水屋〈稲沢市指定文化財〉 (みずや 〈いなざわししていぶんかざい〉 )
愛知県稲沢市祖父江町神明津矢田塚西
神明津には水屋(みずや)があります。水屋は大水になったときにひなんするところです。食べ物や移動のためのふねが用意され、水が引くまでの間、そこで生活をしていました。しかし、こうした水屋は豊かな家の人にしかつくることができませんでした。今では、木曽川に高いていぼうがつくられ、人々の生活を守っています。こう水のきけんが少なくなり、土をもったり、石がきをきずいたりする家はへってきました。むかしはたくさんの水屋がありましたが、今はわずかしかのこっていません。この水屋は安政4年(1857年)にたてられました。災害のときには十数人がひなん生活ができたといわれています。
参考資料
1)『わたしたちのまちそぶえ』P.46 平成8年 祖父江町教育委員会
2)『わたしたちのいなざわ』P.164平成18年稲沢市教育委員会
2)『長岡の昔ばなし 一本松の子ら』
3)稲沢市ホームページ
www.city.inazawa.aichi.jp/miryoku/bunka/shishitei/1002926.html
旧佐屋川野田渡船場跡 (きゅうさやがわのだとせんじょうあと)
愛知県稲沢市祖父江町野田佐屋川
むかしは、木曽川や佐屋川には橋がなく、渡し舟でわたりました。野田(牧川地区)には「野田の渡し」のあとがあります。
佐屋川は、はばが160mもある大きな川でしたが、1900年(明治33
年)にせき止められ、小さな川になりました。今でもむかしのていぼうが牧川地区の島本、野田、中牧、長岡地区の西鵜之本、四貫などにのこっています。
この場所は、旧佐屋川の野田渡船場の跡として祖父江町が昭和50年3月28日に指定しました。
野田渡船場は人の行き来が多かったためキリシタン禁制の「高札」も立っていたと書かれています。
参考資料
1)『わたしたちのまちそぶえ』P.47 平成8年 祖父江町教育委員会
2)『祖父江町史』P.222 , P.487
3)『長岡の昔ばなし 一本松の子ら』
4)『長岡の昔ばなし第二集 みよ池の里』
5)『八開村史 通史編』P.215
6)木曽川下流河川事務所「KISSO VOL.30祖父江町特集号」
https://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/KISSO/kobore30.html
史跡 とどめき川 渡船場跡(しせき とどめきが とせんじょうあと)
愛知県稲沢市祖父江町中牧堤外川(給付稲沢線沿い)
「とどめき川」というのは旧佐屋川のことで、中牧村(今の祖父江町中牧)に流れていた木曽川のしりゅうのことです。川の流れる音が「とどろとどろしい」(はげしい流れの音)ため「とどめき川」という名前がついたと言われています。いろいろな説があって、「とどろき川」ともいわれています。「中牧村にあった木曽川のしりゅうは、中牧で分かれて南に流れ、海西郡赤目村でまた大きな木曽川とまじる、その間をすべてとどろき川という。」と書かれています。むかしは、木曽川や佐屋川には橋がなく、渡し舟でわたりました。とどめき川の渡し舟のあととして祖父江町が昭和50年9月19日にこの場所をしていしました。
参考資料
1)国立国家図書館デジタルコレクション 『尾張名所図会 後編巻2 中島郡』P.46 https://dl.ndl.go.jp/pid/764888/1/46
2)『祖父江町史』P.473
3)『長岡の昔ばなし 一本松の子ら』
4)『佐屋川日光川沿道水工図』
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000006-00001977
建福寺
建福寺(けんぷくじ)は、長野県伊那市高遠町西高遠にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
伝承によれば文覚上人(1139年~1203年)が独鈷池付近に開創。 康元元年(1256年)蘭渓道隆(大覚禅師)が立ち寄り、鉾持山乾福興国禅寺(ほこじさんけんぷくこうこくぜんじ)を興した。 のち、武田信玄の帰依により、静岡市の臨済寺から東谷宗杲禅師を招いて中興開山とし、妙心寺派となった。 貞享2年(1685年)、喝道和尚中興、明和3年(1765年)3月24日類焼、安永4年(1775年)少山和尚がさらに中興するも、嘉永4年(1851年)正月19日焼失、安政3年(1856年)に再建した。
武田勝頼が高遠城主の時、武田家菩提所とし、母諏訪御料人を埋葬して乾福院殿という。 さらに次の藩主、保科氏も菩提寺とし、大寶山建福寺と改名。 寛永13年(1636年)保科正之が会津若松藩主となり、移封する際に、鉄舟和尚が供奉して会津にも建福寺 (会津若松市)を創建した。
建福寺の石仏群
本堂への階段へ上る石段の両側および境内には、江戸時代の高遠石工によって作られた45体の石仏がある。45体の石仏のうち、西国三十三観音が33体、延命地蔵1体、願王地蔵1体、六地蔵6体、不動明王1体、楊柳観音1体、法陀羅山地蔵1体、仏足石などがある。
桂泉院
現在は田中の里にあるが、最初は法憧院曲輪にあった。開山は月哺禅師で、正平8年(1353)に時の城主であった高遠太郎家親が月哺禅師の高徳を聞き、城の鎮護の寺としたと言われる。その後、文禄元年(1592)に上野国松井田の補陀寺の住僧であった荊室広林が来て、どんな人でも出入りができる城外に移すよう勧め、清い泉の湧き出る桂の木の傍にうつして、龍澤山桂泉院と称するようになった。
梵鐘は県宝であり、勘助桜、仁科盛信の位牌堂、武田信虎の墓が伝えらえれ、守屋貞治の石仏などがある。
美篶刈る信濃の国上伊那の郡その名も高遠の里なる、龍澤山桂泉院の由緒をたづねまいらするに、今を去ること云々。
九七代後村上天皇の代丹波の国曹洞宗永澤寺の名僧月浦和尚、正平八年(1353)高遠の地に遍歴して来る。城主は木曽義仲六世の孫木曽又太郎家村の嫡子高遠太郎家親、和尚の高徳を聞き、城内に宝冠釈迦如来を安置し高遠城鎮護の寺とし、法瞳院と称す。開山月浦和尚、開基高遠太郎家親なり。
正親町天皇の天正元年(1573)甲斐の国主武田信玄の五男仁科五郎盛信公城主となり、板町村沖の平に存す諏訪大神を信仰し城内に遷宮、法腫院の僧に大神のお祭りも行わせる。
天正十年(1582)織田勢の攻勢により、仁科五郎盛信公の霊を弔い、霊牌を同院に納め。蒼龍院殿源晴清公成嶽建功大居士と血脈を誼号す。後陽成天皇の文禄元年(1592)二月二十九日群馬県松井田の大泉山補陀寺の十二世荊室廣琳大和尚高遠の地に来て法幡院に住す。その時の城主は内藤修理亮昌月で内藤修理信豊の子で和尚とは兄弟なり。これより大泉山補陀寺の末寺となる。
和尚の徳を仰ぎ、近隣の人々集まりしも城内にて誰でも白由に出入りできず、法化もできないので板町村龍ケ澤に庵を設けて住す。ある夜年たけたる翁ありて、戒法を授けてくださるように請い奉る、そこで「百丈野狐」の戒法を授けたところ、翁忽ち白龍となり桂ケ池のほとりに現れて、法施に清らかな泉を出しましょうと、高遠三泉の一「桂井の水」が湧きでて現在にいたる。和尚の高徳を聞き、城主昌月公村民とともに法腫院の堂宇を龍ケ澤に移し、その所の名をとりて、龍澤山桂泉院と命名す。
慶長五年(1600)三月二十九日である。中興開基内藤修理昌月。中興開山荊室廣琳大和尚。その後歴代の高遠城主に信仰され、十一月二十五日を開山忌とした。城主が参拝に来られるので、庫裡の書院の間を一段と高くし、高遠八ケ寺の一となり、高遠城鎮護の寺となる。内藤駿河守頼寧公より田地を与えられた。伊那市美篶洞泉寺・長谷村非持正随寺を末寺とす。
日輪神社
鎮座地 丹生川町大字大谷宇漆洞五六二番地
祭神 天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)・倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ 稲荷)・火武主比大神(ほむすびのおおかみ 荒神)・奥津日子大神(おきつひこのおおかみ 荒神)・奥津比女大神(おきつひめのおおかみ 荒神)・菅原道真公(すがわらみちざねこう 天神)
由来 当社は創立年代は不詳であるが山そのものが御神体として崇敬が暑く第百二代後花園天皇の永享年間(皇紀二〇八九~二一〇〇、西暦一四二九~一四四〇)小八賀郷の領主斯波氏が再興し、社嶺を奉献した。中古以来「日輪」と称し、寛永元年再建し、宝暦四年には現本殿を再営した。明治四十年には区内の稲荷・天満・荒神の三社を合祀した。
━立看板より━
平成18年の「教育基本法」(1)改正により,「教育の目的及び理念」には「伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」との文言が加えられた。また,学校教育法第二章第二十一条(義務教育の目標)第三項(2)にも同様の内容が規定されており,学習指導要領の各教科に反映されている。平成29年告示の小学校学習指導要領解説社会編(3)「教科の目標」には次のように示されている。「地域や我が国の国土の地理的環境,現代社会の仕組みや働き,地域や我が国の歴史や伝統と文化を通して社会生活について理解するとともに,様々な資料や調査活動を通して情報を適切に調べまとめる技能を身に付けるようにする」。
また,教育基本法が改正された同年同月に「地方分権改革推進法」(4)も成立された。「地方にできることは地方に」という方針の地方分権が本格的にスタートしたのである。これにより,平成の大合併と言われる大規模な市町村合併が行われ,愛知県では平成23年4月1日までに15の新たな市が誕生した(5)。これらの合併について全国町村会(6)は調査を行い,プラス面とマイナス面を挙げている。そのうちのマイナス面には,「地域の個性(歴史,文化,伝統)の喪失による不安」の項目が挙げられている。また,市町村合併は全国の公立学校の配置にも影響を及ぼした。少子化が追い風となり,平成元年に全国で24,608校あった小学校が,平成30年には19,591校まで減少したのである (7) 。
これらの市町村合併及び学校の統合は,子どもたちの学びに少なからず影響を与えている。小学校第3・第4学年の社会科授業では,教科書検定制度のもとで編集される検定教科書に加えて市町村教育委員会等が発行する社会科副読本が使用されているが,この副読本の内容にも変化がみられる。本来子どもたちの通学圏内である「身近な地域」を対象として作られる副読本であるが,合併や統合により該当の地域が広域化したため,学ぶ内容が「身近」ではなくなっているのである。例として,第4学年の社会科単元「きょう土の伝統・文化と先人たち」ではその対象が町から市に変わった。そもそも児童・生徒が学ぶための子ども向け地域資料が少ない。さらに2020年からのコロナ禍により地域を学ぶリアルな体験の場が減少している。また,教育現場の教師においては,多忙な業務のなかで各地域の資料を収集し教材開発することは時間的な制約があり難しい。
コロナ禍では学校がやむなく休校となり,地域行事が中止になる等,外出自粛が余儀なくされた。その反面,デジタル化やICT教育が進むこととなり。結果として,2019年より国の政策として始まったGIGAスクール構想が後押しされた形となった。教科書や社会科副読本等の電子版が活用され,一人一台の端末が配布されるとともに,授業では電子黒板が使われ,アーカイブ画像(8)の使用や,遠隔地の学校との交流授業等(9)が行われるようになった。自らの地域文化を紹介し,他地域との比較により新たな発見をする相互学習が可能となった。こうした時代背景を鑑み,教科書を始めとする各種教材は今後デジタル化の方向に進展するだろう。デジタルを活用することで地域の枠を超えた幅広い学びの形が加速することとなる。その一方で地域学習の初めの段階では,身近な地域として我が町を知ることが必要ではないかと考える。
地域学習の現状と課題
市町村合併によるプラス面,マイナス面については全国町村会の調査(6)や愛知県の調査結果(10)で確認することができる。その調査のマイナス面のひとつに「地域の個性(歴史,文化,伝統)の喪失」が挙げられているが,このことは,社会科副読本にも影響を与えている。子どもたちが最初に学ぶ地域学習材として,社会科副読本の役割は大きい。なぜなら,昨今,各家庭の地域活動への参加度合いは異なり,子どもたちの知識や体験に差が生じているからである。さらに地域に特化した子ども用の郷土資料や学習材が少ないため,書物やコンテンツを通して個別に学ぶことも難しい。
教員の立場からは,本来,地域資料を教材化するにあたり,教師自身が地域社会と向き合い地域の土地や産業,人々の様子を見て歩き,地域の人の話を聞くことにより学習指導要領の内容に関わる地域の事象を自らの目でとらえ地域教材の開発を進める必要がある(11)。しかし,近年大きな社会問題となっている教員の過剰労働を鑑みるに教材開発に大幅な時間を割くことは難しい。青木,堀内(2014)は,多忙化の質的変化を比較し,その特徴や実態調査の課題を整理している。それによると,教員の多忙化には,いくつかの特徴と多義的な多忙感(負担感)があるという。多義的と言うのは,煩瑣な処理を要求されることにより,その量の多さや費やす時間の長さにより重要な仕事について十分に果たせない等,いくつかの理由が入り混じった多忙感である(12)。こうした教員の多忙感が教材開発を妨げる要因であり,それに加えて,そもそも子ども用の地域資料が少なく入手が困難であるということもあり,学校現場で地域資料が活用されない現状となっている。
児童・生徒は,地域を学習することで,身近な地域の認識を深め,親しみや愛着を持つことができる。地域の一員としての自覚を持ち,将来の地域資源を生かす担い手として期待される。地域で育つ彼らには,土地の歴史や成り立ちを知っておいてほしい。そうした知識や先人から受け継いだ知恵が自然災害対策としても役に立つ。
教員に関しては,デジタル化された地域資料があれば資料収集の負担が軽減され,授業研究の補助資料として活用しやすくなる。また,赴任先が地元でなくても,デジタル地域資料によって,その土地の概要を把握することができ,児童・生徒とコミュニケーションがとれる。地域の子どもたちとコミュニケーションをとる中で,教えあい,学びあうことで互いに認識が深まるものと考える。
デジタル紙芝居
紙芝居 ~ 一本松は見ていた ~
「一本松は見ていた」
♪一本松は見ていた。いかだが河を下るのを。おじいちゃんのおじいちゃんが、ぼくと同じだった頃♪
① 私は木曽川のつつみの上からずっと長岡村の人たちを見ていました。あなたのふるさとがまだ長岡村と呼ばれていたころのお話をしましょう。
② やっとこせ~、よ~いっとな~。
耳をすませてごらんなさい。
いせいのいい木遣りの歌が聞こえてきますよ。木曽の山でとれた材木は、いかだに組まれて木曽川を下って運ばれました。二十年に一度の伊勢神宮の せんぐうに使われるご神木が運ばれるときは、たくさんの村人が集まって、とてもにぎやかになりました。
♪みよ池のほとりに、白いお馬があらわれた。おばあちゃんのおばあちゃんが、私と同じだった頃♪
③ たくさんの馬が飼われていた馬飼には、洪水で木曽川のつつみが切れてできた大きな「みよ池」がありました。
耳をすませてごらんなさい。真夜中になるとみよ池のほとりにあらわれる白い馬の足音が聞こえてきますよ。
④ 耳をすませてごらんなさい。女の子たちは、おはじきやお手玉をしてあそびました。子どもが多いので、子もりは大切なお手伝いでした。
みよ池には、ヒレ、ジュンサイ、マコモ、ガマ。水草が生え、花が咲き。
カモ、セキレイ、カワセミ、クイナ、美しい小鳥が歌いました。
フナ、ナマズ、モロコ、センパラ、ウナギにどじょう、たくさんの魚がとれました。
♪桃のお花が咲く道を、魚つり 子どもが走っていく、「こやす地蔵」のかげから、どんぐりやまのたぬきがみてました♪
⑤ 耳をすませてごらんなさい。子どもは今も昔もあそびが大好き。桃の花が咲いた道を、元気な子供たちが魚をつりに走っていきます。
⑥「どこへいくのかな」どんぐり山の狸が、おじぞうさんといっしょに、 子どもたちを見ていますよ。川にかこまれた長岡村は、桃や梅の花が咲きほこる、「桃源郷」とよばれる美しい村でした。春になると船に乗って、お花見をする人がたくさんやってきました。
♪さとのき、桑の実、さつまいも、 こどものおいしいおやつです。
おびしゃ、もちなげ、どんど焼き、 白髭神社のおまつり♪
⑦ 耳をすませてごらんなさい。げたをはいた子、ぞうりの子、はだしの子、みんな元気に笑っていますね。
⑧ 白髭神社では、その年かざった かど松やしめかざり、書き初めをやいた火でもちをやいて食べる「どんどやき」がありました。
矢をいって、その年の作物のできを占う「おびしゃ」、わざわいが起きないように、健康にすごせるようにもちをまく「もちなげ」。子どもたちが楽しみにする行事がありました。
♪馬飼、四貫、拾町野、西鵜之本に神明津、とどめき川と木曽川に囲まれた村の物語♪
⑨ 耳をすませてごらんなさい。長岡村の東を流れる佐屋川は、大雨が降ると川の水がぎゃくりゅうして、ゴボゴボとぶきみな音を立てました。川があふれる前ぶれだったのです。村の人から「とどめきがわ」とよばれていました。
⑩ 長岡村は、木曽川よりも低い土地でしたから、大雨が降ると村中が海のようになってしまいました。
朝、子どもたちは、ひざまで水につかりながら学校に通うこともありました
♪おばあちゃんが私に昔話をしたように、いつか私も長岡の昔話をするでしょう♪
⑪ 長岡村のお話は、これでおしまいではありません。あなたがこのお話をだれかに話し、そのだれかが他のだれかに話し、そのだれかが他のだれかに話したら、このお話はずっとつづいていきます。
⑫ 耳をすませてごらんなさい。
長岡に住む人たちの声が聞こえてきますよ。
私はいのります。あなたが、この長岡に生まれてよかったと思いながらおとなになっていってくれることを。 長岡の一本松
地域資源デジタルアーカイブ(稲沢市 祖父江町 長岡地区)
■水屋〈稲沢市指定文化財〉 (みずや 〈いなざわししていぶんかざい〉)
■地泉院 (じせんいん)
オーラルヒストリー (地泉院住職の話)
長岡地区(神明津)にある地泉院(4040)は 約600 年の歴史があり古文書等にもたびたび登場する。地泉院の本尊は 奈良時代行基菩薩作の子安延命地蔵尊であり 弘法大師空海が日本に伝えた真言密教のお寺である。尾張徳川候も篤く帰依され 本尊に納めてある御厨子は尾張徳川家御寄進のものと言われている。新型コロナ感染症の流行以前は 地域の小・中学生が学校行事として訪れ 住職へインタビューを依頼していていたが ここ数年は行われていない。メディア露出はほとんどされることがないお寺であるが 今回は地元の子どもたちの学習目的と長岡地区のアーカイブを残したいという思いに共感いただき 音声での記録を引き受けていただいた。
住職へのインタビュー内容は全部で6問である。事前準備として 質問項目を用意しお渡しした。質問内容は お寺で行われている行事や 古文書などに書かれている既知の内容を口頭で確認する形である。収録場所は地泉院内であり 日常的に講和をされている場所で落ち着いた環境で行うことができた。
6つのテーマについて 住職の一人語りの形でお話しいただいた。聞き手は同地域在住で 住職とは幼馴染の方に依頼した。地元の方であってもこれまで聞いたことのない話や 改めて確認できたことなどがあったようで 収録時間の約1時間を過ぎても話は続いた。近年 大方のことはインターネットで調べられるが こうしたローカルな話は 地域に代々居住している人々の口伝により語り継がれることが多い。特にかつて大水の被害があった地域は 水害により形を留めている資料が少なく 口伝情報が大変貴重である。これらの音声資料は 小学校の学習材として使用する目的であるが 地域の大人にも伝えていきたい内容である。音声を記録する意義は その土地の言葉や話し方によるニュアンス イントネーションなどを伝えることがある。ただし 地元の人でなければわからない土地の名前や言い回しなどが含まれるため 文字起こしの際にはキーワードを補足することとした。一つの質問を5分程度と短く設定したのは 子どもたちの集中力や授業内での使用を考慮したためである。
Q.「十万体地蔵流し」について
地蔵流しは,昭和4年(1929年)に,今の東海大橋のあるところに渡船場があって,愛知県の人が岐阜県に行き,岐阜県の人が愛知県に来るという船に乗って,渡船場があったわけですが,その船が,沈没しまして多くの方が亡くなられた。亡くなられて,その時に船を漕いでいた船頭さんが毎晩夜になると首を絞められると,ちょっと怖い話ですが,首を絞められて何日も寝ていない。地泉院のその時の住職,21世の大僧正榮順大和尚※のところに,なんとかしてくださいと相談にみえた。そうしたら,榮順僧正が「それは魂が救いを求めとるから,供養して救ったらなあかん」と言うことで,早速「今からお地蔵さんを刷れ」と言って・・・
今用意してきましたけど,こういうお地蔵さんを(和紙にお地蔵さんの画のある手の平サイズのもの)刷ってね,「地蔵流しで供養する今から来い」と言って,供養して,地蔵流しをして,そうしたらその船頭さんは夜寝れるようになりまして,で毎年供養を,地蔵流しをやるということになってずっと供養してきまして,数年経ってくるとね地蔵流しに参加した人がいいことが起きるということになってきまして,例えば子が長年授からなかった人が授かったりとか,良縁に恵まれたりとかね。そういうことがあってですね,そこらへんからいつの間にかね,塔婆にもね,安産祈願とかね,家内安全とかね,そういうことも書いて流すようになったんですね。
そういうことで,ずっと続いて,最初の頃はですね,中堤(ナカテイ)と言って木曽川と長良川の堤防ね,あそこまで,私の小さいことまでは行っていた,だから40年ぐらいまではみんな船に乗って,中堤に行って,一日がかりで供養をやっていたんですがね,今じゃ絶対許可がおりないです。そういうことをやっていてですね,それが今やることに関して許可が大変で,ですね,今は数年前から池でやっております。地泉院の中の今蓮があるところの池で,蓮が終わると何もなくなるので,そこで供養してというようなスタイルに変わっておりますね。
Q.具体的にはどういうことをされるんですか?これを流すんですか?
最初お経をあげて,時間が来たらみんな一枚ずつね,お地蔵さんの真言を唱えながら,オン カカ,カビサンマエイ ソワカ,オン カカ,カビサンマエイ ソワカと1枚ずつね。このお地蔵さんに亡くなった魂が救われていくわけで,
(先ほど)言うのを忘れたんですが,日ごろ私たちは色んな衆生,生きとし生けるもの,豚さん,牛さん,鶏さん,お魚,貝,魚介類そういう命をいただいているんで,すべての生きているものに対しての供養をするように昔からなっている。よく養鶏業者の人とか,牛さん豚さん飼っていらっしゃるそういう人たちも昔は地蔵流しに参加されて一緒に供養していたんですね。あらゆることの供養ということでね,続いております。今年で,令和5年2023年,今年の11月で95回目ですね。なんとか100回まではいきたいと頑張っております。
※大僧正榮順大和尚(ダイソウジョウエイジュンダイワジョウ)
Q.神明津には現在も水屋が残っている。地泉院も水害対策をしていたか。
うちに限らず,この地域は水害に悩まされた地域で,うちのお寺に限らずこの地域の仏壇というのは下の部分がすごく高いんですよね。なんとか水に浸かっても仏様だけは守るという考え方で,畳の上から1メートルぐらいあるような,うちの本尊様を納めるのも高くは作ってあるんですけども,今のまさに地面と同じぐらいの高さしか堤防の高さはなかったみたいなので,本当に大水が来ると堤防から手を洗えるというくらいのそれくらいのやわな堤防だったので,切れますよね。それでダーッと入ってきて,それでうちに定期的にみえる堤防とかの設計される方がおっしゃっていましたけど,そういう昔の被害が多いんで,この木曽川の堤防というのは,A級クラスで今3段になってますかね,すごい強靭な堤防を作ってあるので,まずよっぽど現在は大丈夫でしょうというお話しです。
Q.尾張徳川家からの寄進について。
家紋と言わず お寺は寺紋(ジモン)と言います。寺の紋と書いてじもんです。なんでそうゆう風になったかというと 寺に伝わっていることによりますと まさに関ヶ原の合戦の時に徳川軍は清州城におりましたよね。そっからみんないろんな方面に分かれていって その一派が木曽川に差し掛かった時に地泉院に一泊しているんですね。一泊していて戦勝祈願をしました 勝てるように祈願して関が原に向かったという話しなんですね。関が原で徳川軍は勝ったので そのお礼に本尊様を納める御厨子(オズシ 本当に大きいんですけど その御厨子を御寄進していただいた その時から葵の紋が寺紋になったということです。
そこにも江戸時代の瓦ありますけど 葵の紋がついていたり 本尊様を納めている御厨子も宮大工さんに聞くと 現代にこの同じの作ってもらうといくら位かかりますかと聞いたら 1億5千万はかかるとおっしゃっていたので すごいものを御寄進していただいているんですね。まぁ本物か噓かっていう話に仮になったとして 昔 江戸時代とかに偽物の葵の紋を付けると打ち首でしたので まぁ偽物ではないと思います。実際古いものとかに葵の紋が付いていたりね。あと 海津のお寺とかですね まさにうちと同じような境遇のお寺が 行く前に行脚して?帰った後 関ヶ原の戦いで勝ったということで御寄進を受けて復興されたお寺もあったりするので 海津と言えば有名な松平藩?高須藩の松平のお殿様 大河ドラマでも出てきましたけどね 高須城がある。高須城というのは尾張徳川家の中でも上の位で 実際 尾張徳川藩が世継ぎがなくなると二代ぐらいその高須藩から送られてお殿様になってますからね 地位としてはすごい高いですけどね 高須城※って昔あったんですけどね。
そういう感じもあって 徳川家といろいろ関係があったんじゃないかなと さっきの大水の話じゃないですけど このお寺も散々大水に浸かっていますので そういう資料がなくて 公の資料から言い伝えでしかそういうことはわかっていないんですけど。そいう関係で葵の紋があります。よくお参りに見えた方によく質問は受けます。
Q.「地泉院の大松」について
非常に大きな大松で すごく大切にされていたんですが 地泉院の土地はそもそも もっと西の方に木曽川の方に境内地はもっと広かったらしくて 聞くところによると半分ぐらいは堤防になってしまったらしい まさにその部分に大松があってその堤防の拡張により残念なことに切らなくてはいけなくなってしまったという話がありまして 今だったら反対運動が起こるでしょうけど その時代は国がいうとそれで通ってしまうような感じだったんじゃないでしょうかね。写真を見てもすごくデカいですよね。恐ろしいくらいデカい。すごくもったいないですよね。
Q.「北向地蔵」について
尾張名所図会っていう江戸時代の旅行ガイドみたいなもの 観光ガイドですね。そういうのがありまして そこの中に地泉院が出てくるんですけども その中に下馬地蔵(げばじぞう)ということで 載ってまして
地泉院の本尊様の前を通っていくときに馬から降りてちゃんと手をあわせていかないと 馬から落ちると あまりにそうゆうのが続くから 本尊様を北向きにしろということをしたということを言われております。仏様・神様というのは 基本的に南か東向いてお祀りするというのが基本なんですけどね。例外の北向き地蔵さんとか 北向き不動尊とか。たまに書いてあったりしますけど 基本は南か東を向いてお祀りするのが お札とかもね 仏様・神様の分身であるお札とかも南向きか東向きでお祀りするのが本来なんですけれども あまりにみんなが恐れたもんでひっくり返した それもまぁ今はもちろん元に戻していますけどね。それぐらい霊験あらたかだったんじゃないでしょうかね。
Q.神明津の渡し舟について
神明津という名前は 神明社が 大きな神明社が堤防のところにありますけど その神明をとって 津というのは港 船着き場 渡船場とか ようは港ですね そういう意味があって神明津というこの土地の名前だと思うのですが そこの神明社は昔からお伊勢参りで 木曽川を船でワァッと渡って 長良川も昔つながっていたからそうですね。船で行ってお伊勢参りに行く途中に 必ずそこの神明社に降りてお参りしてからお伊勢さんに向かっていたという そういう由緒ある神社なんですね。
なかには金毘羅山も 金毘羅山のお社も昔あったんですよ。それが数年前になくしちゃったみたいなんですけど 私も知らない間に。金毘羅山っていうのは 四国の香川に金毘羅山ってあるんですけどね 金毘羅大権現はですね 海上交通の守り神 海の神様という そういう神様なんですけど
まさにこれから海に向かっていく 水に関するものなんで それで金毘羅山を祀っていたんじゃないかと思いますけどね。昔は橋がないので 渡し船というのがものすごく重要で 必ずみんな 実際うちにお参りにみえる方 岐阜県の方も まだ生きていらっしゃるんじゃないですかね 小さい頃は渡し船に自転車乗せてここまでお参りに来たという そういう話を今でも もうぎりぎりぐらいじゃないですかね。親に連れられてお参りに来ましたというのはちょこちょこまだ聞きますんでね。
以上のオーラスヒストリーからも長岡地区が昔から水との関係が深い地区だということがわかる。水の恩恵を受けると同時に 大水に悩まされた歴史があった。音声収録後の雑談のなかでは 神明津と藤ケ瀬の間に流れていた「間の川」の話(八開村史P.248 248(4242)に記述あり)になった。図1 6 1 図1 6 2 のように かつての長岡地区は四方を川に囲まれた輪中地域であった。旧八開村(現愛西市)の古老によると 現在でもこの「間の川」の痕跡がわかる場所があるという。幼少期には,,間の川とつながっていた佐屋川でよく魚を取っていたとこのことである。また,,神明津より南東に「川北」という地名があるが,,この川とは「間の川」のことであり,,その北側に位置することから「川北」という地名になったのだという。
小史「一本松の子ら」(図66–11)や「みよ池の里」(図66–22)の寄稿文にも,,現在は存在しないこれらの川の名称や当時の様子を知る人々の思い出話しが書き記されている。
史実では,,明治3333年(19190000年)※に佐屋川は締め切られたとあるが,,現在7070代の方が幼少期に佐屋川で魚を取ったというのは昭和時代である。このことがわかる記述が小史『一本松の子ら』にあった。下記に抜粋する。※または明治3232年(19891989年)
(略)明治二十九年の鵜多須切れのあと,,明治三十二年に佐屋川がしめ切れられたのですが,,その後も昭和十年頃に埋め立てられるまでは拾町野から川北の手前まで,,深い沼と砂丘のような高い堤防となって残っていました。鵜野本の東側あたりは堤の下からすぐ深くなり,,東の岸近くには葦もはえていましたが,,夏,,泳ぎにいったりすると,,途中,,中程で少し足のつくところがあるぐらいで,,あとは背の立たない程の深さでした。(略)
この他にも小史には様々な川との思い出が記録されており,,それらの記録をつなぎあわせると,,豊かな昔の長岡の風景が思い起こされる。地域の方から当時の様子を聞き取り,,記録することで過去の土地の様子が甦るのである。そうした土地の記憶は,,後世の人々にとっても必要となるだろう。これらはかつて,,子から孫へと語り継がれた話であるが,,現代では,,そのような風習も薄れ,,時代と共に風化してしまうのではないかと懸念する。
2019年44月2727日の中日新聞の見出しに「佐屋川 本当に流れていた?」とある。大見出しは「22本存在?11本は廃川」である。この記事は「わが街探偵団」という特集で,,購読者からの質問に記者が調査するというものである。質問者は稲沢市在住の当時3131歳,,質問を要約すると「大昔,,佐屋川という大きな川が流れていたのは本当か,,川の跡がところどころにあるという噂をきいた」という内容である。
記者はこの問いに対して,,「川はかつて稲沢市祖父江町馬飼付近から木曽川に分流し,,弥富五明付近で再び合流した。江戸中期の地誌「尾張徇行記」によれば,,川幅が「二百三十九間(約四百三十五メートル)にわたった所もある」としている。さらに地元の専門家を訪ね「明治三十年代に水害対策で分流点が締め切られ廃川となった」と記している。分流点というのは,,馬飼付近のことであるのか。稲沢の昔ばなし「砂山の化かし狐」の祖父江の拾町野・沼山(図88–11)のハンドライティング図では馬飼の辺りから佐屋川が流れている。しかし,,名古屋大学附属図書館所蔵の木曽三川流域大絵図高木家文書(図55.)や今昔マップoon the webn the web(2211)の18881888年代(明治2121年頃)の長岡(図99–22)では,,馬飼よりも北に位置する拾町野から分流している。
中日新聞の記事は,,現在,,祖父江町よりも南に位置する蟹江町に流れている佐屋川に言及し,,これが廃川の名残なのか,,または別の川として22本あったのか,,“大河”の謎は深まった」と締めくくっている。
こうしたことも,,地元の方から話を聞き,,記録として残すことで全貌が見えてくるのではないだろうか。かつての佐屋川の記憶を持った方々の話を記録に残し,,次世代に伝える必要がある。
■白髭神社(しらひげじんじゃ)
■史跡 とどめき川 渡船場跡(しせき とどめきが とせんじょうあと)
■ 旧佐屋川野田渡船場跡 (きゅうさやがわのだとせんじょうあと)
■愛知県営西中野渡船場 (あいちけんえいにしなかのとせんじょう)
資料
【高大連携公開講座】総合的な探究の時間【伊那西高等学校】
目 的
総合的な探究の時間として、伊那市の歴史を学び、伊那市の良さを実感し、それらをデジタルアーカイブすることにより、伊那市文化資源を再発見する。また、伊那市の地域課題を RESAS(地域経済分析システム)で調査し、
エビデンスを元に地域課題を分析し、これらの地域課題を解決する方法を探り、そのためにデジタルアーカイブを活用しシティプロモーションビデオを新たに創造する。
デジタルアーカイブとは
① 文化はどのように記録するの
② 地域文化とデジタルアーカイブ
③ 沖縄おうらい
e-Learning講座
第1講 デジタルアーカイブの基礎
1.目 的
デジタルアーカイブは、「デジタル」と「アーカイブ」という言葉からできた和製英語と言われています。デジタルアーカイブとは何か? デジタルアーキビストに必要な能力は何か?ここでは、言葉の意味と発展の歴史から、基本的な考え方を理解し、今後のデジタルアーカイブの方向性を考えます。
2.学習到達目標
① デジタルアーカイブとは何か説明できる。
② デジタルアーカイブがどのように発展してきたかについて具体例をあげ説明できる。
③ デジタルアーキビストに求められている能力について具体的に説明できる。
3.課 題
① デジタルアーカイブとは何か自身の立場で説明しなさい。
② デジタルアーカイブがどのように発展してきたか説明しなさい。
③ デジタルアーキビストに求められている能力は何か自身の立場で説明しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブの基礎
5.動画資料
第2講 デジタルアーカイブ開発と活用プロセス
1.目 的
デジタルアーカイブの利用は、資料の提示や提供から始まり、課題解決、知的創造等の処理へと進みます。またデジタルアーカイブを活用し、新しい「知」の創造を求め、さらに新しい「知」と人々の経験を付加し、新たな知的活動へと発展します。ここでは、デジタルアーカイブの開発と活用プロセスについて考えます。
2.学習到達目標
①デジタルアーカイブの活用について具体例を挙げて説明できる
②資料の選定評価について説明できる。
③デジタルアーカイブのプロセスや記録方法について説明できる。
3.課 題
①デジタルアーカイブの活用について具体例を挙げて説明してください。
②資料の選定評価の課題について説明してください。
③デジタルアーカイブのプロセスや記録方法について説明してください。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブ開発と活用プロセス
5.動画資料
第3講 デジタルアーカイブの評価とメタデータ
1.目 的
デジタルアーカイブは、対象とする資料(情報資源)の分野も多岐にわたり、プロジェクト規模なども異なるため、それぞれにあわせた評価手法が求められます。そこで、本講では、デジタルアーカイブの自己点検ツールとして考案された「デジタルアーカイブアセスメントツール」の内容を把握し、その評価項目の中でも重視されているメタデータについて、記述のための国際標準、国際指針として制定されている事例から学びます。
2.学習到達目標
① 「デジタルアーカイブアセスメントツール」の内容について説明できる。
② 記述のための国際標準、国際指針などの事例について説明できる。
③ 資料(情報資源)のメタデータ記述ができる。
3.課 題
① 「デジタルアーカイブアセスメントツール」の評価項目の内、あなたが重要だと思う項目について、なぜそう思うかを含めて説明してください。
② 具体的に何か資料(情報資源)を一つ取り上げ、その資料のメタデータ記述項目を設定した上で実際の記述を行ってください。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブの評価とメタデータ
5.動画資料
第4講 デジタルアーカイブの利活用
1.目 的
デジタルアーカイブは、1990年代の初期から、過去から現在の資料をデジタル化し、次の世代への伝承と現状での利活用を目指して開発が進められてきた。デジタルアーカイブの基本は、過去~現在の資料の収集・保管、デジタル化、さらに現状での利活用と次の世代への伝承である。
過去~現在の各種資料を収集・保管し、次のように使われる。
①次世代へのデジタルコンテンツの確かな伝承
②国内外のデジタルコンテンツの流通と利活用
ここでは、図書館や博物館等におけるデジタルアーカイブの利活用について考える。
2.学習到達目標
① 図書館におけるデジタルアーカイブの実践例を具体的に説明できる。
② 博物館におけるデジタルアーカイブの実践例を具体的に説明できる。
③ デジタルアーカイブの共通利用について説明できる。
3.課 題
① 図書館におけるデジタルアーカイブの実践例を具体的に説明しなさい。
② 博物館におけるデジタルアーカイブの実践例を具体的に説明しなさい。
③ デジタルアーカイブの共通利用について説明しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブの利活用
5.動画資料
第5講 デジタルアーカイブによる地域活性化
1.目 的
知識基盤社会においてデジタルアーカイブを有効的に活用し,新たな知を創造するという本学独自の「知の増殖型サイクル」の手法により,地域課題に実践的な解決方法を確立するために,地域に開かれた地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成をする。このことにより,地域課題に主体的に取り組む人材を養成する大学として,伝統文化産業の振興と新たな観光資源の発掘並びにデジタルアーカイブ研究による地方創成イノベーションの創出について具体的に考える。
2.学習到達目標
① デジタルアーカイブと地域課題解決について説明できる。
② 地方創成イノベーションの創出について具体的に説明できる。
3.課 題
① 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブにより,地域の文化産業を振興するための方策を3つ挙げて説明しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブによる地域活性化
5.動画資料
※本映像は本学の学部の授業(情報の管理と流通)の内容の一部を利用して提供しています。
6.テキスト資料
デジタルアーカイブによる地域活性化
第6講 デジタルアーカイブと知的財産権(1)
1.目 的
デジタルアーキビストとして、アーカイブを計画し、そして資料収集し、そして構築し、そして利用許諾し、また運用していくという、こういったときに必要な権利処理について説明する。
2.学習到達目標
① デジタルアーキビストに著作権処理の能力が必要であることについて具体的に説明ができる。
② 著作者の権利について具体的に説明できる。
③ 著作権の契約書を作成できる。
3.課 題
① デジタルアーキビストに著作権処理の能力が必要であることについて具体的に説明しなさい。
② 著作者の権利について具体的に説明しなさい。
③ 著作権の契約書を作成しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブと知的財産権(1)
第7講 デジタルアーカイブと知的財産権(2)
1.目 的
著作権について、自分の立ち位置とは関係ない形で第三者的に実践の試みの良い部分と課題について理解を深め、基本的な理解を図った後に、実践の中から法律など制度的な課題について考えます
2.学習到達目標
① デジタルアーカイブの実践における著作権に関する課題について説明できる。
② 著作権のデジタルアーカイブの活用に関する課題について具体例を挙げて
説明できる。
3.課 題
1.デジタルアーカイブの実践における著作権に関する課題について説明しなさい。
2.著作権のデジタルアーカイブの活用に関する課題について具体例を挙げて説明しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブと知的財産権(2)
5.動画資料
6.テキスト
【テキスト】デジタルアーカイブ概論
7.資料
① 文化資料はどのように管理流通するの?
② 文化はどのように記録するの
③ 地域文化とデジタルアーカイブ
④ 情報の発信と伝達
⑤ 個人情報の保護と知的財産権
⑥ 【参考文献】デジタルアーキビスト入門:デジタルアーカイブの基礎 岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所 | 2019/5/16
⑦ 【参考文献】地域文化とデジタルアーカイブ 岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所 | 2019/5/16
8.動画資料
第8講 文化(対象)の理解
1.伊那市の文化を探り、伊那市の文化について理解する。
【目的】
・伊那市の地域文化のビデオを視聴し、伊那市の文化を分析する。
・伊那の地域の再発見
【講演】伊那の歴史をデジタルアーカイブする
【講師】高遠町歴史博物館館長 塚田博之先生
資料
2.伊那市文化遺産デジタルアーカイブ
② 建福寺
③ 桂泉院
⑤ 深妙寺
⑥ 小出城跡
3.動画資料
4.資料
① 伊那市の文化遺産
② 【研究】デジタルアーカイブにおける地域文化遺産の伝承に関する研究 ~高遠石工のデジタルアーカイブ~
第9講 伊那市の地域の課題から地域課題の解決方法を探る
1. RESAS の使い方説明
2. RESAS による地域の課題を抽出
3. 地域の課題の解決方法を探る
4.伊那市のプロモーションビデオのコンセプトの企画
5.資料
① RESAS(地域経済分析システム)
② 総合的な探究の時間(例)
③ 伊那市活性化プロジェクト(PPT)・・・ダウンロードして活用してください。
④ 伊那市活性化プロジェクト(PDF)
6.動画資料
第10講 プロモーションビデオ制作
学校の施設をデジタルアーカイブして学校
紹介プロモーションビデオを制作してみよう。
第11講 シティプロモーションビデオの企画
1. シティプロモーションビデオとは
2. 絵コンテ・構成表の制作
3.制作計画の作成
4.資料
① 伊那市活性化プロジェクト
第12講 シティプロモーションビデオの制作
(例)【講義】企業とデジタルアーカイブ
第12講 シティプロモーションビデオを発表してみよう
① 審査票(Excel)
第13講 シティプロモーションビデオの評価・改善
資料
① 高・大生のための利活用入門テキスト①
② 高・大生のための利活用入門テキスト②
報道
第14講 シティプロモーションビデオ作品(2023年度)
第15講 発展講座
■ ジャパンサーチとデジタルアーカイブ活用基盤
国立情報学研究所名誉教授 高野明彦氏
➝ プレゼン資料:ジャパンサーチとデジタルアーカイブ活用基盤
■ 世界のデジタルアーカイブの発展とその活用
東京大学大学院情報学環 時実象一氏
➝ プレゼン資料:世界のデジタルアーカイブの発展とその活用
■ デジタルアーカイブと法制度の現在地点
骨董通り法律事務所パートナー弁護士 福井健策氏
➝ プレゼン資料:デジタルアーカイブと法制度の現在地点
伊那西高校と郡上北高校のオンライン接続による発表会
日 時:2024年1月29日(月)
伊那西高校1時限目~3時限目実施
(①9:25~10:15 ②10:25~11:15 ③11:25~12:15)
※特別時間のため、休憩時間等はフレキシブルに対応可
【伊那西高校】・・・7グループ 【郡上北高校】・・・4グループ
各グループ 準備1分 説明1分 動画3~4分 評価用紙記入3分
→ 10分回しで設定
———————————————————————-
1月29日(月)日程(案)
9:25~ 接続確認
9:50~ 開会の辞(伊那西高等学校)
10:00~ 伊那西高校発表①
10:10~ 伊那西高校発表②
10:20~ 伊那西高校発表③
10:30~ 各校代表挨拶
10:40~ 郡上北高校発表①
10:50~ 郡上北高校発表②
11:00~ 郡上北高校発表③
11:10~ 郡上北高校発表④
11:20~ 伊那西高校発表④
11:30~ 伊那西高校発表⑤
11:40~ 伊那西高校発表⑥
11:50~ 伊那西高校発表⑦
12:00~ まとめ・講評
12:10~ 閉会の辞(郡上北高等学校)
伊那西高校と郡上北高校のオンライン接続による発表会
時刻: 2024年1月29日 09:00 AM 大阪、札幌、東京
参加 Zoom ミーティング
https://us02web.zoom.us/j/85786605327?pwd=ZVFUalUyaG1WdVNtY1R4cFlCdkprQT09
ミーティング ID: 857 8660 5327
パスコードを設定する: 863467
評価用紙
R5年度 伊那西高校と郡上北高校のオンライン接続による発表会 評価用紙
令和5年度 伊那市シティプロモーション作品
高遠城址公園
武田信玄の五男仁科五郎盛信が織田信長の長男信忠と戦い、壮絶な死を遂げた高遠城は、明治4年(1871年)の廃藩置県で、城が取り壊され、明治8年(1875年)に公園となりました。高遠藩の旧藩士達が「桜の馬場」から桜を移植したことにより、今では全国でも有数の桜の名所となりました。本丸の老木はこの時植えられたもので、4月には、130年生以上の古木20本、50年生以上のもの500本などに若木を加えた約1,500本のタカトオコヒガンザクラが、淡紅色で小ぶりの花を枝いっぱいにつけます。
また、秋にはタカトオコヒガンザクラ独特のほとんど紅葉せずに落葉した公園に、およそ250本のカエデがきれいに色づき紅葉が楽しめます。
公園内には、国の登録有形文化財の指定を受けた高遠閣や城下から移築された問屋門、太鼓櫓、新城藤原神社のほか、高遠公園碑、無字の碑、靖国招魂碑などの碑文等、古きを偲ぶ歴史的資料がたくさんあります。
春の桜のほかに、夏の新緑、秋の紅葉など年間を通じて多くの観光客がこの城址公園を訪れています。
(伊那市役所 商工観光部 高遠商工観光課Webより引用)
①法幢院曲輪
笹曲輪は本丸の南に隣接する曲輪で、一段低い位置にあります。周囲に笹が多く生育していることから、この名前になったと言われています。
法幢院曲輪は、城内の南の端はしにある曲輪です。戦国時代、ここには「法幢院」というお寺がありました。高遠城の戦いの後も戦死者を弔とむらう法要ほうようが行われました。寺は文禄元年(1592)に城外へ移りましたが(現在の桂泉院)、その後も法幢院曲輪と呼ばれ続けました。
②問屋門(本丸跡)
現在本丸の入口にある門は、元々、城にあった門ではなく、高遠城下の本町の問屋役所にあった門です。昭和20年代、問屋役所の建物を取り壊す際、歴史ある門が高遠から失われることを惜おしんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて城跡に移築したものです。
現在では、手前の桜雲橋とともに、城跡には欠かすことができない景観シンボルとなっています。
③太鼓櫓(本丸跡)
明治時代に建てられた櫓で、時を告げる太鼓がおかれました。
江戸時代、時の太鼓は城内の搦手門の中にありましたが、明治に入り搦手門が取り壊されると、太鼓を置くための櫓が城の対岸の白山に建てられました。この太鼓櫓は明治10年(1877)頃に現在の位置に移され、昭和18年(1943)まで朝6時から夕方6時まで偶数時に太鼓が打ち鳴らされ、時を告げました。
④新城神社と藤原神社(本丸跡)
「新城神社」と「藤原神社」の2つの神社が1つの社の中に祀まつられています。新城神社の祭神は仁科五郎盛信で、藤原神社の祭神は高遠藩主内藤家の祖先にあたる藤原鎌足や代々の内藤家当主です。どちらも江戸時代から城内にあった神社ですが、明治12年(1879)に現在の場所にまとめて祀れるようになりました。
⑤高遠閣(二ノ丸跡)
昭和11年(1936)に高遠町出身の有志らの寄付で建てられました。
木造総2階建だて、入母屋造り、2階には200畳敷の大広間があります。昭和初期の大規模和風建築としては稀有建物であるとして、国の登録有形文化財になっています。遠くからもよく見える赤い屋根の建物は、城跡のランドマークとして親しまれています。
⑥伊那市立高遠町歴史博物館
高遠町歴史博物館は高遠湖畔にあり、原始時代から現代に至る高遠城と城下町高遠の歴史、文化、人物、民俗などをテーマごとにスポットをあてた展示構成になっています。
敷地内には、徳川6代将軍家宣の側室に仕えた大奥女中頭の「絵島」が、絵島生島事件で高遠に流刑とされ、61歳で生涯を閉じるまでの27年余を過ごした「絵島囲み屋敷」も復元されています。
また、開花期の高遠城址公園の映像や、展示解説の映像などを鑑賞することができる「桜シアター」も備えています。
⑦高遠石工
江戸時代、信州高遠は石工の里として全国的に知られていました。
石工(いしく)とは石材加工を行う職人のことで、石切(いしきり)とも呼ばれました。
高遠藩領内出身の石工は「高遠石工(たかとおいしく)」と呼ばれ、優れた腕を持っていました。彼らは全国各地に出向き、出張先で石仏や石塔、石橋、鳥居、石垣など様々な石造物を造りました。
高遠石工が生まれた背景
古来より、人々は自然の猛威の前には成す術もなく、平穏な暮らしや豊穣を願い、ただただ神仏に祈りを捧げるのみでした。
江戸時代に入り、安定した世の中になると、心のよりどころとして神仏に祈る民間信仰が盛んになり、元禄年間(江戸時代前期)には石仏造立も活発化します。石造物の需要が増えるにつれ、高収入が得られる石工のなり手も増えていきましたが、高遠藩では税収増加をねらって「旅稼ぎ石工」を奨励したことから、その数は領内だけでも数百人に達していたといわれています。
高遠石工の多くは、農耕地が狭い山間部の農家で二男以降に生まれた男子です。一般的には農作業の傍ら、農閑期を中心に旅稼ぎをしていたと言われていますが、当時の石工は大工など他の職人と比べて給金が良く、仕事が豊富であったこともあり、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門の職業とする専業石工も多く存在しました。
高遠石工の活動
現在、高遠石工の銘が確認されている石造物は、北は青森、南は山口の1都18県に及びます。
和泉石工(泉州石工)など、高遠石工と同時期に活躍した石工集団は他にもいましたが、高遠石工ほど多くの銘を残していません。「高遠」という銘がはっきりと確認できるのが元禄期以降であるため、高遠石工の活動年代は内藤家が高遠藩を拝領した元禄4年(1691)以降とみる向きもありますが、山梨県甲府市塩澤寺にある正保5年(1648)銘「大工信州之角兵衛」の無縫塔をはじめ、元禄期以前の高遠石工の作と推定される石造物も確認されているため、江戸時代初頭より広域的な活動をしていたと考えられます。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事に関わったり、有名な安曇野の道祖神の中にも、高遠石工たちが刻んだものが数多くあります。
高遠石工が確かな技術で刻んだ石造物は、人々の心を捉え、江戸時代中期にはその名が全国にとどろくようになりました。「高遠石工」の名が一種のブランドと化したことによって、その活動も一層盛んになり、各地で多くの作品を残すこととなったのです。
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ資料集(下)
はじめに
平成29年度に文部科学省の私立大学研究ブランディング事業の「地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成のための基盤整備事業」で採択され、3年間にわたりこれまでに本学独自で育んできたデジタルアーカイブ研究を活用し、地域資源のデジタルアーカイブ化とその展開によって、伝統文化産業の活性化などの地域課題の実践的な解決や新しい文化を創造できる人材育成を行い、地域の知の拠点となる大学を目指し事業を展開してきた。
その中でも「飛騨高山の匠の技デジタルアーカイブ」は、以下の点に注力して研究を進めてきた。
①伝統文化産業(飛騨春慶・一位一刀彫等)を多視点でデジタルアーカイブし、歴史的な視点を総合的にまとめ、匠の “こころ”をオーラルヒストリー等により「知の増殖型サイクル」を構成し、これらの一部を海外へ発信することにより伝統文化産業の振興を図る。
②伝統文化産業における匠の技とその歴史的な背景をまとめてデジタルアーカイブ化することで、伝統文化産業の理解と継承が容易になる。さらに、継承の過程で生まれた新しい知見を「知の増殖型サイクル」で取り込み、その利活用によって地域社会の振興を支援できる。
③フィールドにおける効果検証をするためのデジタルアーカイブ研究として捉え、解の見えない地域課題の解決をするための地域資源デジタルアーカイブとそのメソッドを確立する。
これらにより、地域の知が適切に循環・増殖することで新たな価値の創造と、これらを実践できる高度な専門的な知識を持つ人材の養成による雇用の創出を促進し、その結果として「知の増殖型サイクル」としてデジタルアーカイブの効果が認められ、さらにデジタルアーカイブの新たな展開が期待できる。また、これにより大学は地域に開かれた「知の拠点」となりうる。
この「飛騨高山の匠の技デジタルアーカイブ資料」は、本学が展開しているデジタルアーカイブの最新成果であり、これらの研究の拠点となるデジタルアーカイブ研究所では、大学が大学としてのアイデンティティを確立するためにも、「知」の拠点としての地域資源デジタルアーカイブを含めた総合的な大学デジタルアーカイブを構築することを支援している。今後は継続してデジタルアーカイブ研究に取り組むとともに新たな養成カリキュラムを構築することが本学として社会的な責務と捉えている。
2023年2月
デジタルアーカイブ研究所長
目 次
金森時代-1 高山城の搦手道 …………………… 1
金森時代-2 高山城の大手道 …………………… 12
金森時代-3
金森氏の転封先・上山城と武家屋敷 ………… 16
金森時代-4 近江商人の町・近江八幡 ………… 23
天領時代-1 下呂・武川久兵衛墓地、温泉寺 … 31
天領時代-2 三町用水、神明用水 ……………… 37
天領時代-3 五ケ村用水取り入れ口 …………… 42
天領時代-4
江名子川に架かる橋・下流からその1 ……… 45
天領時代-5
江名子川に架かる橋・下流からその2 ……… 52
飛騨の里-1 バッタリ小屋、水車小屋 ………… 58
飛騨の里-2 飛騨の里・匠神社 ………………… 61
飛騨の里-3 飛騨の里・道上家 ………………… 66
飛騨の里-4 飛騨の里・大野家 ………………… 70
飛騨の里-5 飛騨の里・景色 …………………… 72
飛騨の里-6 飛騨の里・行事 …………………… 76
史跡-1 荏名神社神橋とその周辺 ……………… 80
史跡-2 荏野文庫と田中大秀墓 ………………… 85
史跡-3 長倉集落、棚田、桂峯寺 ……………… 89
史跡-4 杖石(長倉) …………………………… 94
史跡-5 岩船の滝 ………………………………… 98
史跡-6 嘉念坊善俊、雪の白川村 ……………… 102
史跡-7 寺と神社の桜(高山地域) ……………… 107
史跡-8 上木甚兵衛が流された新島 …………… 111
史跡-9 石工高原忠次郎 ………………………… 121
史跡-10 吉野朝時代の伝説地 ………………… 125
行事-1 二十四日市 ……………………………… 129
行事-2 丹生川のくだがい神事 ………………… 137
行事-3 飛騨の塩ぶり市 ………………………… 141
自然-1 十二ケ岳からの山岳眺望 ……………… 146
自然-2 五色ケ原・ゴスワラコース …………… 161
自然-3 五色ケ原・シラビソコース …………… 165
自然-4 川上岳 …………………………………… 172
自然-5 丸黒山 …………………………………… 177
自然-6 福地山 …………………………………… 186
自然-7 高屹山 …………………………………… 193
自然-8 猪臥山 …………………………………… 205
城郭-1 三仏寺城 ………………………………… 209
城郭-2 尾崎城 …………………………………… 213
城郭-3 畑佐城 …………………………………… 216
城郭-4 山下城 …………………………………… 222
城郭-5 鍋山城 …………………………………… 224
城郭-6 向牧戸城 ………………………………… 230
城郭-7 高堂城 …………………………………… 232
城郭-8 広瀬城 …………………………………… 236
城郭-9 梨打城 …………………………………… 240
城郭-10 五味原城 ……………………………… 245
城郭-11 岩井城 …………………………………… 248
城郭-12 森ケ城 …………………………………… 253
城郭-13 笠根城、板殿城 ………………………… 258
城郭-14 牛臥山城 ………………………………… 262
城郭-15 高原諏訪城 ……………………………… 266
城郭-16 小島城 …………………………………… 271
城郭-17 古川城 …………………………………… 275
城郭-18 向小島城 ………………………………… 277
城郭-19 小鷹利城 ………………………………… 281
城郭-20 萩原諏訪城 ……………………………… 283
城郭-21 宮地城 …………………………………… 287
養源院 ……………………………………………… 291
京都国立博物館 …………………………………… 299
八坂神社 …………………………………………… 301
祇園祭(前祭) …………………………………… 308
祇園祭(月鉾) …………………………………… 315
祇園祭(鯉山) …………………………………… 320
祇園祭(八幡山) ………………………………… 324
祇園祭(後祭) …………………………………… 327
建仁寺 ……………………………………………… 336
古い町並(三町伝統的建造物群保存地区) …… 341
山中和紙 …………………………………………… 353
春の高山祭「山王祭」 …………………………… 355
秋の高山祭「八幡祭」 …………………………… 368
水無神社・臥龍桜 ………………………………… 274
飛騨民俗村(飛騨の里) ………………………… 376
中部国際空港にデジタルサイネージを設置 …… 381
稲爪神社 …………………………………………… 384
出雲大社 …………………………………………… 389
泉福寺 ……………………………………………… 393
聖福寺 ……………………………………………… 403
歓喜院 ……………………………………………… 412
慈光寺 ……………………………………………… 431
淨照寺 ……………………………………………… 435
富士社社殿 ………………………………………… 446
了徳寺 ……………………………………………… 450
飛騨の匠ミュージアム …………………………… 454
吉島家住宅 ………………………………………… 465
日下部家住宅 ……………………………………… 469
鶴岡八幡宮 ………………………………………… 476
上行寺 ……………………………………………… 479
古四王神社 ………………………………………… 486
瑞巌寺 ……………………………………………… 489
大崎八幡宮 ………………………………………… 495
三十三間堂官衙遺跡 ……………………………… 501
田沢麿崖仏(岩地蔵) …………………………… 503
野麦峠 政井みね氏 ……………………………… 506
高山市街地 ………………………………………… 508
旧青山別邸 ………………………………………… 521
讃岐東照宮 屋島神社 …………………………… 526
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ資料集(下)
発行年:2023年3月 初版
制 作:岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所
監 修:久世 均(デジタルアーカイブ研究所長)
編 集:大木佐智子(上級デジタル・アーキビスト)
記 録:田中 彰(飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ作成委員会)
櫟 彩見, 井上 透, 加治工尚子, 加藤真由美, 熊﨑康文
木幡智子, 谷 里佐, 林 知代, 三宅茜巳(デジタルアーカイブ専攻)
刊 行:岐阜女子大学 デジタルアーカイブ研究所
〒501-2592 岐阜県岐阜市太郎丸80番地
℡ (058)229-2211(代)
資 料
1.はじめに
2.目 次