【リンク】社会科デジタル教材
石嶺町は、首里東部に位置し、北は浦添市、東は西原町に接する広大な高台にあります。西原間切の村であったが、大正9年、首里区に編入され、大正末期に町となりました。
もとは平坦で水利がよく水田が多い地域でした。首里編入後は、サトウキビ、野菜作りがさかんで黒糖製造も行われていました。西端から東に延びる丘陵地には御殿の別荘や墓地はあり、伊江御殿、豊見城御殿の別荘地と御殿墓があります。
佐見は、岐阜県加茂郡白川町の地域の名前です。東濃ひのきや白川茶、麦飯石を産することでも知られています。佐見は岐阜県南部に位置し、すぐ北には旧美濃国と旧飛騨国の境があります。中津川市との境には二ツ森山(標高1,223メートル)が、東白川村および中津川市との間には尾城山(標高1,133メートル)があります。
この地は山間部に当たるため気候は内陸性のもので年間平均気温がおよそ12℃、年間降水量が2,250mmほどとなっています。 町の9割を山林が占め、標高の高低差は激しく居住に適する地は川沿いのごくわずかです。町の西部に北から流れる飛騨川があり、東から流れる佐見川、白川、黒川、赤川などを合流して南西へと流れます。 市街地は飛騨川と白川の合流付近の白川沿いにあります。
【報告書】令和元年度 私立大学研究ブランディング事業外部評価委員会
日 時:令和2年2月20日(木) 14:00〜15:00
場 所:岐阜女子大学本館2階
委員会次第
【議題】
1.開会 (14:00〜14:10)
2.私立大学研究ブランディング事業の活動報告(14:10〜14:15)
3.特別企画活動状況の報告(14:15〜14:20)
4.評価委員講評 (14:20~14:55)
5.閉 会(14:55~15:00)
私立大学研究ブランディング事業外部評価委員会
資料2 私立大学研究ブランディング事業(外部評価委員会報告)
資料3 私立大学研究ブランディング事業報告会(特別企画活動状況の報告)
私立大学研究ブランディング事業報告会議事録
デジタルアーカイブ専攻ポスター
【連携】岐阜市との「地域活性化に関する包括連携協定」
岐阜女子大学は、令和2年2月3日岐阜市(柴橋正直市長)と地域活性化に関する包括連携協定を締結いたしました。本学が自治体との包括協定を締結するのは3例目となります。
この協定は、双方が多様な分野で包括的に連携と協力関係を築き、地域の課題に適切に対応し、協働による事業を推進することにより、活力ある地域社会の形成・発展や未来を担う人材育成などの地域社会に寄与することを目的としています。
連携内容は、次の事項です。
(1)教育、文化の振興に関すること
(2)健康づくりに関すること
(3)まちづくりに、地域の活性化に関すること
(4)人材育成に関すること
(5)災害対応に関すること
(6)上記各号に掲げるもののほか、目的を達成するために必要な事項に関すること
柴橋岐阜市長から、岐阜提灯や岐阜和傘などの伝統文化産業をはじめ「本物志向の観光街づくり」の推進に大いに期待しているとの話があり、松川学長は、本学の有する多様な知を岐阜市における地域課題と結び付け、独創的、先進的な取組みにチャレンジしていくと応えました。本学はデジタルアーカイブを始めとする大学力により地域貢献に努めて参ります。
私立大学研究ブランディング事業報告会
【報告書】記録のチカラ ~ デジタルアーカイブが新たな価値の基盤を創る ~
日 時:令和2年2月11日(火・祝)10:00~16:00(受付9:30~)
会 場:岐阜女子大学 文化情報研究センター
〒500-8813 岐阜県岐阜市明徳町10番地 杉山ビル 6F
TEL 058-267-5237 FAX 058-267-5238
主 催:岐阜女子大学
後 援:岐阜市・郡上市・高山市・NPO法人日本デジタルアーカイブ資格認定機構・デジタルアーカイブ学会・日本教育情報学会(予定)
参加費:無料(申し込み不要・当日会場にお越しください)
定 員:200名(先着順)
お問い合わせ先:岐阜女子大学デジタルアーカイブ専攻
(TEL:058-214-9341 久世均研究室 E-mail:pfe01173@nifty.com)
内 容:
■10:00~10:50 私立大学研究ブランディング事業報告
「地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成のための基盤整備事業」
■11:00~12:00 基調講演
「記録のチカラ ~デジタルアーカイブが新たな価値の基盤を創る~」
青柳 正規(あおやぎ まさのり)氏
多摩美術大学理事長・元文化庁長官・東京大学名誉教授、
■13:00~16:00 各研究会並びに講座
私立大学研究ブランディング事業報告会
-
私立大学研究ブランディング事業報告会(デジタルアーカイブ活用研究会)
-
私立大学研究ブランディング事業報告会(デジタルアーカイブ実践研究会)
-
私立大学研究ブランディング事業報告会(デジタルアーカイブ研究会)
□当日の様子
参加者 午前の部 165名
午後の部 175名
映像資料
関連資料
青柳先生プレゼン(PDF)
岐阜女子大学_青柳正規氏プレゼン資料(PPT)
20200210デジタルアーカイブ研究と新たな展開(2月11日講演資料)
20200211進行表(完成)
勝山市における白山文化遺デジタルアーイブ(宝珍)
【講座】デジタルアーカイブクリエータ資格取得講座
日 時 令和元年12月22日(日)
会 場 岐阜県立郡上北高等学校(郡上市白鳥町為真1265番地2)
主 催 岐阜女子大学・郡上ケーブルテレビ
受講対象:高校生/一般の方
● デジタルアーカイブに興味を持っている高校生/一般の方
● デジタルアーカイブクリエータ資格の取得を希望する高校生/一般の方
定 員:40名 (定員になりしだい締め切らせていただきます。)
募集期間:令和元年10月1日(火)~12月18日(水)
受講料:無料
● デジタルアーカイブクリエータ資格を取得希望者は別途認定料(高校生\2,500/一般の方\5,000)が必要になります。
申込方法:Fax(裏面用紙)058-267-5238 または Email pfe01173@nifty.com
● (1)開催日, (2)会場名, (3)郵便番号, (4)住所, (5)氏名(フリガナ) , (6)所属(学校名/企業名等), (7)資格認定希望の有無 を明記のうえ、お送りください。後日受講表を送付いたします。
デジタルアーカイブ・クリエータ資格取得講座
ANAアーカイブスと共催で開催!準デジタルアーキビスト資格取得講座の開催
高校生をはじめ、情報関連企業、メディア関係、博物館、図書館、史料館、文書館、教育関係、出版関係、公務員などに向けたデジタル・アーキビスト資格取得講座、準デジタル・アーキビスト資格取得講座を開催しています。
岐阜のほかに東京、大阪、福岡の主要都市で行われ、多くの方が受講しています。
令和2年2月23日(日)に、ANA_Blue_Baseにて、準デジタル・アーキビスト資格取得講座を開催することになりました。
高校生のみなさん、ぜひご参加下さい。
ANA準DA講習会案内
酒列磯前神社
『文徳実録』によると、文徳天皇の斉衡3年(856年)12月29日に常陸国鹿島郡大洗磯前に御祭神大己貴命・少彦名命が御降臨になり、塩焼き(塩を精製する者)の一人に神がかりして、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり」と託宣され、当社「酒列磯前神社」が創建され、また現在の東茨城郡大洗町には「大洗磯前神社」が祀られました。翌天安元年8月には官社に列せられ、更に10月には「酒列磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。延喜の制では名神大社に明治18年4月には国幣中社に「大洗磯前神社」と共に列されました。御社殿はかつては現在の第一鳥居付近(ひたちなか市史跡-「比観亭跡」)に鎮座していましたが、水戸藩2代藩主徳川光圀公が由緒深い名社の荒廃を嘆き元禄年間御造営の計を起し、3代綱條公が現在地に遷座再興されました。現在の社殿は国費を持って昭和12年に改築竣工し、拝殿に施された「リスとブドウ」の彫刻は日光東照宮御造営後の左甚五郎の作と伝わっています。
#左甚五郎
資料集
184_195_酒列磯前神社
左甚五郎
左 甚五郎(ひだり じんごろう、ひだの じんごろう)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。講談や浪曲、落語、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代 – 江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。逸話などでその存在さえも疑われているが[1]、実在の人物として記述している文献も見られる。
足利家臣・伊丹左近尉正利を父として、文禄3年(1594年)に播磨国明石に生まれた。父親の亡き後、叔父である飛騨高山藩士・河合忠左衛門宅に寄寓。慶長11年(1606年)、京伏見禁裏大工棟梁・遊左法橋与平次の弟子となった。元和5年(1619年)に江戸へ下り、将軍家大工頭・甲良宗広[注釈 1]の女婿となり、堂宮大工棟梁として名を上げた。江戸城改築に参画し、西の丸地下道の秘密計画保持のために襲われたが、刺客を倒し、寛永11年(1634年)から庇護者である老中・土井利勝の女婿で讃岐高松藩主・生駒高俊のもとに亡命。その後、寛永17年(1640年)に京都に戻り、師の名を継いで禁裏大工棟梁を拝命、法橋の官位を得た後、寛永19年(1642年)に高松藩の客文頭領となったが、慶安4年(1651年)頃に逝去。享年58[。
名工・左甚五郎のモデル、岸上一族の一人である初代・岸上甚五郎左義信は永正元年(1504年)に誕生し、66歳で没したとされている。16歳の時に多武峯十三塔その他を建立し、その時の天下人に「見事である。昔より右に出る者はいない。」「それでは甚五郎は左である。」「左を号すべし。」と言わしめた。そのお達しにより、位(号)として“左”を名乗ったといわれている。実在の人物であり貝塚生まれであるということを実証する資料として西光寺 (香芝市)鳳凰の欄間がある。
左甚五郎の伝承を持つ作品
眠り猫(日光東照宮)
閼伽井屋の龍(園城寺)
鯉山の鯉(京都の祇園祭)
日光東照宮(栃木県日光市) – 眠り猫
妻沼聖天山 歓喜院(埼玉県熊谷市) – 本殿 「鷲と猿」
秩父神社(埼玉県秩父市) – 子宝・子育ての虎、つなぎの龍
泉福寺(埼玉県桶川市) – 正門の竜
安楽寺(埼玉県比企郡吉見町) – 野あらしの虎
慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町) – 夜荒らしの名馬
国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大崎)
上野東照宮(東京都台東区) – 唐門 「昇り龍」、「降り龍」
上行寺(神奈川県鎌倉市) – 山門の竜
淨照寺(山梨県大月市)- 本堂欄間
長国寺(長野県長野市)- 霊屋 破風の鶴
龍潭寺(静岡県浜松市)- 龍の彫刻 鶯張りの廊下
定光寺(愛知県瀬戸市)- 徳川義直候廟所 獅子門
誠照寺(福井県鯖江市) – 山門 駆け出しの竜、蛙股の唐獅子
園城寺(滋賀県大津市) – 閼伽井屋の龍
石清水八幡宮(京都府八幡市)
成相寺(京都府宮津市)
養源院(京都府京都市東山区) – 鶯張りの廊下
知恩院(京都府京都市東山区) – 御影堂の天井に左甚五郎が置いていったという「忘れ傘」。鶯張りの長廊下もある。
祇園祭 (京都府)- 鯉山の鯉
稲爪神社(兵庫県明石市)
圓教寺(兵庫県姫路市) – 力士像
加太春日神社(和歌山県和歌山市加田)
出雲大社(島根県出雲市) – 八足門 蛙股の瑞獣、流水紋
西光寺(奈良県香芝市)- 鳳凰の欄間
飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)稲喰神馬(黒駒)
これらの中には、作風が似つかない物もある。他人の作品に甚五郎の名前を付けられることもあり、名の知れた彫刻師だったのだと考えられる。
#左甚五郎
西橋寺
天文年間、上舟岡に阿弥陀堂と称する草庵があった。関東18檀林の一つ武州鴻巣の勝願寺(埼玉県)の則伴頭を務め諸国を回っていた寂湛が、天正10年(1582)当所に一宇を造立した。現在の建物は享保5年(1720)造営のもの。切口8畳敷の欅1本で造られたといわれる。本堂向拝の上に左甚五郎作といわれる兎の彫刻がある。
本堂正面向拝の上に、左甚五郎作といわれる「波に兎」の彫刻があります。昔、田んぼの畦の豆を食べる兎が夜な夜な出没し、農家を困らせていました。その兎は西橋寺の兎に違いないとして、「波に兎」の彫刻に網がかけられました。正に生きた兎の彫刻は左甚五郎作のものであると言い伝えられています。
#左甚五郎
資料集
173_184_西橋寺
出雲大社
出雲大社(いずもおおやしろ、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神[2]。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社[1]。神社本庁の別表神社[1]。宗教法人出雲大社教の宗祠。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する[3]。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
八足門は蛙股(かえるまた)の瑞獣や流水文などの彫刻が施され、左甚五郎の作と云われる。
#左甚五郎
資料集
174_185_出雲大社
方広寺
方広寺(ほうこうじ)は、京都府京都市東山区にある天台宗の寺院。通称は「大仏」または「大仏殿」。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建された。
豊臣秀吉は天正14年(1586年)に、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。当初は東山の東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定で、小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺の古渓宗陳を開山に招請した。大仏と大仏殿の造立はいったん中止され遣迎院の移転も途中で中止(おかげで遣迎院は南北に分立)された。
のち天正16年(1588年)に、場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地に変更して再開(佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転)した。秀吉は大規模工事に巧みであった高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。
大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ、また大和大路の西側には秀吉の手により伏見街道も整備され、さらに秀吉は五条大橋を六条坊門に移し京外への出口とするとともに大仏への参詣の便とした。小田原征伐を挟んで天正19年(1591年)5月に大仏殿の立柱式が行われ(言経卿記)、文禄2年(1593年)9月に上棟(多聞院日記、三宝院文書)、文禄4年(1595年)に完成をみた。同年9月25日には秀吉自身の祖父母の供養のため寺内の南北15間東西21間の巨大な経堂で千僧供養会を行った。天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、浄土真宗(一向宗)の僧が出仕を要請された。千僧供養は以後豊臣家滅亡まで、毎月行われた。千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、妙法院に残る。当時の敷地は広大なもので、妙法院はもちろん、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。
現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重文)や南大門(重文・豊臣秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。
なお、東寺の南大門(重文)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである。この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという。
また、刀狩で没収した武器を再利用して釘にしたものも使われた。なお、造営期間短縮のため、大仏は当初計画されていた銅造ではなく木造「漆膠(シツクヰ)」で造られた(『太閤記』)。
この大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられる[1]。なおこのとき大仏殿は倒壊を免れている。秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した大仏に代わり、善光寺如来(善光寺式阿弥陀三尊)(当時は甲斐善光寺に在り)を移座して本尊に迎えることを計画。
木食応其の尽力により、慶長2年(1597年)7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された(義演准后日記)。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(『鹿苑日録』『義演准后日記』)、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった。
秀吉は翌慶長3年(1598年)病に臥したが、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年8月17日、善光寺如来は信濃国の善光寺へ戻されることとなった。しかし、翌8月18日に秀吉は没した。
その後、豊臣秀頼は慶長4年(1599年)、木食応其に命じて銅造での大仏復興を図るが、慶長7年(1602年)流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は烏有に帰した。
慶長13年(1608年)より再建が開始され、慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には大仏に金箔を押すところまで完成。慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。
上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものとみなされ、最終的には大坂の陣による豊臣家の滅亡を招いてしまったとされる(方広寺鐘銘事件)。なおこの事件を徳川方の言いがかりとする見方がある一方で、「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意を持たなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。片桐且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」とする指摘もある。
また大工棟梁を勤めた中井正清から家康への注進により大仏殿の棟札にも不穏の文字があるとされた。大仏自体は大坂の陣の後も残されたが、寛文2年(1662年)の地震で大破。大仏は寛文7年(1667年)に木造で再興され、壊れた銅造の大仏のほうは寛永通宝の原料とされた。この大仏も寛政10年(1798年)落雷による火災で焼失。以後は同様の規模のものは再建されなかった(大仏および大仏殿の建造と焼失の経緯は「京の大仏」の記事を参照)。
また、豊臣家が滅亡した直後の元和元年(1615年)8月18日には、豊国大明神の神号を剥奪された秀吉の霊が、「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられて、廃された豊国社本殿から大仏殿後方南に建立された五輪塔に移された。この石造五輪塔は現在の豊国神社境内宝物殿裏に「馬塚」として遺る。
なお、当時の史料ではこれを「墳墓」としている(『妙法院文書』)。なお、「方広寺」という名は創建当時から江戸初期にかけての文献には一切現れず当時はただ「大仏」とのみ呼ばれていた。方広寺命名の経緯・時期は不明だが、経典(大方広経)から採ったといわれ、また経典にかこつけて「豊公(ほうこう)」の名を託したとも考えられる。
だが庶民の間では江戸期を通じて「大仏」の名で親しまれた。長崎出島のオランダ人なども江戸参府のおりに訪れ、江戸幕府が朝鮮通信使を案内した際には「秀吉の寺」として拒絶反応を示されて対応に苦慮したことが記録に残る。江戸時代後期の天保年間(1830年 – 1844年)、尾張国の有志により、上半身のみの大仏が木造で再興された。
1871年(明治3年)、方広寺境内の大部分は収公され、現在の規模となった。1973年(昭和48年)の火災により、上述の天保再興の大仏は焼失した。
前述の「国家安康」の鐘は現存して重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。大仏殿は、2000年(平成12年)発掘調査により東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。大仏が安置されていた場所からは八角の石の基壇も発掘されている。
基壇に使われた花崗岩の切り石の多くは、1873年(明治6年)に京都市の内外に京都府により築造された6基の石造アーチ橋の建材に転用された。大仏殿のあった場所には明治になって豊国神社が建てられた。門前の餅屋が売っていた「大仏餅」は大仏を型押しした餅で、大仏を訪れた人々のよい土産となった。
この餅屋には石川五右衛門が住みこんでいたという伝説がある。鴨川河原まで通じる抜け道もあったという。門前、餅屋があった向かい辺りには、秀吉が築かせた耳塚がある。
#左甚五郎
資料集
175_186_方広寺