県指定・加藤歩簫墓
〈県指定〉昭和31年2月24日
〈所有者〉加藤家
〈所在地〉天性寺町字西ヶ洞 法華寺裏墓地
〈時代〉江戸時代(19世紀)
〈員数〉11㎡
墓(1カ所)標石高さ59㎝、幅25㎝角
加藤家の墓地は、法華寺山頂上にある。上下2段に区画し、上段に17基の墓石を3列に配置してあるが、歩簫の墓は第1列の中央に位置し、「清境院幽山白翁居士」と刻まれている。
歩簫は名を貴雄、通称を小三郎という。蘭亭歩簫、白(しらら)翁(おう)(晩年)と号した。俳諧を泊庵蝶夢に、国学を伴蒿蹊(ばんこうけい)に学び、安永元年(1772)家督を相続し、父の私塾を継承した。
二之町組頭を40余年間勤める一方、雲橋社を創立し、図書1,000余巻を一般に公開するなど文教の振興に力を尽くした。晩年吉城郡西茂住に凡兆の遺詠地を探り、大きな自然石にその句を刻ませた。文政10年(1827)12月14日没、享年85。
「紙魚のやとり」(しみのやどり)等多数の著書があり、大正15年100年祭を記念して「蘭亭遺稿」2巻が刊行された。
参考文献
『高山の文化財』178~179頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日
関連資料
1-2-8 県指定・加藤歩簫墓
資料集
023_232_加藤歩簫墓
県指定・富田家
〈県指定〉昭和50年7月17日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地 飛騨民俗村構内
(旧所在地 吉城郡神岡町杉山)
〈時代〉江戸時代末期
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行14.4m、梁間8.2m、入母屋造、茅葺
富田家は越中東街道沿いにあった。歴代茂住鉱山の仕送人として荷物や牛馬の中継を営んでいた。
建物は平入りで、内部は大きく3つに区分され、押入れはない。狭い「ドジ」へ入ると「アガリタテ」があって、左に広い「オエ」、その奥には板間の「デイ」と仏壇のある6畳間の「デイ」がある。「ドジ」の右手には「マヤ」、「ニワ」があって、2階へ上がる階段は「ニワ」にある。「オエ」は板間で、棟下下手寄りに囲炉裏がある。
奥の「デイ」と「ニワ」は根太天井で、他は簀(すの)子(こ)天井である。前の「デイ」と「オエ」の前2間に幅2尺ほどの縁を設けて、店に立寄る旅人が腰かけて休めるようになっている。また、入口横には帳場があった。
屋根は丸味のある入母屋造で、破風口は小さく妻側の壁は竪羽目となっている。当家と同じ河川流域に吉真家、道上家があったが、異なる谷筋にあって外観を異にする。吉真はハホザオ、ミズハリがあり、道上は兜造(かぶとづくり)(妻の屋根を切下げて開口部をとったもの)で、カヤ尻の形が異なる。
昭和45年11月から翌年6月にかけて民俗村へ移築された。
参考文献
『高山の文化財』37~38頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-7 県指定・富田家
資料集
022_231_富田家
県指定・前田家
〈県指定〉昭和50年7月17日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地 飛騨民俗村構内
(旧所在地 吉城郡上宝村神坂(かんざか))
〈時代〉明治32年(1899)
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行19.5m、梁間11.8m、切妻造、板葺、2階建、西面下屋付属、東北面庇付属、板葺
前田家は、上宝村で1、2を争う豪農であり、構えが大きく意匠も形態も優れている。建物は、栃尾温泉の東、穂高連峰の西山麓に抱かれた蒲田川沿いの神坂にあった。明治32年、高山の大工によって建てられたもので、人も馬も、1つの入口から出入りする特殊な形をしている。
内部は、入口「ドウジ」に入ると正面に「マヤ」がある。左手には「エン」があって、「オエ」、「六ツデイ」に通ずる。右手は、便所、水屋、「ニワ(ダイドコ)」へと通じている。「六ツデイ」は、戸を全部はずすと42畳として使える広い部屋となる。「六ツデイ」のうち奥の2間は、「オクノデイ」、「ブツマ」で、床の間と仏壇があり、間仕切りの鴨居上には、特徴的な筬(おさ)欄(らん)間(ま)が立てられる。
2階へは「ニワ」から階段で上がり、2階は間仕切りがなく、養蚕ができるようになっている。天井は、中央のオエが簀子(すのこ)天井、座敷部が棹縁天井、他は根太天井である。
外観は、町家風に小庇をつけ、1・2階ともセガイ造りとし持送りで支える。角柄窓があるのも、農家としては珍しい。大きな庇屋根は、片流の上部を折り曲げた招き屋根となる。正面の犬走りは、長大な石を旧所在地からわざわざ持ち込んで敷き並べている。
昭和45年11月から翌年6月にかけて、民俗村構内に移築された。
参考文献
『高山の文化財』41~42頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-6 県指定・前田家
資料集
021_230_前田家
県指定・セイロ倉
〈県指定〉昭和50年7月17日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地 飛騨民俗村構内
(旧所在地 吉城郡上宝村鼠(ねず)餅(もち))
〈時代〉江戸時代末期
〈員数〉1棟
倉(1棟)桁行5.6m、梁間4.98m、切妻造、板葺
角材を積み上げてつくった校倉(あぜくら)様式である。1階は穀物を入れ、2階には道具類を入れた。飛騨地方ではあまり例のない建物である。
参考文献
『高山の文化財』44頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-5 県指定・セイロ倉
資料集
020_229_セイロ倉
県指定・野首家
〈県指定〉昭和37年2月12日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地 飛騨民俗村構内
(旧所在地 片野町林)
〈時代〉元禄以前
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行15.2m、梁間10.8m、切妻造、両面下屋付属、長榑葺石置屋根
この建物は、元禄8年(1695)の検地帳や当時の絵図に記載されている家と、建物面積、位置が一致していた。元禄検地以前の建物と推定される。元禄検地水帳に「しものくび 間口八間半 奥行六間 屋舗云々 八兵衛」と記載され、19代目の野首秋蔵も、通称「片野の八兵衛」と呼ばれた。昭和37年、野首氏から本建物の寄付を受け、3月に現在地へ解体材を集積した。同時に、解体調査を行ない、昭和40年10月から翌年2月までかかって復元修理を実施したのである。その際「オエ」や「ニワ」の床板を撤去し、裏側の縁側なども取り除いて旧形態に復元をした。
建物内部は、土座生活の「オエ」が中心に位置し、右側に「デイ」、「オク」、「ナカオク」、「ダイドコ」とカギ形に並ぶ。左側には「マヤ」、「ニワ」が配置されている。土台はなく、垂木は藤蔓(つる)で縛り、壁は板張りで窓は少ない。構造材も化粧材もほとんどアカマツが主で、一部クリを用いて飛騨の農家らしい建築部材となっている。柱の加工は片刃の釿ハツリである。梁や桁の加工は江戸中期後に発達したと思われる「はびろ」ハツリではなく、飛騨型の「まんきち」斧でハツリ、その加工跡を残している。板類の加工は大(おお)鋸(が)引(び)きのあと1枚鉋削りで仕上げてあるので、大きな逆(さか)目(め)を残している。
建物の外観は、飛騨の中央部に発達した榑葺(くれぶき)石置屋根葺き下(おろ)し付である。小屋梁が母屋桁と併行した架構法は、軒の高さを制限されたり、低い建物を建てる場合に採用される架構法で、構造上直交した梁より弱いはずだが、止むを得ない架構法で、この地方でも古い建物に多く見られる。旧田中家住宅とともに、飛騨では最も古い民家の1つである。
参考文献
『高山の文化財』26~27頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-4 県指定・野首家
資料集
019_228_野首家
県指定・西岡家
〈県指定〉昭和50年7月17日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地 飛騨民俗村構内
(旧所在地 大野郡白川村加須良(かずら))
〈時代〉江戸時代後期
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行20.4m、梁間11.3m、切妻造平入り、茅葺、1重4階、西面下屋付属板葺、南面下屋板葺
旧所在地は白川村北部の加須良で、蓮受寺の庫裏として建てられていた。加須良地区は豪雪地帯で、峠を1つ越えると富山五箇山の桂(かつら)集落(上平村)があった。この両集落は関係が深く、建築様式は上平村の民家との類似性がある。
この家は越中に近いため間取りは整形広間型となり、「オエ」と「デイ」の板戸や、天井竿等に漆を塗るなど仕上げが良い。広い「オエ」には2つの囲炉裏が配置され、天井は簀(すの)子(こ)である。狭く急な階段を昇ると、婦女子の寝室として利用された中2階がある。そこからさらに小さい階段を昇ると、2階へ通じる。
構造は「カタギ造」で、これは白川村北部から宮川村・河合村などの豪雪地帯に多い。前半分の部屋は一重梁の簡単な構造を持ち、後半分は端が大きく曲がったチョウナ梁を側柱の上にのせ、曲がった梁の上に桁や梁がのる。前は素(す)屋(や)造(づくり)、後は釿(ちょうな)造(づくり)と双方の特色を持つ。梁の随所には釿ハツリの跡が見られる。合掌は強固な正三角形で、腰板は落し込板である。
庫裏の機能を果たすよう、正面に向かって右側に土壁の下屋を張出している。左側には「ベンジャ」があり、石で囲った肥溜の上に板を3枚渡した簡単なものとなる。
昭和45年11月から翌年3月にかけて現在地へ移築された。民俗村構内の中央に位置し、大型でよく目立つ。
参考文献
『高山の文化財』34~36頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-3 県指定・西岡家
資料集
018_227_西岡家
県指定・中薮家
〈県指定〉昭和50年7月17日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地 飛騨民俗村構内
(旧所在地 大野郡宮村山下)
〈時代〉江戸時代中期以前
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行14.9m、梁間11m、切妻造、板葺、北・南面下屋板葺、西面庇付属板葺
中藪家は、JR飛騨一之宮駅の西側にある山下にあった。田中家や野首家と似て軒高が低く、勾配は緩い板葺石置屋根である。飛騨地方の中央部にある民家の特徴を持ち、土座生活の名残りを留めている。建築年代は明らかでないものの、たちが低く、柱に蛤刃、釿痕、その他古い仕口などを残しており、江戸中期以前ともいわれている。
内部は、入口の障子戸から入ると狭い「ドウジ」があり、すぐ広い土間の「オエ」、奥には「ニワ」がある。「オエ」の真中に石で囲んだ囲炉裏があり、「オエ」の前側正面には、両引きの板戸が立てられている。「ニワ」と「オエ」との境界には、一般的な境らしきものはない。また「ザットナデ」と呼ぶ柱が、入口に近い位置にある。明治の末年に「デイ」と「オク」に幅3尺の廊下がつけられ、「オエ」は板敷に改造されたが、移築を機に「オエ」の板敷をはずして土座に復元した。「ニワ」には、穀物をつくように唐臼が常時置いてあった。
馬屋は本屋に取り込まれ、水屋は入口の前にある。
外観は、なだらかな勾配の榑板葺屋根で、冬間近には、屋根の置石はすべて棟上へ集められる。昭和45年11月から翌年6月にかけて、現在地へ移築された。
参考文献
『高山の文化財』42~43頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-2-2 県指定・中薮家
資料集
017_226_中薮家
国指定・荻町(白川村)
白川村を「下白川郷」、荘川地域を「上白川郷」と呼んでいた。今は白川村のみを指すことが多い。
白川郷の荻町地区は合掌造りの集落で知られる。独特の景観をなす集落が評価され、1976年重要伝統的建造物群保存地区として選定、1995年には五箇山(相倉地区、菅沼地区)と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。白川郷の荻町地区は、今も実生活の場として使われているところに価値があり、それが他地域の合掌民家集落と違うところである。
⑴ 重要伝統的建造物群保存地区 保存地区面積45.6ha
①伝統的建造物124件
・建築物117件
合掌造家屋109(合掌造主屋59、付属建物46、宗教建築4)、
非合掌造家屋8、
・工作物7件、
②環境物件8件
合掌造家屋は59棟あり、幕末から明治時代の初頭にかけて建築されたものがほとんどである。合掌造は切妻[きりづま]の茅葺屋根に特徴があり、この地域が豪雪地帯であることから屋根は急勾配になっている。また、養蚕のため屋根裏を2〜3層、規模の大きな家屋では4〜5層に造って効率的な利用をしていた。さらに荘川に沿って吹く風の抵抗を少なくするため、妻面を南北に向けて建てており、立ち並ぶ様は、見る者を圧倒する。
地区内の施設
◇和田家住宅 – 国の重要文化財
◇明善寺 – 庫裏と鐘楼門は県の重要文化財となっている。
◇明善寺郷土館
◇長瀬家住宅
◇神田家住宅 など
関連資料
1-1-15 国指定・荻町(白川村)
資料集
015_224_荻町
史跡江馬氏館跡公園 国史跡江馬氏城館跡 下館跡
この公園は、今から400~600年前の室町時代から戦国時代に、北飛騨を治めた武将の江馬氏が築いたと考えられる館跡の一部を復元したものである。
江馬氏は平氏の一族、あるいは鎌倉幕府執権北条氏の一族であったとも言い伝えられているが、その出自は明らかではない。室町時代には幕府の認める有力在地領主としてこの地を治め、戦国時代には周辺の戦国武将の武田氏や上杉氏と、また飛騨の覇権をめぐり南飛騨の姉(あね)小路(こうじ)氏、三(みつ)木(き)氏などと争い、あるいは同盟を結ぶこともあった。天正10年(1582)、時の領主であった江馬輝(てる)盛(もり)が姉小路(三木)自(より)綱(つな)に敗れ、北飛騨の領主としての力を失った。
発掘調査により、下館は14世紀末~16世紀初め頃まで使われていたことがわかった。館は東側の山を背に、北・西・南を土塀と堀で囲んだ方約1町(約100m四方)の規模であり、館の正面となる西側に2ヶ所の門を、その邸内には礎(そ)石(せき)建物や庭園が設けられていた。
館の周辺は、道や板塀で敷地を区切り、そこには掘(ほっ)立(たて)柱(ばしら)建物、竪(たて)穴(あな)建物などが建てられていた。
この公園で、500年前にこの土地で暮らした武将の生活の一端、その気分が体験できる。
礎石建物:石を基礎において柱を立てる建物
掘立柱建物:地面に掘った穴に、柱を埋めて立てる建物
竪穴建物:方形に掘りくぼめた床面に柱を立て、地面まで屋根をかけた建物
公園では、15世紀後半~16世紀初め頃の館の一部が復元されている 復元建物:会所、主門
土塀(西側・南側の一部)
庭園北側板塀
復元遺構:庭園、堀(北堀・西堀)
説明板より
関連資料
1-1-14 史跡江馬氏館跡公園 国史跡江馬氏城館跡 下館跡
資料集
014_223_江馬氏館跡庭園
旧大戸家住宅
国指定重要文化財(建造物) 昭和31年6月28日指定
この旧大戸家住宅は大野郡白川村から昭和38年に原型のまま移築された。建物の大きさと独自の構造は、大家族制度を代表する合掌造りの建物である。
建築は、天保4年(1833)~弘化3年(1846)の13年間をかけて造営された。建物の規模は、桁行21.4m、梁間12.27m、棟高13.0m、形式は、切妻、茅葺、内部4階建となっている。
建築の特徴は、釘やかすがいをまったく使わず、素縄やネソという木材で組み立てられていることである。
資料によれば、合掌造りは、平家の落武者が奥飛騨の白川郷に住みつき、編み出した建築方法である。
説明板より
関連資料
1-1-13 旧大戸家住宅
資料集
013_222_大戸家