【講座】AI時代のデジタルアーカイブ
1.「AIと人間の学び」
赤堀侃司(東京工業大学名誉教授)
1.動画資料
2.資 料
1.プレゼン資料(赤堀先生)
2.AIと人間の学び 壁の向こうで答えているのはAIか人か? (単行本)発売日  :  2022/3/31
2.「人とAIの学習研究から考えるこれからの教育」
益川弘如(聖心女子大学教授)
1.動画資料
2.資料
3.「人工知能(AI)とデジタルアーカイブの現状と未来」
澤井進(岐阜女子大学特任教授)
1.動画資料
2.資料
赤堀侃司(東京工業大学名誉教授)
1.プレゼン資料(赤堀先生)
2.AIと人間の学び 壁の向こうで答えているのはAIか人か? (単行本)発売日  :  2022/3/31
益川弘如(聖心女子大学教授)
澤井進(岐阜女子大学特任教授)
デジタルアーカイブは,さまざまな分野で必要とされる資料を記録・保存・発信・評価する重要なプロセスである.このデジタルアーカイブは,わが国の知識基盤社会を支えるものであり,デジタルアーカイブ学会でも,デジタルアーカイブ立国に向けて「デジタルアーカイブ基盤基本法(仮称)」などの法整備への政策提言を積極的に行っている.今後,知識基盤社会おいてデジタルアーカイブについて責任をもって実践できる専門職であるデジタルアーキビストが必要とされている.ここでは,デジタルアーキビストの学術的な基礎として,地域資源デジタルアーカイブに関する手法やデジタルアーカイブの課題を実践的に学ぶ.
・この授業は講座とスクーリングに分かれて学修する。スクーリングは、実践的にデジタルアーカイブし記録管理を体験することになる。
・事前課題と事後課題が設定されており,個別で学修する場合にも,集団で学修する場合においても学修を深めるために主体的に研究課題を考えることが重要である.
本科目は講座とスクーリングにより構成されている。講座では、各地域の問題意識や課題を明確にし、デジタルアーカイブを計画する。また、実際にスクーリングでは研究計画を立て、調査をし、デジタルアーカイブする、その後記録したデータを管理し、公開するまでを学ぶ。
【事前課題】 各地域の問題意識や課題を明確にし、デジタルアーカイブを計画する
地域の関心領域における問題意識、課題などを取り上げ、明確化し、デジタルアーカイブの計画を立てる。明確化する過程で、参考文献を読み、地域に関する一定程度の知識を獲得しておく。
① 地域における問題意識や課題を明確化する。
② 地域における問題意識や課題をもとに「デジタルアーカイブ」を計画する。
下記の①と②のいずれかを選んで提出する。
① 郡上白山文化遺産デジタルアーカイブの計画を提出する
(例) 白山比咩神社、白山長滝神社など
② 沖縄文化遺産デジタルアーカイブの計画を提出する。
(例) 首里城のデジタルアーカイブ
また、現地実践演習については、上記課題の内容のいずれかを選んで受講すること。
【事前課題】で行った地域の問題意識や課題の明確化し、課題解決にふさわしい場所を選択する。
【現地実践演習】については、スクーリングで行う。
スクーリングでは、【事前課題】で計画した場所のデジタルアーカイブを実施する。
デジタルアーカイブの手法を具体的に実施し、Webで公開する手法を学ぶ。
授 業:「実践研究Ⅱ」(2単位)
日 程:令和6年 8月31日(土)~9月1日(日)
会 場:郡上市歴史資料館 〒501-4211 岐阜県郡上市八幡町中坪226-1 電話番号 0575-65-3711 メール rekishi@city.gujo.lg.jp
会 場:郡上市歴史資料館 2F 会議室集合(13:00)
講師:郡上市歴史資料館・学芸員 安江範泰氏
講師:白山文化博物館・学芸員 鈴木雅士氏
16:00~17:00
講 演:郡上白山文化と郡上市内の史跡について
講師:郡上ケーブルテレビ放送センター・社長 稲葉秀章氏
19:00~20:00 郡上踊
郡上踊りに関する解説と見学
解説:稲葉秀章氏
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブ実践実習
※各自で事前課題で予定を立てていただいた行程に基づいてデジタルアーカイブしてください。
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブを作成して事後レポートとして提出していただきます。
10:00 郡上市歴史資料館 集合
2.【研究】郡上白山文化における御師の歴史的役割の研究 ~石徹白地域における御師と現代の観光とのつながり~
【事前課題】で行った地域の問題意識や課題の明確化し、課題解決にふさわしい場所を選択する。
【現地実践演習】については、スクーリングで行う。スクーリングでは、【事前課題】で計画した場所のデジタルアーカイブを実施する。
デジタルアーカイブの手法を具体的に実施し、Webで公開する手法を学ぶ。
授 業:「実践研究Ⅱ」(2単位)
日 程:令和7年 1月25日(土)~26日(日)
会 場:岐阜女子大学沖縄サテライト校並びに那覇市内
日 程:スケジュール 2025.01.11
会場:岐阜女子大学沖縄サテライト校(沖縄女子短期大学 2F )
12:30 集合
(講師)与那原町役場 ブランド推進課 宮城 結氏
伊波 佑華里氏
(講師)与那原町立軽便与那原駅舎展示資料館・学芸員
与那原教育委員会 川島 淳氏
9:30 集合(沖縄女子短期大学)
徒歩で現地移動(20分程度)
10:00~ 軽便与那原駅舎 展示資料館 見学
(入館料100円)
11:30~ 与那原大綱曳資料館 見学
(入館無料)
(前日の講義で紹介された施設・史跡等を各自で撮影)
【留意事項】
各自デジタルカメラをご持参ください。
<レンタカーを借りる方へ>
与那原町は駐車場が少ないため、沖縄女子短期大学の駐車場に車を駐車してください。
現地集合・現地解散
受付時に、事前課題を提出してください、(事前に郵送等による提出済の方を除く)
【事前課題】
旅費・宿泊費・入館料・レンタカー代、食事代等については自己負担です。
徒歩移動や踊りがありますので、動きやすい服装でご参加ください。
【事後課題】
① 撮影記録報告書の作成
② 撮影箇所のメタデータの作成
課題③_氏名
*提出物について
・26日の撮影記録報告書
・撮影記録報告書に記載の撮影地のメタデータ
*提出期限について
スクーリング終了後、2週間を目途に提出
*課題について
不明点は加藤先生にサイボウズでご連絡ください。
資料①SIST_booklet2011_参考文献の役割と書き方
東山寺院群の中ほどには東山神明神社があり、境内地に絵馬殿がある。この絵馬殿は高山城二之丸にあった月見殿が移築されたものである。その北方向の墓地には、金森氏墓、大原彦四郎墓がある。さらに北方向には大雄寺、雲龍寺と連なる。
雲龍寺の参道は若達町1丁目から上がるが、古い石段を踏みしめてその先にある鐘楼門を目指す。古都高山らしい景観なので多くの海外観光客がここを訪れている。
この鐘楼門は1638年(寛永15)の建築材(年輪年代法による)が創建時に使われている古い建物で、高山城内の「黄雲閣」という建物を賜わり、鐘楼門になったと伝わる。享保14年(1729)の大火にも、羽目板の一部に焼痕を留めただけで焼け残った。
建物の外観を見ると、緩やかな曲線を持つ屋根の頂部に、露盤(四角の台)と宝珠(火炎が燃え上がっている形をした玉)をのせている。上層の外廻りには戸溝があり、中央通路の両側に三方を板で囲われた場所があることなどから、寺院の鐘楼門として建てられたものではないと考えられている。
雲龍寺の草創は古く、奈良時代の初めに泰澄大師(白山を開山)が白山社(現在の東山白山神社)を開山し、別堂として妙観寺(現雲龍寺の場所)を建立したと伝わる。後に天台宗に属していたが、幾世紀を経て寺は無住になってしまった。
応永2年(1395)、能登の総持寺4世・竹窓智厳(ちごん)和尚が荒廃を嘆いて妙観寺跡に寺を再建した。智厳は師である了堂真覚禅師を開山に招いて海蔵山雲龍寺と改称、曹洞宗に改めた。現在も総持寺の門末になっている。
金森長近は飛騨入国後、長子忠次郎長則の菩提寺として雲龍寺を修営。長則は天正10年(1582)の本能寺変に際し、二条城において19歳で戦死している。
高山城内にあった建物は次の寺社に払い下げられたと伝わる。雲龍寺鐘楼門、素玄寺本堂、法華寺本堂、東山神明神社絵馬殿、高山陣屋御蔵である。
このように東山寺院には高山城の古い建物が移築されて大事にされている。
越前大野城主であった金森長近は、天正14年(1586)に飛騨の国の国主となり、現在の高山市の基礎を作り上げた。飛騨を治めることになった長近は、信長や秀吉と攻略した各地の軍事拠点や越前大野の城下町づくりなどの経験を生かし、経済基盤のしっかりした城下町づくりを目指した。
長近は高山城を造り、次に、その城を取り囲んで外敵から守るために武士団の屋敷群を構成している。この地区は1段高い場所にあって、現在地元の人たちは「空町」、「ソラ」と呼んでいるが、昔は「欠ノ上(かけのうえ)」といった。
東山寺院群は、金森氏の領国時代に武家の菩提寺として建てられた。そのため江名子川の右岸辺りから、各寺院に東方向に登る参道がある。参道の石段を登るのは大変だが、段々寺が近くなってゆく心地よい情景が感じられる。
北から南方向に雲龍寺、大雄寺、素玄寺、天性寺、法華寺、善応寺、宗猷寺と並んでいる。南端は臨済宗の宗猷寺、北方向に善応寺、法華寺と並んでいる。宗猷寺の裏には木地師の集団墓地、近くに金森左京の墓がある。
国府町から県道76号で上宝町に向かい、大坂峠(通称十三墓峠)を越え、2㎞ほど下ったところに濃飛乗合自動車の「石仏前(いしぼとけまえ)」というバス停がある。
このバス停の奥に、カラマツの間から高さ12mほどのまるで仏様のような形をした岩肌が突出している。これが地名の由来の「石仏岩」で、足元には小さな祠(ほこら)が建てられ、祀られている。周囲にも点々と岩肌が露出し、屏風岩、駒掛岩(こまかけいわ)、鏡岩、箪笥岩(たんすいわ)などと名づけられ、全体が「石仏と奇岩群」として、高山市の天然記念物に指定されている。
「石仏と奇岩群」の岩石の本体は、大雨見山層群の流紋岩溶岩である。この溶岩は、中に青灰色の玉ズイ(石英の微小な結晶の集まり)を含んでいて、「球顆流紋岩(きゅうかりゅうもんがん)」という。溶岩の一部は、大坂峠近くにも露出し、風化した部分から数㎝~こぶし大ほどの玉ズイの塊を見つけることができる。
石仏岩は、6,000万年という長い年月をかけ、風化や侵食を受けた球顆流紋岩が、偶然にも仏様の容姿になって現れたものである。
<大雨見山層群>
「石仏と奇岩群」は、どのようにして作られたのだろうか。今から6,600~6,000万年前の中生代白亜紀最末期から新生代古第三紀にわたり、現在の大雨見山(国府町、丹生川町、上宝町にまたがる山)を中心に、約100㎢にわたって流紋岩質マグマによる火山活動が起こった。この時できた溶岩や「凝灰岩」、「火砕流堆積物」を主体とする地層をまとめて「大雨見山層群」という。
高山の古い町並みには、道路の両側を流れる側溝がある。江戸時代に宮川上流から引かれている。側溝に雪を詰め込んで雪を解かす消雪溝の役割を果たしてきた。現在も雪が降った朝は早朝から住民が雪かきをする。いっぺんにたくさんの雪を側溝に詰め込むと下流に一気に雪が流れてしまい、下流では押し寄せた雪でダムが出来てしまい、道路に側溝の水があふれだしてしまうことになる。少しずつ、下流の様子に配慮しながら雪を流すのがマナーになっている。
高山の雪は盆地型気候なのでサラサラ雪である。新雪はホーキで掃いて除雪をする。一晩に30㎝余が降って3日続くと1mの積雪となってしまう。1、2月は昼間も寒いので、たくさん降り積もった雪は消えずに圧雪となる。圧雪は最終的には氷の盤となり、住民はツルハシで道路の氷を割らなければならない。
<56豪雪>
高山市で、市民の誰もが自家用車を持つようになったのは、昭和40年(1965)頃からである。昔は雪が多くても、さほど生活に影響はなかった。しかし、車に依存する生活習慣ができると、冬期の交通において雪はどうしても乗り越えなければならない大きな課題となっていった。
昭和55年(1980)12月28日から降り始めた雪は毎日のように20~30㎝降り続け、明治32年(1899)の測候所始まって以来、最高の積雪115㎝を記録し、豪雪になった。岐阜県岐阜市でも21㎝積もっている。1月になってもほとんどの日に雪が降り、一冬の積雪累計は7.19mを超えた。市内の道路は、車がわだちや「グレーチング」の段差場所で落ち込んで大渋滞、屋根の雪降ろしや道路の除雪で大変なことになった。高山の町並みでは、道路を通行止めにして地区民が一斉に雪下ろしをしてまとめて除雪運搬をする事態になった。
道路は官公庁で除雪をしたが、道路脇へ寄せた雪は人力で片付けなければならなかった。屋根から降ろした雪を川へ捨てたり、市民は朝から夜まで「雪またじ(除雪)」に追われた。慣れない作業で、腱鞘炎(けんしょうえん)にかかる人がたくさん出ている。市民憲章推進協議会では、町内会と協力して「雪またじ運動」を展開した。車がなかった時代には、こんな豪雪があってもニュースになっていない。橋の下の残雪は、5月まで残っていた。
乗鞍岳から西に派生する位山分水嶺にあり、位山、船山とともに「位山三山」とも「飛騨三名山」とも呼ばれている。
川上岳の北側は宮川の源流域となり、支流のツメタ谷が入り込んでいる。このツメタ谷沿いの右岸には、高山市一之宮町の天然記念物に指定されている、推定樹齢2,000年、樹高25m、目通り6.9mの「ツメタのイチイ」がある。一方、南側には山之口川の支流大足谷が、頂上近くまで入り込んでいる。
営林署のゲート前に駐車し、ここから大足谷に沿って道を辿り、登山道に入る。この道は植生が豊かで、ブナ、ダケカンバなど広葉樹の自然林が広がる。途中下呂市馬瀬からの道と合流する。川上岳の頂上は草地となっており、360度の展望が楽しめる。
<飛騨三名山の伝説>
この3つの山には、次のような伝説が残っている。 「神代の昔、位山には男神が、そして船山と川上岳には女神が住んでおられ、2人の女神が同時に男神に求愛された。そこで男神は、満月が位山の頂上へ来るのを合図に、先に着いた方を嫁にすると約束された。
川上岳の女神は、自分の山から月を見ると、まだ船山の上にあるようにも見え、すでに位山の上に来ているようにも見えたので、急いで出発したが、船山の女神は、まだ自分の上に月があるので、念入りに化粧をしてから出発した。このため、川上岳の女神に遅れをとってしまい、嫁になることができなかった。
これを悲しんだ船山の女神は、位山との間に大きな溝を作り、行き来を絶ってしまった。その溝が、今の無数河(むすご)川と言われている。また、川上岳の神が、位山との間に作った道が、現在のナベツル尾根である。」(『宮村史』)
また、位山には、両面宿儺(りょうめんすくな)の伝説もあって、「この山の主である宿儺が、神武天皇を即位させた。その時、アララギの木で作った笏を献上した。天皇は即位後、このアララギの木に一位の位を贈り、この山を位山と命名した。」という伝説である。
石工組合が建てた組合員の碑が善応寺の裏側墓地にある。50人の組合員の氏名が裏面に記され、表には「侠骨雄心記念碑」と彫られている。神武天皇の即位2600年を記念して昭和15年に建てられた。「侠骨雄心」は弱い人を助け正義を行なう男らしい強い心の意味。現在石工組合は無くなっている。
組合員の名前を見ると、5段に10人ずつが記され、1段目には水木作右衛門、坂本佐左エ門、山本初次郎、宮地勝太郎、高村菊之助、宮地長吉、西島長太郎、平塚常造、立田里平、宮地新次郎と続く。石積み等の黒鍬(土工)を中心とした職人たちである。宮地長吉は横山家、日下部家の江名子川沿いの石垣を積んだ石工である。
宮峠の不動明王像は宮地敬三という石工が彫った。山本初次郎の孫・山本稔氏は高山別院の鐘楼の基礎石垣を積んでいる。別院の総代が鐘楼建設にあたり、昔通りの積み方で施工してくれと言われ、六角の形で積み上げる「亀甲積み」で、苦労しながらノミで丁寧に仕上げ、鐘楼は昭和49年に完成した。
高山城があった城山公園には、江戸時代から現代まで多くの石碑が建てられてきた。山田秋籟碑、広瀬中佐銅像、白雲山桜花の碑、垣内松三碑、飛騨山娘歌碑、福田夕咲歌碑、館柳湾詩碑など歴史、文学、人物顕彰などの碑がある。城山を散歩しながら、高山の文学と人物顕彰を知る事ができる。
