岩手県盛岡の金森氏遺構(第7代頼錦の菩提寺)
金森兵部の碑
金森兵部は少(しょう)輔(ゆう)頼錦(よりかね)と言い、美濃郡上藩(現岐阜県)38,000石の藩主であったが、宝暦8年(1758)に領民騒(そう)擾(じょう)の責任を幕府から問われ、領地没収の上、盛岡藩へ御預けになった。
盛岡藩では、城下内丸に新たに屋敷を構え、御附役を配して厚遇していたが、宝暦9年2月の流(る)謫(たく)から4年余り過ぎた同13年(1763)6月に病死している。享年51歲。埋葬地は、法泉寺の墓所であったこの場所で、碑はこの時に建てられたものである。その後、碑は法泉寺によって大切に守られてきた。
金森家は長く謹慎の身に置かれていたが、嫡孫靭負(ゆげい)が幕府の旗本に召し出されたのを機に、寛政元年(1789)に遺骨は江戸へ引き取られている。
碑の前面に「曹雲院殿性海善理大居士」の法号、後面には「金森兵部頼錦」の実名が、そして左右の側面に「宝暦十三年六月六日」の没年が刻まれている。碑は兵部の望郷の念を慮って、美濃郡上を向いて建てられたと言われる。
平成16年3月 盛岡市
説明板より
国指定史跡 盛岡城跡
所在地 盛岡市内丸1番地ほか
指定年月日 昭和12年4月12日
盛岡城は、三戸(さんのへ)から不来(こず)方(かた)に居城の移転を決定した南(なん)部(ぶ)信直(のぶなお)(盛岡藩初代藩主)が、慶長2年(1597)に嫡子利直(としなお)(第2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められた。
城の縄張りは豊臣家重臣の浅(あさ)野(の)長政(ながまさ)の助言によるものと言われ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二の丸・腰(こし)曲(くる)輪(わ)などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内(うち)曲(くる)輪(わ)(御(ご)城(じょう)内(ない))としている。
さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸(うちまる)地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を配置して外(そと)曲(くる)輪(わ)とした。また、外曲輪の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠(とお)曲(くる)輪(わ)(総構(そうがま)え)が配置されている。
築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後の寛永10年(1633)に南部重直(しげなお)(第3代藩主)が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となった。
盛岡城は、廃藩置県の後明治5年(1872)に陸軍省所管となり、明治7年(1874)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃したが、明治39年(1906)に近代公園の先駆者である長岡安平(ながおかやすへい)の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれている。
平成18年(2006)には開園100周年を記念し、「盛岡城跡公園」と愛称をつけた。
平成21年10月 盛岡市
説明板より
関連資料
2-26-1 金森兵部の碑
2-26-2 国指定史跡 盛岡城跡
資料集
金森氏第6代頼旹、第7代頼錦の菩提寺
慈恩寺
当寺は、八幡城主遠藤慶隆が開基で、大本山妙心寺から半山禅師を迎えた。境内には遠藤慶勝らの霊廟や、金森左京(可英(ありひで)・第4代)の墓、金森頼錦(よりかね)(台近(よりちか))の碑(墓は、宝暦騒動後改易断絶、御預け先の盛岡にある)がある。奥庭の荎草園(てつそうえん)は創建半山禅師の作庭で、池泉廻遊式かつ座観式の室町様式を持つ庭園である。明治26年(1893)、水害で埋没、3年後に復興。園内には、宗和形灯籠と、高山→上山(かみのやま)→郡上へと金森氏と共に運ばれた春日灯籠がある。八幡城主頼錦は、深くこの庭を愛し、詩集「錘山十境記」をまとめている。
リーフレットより
臨済宗妙心寺派 鍾山 慈恩護国禅寺
当寺は戦国時代末期、八幡城主遠藤但馬守慶隆公深く禅門に帰依され、京都花園妙心寺に定慧円明国師(南化玄興禅師)を訪ね、その弟半山紹碩禅師を当地に迎えて教えをこわれ、慶長11年(1606)国泰民安を祈願して建立、半山禅師を創建開山と仰がれる御本尊は、釈迦如来である。寺内に但馬守嫡男長門守慶勝公及び生母智勝院殿の塔所を建立し、当寺を長州公の菩提所と定め但馬守の学問所とされる。元和8年(1622)正月20日、山火事類焼の厄に遭い堂宇全焼するも、但馬守江府より工匠を呼び庫裡(12間・18間)再建後寛永8年(1631)8月、前長州公二の丸御殿を移して本堂(9間・12間)を建立される。当山第2世天外和尚、第3世梅山和尚と3代を経て、堂々たる堂塔伽藍並びに境内の整備を成したと伝えられ、元禄13年(1700)高山城主、金森頼旹公、郡上に移封となり以来当山は、金森公の香花所となる。第6世絹因和尚代勅使を以て寺号に「護国」の2字を賜り、文化14年(1817)勅諡大徹正源禅師(棠林和尚)禅堂建立、雲水80有余員参集して、禅風大いに揚がったのであった。因みに当山は隠山系棠林門下一流の発祥地である。嘉永5年(1852)第12世月局和尚経蔵新築され、禅寺の偉容全く堂々たるものとなる。第13世淅炊和尚代、維新の政変、排仏毀釈の法難に遭い、寺内困窮、第15世綱山和尚代、明治26年(1893)8月22日、県下未曽有の豪雨あり、裡山崩壊し本堂始め諸堂宇埋没、僅かに総門及び勅使門を残すのみの惨禍に遭うも、同29年(1896)本堂裡再建、第17世英山和尚、昭和50年(1975)宝蔵庫建立される。名勝天然記念物「荎草園」は、創建半山禅師の作庭にして、明治被災以前は、広々と本堂の周辺一帯をめぐり、古城跡東殿山を望む庭中のたたずまいなど、往時の雄大さは偲ぶべくもない。併し、現存の借景に依る池泉回遊式の禅宗庭園としては当地方随一を誇るものである。
説明板より
関連資料
2-25-1 慈恩寺(郡上郡八幡町島谷)
2-25-2 臨済宗妙心寺派 鍾山 慈恩護国禅寺
資料集
093_302_金森氏第6代頼旹、第7代頼錦の菩提寺
金森氏6代頼旹、第7代頼錦の郡上八幡城下
山形から郡上へ国替え
①頼旹から頼錦(よりかね)へ
(①は『金森史』一三四~一三七頁より)
元禄十年(一六九七)六月、幕府は金森頼旹(よりとき)に出羽国上山から、美濃国郡上八幡へ所(ところ)替(が)えを命じた。郡上郡百二十一か村(村高二万四千石)と越前国内で六十九か村(村高一万五千石)の合計三万九千石を治めることになった。元禄五年(一六九二)七月、飛騨高山から上山へ移り、五年で再び郡上に国替えとなったのである。
「長滝寺(ちょうりゅうじ)荘(そう)厳(ごん)講(こう)執(しっ)行(ぎょう)帳(ちょう)」の中に、頼旹は、元禄十一年(一六九八)七月六日午後六時頃、三百余人の家来を引き連れて、八幡城へ入城したことが記されている。翌十二年には、参勤(さんきん)交代(こうたい)のため江戸へ赴(おもむ)いた。頼旹のその後の様子は、「鷹の書」の本を書いた以外わからないが、前藩主井上家の方法を受け継いで行なったものと思われる。
頼旹は元文元年(一七三六)五月、六十八歳で江戸芝の邸において亡くなった。
頼旹の後は、息子の可寛(ありひろ)がすでに亡くなっていたので、孫の頼(より)錦(かね)が元文元年(一七三六)十一月、二十三歳で相続した。頼錦は、天文学を研究したり、詩歌や書画を愛する風雅な性格であった。
東常縁(とうのつねより)(郡上篠脇城主)の遺風を慕い、白雲水の碑(東常縁が宗(そう)祇(ぎ)に古今伝授をした由来による)を建て、歌集白雲集の編纂(へんさん)をしたり、多くの書画を書いている。藩政については、八幡城下の宮が瀬の傍らに目安箱(めやすばこ)を設け、領民の声を聞いて藩政に反映させようとした。
延享四年(一七四七)、頼錦は幕府の奏者(そうじゃ)役に任ぜられている。この役目は、大名などが将軍に謁見(えっけん)する時、姓名を申し上げ、献上物の披露をしたり、将軍からの下(か)賜(し)物(もつ)を伝達する役目である。
いつも将軍の側近くで仕えるために、かなりの器量人でないと、勤まらなかったといわれる。また、諸大名との交際も多くあるために、生活も派手になりがちであった。しかも、奏者役に任ぜられる前に、江戸芝の藩邸の新普請で五千両余を費やし、その費用調達に随分無理をしたので、藩財政はかなり苦しくなっていった。そこへ、奏者役になったため、出費がさらにかさむことになった。
これを補うため、二か年分の年貢を前借したり、領内の口番所
(関所の小さいもの)からの税を増やしたり、さらには、日(ひ)傭(やとい)稼(かせぎ)の者からも「日(ひ)役(やく)」という税を取ったりした。それでもなお経費が不足するので、最後の手段として、これまでの定免(じょうめん)法(数年間一定の免の率を定めて取る方法)から、検(け)見(み)取(どり)(年毎に収穫高を計算して免(めん)(貢租の割合)の率を定めて取る方法)に改めようと
した。この方法になると、農民側ではこれまで公然と持っていた隠し田が見つかったり、検見のための坪刈りの方法によっては、過酷な年貢になる心配もあった。
②金森頼錦(金森氏第七代)
(②は『越前大野城と金森長近』一四六頁より)
頼錦(又太郎、兵部)の祖父は頼旹、実父は長門守可寛、母は家女、妻は駿州田中城主、本多伯耆守正永の女である。正徳三年(一七一三)江戸に生まれ、享保十四年(一七二九)九月三日祖父頼旹の願の通り、嫡孫として後を継ぐことになる。
享保十四年(一七二九)九月二十八日将軍家継公、家重公へ御目見、巻綾二、馬代献上した。同年十二月十六日従五位下若狭守敍爵。
元文元年(一七三六)七月十八日、頼旹の遺領頂戴し兵部少輔となった。
元文元年(一七三六)七月七日、西丸登城のところ勅使冷泉大納言為久卿葉室前大納言頼胤卿御馳走御用仰せ付けられたが、冷泉卿は病気のため御下向中止となった。
元文五年(一七四〇)五月朔日初めて御暇下し置かれ、巻綾十句、銀二十枚拝領、西丸よりは巻綾五拝領した。
寛保元年(一七四一)四月より翌年まで出火の節、大手組防仰せ付けられ、同三年四月より翌年まで出火の節、桜田組防、同四年五月十五日御奏者役仰せ付けられた。
宝暦元年(一七五一)家継公薨去(こうきょ)の節は、増上寺にて御法事中
両門勤番、同月十二日御座間にて山門勤番。
宝暦六年(一七五六)八月千代姫君誕生し、御祝として襁褓(むつき)二
献上、西本丸へは酒肴料献上。
宝暦八年(一七五八)十二月二十五日御咎(とが)めあって領地八幡城
取り上げられ、奥州岩手郡盛岡城主南部大膳大夫利夫へ永の御預となった。
御咎とは美濃越前に一揆が起こり、特に郡上領内百姓一揆、越前石徹白事件の責任追究の結果である。
宝暦十三年(一七六三)六月六日配所盛岡にて病死、享年五十一歳、同所法泉寺に葬った。寛政元年(一七八九)五月十四日菩提所江戸渋谷祥雲寺へ改葬したいと願い出たため御用番井伊兵部少輔のはからいにより許されて、同年八月八日同寺へ改葬し法名曽雲院殿性海善理大居士と号した。
これにて金森本家は断絶となった。頼錦には七男二女の子供があったがいずれも父の御咎改易のため同様改易となったが在世中いずれも御免となった。もっとも頼錦は永の改易で許されずに、病死した。
③郡上藩石高の内訳
(③は『越前大野城と金森長近』一四一~一四五頁より)
元禄十年(一六九七)六月、頼旹は郡上八幡へ再転封、三万八千石である。
八幡は美濃郡上郡で長良川に沿う小都市であるが、領地は郡上郡と越前大野郡、南条郡、今立郡とにある。細別すれば郡上郡に約二万石、越前三郡に約一万八千石となっている。― 中略 ―
〈大野郡における郡上領(五十八ヶ村)〉
三石七斗三升六合 市布村 七石八斗九升八合 上半原村
七石六斗三升二合 下半原村 三石七斗五升一合 荷暮村
九石 久沢村 十石五斗 伊勢三ヶ村
四石九斗 米俵村 十石九斗一升 穴馬大谷村
八石七斗八升四合 野尻村 十四石三斗九升 長野村
三石五斗八升 鷲 村 九石二斗九升 下大納村
十三石三斗 下山村 五石六斗一升九合 貝皿村
十二石四斗三升四合 河合村 二石七斗六升 伊月村
七石六升三合 朝日村 九石八斗五升 角野村
八石六升九合 後野村 四石一斗二升八合 朝日前坂村
三石二斗六升 角野前坂村 五石二斗九升九合 板倉村
四石五升 仏原村 三十八石二斗二升一合 西勝原村
九石二斗七升 東勝原村 五石五斗六升 下打波村
六石八升二升 上打波村 六百九十五石二斗一升 上野村
六百十五石八斗三升四合 御給村 五百十六石八斗五升九合 吉 村
三百八十一石九斗一升九合 森政領家村 百二十五石五斗六升 森山村
百十九石四斗二升五合 平沢地頭村 六百五十二石五斗八升三合 平沢領家村
八百七十七石二斗三升八合 木本地頭村 四百二十七石八斗九合 木本領家村
四百二十七石八斗九合 木本新田村 五石五斗 巣原村
二百十六石二斗二升 新河合村 二百八十石三斗 土布子村
二百七十一石一斗五升 井口村 百二十五石三斗 川島村
百五十二石四斗一升 北山村 二百四十九石六斗 発坂村
四百石六斗九升 別所村 七百三十六石 細野村
六百二十一石二斗 野津又村 百十四石七斗四升六合 横倉村
百六十八石一斗七升 御領村 三百九十六石五斗六升 薬師神谷村
三石 木合月村 百八十一石七斗一升 根橋村
九十石六斗三升 小原村 百三石五斗一升 田名部村
三百七十六石一斗八升 松田村 九十六石六斗 暮見村
四百四十石一斗二升 寺尾村 六百八十五石九斗八合 若猪野村
三百三十石八斗一升 下高島村 二百六十三石四斗九合 北市村
二百六十五石一斗六升 上高島村 三百六十四石八斗五升 大渡村
三百五十五石二升 岩ヶ野村 二百四十八石二斗七升 大矢谷村
二十二石八合(大矢村枝) 蓑輪村 百四十六石九斗 石谷村
六百九十三石一二升 松丸村 高無 上中下 石徹白村
合 計 一万三千九百五十二石五斗四升五合
〈南条郡における三ヶ村〉
九百二十九石八斗一升 千福村 八百三十六石三斗八升一合 妙法寺村
五百四十九石六斗五升二合 上中津原村
合 計 二千三百十五石四斗一升四合
〈今立郡における四ヶ村〉
五百九十七石三斗八升 生谷村 五百五十八石七斗 和田村
二百三十二石五斗九升三合 上野枝村 百九十八石五斗六升八合 蝉口村
合 計 千五百八十五石二升四斗一合
第7代 金森頼錦
①金森頼旹の郡上八幡支配
頼業の子として寛文九年(一六六九)に生まれ、同十二年四月五日幼年で遺領を継いだ。幼名は万助、改めて頼時といい、のち頼旹とした。天和三年(一六八三)十二月四日、従五位下出雲守となり元禄五年(一六九二)七月二十八日に長近以来の居城であった飛騨国高山城を取り上げられて(国主として飛騨一国を領有していた)出羽国上ノ山に移されたが、落ち着く間もなく同十年六月十一日に郡上城に移され、郡上及び越前国大野郡の一部を領有することになった。
②金森頼錦の支配
正徳三年(一七一三)に生まれ、名は又太郎といいはじめ台頼(かつより)のち台近(かつちか)と改めた。享保十四年(一七二九)九月三日に父可寛(ありひろ)が若
死したため(「地方発達史と其の人物」では十三年)、祖父頼旹の家督を継ぎ、同年十二月十六日従五位下若狭守に任ぜられ、元文元年(一七三六)七月十八日に二十三歳で遺領を継承して兵部少輔と改めた。同三年五月一日初めて城地へ行く暇をもらい、延享四年(一七四七)五月十五日奏者番となったが、宝暦八年(一七五八)九月二十七日に不審を被って仮に松平忠名に預けられた(十月二日)。「飛州志続藩翰譜」には「その事由は今日に至るも詳らかでない」とされている。領内の租税問題で農民の強訴・駕籠訴が起こり、また石徹白の社人追放の時、家臣らの曲事があったことも知らず、また石徹白豊前の悪事についての訴訟に対してもその尋問をせず、幕府の審理によって初めて豊前の罪は明白になったので、「これを知らないで多くの社人を追放したその罪は重い」として領地を没収されて同年十二月二十五日に改易され、南部大膳大夫利雄に預けられて同十三年六月六十一歳で没した。
③典雅だった金森頼錦
頼錦(一七三六~五八)は武人というよりもむしろ文人ともいうべき人でちょうど常友を思わせる藩主であった。性格が温和で文雅に深い関心を持ち絵画にも優れ、神社・寺院へ絵馬を描いて奉納した。― 中略 ― 彼は先人の遺績顕彰のため著名な事績の修復に努め、まず寛保年間(一七四一~一七四四)に東殿山の城跡を保存するため大学頭林信充に作文を依頼し、石碑に銘を刻んでこれを建てた。現在は慈恩寺(乙姫町)境内に移されている。
さらに小野滝山の古戦場にも石碑を建てて、戦没した先祖可重の家臣の霊を慰さめ、常縁・宗祇の遺跡白雲水の傍らにも石碑を建ててこの碑文もまた林信充に作らせた。
常縁の遺風を慕い、白雲水の名跡を長く後世に伝えようとして、和歌の上手な公家・諸侯らに頼んで三十首を手に入れ、鳥丸大納言光栄にその清書を願って白雲集と題し、これを慈恩寺に納めた。
(①~③は『郡上八幡町史』二七九、二八三頁による。)
八幡城の沿革
永禄2年(1559)遠藤盛数が東殿山(市街地南方)の東家を滅し八幡城を築いたのがこの城の創始である。後、秀吉が天下を統一し、領地20,000石を没収せられて加茂郡小原に転封され稲葉右京亮貞通が城主となり城郭を修築して天守台等を設けた。やがて関ヶ原合戦が起こると遠藤慶隆は家康に味方し、慶長5年(1600)再び遠藤氏が城主となった。
元禄5年(1692)遠藤氏後嗣なく没収せられ常陸より井上正住が城主(40,000石)となって来封したが間もなく同11年金森頼旹がこれに代わって封せられた。宝暦8年金森頼錦の晩年になって失政のため農民困窮甚だしくついに金森騒動宝暦義民の一揆が起こり、そのため一家は断絶され、同年丹後国宮津の城主青山幸道が代わって郡上藩主となり八幡城下48,000石を領することになった。その後藩政よく治ってその後明治維新によって廃城となり、昭和8年旧跡に模擬天守閣が作られた。
説明板より
郡上八幡城由来
永禄二年(一五五九) 遠藤盛数が東家を滅ぼしこの八幡城を築いた。
その後 遠藤氏加茂郡小原に転封、稲葉右京亮貞通が城主。
慶長五年(一六〇〇) 関ヶ原合戦時、金森長近と遠藤慶隆は稲葉を攻め、落城。
遠藤氏が再び城主となる。
元禄五年(一六九二)遠藤氏後継ぎがなく没収、常陸より井上正住が来て、城主。四万石。
元禄十年(一六九七)金森氏六代頼旹、山形県上山から来て、城主に。
宝暦八年(一七五八)金森頼錦の代に宝暦騒動、金森氏改易。
丹後国宮津の青山幸道が郡上藩主となり、明治を迎えた。
関連資料
2-24-1 山形から郡上へ国替え
2-24-2 第7代金森頼錦
2-24-3 八幡城の沿革
2-24-4 郡上八幡城由来
資料集
金森長近の美濃市城下町
最初の美濃国の姿
美濃市の町並みは国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。東西方向の2筋の街路と南北方向の4筋の横丁からなる町並み。「目の字通り」といわれる。
金森長近は関ヶ原の戦いの功績で、美濃上有知2万5千石と河内国金田(かなた)3千石の領地を拝領した。
<牟義都国(むげつのくに)>
最初の美濃国は、牟義都国一国であり、牟義都国すなわち美濃国であった。この都は津と同じく「の」の意であるから、牟義都国は牟義の国のことであり、ここは近畿の前衛基地として非常に重んじられ、上古より最も早く開けたところである。
上有知はその中心首都であり、国造(くにのみやつこ)の所在地として「内(うち)の郷(さと)」という。この内の郷は、のちに冨本の庄とも、内の庄とも呼び、今より千年余り前の菅原道実の延喜年代の頃までは有知郷と称し、その後に上下の両有知に分離した。その時代は不明。
要するに上有知とは、有知郷の上方(かみかた)の意であり、鎌倉時代には上有知、又は神地と書いてこれをカミウチ、又はコウズチと呼んだ。神地とは御厨(みくり)、すなわち伊勢神宮の御料地をいう。
<上有知の領主>
源経基(美濃源氏の祖となる)が美濃国守となった。源頼光は経基の孫で丹波の大江山の鬼退治で有名である。その頼光の子孫源頼資(よりすけ)及びその長子の頼綱、次子の頼保(やす)は相次いで上有知の蔵人(くらんど)となる。
応仁以前の領主及びその年代ははっきりしないが、清和源氏の流れである美濃源氏が、上有知を領して代々相伝え、すべて地頭領主となってこの地に来住した者は、ことごとく上有知氏を継承したようである。
<鉈尾山城主佐藤清信>
佐藤将監六左衛門尉清信は斯波義統に属し、天文九年(一五四〇)八月「藤城」を改築拡張して鉈尾山城を築いた。― 中略 ―
<第二代城主佐藤秀方(まさ)>(秀方の妻は長近の姉)
佐藤隠岐守六左衛門尉秀方(まさ)ははじめ斯波氏に属し、のちに織田信長に仕う。有名な信長の母衣武者二十人衆の内に列していた。秀方の妻は、のちの小倉山城主金森長近の姉である。従って佐藤家と金森家とは、最も近い姻戚関係にあった。
元亀元年(一五七〇)五月九日秀方は、義弟の金森長近とともに千種城を攻めた。天正二年(一五七四)二月秀方は、長近とともに信長の長島攻撃に出陣し、東一江より発進す。
天正三年(一五七五)四月甲州の武田勝頼は、徳川家康の家臣奥平信昌の守備する三州長篠城を包囲す。信長は、秀方及び長近に命じ家康の援軍として信昌救援に向かった。秀方長近の両名は、家康の臣酒井忠勝とともに武田勢を鳶巣山に襲って勝ち、功績を上げた。
天正十年(一五八二)六月二日の本能寺の変を聞いた秀方は、ともに明智を討つ旨を早馬に託して大野城主長近に告げ、直ちに徳川家康に書状を送ってともに明智を討つ同意を得た。そして大野より出陣せる長近の軍を迎えて岐阜に出て、家康の軍と合流して上洛し、秀吉の軍と協力して光秀を山崎に討滅した。山崎の合戦の後、秀方は秀吉に属した。所領は二万五千石。
天正十一年(一五八三)正月岐阜城主織田信孝は、越前北之庄(福井)の柴田勝家と謀り、岐阜城に拠って秀吉に反抗す。郡上八幡城主遠藤慶隆は信孝救援の為、兵二千を率いて武儀郡橘(たちばな)山に陣した。秀方は、秀吉の命により正月八日これと橘山に戦い、木尾(こんの)の母野(はばの)に降した。翌十二年小牧山の役に秀方は兵四百を率いて出陣、長近とともに内窪(うちくぼ)山の砦(とりで)を守っている。
〈秀方は萩原の諏訪城主に〉
天正十三年(一五八五)秀方は、秀吉の命により長近の飛騨攻略の援軍として金山より進発し、萩原を攻めてこれを降し飛騨路を平定した。翌十四年金森長近が飛騨の領主となると、高山城及び古川の増島城とともに飛騨三城の一つに数えられる萩原の諏訪城の城代となった。
文禄元年(一五九二)征韓の後に秀方は、兵百五十を率いて肥前名護屋に出陣し、長近とともに十四番隊に属している。
文禄二年(一五九三)秀方は、水難を避けて保寧寺を古町の東方の高地、尾沢山の西麓にある、美濃源氏の流れである上有知蔵人以来の上有知の総氏神として住民の崇敬を集めて居た産土(うぶすな)神、熊野神社の前方南寄りの地に移して改築し、これを泰岑(たいこん)山以安寺
と号し、寺領三十石の外に尾沢山を寄進した。それより「尾沢山」を「以安寺山」と呼ぶ。
秀方は文禄三年(一五九四)七月二十日卒、法名は以安寺殿泰岑以安大居士。墓は清泰寺中にあり。
<第三代城主佐藤方政(かたまさ)>
佐藤才治郎方政は、秀吉に仕えて所領二万五千石。飛騨より領内に侵攻せる飛騨国司三木大和守の残党を桐洞に破る。
佐藤方政は、当時、岐阜城主織田秀信に属し侍大将となる。はじめ秀信は家康に味方し、七月一日関東に向かって進発すべく着々と準備していたところ、三成ひそかに秀信に密使を送り、五奉行の連判をもって「戦勝の暁は、秀信をもって濃尾両国の主とする」という約束をもって誘った。秀信の意、大いに動き三成に味方した。
岐阜城中の軍議において方政等は、城兵わずか六千五百の寡兵で、金華山の天嶮によって東軍を防ぎ、西軍の来援を待ってこれを挾撃せんと極力建議せしも、秀信は男らしからずとして斥(しりぞ)け、華々しく木曽川の要害に出撃を決す。
〈方政は織田秀信の臣として東軍と岐阜城で戦う〉
方政は、胸中すでに討死を覚悟し、慶長五年(一六〇〇)八月二十二日木造、百々とともに手兵三千二百を率い、先手として新加納と米野の間に出陣して奮戦したが、衆寡敵せずついに破れて岐阜城に退く。岐阜城の軍議に際しても方政は、残兵をまとめて岐阜城の要害に立て籠(こも)ってこれを死守し、西軍の来援を待って挟撃すべしと再び力説したが入れられず、秀信の命によりやむなく兵を分散して、外郭山麓の所々の砦(とりで)を守った。時に残存せる援軍は侍大将方政ただ一人、他はことごとく秀信の家臣のみ。
潮(うしお)の如く押し寄せる大軍に瑞竜寺山の砦まず破れ、その他の砦も次々に陥ち、敵兵大挙して岐阜城に迫る。方政は搦手(からめて)裏山の百曲(まが)り口を死守して大いに防戦に努めたが大手(おおて)七曲り口すでに破れ、方政は百曲り口において壮烈なる戦死を遂ぐ。しばらくして岐阜城陥落し織田氏滅び、上有知の鉈尾山城も哀れ廃城となる。
一説には、方政は岐阜城を落ち延び、母の閑居する西美濃石津乙坂村に潜居し、大坂冬の陣起こるや直ちに大坂城に馳せ参じ、慶長二十年(一六一五)五月七日大坂夏の陣に大坂落城の節、浪花城中において壮烈なる戦死を遂ぐという。
〈方政は岐阜城を落ち延び萩原にいたという説〉
また、飛州史等には、方政は岐阜城を落ち延び、叔父の金森長近の陣へ来降す。よって長近の養子の金森可重(ありしげ)は方政を萩原の諏訪城に送り家臣として居らしむ。しかるに大坂の役起るや、方政はひそかに諏訪城を脱出して大坂城に入り、秀頼の馬前に華々し
く討死して臣節を全(まっと)うすという。
法名は佐岩院殿以徳道隣大居士。慶長二十年(一六一五)五月七日卒となっている。
今日、八幡神社の前の宝物庫の裏手、参道の西側に、八幡神社創建の鉈尾山城主佐藤家を祀るささやかな社殿がある。
<鉈尾山>
戦国時代佐藤氏三代の城。四方釣り壁の要害で、鉈1丁で壁を切り落とす備えがあったと伝えられ、鉈尾山の名はこれに由来するともいう。
鉈尾山は現在古城山という。最初は七尾山と呼び、この山には白藤が多いところから、花盛りの美しい山の姿を見て後にこれを藤白(ふじしろ)山と呼びその藤白山に城を築いた宗信が、その城を藤城と名付けたのでこの山を藤城山と呼ぶに至った。村瀬藤城の号もこの山名による。
宗信が藤城を築いてから、清信が鉈尾山城を築くまでには七十余年の歳月を経ているから、かなり腐朽していたことが推察される。この山は、裏は岩山で道なく前の谷は深くして嶮岨である。
清信がこの山頂に築いた城は、東西二十一間、南北十八間四方とともに「釣り壁」の要害で、鉈(なた)一丁にて何千騎にても防ぐ故に、七尾山にちなんでこれを鉈尾山と名付けたという。また刀尾山とも呼ぶ。ここに城があったから城山とも言い、後世これを古城山と呼ぶに至った。標高437m、比高317mの高所にある。
この鉈尾山城は、東京帝国大学の辻善之助教授が実地について詳しく調査して賞讃された如く、群雄割拠の戦国時代、佐藤家の全盛時代につくられ、城構えとしては楠正成の千早城に比すべき日本有数の築城の妙を備えた、最も優れた山城であったという。
金森長近は当初この城に入り、小倉山城を築くとこの城は廃城となった。
『高山市史・金森時代編』より
金森長近は上有知領主に
<長近は姻戚佐藤家の上有知を懇望>
関ケ原合戦の功により大垣藩十万石に転封を仰せ出された時、開発半ばの飛騨に愛着を持つ長近はこれを辞退し、姻戚佐藤家の旧領を特に懇望す。家康はその請いを入れ、十月五日佐藤家の旧領上有知の二万五千石に、別領として河内国茨田郡金田(かなた)に三千石、計二万八千石を新たに加封せらる。
長近は家康の許しを得て、飛騨三万八千石を養子の可重に譲って第二代の高山城主とし、加封地二万八千石を自己の隠居分として上有地に来住し、鉈尾山城の城主となる。しかし長近は鉈尾山城に住まず、邸宅を尾崎丸山に構えて居住す。
翌六年より尾崎丸山の築城に着手し、大野の亀山城・高山の兜城の経験を生かし、その雛形とも言うべき壮麗なる三層楼の天守閣を持つ堅城を完成し、尾崎丸山を小倉山と改称し、城を小倉山城と名付け、金に飽かして邸宅小倉庄館を本丸に建てて移り住む。また谷戸と志津野に支城を築く。
<小倉山城跡>
百戦錬磨の武将長近は、越前大野の亀山城や高山城、古川の増島城や萩原の諏訪城建設の豊富なる体験を生かして、小倉山の中腹に三層楼の天守閣を持つ、実に堂々たる平山城を築いて、不時の攻撃に備えたのである。
城跡は、藍水の水が北方の山裾を巡って流れる風光明媚な小倉山の南麓の台地、現在の小倉公園の中心部である。今はただ高さ二間余、延長約五十余間の千畳敷といわれる石垣と、西南隅の大手門の石段に、わずかに往古の城郭の偉容を偲び得るのみである。
「天上影は替らねど、栄枯は移る世の姿、垣に残るはただ葛(かづら)、
松に歌うはただ嵐」、げに荒城の月の歌さながらの大手門の石段を感慨深く登れば、上段の平地に出る。ここが在りし日の本丸跡であり、嘗つてはめぐる盃に影さして春高楼に花の宴を催した、三層楼の天守閣や壮麗な館があった。しかし上有知の金森家断絶の後に幕府の命により、当時の濃州郡代岡田将監の手によって跡方もなく取り壊されてしまった。
徳川家康は天下統一の実権を握るや、諸大名に命じて領主の居城以外の一切の城郭を全部破却せしめた。古川の増島城も萩原の諏訪城もその時に破却された。家康はさらに武家諸法度を発令し一切の築城を禁止し、居城の修理といえどもことごとく許可制とした。
その後、上有知領には領主を置かず幕府の直轄地すなわち天領となし、大久保石見守の同心、石原清左衞門正房が本領代官として派遣された。代官の陣屋は、今の村瀬藤城の碑の前面のところにあった。五年後の元和元年(一六一五)より尾州領となり、国奉行藤田民部の同心瀬戸兵衞が代官となって来住。十二年目の寛永三年(一六二六)より天明四年(一七八四)まで百五十八年間、再び本藩直轄となる。天明四年(一七八四)より再び尾州領となり、明治の廃藩に至るまで八十五年間代官を置いて支配した。現在、山頂には3階建ての展望台が建てられている。
<城下町上有知の建設>
越前大野市の発展並びに飛騨の高山市発展の基礎が、ことごとく長近公によって築かれた如く、我が郷土美濃市の発展の基礎も、実に長近公によって築かれたのである。― 中略 ―
長近公は上有知に移った後、慶長七年(一六〇二)旧四月十六日この怒りの川の大氾濫のために、城下町の下渡六反小者町古町古城跡堂塚の地が押し流されてことごとく荒廃に帰した時、この
惨害を目(ま)の当りに見た。
是非ともこの城下町を永遠に水禍より救わんと志し、直ちに難民救済と同時に城下町の移転再建を計画し、清泰寺の鉄松和尚に謀る。鉈尾山の西南麓小倉山城の眼下南面の長の瀬の低湿地の向こうに、あたかも亀の甲形に展開する城郭内の無人の原野を開拓してこれを亀ヶ丘と名付け、越前の大野、飛騨の高山の如くに小
倉山城を扇の要(かなめ)として、城から一目に見渡せるように一ノ町、二ノ町の上町(うえまち)六町を整備した。
城下町を低地の下渡六反地方から高地のこの亀ヶ丘に移し、向こう三か年間は一切の租役を免除し、以後は清泰寺の寺領三十石を納むれば一切の運上を免除して、極力城下町を保護育成した。
そのために移転は速かに完了し、慶長十二年(一六〇七)八月十五日及び翌十三年四月二十一日の大洪水の災害から救われたばかりでなく、岐阜県治水誌に残る慶長十六年(一六一一)八月十二日以後今日まで実に百回以上にのぼる長良川の大洪水の水禍及びその恐怖より完全に救われたのである。
上有知は、かくして金森長近公の大英断によって救われたのである。明治の中頃までは、六反沖には至るところにまだ深い泥田があったという。しかも亀ヶ丘は地形上風害も少なく、また、濃尾震災において現実に証明された如く、地下は一枚岩の大磐石であるために地震による被害も少ないという。― 中略 ―
上有知の町筋が、行き当たりの鍵形に折れ曲がっているのは、防備を主とする城下町の特色である。― 中略 ―
城下町を亀ヶ丘に建設して以来、この城下町の上町六町を根幹として、長近公の積極的な殖産興業政策によって、小高山と呼ばれるこの山麗しく水清き、静かに落ちついた上有知は目覚ましい発展を遂げて行った。
<港町の事>
長近の英断によって城下町が亀ヶ丘に移ると同時に、当時の唯一の交通運搬の機関たる長良川の水運の要衝は、下渡より港町に移り、爾来この港町は舟及び筏(いかだ)の寄港発着地として、上有知の表玄関となり、港は益々盛大となって、上有知発展の基礎をなすに至った。
そこには水の神様である住吉神社が勧請(かんじょう)されており、今に残る港の灯台は、摂津の住吉神社の灯台を移したものであって、わずかに繁華なりし当時の港町の面影(おもかげ)を留めている。
長近は美濃和紙、生糸などの産物や上流の金山方面から運ばれる木材運搬の中継基地として整備した。
<金森長近公と産業>
長近は上有知の領主となるや、高山におけると同様に領内の産業の振興と、領民の生活の安定と向上に力を用い、紙茶雨傘養蚕生糸織物等を極力奨励した。すなわち長近公は山間部に茶の生産を奨励し、宇治の茶や徳川家康の奨励した静岡の茶とともに津保の茶を生み出した。最近まで宇治の茶はその大半が潮風の当たらない津保の茶であったという。
紙の生産には最も力を尽し、綿も上綿を産出し、傘の製造も立花方面で奨励し、傘紙茶袋の生産を盛んにした。また、養蚕を奨励指導し、曽代糸曽代絹は京都において特に珍重された。養蚕が盛んであったことは浅井図南の日記の中に「明け行けば二十四日なり。かど近く人馬の行き交う声とて、誰が旅立ちにやと思う。起き出で人に問えば、是れなん桑市なり」とあるのでもわかる。
長近は、城下町を亀ヶ丘に建設するや、上町六町の南方丘下に、先に鉈尾山城主佐藤秀方公が開いた市場を拡張して、枝村商人をしてここにおいても紙座を設けさせ、六斎市を上有知でも開かせた。かくして紙の市場は、大矢田より自然に地の利を得た上有知に移るに至った。
六斎市とは一と六の日、あるいは二七、三八、四五の日と市日を定めて月六回、定期に開く市のことであり、月三回開くのを三斎市という。長近公は三八の日を市日と定め三日八日十三日十八日二十三日二十八日と月六回ずつ紙市を開かしめた。もちろん、紙市には原料の市も同時に開いた。当時他国の市はほとんど三斎市であったのに、大矢田上有知は六斎市であった。従ってこの市がいかに盛んであったかがわかる。― 中略 ―
こうした積極的な保護奨励政策によって、牧谷をはじめ美濃国領内の紙業は非常に盛大となり、それに伴なって上有知の紙商、原料商も増加して城下町は大いに繁栄して行った。古書に楮問屋十三戸、年間四千四百五十両、反古紙出(ほごしで)は年間二千四百二十両に
及ぶという。
金森家断絶の後も、代官所は長近公の諸政策をそのまま引き継ぎ、一層これを保護奨励したので、長近公亡き後も引き続き市場は発展し、紙業は益々発達し、城下町上有知はいよいよ盛んになって行った。
<美濃市上有知領(道中記)>
〈金森家古文書〉
七月二~十日にかけての江戸から上有知までの道中記である。
旦那発足七月二日に相定め候(ニ) 付き左の通り宿割相究め候。御承知の上滞り無く御順達下さるべく候。
若(も)し指し合ひ等これ有り候ハゞ江戸旦那屋敷へ早速御知らせ下さるべく候。此の宿割の書簡濃州郡上渡辺外記・瀬川仁兵衛方へ遅滞無く相達し候様成され下さるべく候。以上
金森兵部小輔内 申熊崎幸左衛門 □印 六月朔日 鷲見孫助 ㊞
七月二日 蕨 休 わらび
同 日 桶 川 泊 おけがわ
同 三日 熊 谷 休 くまがや
同 日 新 宿 泊 しんじゅく
同 四日 松 井 田 休 まついだ
同 日 軽 井 沢 泊 かるいざわ
同 五日 望 月 休 もちづき
同 日 和 田 泊 わだ
同 六日 塩 尻 休 しおじり
同 日 煮 川 泊 (贄川)にえかわ
同 七日 福 嶋 休 ふくしま
同 日 須 原 泊 すはら
同 八日 妻 籠 休 つまご
同 日 中 津 川 泊 なかつがわ
同 九日 大 湫 休 (大久手)おおくて
同 日 御 嶽 泊 みたけ
同 十日 太 田 休 おおた
同 日 上 有 知 泊 こうずち
右宿 御本陣中 尚々、御承知の上、印形成され下されべく候。以上
◎ 旦那=主人=金森長近
◎ 申=慶長十三年(長近は同年八月伏見において他界)
◎ 兵部小輔=長近のこと。官名。
小輔=尚書(中国での用語。江戸時代に使われていたかは不明。)
※蕨から太田までは中山道である。
七月三日の「新宿」は群馬県高崎市の「新町宿」と思われる。
『高山市史・金森時代編』より
上有知の金森家の断絶
第二代小倉山城主金森長光は長近の二男、極めて晩年の子にして幼名を千代丸という。慶長十三年(一六〇八)八月十二日父逝去につき、家督を継承して名を五郎八長光と称した。時に年わずかに三歳。
〈長光の死〉
徳川家康は、長光を駿府城に招いて佩刀(はいとう)を賜わった。しかるに長光は、慶長十六年(一六一一)八月二十三日寿(よわい)わずか六歳にして病死してしまう。家督を継ぐ者なし、よって上有知の金森家はついに断絶す。
家康は深くこれを憐れみ、飛騨高山二代目の城主金森可重を駿府に召して慰め、旧領の河内国金田三千石を長光の生母久昌院禅尼に賜い、さらに旧領の内の下有知生櫛横越笠神極楽寺の四千石を久昌院禅尼及び家老の肥田主水(もんど)、池田図書、鳩四郎左衞門に各千石宛を賜い、三家老を旗本に取り立つ。而して残余は江戸御蔵入りとなる。久昌院禅尼は京都の金龍院に移り住む。
京都金龍院に金森家歴代の墓があったが、明治初年に金龍院は廃寺となったため、墓は今、京都大徳寺の塔頭龍源院にある。
美濃市清泰寺には金森長近の二男・金森長光の墓がある。
『高山市史・金森時代編』より
史跡 鉈尾山城跡
鉈尾山城は、戦国未期の佐藤氏3代の城であり、美濃市内の代表的な山城跡の一つである。この城は永禄6年(1563)に佐藤六左衛門清信によって築かれたと言われている。鉈尾山の由来は、四方を釣壁で構えられ、鉈1丁で壁を切り落とせば何千騎も妨ぐことができたことに由来すると言われる。
第2代城主の秀方は、織田信長の家臣として戦功を挙げ、続いて豊臣秀吉にも仕えて一時は飛騨の一部も領有した。
第3代城主の才次郎方政も、豊臣氏の家臣として各地を転戦したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの時、西軍に属したため、戦後改易となった。
関ヶ原の戦いで東軍に属した飛騨高山城主金森長近は、戦後武儀郡を加封され、新たに上有知(こうずち)に小倉山城を築いて居所とした。これにより、鉈尾山城は廃城となった。
鉈尾山城は、山麓からの高さが約350ⅿを超え、あちこちに岩肌があらわれる険しい山上に築かれている。このような天然の地形を最大限活かした上で、多くの曲輪(防御の要となる平坦なところ)を設けている。また、注意深く観察すると、所々に石垣の跡も残されているのが確認できる。
佐藤氏も通常の居所は山麓の長良川沿いに設けており、鉈尾山城は有事の際の備えとしての性格が強かったものと考えられる。
美濃市教育委員会
説明板より
関ヶ原合戦後の金森長近―上有知時代から晚年への動き―
金森長近は、「上有知旧事記」によれば関ヶ原戦後、家康と一緒に稲葉山城に登った時に、「信長公在世中、この山へ来た者、今は法印と2人だけになった。相変わらずの味方に満足、何なりと望みを。」と言われて佐藤領と上有知築城を願い、やがてその望みは達せられた。
史料「上有知旧事記」の一部
<翻刻文>
権現公様、岐阜山へ御登山被為遊候節の事、法印様へ、信長在世ニ、此山へ来ル者も、今ハ法印と我等計ニ成候、不相替味方被致、満足ニ、何成共好ミ可被申と、被仰候節、上有知ニ御隠居御願被成、飛騨之国之同郡ヲ、領知 被成候、市町御免許、御上聞被為達候御事と、申伝候
関ヶ原合戦後、家康は上洛し、諸将を賞罰した。長近には大垣城の10万石を与えよとしたが、長近は固辞し、武儀郡上有知の領有を強く望んだ。その理由は次の3点にあると思考される。
① 武儀郡は金森本領飛騨に通ずる重要な街道で、飛騨側からは、美濃への前進基地とする軍事上の地域だった。
② 中世以後、特産物により発展した地域で、その中心に上有知があった。(特に美濃紙の集散地としての経済的地位があった)
③ 上有知は岐阜以北の交通の最重要地点であった。(当時の飛騨への街道は岐阜―上有知-見坂峠-(津保街道で)金山-飛騨へ)
このように、軍事、経済、交通上からも、飛騨本領を守るためにぜひ必要だったのである。
1 金森長近への恩賞
関ヶ原戦後の賞罰で家康は、敵対した諸大名の領地の没収・削減を厳しく行なう一方、味方した外様大名に加増し、その領国を移すという政策を行なった。西軍の上有知城(鉈尾山城)佐藤氏は滅亡、東軍の長近は功によって本領飛騨国の安堵と、滅亡した佐藤方政の所領だった美濃国上(こう)有(ず)知(ち)に関を加えた20,000石と河内国金田の3,000石の都合23,000石を加増された。「岐阜県史」「美濃市史」他
<加増額の不一致>
上の金森長近の石高は、岐阜県史、美濃市史による。河内国金田の分は、長近が伏見居住の便を考えて家康に所望したと考えられ、飛騨一国と合わせ61,000石の大名となった。
ただし、これらの石数は諸書によって差があり、正確な石数の確定はむつかしい。(分知・蔵(くら)入地、合戦前の金森領など問題あり)
23,000石説をとる文献は「金森先祖書」「寬政重修諸家譜」「靱負由緒書」「飛騨略記」などがある。
20,000石説の文献には「寛永諸家系図伝」「諸牒餘録」「飛騨太平記」「金森家譜」「上有知元地目録」などがある。
2 徳川家康と采配紙
徳川家康が関ヶ原合戦で東軍の総師として西軍と戦った時、家康が軍勢を指揮する采配の紙を、武儀郡御手洗村(現美濃市)の彦左衛門等に申し付けた。一同畏まって漉き立て家康公に差し上げた。
この紙で作った采配で指揮したところ、東軍は大勝した。やがて天下を掌握し幕府を開いた後も、この吉例を以て、采配紙をはじめ、障子紙の御用をも仰せ付けられることになった。
「佐藤鶴吉文書」に、次のようにある。
是は神君関ヶ原御出陣の時、今庄屋を相勤め候、定七先祖の者等、御采配の御紙仰付けられ御漉上げ申し候処、悦喜にて、其節御利運に相成り申し候に付、吉例を以て追々御用を仰付けられ、御治世の上、駿府より以来、御紙漉屋と仰付けられ、代々御用を相勤め申し候。御采配紙の儀別して御大切の御用には、御忌言葉の儀仰渡され、漉立て候節は格別精密に仕り候儀、今尚心得罷り在り候。(略)
采配紙は良質の厚紙に大根の汁や、みょうばんを塗って乾かしてから朱・金・銀仕上げとする。朱漆塗・金箔押・銀箔押がこれで、紙は7・8・11・13・21枚などを重ねて細く裁ち、その一端を立鼓という輪に順に重ねる。(「武具考」)
3 関ヶ原合戦に戦った家臣団
関ヶ原合戦後、飛騨は可重へ、上有知は長近へと主君は二分され、当然ながらその家臣も分割を余儀なくされた。
金森長近の領地が20,000石余増大した慶長5年(1600)以後、上有知に移った家臣について、「飛騨太平記」は、次のように記している。
「法印公より御奉公仕り来る者は、大半上有知にて、長近公御逝去の後、御暇取者有。其内、肥日主水・島田四郎兵衛・池田図書、権現様へ召出さる。」
文中記述の「法印公より御奉公来る者は、大半上有知にて……」とある大半が何を意味しているか問題であるが、長近直属の家臣団たる「高山法印衆」の上級家臣の大半ともとれる文である。
可重に残されたいわゆる「古川出雲衆」は、長近が与えた家臣団であることを考えれば、法印衆と出雲衆をはっきり分離していたと言えなくもない。
記述にある3名は、長近の遺臣で、肥田主水忠親(母は長近の娘)、島田四郎兵衛、池田図書政長(上有知金森断絶後家康仕官)は家康から各1,000石宛を与えられて旗本に列した。
なお、肥田、池田のほかに島三郎左衛門にも1,000石与えられているので島田四郎兵衛と島とは同一家臣とも考えられる。
長近が飛騨に発した会津上杉征伐時出陣命令に、田島道閑、大塚権右衛門、今井少右衛門宛の名が散見されるが、法印衆であろう。
「田能村記」「願生記」「飛州軍乱記」「豊国武鑑」「遠藤家旧記」などの文献上から法印衆・出雲衆の一部を見ると、
高山法印衆……遠藤宗兵衛(家老)、吉田孫十郎(500石)、石徹白老右衛門、田島道閑、牛丸又右衛門、山田小十郎など
古川出雲衆……西脇右近(家老)、西脇吉介(300石)、西脇兵左衛門など西脇一族、田能村善次郎、佐藤彦太夫など
があるが、同姓でも違(い)字があったりで確定に難がある。
いざ合戦となると、多くの雑兵(家臣団の戦闘要員の多く)の動員が必要であったし、主力の遠征では自領内に残留する家臣、出陣期間、家族などを考慮する必要があった。
前述の会津出陣準備命令では、「3年間免税することを条件に百姓を動員したこと」「長柄の者50人を動員したこと」などをあげている。小荷駄(主に兵糧・弾薬運び)、砦造りに従事したのである。
実戦では、主人と共に戦う侍(悴(かせ)者・若党・足軽と呼ぶ)、主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下(げ)人(にん)(中間(げん)・小(こ)者(もの)と呼ぶ)、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓たち(夫(ふ)・夫(ふ)丸(まる)と呼ぶ)の雑兵たちによって支えられていたことを忘れてはならない。
ほかに「陣僧」と呼ばれる非戦闘員が武士と共に戦場へ行き、戦死者の菩提を弔ったり、和議を取り持ったりしたことはよく知られている。合戦後戦場を訪れた僧もあったと伝えている。
武儀郡洞戸村の禅僧「不立」は、関ヶ原合戦の時、家康に属して戦うため村民を連れて出発したが、途中水に溺れ死んだという。
4 小倉山城築城と上有知繁栄
合戦後鉈尾山城(上有知城)に居館した長近は、ここには住まず慶長6年(1601)より背後に絶壁と長良川を持った尾崎丸山を選び築城に着手し、慶長10年(1605)に完成した。尾崎丸山を風流人長近らしく京都嵯峨の名勝にちなんで小倉山と改め、小倉山城と称した。
築城と同時に、西軍に属した佐藤氏の菩提寺だった以安寺住職鉄松和尚を開祖として清泰寺を建立、金森家の菩提寺となし、寺領100石を寄進した。
長近は、これと並行して、慶長7年(1602)の長良川の大水害後、城下町南方の台地を開拓して亀ヶ丘と名付け、ここに長良川沿岸にあった古町の人々を移転させ、永遠に水害より救った。
古町は佐藤氏時代の城下町で、今も古町、古城跡保寧寺跡、金屋街道などの小字名が残っている。
こうして新城下町上有知(旧美濃町)ができ、以後この地方の政治、産業、交通の中心地として繁栄した。長近の英断によって城下町が亀ヶ丘に移るや、長良川の水運の要衝は港町に移り、舟及び筏の寄港発着地として、上有知の表玄関となった。人も荷も悉く上有知港に集まり、上有知港から散っていった。上有知からは紙荷、曽代絹が主で、その積荷には水陸安全、桑名から海を行く荷には海陸安全と記入されていた。
産業に意を注いだ長近は、紙の生産はもちろん、養蚕も奨励指導した。養蚕が盛んだったことは、浅井図南(註1)の「釜戸治湯日記」中に「明けゆけば二十四日なり。かど近く人馬の行き交う声とて、誰が旅立ちにやと思う。起き出で人に問えば、是れなん桑市なり」とあるのでもわかる。
註1 図南は、尾張藩主徳川家勝に招聘され藩医となった。美濃各地巡遊紀行「釜戸治湯日記」を著した。
<引用文献>
森政治『関ヶ原合戦と美濃・飛騨』65~67頁 岐阜県歴史資料保存協会発行 平成12年
資料集
091_300_金森長近の美濃市城下町
金森家累代供養塔 金森家殉死者の墓
京都へ改葬された金森家の墓地跡に立つ供養塔の左右に、主君に殉死した家臣の墓石が集められている。
向かって左の内側の2基は、元和元年(1615)閏6月3日没した金森家第2代可重(ありしげ)に殉死した森石衛門九郎政吉と山蔵縫殿(ぬいの)助(すけ)宗次のもの。外側のもう1基は、正保4年(1647)8月7日に没した金森家第3代重頼(しげより)の9男重利に殉死した野田源五左衛門清次のもの。
供養碑の右側の4基は、慶安3年(1650)4月7日に没した重頼に殉死した平岡三郎兵衛忠勝・遠藤右京頼忠・大野瀬兵衛長矩・西塚三郎左衛門忠明のものである。
殉死は家臣が死後も主君に奉公する意味で、寛文3年(1663)幕府はこれを禁止した。
高山市教育委員会
説明板より
大原彦四郎の墓
飛騨の第12代代官大原彦四郎紹正(つぐまさ)は明和2年(1765)高山陣屋に着任し、幕府の方針により御用木元伐休止や検地による増石などにより、郡代に昇任した。しかしこれら厳しい政策は領民の反発を招き、明和・安永の大原騒動が起こった。一方彦四郎は俳句を嗜み、清流亭楚諾と号して俳壇水音社(すいおんしゃ)を結成し、その宗匠となった。安永8年(1779)9月22日陣屋にて没し、墓には側面から裏にかけて彦四郎の事績と俳句が刻まれている。墓は建立当初から幾度か倒され破損している。向かって右は、長男勝次郎照正の墓で、こちらも傷みが甚だしい。
第13代郡代を継いだ子の亀五郎正純(勝次郎の弟)も失政が続き、天明の騒動を引き起こしている。
高山市教育委員会
説明板より
関連資料
2-22-1 金森家累代供養塔 金森家殉死者の墓
2-22-2 大原彦四郎の墓
資料集
090_299_金森氏・旧墓域、大原彦四郎墓碑
飛騨から山形へ国替え
金森氏第六代頼旹が転封を命ぜられたのは、元禄五年(一六九二)七月二十八日。同年八月十八日、関東郡代伊奈半十郎が飛騨代官兼務となった。高山城在番を命ぜられたのは金沢藩主前田加賀守綱紀で、在番奉行を永井織部正良としている。
永井は十月三日、高山城の引き渡しを受け、半年交替で第六番まで続け、第六番奉行の和田小右衛門の時、高山城は破却の命を受けた。
元禄八年(一六九五)一月七日、第六番在番奉行に和田小右衛門が任命されたが、前田綱紀は十二日高山城破却の幕命を受け、十九日にはそのための横目に矢部権丞、作事奉行に近藤三郎左衛門、普請奉行に前田清八、次いで二月十日には破却総奉行に奥村市右衛門が任命された。二十四日高山城破却に要する諸道具と人数を見積り(註1)、三月一日破却時の廃材、石垣、城内に残る米や諸道具等の処置について幕府に伺い、十八日それらを伊奈半十郎へ引き渡した。
同年四月九日破却奉行奥村市右衛門以下金沢を発し、十五日高山着、破却は二十二日本丸三階櫓から着手され、城郭内の建物・石垣のほか城下の侍屋敷も同時に破却された。破却開始の日伊奈半十郎は役所をそれまでの武家屋敷から金森家の下屋敷へ移している。 五月二十五日には金沢藩の和田小右衛門、塩川安右衛門が破却を巡見した。六月十日三之丸の堀を江名子川へ掘り抜き魚類を放ち、十六日には本丸・二之丸・三之丸・武家屋敷の建具等の員数帳を伊奈代官へ提出し、十八日普請奉行以下高山を出立した。
天正十六年(一五八八)の築城はじめから約百七年後の廃城であった。
高山城の破却は元禄八年(一六九五)六月に終了したが、八月伊奈代官は城地・侍屋敷の跡地の処分について勘定所に伺い、結果高山の町人七百十五軒へ割地し渡すこととなり、また十一月には城や侍屋敷に残っていた道具や樹木の払い下げが行なわれ、後元禄十年(一六九七)六月侍屋敷の割地に対して割地の方法等を定めた証文が出された。
金森清水(上山市小穴字小穴沢)
ここは腰田山の山麓で、きれいな清水が湧出している。元禄の頃、金森氏の居館があったと言われ、この地区の人々は、ここを「金森清水」と呼び、今日まで伝承されている。
昭和初期に、地主がこの地を開拓した時、旧住居跡であったことを裏付ける当時の焼き物の生活用品が、かなり出土したことがあった。
元禄5年、金森頼旹が着封した当時、上山は城がなかったので、旧城二の九付近に新しく居館を造営している。しかし、頼旹が上山城から4キロも離れたこの山中にも自己の屋敷を建てたとは考えられていない。家臣の中で金森姓を名乗る者は5名いるが、実弟金森玄番は八幡小路に居住していたし、いずれも仲丁を中心とした家中地に住んでいた。
この地に金森の居館があったと仮定するならば、分家金森左京近供が考えられる。頼旹が家督相続の時、その後見役となった金森左京近供には、元禄6年、中郷・下郷から3,000石が分知された。江戸詰であった近供自身は来藩しなかったものと思われるが、その一族郎党が上山へ来藩して、この地に住居を構えたのではないかと推定されている。
平成22年7月22日
飛騨高山
金森公顕彰会
説明板より
関連資料
2-21-1 飛騨から山形へ国替え
2-21-2 金森清水(上山市小穴字小穴沢)
資料集
089_298_山形県上山(飛騨から国替え)
金森長近を祀る高山市の金龍神社祭礼と城山の銅像
金龍神社
金龍神社は、芝郡代が長近の法号にちなむ「金龍権現」の神号を得て、東照宮境内に勧請したのが始まりと言われる。
昭和17年(1942)森高山市長、東照宮社司、氏子諸氏が現在地にこの金龍神社を遷座した。
なお、神社の本殿は旧山王宮の社殿で、神門は旧松泰寺の山門を移築したものである。
平成27年(2015)1月、雪害により破損したが、同年12月修理工事が完成しだ。
毎年9月1日(長近命日・8月12日)に祭礼が執行される。
東照宮
元和5年(1619)金森第3代重頼は、高山城の中に東照権現社を勧請した。その後寛永5年(1628)、現東照宮境内地(本地堂の下方。西之一色村鴻巣の森尾崎と言った)に遷座した。これが東照宮の始まりである。
延宝8年(1680)には松泰寺宝珠院を別当とした。しかし、金森家転封後は松泰寺のみが残り、御宮跡の時代となる。
荒廃を嘆いた金森の子孫重任が神社の再建を志し、これに賛同した芝郡代が、東照宮を文化15年(1818)に、町人の協力を求めて再建した。以来、現在に至る。
大工棟梁は水間相模宗俊、彫刻は中川吉兵衛である。
長近公銅像建立の経緯
昭和56年(1981)5月8日
金森公顕彰発起人会を開催。同日、第1回金森公顕彰小委員会(事務局長高山市助役)を開催。全体名称を「金森公顕彰会」、発起人会は「金森公顕彰委員会」と改称。
昭和56年5月24日
第2回金森公顕彰小委員会を開催。
昭和56年8月22日
金森公顕彰会総会を開催。市制45周年記念事業として金森長近公の銅像を城山公園二之丸に建立することを決定。広く募金協力を市民、各種団体に呼びかけることとした。
昭和57年(1982)1月29日
町内会連絡協議会に募金の取りまとめを依頼。
昭和57年10月5日
銅像建立に賛同された方の芳名録、記念刊行物等を台座カプセルに収納。
昭和57年10月12日
台座に銅像設置施工。
昭和57年11月1日
金森長近公銅像落成除幕式、高山市への銅像贈呈式。
<金森長近公銅像製作者>
■作家 高岡市の日展作家
般若純一郎氏
■製作 高岡市竹中製作所
■正面の題字揮毫 名誉市民 小池信三氏
■碑文 大野政雄氏、亀山喜一氏
■ 書 高塚道雄氏
■総事業費 3,076万円
■着工 昭和57年3月11日
■完成 昭和57年10月26日
関連資料
2-20-1 金龍神社
2-20-2 東照宮
2-20-3 長近公銅像建立の経緯
資料集
088_297_金森長近を祀る高山市の金龍神社祭礼と城山の銅像
金森氏第4代頼直の菩提寺・大隆寺
妙高山大隆寺の歴史
○承応2年(1653)、第4代金森頼直が創立、開山は京都紫野大徳寺前住「禅海宗俊」。京都金龍院の末寺となる。臨済宗としての大隆寺である。
○第3世乾舟妙一も大徳寺の前住で、書画をよくした。瀬戸の陶工加藤源十郎を同道。
○金森氏転封後は荒れてしまい、元禄5年(1692)から宝暦12年(1762)までの70年ほど無住、その後、留守居の道心坊は騒客を招くなどして、遊戯道場となった。
○安永7年(1778)、曹洞宗の「大而宗龍」が京都金龍院から謝礼金100両で譲り受け、大隆寺を再興した。古堂を壊して田とし、現大隆寺境内地に本堂、禅堂、庫裡等を造立した。師の天徳悦巌素忻を、曹洞宗大隆寺としての開山とした。宗龍和尚は、曹洞宗大隆寺の第2世となる。
〇この時から越後国曹洞宗万福寺の末寺となった。
○宝暦(1751~)除地帳には、山林1町3反、石高3石8斗とある。
○文政13年(1830)、庫裡用材、西之一色熊野社の檜の寄付を受けた。
○天保12年(1841)、妙見社、きれいにできすぎたので御役所より注意有。
○明治10年(1877)釈迦堂新築
※境内、隣接墓地に金森宗和の碑、館柳湾の詩碑、芭蕉の碑有。
※鎌倉時代の鰐口(県文化財)を宝蔵。これは朝日町甲区で、長八が発掘したもの。銘「敬白奉施入金一口岩寺正応二年十二月十八日願主沙彌道阿」、高山の野口養安ほか16人が買い取って大隆寺へ寄進した。
リーフレットより
金森頼直
金森氏第4代城主
元和5年(1619)~寬文5年(1665)
頼直は、第3代重頼の長男で、慶安3年(1650)父死去に伴い跡を継いだ。承応2年(1653)、頼直は、大隆寺を建立した。現在の大隆寺位置より北東150ⅿ離れた場所にある。頼直は明暦3年(1657)1月18日、江戸大火の際に、駿馬「山桜」に乗って危機を免れている。名馬山桜は、本町の山桜神社に祀られた。大火の際、幕府へ復興用の檜材1,000本を献上した。また、社寺の復興にも力を入れている。
万治2年(1659)、久津八幡宮修復
万治3年(1660)、古川杉本社殿再建
万治3年(1660)、千光寺再興
寬文3年(1663)、病によって剃髪を許され、立軒素白と号した。寛文5年(1665)6月、頼直の病気平癒、武運長久を祈って越中の肴屋連中と、金森家の家臣が日枝神社に絵馬を奉納している。
寬文5年(1665)7月、江戸の金森藩邸において没した。法号は大隆院殿立軒素白大居士。殉死は禁令になっていたため、殉死者はいない。
リーフレットより
関連資料
2-19-1 妙高山大隆寺の歴史
2-19-2 金森頼直
資料集
087_296_金森氏第4代頼直の菩提寺・大隆寺
駿府城下の金森屋敷
① 駿府城下町の建設 (①は『静岡県史 通史編 三(近世一)』静岡県発行 一九九六年 より)
「駿府城下町割絵図(天保2年写)」(静岡市蔵)矢印が金森長門守屋敷
慶長十二年(一六〇七)一月、徳川家康は駿府を菟裘(ときゅう)の地と定め、駿府の城郭を広め、諸士の宅地を定めることを表明した。駿府の築城工事と城下町づくりが始まった。
駿府城の造営は同年七月完成したが、この年十二月の火災で焼失してしまう。しかし、慶長十三年二月には本丸の上棟式が行なわれ、八月には天守閣が完成した。
一方、城下町の町割は駿府城の拡張計画とともに立てられ、駿府城が完成する慶長十三年八月までに城下町の建設が進展したと考えられている。
駿府城下町の建設は城下町を安倍川の氾濫から防護し、駿府城を堅固にすることと不可分であった。安倍川を城下の西側に固定し、安倍川に駿府城の外堀の役割をもたせた。
こうして駿府城下町が建設されたが、江戸時代の城下町は武家とそれ以外の商人・職人との居住区が区分された。「駿府古絵図」によれば、武家屋敷は城内三の丸に重臣屋敷があり、大手門前から城を取り囲むように上級家臣の屋敷が構えられていた。また、城の南西方向、安倍川近くの一帯にも武家地があった。番町と称ると、城郭を含めた武家地が約四十五パーセント、町方が四十パーセント、寺社とその付属地が十五パーセント。江戸の武家地が六十八パーセント余、寺社地・町人地がそれぞれ十五パーセント余(内藤昌『江戸と江戸城』)にくらべれば、かなり町方が広くとられていた。
「駿府城下町割絵図(天保2年写)」(静岡市蔵)拡大
駿府城
今から約650年前の室(むろ)町(まち)時代、今(いま)川(がわ)範(のり)国(くに)が駿(する)河(が)守(しゅ)護(ご)職(しょく)に任ぜられて以降、駿河国は今川氏によって治められた。9代義(よし)元(もと)の今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らした。永禄3年(1560)今(いま)川(がわ)義(よし)元(もと)が桶(おけ)狭間(はざま)で織(お)田(だ)信(のぶ)長(なが)に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われた。
徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移った。しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊(とよ)臣(とみ)秀(ひで)吉(よし)により関東に移封され、豊臣系の中(なか)村(むら)一(かず)氏(うじ)が駿府城の城(じょう)主(しゅ)になった。その後、徳川家康は、関(せき)ヶ(が)原(はら)の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征(せい)夷(い)大(たい)将(しょう)軍(ぐん)に任じられ江戸幕府を開いた。慶長10年(1605)に将軍職を息子秀(ひで)忠(ただ)に譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入った。この時天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わった。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲(くる)輪(わ)を内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪(りん)郭(かく)式(しき)の縄張りとしている。
大御所の城にふさわしく、築城に際して「天(てん)下(か)普(ふ)請(しん)」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められた。
また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られた。
静岡市教育委員会
説明板より
関連資料
2-18-1 駿府城下の金森屋敷
2-18-2 駿府城
2-18-3 家康公の年表
資料集
086_295_駿府城下の金森屋敷
大坂の陣・金森氏の配置場所
① 冬の陣
大坂冬の陣は、慶長19年(1614)10月、豊臣側では戦争準備に着手し、全国から浪人を集めて召し抱え、その兵力は10万人に及んだ。
家康は10月11日駿府を出発、23日には京都二条城に入っている。11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かい、18日先着していた秀忠と「茶臼山陣城」で軍議を行なった。徳川方は約20万の軍。
11月19日、戦闘が開始され、12月3、4日の真田丸の戦いでは、豊臣軍が徳川軍を撃退している。12月20日には和平が成立、三之丸、さらには二之丸の堀が埋め立てられ、12月23日に完了、諸大名は帰国の途についている。家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻った。
② 夏の陣
和平成立後、家康は駿府へ、秀忠は伏見に戻ったが、一方で戦争準備を行なっている。慶長20年(1615)3月、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。4月10日、秀忠は江戸を出発、4月21日、二条城に到着、22日、家康と秀忠は諸将と軍議を行なった。徳川方の戦力は約155,000人、軍勢を二手にわけ、河内路及び大和路から大坂に向かう。
大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した。5月6日の戦闘の結果は幕府方の優勢で、豊臣方は大坂城近郊に追い詰められた。5月7日、豊臣軍は現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃態勢を構築した(天王寺・岡山合戦)。
5月7日、兵力に勝る幕府軍は次第に態勢を立て直し、豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。真田信繁(幸村)は四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で討ち死にした。享年49。
下の図は「夏の陣・首帖(くびちょう)」で、下欄に諸将が獲得した首数が記される。慶長20年(1615)5月6日、道明寺・誉田合戦図。金森の首数は153とある。
「元和偃武(げんなえんぶ)」
応仁の乱以来、150年余にわたって続いた戦乱の世が、慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣で終わったことを指す。江戸幕府は、この年、元和と元号を改めて、天下の平定が完了したことを知らしめた。
『高山市史・金森時代編』より
関連資料
関ケ原の合戦場・金森氏の布陣場所
三成の決起と家康の陣営固め
慶長5年(1600)
6月18日 家康、伏見城を発ち会津遠征に向かう。
7月11日 三成、佐和山城で吉継に家康討伐を打ち明ける。
25日 家康、小山で三成を打つため西上を決定する。
8月10日 三成、大垣城に入る。
26日 東軍、美濃赤坂の集結する。
9月 3日 大谷吉継、山中村宮上の布陣する。
14日 家康、美濃赤坂に入る。
島左近率いる西軍、杭瀬川の戦いで勝利する。
小早川秀秋、松尾山に布陣する。
三成、大垣城を午後7時頃出陣。
家康、赤坂を午前0時前出陣。
激突・裏切り・壊滅
――本戦―― 9月5日
午前5時頃 全西軍、関ケ原の布陣完了。
6時頃 全東軍、関ケ原に布陣完了。
8時頃 戦闘開始。
10時頃 家康、本陣を陣場野に移す。
12時頃 秀秋、西軍を裏切り、大谷隊を攻撃する。
13時頃 脇坂ら4隊も裏切り、西陣壊滅する。
14時頃 島津隊、敵中突破を敢行する。
17時頃 東軍圧勝。
家康、西軍将士の首実検と東軍諸将を引見する。
戦後処理と動向
9月17日 三成の居城佐和山が落城する。
19日 家康、草津に入る。
小西行長、伊吹山中で捕らえられる。
21日 三成、古橋村(滋賀県木之本町)で捕らえられる。
23日 大垣城開城される。
安国寺恵璚、京都で捕らえられる。
10月 1日 家康、三成・行長・恵璚を京都六条河原で処刑する。
慶長8年(1603)
2月12日 家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。
東軍の総兵力 約74,000
徳川家康 約30,000
約5,400
黒田長政 古田重勝 約1,000
竹中重門 織田有楽 約 400
細川忠興 約5,000 金森長近 約1,200
加藤嘉明 約3,000 生駒一正 約1,800
筒井定次 約2,800 寺沢広高 約2,400
田中吉政 約3,000 本多忠勝 約 500
約6,000
松平忠吉
井伊直政 有馬豊氏
約13,900
福島正則 約6,000 山内一豊
藤堂高虎 約2,500 朝の幸長
京極高知 約3,000 池田輝政
説明板より
関ヶ原古戦場 ――笹尾山――
西暦1600年9月15日、日本列島のほぼ中央、東西交通の要に位置するここ関ケ原において、天下分け目の戦いが繰り広げられました。天下の覇権をねらう東軍・徳川家康と、家康の野望を阻止せんとする西軍・石田三成の雌雄を決する関ヶ原の戦いは、この関ケ原盆地において東西両郡あわせて約15万人の将兵の激突となりました。
笹尾山は西軍の総大将・石田三成が本陣を構えたところです。
桃配山
天下を分ける壬申の大いくさは千3百年ほどまえであった。吉野郡をひきいた大海人皇子は、不破の野上に行宮をおき、わざみ野において、近江軍とむきあっていた。急ごしらえの御所に、皇子がはいったのは、6月の27日である。野上郷をはじめ、不破の村びとたちは、皇子をなぐさめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上した。
「おお、桃か。これはえんぎがいいぞ!」皇子は、行宮につくがはやいか、桃のむかえにあって、こおどりしてよろこんだ。くれないのちいさな山桃を口にふくむと、あまずっぱい香りが、口のなかいっぱいにひろがる。皇子は、はたとひざをたたき、不破の大領をよんだ。「この不破の地は、山桃の産地であるときく。なかなかあじもいい。どうだろう。わたしはこの桃を、軍団兵士みんなに一こずつ配ってやりたい。戦場における魔よけの桃だ。これをたべて戦場にでれば、武運百ばい。もりもりとはたらいてくれよう。大領、この近郷近在の山桃をすべて買いあげ、軍団兵士みんなに、わたしからの桃だといって、配ってくれ。」大領、宮勝木実は、胸をうたれ平伏した。木実は行宮所在地の大領(郡長)として、御所をたて、皇子をおまもりしている。「ありがたいことでございます。戦勝につなぐえんぎのいい桃。兵士のいのちを守る魔よけの桃。天子さまからたまわった尊い桃。全軍の兵士はもちろん、村のものたちも、涙をながしてよろこび存分のはたらきをしてくれるでありましょう。」このとき、木実が確信したとおり、この桃をおしいただいた数萬の将兵の士気は、いやがうえにもたかまり、連戦連勝、ついに大勝を果たしたのであった。この桃の奇縁により、この桃を配ったところを桃配山とか、桃賦野とよんで、いまにつたわっている。9百年のあと、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣をしき、一日で、天下を自分のものとした。
説明板より
関ヶ原決戦のあらまし
① 両軍の配置と兵力
大垣城及びその周辺にいた両軍の主力は14日夜、石田、島津、小西、宇喜多隊の順に、野口、栗原、牧田を経て関ヶ原の陣地笹尾山、小池、北天満山、南天満山へそれぞれ着き、完了したのが午前4時頃であった。とにかく、雨の中、夜通し遠廻りの行軍は相当の疲労も見られたが直ちに陣地を固めた。それに対し、東軍は早朝2時頃福島隊、黒田隊が竹中隊の案内で出発し、4時頃には福島隊の先頭が着き、西軍の最後尾字喜多隊と接触し、大混乱を起こした。こうして東西両軍が東西4キロメートル、南北2キロメートの関ヶ原陣地に着き、開戦を待った。
東軍の兵力は徳川家康ほか74,000人(そのうち南宮山軍に備えた池田、浅野隊ら19,965人)、西軍の兵力は石田三成ほか82,000人、関ヶ原陣地での午前中は東軍が約53,000人、西軍が56,000人とほぼ互角。午後になって小早川隊らの裏切りで東軍が19,965人増え、西軍はそれだけ減って、東軍が94,000人、西軍が37,000人となった。西軍の陣地は高地で鶴翼の陣で、戦いには有利であったが兵力の差、意欲の差が地の利を生かすことができなかった。
② 決戦の模様
午前7時頃、雨は上がったものの深い霧が一面に立ち込め、数間先も見えない。機先を制することが兵法にあるが、お互いに陣地に着いたばかりで、土地感も弱く、西軍にとっては夜行軍の疲れもあり、相手の出方を見守っていた。8時頃、霧も次第に晴れてきた。東軍は外様大名に先陣の功を取らせるものかと、井伊直政は家康の四男松平忠吉の初陣を飾らせんと、屈強の家臣30余名をつれ、福島隊の前面に出かけた。ところが先陣を受けていた福島隊の先頭可児才蔵に発見され「今日の先陣は福島隊である。誰も先に通すことはできない。」と止めた。直政は「総大将松平忠吉公の敵状偵察に案内するところだ。」と偽り、そこより方向を右へより宇喜多隊に発砲した。これを見た福島正則は800人の銃手をつれ、宇喜多隊を攻めた。この頃、西軍は南天満山、笹尾山、東軍は丸山にそれぞれ大きな音ののろしを上げ戦端が開かれ、あちらこちらから閧の声、螺の音が大きく鳴り響いた。
南天満山の字喜多隊は五段に構えて戦った。なかでも明石全登の率いる隊は強く、福島隊を追い返した。その左に位置した藤堂、京極隊、さらに寺沢隊は大谷、平塚隊を攻めた。織田、古田、佐久間隊は北天満の小西隊と戦い、その後織田隊は福島隊の背後から不破の関付近に出て、藤堂、京極隊と共に平塚隊と交戦し、一進一退の激戦を繰り返した。
笹尾山の石田隊へは黒田、竹中隊、さらに田中、加藤、金森親子隊が向かった。三成は本陣前2町ほどに竹柵と濠を造り、その前に猛将島勝猛隊、柵の内に蒲生郷舎隊を置き、三段構え、これに対し黒田隊は竹中隊の案内で、山麓をつたって三成隊の左側を突進した。島隊は二手に分け、自ら一隊を率い、山麓からの黒田隊へ迫り、これを討たんとした。これを見た東軍の田中、加藤隊は黒田隊を援けんと三成の本陣へ突進、また、黒田隊は名銃手10数人を小高い山麓を密かに迂回し、島勝猛隊の側面から鉄砲を撃ち、島隊を混乱させ、さしもの勝猛も弾に当たり、柵の内につれ入れられた。その隙に黒田、竹中、田中隊ら三成本陣へ突進した。しかし蒲生隊らの頑強な兵に撃退され、細川、加藤、金森隊の援護で防戦し、一進一退の激しい戦いが続いた。
家康は桃配山の本陣では戦況を充分知ることができないこと、南宮山軍の傍観を確認して本陣を前に進め、11時頃には陣場野に着いていた。正午になっても松尾山の小早川隊が動かない。痺(しびれ)を切らし、麾下と福島の鉄砲隊に松尾山へ向けて一斉射撃を命じた。これによって迷っていた小早川秀秋は松野主馬の反対を押し切って山を下り、大谷、平塚隊へ向かった。これに呼応して脇坂、朽木、小川、赤座隊も裏切り、後ろから大谷隊らを攻めたてた。この時、平塚隊は藤古川の前より後ろにさがり前から横から後ろからの敵と戦い、3度までも撃退したが多くの兵士を失い、力つき、ついに戸田、平塚も戦死した。大谷は平塚からの冥土の土産の首を手にし、小早川の裏切りを恨みながら自害し、湯浅五助に介錯させ、三浦喜大夫にその首を埋めさせた。こうして西軍の一角が崩れるや、宇喜多、小西、石田隊と次々敗れ、その多くは伊吹山麓方面へ敗走した。残った島津隊は陣容を整え、敵の本陣を突破して、伊勢路から堺に出て鹿児島に婦った。
天下分目の関ヶ原の大合戦はわずか7時間ほどで東軍の勝利となった。この戦いで西軍約8,000人、東軍約4,000人が鉄砲弾、弓矢、槍、刀によって殺され、負傷者もこれ以上あったと思う。したがって関ヶ原の戦場跡には血みどろな、首のない、手足のない人体や馬、さらに動けない者も右往左往し、全く地獄絵そのものであった。慶長7年(1602)関ヶ原古戦場に生まれた合川少年は、世の無情を知り、本陣職を譲って出家し、無難禅師となった。
<引用文献>
太田三郎・中島勝国『関ヶ原合戦と美濃・飛騨』35~36頁 岐阜県歴史資料保存協会発行 平成12年
郡上八幡城の攻撃
関ヶ原合戦の慶長5年(1600)春に金山城主森忠政が信州海津城に移封された当時の中濃から東濃西部には、郡上に稲葉貞通、武儀鉈尾山に佐藤方政、加茂白川には郡上から左遷され小原に遠藤慶隆・犬地に遠藤胤直の両遠藤氏が配されていた。
美濃の最大大名の織田秀信が石田三成に加担したので美濃の多くの武将は西軍に属した。稲葉貞通は犬山城の石川光吉のもとに、佐藤方政は岐阜の織田秀信のもとに馳せていた。同遠藤氏は慶隆が東軍に組し、胤直は西軍に属するという東西両陣営に分かれた。
8月に入ると犬地の胤直は「上ヶ根」の砦に籠もり慶隆に備え対した。この「上ヶ根砦」の所在については諸説がある。一番有力視されているのが、現白川町切井の「城が根」であるという。それに対して慶隆は佐見の吉田に砦を築いて「上ヶ根」に備えたという。慶隆が旧地の郡上奪取の行動を起こすのは8月28日である。郡上城主稲葉貞通が犬山に在陣中で留守のうちにというわけである。慶隆は飛騨川を渡河し和良から安久田へ出、9月1日に郡上城を飛騨の金森可重の援軍とともに攻撃した。翌2日に和議が成立した。急を聞いた犬山にあった稲葉貞通が3日に郡上に到着し愛宕山の遠藤軍を攻撃し激戦となったという。4日再び和議が成立し両軍は兵を収めた。
慶隆は東濃へ兵を戻し5日に胤直の籠もる上ヶ根の砦を囲み、軽戦のうちに岐阜・犬山等の近況を知らせ東軍に降ることを論した。胤直はこれに従った。慶隆が家康に胤直の罪の宥されんことを懇請したが岳父に敵対したことを理由に宥さなかったという。
9月14日慶隆は美濃赤坂で家康に謁し、郡上・上ヶ根の戦闘報告をして東軍に参如した。
一方、稲葉貞通も15日関ヶ原で家康に謁し東軍側と戦ったことを詫び、長束正家が居城水口で籠城しているのを加藤貞泰らとともに攻める。
関ヶ原の論功行賞で稲葉貞通は豊後の臼杵50,000石に移封、そのあとに遠藤慶隆が郡上八幡城に入城し27,000石を領有し、12年ぶりに旧地を回復した。
この稲葉も加藤も犬山に籠もった武将である。東軍が本曽川を渡河し岐阜城を目指した時に、犬山は無視され戦わずして開城している。東軍が西軍の濃尾国境の拠点を徹底攻撃していたら犬山に馳せていた武将らの近世大名として存続することは不可能であった。犬山城の各武将が西軍に見限りをし東軍へ傾斜していったことが根底にあったのではないだろうか。
<引用文献>
中島勝国『関ヶ原合戦と美濃・飛騨』22頁 岐阜県歴史資料保存協会発行 平成12年
関ヶ原合戦後の金森長近―上有知時代から晚年への動き―
金森長近は、「上有知旧事記」によれば関ヶ原戦後、家康と一緒に稲葉山城に登った時に、「信長公在世中、この山へ来た者、今は法印と2人だけになった。相変わらずの味方に満足、何なりと望みを。」と言われて佐藤領と上有知築城を願い、やがてその望みは達せられた。
史料「上有知旧事記」の一部
<翻刻文>
権現公様、岐阜山へ御登山被為遊候節の事、法印様へ、信長在世ニ、此山へ来ル者も、今ハ法印と我等計ニ成候、不相替味方被致、満足ニ、何成共好ミ可被申と、被仰候節、上有知ニ御隠居御願被成、飛騨之国之同郡ヲ、領知 被成候、市町御免許、御上聞被為達候御事と、申伝候
関ヶ原合戦後、家康は上洛し、諸将を賞罰した。長近には大垣城の10万石を与えよとしたが、長近は固辞し、武儀郡上有知の領有を強く望んだ。その理由は次の3点にあると思考される。
① 武儀郡は金森本領飛騨に通ずる重要な街道で、飛騨側からは、美濃への前進基地とする軍事上の地域だった。
② 中世以後、特産物により発展した地域で、その中心に上有知があった。(特に美濃紙の集散地としての経済的地位があった)
③ 上有知は岐阜以北の交通の最重要地点であった。(当時の飛騨への街道は岐阜―上有知-見坂峠-(津保街道で)金山-飛騨へ)
このように、軍事、経済、交通上からも、飛騨本領を守るためにぜひ必要だったのである。
1 金森長近への恩賞
関ヶ原戦後の賞罰で家康は、敵対した諸大名の領地の没収・削減を厳しく行なう一方、味方した外様大名に加増し、その領国を移すという政策を行なった。西軍の上有知城(鉈尾山城)佐藤氏は滅亡、東軍の長近は功によって本領飛騨国の安堵と、滅亡した佐藤方政の所領だった美濃国上(こう)有(ず)知(ち)に関を加えた20,000石と河内国金田の3,000石の都合23,000石を加増された。「岐阜県史」「美濃市史」他
<加増額の不一致>
上の金森長近の石高は、岐阜県史、美濃市史による。河内国金田の分は、長近が伏見居住の便を考えて家康に所望したと考えられ、飛騨一国と合わせ61,000石の大名となった。
ただし、これらの石数は諸書によって差があり、正確な石数の確定はむつかしい。(分知・蔵(くら)入地、合戦前の金森領など問題あり)
23,000石説をとる文献は「金森先祖書」「寬政重修諸家譜」「靱負由緒書」「飛騨略記」などがある。
20,000石説の文献には「寛永諸家系図伝」「諸牒餘録」「飛騨太平記」「金森家譜」「上有知元地目録」などがある。
2 徳川家康と采配紙
徳川家康が関ヶ原合戦で東軍の総師として西軍と戦った時、家康が軍勢を指揮する采配の紙を、武儀郡御手洗村(現美濃市)の彦左衛門等に申し付けた。一同畏まって漉き立て家康公に差し上げた。
この紙で作った采配で指揮したところ、東軍は大勝した。やがて天下を掌握し幕府を開いた後も、この吉例を以て、采配紙をはじめ、障子紙の御用をも仰せ付けられることになった。
「佐藤鶴吉文書」に、次のようにある。
是は神君関ヶ原御出陣の時、今庄屋を相勤め候、定七先祖の者等、御采配の御紙仰付けられ御漉上げ申し候処、悦喜にて、其節御利運に相成り申し候に付、吉例を以て追々御用を仰付けられ、御治世の上、駿府より以来、御紙漉屋と仰付けられ、代々御用を相勤め申し候。御采配紙の儀別して御大切の御用には、御忌言葉の儀仰渡され、漉立て候節は格別精密に仕り候儀、今尚心得罷り在り候。(略)
采配紙は良質の厚紙に大根の汁や、みょうばんを塗って乾かしてから朱・金・銀仕上げとする。朱漆塗・金箔押・銀箔押がこれで、紙は7・8・11・13・21枚などを重ねて細く裁ち、その一端を立鼓という輪に順に重ねる。(「武具考」)
3 関ヶ原合戦に戦った家臣団
関ヶ原合戦後、飛騨は可重へ、上有知は長近へと主君は二分され、当然ながらその家臣も分割を余儀なくされた。
金森長近の領地が20,000石余増大した慶長5年(1600)以後、上有知に移った家臣について、「飛騨太平記」は、次のように記している。
「法印公より御奉公仕り来る者は、大半上有知にて、長近公御逝去の後、御暇取者有。其内、肥日主水・島田四郎兵衛・池田図書、権現様へ召出さる。」
文中記述の「法印公より御奉公来る者は、大半上有知にて……」とある大半が何を意味しているか問題であるが、長近直属の家臣団たる「高山法印衆」の上級家臣の大半ともとれる文である。
可重に残されたいわゆる「古川出雲衆」は、長近が与えた家臣団であることを考えれば、法印衆と出雲衆をはっきり分離していたと言えなくもない。
記述にある3名は、長近の遺臣で、肥田主水忠親(母は長近の娘)、島田四郎兵衛、池田図書政長(上有知金森断絶後家康仕官)は家康から各1,000石宛を与えられて旗本に列した。
なお、肥田、池田のほかに島三郎左衛門にも1,000石与えられているので島田四郎兵衛と島とは同一家臣とも考えられる。
長近が飛騨に発した会津上杉征伐時出陣命令に、田島道閑、大塚権右衛門、今井少右衛門宛の名が散見されるが、法印衆であろう。
「田能村記」「願生記」「飛州軍乱記」「豊国武鑑」「遠藤家旧記」などの文献上から法印衆・出雲衆の一部を見ると、
高山法印衆……遠藤宗兵衛(家老)、吉田孫十郎(500石)、石徹白老右衛門、田島道閑、牛丸又右衛門、山田小十郎など
古川出雲衆……西脇右近(家老)、西脇吉介(300石)、西脇兵左衛門など西脇一族、田能村善次郎、佐藤彦太夫など
があるが、同姓でも違(い)字があったりで確定に難がある。
いざ合戦となると、多くの雑兵(家臣団の戦闘要員の多く)の動員が必要であったし、主力の遠征では自領内に残留する家臣、出陣期間、家族などを考慮する必要があった。
前述の会津出陣準備命令では、「3年間免税することを条件に百姓を動員したこと」「長柄の者50人を動員したこと」などをあげている。小荷駄(主に兵糧・弾薬運び)、砦造りに従事したのである。
実戦では、主人と共に戦う侍(悴(かせ)者・若党・足軽と呼ぶ)、主人を補(たす)けて馬を引き槍を持つ下(げ)人(にん)(中間(げん)・小(こ)者(もの)と呼ぶ)、村々から駆り出されて物を運ぶ百姓たち(夫(ふ)・夫(ふ)丸(まる)と呼ぶ)の雑兵たちによって支えられていたことを忘れてはならない。
ほかに「陣僧」と呼ばれる非戦闘員が武士と共に戦場へ行き、戦死者の菩提を弔ったり、和議を取り持ったりしたことはよく知られている。合戦後戦場を訪れた僧もあったと伝えている。
武儀郡洞戸村の禅僧「不立」は、関ヶ原合戦の時、家康に属して戦うため村民を連れて出発したが、途中水に溺れ死んだという。
4 小倉山城築城と上有知繁栄
合戦後鉈尾山城(上有知城)に居館した長近は、ここには住まず慶長6年(1601)より背後に絶壁と長良川を持った尾崎丸山を選び築城に着手し、慶長10年(1605)に完成した。尾崎丸山を風流人長近らしく京都嵯峨の名勝にちなんで小倉山と改め、小倉山城と称した。
築城と同時に、西軍に属した佐藤氏の菩提寺だった以安寺住職鉄松和尚を開祖として清泰寺を建立、金森家の菩提寺となし、寺領100石を寄進した。
長近は、これと並行して、慶長7年(1602)の長良川の大水害後、城下町南方の台地を開拓して亀ヶ丘と名付け、ここに長良川沿岸にあった古町の人々を移転させ、永遠に水害より救った。
古町は佐藤氏時代の城下町で、今も古町、古城跡保寧寺跡、金屋街道などの小字名が残っている。
こうして新城下町上有知(旧美濃町)ができ、以後この地方の政治、産業、交通の中心地として繁栄した。長近の英断によって城下町が亀ヶ丘に移るや、長良川の水運の要衝は港町に移り、舟及び筏の寄港発着地として、上有知の表玄関となった。人も荷も悉く上有知港に集まり、上有知港から散っていった。上有知からは紙荷、曽代絹が主で、その積荷には水陸安全、桑名から海を行く荷には海陸安全と記入されていた。
産業に意を注いだ長近は、紙の生産はもちろん、養蚕も奨励指導した。養蚕が盛んだったことは、浅井図南(註1)の「釜戸治湯日記」中に「明けゆけば二十四日なり。かど近く人馬の行き交う声とて、誰が旅立ちにやと思う。起き出で人に問えば、是れなん桑市なり」とあるのでもわかる。
註1 図南は、尾張藩主徳川家勝に招聘され藩医となった。美濃各地巡遊紀行「釜戸治湯日記」を著した。
<引用文献>
森政治『関ヶ原合戦と美濃・飛騨』65~67頁 岐阜県歴史資料保存協会発行 平成12年