飛騨支路
日本国の道路が、国の制度の中に位置づけられたのは、大宝元年(701)制定の大宝律令できたとき。道路は7つ作られ、その1つである「東山道」は日本列島の背骨にあたる山地を通る道路であった。奈良から東北へと通ずる道路で政府の役人などが通るために整備された。古代の官道では、30里(この時代は約16㎞)を基準に駅家(えきや)が設置されている。この七道は大、中、小路に分類され、東山道は中路で、各駅には馬10疋(ひき)が置かれた。
この東山道は東へ進んでゆくが、美濃の方県(かたがた)付近で本道と分かれて「飛騨支路」となり、関~金山~下呂と北へ進んで飛騨国府の所在地であった現在の高山市へと続いた。戦略的に重要であったのか、わざわざ、飛騨へ通ずる道を官道としたのである。飛騨匠もこの道を通り、自己の食糧を持参したため上京15日程、帰りは荷が無いので8日程(延喜式主計上巻24参考)であった。
飛騨支路の中で、所々に石畳の残る位山道は匠街道とも呼ばれ、都から飛騨へと文化を伝え育んだ道でもあった。 「飛騨支路、東山道の駅、その推定地」
高山発(東山道飛騨支路)⇒ 石浦駅⇒ 一之宮⇒ 上留(かむつとまり)駅・上呂⇒ 下留(しもつとまり)駅(えき)・下呂⇒ 初矢峠⇒ 乗政⇒ 夏焼⇒ 菅田駅・金山町菅田⇒ 袋坂峠⇒ 武儀駅・賀茂郡七宗町加淵⇒加茂駅・賀茂郡富加町か⇒ 方(かた)県(がた)駅・長良辺り(ここから東山道)⇒ 大野駅・揖斐郡大野町⇒ 不破(ふわ)駅・濃国府・垂井⇒ 不破関⇒ 横川(よかわ)駅・米原市(ここから滋賀県)⇒ 鳥(と)籠(こ)駅・彦根市⇒ 清水駅・東近江市⇒ 篠原(しのはら)駅・野洲(やす)市⇒ 守山⇒ 草津(東海道と合流)⇒ 近江国府⇒ 勢多駅・大津市⇒ 山科駅・山科⇒ 宇治⇒ 奈良
参考文献 『地図で見る東日本の古代』(株)平凡社発行2012年
西大寺
西大寺は、奈良時代天平神護元年(765)に創建された。官大寺を総称する「南都七大寺」の1つに数えられ、2015年に創建1250年を迎えた。奈良時代、聖武天皇・光明皇后の後を継いだ娘帝の称徳天皇が「常騰を開基として鎮護国家」の思いを込めて開創し、東大寺などと並び称される寺格を誇っている。当時は広大な寺域に多数の堂塔が建ち並び、東大寺と共に栄えていたが、承和13年(846)以後数多の火災にあい、創建当時の建物はほとんど焼失した。
天平神護元年、飛騨国大野郡大領の飛騨国造高市(たけち)麻呂(まろ)が造西大寺大判官に任命されている。高市麻呂は天平勝宝元年(749)、飛騨国分寺に知識物を献じたことで外正七位下から外従五位下に叙せられた人物で、西大寺に大野郡の墾田を寄進している。西大寺の造営には高市麻呂のもと、高市麻呂の故郷の飛騨匠が動員されたことであろう。
中世・鎌倉時代には、稀代の高僧・叡尊(えいそん)が出て、密教において戒律を重視した教え(後の‶真言律〟)を広め、「興法(こうぼう)利生(りしょう)」をスローガンに独自の宗教活動を推進している鎌倉時代に叡尊により復興されたが、戦国時代には再び火災で焼失した。現在残っている本堂(重文)、愛染堂(重文)、四王堂(重文)などは江戸時代中期に建てられたもの。叡尊が始めた「大茶盛」の寺としても有名である。現在の寺域は約1万坪と広い。
奈良時代に本願称徳天皇(女帝、退位後再び即位して孝謙天皇)の「鎮護国家」の願いによって創建された。鎌倉時代に叡尊(諡号は興正菩薩)上人の「興法利生」の場として復興された。
鎌倉時代の律宗の僧。律宗中興の祖。字は思円。西大寺で受戒し,戒律によって非人,乞食の救済を志し6万人余に授戒したという。著書に『梵網古迹文集』 (10巻) ,『感身学正記』 (3巻) などがある。弘安4 (1281) 年の蒙古来襲時に神風を祈願したことでも知られている。
資料集
025_030_西大寺(奈良時代)
西隆寺
西隆寺(さいりゅうじ)は、奈良時代に平城京に造営された尼寺。称徳天皇の発願によって神護景雲元年(766年)に造寺司(造西隆寺司)が設置され、西大寺そばの右京一条二坊の地4町に建立された。
創建当時は官寺として他の諸大寺と同様の扱いを受けた。桓武天皇も封戸を施入するなど厚い保護を受けていたが、次第に衰退し、元慶4年(880年)には西大寺の管下に入った。鎌倉時代には廃寺となった。
昭和46年(1971年)に発掘調査が実施され、金堂や塔などの跡が確認された。 飛騨匠が工事に参加していたことを示す木簡が出土している。西隆寺東門地区から出土し、その内容は「—斐太工三人○豊岡/宿奈万呂—」である。
巨大商業施設『ならファミリー』店舗内通路に、西隆寺の柱位置が床に表示されていて興味深い。南大門の北には楼門型中門、金堂、講堂が一直線に並び、南大門北東に三重塔が建ち、さらに廻廊が左右に廻って講堂に取り付く。東寺に似た伽藍配置であった。寺域は東西、南北いずれも約250mほどを占めている。
参考文献 中井真孝「西隆寺」(『日本史大事典 3』(平凡社、1993年))
石野博信「西隆寺」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年))など
資料集
026_031_西隆寺(近鉄ファミリー)
大極殿
大極殿は古代の宮都における中心施設で、元日朝賀(ちょうが)や天皇の即位など、国家儀式の際に天皇が出御する場所である。平城宮には、造営当初から恭仁(くに)京(きょう)へ遷都するまでの大極殿(第1次大極殿)と、平城京に遷都してから長岡(ながおか)京(きょう)に遷都するまでの大極殿(第2次大極殿)の2つの大極殿が確認されている。
第1次大極殿院は、南北約320m、東西約180mの区画で、北側を1段高くし大極殿と後殿(こうでん)を南北に配置している。壇の南側は儀式の際に貴族が整列した広場である。これは、唐(とう)長安城(ちょうあんじょう)大明(だいめい)宮(きゅう)含元殿(がんげんでん)にならって造られたと考えられている。周囲は築地(ついじ)回廊(かいろう)で囲まれ、南面には南門とその東西に楼閣を構えていた。平城遷都1300年にあたる平成22年(2010)、大極殿の建物が復元され、現在公開されている。
この東側の楼閣を建てるにあたって飛騨匠が携わっていたことが木簡によって分かった。
木簡の出土場所は平城宮中央区朝堂院東北隅で、内容は「造東高殿□飛騨工□」とある。東高殿は大極殿に取りつく回廊の南面、東側の楼閣のことである。現在、さらに楼閣建物の復元工事が長期計画で進められている。
第1次大極殿の建物は、恭仁京遷都の際に回廊と共に解体され、移築された。その後、恭仁宮大極殿は山城(やましろ)国分寺(こくぶんじ)に施入されている。
「『平城宮 第1次大極殿 リーフ』独立行政法人 国立文化財機構 奈良文化財研究所 2010年発行」より
資料集
027_032_大極殿
朱雀門
7世紀にできたとされる古代の街道「下(しも)ツ(つ)道(みち)」は、藤原京からまっすぐ北にのびて平城京の正門(せいもん)である羅(ら)城門(じょうもん)につきあたる。羅城門をくぐると、幅75mもの朱雀大路がまっすぐ北へのびていた。街路樹として柳の木が植えられていたといい、羅城門から4km先には平城宮の正門である朱雀門がそびえ建つ。
朱雀門の左右には高さ6mの築地(ついじ)塀(べい)がめぐり、約1km四方の広さ、130haの広さをもつ平城宮を取り囲んでいた。朱雀門の前では新羅(しらぎ)や唐(とう)といった外国使節の送迎、都の男女があつまって、恋の歌をかけあうのを天皇がみるというイベントもここで行なわれた。元日には儀式があり、天皇が朱雀門まで出向き、新年のお祝いをすることもあった。朱雀門は衛士(えじ)によって守られ、いつもは開いていなかった。平城宮12の門のうち、最も重要な門であった。平城宮の正門としてその雄姿を誇示していた。
朱雀門の位置と規模は、1964年度の発掘調査で初めて確認された。その後も調査が続けられ、1989年度には復原整備を控えて、全面の再発掘が行なわれた。
明らかになった朱雀門は、柱と柱の間の中心間距離がいずれも17尺(約5m)で、正面5間(約25m)、奥行2間(約10m)の規模をもつ。平成10年度に復元建物が竣工した。
「『平城宮 朱雀門』独立行政法人 国立文化財機構 奈良文化財研究所 2010年発行」より
資料集
028_033_朱雀門
唐招提寺
・唐招提寺は天平宝字3年(759)、唐の高僧鑑真大和上によって創建された。飛鳥時代に仏教が伝来して以来、戒律は概念として知られながらも、さほど重視されていなかった。奈良時代に入り、その重要性が知られ始めたが、日本には授戒を行える僧侶がおらず、授戒の体制整備が急がれた。鑑真和上は朱鳥2年(688)、中国揚州で誕生、14歳の時、揚州の大雲寺で出家。21歳で長安実際寺の戒壇で弘景律師に授戒を受けたのち、揚州大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽に並ぶ者のない律匠と称えられていた。
そこで興福寺の栄叡(ようえい)と普(ふ)照(しょう)が唐へと渡り、南山律宗の継承者である鑑真に、伝戒師としての来日を要請。鑑真は聖武天皇の願いに応えて来朝を決意、5度の渡航失敗の後、来日決意より10年後の天平勝宝5年(753年)、65歳でついに九州へと上陸を果たす。鑑真は5年間東大寺に座し、天皇や僧侶400人に戒律を授け、天平宝字3年(759年)、戒律を学ぶ為の道場である唐招提寺を開いた。律宗総本山としてその法灯を今に伝える。国宝金堂の背後には、教義を説く為の講堂が建てられている。
この講堂は、平城宮の東朝集(ちょうしゅう)殿(儀式に出席する臣下の控え室)であったものを、平城宮改修の際に下賜され、天平宝字4年(760年)頃に唐招提寺へ移築したものである。大幅な改修が施されているが、平城宮の唯一現存する宮廷建築として非常に貴重である。
参考資料『唐招提寺 リーフレット』
・平城宮展示施設に創建当時の東朝集殿が復元されている。この朝集殿は、屋根勾配は緩やかで、ゆったりとした印象である。柱はひとまわり太く、扉は厚板の板であった。
平城宮から移され、唐招提寺の講堂として生まれ変わった。そして宗教施設として大改造がなされ、建具が入り、屋根は切妻造りから入母屋造りに改められた。この講堂は鎌倉時代に大修理されている。
*平城宮跡 説明版より
・鑑真和上は759年に、新田部親王旧宅の地を賜って開創した。境内には現在、天平建築の金堂、平城京から移築された講堂、三面僧坊東室の後身とされる礼堂、元経堂と推定される鼓楼、創立当時からの校倉2棟、境内西部に石造戒壇などが遺る。山内には80件700点余に及ぶ国宝、重要文化財が遺存する。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.1