キトラ古墳
キトラ古墳(天文学の飛騨の行人関係)
はじめに
キトラ古墳は、明日香村の南西部にある7世紀末から8世紀初め頃に造られた終末期古墳である。終末期古墳とは古墳時代末から飛鳥時代にかけて造られた古墳のことを指す。明日香村南西部はかつてから「檜(ひの)隈(くま)」や「真弓」と呼ばれ、これらの地域には多くの終末期古墳が分布している。代表的な古墳として高松塚古墳やキトラ古墳、マルコ山古墳、中尾山古墳、野(の)口王(ぐちおう)墓古(ぼこ)墳(ふん)などが挙げられる。
キトラ古墳の概要
キトラ古墳は大字阿部(あべ)山(やま)小字ウエヤマにある。昔から地元の人たちには知られていた古墳であった。昭和58年(1983)、古墳の石槨(せっかく)にファイバースコープが入れられ、石槨内に極彩色(ごくさいしき)の壁画が描かれていることがわかった。その後、キトラ古墳保存対策検討委員会により新たに朱(す)雀(ざく)、十(じゅう)二支(にし)像(ぞう)、本格的な天文図が描かれていることが判明し、高松塚(たかまつづか)古(こ)墳(ふん)とは様相の異なる第2の壁(へき)画古(がこ)墳(ふん)として世間の注目を集めた。平成16年(2004)には石槨内の発掘調査が行なわれ、石槨の規模や構造、出(しゅつ)土遺(どい)物(ぶつ)が明らかとなった。
終末期古墳の副葬品
終末期古墳が造られた飛鳥時代は、古墳の薄葬(はくそう)化(か)が進んだ時代でもあった。それまでの古墳時代は、大きな墳丘に多量の副葬品といった手厚い葬送(そうそう)行為が行なわれた時代であった。飛鳥時代になると、大陸の影響を受け、為(い)政者(せいしゃ)から庶民(しょみん)まで身分に応じた墓づくりが規定された。こうした規定などにより墳丘の規模が小さくなり、石室には1人分の埋葬(まいそう)しかできないようになり、副葬品を置く場所さえなくなっていった。飛鳥時代の古墳は、前時代に比べて規模が縮小し、より薄葬化が進んでいる。こうした流れから、副葬品には被(ひ)葬者(そうしゃ)が身に着けていた物や身分を示す物だけが棺の中に入れられたようである。前の時代に比べるとごく簡(かん)素(そ)な副葬品が納められていた。
キトラ古墳の副葬品
キトラ古墳は鎌倉時代に盗掘を受けていた。これにより副葬品や被葬者を納めた漆(うるし)塗(ぬり)木棺(もっかん)も壊され、副葬品の一部は失われていた。石槨内に残された遺物の破片から、キトラ古墳には大刀(たち)と玉類(琥(こ)珀玉(はくだま)・ガラス玉・微(び)小鉛(しょうなまり)ガラス玉)が副葬されていたことが分かった。これらの副葬品は、被葬者が生前に所有していた物とみられ、被葬者を考える上で重要な資料となっている。
規模
特別史跡キトラ古墳は、下段の直径が13.8m、上段の直径が9.4mほどの小さな二段の円墳である。墳丘の中央には18個の凝(ぎょう)灰岩(かいがん)の切石を組み上げた石室があり、石室の東壁に青(せい)龍(りゅう)、西壁に白(びゃっ)虎(こ)、南壁に朱(す)雀(ざく)、北壁に玄(げん)武(ぶ)が描かれている。これら四(し)神(じん)の下には獣(じゅう)頭人身(とうじんしん)の十(じゅう)二支(にし)、天井には現存最古の本格的な中国式の天文図が描かれている。
古墳は平成12年に特別史跡に指定されたが、石室内の壁画は平成22年までにすべて取り外し、平成28年まで修理作業を行なった。
このたび、国営飛鳥歴史公園内に設けられたキトラ古墳壁画保存管理施設にて、西壁(白虎)、天井(天文図)を皆様に御覧いただくことになった。この機会に、実物の壁画をじっくりとご鑑賞いただければ幸いである。
天井 天文図
キトラ古墳の天井に描かれた天文図(キトラ天文図)は、天の北極を中心にした円形の星図である。金箔と朱線で中国の星座が表されており、現状で74座が確認できる。天文図の東には金で太陽が、西には銀で月が表現されている。古代中国では、天には天帝が治める世界が広がっていると考えられていた。キトラ天文図も、その天の世界観に則り描かれている。
キトラ天文図の大きな特徴は朱線で描かれた4つの大円である。3つの同心円は、内側から内規、赤道、外規を示し、もう1つの北西に寄った円は黄道を示す。これらの円は長期にわたる天体観測によって初めて理解できる。一部に間違いもあるが、この4つの円を備えることから、キトラ天文図は本格的な中国式星図としては世界最古の遺例と評価されている。
<引用文献>
キトラ古墳展示解説資料
高松塚古墳に次ぐ我が国2例目の壁画古墳で、1983年の調査で石室内に描かれた極彩色壁画が発見されました。キトラ古墳は、藤原京の南に広がる古代の皇族・貴族などの墓域に所在する小さな円墳で、7世紀末~8世紀初頭頃に造られたと考えられます。東西にのびる丘陵の南斜面に位置し、墳丘は2段築成で、下段の直径が13.8m、上段の直径が9.4mに復元できます。墳丘の中央には、凝灰岩の切石を組み上げた石室があります。石室には18個の直方体の切石が使われており、石材は古墳から北西に約14キロ離れた二上山から運ばれたものです。石室内部の広さは奥行2.4m、幅1.0m、高さ1.2mで、天井・側壁・床面の全面に漆喰が塗られています。その白い漆喰面に、四神や十二支、天文図などの極彩色壁画が描かれています。
キトラ古墳の石室内には、四神、十二支、天文図、日月の壁画があります。四神は天の四方を司る神獣で、壁画は対応する方位に合わせて、東壁に青龍、南壁に朱雀、西壁に白虎、北壁に玄武が描かれています。高松塚古墳では、盗掘により南壁の朱雀が失われていたため、我が国で四神の図像全てが揃う古墳壁画はキトラ古墳壁画のみです。
四神の下には、獣頭人身の十二支が描かれています。北壁中央に子像があり、方位に合わせて各壁に3体ずつが配置されています。現在確認できているものは、子、丑、寅、午、戌、亥の6体です。
屋根形の刳り込みのある天井には、東の斜面に金箔で太陽が、西の斜面に銀箔で月が表されています。天井の平坦面の部分には、円形の中国式の天文図が描かれています。この天文図は、赤道や黄道を示す円を備えており、本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の例といえます。
(引用:https://www.nabunken.go.jp/shijin/about/)
資料集
061_068_キトラ古墳
常照寺
常照寺(じょうしょうじ)は、岐阜県高山市にある真宗大谷派の寺院で、山号は白龍山。往古、岩端小勝(いわばなこかつ)という武士が当地内の長倉というところに城郭を構えていたが、戦に敗れて出家し、了正と号して、真言の道に入りこの地に一宇(いちう)を創建した。その後、本願寺実如上人に帰依して文亀2年4月2日、方便法身の尊行を賜り、真宗に転派した。これが常照寺の始祖で、以来、権四郎道場と称していた。正徳4年(1714年)6月14日、八世西圓のとき、本山より常照寺の寺号を受けて、真宗の教えを弘めて今日に至っている。 現在の本堂は、延享4年(1747年)に建立した。棟梁は高山の藤原朝臣蒲小右衛門包茂(ふじわらあそんかばこうえもんかねしげ)であった。また、鐘楼は明治14年(1881年)に建立した。棟梁は高山の宮大工、山口権藏(ごんぞう)である。山口権藏は別名「権守(ごんのかみ)」と称し、特に彫刻の特技があって、明治9年(1876年)高山煥章学校(旧東小学校)建築の際、玄関鴨居の「鷹」の木彫も権守の作であると言われている。この鐘楼には数多くの彫刻が施され豪華な建築となっている。
(引用:朝日村史 第4巻)
資料集
057_064_常照寺
霊雲寺
寺院名 ; 紫雲山 霊雲寺
宗 派 ; 真宗大谷派
御本尊; 阿弥陀如来
所在地; 岐阜県高山市神田町 2-98
江戸初期
照蓮寺十三代宣明の弟、祐覚が開基し御坊坂に堂を構えました
寛永18年(1641)
第二代祐意は照蓮寺十六世琢情から
金森公寄進の本尊を授けられ霊雲寺と号し
のち現在の地に移転したそうです
資料集
052_059_霊雲寺
宗猷寺
宗猷寺(そうゆうじ)は岐阜県高山市にある臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は真龍山。金森可重の菩提寺であり、山岡鉄舟ゆかりの寺院としても知られる。聖観音菩薩が祀られており、飛騨三十三観音霊場6番札所となっている。
寛永9年(1632年)に飛騨高山城主金森可重の菩提寺としてその嗣子の金森重頼と弟の金森重勝を開基とし、安国寺から妙心寺92世南叟宗安禅師を招いて建立された。創建時は大平山新安国寺と称していたが、後に山号を金森重頼の法名、寺号を金森重勝の法名に因んで真龍山宗猷寺と改めた。飛騨国は臨済宗の寺院が少なく、高山の市街地においては時代による若干の変遷はあるもののほぼ唯一の臨済宗の寺院であった。江戸時代後期には山岡鉄舟の実父である小野高福が飛騨郡代として高山陣屋に赴任しており、山岡鉄舟は宗猷寺で禅を学んだと伝えられている。
高山市指定の文化財として、文政7年(1824年)建造の本堂と享保年間建立の鐘楼があるほか、史跡として山岡鉄舟父母の墓がある。庭園は高山市の名勝に指定されており、寺の裏山にある木地師の集団墓地は高山市指定の民俗文化財となっている。
資料集
053_060_宗猷寺
雲龍寺
もとは720年に創建された妙観寺(みょうかんじ)という寺院でしたが衰退し、1395年頃、曹洞宗雲龍寺として再建されました。
本能寺の変で戦死した飛騨国主 金森長近(かなもりながちか)の長男 長則(ながのり)の菩提寺であり、1590年頃に長近が建物を修営したと伝わっています。
雲龍寺鐘楼門(うんりょうじしょうろうもん)は、1695年、高山城破却に伴い、二之丸にあった「黄雲閣(こううんかく)」という建物を下げ渡され、これが鐘楼門になったと伝わっています(雲龍寺記)。
(引用:http://kankou.city.takayama.lg.jp/2000002/2000026/2001292.html)

資料集
054_061_雲龍寺
勝久寺
寺伝によると、円通は長享元年(1487)片野に円通堂を建て、西本願寺派越中八尾の聞名寺の末寺であった、その後小八賀の葦屋へ移り、高山町三町へ移転し正徳二年(1712)」に寺号を勝久寺とし、昭和5年現在地に改築。
資料集
055_062_勝久寺
大雄寺
もとは吉城郡上広瀬村(現高山市国府町)にありましたが、1586年に金森長近によって、現在の地に移され、浄土宗の寺となりました。大雄寺山門(市指定文化財・日本遺産)は、「飛騨匠の祖」として崇敬を集める飛騨権守(ひだごんのかみ)・藤原宗安(ふじわらむねやす)の直系とされ、優れた彫刻を特徴とした水間相模(みずまさがみ)の建築。大雄寺鐘堂(県指定文化財・日本遺産)は、1689年2月に建てられた飛騨地方最古の鐘楼で、江戸時代前期より活躍する大工の家系、松田家 松田又兵衛(まつだまたべえ)作。(引用:http://kankou.city.takayama.lg.jp/2000002/2000026/2001294.html)
資料集
056_063_大雄寺
上野東照宮
上野東照宮は1627年創建の東京都台東区上野公園に鎮座する神社です。 東照宮とは徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社で、日光や久能山の他、全国に数多くございます。 当宮は出世、勝利、健康長寿に特に御利益があるとされ信仰されています。 金色殿(社殿)などの豪華な建造物は、戦争や地震にも崩壊を免れた貴重な江戸初期建築として国の重要文化財に指定されており、国内はもとより、海外からも多くの方がお参りされます。 1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康公の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言されました。 天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内には多くの伽藍や子院が建立されました。1627年(寛永4年)その一つとして創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。 1646年(正保3年)には朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となりました。
現存する社殿は1651年(慶安4年)に三代将軍・徳川家光公が造営替えをしたもので、遠く日光までお参りに行くことができない江戸の人々のために日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したと言われています。この造営替えに際し約250基の灯籠が全国の大名から競うように奉納されました。 幕末には寛永寺の伽藍や子院の多くが消失する上野戦争が勃発しましたが、上野東照宮には火の手が及びませんでした。関東大震災にも倒れず、第二次世界大戦では社殿のすぐ裏に爆弾が投下されましたが幸いにも不発弾で社殿の倒壊は免れました。 明治時代には神仏分離令の為境内の五重塔を寛永寺に譲渡(現在は東京都の管理)するなど、江戸時代と比べ境内地は縮小されましたが、江戸初期に建立された社殿が数々の困難を乗り越え現存することは奇跡的で、強運な神君の御遺徳の賜物と言われています。
春は牡丹・桜の名所として、秋は紅葉、ダリア展、お正月は初詣や冬ぼたん鑑賞の方で大変賑わい、出世、勝利、健康長寿などの祈願成就を願う方が後を絶ちません。
かつて江戸の人々の家康公への信仰の対象であったこの御宮は、江戸時代と変わらぬ姿で今もなお多くの方に心の安らぎを与えています。
御祭神:徳川家康公 徳川吉宗公 徳川慶喜公 (上野東照宮公式ページ http://www.uenotoshogu.com/より)
#左甚五郎
資料集
051_058_上野東照宮
興福寺
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
京都山科の藤原鎌足私邸に建立された山階寺が前身。飛鳥を経て、和銅3(710)年平城遷都に伴い、藤原不比等によって現在地に移転され、興福寺と名付けられた。以降、藤原氏の氏寺として大いに繁栄した。奈良時代初期には四大寺の一つにあげられ、四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ寺院として隆盛を極めた。治承4(1180)年の平重衡の南都焼討ちによって焼失した堂塔は、鎌倉時代に復興を遂げるが、その後、享保2年(1717)の火災によって、伽藍の西半分を失った。境内には光明皇后創建とされる五重塔(室町時代再建・国宝)、北円堂(鎌倉時代再建・国宝)の国宝建築物をはじめ、南円堂(江戸時代再建・重要文化財)、国宝館などが立っている法相宗の大本山。また多くの仏教彫刻の名品を所蔵している。(世界遺産)
資料集
050_057_興福寺
薬師寺
薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇。1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
資料集
049_056_薬師寺
龍應山西明寺
龍應山西明寺の由来は寺伝によると、平安時代の初期に当たる承和元年(834年)のある日、三修上人(慈勝上人)が、琵琶湖の西岸を歩いていると、突如として琵琶湖の東方の彼方より、紫雲が現れまぶしい光が射しました。この雲や光を見た上人は「この光の源をたずねれば、きっとすばらしい霊地があり、修行中の私に何か悟らしめて、重大な使命が下されるに違いない」との霊感に打たれました。そしてその光明を目指して湖東の山中に分け入ると、一筋の光明を放つ池があったのです。上人は「このような有難いまぶしいご光明を放たれるのには、何か事情があるのでしょうか。この清浄な霊地から沸き出づる泉を通しての光明は、何を暗示しているのでしょうか。どうかご教示願いたい」と池に向かって一心に祈念なされました。やがて、不思議な事に薬師如来の尊像が現れ、その後に日光菩薩、月光菩薩、続いて十二神将が現れました。三修上人に帰依していた仁明天皇は、この不思議な出来事を聞くと、この地に勅願寺として、お寺を造るように命じられました。薬師如来が放った光が、仁明天皇がいらっしゃった京都の宮中に向かって、西方を明るく照らした事で、「西明寺」と名付けられました。また、西明寺の山号の由来は、西明寺のある場所が琵琶湖を中心として、東に位置していることから、東西南北の四方を護る天の四神(東・・・青龍、西・・・白虎、南・・・朱雀、北・・・玄武)の内の青龍が護り、人々の願いに応じる寺院故に「龍應山」と名付けられました。その後、西明寺は「国家鎮護と五穀豊穣、病気平癒」等を祈願する祈願道場として、また僧侶を育成する修行道場として、寺領二千石と山林数町歩が与えられ、十七の諸堂と僧坊三百を有する大伽藍となりました。また、琵琶湖の西岸の延暦寺が勢力を伸ばし始めた頃に天台宗になり、延暦寺の中心道場である根本中堂のご本尊の薬師如来が、琵琶湖を向いて安置されているので、薬師如来どうしが対面する様に西明寺のご本尊が延暦寺の方向に向いて安置されました。爾来、西明寺の薬師如来は湖東の薬師如来と呼ばれる様になりました。源頼朝が来寺して戦勝祈願されたと伝えられています。
戦国時代に織田信長は比叡山を焼き打ちしてその直後に当時も焼き打ちをしましたが、幸に国宝一号指定の本堂、三重塔、二天門が火難を免れ現在しています。
江戸時代天海大僧正、公海大僧正の尽力により、望月越中守友閑が復興し現在に至っています。
本堂(瑠璃殿)・・・国宝
鎌倉時代の初期飛騨の匠が建立した純和様建築で釘を使用していない。
屋根は桧皮葺きで、蟇股(かえるまた)、格子模様等鎌倉の様式が保存されている。
三重塔・・・国宝
鎌倉時代後期飛騨の匠が建立した純和様建築で本堂と同じく釘を使用していない。
屋根は桧皮葺きであり、総桧の建物である。
初層内部の壁画は巨勢派の画家が画いたもので堂内一面に、法華経の図解、大日如来の脇侍仏三十二菩薩、宝相華等が、純度の高い岩絵の具で極彩色に画かれていて鎌倉時代の壁画としては国内唯一のものであるといわれている。(塔の高さ23.7m)













































































































































