名を「九頭宮」から「上沢神社」へ改め、更に翌7年(1874年)、現社名「戸隠神社」に改称、昭和15年(1940年)に郷社に列格した。
資料集
085_099_戸隠神社
県指定民俗文化財 勝山左義長
勝山左義長が史料に見られるのは延享4年(1747)である、その文言からはそれ以前から左義長が行われていたことがうかがえる。50年近く領主不在の勝山三町にとって左義長は町民の紐帯としての役割を果たしていたものと思われ、それは勝山町が城下町として出発する元禄4年(1691)以前から続けられてきた。
当初はあくまでもドンド焼として始まったが18世紀中期になり、三町が相次ぐ火災に見舞われる中で鎮火祭としての色彩が濃くなる。それと同時に祭礼的要素からおまつりとしての娯楽的要素が加わり、勝山左義長独特の様相が徐々に見られるようになる。櫓が街路に建てられその上で太鼓をたたき、また能・歌舞伎の演目が素人役者によって演じられた。また三色の短冊が町中に吊るされご神体には包みを吊るし、各町では競って押し絵が製作された。さらに後には干支に因む作り物も展示されるようになる。歴代藩主が俳諧の嗜みをもっていたこともあり世の中を風刺した雑排が絵行燈として飾られた。これらは勝山左義長独自のもので、左義長まつりとして町民自身が楽しむ最も華やかなまつりとして定着していった。
左義長行事は当初旧暦1月13・14日に行われてきたが、現在は2月の第3土曜・日曜日に県内外から多くの観光客を集め開かれる。フイナーレは九頭龍河畔で行われるドンド焼でこの2日間で10万人以上が訪れ、奥越に春を呼ぶとされる左義長が終わる。現在は県の民族指定文化財となっているが将来は国指定を目指している。
関連資料
勝山左義長解題
七里壁と旧勝山三町の景観
七里壁は大野市の西勝原から永平寺町鳴鹿まで続く河岸段丘で、九頭龍川に沿って七里(28キロ)にわたっている。最も顕著なかたちで出現しているのが勝山町で、近世城下町を描いた絵図には七里壁上部には家臣の下部には町人の家が描かれ境は崖となっている。そのため町屋・町方(勝山三町)と家中・武家地を結ぶ坂が発達し、南から「こんば坂」「神明坂」「大手坂」「お種坂」でつながっていた。当時の石垣は見られないが市街の至る所にその痕跡が残る。七里壁の名称は18世紀中頃の絵図にその名が見られるものの、崖は通常は「岸の下」の名称で示された。
現在は舗装され川はマンホールの蓋でおおわれて見られないが、絵葉書・古写真には町の東西に用水が流れ石組の用水路が通じていたことが窺える。昭和の初め頃までは町屋の家の屋根は三谷区で採掘された角間石で葺かれていた。まさに石の町にふさわしい景観をなしていた。また現在は大清水のみが残るがかつては岸の下(七里壁)の際には清水(しょうず)が至るところに湧き出していた。
三町は郡町・袋田町・後町から成っていた。郡町は村岡山城の麓を郡村と言い城館も建てられていたが城が袋田村に移転したため、多くの人が袋田に移住し出来た町である。袋田町は元の袋田村が発展した町である。後町は寺町とも言われ郡村にあった尊光寺や浄願寺などの寺が移転して出来た。袋田村(後の勝山町)に勝山城が建設されたのは天正8年(1578)で、その後福井藩、松平勝山藩の支配を受け、福井藩預かりの時代を経て元禄4年(1691)に小笠原氏が入部し城下町となった。勝山町は大野・福井・白山麓村々の3地域を結ぶ結節点にあり交通の要の位置を占めた。そのため大野郡北部(北袋)の経済の中心地としての機能も果たした。
昔の勝山町
町絵図
関連資料
七里壁と旧勝山三町の景観解題
平泉寺にかかわる堂舎・石碑・史資料
平泉寺にかかわる諸史資料は町内・町外を問わず非常に恵まれている。町内には関連する堂舎や石碑が多く平泉寺町町づくり委員会により建てられた59の石碑は、余すところなく平泉寺の名所・旧跡地を紹介している。詳細は各項目の解説に譲る。
町外では猪野瀬区を中心に泰澄・白山信仰にかかわる遺蹟・遺物に恵まれている。詳細は各項目に譲る。
「白山平泉寺境内絵図」
それぞれ南東、北東、南西、北西方向に「四天之内」と記し、北西の「比島観音」を除き守護神が記されている。禅師王子の眼下に「箱ノ渡」が、西には「大師母君御廟」も記す。「下馬大橋」から菩提林を通り境内へ抜け東の一番奥には「釼宮」が描かれている。境内で一番大きな建物は「三十三間拝殿」で、前面には「大御前」以下の五社が」、「三宮」前にも「拝殿」を描く。比較的大きな建物として「大講堂」「南大門」「大師堂」も描く、2つの「大師堂」のうち北側のものは後の玄成院であろうか。境内の両脇に六千の坊院も稠密に描く。16世紀の景観を描くと思われるが、右隅に信武筆と記されていて作成されたのは17世紀である。
麻結地蔵
平泉寺町平泉寺地区では屋敷の石垣に石像の地蔵尊を祭る家が多い。麻結地蔵は木像である。梅田治右衛門家の屋敷地に隣接する共有地内に祀られている。由来について「麻結地蔵」碑には次のように記されている。「老婆がお堂の前に麻を干し柴刈に出たところ俄雨が降り慌てて帰ると麻にきれいに結んでお堂の中に入れてあった」。
『平泉寺史要』の明治12年(1879)の社寺明細帳はより詳しくその由来を記している。「村に貧しいながらも正直な媼がいて、夜は紡績を日中は耕作に励んでいた。草庵の南に小さな祠があり木像の地蔵尊(36堂の1つ)が安置されていた。媼は日頃からこのお地蔵様を信仰しており、麻を干して柴刈に出たおり、もし雨が降ったら自分に代わって仕舞って欲しいと独りごとを言った。」に付け加えて「お地蔵様の両手には一條の草縄が巻き付いていた。媼は涙を流して喜びこの事実を人々に言い伝え、その後、麻結の地蔵として崇められるようになった。」
続いて「本尊 地蔵尊 泰澄大師直作木像、堂宇間数 2間に2間半(昭和改築後) 境内97坪 持主梅田治右衛門外6名 信徒人員37人 永続方法 田5畝29歩 梅田さみ以下7人共有 山林(反別不詳)卸米1斗5升 梅田捻所有地内 右土地の所得を以て祭典及営繕費に充つ」。
梅田家には麻結地蔵関係の史料が数冊残されており、そこには、「卸山を持つようになったのは寛政8年(1796)以降で、山手米は1斗3升であったこと。祭礼は7月24日(現在は8月の地蔵盆の日)に行われ、氏子は梅田治右衛門・中村八右衛門など9人(後7人、現在は4人)であったこと。顕海寺を招いて祭礼が行われ、その布施や御神酒代なども含め銀4~5匁の費用がかかったこと」などを知ることができる。
文政13年(1830)の「麻結地蔵惣氏子一統連印定書 当番記」には、15か条の取決めが記されている。いくつかを例示すると、氏子当番は2人ずつで1人は拝殿で待機する。氏子全員が祭礼に参加する。御講の際は打入銭(不明)として1人前3文を、ただし今後は10文を出す、などと定めている。像の作成年は不明で台座下の箱書きに元文4年(1739)、大工伊…などの文字が記されている。天保14年(1843)には玄成院も参詣している。
延命地蔵
仏母寺には延命地蔵の由来を記した縁起が残されている。この縁起は大正15年(1926)に宝慶寺50世の天山和尚により書き記されたものである。近代に入り作られたものであるのでその内容がすべて真実であるとは言い難い。木箱には「縁起大師山仏母寺」とあり、巻物の表題は「延命地蔵尊縁起」とある。その詳細な内容は省略するが興味深い記述として「行基菩薩ガ衆生済度乃大願を以て一刀三禮の敬虔を捧げ彫刻し玉ふ」とある。
仏母寺は宝慶寺の末で宝永2年(1705)に片瀬村に設立された。『片瀬誌』の記述からは仏母寺が建立された本来の目的は、大師山の中腹の大師堂に安置されていた泰澄自作の像の管理のためと読み取れる。このように考えるとこの像が地蔵尊だったとは考えられない。あまり知られていないが仏母寺には安永7年(1778)の史料とともに十数センチの木仏も残されている。史料には泰澄自作とありこの像が本来大師堂にあった可能性が高い。
仏像の製作年代や作風については専門家に任せるとして、地蔵尊は33年に1度開帳されこれは平泉寺の河上御前の開帳と同時である。行基自作といい、平泉寺との関係といい禅宗寺院の仏母寺の成り立ちと矛盾する。
むしろ先に紹介した泰澄自作と伝えられ大師堂に安置されていたと考えられる像が、より平泉寺との関係が深いと思われる。元来片瀬村は平泉寺とのつながりが強かったこともあり、おそらくいつの頃からか両像の成り立ちが混同され形態的も大きい地蔵尊と平泉寺が結びついてしまったのではなかろうか。
仏母寺
仏母寺の名前が初めて見られるのは永禄12年(1569)で、大野市の宝慶寺文書の「仏母寺納帳」に、横枕・御給村に8.56(実際は6.66)石の院領を所持していることが記されている。しかしその所在地は明確ではない。『片瀬誌』には小山村下舌に創建とあるが、諸種の史料から総合的に判断すると、宝慶寺から離れ下舌村に仏母院として独立したのは元禄9年(1696)で、その開山は宝慶寺28世雲波和尚である。
片瀬村に移った経緯は以下のようであった。大師山の中腹に大師堂があり泰澄自作の像も安置されていた。しかし村から離れており治安もよくなかったため、宝永2年(1705)村では藩に願い出て庵を建てる許可を得た。下舌村から片瀬に移された史料そのものは残っていないが、この庵が仏母院で庵主を来雄和尚に依頼する史料が残る。
当寺の本尊延命地蔵については地蔵を納めた厨子に享保12年(1727)と記されている。正式な寺号を得たわけではないが18世紀初期には寺としてしての体裁が整い、中期には8石近い寺領や山林も所持するにいたる。かつては百数十点の仏母寺文書が残されており、その一つに宝暦4年(1754)の「太子堂再建奉加帳」があった。この年の7月16日に供養を行うので参詣をと呼びかけている。その後、天明年間(1781~89)に35世恵珍和尚の代に本堂が再建され五百羅漢も安置された。
正式に寺号を得るのは明治39年(1906)で、宝慶寺を本山とするとの条件で仏母寺の寺号を獲得した。境内には勝山を代表する俳人の素史とその師匠青々の句碑も残されている。
禅宗寺院としての宝慶寺との関係、白山信仰の拠点としての平泉寺との関係がどうであったのか、仏母寺にはわからない点があまりにも多く残されている。
四 至
南東の「荒神岩(石)」、南西の「禅師王子」、北西の「比島観音」、北東の「虚空蔵」に囲まれた地域で、平泉寺の境内を広義にとらえたものである。中世以来平泉寺の影響力の最も強い地域で、「四至内七ケ村」あるいは「四寺内十カ所」と称される。猪野瀬地域に該当する。
瀧の堂
瀧の堂は平泉寺区から女神川に沿い経ケ岳に至る道の傍にあり、以前は瀧が三筋に分かれて落下していたため三社の瀧とも称せられた。「霊王山平泉寺縁起」に、顕海の命を受けた専海が白山禅定に赴く際にこの瀧に三日間籠って身を清めたとある。瀧の上に社があり顕海自作の聖観音が安置されていた。境内には8本の老杉がありなかでも2本は幹回り4,8m、3、3mもあった。その後次々に伐採され万延元年(1860)には長兵衛と八兵衛により神木は伐採された。
平泉寺町町づくり碑
記号 |
番号 |
分類 |
名称 |
文章 |
場所 |
設置年月日 |
備考 |
A |
68 |
文化財 |
勝山市指定文化財 聖観音菩薩立像 |
勝山市指定文化財 聖観音菩薩立像 (裏)昭和六十三年二月十日指定 勝山市教育委員 |
平泉寺 |
昭和63.2 |
|
a |
1 |
エコ町 |
安ケ市跡 |
平泉寺全盛の頃構口門を出たところにあったとされる市の跡 |
平泉寺 |
平成16.6 |
|
a |
2 |
エコ町 |
平泉寺村役場跡 |
昭和二十九年九月に勝山市が誕生するまで村役場があった場所 |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
3 |
エコ町 |
天神堂 |
平泉寺四十八社三十六堂のひとつ御神体は菅原道真この辺の字名は天神堂という |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
4 |
エコ町 |
小豆かしき |
昔は2枚の大きな平たい石が掛けてあった。その橋下を流れる水の音がシャリシャリと小豆をかしく音に聞こえたという |
平泉寺 |
平成20.8 |
○ |
a |
5 |
エコ町 |
源如坊清水 |
このあたりは源如坊という坊院があったことからこの名がついたという |
平泉寺 |
平成16.3 |
○ |
a |
6 |
エコ町 |
北谷六地蔵 |
大正三年に北中尾の墓地が向三昧に 統合されたとき この地に移された |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
7 |
エコ町 |
東尋坊跡 |
東尋坊は力が強く乱暴な僧であったの で 一山衆徒の恨みをかい 三国の絶壁 から突き落とされた すると東尋坊の 井戸は血の色に染まったという |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
8 |
エコ町 |
常夜灯 |
昔は毎夜灯りがともされた 村の 若者がよい嫁欲しさに灯の傘に 石を投げ乗ると願いが叶うと喜んだ |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
9 |
エコ町 |
木船神社跡 |
中世に平泉寺の安全祈願のため建立された社 御神体は船に乗った神様で今は白山神社境内に安置されている |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
10 |
エコ町 |
構口跡 |
中世の平泉寺の正面を守っていた門この下に大きな堀があった |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
11 |
エコ町 |
千日坂道場跡 |
本覚寺の末寺で 後に 池端道場へ合流する |
平泉寺 |
平成18.3 |
○ |
a |
12 |
エコ町 |
義兵衛清水 |
弘法大師が来られたときここに住む義兵衛がきれいな 水を差し上げたことからこの名がついたという |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
13 |
エコ町 |
いぼ岩 |
-13 いぼ岩 大岩の中ほどに 五センチくらいの くぼみがあり中の水を いぼにつけると何時の間にか治る |
平泉寺 |
平成15.7 |
○ |
a |
14 |
エコ町 |
金札 |
平泉寺全盛の頃 富くじや博打場として金のお札が舞った盛り場であったと伝えられる |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
15 |
エコ町 |
梶の宮跡 |
平泉寺四十八社三十六堂のひとつ 根の宮ともいうこの辺の字名は 梶の宮という |
平泉寺 |
平成16.3 |
○ |
a |
16 |
エコ町 |
みろく堂跡 |
平泉寺三十六堂の一つ 現在 木村家に伝わるみろく菩薩がまつられていた |
平泉寺 |
平成19.3 |
○ |
a |
17 |
エコ町 |
南大門跡 |
中世(戦国時代)平泉寺の仏教伽藍の正面に建っていた門 |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
18 |
エコ町 |
大地蔵跡 |
現在、顕海寺に安置されている大地蔵は、この地にあったといわれている |
平泉寺 |
平成20.8 |
○ |
a |
19 |
エコ町 |
むじな道(上) |
平泉寺の最も古い道といわれ今も村の中心部を縦断している |
平泉寺 |
平成18.3 |
○ |
a |
20 |
エコ町 |
竜池小学校跡 |
平泉寺地区にあった小学校統合されて平泉寺小学校になった |
平泉寺 |
平成19.3 |
○ |
a |
21 |
エコ町 |
むじな道(下) |
平泉寺に伝わる古道 |
平泉寺 |
平成19.3 |
○ |
a |
22 |
エコ町 |
池端道場跡 |
昭和三十六年頃までここに浄土真宗の道場があった |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
23 |
エコ町 |
合坂 |
文章なし |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
24 |
エコ町 |
紺屋坂 |
平泉寺全盛の頃このあたりに紺屋があったという |
平泉寺 |
平成16.3 |
○ |
a |
25 |
エコ町 |
城山 |
城山道場この一角に平泉寺いくさ奉行の朝倉景鏡の墓がある |
平泉寺 |
平成15・7 |
|
a |
26 |
エコ町 |
下馬大橋 |
菩提林の入口 浄川にかかる橋ここで馬を下り身を清めてからお参りした |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
27 |
エコ町 |
むじな道(中) |
平泉寺に伝わる古道 |
平泉寺 |
平成19.3 |
○ |
a |
28 |
エコ町 |
大六坂 |
昔から伝わる坂道の名前 |
平泉寺 |
平成20.8 |
○ |
a |
29 |
エコ町 |
千日坂 |
昔から伝わる坂道の名前 |
平泉寺 |
平成20.8 |
○ |
a |
30 |
エコ町 |
若宮神社 |
平泉寺四十八社三十六堂のひとつこの辺の字名は 若宮という |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
31 |
エコ町 |
堀跡 |
ここに堀があり上を土井の上下を土井の下と言った |
平泉寺 |
平成19.3 |
○ |
a |
32 |
エコ町 |
宮道場跡 |
本覚寺の末寺で火災の後池端道場へ合流する |
平泉寺 |
平成18.3 |
|
a |
33 |
エコ町 |
鳥吠小路 |
兄に追われていた義経主従が観音堂に宿を取った時、夜中に一番鶏が鳴いて時を告げ、一行を追手から助けた |
平泉寺 |
平成16.3 |
○ |
a |
34 |
エコ町 |
蓮如腰掛石 |
蓮如上人がこの石に腰掛けて親鸞上人の説えを説いた松尾の山中よりここに移動した |
平泉寺 |
平成19.3 |
○ |
a |
35 |
エコ町 |
弁慶岩 |
昔から 弁慶岩といわれているこの辺の 字名は 弁慶岩という |
平泉寺 |
平成18.3 |
○ |
a |
36 |
エコ町 |
北釈迦堂跡 |
その昔 釈迦堂があったところ |
平泉寺 |
平成20.8 |
○ |
a |
37 |
エコ町 |
九十九坂 |
文章なし |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
38 |
エコ町 |
狼清水 |
昔狼が時々来て水を飲んだことからこの名がついたという |
平泉寺 |
平成16.6 |
○ |
a |
39 |
エコ町 |
麻結地蔵 |
老婆が お堂の前に麻を干し 柴刈に出たところ 俄雨が降り慌てて帰ると 麻にきれいに結んでお堂の中に入れてあった |
平泉寺 |
平成15.4 |
○ |
a |
40 |
エコ町 |
鬼ケ市跡 |
平泉寺全盛の頃ここに市があったとされる平泉寺にこのような市が三ケ所あった |
平泉寺 |
平成16.3 |
○ |
a |
41 |
エコ町 |
正光山普門寺妙覚院跡の碑 |
一般碑参照 |
赤尾 |
平成17.3 |
○ |
a |
42 |
エコ町 |
正光山空心房跡 |
玄成院第九世慈観は赤尾へ隠棲 し 正光山普門寺妙覚院を開山 空心房は普門寺の一坊である これより約五十米先 南東山中 |
赤尾 |
平成15.7 |
○ |
a |
43 |
エコ町 |
深達院権僧正覚諄誕生の地 |
一七五三年赤尾上山家に生まれ八才で平泉寺に入山 のち上野輪王寺宮 日光医王院を経て 山形県羽黒山別当第七十五世となる |
赤尾 |
平成18.3 |
○ |
a |
44 |
エコ町 |
槍形尖頭器発見の池 |
昭和六十三年この池の岸辺から先のとがった石器が見つかった これは一万二千年前縄文時代草創期に鳥や獣の狩猟用として石で作った槍で福井県で初めての発見である |
赤尾 |
平成19.3 |
○ |
a |
45 |
エコ町 |
下野白山神社跡 |
明治十九年まで赤尾四社の内の一つがここにあった平泉寺の境外末社で赤尾小白山と称された |
赤尾 |
平成16.3 |
○ |
a |
46 |
エコ町 |
寺野白山神社 |
明治十九年の統一までは 赤尾に四つの神社があり この神社もその内の一つであった合併後も昭和二十四年頃まで観音堂が建つていたが現在は神野の氏神となっている |
赤尾 |
平成19.3 |
○ |
a |
47 |
エコ町 |
筥ノ渡し |
泰澄大師が白山への途中九頭竜川を渡りたかったが 舟がなく百姓に箱のふたで渡してもらった |
大渡 |
平成15.7 |
○ |
a |
48 |
エコ町 |
幕根遺蹟御所五郎丸屋敷跡 |
九頭竜川右岸で河岸段丘上に立地する古い遺蹟 御所五郎丸が恩賞として壁倉周辺を拝領し社を建立 |
壁倉 |
平成16.3 |
○ |
a |
49 |
エコ町 |
壁倉の渡し |
大野にいた朝倉景鏡は朝倉義景を自害させた ので 一向一揆勢に恨まれ逃げる途中 壁倉 の渡しを渡り平泉寺の宝光院を頼ったことで 一揆が平泉寺を攻め滅ぼすとの噂がたった |
壁倉 |
平成18.3 |
○ |
a |
50 |
エコ町 |
筐野小学校跡 |
岩ヶ野小学校は明治二十五年廃校となり筐野小学校と合併した 筐野小は大正十四年平泉寺尋常高等小学校ができるまで 長坊山の地に学舎があった |
笹尾 |
平成18.3 |
○ |
a |
51 |
エコ町 |
長坊山東海和尚墓 |
笹尾に疫病が流行った為東海和尚が穴の中で疫病払いの念仏を唱え続け人柱となって死んだ |
笹尾 |
平成15.7 |
○ |
a |
52 |
エコ町 |
弁財天堂跡 |
白山六千坊の一つ 弁財天堂は人のけがれを払い天地(災)地変を排し人の福徳財宝を与える神 |
岩ケ野 |
平成15.7 |
○ |
a |
53 |
エコ町 |
泰澄大師宿泊大岩窟 |
教ケ岳噴火の際 生じた大岩窟は 岩影で泰澄大師が泊った「一の宿」とされる |
大矢谷 |
平成15.7 |
|
a |
54 |
エコ町 |
金坂 |
文章なし |
平泉寺 |
平成16.6 |
|
a |
55 |
エコ町 |
碁盤石 |
平泉寺六千坊時代、囲碁の得意な お坊さん連中が、この碁盤石に より碁を打ったといわれている |
平泉寺 |
平成20.8 |
|
a |
56 |
エコ町 |
弁財天堂跡 |
平泉寺四十八社三十六堂のひとつこの辺の字名は弁財天堂という |
平泉寺 |
平成18.3 |
関連資料
平泉寺にかかわる堂舎・石碑・史資料
平泉寺白山神社境内図
麻結地蔵
表6平泉寺町づくり碑
仏母寺
瀧の堂例祭
四至
延命地蔵
白山禅定道と河上御前の御開帳
白山と泰澄
泰澄の一生を記したものに『泰澄和尚伝記』がある。これは天徳元年(957)ころ、天台宗の僧淨蔵が語った泰澄についての事項を、その弟子神興が書き留めたものといわれている。それによると、泰澄は浅水(現在の福井市)に生まれ、父は三神安角で母は伊野氏の出身であるとされている。泰澄は養老元年(717)に越智山を下り、伊野氏出身とされる母の故郷に向かう。伊野は現在の猪野で伊野原を経てその東の林泉で泰澄は白山大神に出会う。この林泉は現在の白山神社境内にある御手洗池と考えられる。
この神(貴女)に導かれ初めて聖域白山に分け入り山頂の翠ケ池で龍神を示現させた。龍神は泰澄によって十一面観音に変わった。大汝峰や別山でも神々の本当の姿を出現させた。泰澄はその後都に登り元正天皇の病気を平癒させ疱瘡も終息させた。これにより神融禅師の称号を与えられまた越の大徳と呼ばれるようになる。こうして泰澄と白山の霊験は全国的に広まり白山信仰として確立されていく。
白山比咩神社蔵の『白山之記』は、白山信仰の成立過程を知る基本資料であり国の重要文化財に指定されている。それによると、天長9年(832)、白山への登拝拠点である馬場が、加賀、美濃、越前の三方に開かれたとされている。白山にいたる禅定道の起点は、越前側は平泉寺である。
修業者たちは神仏が住むとされる山頂を目指して険しい登拝道を登り、途中の行場で修業を積み重ね神と一体になろうとした。そして次第に修業の極みに達する山頂そのものが「禅定」(「禅頂」)と名付けられ、山頂にいたる修業者たちの道を「禅定道」と呼ぶようになった。「禅定道」そのものを描く絵図として、「北国白山天嶺御絵図」「北国白山天嶺之図」がある。近世の絵図には「白山道」などとも記される。
中世における白山登拝の記録は残念ながら残されていない。しかし経ケ岳で発見された回国聖の経筒などから、中世においては依然禅定道が利用されていたことがわかる。近世に入ると「白山道記」を始めとして、「白山紀行」「白山全上記」「白山行程記」「続白山紀行」など次々と著される。その行程は小舟渡の渡しから現在の勝山市荒土・野向・北谷町を通り白山に向かう。帰りは北谷から勝山町を通り平泉寺に寄り、泰澄も通ったとされる箱の渡しから大野に向かう。まれに帰路は禅定道を利用し平泉寺に降りることもあった。
平泉寺での河上御前を中心とした御開帳について
お開帳とは普段は秘仏になっている仏像などを公開することである。最近あきらかにされた称名寺「上素帖」に見る、承安2年(1172)の大講堂落慶法要などはお開帳のさきがけとされよう。平泉寺では33年に一度行われる河上御前のお開帳が代表的なものである。確認できる史料では宝永7年(1710)にまで遡ることができ、33年の周期は必ずしも守られていないものの、寛政3年(1796)以降はこの周期で行われてきたようである。近代に近づくにつれ興行的な要素が強くなる。勝山町に幟を立て境内では露店が立ち並び見世物も行われた。
天嶺での三所の社殿の再建あるいは本尊の鋳立を終えると、遷宮式とともに平泉寺でお開帳が行われた。安永2年(1773)には福井で出開帳まで行われている。前回の平成4年(1992)のお開帳は、白山国立公園昇格30周年記念式典と併せて行われた。5月15日から4日間の人出は14万8千人であった。(表5参照)
白山伏拝の碑
はるか白山を遥拝する白山伏拜と言われる場所はいくつか知られている。しかしながら文字を刻んだ石碑が建てられている場所となると数は少ない。ここに紹介するのは鹿谷町矢戸口区背後の622mの山頂附近に置かれている3基の石碑である。薄墨桜群生地に至るルートの少し先の白山伏拝の地点に建つ。山頂に至る道はかなり険しく途中で大野からの道と出会い、かつては大野と鹿谷地区を結ぶ山越えの道路であったと思われる。3基とも破損が激しく文字も一部が残るにすぎない。
真中の石碑に太田村と読める文字が見える。太田村は大野市下庄地区にあり、宝永7年(1719)の「大矢戸村明細帳写」(『大野市史』土蔵市右衛門家文書)に次のように記されている。「大光寺白山香岩太田村持山の内に御座候、是は先年大光寺と云御寺有り。此御寺より白山権現を殊の外御帰依なされ候…」。同じ大野市史の『地区編』大字太田の項に、「…今も大光寺跡と云われる平坦地が残り…背後に白山に向いて大きな岸壁があり…この岸壁の尾根にも平坦地があり、その桧の大木の根元に三基の石碑が置かれている。」
右
明(和五年カ)
白山
戊子三月 大田村
甚右衛門
真中
天保十一戌年(ママ)
三月
左
白山伏拜(拝)
少なくとも1基は太田村の甚右衛門が明和期(1764~72)に寄進したものである。他は「白山伏拝」と読める1基と、「天保十一(1840)」の年号のみが記される1基である。破損した一部分でさえかなりの重量があり山頂に運ぶのは容易ではなかったと思われる。江戸時代の人たちの白山への厚い信仰心が偲ばれる。伏拜の碑は永平寺町藤巻と片瀬区の大師山山頂にも建つ。前者はえち鉄小舟渡駅近くの「架橋記念碑」と並んで建てられている。
大師山からは白山がかすかに望むことができ大師堂の建物も今に残る。堂には泰澄自作と伝えられる像もかつては祀られていた。伏拜の碑は八角塔でそこには「寶前 奉寄進 泰澄大師 願主辻武左衛門尉良起」とあり、延宝8年(1680)に武左衛門が寄進したことがわかる。
関連資料
白山禅定道と河上御前の御開帳解
白山伏拝
開帳年表
史跡白山平泉寺旧境内と平泉寺墓地
古代末から中世の白山・平泉寺
山岳寺院として出発した平泉寺は、比叡山延暦寺末となることで越前国内での地位を不動のものとし、中央にも知られるようになった。在地有力武士団である斉藤氏、さらには中央の二大勢力である平氏や源氏、といった新興武士勢力とも状況に応じて関係を結んだ。一方で、牛ケ原荘など大野方面に進出しその勢力を広げていった。
1368年に室町幕府が成立すると5代将軍義教から平泉寺造営費用として、7ケ国棟別銭を充てる権限を得るなど、中央政界とのパイプは健在だった。越前国内での地位はより強固なものとなり、九頭龍川河口域にまで進出し金融活動を活発に行う。寺領に加えこうした得た経済収益などにより、寺領9万石(貫)とまで言われるようになった。
1467年から11年間にわたる応仁文明の大乱を経て、越前国内で急成長してきた朝倉氏とも手を結んだ。こうして「白山平泉寺境内絵図」に見られるような、平泉寺はまさに中世宗教都市として全盛期を迎えたのである。しかし天正2年(1574)、七山家を中心とする一向一揆に攻められ平泉寺は灰燼に帰してしまった。
平泉寺は全国66の霊場の一つに数えられ、大永2年(1522)に回国聖が奉納した経筒が、禅定道の一ルートであった経ケ岳で発見されている。
天正の焼亡から近世の白山・平泉寺
天正11年(1583)顕海が美濃から帰還し、平泉寺再興に向けての取組みが始まり、同年豊臣秀吉から禁制も与えられた。白山天嶺及び平泉寺の諸社の社殿・本尊も、諸領主の寄進により順次再興再鋳されていった。慶長6年(1601)福井藩から寄進された200石の寺領は、寛永元年(1624)改めて幕府から朱印地として与えられた。その後、福井藩・勝山藩から寄進された分と合わせると330石の寺領を所有することになった。平泉寺玄成院は「国家安穏」「五穀豊穣」の祈祷を行うことでこれに応えた。幕藩権力は平泉寺を通じて白山神の加護を期待していたことがうかがえる。こうしたこともあり平泉寺は寛永寺末となる。
白山麓村々をめぐる加賀・越前の争い、天嶺における平泉寺と山麓村々との度々の争いは、おおむね平泉寺の言い分が認められた。諸社殿・本尊は破損・焼失を繰り返したが、主に平泉寺の主導のもとに再建・再鋳された。
平泉寺の主な宗教活動は中世近世を通じてほとんど記録が残らず不明な点が多い。しかし数少ない史料から護摩供養、毎月17日の開山堂での逮夜法楽などを行っていたことがわかる。白山の雪が消える6月になると役人が市の瀬に詰め、院主も登頂し祈祷を行った。福井に出向いてのものも含めてお開帳行事、諸国勧進も宗教活動の一環としてあげられる。
平泉寺は参拝客も少なったと思われるが、お開帳は大勢の参拝客でにぎわった。白山天嶺・平泉寺参詣の嚆矢となったのは慶長10年の福井藩主松平秀康である。これ以降福井・勝山の藩主はしばしば平泉寺に参拝する様になる。また中世の修行者に代わり一般庶民が湯治を兼ね白山に登り、行き帰りに平泉寺を訪れるようになった。
平泉寺墓地
平泉寺の坊院に居住していた僧侶たちを供養した室町末期の石仏・五輪塔・宝篋印塔が約550点残されている。その他、元正天皇や顕海にかかわる石碑も立つ。墓地は市の指定文化財となっている。
元正天皇御歯髪塔
塔は平泉寺町の字向三昧に昭和15年(1940)に修補された。
碑には次のように刻まれている。
(側面)皇紀二千六百年七月二十日奉修之
(側面)元正天皇勅願所 霊應山平泉寺
呉石 西脇 静 謹書
地元住民は古来よりこの地を「御歯髪さん」と称し、高貴な方のお墓があった場所として畏れて近寄らず保存されてきた。竹内鉄也氏らは平泉寺を開基した泰澄大師と密接な関係がある元正天皇の御歯髪と考えた。こうして当地に御歯髪塔が建てられることになった。
元正天皇御歯髪塔奉修記念碑と顕海墓
碑がこの場所に建てられた所以は、向三昧の東端の約百坪の地が古来「オハガミ」「オハミサン」と称し、高貴な方のお墓があった場所として畏敬されてきたことによる。昭和15年(1940)、歯髪塔の近くに「元正天皇御歯髪塔奉修記念碑」も建てられた。裏面の会員氏名は判読できないが、表には以下のような趣旨が記されている。 本年は昭和12年の日中戦争開始から4年が経過し、皇紀二千六百年を迎えさらに平泉寺中興の祖顕海上人三百五十回忌の年にもあたる。そこで有志が相図って奉賛会を結成しこのような事業を実施することになった。
元正天皇にかかわる碑はもう一つ建てられている。「元正天皇御歯髪塚」で、その由来についてはよくわからない。裏面に昭和58年10月吉日 平泉寺区と記されている。この碑の背後には「御経台」の碑も建つが元正天皇に関係するものかどうかはわからない。
少し離れた場所には賢聖(玄成)院の再興にかかわった顕海・専海・日海三人の墓が建てられている。天正2年(1574)、平泉寺は一向一揆に攻撃され焼亡するが、顕海は弟子の専海・日海とともに逃れ、美濃国(岐阜県)桔梗原に移り住んだ。そして顕海ら三人は10年ぶりで焼け跡に戻り平泉寺を再興する。中央の顕海墓には「當山再興僧正顕海法印」とあり、裏面には「天正十七己丑二月廿七日」とある。昭和15年はこの年からちょうど350年目にあたった。
境内
かつての境内には48社36堂が建ち並び南谷・北谷には6000人の僧が住んでいたとされる。その繁栄の様子は「白山平泉寺境内図」からもうかがえる。現在は本殿・越南知社・別山社の三社を中心に三ノ宮社・剣ノ宮など往時に比べればその数は少ない。
堂舎は少なくなったが開祖泰澄大師を祀る泰澄大師廟、女神が降り立ったとされる御手洗池、南朝の忠臣楠木正成の墓、中世の石畳道が発掘された南谷など見学スポットは多い。何より観光客が目を奪われるのは境内を覆うコケである。コケを目当てに訪れる観光客も多い。拝殿の慶長から寛永期(1596~1644)に福井藩主や勝山藩主が寄進した絵馬は市の指定文化財となっている。同じく宝物館には絵図類始め中世の宝物が所蔵されているがこれらは公開される機会は少ない。
菩提林
下馬大橋を渡り約900メートルの間は菩提林と名づけられ、林の中央を2本道が並列して走る。右側は石畳道ではっきりした年代はわからないが、平泉寺が殷賑を極めた頃に衆徒が九頭龍川から手送りで造ったと伝える。石裏には法華経の文字を記し埋めたとも伝える。この道は当寺の学頭(別当)や賓客のみ通行が許され、一般人は一段下の道を通行した。
旧参道は日本の道百選に選ばれている。大正15年(1926)の河上御前のお開帳にあわせ、野辺自動車は勝山駅からの多くの参拝人を運ぶためバスを走らせた。その際にこの道も改修された。
17世紀初期に成立した「慶長国絵図」は中世の景観を描いているとされる。そこには平泉寺が描かれ天正の兵火から徐々に立ち直りつつある建物群が描かれている。17世紀後半の「貞享国絵図」には多くの建物群が描かれ、大門入口から奥の院に向かいかなり広い道が続いている。そこには「菩提林」と記され杉の大木がその両側に見られる。
奥院からは白山に向かい禅定道も描かれている。菩提という言葉は煩悩を断ち切り悟りを得るという意味なので、鬱蒼と茂った林を歩きながら徐々に煩悩を断ち切り、神聖な白山に向かう道として名づけられたのであろう。その歴史の古さをうかがわせる。この禅定道は歴史の道百選に選ばれている。
慶長8年には本多富正が「菩提林禁制」を出し伐採等を禁じ、翌年には福井藩から賢聖院に宛て「平泉寺菩提林御寄進状」が出されている。
昔の写真
関連資料