金劔宮
古代出雲文化が早く海岸線を経て能登地方に及んだのに対し、この地方は大和文化の拠点であるばかりでなく、総じて県内では最も古い文化の発祥地であるから神社の由緒でも有名なことがらを数多く残している。中世以来白山七社の一に数えられ、そのうち白山本宮・三宮・岩本とともに本宮四社といわれていた。神仏習合の当時、いわゆる七堂伽藍雲表にそびえ神官社僧、即ち神人衆徒多数をようしていた。安徳天皇の寿永2年5月、源義仲が倶利伽羅谷で平家の軍勢を打ち破ったが、これを金劔宮の神恩として、鞍置馬20頭と横江庄を寄進し、それから3年の後、後鳥羽天皇文治2年2月10日、源義経が本社に参拝一泊し、神楽を奉納している他、足利・富樫・前田等、歴代武門藩主の崇敬が篤かったのである。なお、和銅年間に当宮のご分霊を奉戴して移住したといわれる岐阜県郡上郡大和町字「劍」には現に金劍神社(こんけんじんしゃ)があり、御祭神も同一である。最近になり福井県遠敷郡上中町武生にも金劔神社(かねぎじんじゃ)の存在が明らかとなった。(引用:http://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j0899/)
資料集
021_024_金劔宮
【講座】平成30年度「デジタルアーカイブクリエータ 」資格取得講座
日時:平成30年8月17日(金)10:00~16:30
会場:岐阜県立郡上北高等学校
プログラム:
DACプログラム(郡上北高等学校)
石徹白
富士山、立山と並び日本三名山に数えられる白山。石徹白(いとしろ)はその周辺に広がる白山国立公園の南山麓に位置する小さな集落です。
白山国立公園は岐阜・福井・石川・富山の四県にまたがり御前峰(2702メートル)大汝峰(2684メートル)の白山主峰を中心に、別山を初めとする十数の連峰により構成されています。
石徹白は平安時代から鎌倉時代にかけての白山信仰が盛んな時代には「上り千人、下り千人、宿に千人」と言われるほど修験者の出入りで栄えた土地であり、近世(明治)まで神に仕える人が住む村としてどの藩にも属さず、年貢免除・名字帯刀が許されたところです。
ゆえに「中世的支配体制」が明治になるまで維持され独特の文化が形成されました。
最奥の「上在所集落」は夏は修験者や白山参詣の道案内と宿坊を営み、冬は「御師」として各地に信仰を広め御札を配ることを生業とする人々の住むところでした。
古い土地柄から文化財が多く、中でも「大師堂」にある「虚空像菩薩」は国定重要文化財に指定されています。これは当時奥州を支配していた「藤原 秀衡」の寄贈とされ小さな村ながらも白山信仰の重要な拠点であったことがうかがえます。
また、最近の研究で「源 頼朝」の追尾を受けた「源 義経」が奈良吉野山から奥州平泉への逃避行の途中石徹白に逗留し、雪解けを待ち脱出した可能性があるとも言われ、石徹白に残る伝承にもそれを示唆する記述が見受けられます。
(岐阜県奥美濃石徹白区公式ホームページより http://itoshiro.net/)
資料集
131_147_石徹白
那谷寺
白鳳3年(682年)6月、越前(福井)に誕生。36歳の時に天女に誘われて養老元年(717年)白山へ禅定しました。九頭龍王が現れ、頂上では姫神の菩薩、他の二山では大己貴神と白山別山大行事が現れ、深く礼拝されました。
泰澄開創の社寺は多くありますが、同年秋に岩屋寺(那谷寺)を開き、弟子とともに粟津温泉を養老2年(718年)に発見し、薬師如来をお祀りしました。
天平2年(730年)に吉野山現光寺で法相宗の山林修行「求聞持法(ぐもんじほう)」と「自然智行」を実践しました。神護景雲元年(767年)越知山大谷寺の岩窟で86歳で遷化されました。
寛和2年(986年)、右大臣藤原兼家の謀事によって出家させられ、書写山円教寺や比叡山で修行、熊野へも巡拝、永祚(えいそ)元年(989年)北陸へ旅立たれました。同行する者は3名の従臣だけでした。まず白山へ登られ、次いで小松地域の寺を訪ねられ、最後に岩屋寺(那谷寺)を参詣されました。花山法皇は(西国三十三所の)那智山と谷汲山からそれぞれ一文字ずつ「那」と「谷」を取り、那谷寺と改名されたと伝えられています。
那谷寺は温谷寺(うだにでら)・栄谷寺(さかえだにでら)とともに、天台宗白山三ヶ寺と言われました。
後に「源平盛衰記」「白山記」などでは、那谷寺の寺院名があります。
那谷の地はオパール、瑪瑙、水晶などが産出しており、那谷寺の観音堂には12個の瑪瑙を有していました。これを周防国(山口県)の大内義隆が所望したため、真宗本願寺の証如が那谷寺へ依頼、5個の瑪瑙を送り、遣明船で明国へと献上しました。
南北朝と戦国時代に那谷寺は3度も焼かれましたが、僧義円や霊山寺即伝などが訪れ、密教修験の道場となっています。密教修験と真宗は対立関係にありましたが、那谷寺は証如と結びついていたようです。
戦国・安土桃山時代に那谷寺は火災に遭ったため、衰退していました。その中で、寛永17年(1640年)春、黄門職として小松城に隠居していた前田利常公が粟津付近にお鷹狩りに来て、那谷寺を見つけました。寛永19年(1642年)にかけて集中して、本殿、唐門、拝殿、三重塔、護摩堂、鐘楼堂および庭園などを造りました。また、復興の折に那谷に通じる参道も整備、両側に杉の木を植えたことから「杉の木街道」と称されました。今も粟津温泉に利常公お手植えの杉「黄門杉」が残されています。
万治元年(1658年)10月、利常公が66歳で逝去。利常公没後、那谷寺は大聖寺藩の管轄となり、また同藩寺社方触頭となったため、那谷寺文書に「宗門改帳」「人別帳」「御触留記」が残されています。
(引用:那谷寺Webページより http://www.natadera.com/)
資料集
020_023_那谷寺
上野東照宮
上野東照宮は1627年創建の東京都台東区上野公園に鎮座する神社です。 東照宮とは徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社で、日光や久能山の他、全国に数多くございます。 当宮は出世、勝利、健康長寿に特に御利益があるとされ信仰されています。 金色殿(社殿)などの豪華な建造物は、戦争や地震にも崩壊を免れた貴重な江戸初期建築として国の重要文化財に指定されており、国内はもとより、海外からも多くの方がお参りされます。 1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康公の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言されました。 天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内には多くの伽藍や子院が建立されました。1627年(寛永4年)その一つとして創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。 1646年(正保3年)には朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となりました。
現存する社殿は1651年(慶安4年)に三代将軍・徳川家光公が造営替えをしたもので、遠く日光までお参りに行くことができない江戸の人々のために日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したと言われています。この造営替えに際し約250基の灯籠が全国の大名から競うように奉納されました。 幕末には寛永寺の伽藍や子院の多くが消失する上野戦争が勃発しましたが、上野東照宮には火の手が及びませんでした。関東大震災にも倒れず、第二次世界大戦では社殿のすぐ裏に爆弾が投下されましたが幸いにも不発弾で社殿の倒壊は免れました。 明治時代には神仏分離令の為境内の五重塔を寛永寺に譲渡(現在は東京都の管理)するなど、江戸時代と比べ境内地は縮小されましたが、江戸初期に建立された社殿が数々の困難を乗り越え現存することは奇跡的で、強運な神君の御遺徳の賜物と言われています。
春は牡丹・桜の名所として、秋は紅葉、ダリア展、お正月は初詣や冬ぼたん鑑賞の方で大変賑わい、出世、勝利、健康長寿などの祈願成就を願う方が後を絶ちません。
かつて江戸の人々の家康公への信仰の対象であったこの御宮は、江戸時代と変わらぬ姿で今もなお多くの方に心の安らぎを与えています。
御祭神:徳川家康公 徳川吉宗公 徳川慶喜公 (上野東照宮公式ページ http://www.uenotoshogu.com/より)
#左甚五郎
資料集
051_058_上野東照宮
石徹白大師堂
明治初年の神仏分離の際、白山中居神社などの仏像や仏具を祀るために建てられた。
奥州藤原秀衡の寄進と伝えられる「銅造虚空蔵菩薩坐像」は県下唯一の傑作といわれ、昭和43年に国の重要文化財に指定ざれている。
資料集
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郡上八幡城
郡上八幡城は戦国時代末期の永禄2年(1559)、遠藤盛数が砦を築き、稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、寛文7年(1667)、6代城主遠藤常友の修復によって幕府から城郭として認められるに至りました。
その後、井上氏・金森氏が相次いで入部。宝暦騒動で金森氏が改易された後、丹後国宮津藩から転封した青山幸道によって殿町に居館が築かれ、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸・松の丸に改められました。
明治4年(1871)の廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取りこわされました。
現在の城は、昭和8年(1933)、当時の大垣城を参考に再建され、木造4層5階建の天守閣等は郡上市重要文化財に、一帯の城跡は県史跡に指定されています。
資料集
018_021_郡上八幡城
興福寺
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
京都山科の藤原鎌足私邸に建立された山階寺が前身。飛鳥を経て、和銅3(710)年平城遷都に伴い、藤原不比等によって現在地に移転され、興福寺と名付けられた。以降、藤原氏の氏寺として大いに繁栄した。奈良時代初期には四大寺の一つにあげられ、四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ寺院として隆盛を極めた。治承4(1180)年の平重衡の南都焼討ちによって焼失した堂塔は、鎌倉時代に復興を遂げるが、その後、享保2年(1717)の火災によって、伽藍の西半分を失った。境内には光明皇后創建とされる五重塔(室町時代再建・国宝)、北円堂(鎌倉時代再建・国宝)の国宝建築物をはじめ、南円堂(江戸時代再建・重要文化財)、国宝館などが立っている法相宗の大本山。また多くの仏教彫刻の名品を所蔵している。(世界遺産)
資料集
050_057_興福寺
【講座】デジタルアーカイブクリエータ資格取得講座(郡上市歴史資料館)
日 時 平成30年8月21日(火)
会 場 郡上市歴史資料館(郡上市八幡町中坪226番地1)
主 催 郡上ケーブルテレビ 共 催 岐阜女子大学
受講対象:高校生/一般の方
● デジタルアーカイブに興味を持っている高校生/一般の方
● デジタルアーカイブクリエータ資格の取得を希望する高校生/一般の方
定 員:20名 (定員になりしだい締め切らせていただきます。)
募集期間:平成30年7月13日(金)~8月19日(日)
受講料:無 料
申し込み用紙 ↓
デジタルアーカイブクリエータ資格取得講座(郡上市歴史資料館)
【講座】デジタルアーカイブクリエータ 資格取得講座(岐阜県立郡上北高等学校)
日 時 平成30年8月17日(金)
会 場 岐阜県立郡上北高等学校(郡上市白鳥町為真1265番地2)
主 催 郡上ケーブルテレビ
共 催 岐阜女子大学
受講対象:高校生/一般の方
● デジタルアーカイブに興味を持っている高校生/一般の方
● デジタルアーカイブクリエータ資格の取得を希望する高校生/一般の方
定 員:40名 (定員になりしだい締め切らせていただきます。)
募集期間:平成30年7月13日(金)~8月10日(金)
受講料:無 料
申込用紙はこちら ↓
デジタルアーカイブクリエータ 資格取得講座(郡上北高等学校)