檜隈寺跡
明日香村大字檜前に所在する。現在は、渡来系氏族である倭漢氏(やまとのあやうじ)の祖、阿知使主(あちのおみ)を祀る「於美阿志神社(おみあしじんじゃ)」が鎮座している。文献では、686年「檜隈寺・軽寺・大窪寺に各百戸を封ず。三十年を限る。」との記事が見られることから、この頃には建立されていたことが推定される。
1969年奈良県教育委員会の発掘調査が行なわれた。これを皮切りに、その後奈良国立文化財研究所も発掘調査を行なっている。調査の結果、塔・金堂・講堂・中門・回廊などが検出された。塔は、四天柱礎石が4石とも完存していることが明らかとなり、塔心礎も原位置を保っていたことがわかっている。金堂は身舎に四面庇をつけた礎石建物であることがわかり、基壇の4周に川原石を敷き詰めていたことも明らかとなった。講堂は金堂同様に四面庇を持つ礎石建ちの建物で、基壇は、いわゆる瓦積基壇であったことがわかった。また基壇上面には、いくつかの塼が見られることから、上面に敷き詰められていた可能性が考えられている。伽藍配置については、中心建物しか検出されていないため、不確定要素が多い。瓦は、金堂の調査で複弁蓮華文軒丸瓦と三重弧文軒平瓦が多く出土しているのに対して、講堂の調査では、藤原宮に用いられる瓦に似た瓦が出土したことから、造営に時期差があったことが考えられる。
<引用文献> 明日香村教育委員会文化財課編集『飛鳥の考古学図録⑤ 飛鳥の寺院 ―古代寺院の興隆―』15頁 明日香村教育委員会文化財課発行 平成19年
檜隈寺跡は、神社の境内にあり、塔・講堂・回廊跡と推定される建物跡を残し、礎石が遺存する。伽藍は西を正面とし、塔を中心に右に金堂、左に講堂があり、金堂・講堂は塔側を正面とする、特異な配置となっている。出土瓦から七世紀前半~八世紀初頭に建立されたとみられる。昭和54年からの発掘調査によって、金堂·講堂とその基壇.塔·門·回廊·仏堂などが検出されている。これらの伽藍配置は塔の北に講堂があり、南に金堂を置くという特異な配置で,かつ瓦積基壇という工法は近江、山城、そして朝鮮半島の寺院で多く用いられており、日本への導入も渡来系氏族との関係が指摘されている。また、瓦が大量に出土しており、講堂の規模は飛鳥寺や法隆寺西院の講堂に匹敵する。創建年代は出土した瓦などから7世紀後半~8世紀初頭にかけてと考えられている。その他に平安時代の遺構からではあるが、金銅製飛天の破片が出土をみており、東漢氏の中心氏族檜隈氏の氏寺として建立された当寺の出土遺物としてふさわしいものである。現在、阿知使主を祀ったとされる於美阿志神社や、重要文化財である平安時代に造られた十三重石塔が現地にある。また、このあたりに宣化天皇の盧入野宮があったといわれているが、定かではない。
昭和54年からの発掘調査によって、金堂・講堂とその基壇・塔・門・回廊・仏堂などが検出されている。これらの伽藍配置は塔の北に講堂があり、南に金堂を置くという特異な配置であり、かつ瓦積基壇という工法は、近江、山城、そして朝鮮半島の寺院で多く用いられており、日本への導入も渡来系氏族との関係が指摘されている。また、瓦が大量に出土しており、講堂の規模は飛鳥寺や法隆寺西院の講堂に匹敵する。創建年代は出土した瓦などから7世紀後半~8世紀初頭にかけてと考えられている。その他に平安時代の遺構からではあるが、金銅製飛天の破片が出土をみており、東漢氏の中心氏族檜隈氏の氏寺として建立された当寺の出土遺物としてふさわしいものである。現在、阿知使主を祀ったとされる於美阿志神社や、重要文化財である平安時代に造られた十三重石塔が現地にある。また、このあたりに宣化天皇の盧入野宮があったといわれているが、定かではない。
(引用:http://www.asukabito.or.jp/spotDetail2.html・http://sakuwa.com/yw52.html)