白山中居神社 (はくさんちゅうきょじんじゃ)
伊野原の郷には、9000年前より人々が住み着き(島口遺跡確認)、本社は縄文時代より、磐境に国常立尊の降神を仰ぎ、祭祀が斎行されたのが始まりで、現在は、七月第三日曜日の夏祭りに、石徹白創業祭が、磐境神事として、執行されています。ご本殿の創設は、景行天皇12年(83)に、白山の真南は、宮川の上流、長龍滝と短龍滝の間、朝日直射し、夕日輝く処に、伊弉諾尊を祀り給えのご神託のあったのが、正月中の日でありました。養老元年(717)越の大徳泰澄大師が白山を開闢の時、当社に3年間滞在し、別山を上社とし、中居神社を下社とした白山参道並びに、中居神社を整備なされました。鵜葺草葺不合尊の二の峰社・神鳩社・今清水社・美女下社等も含めて、神仏混淆となり、鳥居も両部鳥居になりました。そして、現在のご本殿は、安政2年から3年にかけて、福井県は永平寺町第27代大工棟梁玄之源左衛門が建築を担当し、彫刻は同地の後藤簾之助と諏訪の立川和四郎2代冨昌と昌敬の合作であります。本殿の「栗穂に鶉」の彫刻は「七十五歳立川富昌」の花押あり、海老虹梁の龍・脇障子の子育ての獅子は昌敬、大虹梁の菊は冨昌等、優れた傑作として、評価されています。境内は1400年有余の杉大樹が社叢を取り囲み、県の天然記念物指定となっています。今清水社境内には、樹齢1800年の日本一の大杉が、白山信仰の歴史を今に伝えています。四十代天武天皇・四五代聖武天皇寄進の刀剣、六十代醍醐天皇の時代藤原能信寄進白山大鏡五十余品奉納。九十一代後宇多天皇刀剣長光奉納。木曾義仲戦勝祈願立願状・伊藤加賀守秀盛主君豊臣秀吉と家族の立願状。無形文化財として、「五段神楽」、は宮廷を祝う祭りとして、奉納されたのが始まりの無形文化財です。神輿は、白黒の幕で覆われ、12人の担ぎ手により、天狗面を先頭に、御旅所まで賑々しく神楽に囃されながら、出御され、五段神楽の舞を奉納して、拝殿まで遷御の祭礼が、五月第三日曜日の春の例大祭に御神前に奉納されています。秋の祭りは、十月第三日曜日に「新嘗祭」が、「ゲド投げ祭り」として、執り行われています。
特殊神事 磐境神事・ゲド投げ祭り
文化財等 五段神楽
五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。吉田神道は、宝暦騒動の頃に、朝廷を中心とした、天下太平国家安全を祝う祭りの性格を、一地方の単なる春祭りの神楽に移行され、五行舞を五段神楽に改められた。五段神楽は、?舞いの楽器は、5種類であること。?舞いの方向と動きが、5行相生の5行であり、5行の輪廻と環境の舞いであること。?石徹白の五行又は五段のみの特徴として、鳶の舞いがあり、神武天皇の建国時の瑞兆の鳥の鵄(とび)の舞に始まるこの舞いは、建国と天下太平を祈る舞いに最もふさわしいこと。?御旅所への移動に先導して吹奏する笛の曲を五行と呼んでいること。?往事は、最後が舞姫3人が全員で5行相生の舞で終わっていたが、現在は2人が弊と鈴で、五行相生の舞で終わっていること。?巫女の装束は、金色の天冠・白鉢巻・後頭部五色(青・赤・黄・白・黒)のたけなが布・紅白の下着・緋の袴・赤地に金襴の胴衣・白足袋・紙緒草履・その他、たけながの布の色も五行であること。以上6点で五行舞の五行が継承されており、石徹白の五段神楽は、歴史的時代背景は、古代天武期を期限とした五行舞で、その後幕府や大名支配の時代の吉田神道の影響で、五段神楽として、里神楽的色彩を強めつつ、尚、古典の五行舞の要素を強く堅持している無形文化財は、石徹白の春の例祭に、御神前に、一年に1度だけ、奉納されています。
刀剣 天武天皇奉納剣・聖生天皇奉納太刀 能面 父尉(ちちのじょう)「日吉与十郎」墨書銘・男の面 室町時代作品、地塗り胡粉、唇は朱、葉は黒。若い女 「白山参柴山喜蔵天正八二月」寄進の銘、天正八年(1580)制作。女面 室町時代作品、胡粉地の白肉色、眼と歯は黒。天狗面 室町時代作品、「与十郎(花押)」墨書、朱
動画資料
資料集
007_009_白山中居神社
阿弥陀ヶ滝(あみだがたき)
長良川の源流に近い郡上市白鳥町の阿弥陀ヶ滝は、落差が約60mあり、緑樹の間から、瀑音を響かせ落ちるさまは、東海の名瀑と呼ぶにふさわしく「日本の滝100選」にも選ばれています。滝の北側には昼なお暗い洞窟があり、当時の白山中宮長滝寺の僧、道雅法師がこの中で修行し護摩をたいたところ阿弥陀如来の姿が浮かびあがったところから阿弥陀ヶ滝と呼び名がつきました。水の透明度が高く、朝日を背にして滝の前に立つと、水煙りの中に自分の影がうつり影の回りがぼんやりと虹色に縁どられて見えるので、まるで自分が阿弥陀さまになった気分が味わえます。厳冬期には滝が氷結し、春の新緑、秋の紅葉、夏でもひんやりとした空気が漂い清涼感あふれ、四季を通じそれぞれに趣があり、奥美濃の景勝地となっています。(編集中)
資料集
006_008_阿弥陀ヶ滝
関連資料
阿弥陀ケ滝
森八幡神社(森八幡神社・水無八幡神社・松森八幡宮)
森水無八幡神社(もりみなしはちまんじんじゃ)は、岐阜県下呂市にある八幡神社である。「森八幡神社」とも言う。
毎年2月に行われる田の神祭は、「田遊び」がその元となっているとされる豊作予祝祭であり、重要無形民俗文化財に指定されている。
1 森八幡(はちまん)神社(森八幡神社・水無八幡神社・松森八幡宮)
下呂町森字羽根1,321番地
.祭神 御食(みけ)津(つの)神・応神(おうじん)天皇
猿(さる)田(だ)彦(ひこの)神・倉(うか)稲(の)魂(みたまの)神
事解男(ことどきおの)神・速(はや)玉(たまの)神
須佐之(すさの)男(おの)神・大山(おおやま)祗(つみの)神
火産(ほむ)霊(すびの)神・大(おお)己(な)貴(むちの)神
埴山(はにやま)姫(ひめの)神・興(おき)津(つ)彦(ひこの)神
興(おき)津(つ)姫(ひめの)神(下呂町誌)
注、官制中の『神名帳』には、御食(みけ)津(つの)神・猿(さる)田(だ)彦(ひこの)神はない。
由緒 『斐太後風土記』によると、その創始は第16代仁徳天皇の御代とするのは、八幡八社説による。山岳崇拝に始まった祭祀とも見られ、あるいは農耕祖神の祭ともうかがわれ、さらには、道祖神祭とも考えられる特殊神事が多く、由緒が雑多であり、確定しがたい。
神社は戦国末期まで、年6回の祭礼があった。三木氏より祭祀料田3町6反を付されたが、金森氏に及んで例祭は年1回となり、社領は召し上げられた。当時八幡神社の祭礼は、一宮水無神社と、久津八幡宮とともに「飛騨の三大祭」と称せられた。
戸田釆女正による元禄検地に、1反6畝歩の境内除地があり、下呂郷中の「総社」と言った。明治維新(1868)村社に列し、森区の氏神となり、いつの間にか別当泰心寺との関係も絶えた。同40年に、神饌幣帛料の供進指定を受け、同41年には神社会計指定、同42年には、区内11社を合併合祀した。
古来「御(み)厨(くり)屋(や)」または「当屋」的存在の田口両家と、小池の3家が田神祭の中心となる等、こうした例には飛騨国中に類例がない。
祭祀 例祭2月14日。祈年祭2月17日。新嘗祭11月23日。
下呂祭・田之神祭・飼蚕祭等、それぞれ各特殊な神事芸能がある。国中最大最古の祭礼で、一宮御祭礼とともに古式ゆかしく、国指定重要民俗芸能の神事である。
明治13年に、旧暦1月14日を新暦2月14日に変更され、今日に至っている。
<引用文献>
土田吉左衛門編集『飛騨の神社』1,282~1,283頁 飛騨神職会発行 昭和63年
2 木造神像
国指定重要文化財 昭和15年10月21日指定
本神社の収蔵庫には、10体の木造神像が保管されている。木造神像は、像高30~60㎝で、平安時代から鎌倉時代にかけて飛騨の匠の手によって彫られた。神像は、風俗的にも彫刻的にも地方色を生かした素朴なもので貴重なものである。
3 田の神祭
国指定重要無形民俗文化財 昭和56年1月21日指定
本神社の祭事として毎年2月14日に境内で行われる。中世以来の田遊びの芸能が規模、様式ともに伝承されており、希にみる貴重な民俗資料とされている。4人の若者が、大きな色とりどりのかぶり笠をつけて踊ることから、別名「花笠祭」と言われ、飛騨で最も早い祭であることから、「飛騨路に春を告げる祭」として賑わう。
4 下呂之大杉の由来
この地に樹齢2千有余年、周囲13米の巨大な杉の老木が茂っていた。
記録によると、安政6年(1859)1月20日、湯之島下町より出火、折りからの強風にあおられ飛び火し、2番杉は途中で焼き折れ、拝殿、神輿堂を焼失したが、大杉は真頭を焼失するに留まり生き残った。
昭和3年(1928)、国の天然記念物に指定され、近隣に比類なき巨木「下呂の大杉」と親しまれていた。ところが、昭和27年(1952)5月8日、又もや湯之島下町より出火、5月特有の北風にあおられて大杉に飛び火し、巨大な煙突の如く燃え上がり、惜しくも上部を焼失してしまった。
そのため国の指定は解除されたが、焼け残った基部約10米は、岐阜県の天然記念物に指定されていた。
度重なる火災にあい「火伏せの大杉」と崇められていたものの、内部は畳が6枚程敷ける空洞であった。しかし外壁にあたる幹の一部と、地上5米程から出て高さ12米程にのびた1の枝は青々と茂り生き永らえていた。枝とはいえ直径50糎をこす太さであった。
しかるに、平成2年(1990)8月9日、補強工事を目前にして腐食が進み、突如倒壊してしまった。現在、大杉の立っていた跡に2世の若木が植えられている。
*2~4は説明版より
資料集
038_043_飛騨八幡八社・森八幡神社
久津八幡宮(くづはちまん)
1 概要
祭 神 應神天皇、天照皇大神、春日大神を主神とし仁徳天皇をはじめ八柱の大神を配祀する。
由 緒 仁徳天皇65年(377)勅命により難波子武振熊命が飛騨国の両面宿儺を征討の途次應神天皇の霊を奉祀したのを創祀とし平治の乱(259)役募兵のため飛騨に入国した源義平が鶴岡八幡宮の神霊を勧請奉斎したのを當宮の鎮座とする。
その役応永19年(1412)飛騨国領主白井太郎俊國が現在の本殿を再建し天正9年(1581)飛騨国領主三木自綱が現在の拝殿を建立した。以後飛騨国藩主金森氏や幕府の代官、郡代により次々に修理造営が行われてきている。
古くから飛騨二の宮南飛騨総鎮守と称され飛騨国中はもとより越中、美濃からも厚く崇敬されている。
例大祭 4月第3土曜日試楽祭 4月第3日曜日本祭・神幸祭
重要 本殿(国指定)三間社流造、屋根こけら葺 室町時代初期の建造物
文化財 南妻蟇股の彫刻「鳴いた鴬」は飛騨の匠の作として有名
拝殿(国指定)入母屋造、屋根こけら葺 桃山時代の建造物
南面軒口の「水呼ぶ鯉」の作り物は飛騨の匠(左甚五郎)の作として有名
天然
記念物 夫婦杉(国指定)雄杉(上)雌杉(下)ともに周囲12.5米 樹齢1,500年
宝 物 木造高麗犬壱対(鎌倉時代作)木造神像壱体(平安時代作)書写大般若波羅密陀経100巻余(鎌倉時代)その他獅子頭、鬼神面太刀、槍、鰐口、神輿、扁額など30数点、久津八幡宮祭礼記録類18点(岐阜県重要民俗文化財指定)外 古文書古記録1,000余点
八幡様(應神天皇)は広く民衆を守る神様。また、應神天皇神功皇后は大陸の文化を積極的にとり入れ、古代日本における文化の向上、国家の発展につくした文化の神様である。
*説明版より
2 配祀御祭神
御 名 御 神 徳
倉(うか)稲(のみ)魂(たまの)神(かみ) 穀物の神・稲荷神
火(ほ)産(むす)霊(びの)神(かみ) 火の神
大(おほ)山(やま)袛(つみの)神(かみ) 山の神
須(す)佐(さ)之(の)男(をの)神(かみ) 医薬の神
事(こと)代(しろ)主(ぬしの)神(かみ) 福神・夷子神
磐(いは)長(なか)姫(ひめの)神(かみ) 延命長寿の神
久(く)々(ぐ)能(の)知(ちの)神(かみ) 木の神
菅(すが)原(はら)道(みち)真(ざね)公(こう) 学問の神
*説明版より
3 拝殿 国指定重要文化財 国指定重要文化財
拝殿は桃山時代、三木自綱の再建によるもので、単層入母屋造りの柿葺で4本の囲い柱による内陣は全国でも類例がなく国指定重要文化財になっている。
天正9年(1581)益田の国領主三木大和守自綱は普請奉行に小林正左衛門、舩坂弥治右衛門、内気喜助を任命し、桜洞の名匠桂川孫兵衛を棟梁として拝殿を建立した。鯉は、嘉永7年(1854年)大修理の際、取り付けられた水を呼ぶ鯉で、今なお当時の姿のまま保存。
*説明版より
4 水を呼ぶ鯉(萩原のむかし話より)
ずっと昔、毎年雨の降るたび、益田川の水が荒れ狂う水に削られて川がどんどん久津八幡様の方へ押し寄せて来たそうな、村人達は心配のあまり川を眺めて「なんとかせにゃどもならん、こりゃどえらいことになる」、長老の弥作じいがおみたちの心配する気持ちはようわかるどしてみとがこっちへくるかって事よ、ありゃ拝殿のひさしに彫り込んだ鯉よ、あいつが水をよぶんやぞ、とにかくあの鯉を作らはった和田様に聞いてみるが一番ええ
次の朝、じいは高山の和田様を訪ねた 事の次第をうなずきながら聞いておられた和田様は、しばらくお待ちくだされ、白装束を身につけて 仕事部屋に行き、なにやらトントン木を刻む音が聞こえてきた すると和田様は彫り刻んだ矢を手に現れ、この矢を鯉に向けて取り付けてくだされ、それからというものは まったく大水の心配は無くなり、村は安らかになったという。
*説明版より
5 久津八幡宮本殿
室町時代の応永19年(1412)、白井太郎俊国が祈請し、家臣山下作右衛門友貞を普請奉行とし飛騨の匠の流れをくむ美濃の国の名匠武澤茂右衛門利久を召し、棟梁として本殿の再建に着手完成に至る。
本殿は、丸柱総素木造りで、正面向拝に流れる屋根の曲線が優美。南妻にある「鳴き鶯」は拝殿の軒口の「水を呼ぶ鯉」とともに飛騨の匠の神技を伝えている。宝物として鎌倉時代の狛犬1対、正和2年清峯寺道仙の筆書による大般若経が100巻余り保存されている。境内の夫婦杉は国指定天然記念物。
*説明版より
6 鳴いた鶯(萩原の昔話より)
ずっと昔の事やった、旅の男が夏の太陽が照りつける中を、歩いておったと 久津の八幡様の森のなかに涼しく流れる清水を見つけ、口をうるおし、大杉の木陰で汗をぬぐいひとやすみしとった。境内はとても静かな所で木々を吹き抜ける風に、小鳥のさえずりが気持ちよう聞こえてくる、その中にひときわ美しいウグイスの鳴き声も聞こえたそうな、男は疲れのせいか 眠気がさしてきたんやと、そんでもいざ寝るとなると鳥のさえずりがやかましい。男は小石を拾って森の方へ石を投げつけたと、小鳥の声はぴたりと静まったが、ホーホケキョホーホケキョと鳴くウグイスの声だけはいっこうに鳴きやまん 男は、その声のする方へ近づいていったと、けどな不思議な事もあるもんよ、声は本殿の軒下から聞こえるんやが、いっくらさがしてもウグイスは見あたらん、ただ目に付いたのは、軒下に木彫りのウグイスがあってな、いまにも鳴き出すように活き活きと彫ってあったとよ、まさかこの彫り物が。気のおさまらんままに足下の小石を拾って彫り物の鳥めがけて力いっぱい投げつけたとよ するとなウグイスの鳴き声は、ぱったりとやんでしまったと、ただ木の葉を渡る風音だけが 聞こえておったと、男はあわてふためいて境内を飛び出し村人達にこのできごとを話したと。このときからや、軒下の2羽の鳥の彫り物を鳴いたウグイスと呼ばれ出したのは。
*説明版より
7 久津八幡宮緑地環境保全地域
面積(ha)3.42 S52.9.30 指定
スギ、ヒノキ、サワラ、シラカシ等の良好な緑地
久津八幡宮は、産土神として地元の人々の信仰の対象となっている。社叢は、国の天然記念物である夫婦スギをはじめ、スギ、ヒノキなどの針葉樹やサクラ、シラカシなどの広葉樹の大径木からなり、神社の深遠さを保ち霊気をかもしだしている。岐阜県では、この地域を訪れる人々にやすらぎと潤いを与えるため、この社叢を緑地環境保全地域に指定して保全につとめている。
*「岐阜県自然環境保全条例」に基づき、自然環境保全地域のほか、市街地及び集落地並びにこれらの周辺地を対象に、緑地環境保全地域を16地域(654ha)指定している。緑地環境保全地域は、市街地等にある樹林地、水辺地、その他、これに類する自然環境を有する土地であって、自然環境を保全することにより、地域の良好な生活環境の維持に資することを目的としている。緑地環境保全地域は社寺林が多くなっている。
岐阜県庁6階 環境生活部 環境企画課が担当課
*説明版より
今から1600年も昔、飛騨国に両面宿儺という怪賊がいて、時の仁徳天皇は御弟の難波根子武振熊命を飛騨国にお遣わしになって宿儺を討って飛騨国を平定開拓されました。この時、武振熊命は、御父応人天皇の御霊をお祀りして武運長久と国土平安を祈られましたのが久津八幡宮の始めであると伝えられています。それから八百年余後、平治の乱(1159)の時飛騨へ募兵入国した源氏の嫡流源義平が武運長久を祈って、久津八幡宮に関東の鶴岡八幡宮の神さまを勧請致しました。その後室町時代の応永19年(1412)に飛騨国領主白井太郎俊国が、現在の本殿を再建し、又桃山時代の天正9年(1581)には飛騨国領主三木自綱によって現在の拝殿を建てられました。その後も飛騨国を領した金森藩主や徳川幕府の代官郡代によってつぎつぎと修理造営が行なわれて今日に至っております。また飛騨の古い俗謡に「飛騨で一番一之宮、二には荒城安国寺、三に上呂の久津の宮」と謡われているのは、飛騨二の宮として飛騨国中から篤い崇敬がよせられていた事を物語るもので、古記録によりますと、飛騨国はいうまでもなく、隣国、越中、美濃まで広く崇敬が及んでいたことがしられます。
文化財 国指定重要文化財 本殿1棟 拝殿1棟
天然記念物 夫婦杉
#左甚五郎
資料集
040_045_飛騨八幡八社・久津八幡宮
若宮八幡神社
鎮座地 高山市石浦町字向町3204番地
銀幣社 (旧社格 村社)
1.祭神
おうじん にんとく
主神 応神天皇 仁徳天皇
合祀 諏訪神社・天満神社2.由緒
創建の年代は詳らかでないが、相伝に「仁徳天皇六十五年(西暦377)勅命を奉じて難波根子武振熊命が、両面宿儺討伐の時この地石浦(延喜式兵部省云、飛騨国駅馬云々、石浦五匹と見ゆ、上古よりの駅舎也)に屯軍して、先帝と今上の尊霊を奉祀して戦捷を祈念ありし斎場の遺跡ならん。」(『斐太後風土記』)とあり、また、『飛州志』には「一宮の棟札云長木は石浦若宮之杉本也々。享禄二年若宮上葺」とある。
若宮は「新宮」・「別宮」とも言う例があり、一の宮水無神社の若宮であるといわれる。
神社は深い緑に包まれ、古来より石浦地区の産土として崇められてきた。
戸田釆女正による元禄検地で、境内除地一町歩を賜わった。
明治四年九月村社に列し、同四十一年三月、神饌幣帛料供進の指定を受けた。
昭和二十一年官制廃止後は神社本庁に所属し、岐阜県神社庁より銀幣社の指定を受けた。
3.祭祀
例祭 9月22~23日
祈年祭 3月中
新嘗祭 11月下旬
なお二十二日の試乗祭には、本宮より神璽を奉遷し、例祭当日は、氏子内を神輿渡御がおこなわれ、神賑として獅子舞・鶏闘楽・槍踊りがある。祭典終了後は直ちに本宮に遷記する古例となっている。
4.建造物
前宮本殿 (流造 4坪)
渡殿 (平棟造 6坪)
拝殿 (神明造 16坪)
絵馬殿 (平棟造 12坪)
社務所 (平棟造 30坪)
神與庫 (土蔵造4坪)
奥宮本殿 (神明造 1坪)
鳥居 (石造)
若(わか)宮(みや)八(はち)幡(まん)神(じん)社(じゃ)は、仁(にん)徳(とく)天(てん)皇(のう)の御(み)代(よ)、両(りょう)面(めん)宿(すく)儺(な)征(せい)討(とう)の命(めい)を奉(ほう)じた武(たけ)振(ふり)熊(くまの)命(みこと)がこの地に今上の尊(そん)霊(れい)を奉(ほう)祠(し)して戦(せん)捷(しょう)を祈(き)願(がん)した斎(さい)場(じょう)であったと言われている。その時(とき)、命(みこと)は石(いし)を蹴(け)って捷を占(うら)なったので「石(いし)占(うら)」と呼(よ)ぶようになったと郷(きょう)土(ど)誌に記(しる)してある。また斎場に美(み)事(ごと)な岩(いわ)があって、いつも清(し)水(みず)を湛(たた)え、この水で口(くち)を潤(うるお)し、身(み)を清(きよ)めることによって士(し)気(き)が漲(みなぎ)ったとも言われている。
*説明版より
お手水鉢の由来
昭和9年の頃、国鉄高山線敷設の時、二之瀬(本社の南方)の河原の岩は殆(ほとん)ど石(いし)工(く)によって打(う)ち割(わ)られたが、なかば砂(すな)に埋(うず)もれた一(ひと)つの岩だけは石工たちも気(き)が進(すす)まないと言って鑿(のみ)を打たなかった。たまたま、ただ一つ残された巨(きょ)岩(がん)を不(ふ)思(し)議(ぎ)に思(おも)い、里(さと)人(びと)たちの言い伝(つた)えもあって、これがその昔(むかし)、清水を湛えていたという岩ではないかと好(こう)奇(き)心(しん)のあまり掘(ほ)り起(おこ)すと、美(うつく)しい凹(くぼ)みのある岩であった。この水鉢、昭和12年(1937)2月石浦町地内・若宮(奥宮の森)の200m上流二之瀬谷入口の宮川本流の中央川底より当境内神前に運ばれた。
二之瀬谷出口の宮川の真ん中の平な大岩には、大昔より下に手の届かぬ深い「魚の寝床」が在ると言い伝えて居た。鉄道建設当時附近の岩石は悉く利用されたが、此の岩は残っていた。昭和11年秋過ぎ、此の大岩が“神社の水鉢”にと掘起しが決まった。当時重機は無く滑車と梃子と鶴嘴で苦労の末掘起した。
歳明けて2月、「大持引」で石浦の住人が総出で境内へはこぶことを決めた。川越えのため、長靴は駄目で草鞋履にとした。
街道へ引上げて北進、歩危、踏切、川越えも無事に通過し参道坂へ。坂を上り、全員力を合せたが、大持ちの重量が勝り後退する。日没になったので本日はこれまでとし、各人石浦に有縁の人々に沙汰し、明日の応援を願う事、役の人はシヤチ等を整備し明日正午当所に集合のこととした。各人は近郷有縁の人々へ連絡に走る。翌2日午前7時、寄せ鐘と共に有縁の人々が大集合し、正午、無事到着して喜びと共に神前に供覧をした。
*説明版より
資料集
041_046_飛騨八幡八社・若宮八幡神社
【報告書】飛騨一之宮ものがたり
飛騨一之宮は、この地域に名高い位山の麓に広がり、水・木・道・祈りなどをくらしのより所としながら、豊かに里の歴史を積み重ねてきました。
飛騨の人々の生活に深くかかわる宮川が流れ出すこの地域には、水温が年間14℃前後の清流にのみに育つバイカモ(梅花藻)が見られ、この地のシンボルの一つともなっています。 [水]
この地域の山々や里のところどころに巨木(大きな木)が残されています。国指定天然記念物の樹齢2000年の大いちい、樹齢1100年の大幢寺の臥龍桜などみごとです。 [木]
時代とともに、日本各地の文化が位山分水嶺の峠を越えて、高山町や北飛騨全体のくらしの礎(もとになるもの)を伝えてきた歴史があります。古くは刈苅安峠を越えた位山古道、新しくは宮峠を越えた国道41号線やJR宮トンネルがあります。 [道]
都でも尊い(とうとい)と歌われた位山の麓であるこの地には、古代より飛騨一宮水(み)無(なし)神社がまつられ、飛騨はもとより富山県などの人々の厚い信仰は、今も長くたえることなく続いています。[祈り]
遅い飛騨の春、一之宮の人たちは、桜の里の花がいっぱいに咲くのを楽しみにしながら、水に恵まれた米作りや豊かな山林の木々の伐りだしの仕事に精を出すなど、長い歴史の時を生きてきたのです。 [くらし]
タイトルにある「ものがたり」ですが、これは「おはなし」という意味ほかに、フランスのことばで「歴史」という意味も込められています。これからも皆さんは、飛騨一之宮でいろいろなことを体験するでしょう。
そのものがたりの一つひとつは、飛騨一之宮の歴史になります。いままでの飛騨一之宮のものがたりを知り、それを糧として、これからも飛騨一之宮のものがたりが続いていくことを願い、このタイトルを名づけました。
– 目 次 –
ⅰ わたしたちの飛騨一之宮
1.土地と気候
2.飛騨一之宮の生い立ち
ⅱ 水
1.宮川の源流と分水嶺
(1)水のふるさとを訪ねて
(2)水のあるくらし
2.川のゆくえ
(1)源流から日本海
(2)川の移り変わり
3.宮川と昔話
(1)覆河原と座禅石とあじめ
(2)三本松
4.「あじめ」を守る
ⅲ 木
1.ツメタの大イチイ
2.水無神社の大杉
3.臥龍桜
4.松
(1)刈安峠の松
(2)ヌクイ谷の赤松
ⅳ 道
1.位山古道
(1)位山古道の整備
(2)位山古道の地図
(3)位山匠の道
(4)位山古道散策マップ
2.JR
3.国道41号線
(1)宮峠
(2)宮トンネル
ⅴ 祈り
1.飛騨一宮水無神社
(1)起源と祭神
(2)歌碑
(3)歴史
(4)笏木の献上
(5)例祭神事
2.飛騨一之宮の祭り
(1)神事芸能の伝承
(2)飛騨生きびな祭り
(3)闘鶏楽
(4)神代踊
(5)獅子舞
3.大幢寺
4.巨石
ⅵ くらし
1.むかしのくらし
(1)縄文時代の遺跡
(2)両面宿儺
2.一之宮の伝統と技
(1)わたしたちの町の伝統工業
(2)飛騨の宮笠(一位笠)
(3)伝わる技術とささえる条件
(4)伝える技術と問題点
◆飛騨一之宮の地図 (付録)
冊子
01目次 02私たちの飛騨一之宮 03水 04木 05道 06祈り 07くらし
千光寺
袈裟山千光寺は、平安時代に、弘法大師の高弟真如親王によって、真言密教の道場として建立され、隆盛期には7堂伽藍19の院坊があったと伝える。永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)に武田軍勢の飛騨攻めの際に堂塔伽藍は焼き討ちに遭い、その折に仁王門も焼失した。安永年間、廃仏毀釈の嵐が吹き、別当職を務めていた飛騨水無神社より、阿吽仁王像2躯を移送し、この地に仮堂を建てて安置した。
平成23年、檀信徒の総意をもって復興の機運が起こり、境内の樹齢3~400年余の檜木42本を伐採、1年間乾燥して用材とした。工期は、平成24年10月14日土公供(起工式)、手斧始め、木工事(渚工務店)を施工し、平成25年9月に完成した。同時に、参拝車道を舗装整備し、門の裏山に自然石(門造園)を積み、老朽化していた石階段も高山市岩滝町にある石材を加工(岩滝石材店)して108段に仕上げ、参拝者の煩悩滅尽を祈念す。 平成25年10月吉日、本尊御開帳法要に因み、落慶法要が多くの僧侶、檀信徒によって盛大に厳修された。
袈裟山千光寺中興第24世法印*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
観音堂 棟札 員数 1棟
永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)、武田軍勢の飛騨攻めの際に当山の7堂伽藍は焼き討ちに遭い、焼失した。その後文禄1年(1592)に本堂の原型として草庵が建てられ、時の中興初代住職、玄海法印が1,000座の本尊観世音菩薩の修法を行なった。その2年後の慶長3年(1598)に、阿弥陀堂(現在の持仏堂)とともに本尊を祀り、現在の堂宇に完成するのは萬治2年である。
本堂再建には、高山城主金森頼直の誓願があったと記され、再建奉行は森直次、大工中井甚次郎、住職は権大僧都法印舜慶である。
昭和44年12月11日指定*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
宿儺堂 員数 1棟
慶長3年(1598)建立。当山の開創者「両面宿儺」を祀る堂宇である。両面宿儺は、日本書紀にも登場する飛騨の開拓者であるが、最期は大和朝廷と戦って敗れる。
平成の解体修理の折りに天井裏から棟札が発見され、慶長3年の建立と判明した。
永禄7年(1565 ※永禄7年=1564)、武田軍勢の飛騨攻めの際に、当山の7堂伽藍は焼き討ちに遭い焼失した。その後文禄1年(1592)に本堂の原型として草庵が建てられ、時の中興初代住職、玄海法印が、1,000座の本尊観世音菩薩の修法を行なっている。
平成15年6月16日指定*説明版より
高山市指定文化財(建造物)
弁天堂 員数一棟
永禄年間の武田軍による焼き討ち後、再建されたと伝わる。
弁天池の中央に祀られる弁財天は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神サラスヴァティーが仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。経典に準拠した表記は本来「弁才天」だが、日本では「才」が「財」の音に通じるため財宝神としての性格が付与され、「弁財天」とも表記される。本来、仏教の尊格だが、日本では神道の神とも見なされ、七福神の一員である。
平成15年6月16日指定 *説明版より
極楽門(仁王門)
袈裟山千光寺は、平安時代に、弘法大師の高弟真如親王によって、真言密教の道場として建立され、隆盛期には七堂伽藍十九の院坊があったと伝える。永禄7年(1565)に武田軍勢の飛騨攻めの際に堂塔伽藍は焼き討ちに遭い、その折に仁王門も焼失した。安永年間、廃仏毀釈の嵐が吹き、別当職を務めていた飛騨水無神社より、阿吽仁王像2躯を移送し、この地に仮堂を建てて安置した。
平成23年、檀信徒の総意をもって復興の機運が起こり、境内の樹齢3~400年余の檜木42本を伐採、1年間乾燥して用材とした。工期は、平成24年10月14日土公供(起工式)、手斧始め、木工事(渚工務店)を施工し、平成25年9月に完成した。同時に、参拝車道を舗装整備し、門の裏山に自然石(門造園)を積み、老朽化していた石階段も高山市岩滝町にある石材を加工(岩滝石材店)して108段に仕上げ、参拝者の煩悩滅尽を祈念す。
平成25年10月吉日、本尊御開帳法要に因み、落慶法要が多くの僧侶、檀信徒によって盛大に厳修された。
袈裟山千光寺中興第二十四世法印
高野山傅燈大阿闍梨 大圓敬曰*説明版より
高山市指定史跡 四国八十八カ所霊場札所
明治20年(1887)、当山住職三蔵祐圓法師の時に、新四国霊場を草創し、巡礼運動を展開したのが、現今の道場である。
巡礼者は、身に白衣をまとい、笈摺(おいずる)を負い、金剛杖をつきながら歩き、真言宝号とご詠歌を唱え、施主の報謝を受けつつ巡拝する。巡拝中種々の霊験を蒙(こうむ)ると、古今に伝説が多い。巡拝は四季絶えないが、特に春季が多い。
安置仏88堂の左側に弘法大師、右側に如来・観音・菩薩像等の札所本尊仏を祀っている。
平成15年6月16日指定 *説明版より
資料
002_002_千光寺
位山
位山(くらいやま)は、飛騨高地の中央に位置する岐阜県高山市の標高1,529mの山。 飛騨北部と南部の境界であり宮川と飛騨川の分水界である位山分水嶺の山。 飛騨一宮水無神社の神体である。日本二百名山のひとつであり、山域は岐阜県の「位山舟山県立自然公園」に指定されている。
資料
003_003_位山 周辺地域の自然
長瀧寺
長瀧寺(ちょうりゅうじ、往時はながたきでらと呼ばれた)は、岐阜県郡上市にある天台宗の寺院。本尊は釈迦如来。
この寺は、718年(養老2年)勅命により泰澄が法相宗の寺院として創建したと伝えられ、828年(天長5年)天台宗に改められたという。古くから白山信仰と深いかかわりがあり、郡上郡一円に大きな宗教的勢力として君臨していた。最盛期の鎌倉時代には六谷六院、神社三十余りと三百六十坊が存在したといわれる。戦国時代になると浄土真宗の勢力が郡上に浸透し、坊院の多くが浄土真宗に改宗したほか、朝倉氏が郡上に侵攻した際に略奪を受けて勢力を失った。江戸時代にも郡上藩主の井上氏に寺領を没収され、浜松二諦坊により白山牛王の発給権を失い、白山別当職を越前平泉寺に奪われて衰退する。文政8年(1825年)、老朽化した大講堂の再建が成った。大講堂は間口18間(約33m)、奥行き14間(約25m)と巨大で、郡上に過ぎたは長滝講堂と謳われていた。長瀧寺明治初年の神仏分離により白山神社と長瀧寺に分けられた。1899年(明治32年)火災により堂宇を焼失して宝物の一部を失った。現在の堂宇はその後に縮小して再建されたものである。現在、阿名院、経聞坊及び宝幢坊の三つの坊院が残っている。
美濃馬場 長滝白山神社
長滝白山神社(ながたきはくさんじんじゃ)は、岐阜県郡上市白鳥町長滝に鎮座する神社である。日本各地に分布する白山神社の中心的な神社の一つであり、白山信仰と関わりが深い。白山信仰の美濃国側の中心である。
明治維新以前は白山中宮長滝寺(はくさんちゅうぐうちょうりゅうじ)と称したが、明治時代の神仏分離により、長滝白山神社と長瀧寺に分離された。神仏分離後も長滝白山神社と長滝寺は同一境内にあり、参道も同じである(参道から左側が長滝寺、右側が長滝白山神社)。
社号は白山長滝神社と呼ぶ場合もある。宗教法人としての登録名は「白山神社」。旧社格は県社。
動画資料
資料集
005_006_美濃馬場 長滝白山神社