照蓮寺本堂(国指定重要文化財)
所在地 高山市堀端町8番地(城山公園内)
所有者 照蓮寺
指定年月日 昭和31年6月28日
構造形式 入母屋造 栩葺形銅板葺
浄土真宗の寺院では日本最古の建物といわれ、昭和35年に合掌造りで有名な荘川村(現在の高山市荘川町)から、高山城二の丸跡へ移築された。永正年間(1504年から1521年)の建立と伝えられるこの本堂は、書院造を基調として、道場発祥の過程を物語る。
かつては荘川村中野にあり中野御坊と呼ばれてきたが、御母衣(みぼろ)ダムが建設されることになり、昭和33年~35年にかけて現在地に移築された。
一本の大杉を使って建てられたと伝わる書院造りの本堂は、長さ7間の長大な梁や、緻密な木目の板材など見所は多い。山々の形にも似た緩やかな屋根の曲線は、飛騨の寺院建築を象徴する優美さの一つである。
延宝6年(1678年)の棟(むな)札(ふだ)や小(こ)屋(や)束(づか)の墨書から、当時の流行であった本願寺式急勾配の屋根に改装されていたことが分かり、移築の際に創建当初の緩やかな屋根に復元された。杉(すぎ)柾(まさ)目(め)の柱に取られた大きな面、柱の上の美しい曲線を描く舟(ふな)肘(ひじ)木(き)、広(ひろ)縁(えん)内部の調和のとれた舞(まい)良(ら)戸(ど)と明(あかり)障(しょう)子(じ)など、仏壇構えの内陣と共に上品な雰囲気が漂う。
説明板より
嘉念坊善俊上人畧伝
高山別院照蓮寺の開基嘉念坊善俊上人は後鳥羽天皇第12の皇子で承久3年(1221)御年8歳のとき園城寺に入って僧となり道伊と号した。 寛喜3年(1231)関東から上洛中の親鸞聖人に箱根で逢い、本願他力の念仏の奥儀を聞いてその弟子となり、嘉念坊善俊の名を賜わった。その後祖師聖人に常隋し研鑽怠ることなくいよいよ利他真実の義をきわめた。師の命を受け辺地の群萌教化の旅にたち、都から北陸に向かう途美濃白鳥に暫く逗留したがそのとき上人に帰依するもの数知れず北濃一帯に真宗がひろまった。
宝治年間(1247~49)はじめて飛騨国に足を踏み入れ辺地の教化のため己が住居を一ヵ所に定めることはせず、白川郷の深い山あいの村々をたずね歩いて強化一日としてやすむことがなかった。弘安5年(1282)3月3日69歳没年までおよそ35年間 ひたすらに念仏往生の教えを説き伝えて○むことを知らなかった。その真摯な教化はこの地方の人びとに深い感銘を与え、白川郷一帯はもとより近郷近在の老若男女の商人に帰依する者其の数を知らず。 当時これを白川善俊門徒と呼び白川郷中野照蓮寺を中心として一大宗教団を形成した。
照蓮寺は天正16年(1588)高山城主金森長近公によって高山の地に移されたが、以来真宗は飛騨一円にひろがりいわゆる真宗王国を実現するにいたった。
高山別院は飛騨真宗発祥7百年と飛騨御坊造立4百年を記念して、同境内に嘉念坊善俊上人の碑を建立し、ながく上人の遺徳を顕彰し、かつわれらの父祖によって伝統された真宗念仏の信心を相続し、同朋社会の顕現に一段の精進を期せんとするものである。建碑に寄せられた門信徒の芳名録は、百年後の人びとへのメッセージとともにタイムカプセルに収納し建碑の地に遺するものである。
岩井正尾 謹書
昭和60年11月2日 高山別院照蓮寺
説明板より
関連資料
2-12-1 照蓮寺本堂
2-12-2 嘉念坊善俊上人畧伝
005_214_照蓮寺
資料集
080_289_金森氏が招へいした照蓮寺(現高山別院)
高山城
〈県指定〉昭和31年9月7日
〈所有者〉国有地、高山市、民有地
管理者 高山市ほか
〈所在地〉城山、神明町ほか
〈時代〉室町~江戸時代
〈員数〉114,006.2㎡(225頁に明細あり)
高山市街の東方にあって標高686.6m、通称城山、別名を臥牛山、巴山ともいう。
金森入国以前は、「天神山(てんじんやま)城」と呼ばれた。飛騨の守護代である多賀出雲守徳言によって、文安年中(1444~1449)に築城され、近江の多賀天神を祀ったことから多賀天神山、城は多賀山城と呼ばれたという。永正年間(1504~1521)には高山外記が在城していた。
天正13年(1585)7月、金森長近は秀吉の命を受けて飛騨へ侵攻し、翌年飛騨一国を賜わった。城地として最初は大八賀郷の鍋山城を考えたようであるが、のち、灘郷の天神山古城跡を選定した。飛騨のほぼ中央に位置し、開けた盆地があり、しかも東西南北の街道が交差するこの古城跡が最も適所と考えられたのである。築城は天正16年(1588)から始まり、慶長5年(1600)までの13年で本丸、二之丸が完成し、以後可(あり)重(しげ)によってさらに3年で三之丸が築かれ、慶長8年までに16年かかって完成したとされる。高山城は、織田信長が築城した安土城の直後に構築され、軍事的機能を最優先させた造形とは本質的に異なっている。御殿風の古い城郭形式を持ち、外観2層、内部3階の構造を持つ天守を備えているのが特徴で、秀吉の大阪城築城以前における城郭史上初期に位置づけられる。
高山城の各曲輪は、本丸が東西57間に南北30間、南之出丸が東西15間に南北22間、二之丸が東西97間に南北84間、三之丸が東西120間に南北93間の広さがあった。(『飛騨鑑』『斐太後風土記』『飛州志』)当時の絵図が金沢市立図書館にあるが、それによると次のようなことがわかる。
本丸には最高所に(あ)本丸屋形、その東方1段低いところ(A)に(い)十三間櫓、(う)十間櫓、(え)太鼓櫓、(か)横櫓等があり、東北に(き)搦手一ノ木戸のある(B)腰曲輪が連なる。本丸から南へ下ると途中に大手の(く)三ノ門、(け)二ノ門を経て(こ)岡崎蔵や(さ)大手門のある(C)南之出丸に至る。本丸の北方二之丸に下る途中には(し)中段屋形が建つ(D)曲輪と、その西方には(す)塩蔵その他の土蔵が建つ(E)曲輪がある。二之丸は東西に大きな曲輪が並んでいるが、(F)西側の曲輪には(せ)二之丸屋形、(そ)黒書院を中心に西方に(た)唐門、(ち)屏風土蔵、(つ)十間櫓等があり、東側の曲輪との境には(て)玄関門、(と)中ノ口門がある。一方(G)東側の曲輪には(な)庭樹院殿屋敷を中心に、東北隅に(に)鬼門櫓、東南に(ぬ)東之丸長屋に続いて(ね)裏門、西方には(の)横櫓大門がある。(は)大門を西方に下った(H)曲輪には、(ひ)桜門の西側に(ふ)炭蔵、東側に(へ)荷作り蔵、(ほ)料紙蔵等があり、その東北方に連なる(I)曲輪には2棟の細長い(ま)土蔵が建つ。(J)三之丸には(み)勘定所と8棟の(む)米蔵があり、水堀が東側と北側をくの字形に囲んでいる。大手道は南之出丸西側の大手門から大洞谷を下って桝形橋に通じている。
この中で、二之丸は東と西に平地を持ち、東側は庭樹院(頼旹の母)の住んだ屋形であった。現在は二之丸公園となっている。西は城主の屋形で、跡地に昭和35年荘川から照蓮寺が移築されている。三之丸には現在飛騨護国神社が建ち、三之丸にあった御蔵は高山陣屋へ移築されている。
城下町は、城の北方に延びる通称空町と呼ばれる高台と、その西方の低地一帯で、西側を南から北へ流れる宮川と、東側を南から北、途中で西側へ折れて流れる江名子川に囲まれた、東西約500m、南北約600mの範囲内に建設された。城郭の築城とともに武家屋敷の地割が行なわれ、飛騨の各地から寺院や町家が移されたが、町割は武家地と町人地がはっきり区分されていた。
武家地は城の大手筋にあたる大洞谷から中橋に至る宮川の右岸に階段状に配され、また空町一帯から江名子川沿いに城の西・北・東の3方を取り巻く形で配置された。町人地は宮川と空町の間の低地に一番町、二番町、三番町と南北に道路が走り、東西の道路は南北の大通りと食い違って交差する横丁が多くあった。社寺地は東山山麓に大雄寺が天正14年(1586)に建てられたのをはじめとして、天照寺、雲龍寺、素玄寺、宗猷寺、法華寺、また城の東南に大隆寺と、金森家の由緒の寺院が相次いで建立された。またこれらの寺院群とは別に城と向かいあった場所に照蓮寺が建てられ、周囲に寺内町が形成された。(『高山城発掘調査報告書Ⅰ、Ⅱ』1986、1988年 高山市教育委員会)
元禄5年、金森第6代頼旹は突然出羽国(山形県)に移封となり、金森氏転封後は金沢藩が城番を勤めた。しかし、元禄8年幕府の命により高山城は完全に破却され、廃城となった。のち、城山として町民の憩いの場として花見などに使われてきた。
高山城跡は大正8年内務省の史跡指定を受けて以来、法の変遷により昭和31年9月7日岐阜県の史跡として指定され、その面積は11.4haにおよぶ。また、高山城跡を中心とした城山公園一帯は、「高山城跡およびその周辺の野鳥生息地」として昭和31年6月14日、高山市の天然記念物に指定され、鳥獣保護区特別保護地区でもある。一部は都市計画上の急傾斜地防災地区に指定される。海抜は、本丸頂部で686.1mあり、高山市役所(馬場町2丁目)580m、旧高山町役場(神明町4丁目)575mと比べ約100m高所にある。
市街地にある自然公園としても貴重で、高山市民は春の花見、秋の紅葉を楽しむなど生活領域の一部として、密接なふれあいを持っている。遊歩道を歩くと、スギの幹をリスが走り、80種におよぶ野鳥が出迎えてくれる。自然植生の植物も豊富で、昭和56年にはササの新品種「ヒダノミヤマクマササ」が発見された。また、裏日本種と表日本種のササが混在する珍しい現象も確認されている。
このように、市街地に近接しているにもかかわらずたくさんの野鳥が生息し、自然植生が保たれ、史跡が保存されている例は稀であろう。
城山山頂部に位置する本丸は、城跡の最高所である。現在は樹木に遮られて、4方とも展望はきかないが、かつては360度の展望が開けていて、東は長野、北は富山、西は白川村、南は下呂、美濃へそれぞれ通ずる街道が見渡せる位置にある。
昭和60年、61年に本丸周辺の発掘調査をし、本丸屋形礎石、玄関、本丸南側石積根石を発掘、また、本丸周辺の部分測量を実施してその成果がまとめられている。
参考文献
『高山の文化財』188~194頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
2-11 高山城
資料集
松倉城
〈県指定〉昭和31年11月14日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉松倉町城山2059番地
〈時代〉室町時代(16世紀)
〈員数〉台帳面積7,342㎡、実測面積4,330㎡
山城 本丸跡 520㎡、外300㎡
二之丸跡 830㎡
三之丸跡 770㎡
高山市街の西南、標高856.7mの松倉山頂に構築された山城である。高山盆地を眼下に見下ろし、北は越中、南は岐阜、東は木曽、西は郡上に通ずる街道を一望のうちにおさめることができる。
本丸 内曲輪(くるわ)の4方と外曲輪の西側・南側に石垣が現存する。
二之丸 本丸東にあり、南側に旗立石と俗称する巨岩がある。東側・南側に石垣が残存する。
三之丸 本丸南にあり、西側・南側に石垣、西南隅に1段高く角(すみ)櫓(やぐら)跡がある。
南中間櫓 二之丸、三之丸の中間にあり、三之丸より1段低く、東・南・西に石垣が現存する。
出丸 本丸西方1㎞、現在松倉観音を安置する。
北麓(ほくろく)に城下町を経営したらしく、元禄検地水帳に町屋敷の名が見え、現に古町・馬場と呼ぶ小字がある。また、山中数カ所に家中屋敷と見られる大小の平地がある。
「飛騨の里」吾(ご)神(がみ)池に注ぐ渓流をさかのぼるのが搦(からめ)手(て)(常の大手)で、下の七曲道と奥の七曲道があった。大手は、南方向の千島町奥エチゴから登る。山下城(三木自綱(よりつな)娘婿(むこ)三木三沢居城)との連絡路であった。
永禄年間(一説天正7年)三木自綱が築城し、桜洞を冬城、松倉城を夏城と称した。天正13年(1585)金森長近・可重(ありしげ)父子が南北両面から飛騨に攻め込んだ時、自綱は田中城に籠り、2男秀綱に松倉城を守らせたが、自綱まず敗走し、次いでこの城も、家臣の返り忠により閏8月6日ついに落城した。
参考文献
『高山の文化財』183~184頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
2-10 松倉城
資料集
078_287_金森氏が攻めた松倉城
本能寺跡
天正10年(1582)6月2日、明智光秀が謀反を起こして、京都本能寺に宿泊していた主君織田信長を襲撃した。包囲された信長は、寺に火を放ち、自害して果てた。
信長の嫡男織田信忠は、妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、万策尽きて自害した。長近の嫡男忠次郎も二条城で一緒に亡くなっている。
<寺町御池の本寺>
京都府京都市寺町御池にあり、寺名は「大本山 本寺」である。一般的には、本能寺と呼称されている。
天正17年(1589)、秀吉は本能寺の再建を現地再建でなく、寺町御池に移転を命じた。
本能寺の戦没者合祀碑には、金森長近の嫡男金森忠次郎の名前が記されている。
リーフレットより
本能寺 由緒沿革
当山の宗名は「法華宗」くわしくは「妙法蓮華経宗」という。
宗祖日蓮大聖人の滅後133年開基日隆聖人が法華宗の正義を再興せんが為、応永22年(1415)布教の根本道場として創建された。
史上有名な「本能寺の変」は、天正10年6月2日、一代の英雄信長も光秀の不意襲○を受け、当山の大伽藍と共に一辺の煙と化した。時の本能寺は四條油小路に在り、秀吉の代寺領換地となり現在地に移転。信長の第三子信孝の願いにより、当山内に信長公廟所をまつる。
現本堂は創建以来の第七建立、建築様式は鎌倉室町時代の粋を集め、およそ10ヶ年の歳月を費して昭和3年に完成、 大正、昭和期に於ける我が国の代表的木造寺院建築といわれる。
大本山本能寺
説明板より
関連資料
2-9-1 本能寺跡
2-9-3 本能寺 由緒沿革
2-9-2 金森氏の関ヶ原合戦東軍参加まで
資料集
077_286_本能寺の変(長近は長男長則を失う)
安土城下の金森屋敷跡
(琵琶湖「西の湖」のほとりに金森屋敷はあった)
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
織田信長が安土城築城を命じたのは天正4年(1576)正月のことである。信長は同年2月に岐阜より安土城に移り、天守閣を5年で完成させている。安土城下は楽市楽座でにぎわい、武家屋敷も短期間に整備された。しかし、天正10年(1582)、本能寺の変で天守閣は焼失してしまった。
信長の重臣であった金森長近は安土城下に武家屋敷を構えていたが、その場所は長い間わからなかった。平成24年(2012)、安土城の「遺跡発掘調査事務所」に調査を依頼したところ、「金森」の地名伝承が昭和60年(1985)に調査されていたことがわかった。そこは「西の湖」のほとりで、現在の町名は金森ではないが、住民の地名伝承により伝えられ続けてきたという。秀吉、家康、前田利家は安土城の城郭内部に屋敷を持っていたが、長近は湖のほとりに屋敷を構えていたことになる。この場所は琵琶湖の水上交通の要になるところであった。「金森」の地名が残る場所に、今は福祉施設が建つ。
図は「織豊期の都市法と都市遺構」小島道裕『国立歴史民俗博物館研究報告 第8集』第一法規出版株式会社 昭和60年12月20日発行の掲載図面による。
リーフレットより
関連資料
2-8-1 織田信長と安土城年表
2-8-2 安土城下の金森屋敷跡(琵琶湖「西の湖」のほとりに金森屋敷はあった)
資料集
076_285_安土城時代の金森屋敷
金森左京家
① 左京家の飛騨時代
金森本家の始祖金森長近の後に本家二代となった金森可重は、高山市の北部にある高原郷に勢力を持っていた江馬氏十六代の江馬輝盛の娘を側室としていた。その側室が生んだ子が可重の五男、重勝である(富田礼彦編『斐太後風土記』)。
彼は父可重に従い、異母兄の三男重頼とともに大坂冬の陣・夏の陣へ出陣した。その後元和元年(一六一五)七月、兄重頼が父可重の領知を継承し、飛騨国を領有した。
その時、兄重頼の領内より同年三千石を内分知として割(さ)き与えられ、金森左京家として分家した。重勝が金森左京家の始祖となり、以後十一代にわたり幕末まで続いた。
江戸幕府が寛永十八年(一六四一)編集に着手した家譜書「寛永諸家系図伝」(日光叢書)によれば、金森重勝の項に次のような記録がある。
重勝
左京亮
重頼於領国之内分与三千石于重勝
慶長十九年奉謁
大権現(家康)
台徳院殿(秀忠)
大坂両御陣供奉
寛永三年奉仕
すでに慶長十九年(一六一四)には家康・秀忠に初御目見をしていた。そして寛永三年(一六二六)には将軍家に勤仕することになり、内分知であったため将軍から領知朱印状を拝領せずに、幕府へ出仕するという方法で旗本になった。
このように江戸前期には、大名の子息が旗本に取り立てられる場合は多かった。これは軍事拠点の警固や行政機構の発展等により、旗本増員の必要があったからである。それには幕府財政の負担にならないように、本家である大名の領知の一部を割き与えるという形で、旗本の増員が行なわれた。
金森左京家へ内分知されたのは高原郷三千石であった。この地域はもともと江馬氏が統治していた。前述のように金森左京家の祖である重勝の母は、江馬氏十六代の江馬輝盛の娘で、重勝の父可重の側室となっていた。高原郷は高山の北方、旧神岡町と旧上宝村・奥飛騨温泉郷にまたがる地域であった。この高原郷内の釜崎(現在は飛騨市神岡町釜崎)は交通の要所であり、高原郷の中心地であった。金森左京家は釜崎に陣屋を置いて統治した。町内に地元の人々が建てた「金森重勝三代居館址」という木製の標柱が建てられている。
高山町内における左京家の屋敷は、「まちの博物館」(住香草文庫)所収の「高山城下町絵図」によれば、三か所記されている。金森初期に左京の元屋敷があったと考えられるのが、江名子川上流の錦山神社付近にあった最初の屋敷である。またその次の時代に左京屋敷があったと考えられるのが、江名子川沿いの高山市島川原町にある「川上別邸史跡公園」付近である。ここは東西二町余、南北一町余の広大な屋敷跡であったという。また最も広大な屋敷として描かれているのが、現在の左京町から桜町にかけての桜山八幡宮付近の屋敷である。左京家は高原郷の中心である釜崎、そして高山の町内に、また旗本であるため江戸に左京屋敷は存在したのである。
金森本家六代頼旹(よりとき)の代の元禄五年(一六九二)に、幕命により飛騨国より出羽国上山(山形県上山市)へ転封になった。出羽国では金森本家は三万八千七百石余であったが、そのうち左京家の領知は本家の領知に含まれた三千石であった。
しかし金森本家は元禄十年(一六九七)統治わずか五年で、美濃国郡上八幡へ再び転封となった。その領知は美濃国郡上郡や越前国大野郡にまたがり、左京領三千石を含む三万九千石であった。頼旹は元文元年(一七三六)に亡くなり、孫の頼錦が七代藩主となった。
② 左京家の郡上八幡時代
左京屋敷があったのは、現在「左京稲荷神社」が存在した付近であるといわれている。この地は郡上市八幡町島谷で、字名に左京という名が残っている。この付近に金森左京の屋敷があったという。
八幡郵便局の近くにある「左京稲荷神社」の由来書によると「このあたりは、旗本三千石金森左京の屋敷跡であったので、(この付近は)左京町といわれている。金森左京は、もと郡上藩主金森頼錦の分家である。この稲荷神社は、金森左京の守護神であった。今も一家の繁栄を願う多くの人々から崇敬されている。」とあり、左京家の屋敷神であったという。現在も越前市白崎町にある金森左京家十三代の金森 穣(みのる)氏の屋敷には屋敷神として稲荷神社が立派に祀られている。
本家七代金森頼錦の代には、郡上郡百二十一か村と越前大野郡内六十九か村の領知あわせて三万九千石を統治した。
その内、左京家は美濃国郡上郡阿久田(あくだ)村などの五か村五百六石七斗八升七合と越前国大野郡細野村など七か村の二千四百九十三石二斗一升三合で合計三千石を給知された。ただし内分知であるので、越前国の「元禄郷帳」では左京領とは記されず、本家の郡上藩領となっている。
③ 越前金森左京領の成立
それまで左京家は内分知であり、幕府財政の外側であったが、本家の改易にもかかわらず、幕府領より直接三千石が与えられた。幕府の特別の措置であった。
金森左京家四代可英は、宝暦九年(一七五九)六月に幕府は、越前国南条郡・今立郡の内七か村を金森左京家の知行所とした。内分知ではなく、越前国において独立した領知支配である。その七か村は次の通りである。すべて元幕府領であった村である。
南条郡
白崎村 (越前市白崎町) 九百三十五石七斗八升六合
清水村 (南越前町清水) 四百二十七石九斗二升六合
牧谷村 (同 牧 谷) 六百八石四斗六升八合
今立郡
上大坪村 (越前市上大坪町)百四十石一斗七升九合
萱(かや)谷村 (同 萱谷町) 二百三十四石四斗三升九合
大手村 (同 大手町) 二百二十一石七斗三升
西尾村(分郷)(同 西尾町) 五百四石一斗一升
合計 三千七十二石六斗三升八合
( )内は現在の地名
宝暦八年「成箇郷帳写」「金森可英知行所成箇郷帳写」より
ちょうど三千石ではなく、七十二石六斗三升八合を余計に給知されている。これは込高(こみだか)といって、知行所替の際に新しい知行地の年貢収納率(免)が低い場合、収入が減少しないように以前と同じ高にするため、余分に与えられた増高である。このような暖かい配慮があったという。
寄合衆とに分かれるようになった。前者は格式が高い家柄の名門の家が多かった。左京家はこの表御礼衆に属していた。交代寄合表御礼衆は、明治維新までに全国で二十家を数えた。左京家のような大名の分家であった家以外に、松平家の一門・譜代の家、織田・豊臣系の家臣、中世以来の豪族、守護大名系の家が属していた。
江戸城中では交代寄合表御礼衆の詰所は帝鑑の間や柳の間であり、左京家の詰所は柳の間で、そこは位階四位以下の外様大名や高家の詰所であった。左京家はまさに大名扱いであった。また江戸城において、大名と同様に表白書院で将軍に拝謁・御礼ができるので、表御礼衆と呼ばれた。
④ 江戸の金森左京屋敷
左京家の拝領屋敷は、芝三田魚籃(ぎょらん)坂下の江戸三田田島町(東京都港区白金一丁目三付近)にあった。延享四年(一七四七)の屋敷図によれば二千四百坪余りあった。左京家屋敷は規定より多くの坪数があり、優遇されていたものと考えられる。しかし屋敷図を見ればその坪数は多いが、屋敷の建坪は少なく、空き地が多かった。そこでこの空地を利用して自家用の野菜を栽培することは、他の武家屋敷と同様に公認されていた。
左京家の江戸屋敷は天保十五年(一八四四)安政四年(一八五七)の「江戸切絵図」によれば、三田魚籃下、現在の町名で言えば白金一丁目三付近で「西原病院」がある地であろうと考えられる。近くに古川が流れ、そこにかかる「四の橋」のやや南東にあたる場所である。現在古川の上には首都高速二号目黒線が走っている。その付近は病院やマンション、小さな町工場があって、とても武家屋敷の存在した地域とは考えられない。
金森家一族の菩提寺は左京屋敷に程近い、東京都渋谷区広尾にある臨済宗大徳寺派の祥雲寺であった。この寺は福岡藩主の黒田長政をはじめとする、多くの大名の墓が見受けられる。金森家にとって、あくまでも江戸における菩提寺であり、墓も「源姓金森累世之塔」となっており、江戸屋敷に関わる金森家全体の墓(金森家の総墓)とも考えられる。
京都には金森長近をはじめとする金森家歴代の墓が、同じく大徳寺の塔頭龍源院内にある。もとは同寺塔頭の金龍院に墓があったが、そこが京都市立紫野高校のグラウンド整備拡張事業のため、龍源院に墓は移された。
明治維新に際し、交代寄合表御礼衆二十家の中にあって、維新後の一万石への高直しを早急に行なって一万石を認められ、もと大名として華族となった家が、生駒家や平野家など六家があった。金森左京家は三千石であったため、さすがに一万石には届かなかった。左京家は藩主並の家格を持っていたため、華族昇格を他の表御礼衆とともに、維新政府に歎願したが認められず、左京家十一代の近明はさぞ悔しかったにちがいない。
家臣の中には帰農する者、東京に出て商工業に従事する者等さまざまであった。白崎町の左京家菩提寺の金剛寺へのお盆参りには家臣の子孫も年々少なくなっているという。
領主の城郭風の居館は破却され、居館東側にあった重臣達の屋敷もなくなった。十一代近明は重臣とともに小高い下荒井地区の居館から出て、白崎村平地の暦所地区に移り、家老や重臣と一緒に屋敷を建て生活をした。
大正十四年(一九二五)五月、牧谷村のかつて御用達役を務めた宮地儀兵衛らが中心となり、統治下七か村の有力者等から募金を行い、居館跡に神社風の「金森家之碑」を建てた。それも碑は故郷高山の方角に向いている。
『高山市史・金森時代編』より
関連資料
2-7 金森左京家
資料集
075_284_金森氏の分家・金森左京屋敷
越前大野城跡
越前大野城跡は、大野盆地の西側に位置する標高約250mの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城跡である。織田信長の部将、金森長近により天正年間(1573-1593)の前(ぜん)半(はん)に築城された。
越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、天主閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式(しき)の城(しろ)であった。
江戸時代の絵図には、本丸の望楼付き2層3階の大天主と2層2階の小天主・天狗櫓などが描かれている。本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる「野面積み」と言われるものである。
江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775)に本丸も焼失したが、寛政7年(1795)に再建された。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみがのこされた。
説明板より
市指定史跡 戌山城址
戌山城は、室町時代に幕府の重臣(管領)斯(し)波(ば)氏の一族によって築かれ、織田信長の部将金森長近が亀山山頂に大野城を築くまで、越前美濃国境間の要として重視されていた。
途中、斯波氏の内紛を機に朝倉氏の居城となったが、それは、三代目城主持種の子である斯波義敏との家督争いが発端となり、応仁の乱の一因になったともいわれる。
主郭のある山頂からは大野盆地が一望に見渡せ、郭群・堀切・竪堀などの遺構も確認できる。
登山口横にある「みくら清水」は、山頂の兵が日に3度飲料水を汲みに来た、という言い伝えでこの名がついている。
平成12年3月 大野市教育委員会
説明板より
関連資料
2-6-1 越前大野城あと
2-6-2 越前大野城城主
2-6-3 金森長近
2-6-4 百間坂
2-6-5 武家屋敷旧内山家
2-6-6 名水百銭 御清水
2-6-7 御清水
2-6-8 戌山城址
2-6-9 戌山城址主郭部
資料集
岐阜城
(岐阜城)史跡の概要
岐阜城跡は、金(きん)華(か)山(ざん)(稲(いな)葉(ば)山(やま))に築かれた山(やま)城(じろ)で、稲(いな)葉(ば)山(やま)城(じょう)、井(い)口(ぐち)城(じょう)とも呼ばれていた。戦国時代に美(み)濃(の)国(こく)を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織(お)田(だ)信(のぶ)長(なが)が天下統一の拠点とした城としてもよく知られている。
建(けん)仁(にん)年間(1201~1203)頃に二(に)階(かい)堂(どう)氏(し)が最初に城を築いていたと言われているが、実態は不明である。大永5年(1525)頃、ここが守護方と長井氏の争いの舞台になったため、少なくともこのころには城として利用されていたと考えられる。天文5年(1536)には斎(さい)藤(とう)道(どう)三(さん)が拠点としていたことが分かり、以後は義(よし)龍(たつ)・龍(たつ)興(おき)と、斎藤氏3代の居城となった。永(えい)禄(ろく)10年(1567)、斎藤氏を追放し美濃を攻略した信長が、城に大きく改修を加え、岐阜城と名を改めた。その後、慶(けい)長(ちょう)5年(1600)の関ケ原合戦の前哨戦で落城し、廃城となっている。
信長入城後の改修には、石垣のほか巨(きょ)石(せき)列(れつ)を用いるなど、その構築技術に近世的な要素がうかがえる。また、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスや京都の公家である山(やま)科(しな)言(とき)継(つぐ)等の訪問記録が残されている点、山麓では貴重な庭園遺構群が見つかっている点も、岐阜城跡の特徴と言える。
岐阜城の城域は、ほぼ現在の金華山国有林の範囲に相当し、山麓居館を含めた約209ヘクタールが史跡指定範囲となっている。居館跡や自然地形も含めて、山全体が城として機能していたことが分かる。
説明板より
信長公の居館跡
信長公の居(きょ)館(かん)跡(あと)では、これまでに5か所の庭(てい)園(えん)跡(あと)が見つかっているが、平成25年度に調査されたA地区のものが最大の規模を有する。大規模な池の背後には、高さ20mを超える自然の岩(がん)盤(ばん)を加工して巨大な背景として用いている。岩盤には2筋の滝が流れ、池に注いでいたとも考えられる。また橋に関連すると考えられる遺構の発見により、中(ちゅう)心(しん)建(たて)物(もの)があるC地区とは橋によって結ばれ一体として利用された可能性が高くなってきた。このような庭園は他に類のないものであり、信長居館の特徴の一つとなっている。
説明板より
川原町(湊町・玉井町・元浜町)の由来
長良川の川(かわ)湊(みなと)として繁栄した川原町は、古くは中河原(なかかわら)と呼ばれ、ここを貫いている表通りは中世からの古い道筋で、斎藤道三公、織田信長公の城下町の時代には市場も開かれていた。
近世から近代を通して、上流からの和紙や木材などを扱う大きな商家が軒を連ね、長良川流域の拠点として栄えた。落ち着いた佇まいを見せる町並に、切(きり)妻(づま)平(ひら)入(い)り、窓に格(こう)子(し)を施し、壁を真(しん)壁(かべ)造(づくり)漆(しっ)喰(くい)仕上げにした伝統的な町家が並んでいる。
今、あなたが立っているこの広場一帯は、かつては長良川の遊水地となっていて、木材や鵜飼観覧船なども入り込んでいた。商家の裏側には玉石垣の上に黒壁土蔵が並んでおり、川とともに生きてきた営みを今に伝える。
ここから仰ぎ見る金華山は、今も昔も変わらぬ姿で聳(そび)えている。緑の山麓の合間に望む朱色の三重塔は、大正天皇の御即位を記念したものである。風(ふう)光(こう)明(めい)媚(び)な金華山において、町家の中から最も美しく見えるポイントとして指示したのは、川原町の商家に逗(とう)留(りゅう)していた日本画家の川合玉堂画伯である。
長良川と金華山に抱(いだ)かれた川原町は、古くからの伝統を受け継ぎ、未来に伝えるまちとしてここにある。
川原町町づくり会
説明板より
正法寺の文化財
金(きん)鳳(ぽう)山(ざん)正(しょう)法(ぼう)寺(じ)は、この地に1683(天和3)年に開山始祖・廣(こう)音(おん)和尚が草庵を結んだことに始まり、1692(元禄5)年に千(せん)呆(がい)和尚を開山に迎えて創建された黄(おう)檗(ばく)宗(しゅう)の寺院です。江戸時代以来の境内地を現在も継承しています。
国重要文化的景観 長良川中流域における岐阜の文化的景観(重要な構成要) 平成26年3月18日選定
日本遺産「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜(ストーリー構成文化財)
平成27年4月24日認定
岐阜県重要文化財 昭和49年3月6日指定
籠(かご)大(だい)仏(ぶつ)附(つけたり)木(もく)造(ぞう)薬(やく)師(し)如(にょ)来(らい)坐(ざ)像(ぞう)(籠大仏)像高 13.7m (薬師如来)像高61cm 台座 23cm
江戸時代後期に、塑(そ)像(ぞう)、漆(しっ)箔(ぱく)により造立された国内最大規模の籠大仏である。第11代惟(い)中(ちゅう)和尚と、第12代の肯(こう)宗(しゅう)和尚の2代にわたる約38年の歳月を費やし、1832(天保3)年に開眼供養が行なわれたという。
大仏は、胎内の骨格を木材で組み、竹材を編んで外形を作る。その上に粘土を塗り、惟中和尚が各地で集めた一切経を貼り付け、更に漆と金箔を重ねて仕上げている。また、「大(だい)真(しん)柱(ちゅう)」と呼ばる周長6尺(直径約57cm)の銀杏(いちょう)の木の柱を大仏の背面に建て、台座から胎内を通して大仏殿第3層の下部まで垂直に立てて支えている。
最大仏の胎内仏として、桧(ひのき)材を用いた一(いち)木(ぼく)彫(ちょう)成(せい)の薬師如来坐像が安置されている。右手は施(せ)無(む)畏(い)印(いん)を結び、左手は屈臂(くっぴ)して左膝の上に置き、薬壺(やっこ)を持ち、二重の蓮(れん)華(げ)座(ざ)に結(けっ)跏(か)趺(ふ)座(ざ)した姿である。姿や顔立ちから、平安時代後期の製作と推定される。
岐阜県重要文化財 昭和49年6月12日指定
木(もく)造(ぞう)阿(あ)弥(み)陀(だ)如(にょ)来(らい)坐(ざ)像(ぞう) 像高 55cm 台座 35cm
籠大仏の御(お)前(まえ)立(だち)で、平安時代後期の製作と推定される。桧材の一材から彫り出し、底部に深く内(うち)刳(ぐ)りがなされている。上(じょう)品(ぼん)上(じょう)生(しょう)印(いん)を結び、二重の蓮華座に結跏趺座した姿である。
全体に一木造りの重厚さを遺し、和(わ)様(よう)を穏やかにまとめた表現がなされている。
岐阜市重要文化財 平成27年4月7日指定
正(しょう)法(ぼう)寺(じ)大(だい)仏(ぶつ)殿(でん) 構造 木造3層 規模 梁間19・16m×桁行19・18m×高さ23.60m
明(みん)朝(ちょう)様式と和様が融合した江戸後期の建物である。大仏の構造上、大仏を造立する段階から風雨を凌ぐ覆(おおい)屋(や)が不可欠であることから、大仏造立と併行して大仏殿の造営が進められたと考えられる。
大仏殿の中心部には、高さ23mを超える大仏を収めるために、大きな空間が形成されている。また、大仏の周囲を巡ることができる構造の回廊など、他の大仏殿に無い特殊な形態がみられる。(回廊は通常使用できない)
1876(明治9)年、第13代の椈(さく)泉(せん)和尚のもとで有志を募って大仏殿の大修理が行なわれ、現在の姿に改築された。
平成28年3月 岐阜市教育委員会
説明板より
関連資料
2-5-1 岐阜城の歴代城主
2-5-2(岐阜城)史跡の概要
2-5-3 信長公の居館跡
2-5-4 川原町の由来
2-5-5 正法字の文化財
資料集
飛騨高山の城主 金森長近
金森長近は大永4年(1524)美濃国で生まれ、大畑家の次男として一家で金ヶ森に移って来る。その後18歳まで居たとされている。そして織田信長の桶狭間の戦いに参戦、金森長近と名乗るようになった。信長の死後、豊臣秀吉に仕え再び戦功をあげて飛騨の国の城主になる。
説明板より
川那辺氏と金ヶ森城
金ヶ森城は現在の城の下団地「城ノ下」にあった。城主は川那辺氏で「建武3年(1336)湖上輸送権をめぐる戦いの時、金ヶ森城主川那辺厚高とその弟厚房は武勲をたてた」(守山市史)とされている。
説明板より
道西と苦菜会
道西は金森の地で応永6年(1399)産声をあげる。親鸞の教えを求めて歩んだ道西の姿を蓮如上人御一代記聞書が詳しく紹介している。苦菜会は金森を代表する伝承行事で、蓮如の遺徳を偲んで毎年3月上旬、500年以上継続している。
説明板より
蓮如に関する伝説
蓮如が戦国乱世の時代を生きた湖国の人々の心を、いかに深く、強くつかんでいたかを知るものとして蓮如に関する伝説がある。「蓮如ぶきの屋根」もその一つであるが、現在分かっているものだけで、近江18市町で32話もある。
説明板より
関連資料
名古屋城
名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代の城主は、江戸幕府を開いた徳川家康の第九男義直である。慶長14年(1609)、家康みずから築城を決定し、翌15年に石垣普請が着工され、17年に大小の天守や各櫓が完成した。普請を命じられたのは加藤清正ら西国の大名20名で、城内の石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っている。
慶長20年(1615)に本丸御殿、元和3年(1617)には二之丸御殿が完成し、二之丸御庭、御深井御庭なども整備され、名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせた。
明治維新後、名古屋城は陸軍省の所管となり、名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれたが、明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となった。昭和5年(1930)12月、名古屋市内に下賜されると同時に国宝に指定され、翌年から一般公開が始まった。昭和7年(1932)には、名古屋城全域が特別史跡に指定された。
昭和20年(1945)5月、第二次世界大戦末期の空襲により、天守や本丸御殿など国宝建造物24棟が焼失したが、焼失を免れた隅櫓と3つの門、空襲の直前にとりはずされていた本丸御殿障壁画1047画が、戦後重要文化財に指定された。
昭和34年(1959)、天主閣と正門が、ほぼ昔どおりの外観で再建された。
平成21年(2009)には本丸御殿の復元工事が始まり、平成25年(2013)に玄関・表書院部分が完成した。現在も、平成30年(2018)の全体完成をめざし工事を進めている。
説明板より
二ノ丸大手二之門
この門は二之丸西側にある枡形の外門となるもので、内門である大手一之門(現存せず)と共に古くは西鉄門といわれ、二之丸正門を形成していた。俗に枡形御門をもいい、一間一戸、屋根切妻造本瓦葺で、高麗門の形式をとる。
なお、二之丸東側には東鉄門と称されていた二之丸東二之門があったが、現在は本丸東二之門跡に移築されている。
共に国の重要文化財に指定されている。
名古屋市教育委員会
説明板より
勝幡城跡地
この勝(しょ)幡(ばた)城跡地は信長の祖父織田信定公が「天の利」「地の利」「和の創造」を実行する拠点と決め、津島港と尾張国府(稲沢市)の松下とを三宅川で往来し、尾張西部を手中とした。
信長の父信秀公が津島を拠点にして勢力を拡大し巨万の富を権勢拡大に使い尾張の雄となった。
信長の誕生は1534年5月、平手政秀公による養育で「うつけ」として就業し情報を万人よりもらい天下人となり平定に努めた。
2010年3月「信長生誕を育む会」を結成、多くの方々の御協力により戦国時代の「砦」を当地に再現し永遠の記念とする。
2010年3月20日
信長生誕を育む会
会長 野島精二
説明板より
関連資料
美濃土岐氏、多治見の大畑時代
①岐阜の土岐氏
長近の父定近は、美濃国守護、土岐氏の氏族であった。土岐氏は平安時代、岐阜市茜部周辺で活動していた源氏の一族で、鎌倉時代初めまでには土岐郡(瑞浪市)あたりに住み、土岐氏を名乗る。南北朝の争いには北朝の武将として足利尊氏のもとで功績をあげ、美濃国の守護になった。その後、力が弱まり、最後は斎藤道三によって美濃国から追い出され、土岐氏の時代が終わっている。
岐阜県岐阜市長良・長良公園は土岐氏の福光城跡で、長良川をはさんで岐阜城が見える。美濃国守護土岐氏は福光城から独立丘陵「鷺山」までの空間に町(鷺山遺跡群)を建設した。発掘調査で家臣の屋敷地や宗教施設などが見つかっている。
②土岐成頼(しげより)
土岐成頼は金森長近の曾祖父である。
土岐成頼は康正二年(一四五六)十五歳で、美濃国守護土岐持益の養子となり、左京大夫美濃守となった。応仁の乱では山名氏に従い、始終京都にあって西軍の有力武将として十一年間転戦した。文明九年(一四七七)和平成立後、足利義視、義稙父子をと
もなって帰国した。明応六年(一四九七)五十六歳で病没し、瑞龍寺(ずいりょうじ)に葬られた。
瑞龍寺が所蔵する成頼像は没後に描かれたもので、曲録に座す僧侶の姿で描かれている。賛は東陽英朝(一四二八~一五〇四)のもので、文中に「岐阜鍾秀」とあり、信長入城以前に「岐阜」が地名として使われた史料としても注目されている。
③斎藤妙椿(みょうちん)
斎藤妙椿は土岐家の守護代で、主君成頼が京都で転戦している間、在国し支配権を確立、さらに近江、越前など近国にも勢力を拡大していった。他方、歌人でもあった妙椿は文化人の保護者でもあり、美濃で連歌が華やかに行なわれた時代を築いた。応仁元年(一四六七)頃、主君成頼のために瑞龍寺を建立した。妙椿は、文明十二年(一四八〇)七十歳で没しここに葬られた。
④成頼の菩提寺 瑞龍寺
瑞龍(ずいりょう)寺は斎藤妙椿が土岐成頼(一四四二~一四九七)の菩提所
として悟渓宗頓(一四一六~一五〇〇)を実質的な開山として創建した禅宗寺院である。後に美濃地域の臨済宗妙心寺派の中核寺院として同派を束ねていくことになった。
⑤斎藤道三 明応三年(一四九四)~弘治二年(一五五六)
名は利政、のち秀龍といい、晩年入道して道三と名乗った。山城の出身で、日蓮宗妙覚寺と深い関係を持ち、山崎屋と号して油売りを業としたと伝えられる。美濃守護土岐氏の老臣斎藤利安の門に出入りするうち、利安の臣西村家を継ぎ、次いで享禄三年(一五三〇)利安を殺して新九郎利政と名乗り、天文七年(一五三八)守護代斎藤氏を攻めた。天文十一年(一五四二)美濃守護の土岐頼芸を追い、美濃を押領したが、長男義龍と長良川で戦い敗死。織田信長の室は道三の娘である。
※斎藤義龍 大永七年(一五二七)~永禄四年(一五六一)
斎藤道三の子。母「三芳野」は美濃守護土岐頼芸の側室で義龍を宿して道三に嫁して後に生んだといわれる。はじめ新九郎高政と称し、長じて父道三と不和となり、弘治元年(一五五五)おじ長井道利とはかって道三に背き、翌年長良川に戦って父を討ち、美濃を制圧した。永禄二年(一五五九)から織田信長と争ったが病死。
※⑤、⑥は「『角川日本史辞典』第二版 ㈱角川書店 一九九一年発行」を参考とした。
⑦大桑城
(⑦は『越前大野城と金森長近』四頁より)
土岐成頼(しげより)の二男(土岐)定頼は、兄である美濃守「土岐政房」に仕えて「大桑」に居を構え、大桑兵部大輔定頼と改称した。
土岐氏は室町幕府の初期に、土岐頼康(八代)が足利高経の軍に転戦している。頼康、康行の頃、美濃、尾張、伊勢の三国の守護となり、東海随一の守護であった。
土岐氏十五代「政房」の長男「政頼」は、天文十六年(一五四七)頃、斎藤道三と戦い、大桑の居城を追われたが、越前の朝倉孝景の援助を受けて城に帰ることができた。
しかし、「政頼」は若くして亡くなってしまったため、弟である「頼芸(よりあき)」が十六代を継ぎ、再び道三と戦ったものの、大桑城を追われてしまう。そして美濃から甲斐の武田信玄のもとへと走った。
⑧ 土岐氏からの系図
(⑧は『越前大野城と金森長近』四頁より)
⑨ 多治見市大畑の時代
(⑨『越前大野城と金森長近』四頁より)
明応(一四九二~一五〇一)の頃に「定頼」は多治見大畑に移り、采女「定近」をもうけている。『文三郎金森系譜』によれば、「定頼」は一時商売をしていたとも伝えている。この頃の土岐氏は守護として勢力を持っていた。
「定近」は多治見にいる時、斎藤一族の女との間に、大永四年(一五二四)、長近をもうけた。この頃になると土岐氏は衰退の時代であり、長近は父定近とともに多治見で苦労を重ねたが、ついに滋賀県の金ヶ森に移り住むことになる。
『高山市史・金森時代編』より
虎渓山永保寺
およそ650年前、夢想国師を開祖とし、その法弟、仏徳禅師の開山で、起伏する山水の美は、中国慮山の虎渓に似たところから名付けられ、心字池に架かる無際橋は屋形を配して珍しい。
池畔のいずれからみても景観に優れ、構成の巧みさ、視界におさまる広さといい、名園の一言につきる。
多治見西ロータリークラブ
天下取りの拠点 岐阜城年表
建仁年間(1201~1203)頃、二階堂氏が稲葉山に城を築いたといわれている。
1525 大永5 永井藤左衛門尉長弘・新左衛門尉、守護土岐氏、
守護代斎藤氏を追放
1535 天文4 このころ斎藤利政(道三)が稲葉山城に拠点をおく
1544 天文13 土岐次郎・朝倉氏・織田氏が斎藤道三を攻めるが、井口の合戦で敗退
1553 天文22 斎藤道三、織田信長と富田・聖徳寺で会見する
1554 天文23 斎藤道三、家督を利尚(義龍)に譲る
1556 弘治2 斎藤義龍に攻められ、斎藤道三敗死(長良川の合戦)
1561 永禄4 斎藤義龍病死。子の龍興が跡を継ぐ
1564 永禄7 斎藤龍興、竹中半兵衛らに稲葉山城を占拠され、一時退城
1567 永禄10 織田信長、稲葉山城を攻略して入城、大規模な改修を行う。町の名を
井口から岐阜と改名
1569 永禄12 ルイス・フロイス、岐阜来訪
1576 天正4 織田信長、安土城へ移り、嫡男織田信忠が跡を継ぐ
1582 天正10 本能寺の変(織田信長・信忠自刃)織田信孝(信長三男)入城
1583 天正11 池田元助入城
1585 天正13 池田輝政入城
1591 天正19 豊臣秀勝入城
1592 文禄元 織田秀信(信長嫡孫、信忠の子)入城
1600 慶長5 関ヶ原の合戦の前哨戦で落城 以後廃城となる
岐阜町及び金華山は尾張藩領として幕末に至る
1910 明治43 模擬天守建造
1943 昭和18 模擬天守焼失
1956 昭和31 初代復興天守再建
2011 平成23 岐阜城跡国史跡に指定
説明板より
岐阜市指定重要文化財 絹本著色土岐重頼像
土岐重頼(生年不明~1497年)は、此の絵画を所有する瑞(ずい)龍(りゅう)寺(じ)を創建した人物である。土岐成頼は、室町時代の美濃国守護として、美濃地方の政治・経済・宗教に影響を与えた。画面に描かれた土岐成頼像は、僧形の人物ですが、部将らしい風(ふう)貌(ぼう)がよく表れている。また、椅子の文様も丁寧に描かれている。さらに、画面の上部には、賛(人物を賞する漢詩文)が記されている。
平成12年3月24日指定岐阜市指定重要文化財
絹(きぬ)本(ほん)著(ちゃく)色(しょく)悟(ご)渓(けい)宗(そん)頓(とん)像(ぞう)
悟渓宗頓(1416年生~1500年没)は、この絵画を所有する瑞(ずい)龍(りゅう)寺(じ)を開いた人物である。寺の創建者の土岐成頼・斎藤妙椿に招かれ、美濃地方の文化に大きな功績を残した。画面に描かれた悟渓宗頓は、顔の表情に個性がよく表れ、袈(け)裟(さ)の文様も丁寧に描かれており、作者の力量が伺われる。画面の上部には、悟渓自身による賛(自賛)が記されている。
平成12年3月24日指定
平成14年3月
岐阜市教育委員会
説明板より
関連資料



















































































































































































































































































































































































