あさんず橋
飛騨支路・あさんず橋
萩原町指定史跡 あさんづの橋所 石碑 下呂市萩原町尾崎宇舟渡
奈良時代の頃より、飛騨の国府(飛騨の国の中心地)から都へ上る本街道は「位山官道」と呼ばれ位山峠を越えて山之口から尾崎まで来て、ここから益田川を越して対岸の宿場「上留(かみのとまり)」(今の上呂)へ渡り、萩原を通って美濃の国の東山道へと通じていた。
ここに「あさんづの橋」が架けられたのはいつ頃であったのかはっきりしないが、今から400年ほど前の天正年間(1573~1592)、飛騨の国の領主となった金森長近によって、現在の小坂町・久々野町を通る新しい道が開かれたため、険しい位山峠は通らなくてもよくなり、やがてこの橋も廃止になった。そして新しく小坂川に架けられた橋に、廃止となった「あさ
んづの橋」の名にちなんで「あさむつの橋」の名がつけられたと伝えられている。
この石碑は、享保13年(1728)第7代飛騨の国の代官となった「長谷川忠崇(ただむね)」が、すでに150年以上も前に橋があったことを知り、当時は渡し場となっていたこの地にあさんづの橋の名を偲(しの)び、「むかしあさんづの橋があった所」と記した碑を建てた。そして小坂の橋には今の「あさむつの橋」の石碑を建て、飛騨の名所としてこの橋の名を残すことにした。 昭和48年5月30日指定
*説明版より
石碑銘
(表)終古 阿さん川の橋所
(裏)欽差郡吏 長谷川庄五郎藤原忠崇立
享保万年之第十三禩歳在戊申九月六日
私達のふるさとの歴史を語る大切な文化財をいつまでも残すために、皆様の御協力によって、石碑の周囲を整備することができた。 昭和54年3月 萩原町教育委員会説明版
尾崎 おさき
益田(ました)川の右岸および支流の山之口川の流域に位置する。西は急峻な山で、馬瀬(まぜ)村へ通う主要路であった連坂峠がある。益田川に沿って川西街道が通り、同街道から分かれて山之口川に沿って古代の位山(くらいやま)官道が北上、中村・黍生(きびう)・平沢・洞の支村を経て山之口に入る。地名の由来は位山・川上岳に連なる山の尾の崎に位置することによるという(後風土記)。
〔近世〕尾崎村 江戸期~明治8年の村名。飛騨国益田郡上呂郷のうち。住吉の飛騨官道は上呂から浅水橋を渡って尾崎から山之口川に沿って上り、位山を越えて国府に通じていたが、天正年中金森長近が小坂(おさか)・久々野(くぐの)へ通じる河内路を開いたため位山越は間道となり、浅水橋も朽ち果て、渡し舟に代わった。享保13年長谷川代官によって「あさむつの橋所」の旧跡を示す碑が建てられた(萩原町誌)。寛政元年、当村は口組と奥組とに分離し、口組の鎮守は白山神社と神明宮3社、奥組の鎮守は尾崎白山神社。寺院にもと天台宗で寛永3年開基の浄土真宗永養寺があった。明治8年川西村の大字となる。
〔近代〕尾崎 明治8年~現在の大字名。江戸期を通じて対岸の上呂との間に渡船が常設されていたが、明治26年上呂との間に浅水橋架橋により、渡船は廃止。当時益田川流域の橋は下呂(げろ)町三原の帯雲橋と浅水橋のみで、馬瀬村へ通ずる連坂峠をひかえる尾崎橋場は物資の集散地となり、人馬の往来が激しく、店舗・料理飲食店が軒を連ね繁栄した。大正12年萩原~古関(ふるせき)間に益田橋が架設、また馬瀬村へ通ずる日和田峠が改修され、昭和6年高山線飛騨萩原駅が開設されるにおよんで浅水橋の通行量は減少し、尾崎橋場の繁栄も失われた。
<引用文献>「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』角川春樹発行 昭和55年
資料集
114_122_あさんず橋
位山神社周辺
飛騨支路・位山神社周辺
位山神社の由緒(山之口村誌による)
今から約250年前、山之口村の百姓で農業の間に杣稼ぎをなす、文吉という者が、位山街道を幕府の役人が絶えず往来するのみでなく、高山方面に所用のある一般人の通行も頻繁であり、また山稼ぎをなす人も多数あるので、皆の安穏を祈念して自分で2尺位の白木丸太に神像を彫刻し、石築きの祠を造り、大山衹命と称し祭祀したのが始まり。天保年間に至り、村内協議の上、小さな社殿を建て守護してきた。
人里から遠く離れ大きな木立ちが連なり昼なお暗き神秘的な場所だけに、通行する多くの人々を和やかにし安心感を与えていたが、図らずも、明治2年秋位山神社下社の空祠へ大山衹命の、御神像を移し、位山神社と称して祀りこみ、明治6年8月社殿を再建し、大正12年5月、昭和38年5月、昭和56年7月と相次ぎ改築して今日に至った。
村人や道行く人の崇敬深きことに変わりなく、お祭りに使用する神前の、小幕、中幕、大幕、提灯、幟等は、明治末期、大正末期に今の高山市内の方々より、寄進されたものであって、位山神社の威徳の程が深く偲ばれる。 ※神社説明板より
山之口の歴史 やまのくち下呂市萩原町
山ノ口とも書く。益田(ました)川支流山之口川の上流に位置し、北端は分水嶺位山(1,529m)。急峻な山に囲まれ、その山峡を曲折しながらさかのぼる山之口川に沿って旧来の街道が位山(くらいやま)峠を越して北方へ通じる。この道には古代の飛騨国府へ通じる官道の名残をとどめる。地名の由来は位山の口の意という(後風土記)。
〔近世〕山之口村 江戸期~明治16年の村名。飛騨国大野郡久々野(くぐの)郷のうち。
〔近代〕山之口村 明治16年~昭和31年の大野郡の自治体名。位山村より分村して成立。
<引用文献>
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』角川春樹発行 昭和55年
山之口村の森林
位山道は美林の中を通っている。この森林は、以前村有林で会った。
昭和31年8月町村合併により山之口村が萩原町となり村有林は山之口財産区として承継されることになった。財産区有林は公共事業の地元負担財源として経済的依存度は極めて強く保育手入と共に権利関係の近代化を進めた。
昭和58年に財源区解消となり法人化を図り生産森林組合を設立した。山村地域開発を目指し大規模林道工事が昭和55年に着工、昭和60年一部完成開通を迎え今日までの発展に感謝の念を捧げ山之口生産森林組合が昭和60年に碑を建てている。
*説明版より
資料集
003_003_位山 周辺地域の自然
位山峠の石碑
飛騨支路・位山峠の石碑
くらいやまとうげ 位山峠 下呂市萩原町
下呂市萩原町山之口の北部にある峠。位山分水嶺の南東に位置し標高1,095m。明治中期までは萩原から位山峠・苅安峠を経て宮村に至る位山街道がよく利用されたが、飛騨川沿いに北上して宮峠越えに宮村に至る国道41号が開通してさびれた。
<引用文献>
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三編集『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』角川春樹発行 昭和55年
資料集
116_124_位山峠の石碑
飛騨支路・苅安峠
位山
位山(標高1,529m)は飛騨のほぼ中央に位置する。宮峠から位山を経て川上(かおれ)岳(だけ)へと東西に連なる山系は「位山分水嶺」と呼ばれ、ここに発する川は日本海側と太平洋側へと分かれて海へと流れる。位山を源流とする宮川は飛騨の中央を縦断し、高原川と合流し神通川となって富山湾へと注いでいる。
位山のアララギは古来から笏(しゃく)を作って朝廷に献上していたことが知られ、アララギの和名「イチイ」は、この際に朝廷から「一位」を授けられたことによる。また、「位山」の名前はこの木を産する山であることによるとも言われている。
この付近には、イチイのほか、良材として知られたアカマツや、市指定天然記念物「苅安湿原植物群落自生地」に生える湿地性植物など、貴重な植物も多く自生している。
名所として知られた位山は文学の舞台ともなり、平安時代から多くの歌に詠まれてきた。また、位山の麓を通る位山道は、古代に飛騨と都とを行き来する「東山道飛騨支路」に始まる。飛騨国府から苅安峠、位山峠を通り、下呂へと至るこの道は、人とともに文化の橋渡しをする交流の道であった。
*説明版より
位山舟山県立自然公園(苅安峠)
位山舟山県立自然公園は、位山(1,529m)・舟山(1,480m)・川上岳(1,626m)に囲まれた自然公園で、宮村、久々野町、萩原町にまたがっている。
ここ位山分水嶺公園のある苅安峠は、乗鞍岳から宮峠、位山から川上岳に伸びる日本海側と太平洋側を分ける分水嶺上に位置する。この地は、かつて飛騨の工(たくみ)が都へ通った昔の官道(位山道)が通っていた所でもある。
ここより約300m北に行くと、スキーゲレンデの脇を通り位山山頂へと続く位山登山道の入口がある。登山道沿いの稜線部は、優れた自然植生が残っていることから、自然公園の特別地域として指定されており、「位山」の名の由来とされるイチイ(一位)も目にすることができる。
位山山頂へは、位山登山道を行くほかに、車でダナ平林道を進み、林道終点から巨石群登山道を行くルートがある。位山山頂からの眺めは素晴しく、御岳山、白山などの雄大な風景を望むことができる。
*説明版より
苅安湿原
苅安湿原は面積約0.55ha、位山から北東にのびる分水嶺上に位置している。
湿原全体は約40cmの泥炭層に覆われ、その上にミズゴケ湿原(高層湿原)が広がっている。木道からは四季それぞれに咲く湿性植物の花や、日本最小のトンボ(ハッチョウトンボ)など、貴重な生物が数多く観察できる
*説明版より
資料集
117_125_苅安峠
三仏寺廃寺
飛騨の古代寺院・三仏寺廃寺 さんぶつじはいじ
所在地 岐阜県高山市三福寺町字落し たかやましさんふくじまちあざおとし
調査年 1993年、1996年
調査主体 高山市教育委員会
立地環境 江戸時代三福寺村集落地内、大八賀川右岸、三仏寺城跡(平安末~戦国時代)の麓、標高570m
発見遺構 寺院推定地約1,000㎡中に瓦集積地点、瓦片包含層を検出、寺域は100m四方、南面していたと思われ、周辺より約1m高かったと推定される。
発見遺物 軒丸瓦、丸瓦、平瓦、須恵器 年代は7世紀~11世紀
遺跡の概要 当遺跡が立地する三福寺町は、大八賀川右岸にあって、高山市内旧市街地の北方にあたり、北山という小山を間にはさんでいる。「三福寺」という地名は江戸・金森時代以後のことで、それ以前は三仏寺と称されている。後代の諸文献には、古い時代に三仏寺という寺院があったと記される。元禄水帳には、「どうのまえ」「じょうど」「もんぜん」等の小字が見え、布目瓦が周辺畑地や水田から多く出土している。
中世以降は、寺を含めて裏側の山に三仏寺城という山城があった。『飛州志』『斐太後風土記』では、三仏寺城跡と三仏寺が混同されて、山上に寺があったように記されている。郷土史家押上森蔵は実地調査をして、三仏寺が立地条件から考えても山上では適当でなく、山麓の現遺跡指定地が寺域と推定したが、卓見であるといえよう。
瓦類の発見は数回あり、昭和3年道路改修時に軒丸瓦が10数個出土、何個かが地元に残る。昭和43年、森本正雄家裏の電柱工事の際に瓦が多く出土した。過去に採集された軒丸瓦を図2に掲載する。また、平成4年に発掘調査された際に出土した遺物は、図3~5に記した。図3の軒丸瓦は、外縁素文有子葉単弁八葉、蓮華文、中房の蓮子は中央に1個、回りに4個配され、蓮弁内に波状を呈する子葉がある。図4~5平瓦は4種類に分類され、
3~6が凸面格子タタキ、
7~10が凸面格子タタキで目が比較的細かい、
11~17は凸面斜格子タタキ、
18~23はその他各種で、18は凸面平行タタキ、19、20が凸面ヘラケズリ、21が凸面縄タタキ、22、23が粗い凸面平行タタキである。①~④類とも桶巻痕跡が見られ、厚さは21~25㎜、26~28㎜と厚く焼成は軟良いろいろ。
三仏寺瓦の窯は松之木町日面原(ひおもばら)古窯跡ほか5箇所が推定されているが、まだ確証は得られていない。
三仏寺の成立から終末は全く不明であるが、出土丸瓦からみて白鳳期の成立、平安時代末には三仏寺城との関連をもち、以後廃絶した。
出典文献
1.『高山市内遺跡発掘調査報告書』高山市教育委員会1996
2.田中彰「三仏寺廃寺」『古代仏教東へ ― 寺と窯』第9回東海埋蔵文化財研究会岐阜大会実行委員会1992
3.八賀晋「飛騨の古墳と古代寺院」『古代の飛騨』飛騨国府シンポジュウム資料、国府町教育委員会1988
4.荒川喜一『大八賀村史』大八賀財産区1971
資料集
118_126_飛騨の古代寺院(三仏寺廃寺)
東光寺跡
漆垣内地内字とうこうじの山上に永禄年間まで東光寺という真言寺があった。
昭和5年6月岡村利平が、今井孫康、森久一郎らの案内で実地踏査した記事が飛騨史壇昭和5年8月号に出ている。記事の概要は
この跡地は元服山続きの台上で、東南西は低く眺望開闊、寺は南面したものであろう。今は畑地となっているが布目瓦が出る。この日も今井君が破片を1個拾った。この跡地の畑から金銅製の釈迦の像がかつて出土した。
今より40年ほど前(明治9年頃)漆垣内の都竹捨次郎の母が畑を耕作中発見したものである。この母はまだ健在で名はちかといい当年65歳である。その老婆の案内で出土現地も見たが東光寺の境内と思われる地のやや東側へよった箇所である。仏像は釈迦の降誕像で身長台共に2寸8分、台下の挿込の部分が4分、この挿込にて別の台に挿込んであったものであろう、重量30匁、地金は銅で上に鍍金したものである、下部の剥げた部分に緑青の錆が浮いている、灌仏会に甘茶をそそぐ釈迦像であろう、(以下略)
布目瓦の出土地であれば奈良時代か平安時代の初めにすでにあった寺と考えられる。漆垣内地内には二宮神社、四天王神社がある、両者共歴史時代の神社としては本村で最も古く、上代この地が文化の一中心をなしていたことが考えられる。
東光寺は山口の来迎寺と共に後代千光寺の末寺で、永禄7年(1564)に武田勢のために焼かれたと言い伝えられている。当時千光寺は国内の一大教団で、その末寺末院別当社もおびただしい数であった。
<引用文献>
荒川喜一編纂『大八賀村史』416頁 大八賀財産区発行 昭和46年
資料集
119_127_飛騨の古代寺院(東光寺跡)
名張廃寺
飛騨の古代寺院・名張廃寺 なばりはいじ
名張廃寺
所在地 岐阜県高山市国府町名張道玄 よしきぐんこくふちょうなばりどうげん
立地環境 宮川左岸の平地にあり、石橋廃寺の対岸に位置する。浄覚寺の西側微高地にあり、周辺には十二相古墳がある。
発見遺物 過去に採取された瓦が一括一之宮神社に所蔵されている。(第1図1~3)。
三重圏縁単弁十弁蓮華文軒丸瓦、単弁十弁蓮華文軒丸瓦、重弁八弁蓮華文軒丸瓦、四重弧文軒平瓦、二重弧文軒平瓦がある。中には、丸山古窯跡、石橋廃寺と同笵のものがある。
鳥を描いた線刻絵画瓦も出土している。
年代 7世紀後半~
遺跡の概要 名張廃寺出土の重弁軒丸瓦(図1-1)は、新羅の様式を取り入れたもの。飛騨で唯一の型式、東海地区でも珍しい瓦である。この瓦は石橋廃寺でも出土しており、軒丸瓦の共用関係が知られる。
<参考文献>
国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』146頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年
東海埋蔵文化財研究会『古代仏教東へ ― 寺と窯』寺院 第9回東海埋蔵文化財研究会岐阜大会1992
釜洞古窯跡 かまぼらこようあと
所在地 岐阜県吉城郡国府町瓜巣釜洞、小坂、中島 よしきぐんこくふちょううりすかまぼら、おさか、なかしま
立地環境 高山市上切町から国府へ至る高草洞峠を越えると瓜巣へ出るが、山をおりてすぐの県道沿いに分布する。瓜巣川の右岸にあたり、名張廃寺に近い。北向きの斜面に立地する。
発見遺物 間弁端に三角形の飾りを施す2種類の単弁十弁軒丸瓦がある。
年代 7世紀後半~
遺跡の概要 字名に釜洞の地名が残る。当窯跡出土の軒丸瓦は、石橋廃寺、名張廃寺、塔の腰廃寺、久中廃寺と同笵とされている。
<参考文献>
国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』131~154頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年
東海埋蔵文化財研究会『古代仏教東へ ― 寺と窯』寺院 第9回東海埋蔵文化財研究会岐阜大会1992
資料集
120_128_飛騨の古代寺院(名張廃寺)
堂前廃寺
堂前廃寺
<立地と環境>
この廃寺は、国府町木曽垣内字堂前に所在する。北西方向2kmには白鳳寺院塔の腰廃寺があり、付近一帯には、古墳としては木曽垣内大塚、木曽垣内比丘尼塚、木曽垣内塚田古墳などが知られているが、いずれも減失している。また、中世の寺院と伝わる健正寺跡や二ツ寺遺跡などこの付近は遺跡の宝庫である。
<調査の経緯> 本廃寺跡の遺構は不明。
<遺構と遺物>
昭和39年の土地改良整備事業の時に、木曽垣内の中村健一によって軒丸瓦、丸瓦、平瓦等50数点が採取されている。昔から古い寺があったと古老は伝えている。
今回の町史編纂のための遺物調査によって、新しく発見された遺物である。単弁軒丸瓦の1種類(第34図の1)である。弁は6弁で先は丸く弁の中央に突線を持つ。弁と弁の間に小さな間弁をもつ、中房は欠損していて不明。外縁は素縁である。本軒丸瓦の形式はほかの寺院にない独特の紋様である。弁の中央に突線(鎬しの)を有する紋様は、高句麗様式の瓦当紋様に端を発する。岐阜県下では、宮代廃寺(不破郡)、厚見寺跡(岐阜市)に類例が出土し、周縁も素縁である点も共通する。また、伊勢湾に面する尾張南部には、甚目寺跡や奥田廃寺など数か寺から出土する。尾張の場合は、瓦当周縁が重圏文になる点が特徴的である。
寺院建立は、国府町の他の白鳳寺院より若干先行するため、7世紀後半に建立されたものと推定できる。
従来の研究で国府町における白鳳寺院より若干先行するもので、7世紀後半に建立されたものと推定できる。
従来の研究で国府町における白鳳寺院は、石橋廃寺、名張廃寺、塔の腰廃寺、光寿庵廃寺、安国寺廃寺の5か寺であったが、今回の調査で1か寺増え6か寺となった。全国的にみても狭い地域での寺院建立はその数の多さと、その華麗さを考えるとき、律令体制の中で国府が置かれていた位置付けと、その歴史的背景を十分考慮しておかなければならないことは当然である。終末期の古墳をみても寺院の様相をみても、飛騨の古代文化は近隣の諸国と並外れた高度な文化内容を持つことを付して置く。
国府町史刊行委員会編集・発行『国府町史 考古・指定文化財編』 平成19年発行
木曽垣内の大仏について
「木曽垣内のおおぼとけ」・「木曽垣内の大仏さま」の呼称で親しまれるこの仏像は、仏身の丈2メートル1センチ、台座の高さ97.5センチ、仏の顔の長さ60センチ、肩幅は1メートル余で檜材を用い、顔から胸・腹にかけての部分は作られた当時のものである。
肩から両手・膝から足及び蓮台は、慶応2年(1866)に補修されたことが胎内にあった墨書銘から判明した。飛騨地方には例を見ない大きな仏像であり、県重文に指定された。
国分尼寺の御本尊は上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)を結んだ阿弥陀如来坐像である。像高177センチ、台座は97.5センチ、いわゆる丈六(じょうろく)像に近似した大きさである。坐像としては飛騨で一番大きいことから「木曽垣内の大仏」と呼ばれ、古来から多くの人々に深く信仰され、親しまれ、幾多の伝説も残されている。
昭和30年代の初め、宗教法人化する際、当地区近辺に二ツ寺・堂前・建正寺・大日などの小字があることから、山号を建正山、寺名を国分尼寺とし、臨済宗妙心寺派に属することになった。昭和39年12月8日、本像が後世に保存すべき重要な仏像と認められ、岐阜県の重要文化財に指定されている。
阿弥陀像の、頭頂部は少し欠損しているものの、顔から胸、腹にかけての部分はカヤの木の一本造りで、仏像が造立された当時の姿で残されている。両肩から手、脚部にかけては江戸時代後期、慶応2年(1866)に地元の仏師東平(とうべい)によって桧で修復されているためか、顔の長さが60センチあることを思えば、少しきゃしゃな感じを受ける。昭和56年10月から58年3月にかけて、岐阜県の補助を受け、仏像の研究と修復の第一人者である奈良市在住・辻本千也氏に依頼し、仏像の修復、防虫、保存修理が行なわれた。この修理の中で、眼の造り方が彫眼であること、螺髪(らほつ=頭髪部分)のひとつひとつの粒が大きいこと、額と螺髪の部分が直線に近いこと、胎内に残された鑿(のみ)などの痕跡、彩色が施された痕跡が全く見当たらないこと、これらを総合的に考え合わせると、平安時代中期に作成された可能性が高いことが判明した。 リーフレットより
円空上人作 観音像
この堂宇には大仏の他に円空の仏像も保存されている。観世音菩薩(高さ台座共61センチメートル)で、享保時代円空が当地へ来遊した時の作と伝えられる。
説明版より
資料集
121_129_飛騨の古代寺院(堂前廃寺)
塔の腰廃寺
飛騨の古代寺院・塔の腰廃寺
塔の腰廃寺 とうのこしはいじ
所在地 岐阜県吉城郡古川町上町セリ田 よしきぐんふるかわちょうかんまちせりだ
岐阜県吉城郡国府町広瀬町塔の本、塔の前 よしきぐんこくふちょうひろせまちとうのもと、とうのまえ
立地環境 古川盆地の南東、宮川と荒城川との間の、少し微高地になった平地に立地。
発見遺構 この寺の心礎と推定される礎石が、古川町円光寺に残されている。
発見遺物 単弁九弁蓮華文軒丸瓦(1)、単弁十弁蓮華文軒丸瓦(2)、三重圏縁単弁十弁蓮華文軒丸瓦(3)、四重弧文軒平瓦(4)。昭和30年の土地改良時に多くの瓦が出土した。
年代 7世紀後半
遺跡の概要 古くからこの地に瓦が出土し、国分尼寺とする言い伝えもある。塔の前、塔の本の小字が以前はあった。現在は区有地120坪が残り、大坪東平の名作大日如来をまつって、「大日の森」と呼ばれている。
<引用文献>
国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』151頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年
東海埋蔵文化財研究会『古代仏教東へ ― 寺と窯』寺院 第9回東海埋蔵文化財研究会岐阜大会1992
大日の森(塔の腰廃寺)
国府町と古川町の境界付近に位置するこの一帯は、俗に大日平(だいら)らと称する飛騨を代表する穀倉地帯である。現在の敷地は、広瀬町の区有地で120坪(約396平方メートル)あり、お堂には大日如来像が安置されており、この像は国府町宮地に住んでいた名佛士「大坪東(とう)平(べい)」の名作である。
この地は、少し微高地になっており、往古には荒城川が北南に横断し宮川にそそいでいたものと考えられる。昭和の初めに用水路工事中に発見された有孔石器(ヒスイ)や、縄文土器は岡村利平翁によって東京国立博物館に寄贈され、飛騨を代表する出土遺物として大切に保管されている。他にも多くの縄文土器等が出土している。
この大日の森(塔の腰廃寺)は、飛騨を代表する大伽藍で、塔の礎石といわれる巨石は五重の塔の礎石と推定されている。昭和30年代の土地改良の時に塔の本・塔の前の小字から多量の平瓦や軒丸瓦が出土しており、国府資料館に保管されている。
慶応4年、梅村知事の急進的な改田施策により、その時に心礎が古川町の円光寺に移されたものと考えられる。今は史跡として広瀬町区が保存管理を行ない、毎年旧盆の8月に安国寺住職を招き法要を行なっている。
国府町広瀬町第10組説明文より
資料集
091_098_飛騨の古代寺院(塔の腰廃寺)
上町廃寺
上町廃寺 かんまちはいじ(久中廃寺)
上町廃寺
所在地 岐阜県飛騨市古川町上町久中 ふるかわちょうかんまちくなか
立地環境 宮川右岸の河岸段丘上の平地に位置する。塔の腰廃寺に近い。
発見遺物 十弁と九弁の重圏文縁軒丸瓦(3)と間弁端に三角形の飾りを配する十弁と九弁軒丸瓦(1、2)が出土。
年代 7世紀後半~
出典文献 1.飛騨国府シンポジウム資料『古代の飛騨 その先進性を問う』国府町1988
遺跡の概要 重圏文縁軒丸瓦(2)と九弁軒丸瓦(3)が塔の腰廃寺と共用される。また、十弁軒丸瓦(3の類型で、弁が二重線となるもの)が古町廃寺と共用される。
重圏文縁軒丸瓦は丸山古窯の生産、間弁端に独得の飾りを施す軒丸瓦群は釜洞古窯の生産である。
<引用文献>
国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』152頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年
丸山古窯跡 まるやまこようあと
所在地 岐阜県高山市国府町宇津江小手ヶ洞、芦谷(丸山) こくふちょううつえこてがほら、あしや(まるやま)
立地環境 名勝四十八滝から流れる宇津江川の右岸にあって、北向きの斜面に立地する。
発見遺物 三重圏縁単弁十弁蓮華文軒丸瓦
年代 7世紀後半~
遺跡の概要 当遺跡出土の軒丸瓦は、久中(上町)・塔の腰・名張の3寺に供給される。
参考文献 東海埋蔵文化財研究会『古代仏教東へ ― 寺と窯』寺院 第9回東海埋蔵文化財研究会岐阜大会1992
資料集
092_099_飛騨の古代寺院(上町廃寺)
古町廃寺
所在地 岐阜県飛騨市古川町向町古町 ふるかわちょうむかいまちふるまち
調査年 1988~1989年
調査主体 上町遺跡C地点発掘調査団
立地環境 古川町は、地勢的には飛騨高地のほぼ中央部にあり、周囲を標高1,000m前後の山々で囲まれ、町の中央部に古川盆地が開け、西寄りを飛騨高地南部の分水嶺から流れる宮川が南東から北西へ貫流する。盆地内では東西両山地から荒城川や太江川、宇津江川、殿川などの中小河川が宮川に合流し、途中さらに高原川と合流して神通川となって富山湾へ注ぐ。当遺跡は、宮川と荒城川の合流地点を中心に広がる古川盆地の中央、宮川右岸に位置する。海抜は約500m、宮川とは120~160mの距離をもつ。
周辺には、C・D地点合わせて古墳時代等の竪穴住居跡67棟、掘立柱建物跡29棟など多数の遺構が発見されており、寺院に所属する年代の遺構が多く分布する。
発見遺構 瓦を構築材として使用したカマド、瓦集中地点。
発見遺物 重圏縁単弁蓮華文軒丸瓦、押引き重弧文軒平瓦が出土。他に、丸瓦、平瓦、隅落し平瓦もある。丸山古窯跡、名張廃寺と同笵とされる。また、古川町信包の中原田窯跡と類似する瓦も存在する。
年代 7世紀後半~
出典文献 1.戸田哲也、河合英夫他『上町遺跡D地点遺跡発掘調査報告書』古川町教育委員会1991
遺跡の概要 瓦集中地区には約2,000点の瓦が出土、厚さ20~25㎝前後の包含層を形成していた。人為的投棄による副次的産物と考えられている。
<引用文献>
国際古代史シンポジウム実行委員会編集『国際古代史シンポジウム・イン・矢吹「東アジアにおける古代国家成立期の諸問題」飛鳥・白鳳時代の諸問題Ⅱ』148頁 国際古代史シンポジウム実行委員会発行 平成8年
資料集
093_100_飛騨の古代寺院(古町廃寺)