飛騨国分寺
現在の国分寺境内地は奈良時代の国分寺があった場所で、現境内地は東西70、南北92㍍、民地が入り組んでいて創建当時の寺域より、かなり狭まっていて、室町時代の国分寺本堂が建っている。
昭和27~29年、国分寺本堂を解体修理する際に本堂下が発掘調査され、9個の礎石と根石を確認した。この遺構は4×7間規模の建物跡と推定され、金堂跡と推定されている。
昭和61年、境内北側に貯水槽を造る際、高山市教育委員会により発掘調査がなされ、現況表面から130~150㌢下に瓦片が出土した。この面が奈良時代の生活面であり、広範囲の河川氾濫により、奈良時代の遺構が埋まってしまったものと考えられている。
本堂東側に玉垣で囲われた塔心礎石(国指定史跡)が据えてあり、礎石本体は創建当時のものと推定される。ほぼ方形で、上面に円柱を据える座を造り出し、その中央部に円形の穴があけられる。礎石の寸法は、径約2㍍四方、地上高さ約1㍍。しかし過去に東方向から西に移動されて、原位置を保っていない。
奈良時代国分寺の屋根瓦は、高山盆地の西方山麓にある「赤保木瓦窯」で焼かれており、軒丸瓦は5個の蓮子をもつ中房の周囲に細形単弁八葉の蓮花文を配し、外区に珠文帯をめぐらす。軒平瓦は、二重圏の中に左右対称の唐草文を配する。
西方の国分尼寺(辻ケ森三社)と東西一直線に並び、この時代の条里型地割の痕跡も報告されていて、高山盆地における奈良時代の景観が知られる。
参考文献「角田文衛編集『新修国分寺の研究 第7巻 補遺』株吉川弘文館 平成9年発行
「第2飛騨」第2項飛騨の項・267~300頁田中彰
奈良時代の古代寺院 「飛驒国分寺跡」
JR高山駅の東方250mに所在し、創建時から現在まで法灯を保っている。室町時代創建の現存する本堂は5間×4間で、昭和42年に国の重要文化財に指定された。また境内地内の塔心礎は国の史跡に、大イチョウは国の天然記念物に指定され、本堂に安置されている。平安時代作の木造薬師如来像・観世音菩薩像も国の重要文化財に指定されている。
本堂の解体修理や防災施設等の工事に伴い、昭和27年以降、4次にわたり発掘調査が行なわれた。
飛驒国分寺跡では、遺構として金堂及び塔を確認している。本堂の建て替えに伴って、現在の本堂下に原位置を保つ5石の礎石と11カ所の根石などを確認し、4間×7間の礎石建物の存在が判明した。都で技術を習得した飛騨匠の秀れた建物であったろう。柱間寸法は桁行中央3間が14尺、両脇が12尺、庇は11尺であり、梁行は身舎2間が12尺、庇は11尺とである。昭和27~29年の調査当時は建物跡の性格は不明とされていたが、昭和63年に調査された国分尼寺跡金堂と建物規模・柱間寸法が類似するため、金堂跡と推定されるに至った。
また、平成9年に本堂東側で版築の痕跡を確認し、金堂基壇に伴う版築と考えられた。周辺一帯では、現地表下1.2mほどで瓦が出土する層を確認している。その下面が奈良時代の生活面と考えられており、金堂礎石との比高差約1mが基壇の高さであろう。本堂より東20mには塔心礎が残っている。過去に移動しており、原位置を保っていない。心礎の形状は方形で、上面に円柱座を造り出し、中心に仏舎利孔と考えられる円形の穴が開く。
遺物は瓦・須恵器等を確認している。軒瓦は、軒丸瓦2種・軒平瓦4種が確認され、全て国史跡の赤保木瓦窯跡(高山市赤保木町)で焼成したことが分かっている。
参考文献 田中彰編集『高山市史・考古編』高山市教育委員会発行 平成28年3月
資料集
023_027_国分寺
飛騨一宮水無神社
飛騨一円を崇敬者とし、除夜祭・歳旦祭は飛騨一円を始め県内外からの参拝者が多い。例祭は5月2日、ひなまつりは4月3日で日本唯一の「生きびな祭」として有名である。 創立年代は不詳、祭神は水無(みなしの)大神など、位山を「神体山」としている。
第38代天智天皇の8年(669)、位山の櫟(あららぎ)材で作られた笏を朝廷に献上してから、櫟(あららぎ)に一位の樹名を賜わり、山は位山と称するようになった。第45代聖武天皇の天平12年(740)、天皇の仮宮殿において、近江国の新羅楽・飛騨楽が奏された。いま一之宮に「神代踊」として伝存する。第46代孝謙天皇の天平勝宝年中(750~)、飛騨国造高市(たけち)麿(まろ)が上奏して、当神社は国の「一宮(いちのみや)」と定められた。第60代醍醐天皇の延長5年(927)には延喜式が出来、神祇官神名帳に飛騨国8座の首班に列し、国の総社をも兼ね、国司は毎月巡拝して幣帛(へいはく)を奉(たてまつ)ることとなる。第76代近衛天皇の仁平元年(1151)、大江朝臣橘助高卿が一宮の神主に補任(ぶにん)され、神主家としてしばらく続いた。第96代後醍醐天皇の建武2年(1335)、国司姉小路家綱卿より、位山一位の御笏を献上し、天皇より御冠・袍・笏等の下賜があり、一宮に納める。天正13年金森長近が飛騨に攻め入り、三木・一宮・山下の神主家の主流が討たれたが、子孫が継続して神主家をつないでいる。
参考文献 『飛騨の神社』
(一之宮町一の宮)
古くから飛騨の人たちに崇敬されてきた神社で、飛騨一之宮として知られる。今でも初詣ではまず水無神社にお参りし、その後に地元の産土神(うぶすながみ)にお参りする風習が続いている。
毎年四月三日に「飛騨生きびな祭り」「養蚕祭」、五月一、二日には例祭が挙行され、例祭時には「水無神社の神事芸能(県指定重要無形民俗文化財)」が奉納され、最近ではどぶろくがふるまわれるようになった。
神社の脇から上がる宮峠(一之宮町、久々野町山梨)は一之宮町と久々野山梨の間にあり、太平洋と日本海の分水嶺である。標高七八二メートル、名前の由来は一之宮町に水無神社があることによる。金森氏によって開かれた峠である。
*説明版より
絵馬殿(拝殿)の由来
〈所在地〉一之宮町字石原5323番地
〈時 代〉明治13年5月再建
〈員 数〉1棟 絵馬殿入母屋流造、高床、四方吹抜
絵馬殿はもと拝殿と称して建治年中に再建され、慶長12年(1607)飛騨国主金森長近がこれを改築した。更に明治3年の社殿改築に当たり、高山県知事宮原積の命令と称して氏子の反対が強かったにもかかわらず、2〜3人の者しきりに不必要 を主張して遂に一旦これを取りこわした。
それを明治11年12月に至って、位山村宮組の氏子253戸総代大江久兵衛外数名が連署の上 氏子負担を以て再興を願い出、建築の許可が出て建築に着手し、明治12年11月に地鎮祭を行ない、翌13年5月落成した。
明治初年、官祭と民祭が分離され、拝殿であっ たこの建物が絵馬殿として転用されてきたが、入母屋造り、高床、四方吹抜けの様式から、拝殿として建てられたものである。やや小型であるが益田郡の久津八幡社拝殿(国指定重文)が様式手法共、同形で比較される。
飛騨では稀な大規模な入母屋流造りの社殿で、いくつかの騒動を経、王政復古で官祭から 民祭へと流れが変化することを識る歴史上民俗学上貴重な建物である。
一、慶長12年(1607)飛騨の国守となった高山城主金森長近の造営。 (当社棟札 一宮拝殿造営定書 飛州志)
一、安永7年(1778)百姓一揆が安永2年に起り大原騒動と称し、当神社の社家も農民に加担、連座し改廃され信州より迎えた神主梶原家熊は両部神道を改め、唯一神道とし従来の仏像、仏具はもとより社殿の多くを取壊し改めて造営するにあたりこの社殿のみ取壊しを免れた。
一、明治3年(1870)高山県知事宮原積は入母屋造りの従来の社殿を神明造りに建替えた。その時この建物は建替用として取壊したのを氏子は自分達の大切な拝殿として保管した。
一、明治12年(1879)氏子は保管中の拝殿再興を願出、広く浄財を求め元の位置に復元した。
一、昭和29年(1954)10年代国の管理の下昭和の大造営がはじまったが、終戦で国の管理から放れ、現在地に移築した。
*説明版より
神馬二体
市指定‐美術工芸品(彫刻)
白馬は安永9年(1780)再製され寄進されたと代情山彦集、宮村史にある。作者は武田の万匠とされている。元は黒馬であり数回塗り替えられているようで、この馬が稲喰い馬でないかと記されている。
黒い馬は眼がくり抜かれたようになっているが鞍掛馬と記されている。昔から語り継がれて現存する。水無神社の例祭(毎年5月2日)にはお旅所から帰る神輿を迎えに引き出される。
*説明版より
伝説の木 ねじの木
樹種 ヒノキ 胸高直径 1.5m
水無神社境内の絵馬殿の傍らにあったもので、自然の作用で、ねじまがった珍しいヒノキ。このねじの木に似せた、「こくせん」という飛騨の伝統的な駄菓子がつくられ、お正月参拝者のお土産になっている。
第1話 その昔、ヒノキの大樹が日陰になるので里人達が伐って普請に使おうと相談した。一夜のうちに幹はもとより、梢までねじ曲がってしまった。里人は、神のたたりを恐れあやまったといわれている。
第2話 今からおよそ200年前宮川が氾濫し、高山の中橋が流された。時の代官大原彦四郎は、神社の大ヒノキに着目し橋材として差し出すよう命じた。困った神社側は、一計を案じ、このねじの木を示し、神意で一夜のうちにねじれてしまったと、説明したところ、ほかの杜の木も切ることが取りやめになったと伝えられている。
*説明版より
白川神社
霊峰白山(2,702m)の飛騨側の山麓にひらけた集落大野郡白川村は、合掌造りの里として世界遺産に登録されている。白川村大字長瀬(通称秋町)と同福島の両集落は昭和32年(1957)御母衣電源開発がはじまり、ダム湖底にしずむことになり氏子も離散、それぞれの集落にあった氏神白山神社を飛騨国一宮(総座)の地に御遷座、両神社を合祀し白川神社として創建した。平成15年12月吉日、玉垣を改修。
*説明版より
島崎正樹 碑
きのふけふ しぐれの雨と もみぢ葉と あらそひふれる 山もとの里 正樹
水無神社元宮司島崎正樹翁は文豪島崎藤村の父で、小説夜明け前の主人公青山半蔵その人なり。明治7年11月より同10年12月、木曽馬籠宿より単身赴任さる。
翁は幕末はやく平田国学の人として維新の運動に身を挺し、のち皇政復古の志もむなしくこの里で多くの歌をものした。ここに自筆の一首を刻し没後100年の追慕となすなり。 昭和57年11月2日
*説明版より
稲喰神馬(黒駒)
作者は不詳、古来より名匠「左甚五郎」の作と言い伝えられています。
昔々に毎夜厩舎を出て農作物を荒らし、収穫の頃の稲穂を食ったとして村民が黒駒の両目を抜き取ったところ、以来耕作地を荒らすことが止んだと伝えられます。
此の神馬は極めて素朴な作りだが、解体は至難の業と言われる。
祈晴の神馬(白駒)
元は黒駒で作者は飛騨の工匠の武田万匠とされます。明治15年に大池宮司が体は白く尾と髪が黒い川原毛と呼ぶ彩色に塗り換えました。その時に腹に武田の銘が入っていたといわれます。
古来祈晴れの神馬として連日の降雨、毎年例祭前の祈晴祭には神前に黒駒と共に引き揃えて祈晴祭を執行する古例があります。
明治36年に行われた大祭では、飛騨一円の博労衆が醵金(きょきん)して、再び黒馬に塗りかえ、その後に大正天皇の御大典の記念として現在の白月毛に化粧され、台輪も金具付きの立派なものになったといわれます。
これらの神馬は一宮の神馬として牛馬安全の信仰が極めて篤く、神札絵馬等にして授与しています。
神馬にまつわる伝承
「いななき神馬」
深夜に社から馬のいななきと蹄の音が聞こえるので、様子をうかがうと拝殿にこの神馬が放り出してあることが度々ありました。
これは神様が神馬に乗って夜な夜なお遊びになるのだと噂がたち、「いななき神馬」の名がついたといわれます。
「稲喰神馬」 左甚五郎作
江戸時代の初期、番場ガイドの神田が毎夜田の稲を食べている馬がいる。
その馬が神社の黒馬に似ているので追っていくと走り出し、番場の納屋までいくと姿が消えてしまいました。
そしてそこの一間戸の板戸に浮彫の形で貼り付いてしまいました。これは神馬のいたずらであると考え、眼球をくり抜いたといわれます。
その戸板は拝殿に奉納され、明治初年に拝殿が破却されるまで掲げられていたと言われます。
#左甚五郎
資料集
024_028_水無神社
飛騨支路
日本国の道路が、国の制度の中に位置づけられたのは、大宝元年(701)制定の大宝律令できたとき。道路は7つ作られ、その1つである「東山道」は日本列島の背骨にあたる山地を通る道路であった。奈良から東北へと通ずる道路で政府の役人などが通るために整備された。古代の官道では、30里(この時代は約16㎞)を基準に駅家(えきや)が設置されている。この七道は大、中、小路に分類され、東山道は中路で、各駅には馬10疋(ひき)が置かれた。
この東山道は東へ進んでゆくが、美濃の方県(かたがた)付近で本道と分かれて「飛騨支路」となり、関~金山~下呂と北へ進んで飛騨国府の所在地であった現在の高山市へと続いた。戦略的に重要であったのか、わざわざ、飛騨へ通ずる道を官道としたのである。飛騨匠もこの道を通り、自己の食糧を持参したため上京15日程、帰りは荷が無いので8日程(延喜式主計上巻24参考)であった。
飛騨支路の中で、所々に石畳の残る位山道は匠街道とも呼ばれ、都から飛騨へと文化を伝え育んだ道でもあった。 「飛騨支路、東山道の駅、その推定地」
高山発(東山道飛騨支路)⇒ 石浦駅⇒ 一之宮⇒ 上留(かむつとまり)駅・上呂⇒ 下留(しもつとまり)駅(えき)・下呂⇒ 初矢峠⇒ 乗政⇒ 夏焼⇒ 菅田駅・金山町菅田⇒ 袋坂峠⇒ 武儀駅・賀茂郡七宗町加淵⇒加茂駅・賀茂郡富加町か⇒ 方(かた)県(がた)駅・長良辺り(ここから東山道)⇒ 大野駅・揖斐郡大野町⇒ 不破(ふわ)駅・濃国府・垂井⇒ 不破関⇒ 横川(よかわ)駅・米原市(ここから滋賀県)⇒ 鳥(と)籠(こ)駅・彦根市⇒ 清水駅・東近江市⇒ 篠原(しのはら)駅・野洲(やす)市⇒ 守山⇒ 草津(東海道と合流)⇒ 近江国府⇒ 勢多駅・大津市⇒ 山科駅・山科⇒ 宇治⇒ 奈良
参考文献 『地図で見る東日本の古代』(株)平凡社発行2012年
西大寺
西大寺は、奈良時代天平神護元年(765)に創建された。官大寺を総称する「南都七大寺」の1つに数えられ、2015年に創建1250年を迎えた。奈良時代、聖武天皇・光明皇后の後を継いだ娘帝の称徳天皇が「常騰を開基として鎮護国家」の思いを込めて開創し、東大寺などと並び称される寺格を誇っている。当時は広大な寺域に多数の堂塔が建ち並び、東大寺と共に栄えていたが、承和13年(846)以後数多の火災にあい、創建当時の建物はほとんど焼失した。
天平神護元年、飛騨国大野郡大領の飛騨国造高市(たけち)麻呂(まろ)が造西大寺大判官に任命されている。高市麻呂は天平勝宝元年(749)、飛騨国分寺に知識物を献じたことで外正七位下から外従五位下に叙せられた人物で、西大寺に大野郡の墾田を寄進している。西大寺の造営には高市麻呂のもと、高市麻呂の故郷の飛騨匠が動員されたことであろう。
中世・鎌倉時代には、稀代の高僧・叡尊(えいそん)が出て、密教において戒律を重視した教え(後の‶真言律〟)を広め、「興法(こうぼう)利生(りしょう)」をスローガンに独自の宗教活動を推進している鎌倉時代に叡尊により復興されたが、戦国時代には再び火災で焼失した。現在残っている本堂(重文)、愛染堂(重文)、四王堂(重文)などは江戸時代中期に建てられたもの。叡尊が始めた「大茶盛」の寺としても有名である。現在の寺域は約1万坪と広い。
奈良時代に本願称徳天皇(女帝、退位後再び即位して孝謙天皇)の「鎮護国家」の願いによって創建された。鎌倉時代に叡尊(諡号は興正菩薩)上人の「興法利生」の場として復興された。
鎌倉時代の律宗の僧。律宗中興の祖。字は思円。西大寺で受戒し,戒律によって非人,乞食の救済を志し6万人余に授戒したという。著書に『梵網古迹文集』 (10巻) ,『感身学正記』 (3巻) などがある。弘安4 (1281) 年の蒙古来襲時に神風を祈願したことでも知られている。
資料集
025_030_西大寺(奈良時代)
西隆寺
西隆寺(さいりゅうじ)は、奈良時代に平城京に造営された尼寺。称徳天皇の発願によって神護景雲元年(766年)に造寺司(造西隆寺司)が設置され、西大寺そばの右京一条二坊の地4町に建立された。
創建当時は官寺として他の諸大寺と同様の扱いを受けた。桓武天皇も封戸を施入するなど厚い保護を受けていたが、次第に衰退し、元慶4年(880年)には西大寺の管下に入った。鎌倉時代には廃寺となった。
昭和46年(1971年)に発掘調査が実施され、金堂や塔などの跡が確認された。 飛騨匠が工事に参加していたことを示す木簡が出土している。西隆寺東門地区から出土し、その内容は「—斐太工三人○豊岡/宿奈万呂—」である。
巨大商業施設『ならファミリー』店舗内通路に、西隆寺の柱位置が床に表示されていて興味深い。南大門の北には楼門型中門、金堂、講堂が一直線に並び、南大門北東に三重塔が建ち、さらに廻廊が左右に廻って講堂に取り付く。東寺に似た伽藍配置であった。寺域は東西、南北いずれも約250mほどを占めている。
参考文献 中井真孝「西隆寺」(『日本史大事典 3』(平凡社、1993年))
石野博信「西隆寺」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年))など
資料集
026_031_西隆寺(近鉄ファミリー)
大極殿
大極殿は古代の宮都における中心施設で、元日朝賀(ちょうが)や天皇の即位など、国家儀式の際に天皇が出御する場所である。平城宮には、造営当初から恭仁(くに)京(きょう)へ遷都するまでの大極殿(第1次大極殿)と、平城京に遷都してから長岡(ながおか)京(きょう)に遷都するまでの大極殿(第2次大極殿)の2つの大極殿が確認されている。
第1次大極殿院は、南北約320m、東西約180mの区画で、北側を1段高くし大極殿と後殿(こうでん)を南北に配置している。壇の南側は儀式の際に貴族が整列した広場である。これは、唐(とう)長安城(ちょうあんじょう)大明(だいめい)宮(きゅう)含元殿(がんげんでん)にならって造られたと考えられている。周囲は築地(ついじ)回廊(かいろう)で囲まれ、南面には南門とその東西に楼閣を構えていた。平城遷都1300年にあたる平成22年(2010)、大極殿の建物が復元され、現在公開されている。
この東側の楼閣を建てるにあたって飛騨匠が携わっていたことが木簡によって分かった。
木簡の出土場所は平城宮中央区朝堂院東北隅で、内容は「造東高殿□飛騨工□」とある。東高殿は大極殿に取りつく回廊の南面、東側の楼閣のことである。現在、さらに楼閣建物の復元工事が長期計画で進められている。
第1次大極殿の建物は、恭仁京遷都の際に回廊と共に解体され、移築された。その後、恭仁宮大極殿は山城(やましろ)国分寺(こくぶんじ)に施入されている。
「『平城宮 第1次大極殿 リーフ』独立行政法人 国立文化財機構 奈良文化財研究所 2010年発行」より
資料集
027_032_大極殿
朱雀門
7世紀にできたとされる古代の街道「下(しも)ツ(つ)道(みち)」は、藤原京からまっすぐ北にのびて平城京の正門(せいもん)である羅(ら)城門(じょうもん)につきあたる。羅城門をくぐると、幅75mもの朱雀大路がまっすぐ北へのびていた。街路樹として柳の木が植えられていたといい、羅城門から4km先には平城宮の正門である朱雀門がそびえ建つ。
朱雀門の左右には高さ6mの築地(ついじ)塀(べい)がめぐり、約1km四方の広さ、130haの広さをもつ平城宮を取り囲んでいた。朱雀門の前では新羅(しらぎ)や唐(とう)といった外国使節の送迎、都の男女があつまって、恋の歌をかけあうのを天皇がみるというイベントもここで行なわれた。元日には儀式があり、天皇が朱雀門まで出向き、新年のお祝いをすることもあった。朱雀門は衛士(えじ)によって守られ、いつもは開いていなかった。平城宮12の門のうち、最も重要な門であった。平城宮の正門としてその雄姿を誇示していた。
朱雀門の位置と規模は、1964年度の発掘調査で初めて確認された。その後も調査が続けられ、1989年度には復原整備を控えて、全面の再発掘が行なわれた。
明らかになった朱雀門は、柱と柱の間の中心間距離がいずれも17尺(約5m)で、正面5間(約25m)、奥行2間(約10m)の規模をもつ。平成10年度に復元建物が竣工した。
「『平城宮 朱雀門』独立行政法人 国立文化財機構 奈良文化財研究所 2010年発行」より
資料集
028_033_朱雀門
唐招提寺
・唐招提寺は天平宝字3年(759)、唐の高僧鑑真大和上によって創建された。飛鳥時代に仏教が伝来して以来、戒律は概念として知られながらも、さほど重視されていなかった。奈良時代に入り、その重要性が知られ始めたが、日本には授戒を行える僧侶がおらず、授戒の体制整備が急がれた。鑑真和上は朱鳥2年(688)、中国揚州で誕生、14歳の時、揚州の大雲寺で出家。21歳で長安実際寺の戒壇で弘景律師に授戒を受けたのち、揚州大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽に並ぶ者のない律匠と称えられていた。
そこで興福寺の栄叡(ようえい)と普(ふ)照(しょう)が唐へと渡り、南山律宗の継承者である鑑真に、伝戒師としての来日を要請。鑑真は聖武天皇の願いに応えて来朝を決意、5度の渡航失敗の後、来日決意より10年後の天平勝宝5年(753年)、65歳でついに九州へと上陸を果たす。鑑真は5年間東大寺に座し、天皇や僧侶400人に戒律を授け、天平宝字3年(759年)、戒律を学ぶ為の道場である唐招提寺を開いた。律宗総本山としてその法灯を今に伝える。国宝金堂の背後には、教義を説く為の講堂が建てられている。
この講堂は、平城宮の東朝集(ちょうしゅう)殿(儀式に出席する臣下の控え室)であったものを、平城宮改修の際に下賜され、天平宝字4年(760年)頃に唐招提寺へ移築したものである。大幅な改修が施されているが、平城宮の唯一現存する宮廷建築として非常に貴重である。
参考資料『唐招提寺 リーフレット』
・平城宮展示施設に創建当時の東朝集殿が復元されている。この朝集殿は、屋根勾配は緩やかで、ゆったりとした印象である。柱はひとまわり太く、扉は厚板の板であった。
平城宮から移され、唐招提寺の講堂として生まれ変わった。そして宗教施設として大改造がなされ、建具が入り、屋根は切妻造りから入母屋造りに改められた。この講堂は鎌倉時代に大修理されている。
*平城宮跡 説明版より
・鑑真和上は759年に、新田部親王旧宅の地を賜って開創した。境内には現在、天平建築の金堂、平城京から移築された講堂、三面僧坊東室の後身とされる礼堂、元経堂と推定される鼓楼、創立当時からの校倉2棟、境内西部に石造戒壇などが遺る。山内には80件700点余に及ぶ国宝、重要文化財が遺存する。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.2.1