東大寺
東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。
金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら[1])ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である[2]。現別当(住職・222世)は狹川普文。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
資料集
042_047_東大寺
木谷白山神社 どぶろく祭り
白川郷では毎年、9月の終わりから10月にかけて、五穀豊穰・家内安全・里の平和を山の神様に祈願する「どぶろく祭」が盛大に行われます。
白川村の各地区の神社で、御神幸、獅子舞、歴史と民話にまつわる民謡や舞踊などの神事が繰り広げられる、歴史と伝統ある白川郷ならではの祭り。その名のとおり、祭礼に神酒として「どぶろく」が用いられ、人々にも振る舞われるのが最大の特徴です。
どぶろくの振舞
「どぶろく」は、古くから受け継がれてきた独特の技法をもって、雪に埋もれた1月下旬に神社酒蔵で造りこまれます。午後3時頃、神社に奉納する「どぶろくの儀」を終え、大きな酒樽から「きったて」と呼ばれるお酌用の容器に「どぶろく」が移されると、割烹着のおかみさんたちがいっせいに来客一人ひとりに「どぶろく」を盃についで回り、会場は芳醇な香りに包まれます。「どぶろく」は、和銅年間(約1300年前)頃から、すでに祭礼用として用いられていたと伝えられています。
白川村の民謡
奉芸殿では、子供大事(子大事)が転訛したものと言われている「こだいじん」をはじめ、「白川おけさ」「しょっしょ節」「白川わじま」など長い歴史とともに育まれてきた民謡が披露され、「どぶろく祭」は最高潮に達します。唄は各集落共通ですが、踊りがそれぞれ異なるのも見どころです。
生きびな祭り
春のおとずれの遅い飛騨はひと月おくれの”ひなまつり”を迎えます。
このお祭りは、昭和27年、もともと蚕糸業が盛んだったこの地方で、春秋の2回蚕糸業祭がおこなわれて蚕糸業農家の年中行事となっていた養蚕豊鐃と地域農業の振興を祈念する春の養蚕業祭に、寒冷地のためにひと月遅れて行われるひな祭りをとり入れ、絹に象徴される女性の気品と幸福を祈念するために始まりました。
また、戦後の新憲法により、神社が国の管理下を離れ、宗教法人の1つとして自立した経営を迫られたことや神社信仰を盛り上げようとしたのがきっかけともいわれ、いわば神社の振興と蚕糸業の振興のために始まったとも言われています。
近年では蚕糸業が廃れてしまったため、祭を主催していた『蚕糸業奉賛会』も『蚕糸農業奉賛会』と名前を変え、農業協同組合があとおしする農業全般の豊鐃と女性の幸せを祈願する華やかなお祭りとして毎年多くの人々を魅了しています。
祭典と祭行列
祭りでは、雅楽が奏でられる中、赤鬼と青鬼を露払いに、雅楽を演奏する伶人、稚児、菱餅や酒杯を手にした巫女、そして選ばれた女性9人が左大臣、右大臣、内裏、后、五人官女となって続き、その後に奉賛会の人々総勢100名余りが、平安の昔を偲ばせるきらびやかな祭行列となり、表参道から境内まで約900mを40分ほどかけて練り歩きます。祭典の最後には、特設舞台において、生きびな様の紹介や1年の豊作を祈願して、生きびな様による餅投げが行われ、菱餅や繭だんごが振る舞われます。
昔も今も農業(稲作)にとって水は命。この命の水の源である位山を神座(みくら)とする水無神社(みなしじんじゃ)のお祭りには、神通川の流域に拡がる富山方面などからも多くの参拝者が訪れ、例年大変な賑わいをみせています。(編集中)
資料集
043_050_水無神社 生きびな祭り
飛騨民俗村・飛騨の里
飛騨の里は、合掌造りをはじめとした飛騨の古い貴重な民家が移築復元されなつかしい農山村の暮らしや昔から飛騨に伝わる季節の行事を再現している博物館です。白川郷、五箇山の合掌造りを手軽に見ることができます。
飛騨の里では、体験コーナーも充実しています。旅の思い出に実演・体験はいかがですか?特にファミリーやカップルの方にはオススメです。わら細工、さしこ細工、機織り、ひのき細工など日常経験できないことが、体験できます。通りを少し下ったところにある想い出体験館もオススメ!さるぼぼ作り、せんべい焼き、小糸焼き、絵付けなどの手作り体験体験ができます。
アクセスは、高山駅からは車で10分程度です。駐車場は、飛騨の里通り下の民俗村前駐車場(無料)、飛騨の里前の駐車場(有料)があります。また、高山駅からバスもでています。さるぼぼバス「四季の丘コース」が便利です。(編集中)
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044_051_飛騨の里
洲原神社(すはらじんじゃ)
洲原神社は、今より約1300年前、元正天皇の御代養老元年に(西暦717年)、越前国足羽郡麻生津村、神職三神安角の二男泰澄が加賀国白山の絶頂で厳かな修行行うていられた時に霊夢を感じ、其の状を具(つぶ)さに、天皇へ奏上されたので、元正天皇より泰澄に斎鎮の勅命下り、又当社御造営使として、伴安麿に御剣一口と封戸若干、従者二人に甲胃を添えて下し賜う。養老5年5月、実に宏大荘厳な御社殿が御造営の工を竣え、勅を奉じて泰澄が御祭神をお祀(まつ)り申し上げたのであります。
当社古来「正一位洲原白山」とも称(たたえ)奉り、洵に御由緒深い大社であります。
奈良時代に越前の名僧泰澄(たいちょう)大師によって創建されたと伝えられる洲原神社の社殿は、この近郷には稀な壮麗なものである。この神社は古来農桑の神として尊崇され、江戸時代から洲原講の組織があって各地からの参詣が多かった。
中央本殿
三間三面入母屋造り(いりもやづくり)桧皮葺、前面に向拝(こうはい)がつく。三手先斗組(みてさきときょう)であるが支輪(しりん)はなく、斗組(ときょう)の間に蟇股(かえるまた)を入れ、唐様を主として和様を混ぜ、市内で最も規模の大きい立派な本殿である。
社伝によれば康正(こうしょう)年間に建立し、天正13年(1585)に鉈尾山(なたおやま)城主佐藤歳次郎方政によって修理されたということであるが、さらに江戸時代にも大修理を加えたものと推定される。
東西本殿
どちらも三間三面の流れ造り(ながれづくり)、身舎(もや)は円柱、向拝は角柱を用い、斗組は出組(でぐみ)で勾欄をめぐらしている。江戸時代の建築と考えられるが、本殿と並んで三神殿並立の姿はまことに立派である。(編集中)
資料集
008_010_洲原神社
白山中居神社 (はくさんちゅうきょじんじゃ)
伊野原の郷には、9000年前より人々が住み着き(島口遺跡確認)、本社は縄文時代より、磐境に国常立尊の降神を仰ぎ、祭祀が斎行されたのが始まりで、現在は、七月第三日曜日の夏祭りに、石徹白創業祭が、磐境神事として、執行されています。ご本殿の創設は、景行天皇12年(83)に、白山の真南は、宮川の上流、長龍滝と短龍滝の間、朝日直射し、夕日輝く処に、伊弉諾尊を祀り給えのご神託のあったのが、正月中の日でありました。養老元年(717)越の大徳泰澄大師が白山を開闢の時、当社に3年間滞在し、別山を上社とし、中居神社を下社とした白山参道並びに、中居神社を整備なされました。鵜葺草葺不合尊の二の峰社・神鳩社・今清水社・美女下社等も含めて、神仏混淆となり、鳥居も両部鳥居になりました。そして、現在のご本殿は、安政2年から3年にかけて、福井県は永平寺町第27代大工棟梁玄之源左衛門が建築を担当し、彫刻は同地の後藤簾之助と諏訪の立川和四郎2代冨昌と昌敬の合作であります。本殿の「栗穂に鶉」の彫刻は「七十五歳立川富昌」の花押あり、海老虹梁の龍・脇障子の子育ての獅子は昌敬、大虹梁の菊は冨昌等、優れた傑作として、評価されています。境内は1400年有余の杉大樹が社叢を取り囲み、県の天然記念物指定となっています。今清水社境内には、樹齢1800年の日本一の大杉が、白山信仰の歴史を今に伝えています。四十代天武天皇・四五代聖武天皇寄進の刀剣、六十代醍醐天皇の時代藤原能信寄進白山大鏡五十余品奉納。九十一代後宇多天皇刀剣長光奉納。木曾義仲戦勝祈願立願状・伊藤加賀守秀盛主君豊臣秀吉と家族の立願状。無形文化財として、「五段神楽」、は宮廷を祝う祭りとして、奉納されたのが始まりの無形文化財です。神輿は、白黒の幕で覆われ、12人の担ぎ手により、天狗面を先頭に、御旅所まで賑々しく神楽に囃されながら、出御され、五段神楽の舞を奉納して、拝殿まで遷御の祭礼が、五月第三日曜日の春の例大祭に御神前に奉納されています。秋の祭りは、十月第三日曜日に「新嘗祭」が、「ゲド投げ祭り」として、執り行われています。
特殊神事 磐境神事・ゲド投げ祭り
文化財等 五段神楽
五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。吉田神道は、宝暦騒動の頃に、朝廷を中心とした、天下太平国家安全を祝う祭りの性格を、一地方の単なる春祭りの神楽に移行され、五行舞を五段神楽に改められた。五段神楽は、?舞いの楽器は、5種類であること。?舞いの方向と動きが、5行相生の5行であり、5行の輪廻と環境の舞いであること。?石徹白の五行又は五段のみの特徴として、鳶の舞いがあり、神武天皇の建国時の瑞兆の鳥の鵄(とび)の舞に始まるこの舞いは、建国と天下太平を祈る舞いに最もふさわしいこと。?御旅所への移動に先導して吹奏する笛の曲を五行と呼んでいること。?往事は、最後が舞姫3人が全員で5行相生の舞で終わっていたが、現在は2人が弊と鈴で、五行相生の舞で終わっていること。?巫女の装束は、金色の天冠・白鉢巻・後頭部五色(青・赤・黄・白・黒)のたけなが布・紅白の下着・緋の袴・赤地に金襴の胴衣・白足袋・紙緒草履・その他、たけながの布の色も五行であること。以上6点で五行舞の五行が継承されており、石徹白の五段神楽は、歴史的時代背景は、古代天武期を期限とした五行舞で、その後幕府や大名支配の時代の吉田神道の影響で、五段神楽として、里神楽的色彩を強めつつ、尚、古典の五行舞の要素を強く堅持している無形文化財は、石徹白の春の例祭に、御神前に、一年に1度だけ、奉納されています。
刀剣 天武天皇奉納剣・聖生天皇奉納太刀 能面 父尉(ちちのじょう)「日吉与十郎」墨書銘・男の面 室町時代作品、地塗り胡粉、唇は朱、葉は黒。若い女 「白山参柴山喜蔵天正八二月」寄進の銘、天正八年(1580)制作。女面 室町時代作品、胡粉地の白肉色、眼と歯は黒。天狗面 室町時代作品、「与十郎(花押)」墨書、朱
動画資料
資料集
007_009_白山中居神社
阿弥陀ヶ滝(あみだがたき)
長良川の源流に近い郡上市白鳥町の阿弥陀ヶ滝は、落差が約60mあり、緑樹の間から、瀑音を響かせ落ちるさまは、東海の名瀑と呼ぶにふさわしく「日本の滝100選」にも選ばれています。滝の北側には昼なお暗い洞窟があり、当時の白山中宮長滝寺の僧、道雅法師がこの中で修行し護摩をたいたところ阿弥陀如来の姿が浮かびあがったところから阿弥陀ヶ滝と呼び名がつきました。水の透明度が高く、朝日を背にして滝の前に立つと、水煙りの中に自分の影がうつり影の回りがぼんやりと虹色に縁どられて見えるので、まるで自分が阿弥陀さまになった気分が味わえます。厳冬期には滝が氷結し、春の新緑、秋の紅葉、夏でもひんやりとした空気が漂い清涼感あふれ、四季を通じそれぞれに趣があり、奥美濃の景勝地となっています。(編集中)
資料集
006_008_阿弥陀ヶ滝
関連資料
阿弥陀ケ滝
森八幡神社(森八幡神社・水無八幡神社・松森八幡宮)
森水無八幡神社(もりみなしはちまんじんじゃ)は、岐阜県下呂市にある八幡神社である。「森八幡神社」とも言う。
毎年2月に行われる田の神祭は、「田遊び」がその元となっているとされる豊作予祝祭であり、重要無形民俗文化財に指定されている。
1 森八幡(はちまん)神社(森八幡神社・水無八幡神社・松森八幡宮)
下呂町森字羽根1,321番地
.祭神 御食(みけ)津(つの)神・応神(おうじん)天皇
猿(さる)田(だ)彦(ひこの)神・倉(うか)稲(の)魂(みたまの)神
事解男(ことどきおの)神・速(はや)玉(たまの)神
須佐之(すさの)男(おの)神・大山(おおやま)祗(つみの)神
火産(ほむ)霊(すびの)神・大(おお)己(な)貴(むちの)神
埴山(はにやま)姫(ひめの)神・興(おき)津(つ)彦(ひこの)神
興(おき)津(つ)姫(ひめの)神(下呂町誌)
注、官制中の『神名帳』には、御食(みけ)津(つの)神・猿(さる)田(だ)彦(ひこの)神はない。
由緒 『斐太後風土記』によると、その創始は第16代仁徳天皇の御代とするのは、八幡八社説による。山岳崇拝に始まった祭祀とも見られ、あるいは農耕祖神の祭ともうかがわれ、さらには、道祖神祭とも考えられる特殊神事が多く、由緒が雑多であり、確定しがたい。
神社は戦国末期まで、年6回の祭礼があった。三木氏より祭祀料田3町6反を付されたが、金森氏に及んで例祭は年1回となり、社領は召し上げられた。当時八幡神社の祭礼は、一宮水無神社と、久津八幡宮とともに「飛騨の三大祭」と称せられた。
戸田釆女正による元禄検地に、1反6畝歩の境内除地があり、下呂郷中の「総社」と言った。明治維新(1868)村社に列し、森区の氏神となり、いつの間にか別当泰心寺との関係も絶えた。同40年に、神饌幣帛料の供進指定を受け、同41年には神社会計指定、同42年には、区内11社を合併合祀した。
古来「御(み)厨(くり)屋(や)」または「当屋」的存在の田口両家と、小池の3家が田神祭の中心となる等、こうした例には飛騨国中に類例がない。
祭祀 例祭2月14日。祈年祭2月17日。新嘗祭11月23日。
下呂祭・田之神祭・飼蚕祭等、それぞれ各特殊な神事芸能がある。国中最大最古の祭礼で、一宮御祭礼とともに古式ゆかしく、国指定重要民俗芸能の神事である。
明治13年に、旧暦1月14日を新暦2月14日に変更され、今日に至っている。
<引用文献>
土田吉左衛門編集『飛騨の神社』1,282~1,283頁 飛騨神職会発行 昭和63年
2 木造神像
国指定重要文化財 昭和15年10月21日指定
本神社の収蔵庫には、10体の木造神像が保管されている。木造神像は、像高30~60㎝で、平安時代から鎌倉時代にかけて飛騨の匠の手によって彫られた。神像は、風俗的にも彫刻的にも地方色を生かした素朴なもので貴重なものである。
3 田の神祭
国指定重要無形民俗文化財 昭和56年1月21日指定
本神社の祭事として毎年2月14日に境内で行われる。中世以来の田遊びの芸能が規模、様式ともに伝承されており、希にみる貴重な民俗資料とされている。4人の若者が、大きな色とりどりのかぶり笠をつけて踊ることから、別名「花笠祭」と言われ、飛騨で最も早い祭であることから、「飛騨路に春を告げる祭」として賑わう。
4 下呂之大杉の由来
この地に樹齢2千有余年、周囲13米の巨大な杉の老木が茂っていた。
記録によると、安政6年(1859)1月20日、湯之島下町より出火、折りからの強風にあおられ飛び火し、2番杉は途中で焼き折れ、拝殿、神輿堂を焼失したが、大杉は真頭を焼失するに留まり生き残った。
昭和3年(1928)、国の天然記念物に指定され、近隣に比類なき巨木「下呂の大杉」と親しまれていた。ところが、昭和27年(1952)5月8日、又もや湯之島下町より出火、5月特有の北風にあおられて大杉に飛び火し、巨大な煙突の如く燃え上がり、惜しくも上部を焼失してしまった。
そのため国の指定は解除されたが、焼け残った基部約10米は、岐阜県の天然記念物に指定されていた。
度重なる火災にあい「火伏せの大杉」と崇められていたものの、内部は畳が6枚程敷ける空洞であった。しかし外壁にあたる幹の一部と、地上5米程から出て高さ12米程にのびた1の枝は青々と茂り生き永らえていた。枝とはいえ直径50糎をこす太さであった。
しかるに、平成2年(1990)8月9日、補強工事を目前にして腐食が進み、突如倒壊してしまった。現在、大杉の立っていた跡に2世の若木が植えられている。
*2~4は説明版より
資料集
038_043_飛騨八幡八社・森八幡神社
位山八幡神社
創建年代は不詳。国説に、仁徳天皇六十五年、飛騨国両面宿儺追討の勅命を奉じた武振熊命(たけふるくまのみこと)が、この地に先帝応神天皇の尊霊を奉祀し、戦勝を祈願されたところで、祭場遺跡とある(「飛騨八幡八社」の一つ)。また、里伝に宮坂の現地と、森の幅、上馬瀬戸にあった三社を、合併合祀したとも伝えられている。
当社は、律令制下の東山道の官道筋にあった。元禄検地で一反六畝十歩の境内除地があった。明治維新に村社に列格した。
この地は古来、大野郡久々野郷に属し、一宮神領として一村区一神社であったが、昭和三十一年に益田郡萩原町に合併し、神社も益田郡支部川西部会に編入されて、社名も「位山八幡神社」と改称された。
創建以来の記録は少なく、棟札には文政十年、嘉永元年、大正二年などに拝殿を再建したことが分かる程度である。
本殿は小社ながらも郡内における代表的な建築様式(流造入宝殿)である。
祀職は歴代一宮より兼任し、祭祀もまた一宮の御祭札を縮小した規模のものであった。
なお、境内には、県指定天然記念物の「夫婦杉」、「一位樹」がある。
鎮座地 萩原町山之口字神屋1,272番地
1.祭神 主神 応神(おうじん)天皇
仁徳(にんとく)天皇
神功(じんぐう)皇后
配祀 氏子出身靖国の神霊30柱
2.由緒 創建年代は不詳であるが、国説に、第16代仁徳天皇の65年、飛騨国両面宿儺追討の勅命を奉じた武振(たけふる)熊(くまの)命は、進軍の各所で先帝応神天皇の尊霊を奉祀し、戦勝を祈願された祭場遺跡であろうと称せられる。中津原・乗政・森・久津・一宮・石浦・高山等とともに「飛騨八幡八社」の1であるとも伝えられている古社である。
第42代文武天皇の大宝律令制定による、東山道の官道筋であったが、後天正年間(1573~1591)金森長近が、飛騨国主となると、位山の険を避けて、上呂より小坂・久々野・一宮に至る河内路を、公道に切り替えたので、かつての道は廃道となり、大正の頃まで、もっぱら高山に至る歩道として利用された。
また、里伝に宮坂の現地と、森の幅・上馬瀬戸にあった3社を、合併合祀したとも伝えられる。
戸田釆女正による元禄検地には、境内社地に1反6畝10歩の除地を受け、明治維新には村社に列格し、同40年神饌幣帛料の供進指定、並びに神社会計適用指定を受けた。
この地は古来、大野郡久々野郷に属し、一宮神領として1村1区1神社であったが、昭和31年に益田郡萩原町に合併し、神社もまた益田郡支部川西部会に編入されて、社名も「位山八幡神社」と改称された。
創建以来の記録は少なく、棟札には文政10年・嘉永元年・大正2年等に、拝殿を再建したことが分かる程度である。
本殿は小社ながらも郡内における代表的な建築様式である。
祀職は歴代一宮より兼任し、祭祀もまた一宮の御祭礼を縮小した規模のものであったが、戦後過疎化や祀職怠慢などにより、祭祀・施設等荒廃に帰したが、今や復興の声も氏子内外にあがりつつある現状である。
終戦後、神社林の伐採により、往時の景観を失ったのは、遺憾なことである。しかし、なお境内には、県指定天然記念物の「夫婦杉」・「一位樹」等がある。
3.祭祀 例祭5月1日・2日(制定日 5月2日)。神幸祭・神代踊・闘鶏楽等がある。祈年祭3月10日。新嘗祭11月23日。
4.建造物 本殿(流造入宝殿 4.5坪)・覆殿(平棟造 6坪)・幣殿(平棟造 15坪)・拝殿(平棟造 20坪)・手水舎(平棟造 1.5坪)・鳥居(石造明神形 高2間 幅9尺)・神庫(3坪)。
5.宝物その他 〇円空作神像 3軀。
〇狛犬 1対(陶器製 茶褐色)。
〇棟札 5枚。
〇夫婦杉(岐阜県指定天然記念物)。
〇イチイの大木(岐阜県指定天然記念物)。
6.境内地 2町2反5畝3歩。
7.氏子 山之口全戸を含む、130戸。
<引用文献>土田吉左衛門編集『飛騨の神社』1,148~1,150頁 飛騨神職会発行 昭和63年
資料集
039_044_飛騨八幡八社・位山八幡神社
資料集
062_271_位山八幡神社の社叢
久津八幡宮(くづはちまん)
1 概要
祭 神 應神天皇、天照皇大神、春日大神を主神とし仁徳天皇をはじめ八柱の大神を配祀する。
由 緒 仁徳天皇65年(377)勅命により難波子武振熊命が飛騨国の両面宿儺を征討の途次應神天皇の霊を奉祀したのを創祀とし平治の乱(259)役募兵のため飛騨に入国した源義平が鶴岡八幡宮の神霊を勧請奉斎したのを當宮の鎮座とする。
その役応永19年(1412)飛騨国領主白井太郎俊國が現在の本殿を再建し天正9年(1581)飛騨国領主三木自綱が現在の拝殿を建立した。以後飛騨国藩主金森氏や幕府の代官、郡代により次々に修理造営が行われてきている。
古くから飛騨二の宮南飛騨総鎮守と称され飛騨国中はもとより越中、美濃からも厚く崇敬されている。
例大祭 4月第3土曜日試楽祭 4月第3日曜日本祭・神幸祭
重要 本殿(国指定)三間社流造、屋根こけら葺 室町時代初期の建造物
文化財 南妻蟇股の彫刻「鳴いた鴬」は飛騨の匠の作として有名
拝殿(国指定)入母屋造、屋根こけら葺 桃山時代の建造物
南面軒口の「水呼ぶ鯉」の作り物は飛騨の匠(左甚五郎)の作として有名
天然
記念物 夫婦杉(国指定)雄杉(上)雌杉(下)ともに周囲12.5米 樹齢1,500年
宝 物 木造高麗犬壱対(鎌倉時代作)木造神像壱体(平安時代作)書写大般若波羅密陀経100巻余(鎌倉時代)その他獅子頭、鬼神面太刀、槍、鰐口、神輿、扁額など30数点、久津八幡宮祭礼記録類18点(岐阜県重要民俗文化財指定)外 古文書古記録1,000余点
八幡様(應神天皇)は広く民衆を守る神様。また、應神天皇神功皇后は大陸の文化を積極的にとり入れ、古代日本における文化の向上、国家の発展につくした文化の神様である。
*説明版より
2 配祀御祭神
御 名 御 神 徳
倉(うか)稲(のみ)魂(たまの)神(かみ) 穀物の神・稲荷神
火(ほ)産(むす)霊(びの)神(かみ) 火の神
大(おほ)山(やま)袛(つみの)神(かみ) 山の神
須(す)佐(さ)之(の)男(をの)神(かみ) 医薬の神
事(こと)代(しろ)主(ぬしの)神(かみ) 福神・夷子神
磐(いは)長(なか)姫(ひめの)神(かみ) 延命長寿の神
久(く)々(ぐ)能(の)知(ちの)神(かみ) 木の神
菅(すが)原(はら)道(みち)真(ざね)公(こう) 学問の神
*説明版より
3 拝殿 国指定重要文化財 国指定重要文化財
拝殿は桃山時代、三木自綱の再建によるもので、単層入母屋造りの柿葺で4本の囲い柱による内陣は全国でも類例がなく国指定重要文化財になっている。
天正9年(1581)益田の国領主三木大和守自綱は普請奉行に小林正左衛門、舩坂弥治右衛門、内気喜助を任命し、桜洞の名匠桂川孫兵衛を棟梁として拝殿を建立した。鯉は、嘉永7年(1854年)大修理の際、取り付けられた水を呼ぶ鯉で、今なお当時の姿のまま保存。
*説明版より
4 水を呼ぶ鯉(萩原のむかし話より)
ずっと昔、毎年雨の降るたび、益田川の水が荒れ狂う水に削られて川がどんどん久津八幡様の方へ押し寄せて来たそうな、村人達は心配のあまり川を眺めて「なんとかせにゃどもならん、こりゃどえらいことになる」、長老の弥作じいがおみたちの心配する気持ちはようわかるどしてみとがこっちへくるかって事よ、ありゃ拝殿のひさしに彫り込んだ鯉よ、あいつが水をよぶんやぞ、とにかくあの鯉を作らはった和田様に聞いてみるが一番ええ
次の朝、じいは高山の和田様を訪ねた 事の次第をうなずきながら聞いておられた和田様は、しばらくお待ちくだされ、白装束を身につけて 仕事部屋に行き、なにやらトントン木を刻む音が聞こえてきた すると和田様は彫り刻んだ矢を手に現れ、この矢を鯉に向けて取り付けてくだされ、それからというものは まったく大水の心配は無くなり、村は安らかになったという。
*説明版より
5 久津八幡宮本殿
室町時代の応永19年(1412)、白井太郎俊国が祈請し、家臣山下作右衛門友貞を普請奉行とし飛騨の匠の流れをくむ美濃の国の名匠武澤茂右衛門利久を召し、棟梁として本殿の再建に着手完成に至る。
本殿は、丸柱総素木造りで、正面向拝に流れる屋根の曲線が優美。南妻にある「鳴き鶯」は拝殿の軒口の「水を呼ぶ鯉」とともに飛騨の匠の神技を伝えている。宝物として鎌倉時代の狛犬1対、正和2年清峯寺道仙の筆書による大般若経が100巻余り保存されている。境内の夫婦杉は国指定天然記念物。
*説明版より
6 鳴いた鶯(萩原の昔話より)
ずっと昔の事やった、旅の男が夏の太陽が照りつける中を、歩いておったと 久津の八幡様の森のなかに涼しく流れる清水を見つけ、口をうるおし、大杉の木陰で汗をぬぐいひとやすみしとった。境内はとても静かな所で木々を吹き抜ける風に、小鳥のさえずりが気持ちよう聞こえてくる、その中にひときわ美しいウグイスの鳴き声も聞こえたそうな、男は疲れのせいか 眠気がさしてきたんやと、そんでもいざ寝るとなると鳥のさえずりがやかましい。男は小石を拾って森の方へ石を投げつけたと、小鳥の声はぴたりと静まったが、ホーホケキョホーホケキョと鳴くウグイスの声だけはいっこうに鳴きやまん 男は、その声のする方へ近づいていったと、けどな不思議な事もあるもんよ、声は本殿の軒下から聞こえるんやが、いっくらさがしてもウグイスは見あたらん、ただ目に付いたのは、軒下に木彫りのウグイスがあってな、いまにも鳴き出すように活き活きと彫ってあったとよ、まさかこの彫り物が。気のおさまらんままに足下の小石を拾って彫り物の鳥めがけて力いっぱい投げつけたとよ するとなウグイスの鳴き声は、ぱったりとやんでしまったと、ただ木の葉を渡る風音だけが 聞こえておったと、男はあわてふためいて境内を飛び出し村人達にこのできごとを話したと。このときからや、軒下の2羽の鳥の彫り物を鳴いたウグイスと呼ばれ出したのは。
*説明版より
7 久津八幡宮緑地環境保全地域
面積(ha)3.42 S52.9.30 指定
スギ、ヒノキ、サワラ、シラカシ等の良好な緑地
久津八幡宮は、産土神として地元の人々の信仰の対象となっている。社叢は、国の天然記念物である夫婦スギをはじめ、スギ、ヒノキなどの針葉樹やサクラ、シラカシなどの広葉樹の大径木からなり、神社の深遠さを保ち霊気をかもしだしている。岐阜県では、この地域を訪れる人々にやすらぎと潤いを与えるため、この社叢を緑地環境保全地域に指定して保全につとめている。
*「岐阜県自然環境保全条例」に基づき、自然環境保全地域のほか、市街地及び集落地並びにこれらの周辺地を対象に、緑地環境保全地域を16地域(654ha)指定している。緑地環境保全地域は、市街地等にある樹林地、水辺地、その他、これに類する自然環境を有する土地であって、自然環境を保全することにより、地域の良好な生活環境の維持に資することを目的としている。緑地環境保全地域は社寺林が多くなっている。
岐阜県庁6階 環境生活部 環境企画課が担当課
*説明版より
今から1600年も昔、飛騨国に両面宿儺という怪賊がいて、時の仁徳天皇は御弟の難波根子武振熊命を飛騨国にお遣わしになって宿儺を討って飛騨国を平定開拓されました。この時、武振熊命は、御父応人天皇の御霊をお祀りして武運長久と国土平安を祈られましたのが久津八幡宮の始めであると伝えられています。それから八百年余後、平治の乱(1159)の時飛騨へ募兵入国した源氏の嫡流源義平が武運長久を祈って、久津八幡宮に関東の鶴岡八幡宮の神さまを勧請致しました。その後室町時代の応永19年(1412)に飛騨国領主白井太郎俊国が、現在の本殿を再建し、又桃山時代の天正9年(1581)には飛騨国領主三木自綱によって現在の拝殿を建てられました。その後も飛騨国を領した金森藩主や徳川幕府の代官郡代によってつぎつぎと修理造営が行なわれて今日に至っております。また飛騨の古い俗謡に「飛騨で一番一之宮、二には荒城安国寺、三に上呂の久津の宮」と謡われているのは、飛騨二の宮として飛騨国中から篤い崇敬がよせられていた事を物語るもので、古記録によりますと、飛騨国はいうまでもなく、隣国、越中、美濃まで広く崇敬が及んでいたことがしられます。
文化財 国指定重要文化財 本殿1棟 拝殿1棟
天然記念物 夫婦杉
#左甚五郎