石橋廃寺
飛騨の古代寺院・石橋廃寺 いしばしはいじ
所在地 岐阜県高山市国府町広瀬町石橋 こくふちょうひろせまちいしばし
調査年 1986、1987、1988、1989年
調査主体 国府町教育委員会
立地環境 宮川の右岸に位置し、国府盆地の南端にある。日当たりが良く、周辺からは古墳時代の住居跡群が多く確認され、遺跡の濃い一帯である。東北側は山裾がせまり、宮川に沿った細長い平地にあり、堆積層の厚みは、高山盆地と比べると格段に厚い。
発見遺構 礎石列の一部等を発見。伽藍配置は十分に把握されていない。
発見遺物 出土している瓦は、単弁十弁蓮華文軒丸瓦、重弁八弁蓮華文軒丸瓦、重圏文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦、二重弧文軒平瓦、線刻絵画瓦(ヘラによって人物、鳥、唐草などを描いた平瓦)。
年代 7世紀後半~8世紀後半
遺跡の概要 当寺跡は、江戸時代嘉永2年に大坪二市が記した『廣瀬日記』に、「経堂ノマイジリ石在 鐘堂ノサウバン 堂ヤシキ今ニアリ」とある。経堂ノマイジリ石とは、塔心礎を舞尻石と考えたのであろう。他の礎石も遺存していたらしく、堂ヤシキとして確認できる状況であったと考えられる。
塔心礎は、国府町広瀬町の岡村利右衛門宅の庭に保管された。
後、1958年、水田区画整理により礎石が移動されたと考えられる。また、その時に大量の瓦が出土した。
1986年から国府町教育委員会により発掘調査が行なわれ、礎石列が確認されたが、その性格は明らかではない。
重弁八弁蓮華文軒丸瓦は、名張廃寺でも出土しているが、新羅の様式を取り入れた飛騨で唯一の型式である。また、重圏文軒丸瓦は、大阪難波宮式で、石橋廃寺は8世紀後半まで存続したとされている。
<引用文献>
国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』144頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年
東海埋蔵文化財研究会『古代仏教東へ ― 寺と窯』寺院 第9回東海埋蔵文化財研究会岐阜大会1992
『国府村村史全』吉城郡国府村役場1959
飛騨には、14箇所以上と全国屈指の密度で古代寺院がありました。これは、古代に木工技術者を都へ派遣することで税を免除された、全国唯一の制度である「飛騨工制度(ひだのたくみせいど)」が成立する背景となりました。
国府地区は、その中でも特に多く古代寺院が見つかっている地区です。石橋廃寺はそのうちの一つで、桜野の地に造られた奈良時代前期の寺院です。塔心礎は広瀬町岡村健守の庭園にあり、手水鉢に利用されていたものです。礎石が見つかっており、塔心礎上面の柱座は長径1.2m、短径0.8mで平坦化し、中央に直径27cm、深さ9.5cmの舎利孔があります。礎石の大きさから、三重塔がそびえ建っていたものと思われます。現在は寄贈を受け、広瀬古墳の横に移設されています。石橋廃寺跡と光寿庵跡では、共に都で働く官人を描いた瓦が出土していることからも、飛騨匠と都とのつながりがわかります。
(引用:https://www.tabido.jp/ja/article/647/)