金森左京家
① 左京家の飛騨時代
金森本家の始祖金森長近の後に本家二代となった金森可重は、高山市の北部にある高原郷に勢力を持っていた江馬氏十六代の江馬輝盛の娘を側室としていた。その側室が生んだ子が可重の五男、重勝である(富田礼彦編『斐太後風土記』)。
彼は父可重に従い、異母兄の三男重頼とともに大坂冬の陣・夏の陣へ出陣した。その後元和元年(一六一五)七月、兄重頼が父可重の領知を継承し、飛騨国を領有した。
その時、兄重頼の領内より同年三千石を内分知として割(さ)き与えられ、金森左京家として分家した。重勝が金森左京家の始祖となり、以後十一代にわたり幕末まで続いた。
江戸幕府が寛永十八年(一六四一)編集に着手した家譜書「寛永諸家系図伝」(日光叢書)によれば、金森重勝の項に次のような記録がある。
重勝
左京亮
重頼於領国之内分与三千石于重勝
慶長十九年奉謁
大権現(家康)
台徳院殿(秀忠)
大坂両御陣供奉
寛永三年奉仕
すでに慶長十九年(一六一四)には家康・秀忠に初御目見をしていた。そして寛永三年(一六二六)には将軍家に勤仕することになり、内分知であったため将軍から領知朱印状を拝領せずに、幕府へ出仕するという方法で旗本になった。
このように江戸前期には、大名の子息が旗本に取り立てられる場合は多かった。これは軍事拠点の警固や行政機構の発展等により、旗本増員の必要があったからである。それには幕府財政の負担にならないように、本家である大名の領知の一部を割き与えるという形で、旗本の増員が行なわれた。
金森左京家へ内分知されたのは高原郷三千石であった。この地域はもともと江馬氏が統治していた。前述のように金森左京家の祖である重勝の母は、江馬氏十六代の江馬輝盛の娘で、重勝の父可重の側室となっていた。高原郷は高山の北方、旧神岡町と旧上宝村・奥飛騨温泉郷にまたがる地域であった。この高原郷内の釜崎(現在は飛騨市神岡町釜崎)は交通の要所であり、高原郷の中心地であった。金森左京家は釜崎に陣屋を置いて統治した。町内に地元の人々が建てた「金森重勝三代居館址」という木製の標柱が建てられている。
高山町内における左京家の屋敷は、「まちの博物館」(住香草文庫)所収の「高山城下町絵図」によれば、三か所記されている。金森初期に左京の元屋敷があったと考えられるのが、江名子川上流の錦山神社付近にあった最初の屋敷である。またその次の時代に左京屋敷があったと考えられるのが、江名子川沿いの高山市島川原町にある「川上別邸史跡公園」付近である。ここは東西二町余、南北一町余の広大な屋敷跡であったという。また最も広大な屋敷として描かれているのが、現在の左京町から桜町にかけての桜山八幡宮付近の屋敷である。左京家は高原郷の中心である釜崎、そして高山の町内に、また旗本であるため江戸に左京屋敷は存在したのである。
金森本家六代頼旹(よりとき)の代の元禄五年(一六九二)に、幕命により飛騨国より出羽国上山(山形県上山市)へ転封になった。出羽国では金森本家は三万八千七百石余であったが、そのうち左京家の領知は本家の領知に含まれた三千石であった。
しかし金森本家は元禄十年(一六九七)統治わずか五年で、美濃国郡上八幡へ再び転封となった。その領知は美濃国郡上郡や越前国大野郡にまたがり、左京領三千石を含む三万九千石であった。頼旹は元文元年(一七三六)に亡くなり、孫の頼錦が七代藩主となった。
② 左京家の郡上八幡時代
左京屋敷があったのは、現在「左京稲荷神社」が存在した付近であるといわれている。この地は郡上市八幡町島谷で、字名に左京という名が残っている。この付近に金森左京の屋敷があったという。
八幡郵便局の近くにある「左京稲荷神社」の由来書によると「このあたりは、旗本三千石金森左京の屋敷跡であったので、(この付近は)左京町といわれている。金森左京は、もと郡上藩主金森頼錦の分家である。この稲荷神社は、金森左京の守護神であった。今も一家の繁栄を願う多くの人々から崇敬されている。」とあり、左京家の屋敷神であったという。現在も越前市白崎町にある金森左京家十三代の金森 穣(みのる)氏の屋敷には屋敷神として稲荷神社が立派に祀られている。
本家七代金森頼錦の代には、郡上郡百二十一か村と越前大野郡内六十九か村の領知あわせて三万九千石を統治した。
その内、左京家は美濃国郡上郡阿久田(あくだ)村などの五か村五百六石七斗八升七合と越前国大野郡細野村など七か村の二千四百九十三石二斗一升三合で合計三千石を給知された。ただし内分知であるので、越前国の「元禄郷帳」では左京領とは記されず、本家の郡上藩領となっている。
③ 越前金森左京領の成立
それまで左京家は内分知であり、幕府財政の外側であったが、本家の改易にもかかわらず、幕府領より直接三千石が与えられた。幕府の特別の措置であった。
金森左京家四代可英は、宝暦九年(一七五九)六月に幕府は、越前国南条郡・今立郡の内七か村を金森左京家の知行所とした。内分知ではなく、越前国において独立した領知支配である。その七か村は次の通りである。すべて元幕府領であった村である。
南条郡
白崎村 (越前市白崎町) 九百三十五石七斗八升六合
清水村 (南越前町清水) 四百二十七石九斗二升六合
牧谷村 (同 牧 谷) 六百八石四斗六升八合
今立郡
上大坪村 (越前市上大坪町)百四十石一斗七升九合
萱(かや)谷村 (同 萱谷町) 二百三十四石四斗三升九合
大手村 (同 大手町) 二百二十一石七斗三升
西尾村(分郷)(同 西尾町) 五百四石一斗一升
合計 三千七十二石六斗三升八合
( )内は現在の地名
宝暦八年「成箇郷帳写」「金森可英知行所成箇郷帳写」より
ちょうど三千石ではなく、七十二石六斗三升八合を余計に給知されている。これは込高(こみだか)といって、知行所替の際に新しい知行地の年貢収納率(免)が低い場合、収入が減少しないように以前と同じ高にするため、余分に与えられた増高である。このような暖かい配慮があったという。
寄合衆とに分かれるようになった。前者は格式が高い家柄の名門の家が多かった。左京家はこの表御礼衆に属していた。交代寄合表御礼衆は、明治維新までに全国で二十家を数えた。左京家のような大名の分家であった家以外に、松平家の一門・譜代の家、織田・豊臣系の家臣、中世以来の豪族、守護大名系の家が属していた。
江戸城中では交代寄合表御礼衆の詰所は帝鑑の間や柳の間であり、左京家の詰所は柳の間で、そこは位階四位以下の外様大名や高家の詰所であった。左京家はまさに大名扱いであった。また江戸城において、大名と同様に表白書院で将軍に拝謁・御礼ができるので、表御礼衆と呼ばれた。
④ 江戸の金森左京屋敷
左京家の拝領屋敷は、芝三田魚籃(ぎょらん)坂下の江戸三田田島町(東京都港区白金一丁目三付近)にあった。延享四年(一七四七)の屋敷図によれば二千四百坪余りあった。左京家屋敷は規定より多くの坪数があり、優遇されていたものと考えられる。しかし屋敷図を見ればその坪数は多いが、屋敷の建坪は少なく、空き地が多かった。そこでこの空地を利用して自家用の野菜を栽培することは、他の武家屋敷と同様に公認されていた。
左京家の江戸屋敷は天保十五年(一八四四)安政四年(一八五七)の「江戸切絵図」によれば、三田魚籃下、現在の町名で言えば白金一丁目三付近で「西原病院」がある地であろうと考えられる。近くに古川が流れ、そこにかかる「四の橋」のやや南東にあたる場所である。現在古川の上には首都高速二号目黒線が走っている。その付近は病院やマンション、小さな町工場があって、とても武家屋敷の存在した地域とは考えられない。
金森家一族の菩提寺は左京屋敷に程近い、東京都渋谷区広尾にある臨済宗大徳寺派の祥雲寺であった。この寺は福岡藩主の黒田長政をはじめとする、多くの大名の墓が見受けられる。金森家にとって、あくまでも江戸における菩提寺であり、墓も「源姓金森累世之塔」となっており、江戸屋敷に関わる金森家全体の墓(金森家の総墓)とも考えられる。
京都には金森長近をはじめとする金森家歴代の墓が、同じく大徳寺の塔頭龍源院内にある。もとは同寺塔頭の金龍院に墓があったが、そこが京都市立紫野高校のグラウンド整備拡張事業のため、龍源院に墓は移された。
明治維新に際し、交代寄合表御礼衆二十家の中にあって、維新後の一万石への高直しを早急に行なって一万石を認められ、もと大名として華族となった家が、生駒家や平野家など六家があった。金森左京家は三千石であったため、さすがに一万石には届かなかった。左京家は藩主並の家格を持っていたため、華族昇格を他の表御礼衆とともに、維新政府に歎願したが認められず、左京家十一代の近明はさぞ悔しかったにちがいない。
家臣の中には帰農する者、東京に出て商工業に従事する者等さまざまであった。白崎町の左京家菩提寺の金剛寺へのお盆参りには家臣の子孫も年々少なくなっているという。
領主の城郭風の居館は破却され、居館東側にあった重臣達の屋敷もなくなった。十一代近明は重臣とともに小高い下荒井地区の居館から出て、白崎村平地の暦所地区に移り、家老や重臣と一緒に屋敷を建て生活をした。
大正十四年(一九二五)五月、牧谷村のかつて御用達役を務めた宮地儀兵衛らが中心となり、統治下七か村の有力者等から募金を行い、居館跡に神社風の「金森家之碑」を建てた。それも碑は故郷高山の方角に向いている。
『高山市史・金森時代編』より
関連資料
2-7 金森左京家
資料集
075_284_金森氏の分家・金森左京屋敷
越前大野城跡
越前大野城跡は、大野盆地の西側に位置する標高約250mの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城跡である。織田信長の部将、金森長近により天正年間(1573-1593)の前(ぜん)半(はん)に築城された。
越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、天主閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式(しき)の城(しろ)であった。
江戸時代の絵図には、本丸の望楼付き2層3階の大天主と2層2階の小天主・天狗櫓などが描かれている。本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる「野面積み」と言われるものである。
江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775)に本丸も焼失したが、寛政7年(1795)に再建された。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみがのこされた。
説明板より
市指定史跡 戌山城址
戌山城は、室町時代に幕府の重臣(管領)斯(し)波(ば)氏の一族によって築かれ、織田信長の部将金森長近が亀山山頂に大野城を築くまで、越前美濃国境間の要として重視されていた。
途中、斯波氏の内紛を機に朝倉氏の居城となったが、それは、三代目城主持種の子である斯波義敏との家督争いが発端となり、応仁の乱の一因になったともいわれる。
主郭のある山頂からは大野盆地が一望に見渡せ、郭群・堀切・竪堀などの遺構も確認できる。
登山口横にある「みくら清水」は、山頂の兵が日に3度飲料水を汲みに来た、という言い伝えでこの名がついている。
平成12年3月 大野市教育委員会
説明板より
関連資料
2-6-1 越前大野城あと
2-6-2 越前大野城城主
2-6-3 金森長近
2-6-4 百間坂
2-6-5 武家屋敷旧内山家
2-6-6 名水百銭 御清水
2-6-7 御清水
2-6-8 戌山城址
2-6-9 戌山城址主郭部
資料集
岐阜城
(岐阜城)史跡の概要
岐阜城跡は、金(きん)華(か)山(ざん)(稲(いな)葉(ば)山(やま))に築かれた山(やま)城(じろ)で、稲(いな)葉(ば)山(やま)城(じょう)、井(い)口(ぐち)城(じょう)とも呼ばれていた。戦国時代に美(み)濃(の)国(こく)を治めた斎藤氏の居城であるとともに、織(お)田(だ)信(のぶ)長(なが)が天下統一の拠点とした城としてもよく知られている。
建(けん)仁(にん)年間(1201~1203)頃に二(に)階(かい)堂(どう)氏(し)が最初に城を築いていたと言われているが、実態は不明である。大永5年(1525)頃、ここが守護方と長井氏の争いの舞台になったため、少なくともこのころには城として利用されていたと考えられる。天文5年(1536)には斎(さい)藤(とう)道(どう)三(さん)が拠点としていたことが分かり、以後は義(よし)龍(たつ)・龍(たつ)興(おき)と、斎藤氏3代の居城となった。永(えい)禄(ろく)10年(1567)、斎藤氏を追放し美濃を攻略した信長が、城に大きく改修を加え、岐阜城と名を改めた。その後、慶(けい)長(ちょう)5年(1600)の関ケ原合戦の前哨戦で落城し、廃城となっている。
信長入城後の改修には、石垣のほか巨(きょ)石(せき)列(れつ)を用いるなど、その構築技術に近世的な要素がうかがえる。また、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスや京都の公家である山(やま)科(しな)言(とき)継(つぐ)等の訪問記録が残されている点、山麓では貴重な庭園遺構群が見つかっている点も、岐阜城跡の特徴と言える。
岐阜城の城域は、ほぼ現在の金華山国有林の範囲に相当し、山麓居館を含めた約209ヘクタールが史跡指定範囲となっている。居館跡や自然地形も含めて、山全体が城として機能していたことが分かる。
説明板より
信長公の居館跡
信長公の居(きょ)館(かん)跡(あと)では、これまでに5か所の庭(てい)園(えん)跡(あと)が見つかっているが、平成25年度に調査されたA地区のものが最大の規模を有する。大規模な池の背後には、高さ20mを超える自然の岩(がん)盤(ばん)を加工して巨大な背景として用いている。岩盤には2筋の滝が流れ、池に注いでいたとも考えられる。また橋に関連すると考えられる遺構の発見により、中(ちゅう)心(しん)建(たて)物(もの)があるC地区とは橋によって結ばれ一体として利用された可能性が高くなってきた。このような庭園は他に類のないものであり、信長居館の特徴の一つとなっている。
説明板より
川原町(湊町・玉井町・元浜町)の由来
長良川の川(かわ)湊(みなと)として繁栄した川原町は、古くは中河原(なかかわら)と呼ばれ、ここを貫いている表通りは中世からの古い道筋で、斎藤道三公、織田信長公の城下町の時代には市場も開かれていた。
近世から近代を通して、上流からの和紙や木材などを扱う大きな商家が軒を連ね、長良川流域の拠点として栄えた。落ち着いた佇まいを見せる町並に、切(きり)妻(づま)平(ひら)入(い)り、窓に格(こう)子(し)を施し、壁を真(しん)壁(かべ)造(づくり)漆(しっ)喰(くい)仕上げにした伝統的な町家が並んでいる。
今、あなたが立っているこの広場一帯は、かつては長良川の遊水地となっていて、木材や鵜飼観覧船なども入り込んでいた。商家の裏側には玉石垣の上に黒壁土蔵が並んでおり、川とともに生きてきた営みを今に伝える。
ここから仰ぎ見る金華山は、今も昔も変わらぬ姿で聳(そび)えている。緑の山麓の合間に望む朱色の三重塔は、大正天皇の御即位を記念したものである。風(ふう)光(こう)明(めい)媚(び)な金華山において、町家の中から最も美しく見えるポイントとして指示したのは、川原町の商家に逗(とう)留(りゅう)していた日本画家の川合玉堂画伯である。
長良川と金華山に抱(いだ)かれた川原町は、古くからの伝統を受け継ぎ、未来に伝えるまちとしてここにある。
川原町町づくり会
説明板より
正法寺の文化財
金(きん)鳳(ぽう)山(ざん)正(しょう)法(ぼう)寺(じ)は、この地に1683(天和3)年に開山始祖・廣(こう)音(おん)和尚が草庵を結んだことに始まり、1692(元禄5)年に千(せん)呆(がい)和尚を開山に迎えて創建された黄(おう)檗(ばく)宗(しゅう)の寺院です。江戸時代以来の境内地を現在も継承しています。
国重要文化的景観 長良川中流域における岐阜の文化的景観(重要な構成要) 平成26年3月18日選定
日本遺産「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜(ストーリー構成文化財)
平成27年4月24日認定
岐阜県重要文化財 昭和49年3月6日指定
籠(かご)大(だい)仏(ぶつ)附(つけたり)木(もく)造(ぞう)薬(やく)師(し)如(にょ)来(らい)坐(ざ)像(ぞう)(籠大仏)像高 13.7m (薬師如来)像高61cm 台座 23cm
江戸時代後期に、塑(そ)像(ぞう)、漆(しっ)箔(ぱく)により造立された国内最大規模の籠大仏である。第11代惟(い)中(ちゅう)和尚と、第12代の肯(こう)宗(しゅう)和尚の2代にわたる約38年の歳月を費やし、1832(天保3)年に開眼供養が行なわれたという。
大仏は、胎内の骨格を木材で組み、竹材を編んで外形を作る。その上に粘土を塗り、惟中和尚が各地で集めた一切経を貼り付け、更に漆と金箔を重ねて仕上げている。また、「大(だい)真(しん)柱(ちゅう)」と呼ばる周長6尺(直径約57cm)の銀杏(いちょう)の木の柱を大仏の背面に建て、台座から胎内を通して大仏殿第3層の下部まで垂直に立てて支えている。
最大仏の胎内仏として、桧(ひのき)材を用いた一(いち)木(ぼく)彫(ちょう)成(せい)の薬師如来坐像が安置されている。右手は施(せ)無(む)畏(い)印(いん)を結び、左手は屈臂(くっぴ)して左膝の上に置き、薬壺(やっこ)を持ち、二重の蓮(れん)華(げ)座(ざ)に結(けっ)跏(か)趺(ふ)座(ざ)した姿である。姿や顔立ちから、平安時代後期の製作と推定される。
岐阜県重要文化財 昭和49年6月12日指定
木(もく)造(ぞう)阿(あ)弥(み)陀(だ)如(にょ)来(らい)坐(ざ)像(ぞう) 像高 55cm 台座 35cm
籠大仏の御(お)前(まえ)立(だち)で、平安時代後期の製作と推定される。桧材の一材から彫り出し、底部に深く内(うち)刳(ぐ)りがなされている。上(じょう)品(ぼん)上(じょう)生(しょう)印(いん)を結び、二重の蓮華座に結跏趺座した姿である。
全体に一木造りの重厚さを遺し、和(わ)様(よう)を穏やかにまとめた表現がなされている。
岐阜市重要文化財 平成27年4月7日指定
正(しょう)法(ぼう)寺(じ)大(だい)仏(ぶつ)殿(でん) 構造 木造3層 規模 梁間19・16m×桁行19・18m×高さ23.60m
明(みん)朝(ちょう)様式と和様が融合した江戸後期の建物である。大仏の構造上、大仏を造立する段階から風雨を凌ぐ覆(おおい)屋(や)が不可欠であることから、大仏造立と併行して大仏殿の造営が進められたと考えられる。
大仏殿の中心部には、高さ23mを超える大仏を収めるために、大きな空間が形成されている。また、大仏の周囲を巡ることができる構造の回廊など、他の大仏殿に無い特殊な形態がみられる。(回廊は通常使用できない)
1876(明治9)年、第13代の椈(さく)泉(せん)和尚のもとで有志を募って大仏殿の大修理が行なわれ、現在の姿に改築された。
平成28年3月 岐阜市教育委員会
説明板より
関連資料
2-5-1 岐阜城の歴代城主
2-5-2(岐阜城)史跡の概要
2-5-3 信長公の居館跡
2-5-4 川原町の由来
2-5-5 正法字の文化財
資料集
飛騨高山の城主 金森長近
金森長近は大永4年(1524)美濃国で生まれ、大畑家の次男として一家で金ヶ森に移って来る。その後18歳まで居たとされている。そして織田信長の桶狭間の戦いに参戦、金森長近と名乗るようになった。信長の死後、豊臣秀吉に仕え再び戦功をあげて飛騨の国の城主になる。
説明板より
川那辺氏と金ヶ森城
金ヶ森城は現在の城の下団地「城ノ下」にあった。城主は川那辺氏で「建武3年(1336)湖上輸送権をめぐる戦いの時、金ヶ森城主川那辺厚高とその弟厚房は武勲をたてた」(守山市史)とされている。
説明板より
道西と苦菜会
道西は金森の地で応永6年(1399)産声をあげる。親鸞の教えを求めて歩んだ道西の姿を蓮如上人御一代記聞書が詳しく紹介している。苦菜会は金森を代表する伝承行事で、蓮如の遺徳を偲んで毎年3月上旬、500年以上継続している。
説明板より
蓮如に関する伝説
蓮如が戦国乱世の時代を生きた湖国の人々の心を、いかに深く、強くつかんでいたかを知るものとして蓮如に関する伝説がある。「蓮如ぶきの屋根」もその一つであるが、現在分かっているものだけで、近江18市町で32話もある。
説明板より
関連資料
名古屋城
名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代の城主は、江戸幕府を開いた徳川家康の第九男義直である。慶長14年(1609)、家康みずから築城を決定し、翌15年に石垣普請が着工され、17年に大小の天守や各櫓が完成した。普請を命じられたのは加藤清正ら西国の大名20名で、城内の石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っている。
慶長20年(1615)に本丸御殿、元和3年(1617)には二之丸御殿が完成し、二之丸御庭、御深井御庭なども整備され、名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせた。
明治維新後、名古屋城は陸軍省の所管となり、名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれたが、明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となった。昭和5年(1930)12月、名古屋市内に下賜されると同時に国宝に指定され、翌年から一般公開が始まった。昭和7年(1932)には、名古屋城全域が特別史跡に指定された。
昭和20年(1945)5月、第二次世界大戦末期の空襲により、天守や本丸御殿など国宝建造物24棟が焼失したが、焼失を免れた隅櫓と3つの門、空襲の直前にとりはずされていた本丸御殿障壁画1047画が、戦後重要文化財に指定された。
昭和34年(1959)、天主閣と正門が、ほぼ昔どおりの外観で再建された。
平成21年(2009)には本丸御殿の復元工事が始まり、平成25年(2013)に玄関・表書院部分が完成した。現在も、平成30年(2018)の全体完成をめざし工事を進めている。
説明板より
二ノ丸大手二之門
この門は二之丸西側にある枡形の外門となるもので、内門である大手一之門(現存せず)と共に古くは西鉄門といわれ、二之丸正門を形成していた。俗に枡形御門をもいい、一間一戸、屋根切妻造本瓦葺で、高麗門の形式をとる。
なお、二之丸東側には東鉄門と称されていた二之丸東二之門があったが、現在は本丸東二之門跡に移築されている。
共に国の重要文化財に指定されている。
名古屋市教育委員会
説明板より
勝幡城跡地
この勝(しょ)幡(ばた)城跡地は信長の祖父織田信定公が「天の利」「地の利」「和の創造」を実行する拠点と決め、津島港と尾張国府(稲沢市)の松下とを三宅川で往来し、尾張西部を手中とした。
信長の父信秀公が津島を拠点にして勢力を拡大し巨万の富を権勢拡大に使い尾張の雄となった。
信長の誕生は1534年5月、平手政秀公による養育で「うつけ」として就業し情報を万人よりもらい天下人となり平定に努めた。
2010年3月「信長生誕を育む会」を結成、多くの方々の御協力により戦国時代の「砦」を当地に再現し永遠の記念とする。
2010年3月20日
信長生誕を育む会
会長 野島精二
説明板より
関連資料
美濃土岐氏、多治見の大畑時代
①岐阜の土岐氏
長近の父定近は、美濃国守護、土岐氏の氏族であった。土岐氏は平安時代、岐阜市茜部周辺で活動していた源氏の一族で、鎌倉時代初めまでには土岐郡(瑞浪市)あたりに住み、土岐氏を名乗る。南北朝の争いには北朝の武将として足利尊氏のもとで功績をあげ、美濃国の守護になった。その後、力が弱まり、最後は斎藤道三によって美濃国から追い出され、土岐氏の時代が終わっている。
岐阜県岐阜市長良・長良公園は土岐氏の福光城跡で、長良川をはさんで岐阜城が見える。美濃国守護土岐氏は福光城から独立丘陵「鷺山」までの空間に町(鷺山遺跡群)を建設した。発掘調査で家臣の屋敷地や宗教施設などが見つかっている。
②土岐成頼(しげより)
土岐成頼は金森長近の曾祖父である。
土岐成頼は康正二年(一四五六)十五歳で、美濃国守護土岐持益の養子となり、左京大夫美濃守となった。応仁の乱では山名氏に従い、始終京都にあって西軍の有力武将として十一年間転戦した。文明九年(一四七七)和平成立後、足利義視、義稙父子をと
もなって帰国した。明応六年(一四九七)五十六歳で病没し、瑞龍寺(ずいりょうじ)に葬られた。
瑞龍寺が所蔵する成頼像は没後に描かれたもので、曲録に座す僧侶の姿で描かれている。賛は東陽英朝(一四二八~一五〇四)のもので、文中に「岐阜鍾秀」とあり、信長入城以前に「岐阜」が地名として使われた史料としても注目されている。
③斎藤妙椿(みょうちん)
斎藤妙椿は土岐家の守護代で、主君成頼が京都で転戦している間、在国し支配権を確立、さらに近江、越前など近国にも勢力を拡大していった。他方、歌人でもあった妙椿は文化人の保護者でもあり、美濃で連歌が華やかに行なわれた時代を築いた。応仁元年(一四六七)頃、主君成頼のために瑞龍寺を建立した。妙椿は、文明十二年(一四八〇)七十歳で没しここに葬られた。
④成頼の菩提寺 瑞龍寺
瑞龍(ずいりょう)寺は斎藤妙椿が土岐成頼(一四四二~一四九七)の菩提所
として悟渓宗頓(一四一六~一五〇〇)を実質的な開山として創建した禅宗寺院である。後に美濃地域の臨済宗妙心寺派の中核寺院として同派を束ねていくことになった。
⑤斎藤道三 明応三年(一四九四)~弘治二年(一五五六)
名は利政、のち秀龍といい、晩年入道して道三と名乗った。山城の出身で、日蓮宗妙覚寺と深い関係を持ち、山崎屋と号して油売りを業としたと伝えられる。美濃守護土岐氏の老臣斎藤利安の門に出入りするうち、利安の臣西村家を継ぎ、次いで享禄三年(一五三〇)利安を殺して新九郎利政と名乗り、天文七年(一五三八)守護代斎藤氏を攻めた。天文十一年(一五四二)美濃守護の土岐頼芸を追い、美濃を押領したが、長男義龍と長良川で戦い敗死。織田信長の室は道三の娘である。
※斎藤義龍 大永七年(一五二七)~永禄四年(一五六一)
斎藤道三の子。母「三芳野」は美濃守護土岐頼芸の側室で義龍を宿して道三に嫁して後に生んだといわれる。はじめ新九郎高政と称し、長じて父道三と不和となり、弘治元年(一五五五)おじ長井道利とはかって道三に背き、翌年長良川に戦って父を討ち、美濃を制圧した。永禄二年(一五五九)から織田信長と争ったが病死。
※⑤、⑥は「『角川日本史辞典』第二版 ㈱角川書店 一九九一年発行」を参考とした。
⑦大桑城
(⑦は『越前大野城と金森長近』四頁より)
土岐成頼(しげより)の二男(土岐)定頼は、兄である美濃守「土岐政房」に仕えて「大桑」に居を構え、大桑兵部大輔定頼と改称した。
土岐氏は室町幕府の初期に、土岐頼康(八代)が足利高経の軍に転戦している。頼康、康行の頃、美濃、尾張、伊勢の三国の守護となり、東海随一の守護であった。
土岐氏十五代「政房」の長男「政頼」は、天文十六年(一五四七)頃、斎藤道三と戦い、大桑の居城を追われたが、越前の朝倉孝景の援助を受けて城に帰ることができた。
しかし、「政頼」は若くして亡くなってしまったため、弟である「頼芸(よりあき)」が十六代を継ぎ、再び道三と戦ったものの、大桑城を追われてしまう。そして美濃から甲斐の武田信玄のもとへと走った。
⑧ 土岐氏からの系図
(⑧は『越前大野城と金森長近』四頁より)
⑨ 多治見市大畑の時代
(⑨『越前大野城と金森長近』四頁より)
明応(一四九二~一五〇一)の頃に「定頼」は多治見大畑に移り、采女「定近」をもうけている。『文三郎金森系譜』によれば、「定頼」は一時商売をしていたとも伝えている。この頃の土岐氏は守護として勢力を持っていた。
「定近」は多治見にいる時、斎藤一族の女との間に、大永四年(一五二四)、長近をもうけた。この頃になると土岐氏は衰退の時代であり、長近は父定近とともに多治見で苦労を重ねたが、ついに滋賀県の金ヶ森に移り住むことになる。
『高山市史・金森時代編』より
虎渓山永保寺
およそ650年前、夢想国師を開祖とし、その法弟、仏徳禅師の開山で、起伏する山水の美は、中国慮山の虎渓に似たところから名付けられ、心字池に架かる無際橋は屋形を配して珍しい。
池畔のいずれからみても景観に優れ、構成の巧みさ、視界におさまる広さといい、名園の一言につきる。
多治見西ロータリークラブ
天下取りの拠点 岐阜城年表
建仁年間(1201~1203)頃、二階堂氏が稲葉山に城を築いたといわれている。
1525 大永5 永井藤左衛門尉長弘・新左衛門尉、守護土岐氏、
守護代斎藤氏を追放
1535 天文4 このころ斎藤利政(道三)が稲葉山城に拠点をおく
1544 天文13 土岐次郎・朝倉氏・織田氏が斎藤道三を攻めるが、井口の合戦で敗退
1553 天文22 斎藤道三、織田信長と富田・聖徳寺で会見する
1554 天文23 斎藤道三、家督を利尚(義龍)に譲る
1556 弘治2 斎藤義龍に攻められ、斎藤道三敗死(長良川の合戦)
1561 永禄4 斎藤義龍病死。子の龍興が跡を継ぐ
1564 永禄7 斎藤龍興、竹中半兵衛らに稲葉山城を占拠され、一時退城
1567 永禄10 織田信長、稲葉山城を攻略して入城、大規模な改修を行う。町の名を
井口から岐阜と改名
1569 永禄12 ルイス・フロイス、岐阜来訪
1576 天正4 織田信長、安土城へ移り、嫡男織田信忠が跡を継ぐ
1582 天正10 本能寺の変(織田信長・信忠自刃)織田信孝(信長三男)入城
1583 天正11 池田元助入城
1585 天正13 池田輝政入城
1591 天正19 豊臣秀勝入城
1592 文禄元 織田秀信(信長嫡孫、信忠の子)入城
1600 慶長5 関ヶ原の合戦の前哨戦で落城 以後廃城となる
岐阜町及び金華山は尾張藩領として幕末に至る
1910 明治43 模擬天守建造
1943 昭和18 模擬天守焼失
1956 昭和31 初代復興天守再建
2011 平成23 岐阜城跡国史跡に指定
説明板より
岐阜市指定重要文化財 絹本著色土岐重頼像
土岐重頼(生年不明~1497年)は、此の絵画を所有する瑞(ずい)龍(りゅう)寺(じ)を創建した人物である。土岐成頼は、室町時代の美濃国守護として、美濃地方の政治・経済・宗教に影響を与えた。画面に描かれた土岐成頼像は、僧形の人物ですが、部将らしい風(ふう)貌(ぼう)がよく表れている。また、椅子の文様も丁寧に描かれている。さらに、画面の上部には、賛(人物を賞する漢詩文)が記されている。
平成12年3月24日指定岐阜市指定重要文化財
絹(きぬ)本(ほん)著(ちゃく)色(しょく)悟(ご)渓(けい)宗(そん)頓(とん)像(ぞう)
悟渓宗頓(1416年生~1500年没)は、この絵画を所有する瑞(ずい)龍(りゅう)寺(じ)を開いた人物である。寺の創建者の土岐成頼・斎藤妙椿に招かれ、美濃地方の文化に大きな功績を残した。画面に描かれた悟渓宗頓は、顔の表情に個性がよく表れ、袈(け)裟(さ)の文様も丁寧に描かれており、作者の力量が伺われる。画面の上部には、悟渓自身による賛(自賛)が記されている。
平成12年3月24日指定
平成14年3月
岐阜市教育委員会
説明板より
関連資料
大桑城
大桑城(古城山)(407m・別名 金(きん)鶏(けい)山(ざん))
<大(おお)桑(が)城(じょう)跡(あと)と城(じょう)下(か)町(まち)遺(い)跡(せき)群(ぐん)>
地元では城(しろ)山(やま)と呼ばれている。山頂一帯には戦国時代の山(やま)城(じろ)の跡が残り、麓の大(おお)桑(が)地区には城下町を守る堀と土(ど)塁(るい)「四(し)国(こく)堀(ほり)跡(あと)」や、館(やかた)・寺・屋敷地の伝承が点在している。発掘調査では弥生(やよい)後(こう)期(き)から現代まで存続する伝(でん)統(とう)的(てき)集(しゅう)落(らく)と、戦(せん)国(ごく)期(き)の城(じょう)下(か)都(と)市(し)、その両方の存在が確認される。
<国(くに)盗(と)り合戦と金(きん)鶏(けい)伝説>
室町時代末期、織(お)田(だ)信(のぶ)長(なが)の美濃攻略の少し前のこと、美濃の守護大名土(と)岐(き)氏(し)、守護大斎(さい)藤(とう)氏(し)、援軍の越前朝(あさ)倉(くら)氏らが本拠地としていたここ大(おお)桑(が)城(じょう)を、斎(さい)藤(とう)道(どう)三(さん)が攻め落とし、これにより美濃一国を掌(しょう)握(あく)した。
落城の際に土岐氏が城内の井戸に沈めた家宝の金の鶏(にわとり)が、いまも元旦の朝に鳴くという伝説があり、この声を聴くと縁(えん)起(ぎ)が良いそうだ。
<眺望と白(はく)山(さん)信(しん)仰(こう)>
北に能(のう)郷(ごう)白(はく)山(さん)や高(こう)賀(が)山(さん)、西に伊(い)吹(ぶき)山(やま)、東に中(ちゅう)濃(のう)盆(ぼん)地(ち)、南に金(きん)華(か)山(ざん)や濃(のう)尾(び)平(へい)野(や)を一望する山頂付近には金(こん)剛(ごう)童(どう)子(じ)の名が残り、平安末期以降中世にかけて長(なが)良(ら)川(がわ)流域の濃尾一円に広く流(る)布(ふ)した白(はく)山(さん)修(しゅ)験(げん)の山寺が存在していた可能性がある。
<里(さと)山(やま)の自然と文化>
チャート・砂岩を主体とする急(きゅう)峻(しゅん)な尾根を中心にアカマツの二次林、山腹を中心にアベマキ・コナラの二次林、谷を中心にアラカシ・ヤマツバキの照(しょう)葉(よう)樹(じゅ)林(りん)がみられる。こうした里山の二次林は、人(じん)為(い)が関わることによって成立・維持される。江戸時代入山禁止だった金(きん)華(か)山(ざん)のシイ林とは対照的だ。しかし近年は他の里(さと)山(やま)と同様、植(しょく)生(せい)遷(せん)移(い)が進み、マツタケも出なくなった。化石燃料と肥料の普及により里山の資源が放(ほう)棄(き)されたからだ。里山の自然と文化は、麓の里人らが薪(たきぎ)を採るなどして、持(じ)続(ぞく)可(か)能(のう)な暮らしを受け継いできたことの証(あかし)でもある。
いま一度、峯(みね)に立ち、歴史と文化を振り返り、地域社会と日本の将来像を夢描く…古(こ)城(じょう)山(ざん)がそんなふるさとの里山になるように。
山県市教育委員会
説明板より
四国堀跡
ここ大(おお)桑(が)は戦(せん)国(ごく)時(じ)代(だい)、美(み)濃(の)国の守(しゅ)護(ご)大(だい)名(みょう)・土岐氏が「大桑城」を築いた地である。
江戸時代に描かれた絵図には「四(し)国(こく)堀(ぼり)」「越(えち)前(ぜん)堀(ぼり)」「外(そと)堀(ぼり)」などの彫があったことが記されている。
現在ここに残っている堀と土(ど)塁(るい)の跡は、「四国堀」に当たり、斎(さい)藤(とう)道(どう)三(さん)との戦に備えていた当時の守護・土(と)岐(き)頼(らい)芸(げい)が、越前など四ヵ国の軍勢の加勢を受けて造ったという伝承が残っている。
また絵図に記された「越前堀」は越前の軍勢が掘ったとされるもので現在は残っていないが、平成8・9年度の発掘調査ではこれに相当すると思われる埋没した堀の跡が確認された。
堀を境にして谷の内部が城内であり、土岐氏の本拠地がこれらの堀によって守られていたことがわかる。
そのほかこの一帯には城下町らしきものがあったことをうかがわせるような屋敷地名や寺院・鍛冶屋の伝承等が残っている。
山県市教育委員会
説明板より
大桑城関係年譜
西 暦 年 号 事 項
1180~1198 建久年間 山県流大桑太郎大桑郷に領を構えて定住す
1224 承久3年 山県大桑太郎領地没収され代って逸見又太郎義重大桑郷
領主となり入封し数代大桑城に居住す
1394~1427 応永年間 土岐頼忠の子頼名とその子頼重は大桑氏を称し大桑に住
む又土岐持益も大桑柏野に住む
1496 明応5年 土岐成頼の二男大桑兵部大輔定頼大桑城を大いに修築す
る
この年舟田の乱起り定頼大いに戦功を立る
1535 天文4年 守護土岐頼芸長良より大桑城に移り府城とする
1540 天文9年 頼芸氏15神社に狛犬を奉納する
1542 天文11年 斎藤道三頼芸を大桑城に攻めて美濃を捍領(かんりょう・守り領する)する
1544 天文13年 頼芸頼純と共に大桑城を本拠地として稲葉山城に道三を
攻める
1545 天文14年 頼純大桑城に入り頼芸一時揖斐城に入る
1547 天文16年 道三再び大桑城を攻略す
頼純討死し頼芸織田信秀の許に逃げる
1548 天文17年 斎藤織田和議成り頼芸大桑城に帰る
1552 天文21年 道三3度大桑城を攻略す頼芸落去して東国に逃れ甲斐武
田信玄の守護を受ける 大桑城廃城となる
1556 弘治2年 斎藤道三秀竜と長良川で合戦討死す
1582 天正10年 土岐頼芸揖斐岐礼に歿す(当年82才)
東海占城研究会
林 春樹氏調
大桑城年譜を東海古城研究会「林 春樹氏」に調べていただいた。―中略―ミニ城を3ヶ年計画で完成した。完成までには数多くの方々に御協力をいただいた。関係者一同感謝を捧げ、ここに記す。
昭和63年11月吉日
大桑青少年育成会
体育振興会
公民館
後援 区長会
説明板より
三光寺菩提樹・多羅葉
(解説)
三(さん)光(こう)寺(じ)は江戸時代の明(めい)暦(れき)3年(1657)に創(そう)建(けん)された由(ゆい)緒(しょ)ある寺である。この本堂の東・西に、菩(ぼ)提(だい)樹(じゅ)と多(た)羅(ら)葉(よう)が植えられている。この2本の木は、創建以前に、この地を聖地とするために植えられたものといわれる。
菩提樹と多羅葉が聖地に植えられたことには、大きな意味があった。
菩提樹は、釈迦(しゃか)がその樹の下で悟(さと)りを開いたとして仏教の聖木とされている。実際には、釈迦が悟りを開いたのはイヌビワ(クワ科)の仲間のインドボダイジュであるが、葉の形が似ていることから、中国でも日本でも聖地に植える樹木として、大切にされてきた。なお、菩提樹は、樹高が10メートルほどになる落葉性の高木である。
目通周囲 1.43メートル
高 さ 9.68メートル
一方、多羅葉は、インドで葉に仏の教えを書いたといわれる貝(ばい)多(た)羅(ら)樹(じゅ)になぞらえて、聖地に植えるのにふさわしい樹木とされた。その葉は、厚くて大きく、長さ10~17センチ、幅(はば)4~7センチにもなる。葉の裏に細い棒を使って絵や文字を書くと、その部分が黒く浮き上がってくるので、エカキシバ、ジカキシバという別名もある。
多羅葉は、高さ20メートル、幹の直径60センチにもなる常緑高木である。
目通周囲 1.83メートル
高 さ 13.72メートル
山県市教育委員会
説明板より
関連資料
2-1-6 三光寺菩提樹・多羅葉
2-1-5 土岐家累代総供養塔
2-1-4 南泉寺所蔵市指定文化財
2-1-3 大桑城関係年譜
2-1-2 四国掘跡
2-1-1 大桑城
資料集
棲霞山 歓喜寺
歓喜寺は明暦2年(1656)の草創で、開基治部郷明了師は照蓮寺(高山別院)第13世宣明師の第2男である。
照蓮寺開基嘉念坊善俊上人は、人皇第82代後鳥羽上皇の第12皇子で、建保2年(1214)に御誕生あらせられた。然し時の鎌倉幕府の執権北條義時は、承久の乱により、後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇を土佐に、順徳上皇を佐渡に移し、その他の皇子等も悉く離散され、仏門に入って難を逃れられた。
第12皇子も承久3年御年8歳で園城寺に逃れ、僧となり道伊と名乗られた。その後、伊豆の三島に住居されていたが、寛喜3年(1231)8月箱根で宗祖親鸞聖人に遇われてその弟子となり、名も嘉念坊善俊と改められた。嘉禎年中、聖人の御寿像、真筆名号を供奉して諸国僻境の巡化に出られ、美濃路より郡上白鳥に入られ暫らくここに住居された。宝治年中、飛騨国白川郷鳩谷村に移られ、念仏の教を説かれていたが、法縁熟して多くの念仏行者が集り、その懇望によって1宇を建立された。これが照蓮寺(高山別院)の濫觴である。
その後、子孫相続して法燈を伝え、第10世明心師の時、荘川村中野(御母衣ダムに水没)に移り、第13世宣明師の時、金森長近公の飛騨入国となり、その要請で天正16年(1588)高山に移転された。現在の高山別院である。
明了師は元和5年(1619)宣明師の第2男として生まれ、幼名を小輔、または治部郷ともいう。寛永11年東本願寺宣如上人の得度を受け、明了と改名された。父宣明師の幼名である。
それより先寛永9年、父宣明師は寺務を長子宣了師(照蓮寺第14世)に譲り、明了師を伴い門西に隠居された。寛永18年9月10日遷化、年77歳。
異母兄弟ではある兄宣了師と明了師との仲はあまりよくはなかったようであるが、殊に宣了の嗣宣心(宣了には男子がなく、1人娘の「おなけ」に娶すため金森重頼公の第3男、式部郷従純をもらいうけていたが、「おなけ」は寛永8年早逝したので、東本願寺宣如上人に懇請して、その第3女佐奈姫をもらいうけて内室とし第15世を継ぐ。この時照蓮寺の血脈絶える)とは心が合わず、その圧迫に耐えかねて、姉の婚家、越中八尾の聞名寺に逃れ、その後、諸国行脚に出られていたが、国守金森頼直公のはからいで、大八賀郷三福寺村字井ノ上(現在地)に
一、境内地
一、持仏堂
一、米 6石 但毎年
一、薪 3間 同
の寄進を受け、父宣明師より譲られた嘉念坊伝来の法宝物を供奉して、明暦2年(1656)3月にこの地に移られた。これが歓喜寺の開基である。然し宣心師の迫害は益々激しく、頼直公よりの寄進の扶持米薪は断たれ、その日その日の生活にも事欠く有様となり、遂に止むなく、姉のもと聞名寺を頼り、延宝2年(1674)西本願寺に転派した。
明了師の一生は誠に不遇であった。妻には寛文6年に、母にはその翌年に死別し、4人の子女を抱えて世情にすがっての生活も、西派に転じたことによる宣心の怒りをかい、宣心は国中門徒の末々まで酷しく明了師への一宿一飯の布施も禁止してしまった。然しやがてこの不遇の一生も終わり、元禄8年(1695)12月12日遷化された。年77歳であった。
明了師の長男教心は書をよくし、早くから照蓮寺に入って寺務に専念して第16世琢晴を援けた。本山より興隆寺の寺号を下附されている。
次男善明が第2世を継ぐ。元禄14年9月20日寂如上人より木仏、寺号を免許される(願主明了死後6年)。享保12年(1727)本堂を造営する。棟梁は松田太右ェ門以治である(現在のもの)。同年9月9日入仏法要を執行された。享保19年親鸞聖人真影下附される。元文3年12月5日遷化、年78歳。
善明の長男浄明は古川正覚寺(現円光寺)に入り寺務を継ぐ。多くの著述があり中でも岷江記は祖父明了、父善明の口述をもとに照蓮寺の詳細な寺史で著名である。
次男善了が第3世を継ぐ。寛保元年(1741)4月庫裏を造営する(現在のもの)。宝暦8年(1758)宗祖親鸞聖人500回忌法要厳修する。明和4年4月2日遷化。
第4世善貞は善了の長男である。明和7年3月9日親鸞聖人絵伝免許される。寛政12年11月16日遷化、68歳。
第5世は善貞長男善暁が継ぐ。親鸞聖人550回忌法要を準備中、文化8年10月8日遷化される。年44歳。善暁には兄弟が多く弟善応(後善貞と改名)は円徳寺に、次弟了厳は母の実家の還来寺に、次の弟は宝円寺にそれぞれ入寺している。
第6世善隆は善暁の長男である。父夭逝のため、わずか12歳で継職する。父の死の翌年文化9年(1812)10月親鸞聖人550回忌法要を厳修する。この時13歳の善隆を中心に門信徒、総力を挙げて事に当たり、現存する宮殿、須弥檀、厨子等本堂の荘厳はこの時に造営され、作者は京都福美屋である。また文政2年(1819)10月梵鐘を鋳造された。明治6年3月3日遷化される。年74歳。
弟善調は高山に居住し、その長男治平は三島豆の創始者である。
第7世善栄は明治4年2月宗祖聖人600回忌を、明治15年4月嘉念坊上人600回忌法要を厳修する。この期に本堂を修復し、高棟にし、また土蔵を新築される。明治39年4月3日遷化。年82歳。
第8世恵信は清見村夏厩蓮徳寺より入寺、庫裏、土蔵の大修理をなし、大正13年5月宗祖聖人650回忌、昭和8年5月嘉念坊上人650回忌法要を執行し、同年12月19日遷化される。年61歳。
第9世怙舟は第8世恵信の第3男である。幼少より病弱で在職わずかに1ヶ年にて、昭和10年1月12日遷化される。年32歳。
第10世晃導は第8世恵信(6男3女中)の第5男。
昭和12年応召従軍2ヶ年、昭和24年5月蓮如上人500回忌法要を、昭和47年4月宗祖親鸞上人並びに寺祖嘉念坊上人700回大遠忌法要を厳修される。また、昭和17年から20余年間、同派神通寺の法務代行を勤める一方、昭和24年から保護司として30余年間、飛騨慈光園長を11年余、ほか幾多の諸団体公務に従事し、44年の長きにわたって寺門の興隆に尽力され、昭和62年1月10日遷化される。年81歳、葬儀(門徒葬)は同年1月18日。
第11世亮昌(現在)は晃導の次男。昭和53年11月継職、平成元年8月当山庫裏(創建以来248年経過)を新築造営、落成慶賛法要厳修。
『観喜寺略史』平成元年発行より
関連資料
お美津稲荷
昔、上呂サイラノにお美津という美女に化けるのが得意な狐がいた。2百年程前の古文書によると、お美津狐や飛騨中の古狐10匹などが高山石浦在浄見寺野で集合し、連れ添って故郷サイラノに帰る道行が記されている。
この縁により、地域の有志が稲荷の御堂を建てたが、この工事中に土中から白蛇2匹が現れたので、白龍山お美津稲荷と称し、お美津の大碑を始め、夫婦の小糸坂小法師など十傑が寄進され、現在も連立している。
その後、全国的に信仰熱が高まって祈願のお経が毎日つとまり、主天「陀喜尼尊天」のお使いである全国の狐の霊がこの稲荷に押し寄せ、信仰者に御利益とまぼろしが不思議な程現れている。健康長寿と開運の祈願のお参りが多い。
説明板より
関連資料
天狗総本店
所在の場所 岐阜県高山市本町1丁目21番地
所有者の氏名又は名称 山口房子(個人所有)
建築年代 昭和11年夏
施工 西田清
員数 1棟
構造及び形式並びに大きさ 木造、2階建、
建築面積102.96㎡、延床面積205.92㎡
飛騨の本格的精肉店。外観2階で、一見城館のようなデザインをもち、上部は当初の姿を残しているが、下階は外観・間取りに手が入っている。
故山口倍次郎が、地元大工棟梁・西田清に建てさせた。北陸の金沢、富山等の大きな精肉店にあやかって「天狗」の屋号を用いた。この肉と天狗との結び付きは、食物の洋風化が始まった明治初期に京都で『肉料理大天狗』という書物が出ていることが源といわれる。
外観は洋風だが、内部は木造和風。当時としては珍しい冷凍用モーター設備があった。
〈特徴〉
伝統的な城下町にハイカラを持ち込んだ洋館建である。外観をよく残す。2階角柱上部の楕円型装飾と渦巻型柱頭、屋根部分の馬蹄型アーチ模様、小尖塔などがきわだつ洋風詳細で、隅の2階部分にベランダを付設するため一度内側へ屈折し凹状に、扉部分は外開きで直線状になり錯覚で凸状にみえ、バロック的雰囲気が濃厚である。
1階で肉販売、2階はすき焼きの座敷があり高山のハイカラであった。今も肉屋を営業。近年、壁面が塗り替えられた。
関連資料
山桜神社火の見櫓
所在地 高山市本町2丁目65番地
所有者の氏名又は名称 山桜神社
建築年代 昭和7年(1932)
施工 —-
員数 1棟
構造、形式及び大きさ
三層櫓、木造鉄板葺、
高さ(櫓のみ)6.95m
櫓下部3.36×3.36m
櫓上部1.52×1.52m
山桜神社社殿の南側建物の小屋梁上に柱を建て、棟上に櫓を組んでいる。櫓の袴底部は、3.4m四方、高さ7m規模、三層建で、東部に宝形造の見張小屋を置き、明治14年製造の半鐘を吊っている。神社の絵馬市とともに親しまれている。
〈特徴〉
当建物は、旧高山市内中心部に位置する商店街・本町通り内に立地し、山桜神社に付随する。
高山4代城主・金森頼直の愛馬「山桜」が、明暦年間の江戸大火で、主君をのせて江戸城の百間堀をこえ危急を救ったと伝えられている。馬の死後、厩(うまや)の跡に祠をたて、「山桜神社」「馬頭さま」として祀ったことが由来とされている。戦後になってから絵馬市が始まり、現在では8月1日から15日まで開催されている。地元民だけでなく観光客にも人気があり、夏の風物詩として本町通を賑わしている。
火の見櫓については、嘉永7(1854)年、馬頭組による「火消溜所屋根棟上げ・火之見櫓新設普請願書」が高山町会所文書にあり、当年に建てられたのが初源とされている。
明治5年の大火で類焼し被害を受けたが、明治14年に再建された。大正13年、歩広めにともなう神社敷地の拡張がなされ、昭和7年に現在の位置に移築され、現在の火の見櫓の建築年代は昭和7年になる。
木造平屋建、山桜神社拝殿南側の和室天井面上に基準階が設けられ、櫓の礎となっている。ここから受け梁に4つの柱をおき、周囲を4つの隅柱と桟で組み、外壁板で覆っている。櫓胴部は三層になっており、上下の梁間の筋違で補強している。構造は江戸時代からの櫓建築の技法を踏襲していると考えられる。
最上部の見張り台は、四方をガラス窓で囲い、見晴らしは良好である。また、半鐘が吊り下げられ、「飛騨国大野郡高山町 馬頭組 明治十四年辛巳六月」「東京 西村和泉守作」と銘があることから、再建時頃のものかと考えられる。
旧来の形態を踏襲した、木造の火の見櫓は非常に珍しく、関連する文書も多数残されており、歴史的価値は高い。商店街にありながら保存状態も良好であり、山桜神社の絵馬市とともに周辺住民に親しまれ、大切に保存されている。
関連資料