月ヶ瀬 飛騨匠の碑
帰化人である鞍部多須奈が用材を求めて飛騨入りし、天生山中の月ヶ瀬(飛騨市河合町)に住む九郎兵衛の娘「忍」と結ばれて子供を授かった。生まれた子は鳥のような首をしていたので「鳥(とり)」と名付けられたという。その後、鳥は17歳で大和へ旅立ち、父多須奈に技術を習って彫刻師となって法隆寺の釈迦三尊像など数々の名作を刻み、止利仏師として名を残している。また、飛鳥寺(法興寺)の日本最古の仏像といわれる飛鳥大仏、釈迦如来像(606年)も止利の作といわれる。「日本書紀」は、止利仏師の父を鞍部多須奈、祖父を鞍作司馬達等と記している。司馬達等は大陸からの渡来人といわれる。
飛鳥時代1番といわれる仏師であることは美術史の通りであるが、飛騨市河合町には、止利仏師の生誕地としての伝承が長い年月にわたって伝えられてきた。それを実証する確かな史料は残っていないが口伝えにより、河合町の月ヶ瀬には飛騨匠の碑が建ち、近くを流れる小鳥川には多須奈淵、忍岩、神女の泉などの名がつく場所がある。また、天生には多須奈が飛騨入りした際に山が荒れるのを鎮めるため、聖徳太子像を祀ったという聖徳太子堂跡の碑も建てられた。天生峠の匠堂では匠祭りが行なわれ、止利仏師生誕伝説を今に伝える勇壮な匠太鼓があり、止利仏師生誕伝承による飛騨の匠発祥の地として認識されている。
参考文献
『新・飛騨の匠ものがたり』45~47頁 (協)飛騨木工連合会発行 平成14年
資料集
035_040_月ヶ瀬村 匠の碑
桜山八幡宮
<祭神>応神(おうじん)天皇・熱田(あつたの)大神、香椎(かしいの)大神
末社 稲荷(いなり)神社、天満神社、秋葉神社、難波根子武振熊(なにわねこたけふるくまの)命など
<由緒> 桜山八幡宮の創建は、遠く仁徳天皇の御代にさかのぼる。
飛騨の両面宿儺を攻めた難波根子武振熊命は、飛騨への侵攻にあたって道沿いに八幡社を祀って戦勝祈願をした。八幡社は先帝(御父君)応神天皇の尊霊を祭神とする。
元和9年、高山の国主金森重頼は、江名子川から発見した御神像を八幡宮旧跡の桜山老杉の傍らに、応神天皇の御神体として奉安した。そこで早速社殿を再興、神領を寄進し、高山の安川以北を氏子と定めて神事を管理し、高山城下町の総鎮守社とした。
明治25年には飛騨国中随一の大神輿が造られ、昭和43年には屋台会館が造られた。昭和51年には総桧造りの社殿を改築。
<祭祀> 例祭には金森国主より奉行正副が特派され、神事を管理せられた。奉行祭は幕府直轄となってからも復活し、祭日には代官所が休庁となり、郡代自ら幣帛を捧げて参拝した。例大祭は金森時代には3年に1度、享保の頃は毎年8月1日に行なわれていた。
例大祭・試楽祭10月7日午後7時、引き続いて屋台順番抽籤祭・年行司順番抽籤祭。献幣祭(例大祭)は10月9日午前10時。屋台曳き揃えは9日表参道、宵祭9日午後6時半より、御神幸祭10日午前8時、御旅所祭同正午、還御祭同午後5時。試楽祭10月7日。例大祭10月9日。御神幸祭10月10日。八幡宮の屋台は現在11基ある。
参考文献
『飛騨の神社』388~391頁 飛騨神職会発行 昭和62年11月3日
1 概 要
仁徳天皇の御代(377年頃)、飛騨山中に両面宿儺(りょうめんすくな)という凶族が天皇に背いて猛威を振るい人民を脅かしていた。征討将軍の勅命(ちょくめい)を受けた難波根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)は、官軍を率いて飛騨に入った(日本書紀)。武振熊命が、当時の先帝応神天皇の御尊霊を奉祀し、戦勝祈願をこの桜山の神域で行ったのが創祀と伝えられる。
その後、聖武天皇の御代(8世紀)諸国に八幡信仰が栄え、往古は数百本の桜樹が花を競い境内はいっそう整えられたとも言われる。
大永年間(室町時代、16世紀)京都の石清水八幡宮より勘請したが、戦乱の時代が続き境内は一時荒廃した。
元和9年(1623)高山領主金森重頼は、江名子川から発見された御神像を八幡神と奉安し、社殿を再興し神領地を寄進した。以後高山北部を氏子と定め、例祭には奉行を派遣して神事を管理した(奉行祭)。
飛騨が幕領となり、氏子を初め代々の郡代は篤く崇敬して奉行祭を継承し境内を整えた。神仏混淆の一時期、別当は八幡山長久寺であったが、明治の神仏分離により長久寺を離れる。明治8年高山の大火ににあい、末社秋葉神社を除きほとんど消失したが、同年33年までに境内復興が完了する。かつて奉行祭と呼ばれた例祭(秋の高山祭)が全国に知られる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.3
2 桜山八幡宮境内地の史跡、末社など
①大原代官寄進の石燈籠(安永7年奉納)
②大石段(19段が各1枚の石)
③大手水鉢
1つの大きな石から彫られている。明治10年(1877)建造。
④飛騨の国学者田中大秀筆の築庭碑
文化2年(1805)神苑整備され、記念としてこの築庭碑が建立された。
⑤逆さ桐の燈籠
魔除けに1ヶ所桐の紋が逆さになっている。
⑥長谷川代官寄進の石鳥居と青銅の扁額
享保15年(1730)社殿再建に伴い代官長谷川忠崇によって寄進された。
⑦高山祭屋台会館
高山祭に曳きだされる屋台(国重文指定)を展示している博物館相当施設。
2012年ミシュラン2ツ星を頂く。
⑧乃木将軍の日露戦争忠魂碑
日露戦争の翌年、乃木将軍が高山へ来て揮毫。
⑨末社 秋葉神社・狂人石
秋葉神社:飛騨が天領の時代に陣屋の鬼門の方向にあたることから、火防鎮護の神と して崇敬されてきた。安永7年(1778)建立。石段80段も含めて市指定 文化財。
狂人石:神社神域を汚すもの、この石に触れると狂人になると伝えられる石。
⑩東郷平八郎元帥の社号碑
⑪天満神社と筆塚
学業成就の神。傍らに筆塚があり、筆供養をすると書道が上達すると言われている。
⑫稲荷神社
五穀豊穣・商売繁盛・養蚕・各種産業の神。例祭日は団子撒きで賑わう。
⑬琴平神社
海上安全の神。社殿の天井に天狗の絵があり、それに口で噛んだ紙を投げつけ、天井につけば病気が全快するという言い伝えがある。
⑭照埼神社
両面宿儺討伐の戦勝祈願に應神天皇の御尊霊を奉祀され、当宮を創祀された神。武勇の神・歯の神。
*説明版より
3 大石段
19段全部が各1枚の石で造られ、当櫻山八幡氏子の人々は「一枚石の段々」と言って誇りをもって伝えている。(長さ3.3m)上の境内には櫻山八幡宮本殿を始め末社の照前・菅原・稲荷・琴平の各社あり。大原騒動時の代官大原彦四郎が寄進した石燈籠一対がある。
*説明版より
4 大原代官寄進の燈籠
大原彦四郎紹正は飛騨の国が天領になってから、第12代目の代官で明和3年(1766)この高山に着任して飛騨一円の統治にあたった。
安永2年(1773)幕府の苛酷な検地命令に反対して幕府の老中へ直訴嘆願や集会など農民一揆が起こり大原代官は、郡上藩の援助をうけ、これを鎮圧し農民は死罪流罪に処せられた。これを大原騒動という。大原代官は再検地の強行で飛騨国を増石した功により、郡代に昇格した。彼も敬神の念篤く、安永7年(1778)八幡神社に石燈籠一対を寄進した。
*説明版より
5 末社 稲荷神社
祭神 倉稲魂(うかのみたまの)神(かみ) 配祀 猿田彦神・松尾大神
例祭 3月2・午の日
江戸時代の始め衣食住の大祖「万民豊栄の神」として深い信仰を受け、ご神威の高い伏見稲荷神社のご分霊を勧請して奉祀した。
そのご神徳は稲生り『生命の根』と讃え、又祓いと導き人の心を和める徳が混和統一されて福徳の信仰が生まれ五穀豊穣・商売繁盛の守り神として崇敬されている。祭典の日は米の粉で作った「団子」を供え撒いたり氏子に配る。
*説明版より
6 末社 照前神社
祭神 難波根子武振熊命(なのわねこたけふるくまのみこと) 例祭 4月24日
祭神の武振熊命は武勇の誉れ高く仁徳天皇の御代に飛騨山中深く両面宿儺と言う兇賊を討伐された時この地で戦勝を祈願された後、命の勇猛さを慕って尚武剛健の守護神とされている。
又、一説には歯の神様とも言われ自分の年令の数だけの煎り豆や穴あき石を供えて祈願すれば、歯が丈夫になると伝えられている。
*説明版より
7 末社 天満神社と筆塚
祭神 菅原道眞公 例祭 7月25日
古くから学問の神様として、受験合格を祈願したり勉学にいそしむ人々に崇敬されている。菅公は弘法大師・小野道風と共に筆道の三聖と称されている。この筆塚に使い古した筆を捧げ、その筆でこの塚の字をなでると書が上達すると伝えられている。
*説明版より
8 秋葉講火消用具及び秋葉神社社殿 附石灯籠・石段・棟札
秋葉講火消用具(江戸時代後期~明治時代)高山市指定文化財(有形民俗文化財)
〈員数〉纏2点、秋葉講元旗1点、秋葉講装束161点
享保、天明、天保年間の50年毎の大火と度重なる火災から人々を守るために天保3年(1832)に秋葉講が結成され、纏や火消装束等が現在まで大切に保存されている。桜山八幡宮所蔵文書によると、装束は天保6年(1835)、纏は天保10年(1839)には製作されていた記録がある。
現在でも秋葉講による、祈願祭並びに、秋葉山本宮秋葉神社(静岡県)への参拝が毎年行なわれている。
秋葉神社社殿 附石灯籠・石段・棟札
〈員数〉社殿1棟、石灯籠4基、石段80段、棟札1枚
秋葉神社社殿は、急な石段80段を上がった所に西面して覆屋内に建つ。社殿は一間社、切妻造、銅板葺、向拝付で、三方に板縁、高欄を廻らし、奥端に脇障子を立てる。正面木階五級、濱床を有する。本柱と向拝柱を海老虹梁で繋ぎ、向拝柱上部には繰型の手挟を備える。妻面は虹梁の上に笈形付きの太瓶束を建て棟木を支える。向拝正面は二重虹梁で下の梁の木鼻は左が獅子鼻、右は獏鼻であり、左右の木鼻の形が異なるという珍しい形となっている。なお、これら木鼻の上にはいずれも皿斗を置き、二つ斗二段の組物を受けている。
棟札から、社殿の建築年代は安永7年(1778)、大工は「高山壱之町住藤原朝臣日川原甚三郎重季」であることが分かる。ちなみに社殿の左右手前に建つ一対の石灯籠にも「安永七年」の銘がある。また、社殿下の平地にある2基の石灯籠は、慶応元年(1865)の年代と町年寄らの名前があり、神社の維持等に町年寄が関わっていたと思われる。
*説明版より
資料集
036_041_飛騨八幡八社・桜山八幡宮
両面宿儺
両面宿儺は高山市丹生川町が出生の地と伝わり、丹生川町の千光寺や出羽が平(現在の飛騨大鍾乳洞近辺)、日面の善久寺、武儀の日龍峰寺などに伝承がある。『日本書紀』では大和朝廷に背いた朝敵として扱われているが、飛騨や美濃の伝説では、宿儺は武勇にすぐれ、神祭の司祭者であり、農耕の指導者でもあった。
『日本書紀』に両面宿儺の戦の記述があり、仁徳天皇65年(377年)、飛騨に攻め入った大和朝廷の最強の正規軍である難波根子武振熊に滅ぼされた。書記では宿儺を不具者として扱い、つづいて「掠略」(盗人)すると述べている。これに対して宿儺は飛騨の統領として相当に強大な力を持ち合わせて戦った。
当時の大和朝廷の支配は、畿内中央の最高首長が各地の有力な首長と同盟・連合の関係を結びながら、内外の軍事・外交活動を主宰し、各地の首長に貢納・奉仕を強要する形で勢力を結集していた。朝廷は宿儺に対して、飛騨の人々を引きつれて大和に参上するように求めたのであろうが、宿儺は拒否して戦ったのである。
千光寺ではその開山を両面宿儺とし、飛騨一之宮水無神社では「位山の主は両面宿儺である」と伝えている。また日面地区の善久寺には宿儺菩薩が畏敬の念をもって祀られる。また、関市下ノ保の日龍峰寺には「蛭なし川の伝説」があり、両面宿儺が当山に住む悪龍を退治した時、悪龍の血が滝のように流れ、
農民の血を吸った蛭がこれを吸って蛭は全部死んでしまったといい、今も蛭はいないという。
参考文献 丹生川村史編集委員会編集『丹生川村史 通史編一』丹生川村発行平成12年
資料集
037_042_両面宿儺
春の高山祭(山王祭)
16世紀後半から17世紀が起源とされる高山祭。高山祭とは春の「山王祭」と秋の「八幡祭」、2つの祭をさす総称で、高山の人々に大切に守り継がれてきました。
このうち、高山に春の訪れを告げる「山王祭」は、旧高山城下町南半分の氏神様である日枝神社(山王様)の例祭です。
毎年4月14日・15日、祭の舞台となる安川通りの南側・上町には、「山王祭」の屋台組の宝である屋台12台が登場。
うち3台がからくり奉納を行うほか、祭行事では賑やかな伝統芸能も繰り広げられました。
資料集
001_001_春の高山祭_Part1
001_001_春の高山祭_Part2
001_001_春の高山祭_Part3
【報告書】デジタルアーカイブ in ⾼⼭ 〜⾶騨⾼⼭匠の技とこころ〜
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日時: 平成3 0 年2 月4 日( 日) 1 3 : 3 0 ~ 1 7 : 0 0
会場: 飛騨・世界生活文化センター -
主催︓岐⾩⼥⼦⼤学
後援︓⾼⼭市・⾼⼭市教育委員会⾶騨・世界⽣活⽂化センター -
プログラム
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13:30-14:40
⾶騨⾼⼭匠の技とこころ
⽥中彰先⽣(市史編纂委員)
1.飛騨高山匠の技とこころ_田中彰先生(市史編纂委員) -
14:40-15:10
⾶騨⾼⼭匠の技デジタルアーカイブ
久世均先⽣(岐⾩⼥⼦⼤学)
2.飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ_久世均先生(岐阜女子大学) -
15:20-15:50
⾶騨の匠〜⽌利仏師⽣誕の地〜
安達康重先⽣(郷⼟史家)
3.飛騨の匠〜止利仏師誕生の地〜_安達康重先生(郷土史家) -
15:50-16:30
「⾶騨匠の技・こころと現在」
岡⽥贊三先⽣(⾶騨産業株式会社)
4.「飛騨匠の技・こころと現在」_岡田贊三先生(飛騨産業株式会社) -
※16︓30〜「ミュージアム⾶騨」⾒学(無料)
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デジタルアーカイブn高山
⾶騨⾼⼭匠の技とこころ
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飛騨匠の歴史
飛騨匠の歴史
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飛騨高山匠の技 デジタルアーカイブ
飛騨高山匠の技DA目次
古墳時代飛鳥時代
奈良時代
平安時代
室町時代
江戸時代
明治時代
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日本の美 飛騨デザイン「ミュージアム飛騨」
ミュージアム飛騨
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参 考 文 献
参考文献