アーカイブ年: 2020
国指定・高山陣屋
〈国指定〉昭和4年12月17日
昭和54年10月2日追加指定
昭和55年3月24日追加指定
平成元年1月9日追加指定
〈所有者〉岐阜県(陣屋前広場は高山市)
〈所在地〉八軒町1丁目5番地ほか
〈時代〉江戸時代(17世紀)
〈員数〉11,219.05㎡
八軒町1丁目3番地 305.32㎡
八軒町1丁目4番地 1,209.91㎡
八軒町1丁目5番地 2,419.83㎡
昭和4年指定
八軒町1丁目2番地2 53.09㎡
昭和54年指定
八軒町1丁目1番地1 180.73㎡
八軒町1丁目1番地3 1,411.63㎡
(1番地3のみ高山市所有で陣屋前広場の分)
八軒町1丁目1番地5 792.48㎡
八軒町1丁目6番地 2,475.41㎡
昭和55年指定
八軒町1丁目7番地1 1,244㎡
八軒町1丁目7番地2 1,126.65㎡
平成元年指定
現在遺構
御門 天保3年(1832)
切妻造杮(こけら)葺(ぶき)平家建
門番所 天保3年(1832)
切妻造熨斗(のし)葺平家建
御役所 文化13年(1816)
切妻造熨斗葺(一部杮葺)平家建
御蔵 慶長年間(1596~1615)
片入母屋造石置長榑葺平家建
御勝手土蔵 天保11年(1840)
切妻造熨斗葺2階建
書物蔵 天保12年(1841)
切妻造熨斗葺2階建
その他 供待所、腰掛、中門
天正14年(1586)、金森長近は秀吉の命により飛騨を平定し、領主に任ぜられた。以来、6代107年間にわたって藩政時代が続いたが、元禄5年(1692)徳川幕府は金森頼旹(よりとき)を出羽国上(かみ)ノ山に転封し、飛騨一円を幕府直轄領とした。
それ以来、明治維新に至るまでの177年間に、25代の代官・郡代が江戸から派遣され、領地の行政・財政・警察などの政務を行なった。この御役所を「高山陣屋」と称する。
飛騨代官は関東郡代の兼任で始まり、金森家臣屋敷を会所としていたが、高山城の破却が始まる元禄8年(1695)、金森氏の娘が住んでいた、現在地の向屋敷に代官所を移した。その後4代から専任、7代から常駐となり、11代まで代官、12代から郡代に昇格している。この間、殖産振興に尽くす等善政もあったが、一方、飛騨一円を揺るがした明和・安永・天明の大原騒動、明治初年の梅村騒動の2大一揆もあり、数々の歴史がこの陣屋で展開した。
陣屋設置以来、享保10年(1725)、文化13年(1816)と数度にわたって改築がなされ、幸いにも火災を受けなかった。明治になると、主要建物はそのまま地方官庁として使用され、昭和4年には国の史跡に指定された。昭和44年12月、ここにあった飛騨県事務所が移転し、元禄8年から270余年続いた役所の幕を閉じた。この機会に全国50余カ所のうち唯一現存する史跡を保全するため、岐阜県教育委員会は、文化庁の指導を受けて昭和45年10月から58年12月まで2次にわたり、約7億円を費やして復元修理と復旧事業を行なった。こうして江戸時代の高山陣屋の姿がほぼよみがえり、現在岐阜県教育委員会が管理している。
内部は、玄関の間が文化13年改築のままで残り、10万石格を示す2間半の大床や、大名も使用をはばかった青海波模様が目を引く。式台も駕篭(かご)を乗りつけるため低くしつらえてあり、幕府の使者等、身分の高い来客専用であった。御役所大広間も非常に体裁を重んじた意匠となっている。吟味所、白洲はグリ石敷で屋根のあることが特徴的である。事犯の大半は幕府の裁決を仰いでいた。
御蔵は、高山城三之丸に米蔵として建てられていたものを、元禄8年現在地に移築したものである。軸部は慶長年間(1596~1615)のもので、良質のヒノキが使われ、仕上げも蛤刃手斧であり、年代、規模ともに全国有数の穀物土蔵である。壁面の傾斜(四方転び)や通風の隙間など、飛騨匠の手法が見られる。
また、平成元年1月には西に隣接する高山拘置支所が移転された。ここは役宅があったところで、復元整備するため、平成3年度に発掘調査がなされ、用水池跡1カ所、竃跡3カ所、地下式石室(いしむろ)跡1カ所、溝、井戸が発見された。それらを参考に、郡代役宅の復元工事が平成4~7年度にかけて進行中である。
参考文献
『高山の文化財』169~172頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日
関連資料
1-1-6 国指定・高山陣屋
高山陣屋 年表
陣屋説明文
179_18_陣屋朝市
資料集
006_215_高山陣屋
国指定・照蓮寺
〈国指定〉昭和31年6月28日
〈所有者〉照蓮寺
〈所在地〉堀端町8番地(城山公園内)
〈時代〉室町時代(16世紀)
〈員数〉1棟1枚
本堂(1棟)桁行7間(16.27m)、梁間9間(20.05m)、一重、入母屋造、とち葺形銅板葺
棟札(1枚)「飛州白川光耀山照蓮寺住持云々 延宝六戊午 十月十九日 奉行三嶋宇右衛門 棟梁池守源五」
永正年間(1504~1521)の建立と伝えられるこの本堂は、書院造を基調として、道場発祥の過程を物語る真宗寺院最古の遺構である。荘川村中野にあって中野御坊と呼ばれてきたが、御母衣(みぼろ)ダムが建設されることになり、昭和33年から35年にかけて現在地に移築された。延宝6年(1678)の棟札や小屋束の墨書から、当時の流行であった本願寺式急勾配の屋根に改装されていたことがわかり、移築の際に創建当初の緩やかな屋根に復元された。
杉柾目(まさめ)の柱に取られた大きな面、柱の上の美しい曲線を描く舟(ふな)肘木(ひじき)、広縁内部の調和のとれた舞(まい)良(ら)戸(ど)と明(あかり)障(しょう)子(じ)など、仏壇構えの内陣とともに上品な雰囲気が漂う。
参考文献
『高山の文化財』10~11頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-5 国指定・照蓮寺
005_214_照蓮寺
資料集
005_214_照蓮寺
国指定・田中家
〈国指定〉昭和46年12月28日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上岡本町1丁目590番地
飛騨民俗村構内
(旧所在地 冬頭町982番地)
〈時代〉江戸時代中期
〈員数〉1棟
主屋(1棟)桁行12.1m、梁間10.9m、切妻造、東面1間庇付、板葺
この建物は、もと高山市の北部中切町にあったものを二之町薬種商田中屋の第4代田中大秀が買い、冬頭村の田舎(でんしゃ)として文化年間(1804~1818)に移築、手代茂七郎(庶子)に与えたという。1度移築を受けているが、内部は昭和の初めまで建設当初のままで土座形式であった。飛騨の石置板葺の民家の中で18世紀前半まで溯る代表的な建物の1つである。
平面は本来土座の「オエ」の上手に板の間の「デイ」「ブツマ」、裏手に板の間の「ネマ」と土間の「ニワ」、下手に「マヤ」を配したもので、さらに下手外側に下屋が付加されている。この形式は、飛騨地方でも高山市周辺から西は荘川、白川までの大野郡でこの平面形式の民家が見られる。ただし屋根が板葺になるのは高山周辺だけである。北の国府町でも一部この平面形式が見られるが、南の益田郡はこれと異なる。
後世の改造時期については明らかではないが、まず「ネマ」回りの改変があり、次いで「マヤ」回りや正面出入口および「オエ」南側が改造され、さらに昭和になってから「オエ」の土座や「ニワ」の土間に床板が敷かれ、東側の下屋も撤去された。
昭和46年9月、旧所有者田中秀茂氏が高山市に寄贈し、翌年12月「飛騨民俗村 飛騨の里」に移築するため解体工事に着手、昭和48年12月にすべての修理を完了した。
建物の外観は素朴な板葺石置屋根で、勾配が緩く棟高が低くて荷重が軽いため、雪国にしては梁が細く数も少ない。入口を入るとL字形の「ドウジ」、「マヤ」がある。奥にはそれぞれ炉をもつ「オエ」と「ニワ」が広い土座を形成し、「オエ」には深さ60㎝程の「ムロ」がつくられる。「デイ」、「ブツマ」は板敷となり、東西2室の「ネマ」は板壁で囲まれて窓もなく、閉鎖性をもっている。各室とも天井を張らず、屋根裏がむき出しになり、柱は土間回りに栗、部屋に赤松が使われ、土間と外回りは杣ハツリ、部屋回りは丸刃釿(ちょうな)が多い。鴨居は溝を掘らず、付(つけ)樋(ひ)端(ばた)(付(つ)け溝(みぞ))にしてある。小規模な家だが、高山を代表する古い農家である。
参考文献
『高山の文化財』14~16頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-4 国指定・田中家
004_213_田中家
資料集
004_213_田中家
国指定・松本家
〈国指定〉昭和46年12月28日
〈所有者〉高山市
〈所在地〉上川原町125番地
〈時代〉主屋、米蔵は江戸時代後期、漬物蔵は文政9年(1826)
〈員数〉3棟
主屋(1棟)桁行10.8m、梁間14.5m、2階建、切妻造、鉄板葺
米蔵(1棟)土蔵造、桁行7.9m、梁間5.8m、2階建、切妻造、南面庇付、鉄板葺
漬物蔵(1棟)土蔵造、桁行5.2m、梁間4.2m、2階建、切妻造、東面庇付、南側蔵脇土間付属、鉄板葺
附 主屋漬物蔵間通り土間(1棟)桁行9.5m、梁間2.8m、両(りょう)下(さげ)造(づくり)、南面流し場付属、鉄板葺
明治8年(1875)、二之町で出火した火災は三町、寺内町、八幡町、鉄砲町などに延焼し1,032戸を焼失した。桜山八幡宮、別院など寺院や多くの町家が類焼したが、松本家住宅は火災を免れた。市内の町家の中では最も古く、改造があまりされていない貴重な建物である。
漬物蔵の化粧裏板に「文政9戌年(1826)5月18日屋根棟上」、窓(まど)框(がまち)に「文政9年戊4月27日出来」の墨書が見られることから、主屋の建設年代もその頃と推定される。米蔵の化粧裏板には「嘉永元申年(1848)4月日 大工八賀屋平吉 清助」とあり、建設年代かあるいは屋根修理時の墨書である。
松本家は現在の松本町の出身で、弘化年間(1844~1848)に高山町に分家し、以後蝋燭(ろうそく)、煉(ねり)油(あぶら)商を営んだ。松本吉助の代には、他に明治30年代は煙草製造卸、同40年代には金貸業も営み、明治45年に薬(やく)種(しゅ)商(しょう)原(はら)屋(や)三(さん)右衛門(えもん)、屋号「原三」の家(本建物)を譲り受けたという。上一之町から上川原町へ移ってからは、この建物を居住用に使用し、原三時代の主屋、土蔵、薬行商人宿泊所などを、大改造せずそのまま残したのである。原三は、文化年間(1804~1818)には益田街道沿いであるこの上川原町で商いをしており、松本吉助に売却後は安川通りで原三薬店を開いた。
この住宅は主屋のほか、裏の中庭に面して米蔵、漬物蔵が連なる。主屋の「通りドジ」を裏へ進むと漬物蔵の庇、米蔵の庇とコの字状に庭を囲んでいる。近世末高山の標準的町家の屋敷構えが完存している。
主屋は切妻造2階建で、正面には「のれんかけ」を下げるむくり屋根の小(こ)庇(びさし)や2階の連子窓、1階の出格子などが見られ、高山の町家の典型的な外観を示す。玄関大戸は無双窓の形式になっていて、中桟(なかざん)を動かすと縦の格子戸になる。夕方は大戸を閉めて小さい潜(くぐり)戸(ど)から出入りする。
大戸から「ミセ」の脇の「ドジ」(土間)を抜けると、中は「オエ」から「ダイドコロ」へ続く広い空間になる。梁から小屋組まで吹抜けを見せた空間が意匠的に扱われている。奥の部屋は表側に「オクミセ」続いて「カズキ」「ブツマ」「ザシキ」と4室並ぶ配置で、前後の部屋に1間の食違いを生じさせている。2階には広い座敷や、奥に茶室が設けられている。
南隣りの家屋は浅野氏の居宅であったが、平成元年に市が購入した。もともと原三の商家であり、内部調査の結果、主屋よりも古い建物であることが判明し、保存修理をして管理棟に使用している。
米蔵には松本家の商売用具、生活用品、装飾品などを展示し、漬物蔵には漬物桶や台所用具を展示している。松本家から寄贈された文化財指定建物は、高山の標準的な商家としてその価値は高く、また土蔵内一括資料、民具も明治から昭和にかけての生活を知る上で貴重である。
参考文献
『高山の文化財』16~19頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-3 国指定・松本家
003_212_松本家
資料集
003_212_松本家
国指定・飛騨国分寺塔心礎
〈国指定〉昭和4年12月17日
〈所有者〉国分寺
〈所在地〉総和町1丁目83番地
〈時代〉奈良時代(8世紀)
〈員数〉29.7㎡
境内には室町時代に建てられた国重文の国分寺本堂があり、その東側に玉垣で囲われた塔心礎石がすえてある。飛騨国分寺は天平13年(741)の詔により天平勝宝9年(757)頃までには完成していたらしく、この心礎は創建当時のものと推定される。
礎石の形状はほぼ方形を呈し、上面に円柱座を造り出し、その中央部に円形の穴があけられる。礎石の寸法は、径約2m四方、地上高さ約1m、円柱座径133㎝、高さ1㎝、円穴径58㎝、深さ29㎝で、枘(ほぞ)穴式心礎である。石質は地元で「松倉石」と呼称しており、リュウモン岩である。過去に移動されて、原位置を保っていない。
現寺域および周辺からは布目瓦を出土する。軒丸瓦は、5個の蓮子を持つ中房の周囲に細形単弁8葉の蓮花文を配し、外区に珠文帯をめぐらす。軒平瓦は、二重圏の中に左右対照の唐草文を配する。
現在の三重塔は岐阜県の文化財に指定され、文政4年(1821)に俊立したものである。過去には、創建の塔が弘仁10年(819)に炎上、斉衡年中(854~857)に再建している。また、応永年間(1394~1428)さらに兵火にかかり、その後再建されたが戦国時代に損傷、元和元年(1615)再建したと三福寺小池家文書「国分寺太平釘図」に記録されている。寛政3年(1791)、大風で吹き倒されてから31年後に建てられたのが現在の三重塔である。
昭和27年、本堂の解体修理をする際床下を発掘調査して礎石と玉石を確認しているが、桁行7間、梁間4間の金堂建物と推定されている。金堂と心礎の位置関係は推定の域を出ない。ちなみに、昭和63年辻ケ森三社境内で発掘調査がなされ、高さ1mの版築基壇上に桁行7間、梁間4間の金堂建物礎石列が発見された。国分寺と国分尼寺金堂が確認されたことにより、奈良時代における飛騨の歴史が大きく判明した。
参考文献
『高山の文化財』168~169頁 高山市教育委員会発行 平成6年3月31日
関連資料
1-1-2 国指定・飛騨国分寺塔心跡
002_211_飛騨国分寺塔心礎
資料集
002_211_飛騨国分寺塔心礎
国指定・国分寺大イチョウ
〈国指定〉昭和28年3月31日
〈所有者〉国分寺
〈所在地〉総和町1丁目83番地
〈樹齢〉推定1,200年
〈員数〉1本
イチョウ(1本)目通り約10m、高さ約37m
飛騨国分寺の本堂と鐘楼門との間に位置し、樹齢およそ1,200年の雄株で、枝葉密生し、樹間の所々に乳を垂れ、樹勢は盛んである。
由来については往昔行基菩薩の手植と伝えられる。俗に乳イチョウの名がある。乳の出ない母親にこの樹膚を削り与える時は乳がよく出る、といわれている。根元に石像が祀ってある。
昔から、国分寺のイチョウの葉が落ちれば雪が降る、とも言い慣らされている。
参考文献
『高山の文化財』218~219頁 高山市教育委員会発行 平成6年
関連資料
1-1-1 国指定・国分寺大イチョウ
資料集
001_210_国分寺大イチョウ
【公開講座】教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザイン
Ⅰ はじめに
21 世紀の知識基盤社会における「学力」は「他者と協働しつつ創造的に 生きていく」ための資質・能⼒の育成である。そのために、授業では、他者と共に新たな知識を⽣み出す活動を引き出しつつ深い知識を創造させていく経験を、数多く積ませることが重要である。また、情報化や国際化が進み、社会が⼤きく変化する中で、学校、そして教師は様々な変化に直⾯している。児童・生徒に求められる学⼒の変化や授業でのICT活⽤など、教師はどう対応していけばよいのだろうか。本講座では「インストラクショナルデザイン」を⼿がかりに、教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインについて考えていく。
Ⅱ 授業の目的・ねらい
高度情報社会は新しい課題を世界にもたらし、新しい解を生み出せる人間を求める社会である。つまり、これからの社会は、一部の専門家があらかじめ有する「正解」を適用するだけで解決できるものではなく、問題を共有する者が知識やアイデアを出し合い、不完全にせよ解を出して実行する。そして、その結果を見ながら解とゴールを見直すことが求められている。このような課題に対して、社会全体が応えようとしている表れが、知識基盤社会、コミュニティ基盤社会への転換と進展、ICTの利活用である。知識基盤社会とは、新しい知識やアイデア、技術のイノベーションがほかの何よりも重視される社会である。そのイノベーションのために、他者とのコミュニケーションやコラボレーション(協働、協調)が重視され、 それらが効果的・建設的に行えるように、人と人を繋ぐコミュニティやICTの役割に注目が集まっている。
つまり、現在決まった答えのないグローバルな課題に対して、大人も子 供も含めた重層的なコミュニティの中で、ICT を駆使して一人ひとりが自分の考えや知識を持ち寄り、交換して考えを深め、統合することで解を見出し、その先の課題を見据える社会へと、社会全体が転換しようとしている。ここでは、その高度情報社会とそれに応じて求められる資質や能力について考える。
Ⅲ 授業の教育目標
教育情報とは、検索利用可能な形で集積され、流通される情報を第一義的なものと考え、狭義には学資教材情報を、広義には、教育研究情報や教育の管理経営の情報その他を含めて考えることが情報管理論的に妥当である。こうした教育情報のシステムは、すでに学術的には開発され、試行されているものがあるので、これを基準に、教育情報について体系的に考察する。
(1)「イ ンストラクショナルデザイン」を⼿がかりに、効果的・効率的・魅⼒的な授業づくりや教材開発について考える。
(2)21 世紀に求められる学⼒を育む新たな授業と評価を、背景や実践事例を紹介しながら考える。
(3)⽬標を分析して構造がわかると、評価規準ができる。⽬標の構造がわかるというのは、評価規準のなかで、重要度を決定することを考える。
(4)企業の教材開発の視点を考える。
(5)協働学習の⼿法の⼀つである「ジグソー学習法」を経験し、学習者⾃⾝で知識を統合して答えを出す学習活動過程について理 解を深め、その効⽤を考える。
第1講 インストラクショナルデザイン
1. 何を学ぶか
情報化や国際化が進み、社会が⼤きく変化する中で、学校、そして教師は様々な変化に直⾯している。⼦供達に求められる学⼒の変 化や授業でのICT活⽤など、教師はどう対応していけばよいのだろうか。ここでは「イ ンストラクショナルデザイン」を⼿がかりに、効果的・効率的・魅⼒的な授業づくりや教材開発について考える。
2. 学習到達目標
① インストラクショナルデザインとは何か説明できる。
② ADDIEモデルについて事例をあげて説明できる。
3. 研究課題
① ADDIEのプロセスを検討し、折り紙を折れるようになる教材を作成しなさい。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第1講)
5.映像
第2講 授業デザインの基本
1. 何を学ぶか
教育の世界ではデザインというと美術関係や建築関係のことを連想するかもしれない。ここでは、サイモンがシステムの科学で⽰したデザイ ンの概念を紹介しつつ、教育での改善や問題解決あるいは改⾰に関わることについて考える。
2. 学習到達目標
① サイモンのデザインの考えをもとに、授業デザインを状態記述と過程記述から説明できる。
3. 研究課題
① 各⾃の授業を取り上げ、状態記述と過程記述で授業デザインを検討しなさい。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第2講)
5.映像
第3講 21世紀に求められる学⼒と学習環境
1. 何を学ぶか
21 世紀にふさわしい主体的・協働的な授業をいかに設計し、評価していくべきだろうか。21 世紀の知識基盤社会における「確かな学⼒」は「他者と協働しつつ創造的に⽣きていく」資質・能⼒の育成であるため、授業では、他者と共に新たな知識を⽣み出す活動を引き出しつつ深い知識を創造させていく経験を、数多く積ませることが重要である。ここでは、21 世紀に求められる学⼒を育む新たな授業と評価を、背景や実践事例を紹介しながら考える。
2. 学習到達目標
① 21 世紀に求められる学⼒について説明できる。
② 資質・能⼒を引き出す授業の条件を説明できる。
3. 研究課題
① 知識習得モデルと知識創造モデルの違いを説明しなさい。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第3講)
5.映像
第4講 教材の分析と設計
1. 何を学ぶか
⽬標分析をできないと評価規準をつくるのは難しいと⾔われる。「⽬標分析をする」とは、⽬標の構造を捉えることである。つまり、 ⽬標は平⾯的で、それだけでは構造はわからない。しかし、⽬標を分析して構造がわかると、評価規準ができる。⽬標の構造がわかるというのは、評価規準のなかで、重要度を決定することである。「この単元で何をしたいのか、何を教えたいか、何を指導したいか、どのような順序で教えるのか」を決定する。そして、「それを指導するために、何がいるのか」を考える。
2. 学習到達目標
① 何を教えるのか、そのための教材作成のあり⽅について説明できる。
② システム的な教材設計・開発の⼿順を5 つに分けて説明できる。
3. 研究課題
① あなたは、どのような場⾯でメディアの影響を強く受けていると思うか、また、どのような場⾯でメディアの影響をあまり受けていないと思うかグループで話し合って発表しなさい。
② テレビなどのCM は、専⾨家がなんとか視聴者をひきつけようとして創作した作品である。どんなCM が印象に残っているか。それは何故か。メディアの特性をどのように使っているか。グループで話し合って発表しなさい。
③ インターネットで、いくつかの教材を調べて、その教材の有効性を5段階で判定しなさい。そして、どのような要因でその判定結果になったかを、書きなさい。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第4講)
5.映像
第5講 学習⽬標のデザイン
1. 何を学ぶか
授業づくりは、まず学習⽬標を適切かつ明確にすることからスタートする。学習⽬標とは、学習者が、わかるようになること、できるようになること、⾝に付けることなど、教師が授業でねらいとすることを、より具体的な形で表し、どのようにわかったか、どのようにできるようになったか、どのように⾝に付いたかについて考える。
2. 学習到達目標
① ブルームの教育⽬標分類について、⾏動⽬標による例を取り上げて説明できる。
② ガニェの学習成果の5 分類について、具体例を挙げて説明できる。
③ 明確な学習⽬標について、具体的な単元において説明できる。
3. 研究課題
① ガニェの学習成果の5分類をもとに、各教科や単元を例にとって、グループで明確な学習⽬標を設定して発表しなさい。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第5講)
5.映像
第6講 教材開発のストラテジー
1. 何を学ぶか
本来教材というものは、教師⾃⾝が担任(担当)している⼦供の実態や学習⽬標に応じて⾃作するべきである。しかし、そうするには学習課題や教材を使⽤する⼦供の分析から始まり、具体的に製作するまで膨⼤な時間と労⼒がかかってしまう。そのため全ての教材を⾃作することはたいへん困難をきわめる。ここでは、企業の教材開発の視点を考える。
2. 学習到達目標
① 企業の教材開発の視点を説明できる。
② 企業の教材開発の⼯夫を具体的な例を挙げて説明できる
③ 企業の教材開発におけるストラテジーとは何かを説明できる。
3. 研究課題
① 同じ正答であっても問題によって正答率が異なるのは何故か、具体例を挙げてグループで考えなさい。
② プリント教材の⻑所と短所について、グループで話し合って発表しなさい。
③ 紙(アナログ)の教材とICT(デジタル)を組み合わせたり、連携させたりして新しい教材を、グループで話し合って考えなさ い。
④ ⼀⻫学習、協働学習、個別学習のいずれかで活⽤できそうなデジタル教材(タブレットアプリも可)を、グループで話し合って考えなさい。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第6講)
5.映像
第7講 教材の開発とその活⽤
1. 何を学ぶか
⼩中学校における理科の実験教材を開発する場合、先⽣が実験を⾒せる時に、実験台の周辺に児童⽣徒が集合することになるが、⼀⽅向からしか⾒えない児童⽣徒が⼤半で⼗分に理解することができない。しかし、多視点映像教材を⽤いると、従来の映像教材では⾒られない被験者の⽬線による映像や正⾯からの映像、左右側⾯からの映像や俯瞰による映像を⾒ることができ、理解の⼿助けとなる。ここでは、多視点映像教材の開発とその活用について考える。
2. 学習到達目標
① 多視点映像教材の開発とその活⽤について説明できる。
3. 研究課題
① 看護技術の多視点映像タブレット教材を使ってみて、他の教材への応⽤をグループで話し合って、その効果について考えなさい。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第7講)
5.映像
6.資料
第8講 魅⼒ある授業をつくる
1. 何を学ぶか
教師の誰もが「⼦供にとって魅⼒ある授業をしたい。」と願っている。「魅⼒ある授業」とは、画⼀的な教え込みの教師主導型の授業ではなく、教師の⼯夫によって⼦供が教材や指導内容に引き付けられ、⾼まった学習意欲をもとに⼦供が主体的・協働的に追求する授業のことである。今後の教育の⽅向として重視されている「アクティブ・ラーニング」(主体的・対話的な深い学び)も、魅⼒ある授業を⽀える条件の⼀つとして⼤切である。ここでは、魅⼒ある授業をつくる上で⼤切なこととして、教師の指導⼒(児童⽣徒理解⼒、授業⼒、学級経営・⽣徒指導⼒)と、授業を⾏う上での教師の基礎・基本(教師が⾝に付けるべきスキル、⼦供に⾝に付けさせたいスキル、学習環境の整備)に視点を当てて考える。
2. 学習到達目標
① 魅⼒ある授業をつくる教師の指導⼒について説明できる。
② ガニェの9教授事象について具体例をあげて説明できる。
3. 研究課題
① ガニェの9教授事象をもとに、魅⼒ある授業をつくるのにどんな授業展開をするとよいのかを具体的な教科名や単元名をあげ ながら、グループで話し合って発表しなさい。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第8講)
5.映像
第9講 学習意欲を⾼める
1. 何を学ぶか
変化の激しい社会を生き抜いていくためには、⾃ら課題を⾒付け、 ⾃ら学び、⾃ら考え、主体的に判断し、⾏動し、よりよく問題を解決できる能⼒や態度を⾝につける必要がある。このような能⼒や態度を育てる教育を実現するためには、⼦供の学ぶことへの関⼼・意欲を高めることが必要であり、学習の評価においても「関心・意欲・態度」の観点が重視されている。しかし、学習到達度調査などによると⽇本の⼦供の学習意欲は、改善傾向にあるとはいえ、平均を下回っていることが指摘されている。では、どうすれば学習意欲を⾼めることができるかについて考える。
2. 学習到達目標
① 学習意欲を高める指導法について説明できる。
② ジョン・M・ケラーのARCS モデルについて具体的に説明できる。
③ アンドラゴジーをもとにして学校式教育から⼤⼈の学び⽀援について、その違いを具体的に説明できる。
3. 研究課題
① アンドラゴジーをもとにして、学校式教育から⼤⼈の学び⽀援について、その違いを具体的に5つあげて、KJ 法を使って、グループごとに分類し、説明しましょう。
② 各グループで、学習の動機づけの具体的な⽅法をあげて、ジョン・M・ケラーのARCSモデルのどの分類にあたるか分類しましょう。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第9講)
5.映像
第10講 協働的な学びをデザインする
1. 何を学ぶか
⽇本において「協働学習(Collaboration Learning)」という⾔葉や概念は教育⼯学・認知科学の分野において使⽤され始め、ICT環境の整備とテクノロジによる学習⽀援が実現されていくのと共に広く知られるようになった。もともと「協働」とは⾃らが属する組織や⽂化の異なる他者と⼀つの⽬標に向けて互いにパートナーとして働くことである。従って「協働学習」は、単に「問題を⼀緒に解く」というような抽象的な活動のことではない。問題を解く場⾯で「どうしても他⼈がいないと起きない活動」を通じて「他⼈がいると⾃分⼀⼈で解くより答えの質が上がる」ことを繰り返し経験することで柔軟に解決できる“使えるスキル“の育成について考える。
2. 学習到達目標
① 協働学習の考え⽅を理解し実際に授業デザインできる。
② ワークショップの⼿法を5種類説明できる。
③ ジグソー学習について説明できる。
3. 研究課題
① 協働学習の⼿法の⼀つである「ジグソー学習法」を経験し、学習者⾃⾝で知識を統合して答えを出す学習活動過程について理解を深め、その効⽤を検討してみましょう。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第10講)
5.映像
第11講 ICTの活⽤とその効果
1. 何を学ぶか
⽂部科学省は、平成26 年度の委託事業である「ICT を活⽤した教育の推進に資する実証事業」において「ICT を活⽤した教育効果
の検証⽅法の開発」を⾏った。この実証事業は、ICT を活⽤した教育の推進を図る上で不可⽋な教育効果の明確化を⽬的として、1⼈1 台のタブレット端末を活⽤した授業と活⽤しない授業を実施し、児童⽣徒にもたらされるタブレット端末の活⽤効果を検証するとともに、ICT を活⽤した教育効果の検証⽅法を開発した。ここでは、タブレット端末を活⽤した授業の実践によりもたらされる「児童⽣徒の学⼒への効果」と「教員のICT 活⽤指導⼒への効果」、更に、「児童⽣徒のICT 操作スキルと学⼒への効果の関係性」について考える。
2. 学習到達目標
① ICT を活⽤した効果的な指導法について説明できる。
② アンケートやインタビューによる⾏動変容の調査について具体的に説明できる。
3. 研究課題
① ⼀⻫授業におけるメディアの活⽤と、個別指導におけるメディアの活⽤では、その学習形態は異なる。どのような学習が考えられ、学習環境に分けて、メディアの活⽤と学習形態について話し合って下さい。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第11講)
5.映像
第12講 授業を分析してみよう
1. 何を学ぶか
平成27 年7 ⽉16 ⽇に⽂部科学省より提⾔のあった、「これからの学校教育を担う教員の資質能⼒の向上について(中間まとめ)」において、「教員⼀⼈⼀⼈が、その職は⾼度に専⾨的なものであり、国家社会の活⼒を作り出す重要な職であるとの誇りを持ちつつ、⾼い志で⾃ら研鑽することの重要性が改めて認識されるようになってきた。」とあり、教員の資質能⼒の向上については、教育基本法第9条においても定義づけられており、教員の資質能⼒向上は、教員⾃⾝の責務でもある。それでは、教員の資質能⼒とは何か。様々な議論があるであろうが、 ⼀つには「授業⼒」であるといえる。この授業⼒を磨き上げていくことは、教員の資質能⼒の向上にもつながる。そこで、授業⼒を磨き上げることについて考える。
2. 学習到達目標
① 授業記録の⽅法について説明できる。
② 授業分析の⽅法について具体的に説明できる。
③ マイクロティーチングの⽅法について説明できる。
3. 研究課題
① 授業改善のチェックリストをグループで作成しなさい。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第12講)
5.映像
6.資料
第13講 教授・学習の理論と教育実践
1. 何を学ぶか
⼈が「学ぶ」ということについて、古くからいろいろな領域での研究がなされてきた。教授と学習という概念は、⼀般に教育者の⾏う教授活動と、学習者の⾏う学習活動という意味で理解されている。しかしながら、現実の多くの教育においては、「教授と無関係に成り⽴っている学習」もあれば、「教授が学習を導けない場合」もある。また、「教師がいないで⾏われている学習」であっても「教師からいかなる指⽰も影響も受けずに学習者が学習を⾏う場合」もあれば、「教師から前もっての指⽰のもとに、⼀⼈で学習する場合」もある。さらには、「教師の指⽰に反する⽅法で学習を⾏うような学習者」もいる。このように、現実の教育の場においては、教授と学習は必ずしもひとつの教育過程を構成しているとはいえない場合がある。ここでは、このような教授・学習の理論の変遷について考える。
2. 学習到達目標
① 教授学習に関する基本的な理論を具体的に説明できる。
② ⾏動主義と認知主義の2つの学習論の区別を説明できること。
3. 研究課題
① ⾏動主義的学習論と認知主義的学習論、構成主義的学習論に対応した教材や課題(問題)を作成し、グループで協議をしなさい。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第13講)
5.映像
第14講 授業⼒の向上
1. 何を学ぶか
これからの社会で求められる⼈材像を踏まえた教育の展開、学校現場の諸課題への対応を図るためには、社会からの尊敬・信頼を受ける教員、思考⼒・判断⼒・表現⼒等を育成する実践的指導⼒を有する教員、困難な課題に同僚と協働し、地域と連携して対応する教員が必要である。また、教職⽣活全体を通じて、実践的指導⼒等を⾼めるとともに、社会の急速な進展の中で、知識・技能の絶えざる刷新が必要であることから、教員が探究⼒を持ち、学び続ける存在であることが不可⽋である。ここでは、これからの教員に求められる資質能⼒について考える。
2. 学習到達目標
① 教育委員会が必要とする資質・能⼒について説明できる。
② 資質・能⼒を⾼めるための校内研修の⽅法を実践できる。
3. 研究課題
① ⾃分の資質・能⼒について強み、弱みを分析し、グループで弱みを強みに変える校内研修を提案し計画を⽴てなさい。
4.プレゼン資料
教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第14講)
5.映像
第15講 教師の成⻑
1. 何を学ぶか
教師教育は、教員の養成̶採⽤̶研修の段階に⼤きくわけられて論じられている。養成段階は、⼤学での教職のために必要な科⽬を学修する。さらに、教職に就くためには、都道府県等が⾏う採⽤試験に合格しなければならない。さらに、採⽤後は職場や都道府県等で⾏われる教員研修を受けなければならない。採⽤後の研修がこれであるが、研修は退職まで続き、教師の発達を促す重要な役割となる。教師の成⻑はこのように養成・採⽤・研修の段階を包み込む⻑期的な過程として捉えて教員養成について考える。
2. 学習到達目標
① 教師の成⻑を、養成―採⽤―研修の過程で説明できる。
② 教師の技能発達を認知と技術の統合で説明できる。
3. 研究課題
① ⾃分の教育技術を振り返り、課題として何があり、それを乗り越えるためにどうするか、について書いてみよう。
4.プレゼン資料
4.映像
Ⅳ レポート課題
課題1 21 世紀に求められる学⼒について論述しなさい。(A4用紙1枚程度)
課題2 ブルームの教育⽬標分類について、⾏動⽬標による例を取り上げて論述しなさい。(A4用紙1枚程度)
Ⅴ アドバイス
課題1解説 第3講参照
課題2解説 第5講参照
Ⅵ 科目修得試験:レポート試験
Ⅶ テキスト
- 教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザイン (テキスト)
『教育情報研究』 岐阜女子大学、2017
Ⅷ タキソノミーテーブル(教育目標の分類体系:タキソノミー)
タキソノミーテーブル(教育目標の分類体系:タキソノミー)インストラクショナルデザイン
教材作成
和佐谷橋
和佐谷橋は、手取川を能美市和佐谷と白山市鶴来今町の間で結ぶ全長184mの歩行者専用の吊橋である。吊橋は昭和7年(1932)である。昭和9年(1934)年8月9日の手取川大洪水により流されたがその後復旧した。現在の橋は、昭和40年(1965)に架橋された。以前は、車の往来も可能であったが現在は人のみの通行である。架橋以前は、舟渡しがあった。舟1艘、水夫2名が常駐し、対岸を縄でつなぎ、縄をたどりながら舟が行き来した。鶴来今町の護岸には、当時の舟付き場の舟に乗船するための階段遺構が現存している。和佐谷集落は、手取川左岸に位置している。平安時代後期には、文献にみえ、義経記では、東国落ちた義経と弁慶が舟渡しで渡河し、対岸の白山本宮と、金剣宮に参詣する場面が描かれている。集落は、能美市市に所属しながら、行政サービスでは対岸の白山市鶴来地区に関係が深く、明治39年以降、小学校の通学区は白山市鶴来地区の朝日小学校で現在も変わらない。
特色
昭和7年に架橋され対岸の白山市鶴来地区との地域関わりを持つ重要な橋
メタデータ
和佐谷橋
資料集
084_088_和佐谷橋
美濃禅定道
美濃禅定道は、美濃馬場の中宮である郡上市長滝にある長滝白山神社、長滝寺から、石徹白地区にある白山中居神社を経て、三ノ峰、別山を経て白山山頂(御前峰)に至る信仰の道。総延長は約36㎞に及ぶ。
歴史の道 白山禅定道(はくさんぜんじょうどう)の一部として、平成8年に文化庁より歴史の道100選に選定されている。
メタデータ
美濃禅定道
資料集
083_087_美濃禅定道
比楽駅
比楽駅(ひらかえき)は、平安時代前期に見える古代の駅であり実態、場所は不詳である。「三代実録」には貞観11年2月23日の条に「加賀国比楽河置半輸渡子廿五人」と書かれ、古代の平楽河を渡河するために25人の人夫を置いていたことがわかっている。また、延喜式には、湊として名称が出てきており越前国(加賀国の誤記カ)の国津として出てくる。現在、比定地は不詳であるが、白山市美川地区平加(ひらか)町の安産神社(やすまろじんじゃ)から白山市立美川図書館のあたりが有力である。ここは、砂丘地の先にあり、古代の比楽河が東側に面していたと推定される。古代の比楽河は、平安時代の手取川の本流であり、平楽駅、湊が平安時代において北陸道沿いの重要な交通起点であったと想定される。
特色
古代駅の推定地として有力な地勢であり、将来的に発掘調査等で確認されることが期待される。
平楽駅推定地
メタデータ
比楽駅
資料集
082_086_比楽駅
白峰伝統的建造物群保存地区
白峰伝統的建造物群保存地区は、手取川の源流左岸の河岸段丘に位置する。白峰地区は旧白峰村の中心となる集落で、白山の西を流れる手取川沿いに展開する。寒暖の差が激しく、冬期の積雪は2メートルを超える厳しい自然環境にある。白峰地区はかつて牛首と称し、その成立は不詳であるが、史料上は16世紀には成立していたことが確認できる。この地方の主たる産業は、養蚕、製炭および焼畑による畑作である。養蚕の始まりは古く、少なくとも16世紀半ばまでさかのぼると考えられる。 保存地区は、東西約230メートル、南北約960メートル、面積約10.7ヘクタールの範囲である。集落は、手取川西岸の細長い河岸段丘上に形成される。敷地が限られていたため、主屋が通りに面して建ち並ぶ特徴ある街路景観を持つ。地区中央部には、社寺および大家が居を構え、これらを囲む石垣が連なり、特徴ある景観を形成する。 主屋は、二階建もしくは三階建とする。上層階を養蚕の場とするために、江戸時代からすでに多層階の主屋が普及していた。屋根は切妻造で、年代の古いものは、下屋や軒庇を設けないため、土蔵のようであることが特徴である。二階以上では、柱を半間ごとに立てるために、窓が半間幅の縦長の形状となり、二階には薪の搬入口として使用されたセドと呼ばれる開口部を設ける。また、雪下ろしの作業のために屋根にあがる大はしごが常設されており、特徴的である。さらに外壁は、下地にナルと呼ばれる直径2センチメートルから3センチメートルの木の枝を使用し、非常に厚い。これらの特徴は、いずれも豪雪に対応したものであり、気候風土に即した建築の特徴をよく示している。
特色
白山市白峰伝統的建造物群保存地区は、山間部の狭隘な敷地に形成された特色ある集落構成をもち、豪雪という気候風土や養蚕という生業に即して発展成立した地方色豊かな伝統的建造物群がよく残り、厳しい自然環境にある山村集落の歴史的風致をよく残し、我が国にとって価値が高い。
市街地全体の伝統的建造物保存地区としての価値が認められ平成24年7月9日に国指定となった。
白峰の冬景色
メタデータ
白峰伝統的建造物群保存地区
資料集
081_085_白峰伝統的建造物群保存地区