白鳥神社
御祭神:伊弉冉尊、日本武尊
祭礼日:9月18日
境内社:稲荷神社
由緒:仲哀天皇の御代、村名もなく只茫々たる広野の中に六戸の小家がありました。そこに一羽の巨大な白鳥が来て数日間空中を舞うのを人々は奇異に思いましたが、暫くして白鳥は空高く飛び去り、里人はあの鳥は尋常の鳥ではなく日本武尊の神霊で有ろうと思いました。白鳥は一枚の羽を落としていきましたが、人々は之を拾い小箱に納め岩上に置き之を祀りました。
元正天皇養老年中白山頂上に白鳥が来現し、泰澄大師に先立ちここに至りました。泰澄はここを霊地と感じ、七堂伽藍を建立、白鳥寺を造営し、同時に白山頂上の伊弉冉尊を合祀し一社を創立しました。之が白鳥社で、里人は白鳥の舞った土地を白鳥村と名付けました。その後将軍足利義政の代・地頭が永久保存のため田を寄進しました。本殿は嘉永5年に再建されています。(編集中)
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014_017_白鳥神社
白山比咩神社
白山は日本三霊山にも数えられ、古代から崇敬の対象であった。社伝由緒によれば、崇神天皇の時代に白山を遥拝する「まつりのにわ」が創建された。元正天皇の霊亀2年(716年)に安久濤の森に遷座して社殿堂塔が造立された、と伝わる。
養老元年(717年)に越前の修験僧・泰澄大師によって白山に登って開山。主峰・御前峰に奥宮が創建され、白山妙理大権現が奉祀された、と伝わる。
史料文献初出は、白山比咩神(しらやまひめのかみ)は仁寿3年(853年)10月に従三位に初叙[注釈 1]された。
以後、一宮制度で加賀国一ノ宮と定められ、白山本宮・加賀一ノ宮の白山比咩神社は、平安時代中期から鎌倉時代を経て、室町時代前期に至る約500年間栄えた。
また、白山信仰の禅定道の拠点、加賀馬場・白山比咩神社、越前馬場・平泉寺白山神社、美濃馬場・長滝白山神社のうちの加賀馬場(ばんば)として、白山山頂の管理や入山料の徴収などの利権で潤った。
しかし室町時代中期の康正元年(1455年)以降加賀国に入った本願寺の加賀一向一揆のため年貢米が得られなくなり困窮した状況で、文明12年(1480年)に大火により全焼して、三宮の地に遷座。続く加賀一向一揆の戦乱で白山衆徒は廃絶し、社殿は再興できずその後100年間あまり荒廃した。
白山本宮の社殿堂塔復興は、安土桃山時代に綸旨を受けた前田利家により行われた。社名を白山本宮である白山比咩神社、神宮寺の白山寺も復興・併設、江戸時代は加賀藩主が社の経営をみるところとなった。
江戸時代全期にわたり、白山嶺上の祭祀権(社家権利、札発行、梵字押捺の勧進)と室管理(賽銭収入)を巡って「白山争議」が何度も起きた。尾添村と高野山真言宗、牛首村・風嵐村と越前馬場の平泉寺・比叡山天台宗、美濃馬場の越前国大野郡石徹白、それに巻き込まれた白山本地中宮長滝寺(現 長滝白山神社)、の間で訴訟が起きた。幕府寺社奉行所の裁決が繰り返され、平泉寺の権利に移っていった。
明治時代の神仏分離令により、白山寺は廃され、白山本宮・加賀一ノ宮の「白山比咩神社」と号した。そして歴史史料が調査され、加賀の白山比咩神社・越前の平泉寺白山神社・美濃の長滝白山神社の3社から「延喜式神名帳」に記載された加賀の白山比咩神社が最も古く、全国の白山神社の総本社とされ、白山天嶺の地は本社境内となり奥宮が置かれた。越前・美濃は分霊された白山神社とされた。越前・美濃の白山神社より勧請を受けた他の白山神社も、加賀の白山比咩神社の分霊社に由諸を書き換えた、とされる。
第二次世界大戦後、白山比咩神社は白山神社の総本社として神社本庁の別表神社となり、白山頂上の奥宮を中心とする約3000ヘクタールの広大な地域を本社境内として無償譲与を受け、現在に至る。平泉寺白山神社・長滝白山神社もそれぞれ「白山神社の総本社」を名乗る。
明治42年(1909年)7月23日に御鎮座二千年式年大祭が執行された。昭和33年(1958年)10月3日に御鎮座二千五十年式年大祭が執行された。昭和55年(1980年)10月3日に古宮から三宮の地への御本宮遷座五百年式年大祭が執行された。平成20年(2008年)10月7日に御鎮座二千百年式年大祭が執行された。
平成29年(2017年)、泰澄による白山開山1300年記念奉祝大祭(8月9日~11日)を開催した。(編集中)
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013_016_白山比咩神社
長滝白山神社でででん祭
長滝白山神社の例祭は、5 月に行われる五月祭がある。慶安元年(1648)修正「延年並祭礼次第」(「若宮家文書」)によると 5 月 5 日は正月 6 日と同じく延年の舞が催され、加えて狩馬・御輿御幸行われていたという。
白山三社のご神体を奉じた 3 台の御輿を氏子が担いで、太鼓をデデデン・デデデンと打ち鳴らして御幸されるため、通称でででん祭と呼ばれている。
5 月 4 日に 3 台の御輿を拝殿に奉じ、総代が太鼓を打ち鳴らし、菖蒲・よもぎ・山吹が御輿前に飾られ、ちまきが供えられる。
5 日に神事が始まり、蒲安の舞が舞われる。太鼓が打ち鳴らされると御輿の御幸が始まる。かつては、約 800 m先の二日町駅付近まで行われていたそうであるが、現在は鳥居の外が御旅所となる。
御輿は、東・中・西の順で渡御される。御旅所で祝詞奏上があり、氏子。御輿舁きが御神酒を受ける。御腰は参道を登り、太鼓橋・銀杏坂を経て広庭に登る。広庭を右回りに 3 回ほど廻って、拝殿の左側からそれぞれの社殿に還御される。
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012_015_長滝白山神社でででん祭
関連資料
でででん祭
笥笠中宮神社
笥笠中宮神社は、村上天皇天暦11年(957)4月の創建と伝えられ、笥笠は「けがさ」とも呼び当地区の古地名で、八方を高山に囲まれた蓮華のような段丘に位置していたことと、白山山頂と本宮(白山比咩神社)の中間に位置していたことから、かつては「笥笠(すがさ)中宮」と呼ばれていました。白山七社のうち、別宮・佐羅宮と共に中宮三社と称され、加賀禅定道の事実上の起点であったため、南北朝時代以前には多くの社殿堂宇が建ち並び、白山五院・三ケ寺・中宮八院を傘下に置くなど、白山信仰の中心的な宮として、本宮をしのぐ大勢力でした。
平安末の安元年間、鵜川涌泉寺闘諍の折、三社八院の衆徒が佐羅宮の神輿を奉り比叡山延暦寺を動かし強訴に及びましたが、当社がその領導の任にあったこと夙(つと)に世に知られています。また、境内には七葉樹(とちのき)と桂があり、ともに白山市指定天然記念物になっています。
明治5年12月村社に列し、同10年3月白山比咩神社の摂社に定められ 同40年10月当区内に存した無格社貴峰社を合祀し、大正4年11月6日神饌幣帛料供進神社に指定されました。(編集中)
永平寺
大本山永平寺は1244年、道元禅師が45歳のとき、波多野義重(はたの よししげ)公の願いによって、越前(福井県)に大仏寺(だいぶつじ)を建立し、2年後に永平寺と改められたことに始まります。
深山幽谷の地にたたずむ山門(さんもん)、仏殿(ぶつでん)、法堂(はっとう)、僧堂(そうどう)、庫院(くいん)、浴室(よくしつ)、東司(とうす) の七堂伽藍(しちどうがらん)では、修行僧が道元禅師により定められた厳しい作法に従って禅の修行を営んでいます。
【所在地】 〒910-1228 福井県吉田郡永平寺町志比 TEL:0776-63-3102
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011_013_永平寺
越前馬場 平泉寺白山神社
[住所]福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上
[電話]0779-88-1591平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)は、福井県勝山市平泉寺町にある神社。近代社格では県社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
白山国立公園特別指定区域内にある。正式には白山神社。あるいは白山平泉寺とも称す。しかし、現在は寺院ではない。
白山神社ではあるが、主神を菊理媛神とはしていない。本殿に伊奘冊尊、本殿右の別山社に天忍穂耳尊、左の越南知社(おおなむちしゃ)に大己貴尊(大国主命)を祀る。例祭は4月20日。
奈良時代初期の養老元年(717年)、泰澄大師によって創建された。そもそも早くから白山登拝を志していた大師は、この年白山へ登る途中で林泉を発見。
神託によってこの地が神明遊止の地であることを教えられ、ここに奉斎した。その林泉は今も御手洗池と呼ばれている。なお、この由緒は篠座神社とも共通する。
中世以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られた。白山信仰の越前側の禅定道の拠点、いわゆる越前馬場として、最盛期には48社36堂6000坊、僧兵8000人の巨大な宗教都市を形成した。
『平家物語』には、平家と木曾義仲(源義仲)方との燧ケ城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。
斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。
戦国時代には朝倉氏と肩を並べる越前国の一大勢力であったが、朝倉氏滅亡後の天正2年(1574年)、一向一揆が勃発、逃れてきた朝倉景鏡をかくまったために一向一揆に焼き討ちされ衰亡。
その後、豊臣秀吉などの崇敬を受けて顕海が復興し、江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受ける。
寛政8年(1688年)、いさかいが絶えなかった白山三馬場の問題が江戸幕府により裁定された際に白山山頂が平泉寺領と定められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得。
明治時代に神仏分離令により寺号を捨て現在に至る。
境内の苔は西芳寺と共に有名。旧玄成院(別当・平泉宮司邸)庭園は、昭和5年(1930年)に国の名勝に指定された。
境内は「白山平泉寺旧境内」として国の史跡に指定されている。平成になっても発掘調査が進められており、往時の壮大な遺構が発見されている。
なお、当社は進藤彦興『詩でたどる日本神社百選』に掲載されている。
また、「美しい日本の歴史的風土100選」(平成19年)、「かおり風景100選」(平成13年)に選定され、参道が「日本の道百選」(昭和61年)に、平泉寺から白山までの白山禅定道が「歴史の道百選」(平成8年)に選定されている。
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010_012_越前馬場 平泉寺白山神社
白鳥神社 拝殿踊り
上市白鳥町は、岐阜県を流れる長良川の源流域に位置し、美濃馬場、白山中宮長滝寺(現白山神社・長滝寺)を中心に、白山信仰とともに栄えてきた町です。そして、白鳥の拝殿踊りは江戸時代の中頃から現在の白鳥町各地域において、お盆の時期に神社の境内で踊られていたもので、今は、白鳥神社・野添貴船神社・前谷白山神社などに残るのみとなっています。夕刻、神社の拝殿には大きな切子灯籠が吊るされ、その明かりの下で踊る素朴な踊りで白山の自然の恵みと信仰文化に培われた盆踊りです。
白鳥の拝殿踊りは美濃馬場白山信仰圏に成立した盆踊りである。白鳥及び郡上地域の踊りについては、長滝寺「荘厳講執事帳」(白鳥町史史料編)天和2年(1682)の項に、踊りの記録があり、また享保8年(1723)の経聞坊「留記」(白鳥町史史料編)に「盆中お宮にて踊申事、奉行より停止の書状到来」とあり、江戸時代中期以来、現白鳥町地域をはじめとする寺社境内において、盆踊りが行われていたことが判明する。江戸時代の盆踊りの内容については、「場所踊り」を中心に、いくつかの踊り曲が越前及び荘川方面から伝わり、踊られたと考えられる。白鳥拝殿踊り保存会は、「白鳥神社・貴船神社等でそれ以前まで盆踊りとして伝承されてきた古い踊り種目を伝承していく」という基本線を守ってきた。同保存会は白鳥神社拝殿において8月17日夜、貴船神社拝殿において8月20日夜、楽器や太鼓を伴わない本来の拝殿踊りを行っている。保存会が保存伝承している踊りは以下の8種目である。
(1)源助さん(2)シッチョイ(3)ヤッサカ(八ッ坂)(4)猫の子(5)ドッコイサ(神代)(6)ヨイサッサ(老坂)(7)エッサッサ(世栄)(8)場所踊り
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009_011_白鳥神社 拝殿踊り
洲原神社(すはらじんじゃ)
洲原神社は、今より約1300年前、元正天皇の御代養老元年に(西暦717年)、越前国足羽郡麻生津村、神職三神安角の二男泰澄が加賀国白山の絶頂で厳かな修行行うていられた時に霊夢を感じ、其の状を具(つぶ)さに、天皇へ奏上されたので、元正天皇より泰澄に斎鎮の勅命下り、又当社御造営使として、伴安麿に御剣一口と封戸若干、従者二人に甲胃を添えて下し賜う。養老5年5月、実に宏大荘厳な御社殿が御造営の工を竣え、勅を奉じて泰澄が御祭神をお祀(まつ)り申し上げたのであります。
当社古来「正一位洲原白山」とも称(たたえ)奉り、洵に御由緒深い大社であります。
奈良時代に越前の名僧泰澄(たいちょう)大師によって創建されたと伝えられる洲原神社の社殿は、この近郷には稀な壮麗なものである。この神社は古来農桑の神として尊崇され、江戸時代から洲原講の組織があって各地からの参詣が多かった。
中央本殿
三間三面入母屋造り(いりもやづくり)桧皮葺、前面に向拝(こうはい)がつく。三手先斗組(みてさきときょう)であるが支輪(しりん)はなく、斗組(ときょう)の間に蟇股(かえるまた)を入れ、唐様を主として和様を混ぜ、市内で最も規模の大きい立派な本殿である。
社伝によれば康正(こうしょう)年間に建立し、天正13年(1585)に鉈尾山(なたおやま)城主佐藤歳次郎方政によって修理されたということであるが、さらに江戸時代にも大修理を加えたものと推定される。
東西本殿
どちらも三間三面の流れ造り(ながれづくり)、身舎(もや)は円柱、向拝は角柱を用い、斗組は出組(でぐみ)で勾欄をめぐらしている。江戸時代の建築と考えられるが、本殿と並んで三神殿並立の姿はまことに立派である。(編集中)
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008_010_洲原神社
白山中居神社 (はくさんちゅうきょじんじゃ)
伊野原の郷には、9000年前より人々が住み着き(島口遺跡確認)、本社は縄文時代より、磐境に国常立尊の降神を仰ぎ、祭祀が斎行されたのが始まりで、現在は、七月第三日曜日の夏祭りに、石徹白創業祭が、磐境神事として、執行されています。ご本殿の創設は、景行天皇12年(83)に、白山の真南は、宮川の上流、長龍滝と短龍滝の間、朝日直射し、夕日輝く処に、伊弉諾尊を祀り給えのご神託のあったのが、正月中の日でありました。養老元年(717)越の大徳泰澄大師が白山を開闢の時、当社に3年間滞在し、別山を上社とし、中居神社を下社とした白山参道並びに、中居神社を整備なされました。鵜葺草葺不合尊の二の峰社・神鳩社・今清水社・美女下社等も含めて、神仏混淆となり、鳥居も両部鳥居になりました。そして、現在のご本殿は、安政2年から3年にかけて、福井県は永平寺町第27代大工棟梁玄之源左衛門が建築を担当し、彫刻は同地の後藤簾之助と諏訪の立川和四郎2代冨昌と昌敬の合作であります。本殿の「栗穂に鶉」の彫刻は「七十五歳立川富昌」の花押あり、海老虹梁の龍・脇障子の子育ての獅子は昌敬、大虹梁の菊は冨昌等、優れた傑作として、評価されています。境内は1400年有余の杉大樹が社叢を取り囲み、県の天然記念物指定となっています。今清水社境内には、樹齢1800年の日本一の大杉が、白山信仰の歴史を今に伝えています。四十代天武天皇・四五代聖武天皇寄進の刀剣、六十代醍醐天皇の時代藤原能信寄進白山大鏡五十余品奉納。九十一代後宇多天皇刀剣長光奉納。木曾義仲戦勝祈願立願状・伊藤加賀守秀盛主君豊臣秀吉と家族の立願状。無形文化財として、「五段神楽」、は宮廷を祝う祭りとして、奉納されたのが始まりの無形文化財です。神輿は、白黒の幕で覆われ、12人の担ぎ手により、天狗面を先頭に、御旅所まで賑々しく神楽に囃されながら、出御され、五段神楽の舞を奉納して、拝殿まで遷御の祭礼が、五月第三日曜日の春の例大祭に御神前に奉納されています。秋の祭りは、十月第三日曜日に「新嘗祭」が、「ゲド投げ祭り」として、執り行われています。
特殊神事 磐境神事・ゲド投げ祭り
文化財等 五段神楽
五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。吉田神道は、宝暦騒動の頃に、朝廷を中心とした、天下太平国家安全を祝う祭りの性格を、一地方の単なる春祭りの神楽に移行され、五行舞を五段神楽に改められた。五段神楽は、?舞いの楽器は、5種類であること。?舞いの方向と動きが、5行相生の5行であり、5行の輪廻と環境の舞いであること。?石徹白の五行又は五段のみの特徴として、鳶の舞いがあり、神武天皇の建国時の瑞兆の鳥の鵄(とび)の舞に始まるこの舞いは、建国と天下太平を祈る舞いに最もふさわしいこと。?御旅所への移動に先導して吹奏する笛の曲を五行と呼んでいること。?往事は、最後が舞姫3人が全員で5行相生の舞で終わっていたが、現在は2人が弊と鈴で、五行相生の舞で終わっていること。?巫女の装束は、金色の天冠・白鉢巻・後頭部五色(青・赤・黄・白・黒)のたけなが布・紅白の下着・緋の袴・赤地に金襴の胴衣・白足袋・紙緒草履・その他、たけながの布の色も五行であること。以上6点で五行舞の五行が継承されており、石徹白の五段神楽は、歴史的時代背景は、古代天武期を期限とした五行舞で、その後幕府や大名支配の時代の吉田神道の影響で、五段神楽として、里神楽的色彩を強めつつ、尚、古典の五行舞の要素を強く堅持している無形文化財は、石徹白の春の例祭に、御神前に、一年に1度だけ、奉納されています。
刀剣 天武天皇奉納剣・聖生天皇奉納太刀 能面 父尉(ちちのじょう)「日吉与十郎」墨書銘・男の面 室町時代作品、地塗り胡粉、唇は朱、葉は黒。若い女 「白山参柴山喜蔵天正八二月」寄進の銘、天正八年(1580)制作。女面 室町時代作品、胡粉地の白肉色、眼と歯は黒。天狗面 室町時代作品、「与十郎(花押)」墨書、朱
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