平成18年の「教育基本法」(1)改正により,「教育の目的及び理念」には「伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」との文言が加えられた。また,学校教育法第二章第二十一条(義務教育の目標)第三項(2)にも同様の内容が規定されており,学習指導要領の各教科に反映されている。平成29年告示の小学校学習指導要領解説社会編(3)「教科の目標」には次のように示されている。「地域や我が国の国土の地理的環境,現代社会の仕組みや働き,地域や我が国の歴史や伝統と文化を通して社会生活について理解するとともに,様々な資料や調査活動を通して情報を適切に調べまとめる技能を身に付けるようにする」。
また,教育基本法が改正された同年同月に「地方分権改革推進法」(4)も成立された。「地方にできることは地方に」という方針の地方分権が本格的にスタートしたのである。これにより,平成の大合併と言われる大規模な市町村合併が行われ,愛知県では平成23年4月1日までに15の新たな市が誕生した(5)。これらの合併について全国町村会(6)は調査を行い,プラス面とマイナス面を挙げている。そのうちのマイナス面には,「地域の個性(歴史,文化,伝統)の喪失による不安」の項目が挙げられている。また,市町村合併は全国の公立学校の配置にも影響を及ぼした。少子化が追い風となり,平成元年に全国で24,608校あった小学校が,平成30年には19,591校まで減少したのである (7) 。
これらの市町村合併及び学校の統合は,子どもたちの学びに少なからず影響を与えている。小学校第3・第4学年の社会科授業では,教科書検定制度のもとで編集される検定教科書に加えて市町村教育委員会等が発行する社会科副読本が使用されているが,この副読本の内容にも変化がみられる。本来子どもたちの通学圏内である「身近な地域」を対象として作られる副読本であるが,合併や統合により該当の地域が広域化したため,学ぶ内容が「身近」ではなくなっているのである。例として,第4学年の社会科単元「きょう土の伝統・文化と先人たち」ではその対象が町から市に変わった。そもそも児童・生徒が学ぶための子ども向け地域資料が少ない。さらに2020年からのコロナ禍により地域を学ぶリアルな体験の場が減少している。また,教育現場の教師においては,多忙な業務のなかで各地域の資料を収集し教材開発することは時間的な制約があり難しい。
コロナ禍では学校がやむなく休校となり,地域行事が中止になる等,外出自粛が余儀なくされた。その反面,デジタル化やICT教育が進むこととなり。結果として,2019年より国の政策として始まったGIGAスクール構想が後押しされた形となった。教科書や社会科副読本等の電子版が活用され,一人一台の端末が配布されるとともに,授業では電子黒板が使われ,アーカイブ画像(8)の使用や,遠隔地の学校との交流授業等(9)が行われるようになった。自らの地域文化を紹介し,他地域との比較により新たな発見をする相互学習が可能となった。こうした時代背景を鑑み,教科書を始めとする各種教材は今後デジタル化の方向に進展するだろう。デジタルを活用することで地域の枠を超えた幅広い学びの形が加速することとなる。その一方で地域学習の初めの段階では,身近な地域として我が町を知ることが必要ではないかと考える。
地域学習の現状と課題
市町村合併によるプラス面,マイナス面については全国町村会の調査(6)や愛知県の調査結果(10)で確認することができる。その調査のマイナス面のひとつに「地域の個性(歴史,文化,伝統)の喪失」が挙げられているが,このことは,社会科副読本にも影響を与えている。子どもたちが最初に学ぶ地域学習材として,社会科副読本の役割は大きい。なぜなら,昨今,各家庭の地域活動への参加度合いは異なり,子どもたちの知識や体験に差が生じているからである。さらに地域に特化した子ども用の郷土資料や学習材が少ないため,書物やコンテンツを通して個別に学ぶことも難しい。
教員の立場からは,本来,地域資料を教材化するにあたり,教師自身が地域社会と向き合い地域の土地や産業,人々の様子を見て歩き,地域の人の話を聞くことにより学習指導要領の内容に関わる地域の事象を自らの目でとらえ地域教材の開発を進める必要がある(11)。しかし,近年大きな社会問題となっている教員の過剰労働を鑑みるに教材開発に大幅な時間を割くことは難しい。青木,堀内(2014)は,多忙化の質的変化を比較し,その特徴や実態調査の課題を整理している。それによると,教員の多忙化には,いくつかの特徴と多義的な多忙感(負担感)があるという。多義的と言うのは,煩瑣な処理を要求されることにより,その量の多さや費やす時間の長さにより重要な仕事について十分に果たせない等,いくつかの理由が入り混じった多忙感である(12)。こうした教員の多忙感が教材開発を妨げる要因であり,それに加えて,そもそも子ども用の地域資料が少なく入手が困難であるということもあり,学校現場で地域資料が活用されない現状となっている。
児童・生徒は,地域を学習することで,身近な地域の認識を深め,親しみや愛着を持つことができる。地域の一員としての自覚を持ち,将来の地域資源を生かす担い手として期待される。地域で育つ彼らには,土地の歴史や成り立ちを知っておいてほしい。そうした知識や先人から受け継いだ知恵が自然災害対策としても役に立つ。
教員に関しては,デジタル化された地域資料があれば資料収集の負担が軽減され,授業研究の補助資料として活用しやすくなる。また,赴任先が地元でなくても,デジタル地域資料によって,その土地の概要を把握することができ,児童・生徒とコミュニケーションがとれる。地域の子どもたちとコミュニケーションをとる中で,教えあい,学びあうことで互いに認識が深まるものと考える。
デジタル紙芝居
紙芝居 ~ 一本松は見ていた ~
「一本松は見ていた」
♪一本松は見ていた。いかだが河を下るのを。おじいちゃんのおじいちゃんが、ぼくと同じだった頃♪
① 私は木曽川のつつみの上からずっと長岡村の人たちを見ていました。あなたのふるさとがまだ長岡村と呼ばれていたころのお話をしましょう。
② やっとこせ~、よ~いっとな~。
耳をすませてごらんなさい。
いせいのいい木遣りの歌が聞こえてきますよ。木曽の山でとれた材木は、いかだに組まれて木曽川を下って運ばれました。二十年に一度の伊勢神宮の せんぐうに使われるご神木が運ばれるときは、たくさんの村人が集まって、とてもにぎやかになりました。
♪みよ池のほとりに、白いお馬があらわれた。おばあちゃんのおばあちゃんが、私と同じだった頃♪
③ たくさんの馬が飼われていた馬飼には、洪水で木曽川のつつみが切れてできた大きな「みよ池」がありました。
耳をすませてごらんなさい。真夜中になるとみよ池のほとりにあらわれる白い馬の足音が聞こえてきますよ。
④ 耳をすませてごらんなさい。女の子たちは、おはじきやお手玉をしてあそびました。子どもが多いので、子もりは大切なお手伝いでした。
みよ池には、ヒレ、ジュンサイ、マコモ、ガマ。水草が生え、花が咲き。
カモ、セキレイ、カワセミ、クイナ、美しい小鳥が歌いました。
フナ、ナマズ、モロコ、センパラ、ウナギにどじょう、たくさんの魚がとれました。
♪桃のお花が咲く道を、魚つり 子どもが走っていく、「こやす地蔵」のかげから、どんぐりやまのたぬきがみてました♪
⑤ 耳をすませてごらんなさい。子どもは今も昔もあそびが大好き。桃の花が咲いた道を、元気な子供たちが魚をつりに走っていきます。
⑥「どこへいくのかな」どんぐり山の狸が、おじぞうさんといっしょに、 子どもたちを見ていますよ。川にかこまれた長岡村は、桃や梅の花が咲きほこる、「桃源郷」とよばれる美しい村でした。春になると船に乗って、お花見をする人がたくさんやってきました。
♪さとのき、桑の実、さつまいも、 こどものおいしいおやつです。
おびしゃ、もちなげ、どんど焼き、 白髭神社のおまつり♪
⑦ 耳をすませてごらんなさい。げたをはいた子、ぞうりの子、はだしの子、みんな元気に笑っていますね。
⑧ 白髭神社では、その年かざった かど松やしめかざり、書き初めをやいた火でもちをやいて食べる「どんどやき」がありました。
矢をいって、その年の作物のできを占う「おびしゃ」、わざわいが起きないように、健康にすごせるようにもちをまく「もちなげ」。子どもたちが楽しみにする行事がありました。
♪馬飼、四貫、拾町野、西鵜之本に神明津、とどめき川と木曽川に囲まれた村の物語♪
⑨ 耳をすませてごらんなさい。長岡村の東を流れる佐屋川は、大雨が降ると川の水がぎゃくりゅうして、ゴボゴボとぶきみな音を立てました。川があふれる前ぶれだったのです。村の人から「とどめきがわ」とよばれていました。
⑩ 長岡村は、木曽川よりも低い土地でしたから、大雨が降ると村中が海のようになってしまいました。
朝、子どもたちは、ひざまで水につかりながら学校に通うこともありました
♪おばあちゃんが私に昔話をしたように、いつか私も長岡の昔話をするでしょう♪
⑪ 長岡村のお話は、これでおしまいではありません。あなたがこのお話をだれかに話し、そのだれかが他のだれかに話し、そのだれかが他のだれかに話したら、このお話はずっとつづいていきます。
⑫ 耳をすませてごらんなさい。
長岡に住む人たちの声が聞こえてきますよ。
私はいのります。あなたが、この長岡に生まれてよかったと思いながらおとなになっていってくれることを。 長岡の一本松
地域資源デジタルアーカイブ(稲沢市 祖父江町 長岡地区)
■水屋〈稲沢市指定文化財〉 (みずや 〈いなざわししていぶんかざい〉)
■地泉院 (じせんいん)
オーラルヒストリー (地泉院住職の話)
長岡地区(神明津)にある地泉院(4040)は 約600 年の歴史があり古文書等にもたびたび登場する。地泉院の本尊は 奈良時代行基菩薩作の子安延命地蔵尊であり 弘法大師空海が日本に伝えた真言密教のお寺である。尾張徳川候も篤く帰依され 本尊に納めてある御厨子は尾張徳川家御寄進のものと言われている。新型コロナ感染症の流行以前は 地域の小・中学生が学校行事として訪れ 住職へインタビューを依頼していていたが ここ数年は行われていない。メディア露出はほとんどされることがないお寺であるが 今回は地元の子どもたちの学習目的と長岡地区のアーカイブを残したいという思いに共感いただき 音声での記録を引き受けていただいた。
住職へのインタビュー内容は全部で6問である。事前準備として 質問項目を用意しお渡しした。質問内容は お寺で行われている行事や 古文書などに書かれている既知の内容を口頭で確認する形である。収録場所は地泉院内であり 日常的に講和をされている場所で落ち着いた環境で行うことができた。
6つのテーマについて 住職の一人語りの形でお話しいただいた。聞き手は同地域在住で 住職とは幼馴染の方に依頼した。地元の方であってもこれまで聞いたことのない話や 改めて確認できたことなどがあったようで 収録時間の約1時間を過ぎても話は続いた。近年 大方のことはインターネットで調べられるが こうしたローカルな話は 地域に代々居住している人々の口伝により語り継がれることが多い。特にかつて大水の被害があった地域は 水害により形を留めている資料が少なく 口伝情報が大変貴重である。これらの音声資料は 小学校の学習材として使用する目的であるが 地域の大人にも伝えていきたい内容である。音声を記録する意義は その土地の言葉や話し方によるニュアンス イントネーションなどを伝えることがある。ただし 地元の人でなければわからない土地の名前や言い回しなどが含まれるため 文字起こしの際にはキーワードを補足することとした。一つの質問を5分程度と短く設定したのは 子どもたちの集中力や授業内での使用を考慮したためである。
Q.「十万体地蔵流し」について
地蔵流しは,昭和4年(1929年)に,今の東海大橋のあるところに渡船場があって,愛知県の人が岐阜県に行き,岐阜県の人が愛知県に来るという船に乗って,渡船場があったわけですが,その船が,沈没しまして多くの方が亡くなられた。亡くなられて,その時に船を漕いでいた船頭さんが毎晩夜になると首を絞められると,ちょっと怖い話ですが,首を絞められて何日も寝ていない。地泉院のその時の住職,21世の大僧正榮順大和尚※のところに,なんとかしてくださいと相談にみえた。そうしたら,榮順僧正が「それは魂が救いを求めとるから,供養して救ったらなあかん」と言うことで,早速「今からお地蔵さんを刷れ」と言って・・・
今用意してきましたけど,こういうお地蔵さんを(和紙にお地蔵さんの画のある手の平サイズのもの)刷ってね,「地蔵流しで供養する今から来い」と言って,供養して,地蔵流しをして,そうしたらその船頭さんは夜寝れるようになりまして,で毎年供養を,地蔵流しをやるということになってずっと供養してきまして,数年経ってくるとね地蔵流しに参加した人がいいことが起きるということになってきまして,例えば子が長年授からなかった人が授かったりとか,良縁に恵まれたりとかね。そういうことがあってですね,そこらへんからいつの間にかね,塔婆にもね,安産祈願とかね,家内安全とかね,そういうことも書いて流すようになったんですね。
そういうことで,ずっと続いて,最初の頃はですね,中堤(ナカテイ)と言って木曽川と長良川の堤防ね,あそこまで,私の小さいことまでは行っていた,だから40年ぐらいまではみんな船に乗って,中堤に行って,一日がかりで供養をやっていたんですがね,今じゃ絶対許可がおりないです。そういうことをやっていてですね,それが今やることに関して許可が大変で,ですね,今は数年前から池でやっております。地泉院の中の今蓮があるところの池で,蓮が終わると何もなくなるので,そこで供養してというようなスタイルに変わっておりますね。
Q.具体的にはどういうことをされるんですか?これを流すんですか?
最初お経をあげて,時間が来たらみんな一枚ずつね,お地蔵さんの真言を唱えながら,オン カカ,カビサンマエイ ソワカ,オン カカ,カビサンマエイ ソワカと1枚ずつね。このお地蔵さんに亡くなった魂が救われていくわけで,
(先ほど)言うのを忘れたんですが,日ごろ私たちは色んな衆生,生きとし生けるもの,豚さん,牛さん,鶏さん,お魚,貝,魚介類そういう命をいただいているんで,すべての生きているものに対しての供養をするように昔からなっている。よく養鶏業者の人とか,牛さん豚さん飼っていらっしゃるそういう人たちも昔は地蔵流しに参加されて一緒に供養していたんですね。あらゆることの供養ということでね,続いております。今年で,令和5年2023年,今年の11月で95回目ですね。なんとか100回まではいきたいと頑張っております。
※大僧正榮順大和尚(ダイソウジョウエイジュンダイワジョウ)
Q.神明津には現在も水屋が残っている。地泉院も水害対策をしていたか。
うちに限らず,この地域は水害に悩まされた地域で,うちのお寺に限らずこの地域の仏壇というのは下の部分がすごく高いんですよね。なんとか水に浸かっても仏様だけは守るという考え方で,畳の上から1メートルぐらいあるような,うちの本尊様を納めるのも高くは作ってあるんですけども,今のまさに地面と同じぐらいの高さしか堤防の高さはなかったみたいなので,本当に大水が来ると堤防から手を洗えるというくらいのそれくらいのやわな堤防だったので,切れますよね。それでダーッと入ってきて,それでうちに定期的にみえる堤防とかの設計される方がおっしゃっていましたけど,そういう昔の被害が多いんで,この木曽川の堤防というのは,A級クラスで今3段になってますかね,すごい強靭な堤防を作ってあるので,まずよっぽど現在は大丈夫でしょうというお話しです。
Q.尾張徳川家からの寄進について。
家紋と言わず お寺は寺紋(ジモン)と言います。寺の紋と書いてじもんです。なんでそうゆう風になったかというと 寺に伝わっていることによりますと まさに関ヶ原の合戦の時に徳川軍は清州城におりましたよね。そっからみんないろんな方面に分かれていって その一派が木曽川に差し掛かった時に地泉院に一泊しているんですね。一泊していて戦勝祈願をしました 勝てるように祈願して関が原に向かったという話しなんですね。関が原で徳川軍は勝ったので そのお礼に本尊様を納める御厨子(オズシ 本当に大きいんですけど その御厨子を御寄進していただいた その時から葵の紋が寺紋になったということです。
そこにも江戸時代の瓦ありますけど 葵の紋がついていたり 本尊様を納めている御厨子も宮大工さんに聞くと 現代にこの同じの作ってもらうといくら位かかりますかと聞いたら 1億5千万はかかるとおっしゃっていたので すごいものを御寄進していただいているんですね。まぁ本物か噓かっていう話に仮になったとして 昔 江戸時代とかに偽物の葵の紋を付けると打ち首でしたので まぁ偽物ではないと思います。実際古いものとかに葵の紋が付いていたりね。あと 海津のお寺とかですね まさにうちと同じような境遇のお寺が 行く前に行脚して?帰った後 関ヶ原の戦いで勝ったということで御寄進を受けて復興されたお寺もあったりするので 海津と言えば有名な松平藩?高須藩の松平のお殿様 大河ドラマでも出てきましたけどね 高須城がある。高須城というのは尾張徳川家の中でも上の位で 実際 尾張徳川藩が世継ぎがなくなると二代ぐらいその高須藩から送られてお殿様になってますからね 地位としてはすごい高いですけどね 高須城※って昔あったんですけどね。
そういう感じもあって 徳川家といろいろ関係があったんじゃないかなと さっきの大水の話じゃないですけど このお寺も散々大水に浸かっていますので そういう資料がなくて 公の資料から言い伝えでしかそういうことはわかっていないんですけど。そいう関係で葵の紋があります。よくお参りに見えた方によく質問は受けます。
Q.「地泉院の大松」について
非常に大きな大松で すごく大切にされていたんですが 地泉院の土地はそもそも もっと西の方に木曽川の方に境内地はもっと広かったらしくて 聞くところによると半分ぐらいは堤防になってしまったらしい まさにその部分に大松があってその堤防の拡張により残念なことに切らなくてはいけなくなってしまったという話がありまして 今だったら反対運動が起こるでしょうけど その時代は国がいうとそれで通ってしまうような感じだったんじゃないでしょうかね。写真を見てもすごくデカいですよね。恐ろしいくらいデカい。すごくもったいないですよね。
Q.「北向地蔵」について
尾張名所図会っていう江戸時代の旅行ガイドみたいなもの 観光ガイドですね。そういうのがありまして そこの中に地泉院が出てくるんですけども その中に下馬地蔵(げばじぞう)ということで 載ってまして
地泉院の本尊様の前を通っていくときに馬から降りてちゃんと手をあわせていかないと 馬から落ちると あまりにそうゆうのが続くから 本尊様を北向きにしろということをしたということを言われております。仏様・神様というのは 基本的に南か東向いてお祀りするというのが基本なんですけどね。例外の北向き地蔵さんとか 北向き不動尊とか。たまに書いてあったりしますけど 基本は南か東を向いてお祀りするのが お札とかもね 仏様・神様の分身であるお札とかも南向きか東向きでお祀りするのが本来なんですけれども あまりにみんなが恐れたもんでひっくり返した それもまぁ今はもちろん元に戻していますけどね。それぐらい霊験あらたかだったんじゃないでしょうかね。
Q.神明津の渡し舟について
神明津という名前は 神明社が 大きな神明社が堤防のところにありますけど その神明をとって 津というのは港 船着き場 渡船場とか ようは港ですね そういう意味があって神明津というこの土地の名前だと思うのですが そこの神明社は昔からお伊勢参りで 木曽川を船でワァッと渡って 長良川も昔つながっていたからそうですね。船で行ってお伊勢参りに行く途中に 必ずそこの神明社に降りてお参りしてからお伊勢さんに向かっていたという そういう由緒ある神社なんですね。
なかには金毘羅山も 金毘羅山のお社も昔あったんですよ。それが数年前になくしちゃったみたいなんですけど 私も知らない間に。金毘羅山っていうのは 四国の香川に金毘羅山ってあるんですけどね 金毘羅大権現はですね 海上交通の守り神 海の神様という そういう神様なんですけど
まさにこれから海に向かっていく 水に関するものなんで それで金毘羅山を祀っていたんじゃないかと思いますけどね。昔は橋がないので 渡し船というのがものすごく重要で 必ずみんな 実際うちにお参りにみえる方 岐阜県の方も まだ生きていらっしゃるんじゃないですかね 小さい頃は渡し船に自転車乗せてここまでお参りに来たという そういう話を今でも もうぎりぎりぐらいじゃないですかね。親に連れられてお参りに来ましたというのはちょこちょこまだ聞きますんでね。
以上のオーラスヒストリーからも長岡地区が昔から水との関係が深い地区だということがわかる。水の恩恵を受けると同時に 大水に悩まされた歴史があった。音声収録後の雑談のなかでは 神明津と藤ケ瀬の間に流れていた「間の川」の話(八開村史P.248 248(4242)に記述あり)になった。図1 6 1 図1 6 2 のように かつての長岡地区は四方を川に囲まれた輪中地域であった。旧八開村(現愛西市)の古老によると 現在でもこの「間の川」の痕跡がわかる場所があるという。幼少期には,,間の川とつながっていた佐屋川でよく魚を取っていたとこのことである。また,,神明津より南東に「川北」という地名があるが,,この川とは「間の川」のことであり,,その北側に位置することから「川北」という地名になったのだという。
小史「一本松の子ら」(図66–11)や「みよ池の里」(図66–22)の寄稿文にも,,現在は存在しないこれらの川の名称や当時の様子を知る人々の思い出話しが書き記されている。
史実では,,明治3333年(19190000年)※に佐屋川は締め切られたとあるが,,現在7070代の方が幼少期に佐屋川で魚を取ったというのは昭和時代である。このことがわかる記述が小史『一本松の子ら』にあった。下記に抜粋する。※または明治3232年(19891989年)
(略)明治二十九年の鵜多須切れのあと,,明治三十二年に佐屋川がしめ切れられたのですが,,その後も昭和十年頃に埋め立てられるまでは拾町野から川北の手前まで,,深い沼と砂丘のような高い堤防となって残っていました。鵜野本の東側あたりは堤の下からすぐ深くなり,,東の岸近くには葦もはえていましたが,,夏,,泳ぎにいったりすると,,途中,,中程で少し足のつくところがあるぐらいで,,あとは背の立たない程の深さでした。(略)
この他にも小史には様々な川との思い出が記録されており,,それらの記録をつなぎあわせると,,豊かな昔の長岡の風景が思い起こされる。地域の方から当時の様子を聞き取り,,記録することで過去の土地の様子が甦るのである。そうした土地の記憶は,,後世の人々にとっても必要となるだろう。これらはかつて,,子から孫へと語り継がれた話であるが,,現代では,,そのような風習も薄れ,,時代と共に風化してしまうのではないかと懸念する。
2019年44月2727日の中日新聞の見出しに「佐屋川 本当に流れていた?」とある。大見出しは「22本存在?11本は廃川」である。この記事は「わが街探偵団」という特集で,,購読者からの質問に記者が調査するというものである。質問者は稲沢市在住の当時3131歳,,質問を要約すると「大昔,,佐屋川という大きな川が流れていたのは本当か,,川の跡がところどころにあるという噂をきいた」という内容である。
記者はこの問いに対して,,「川はかつて稲沢市祖父江町馬飼付近から木曽川に分流し,,弥富五明付近で再び合流した。江戸中期の地誌「尾張徇行記」によれば,,川幅が「二百三十九間(約四百三十五メートル)にわたった所もある」としている。さらに地元の専門家を訪ね「明治三十年代に水害対策で分流点が締め切られ廃川となった」と記している。分流点というのは,,馬飼付近のことであるのか。稲沢の昔ばなし「砂山の化かし狐」の祖父江の拾町野・沼山(図88–11)のハンドライティング図では馬飼の辺りから佐屋川が流れている。しかし,,名古屋大学附属図書館所蔵の木曽三川流域大絵図高木家文書(図55.)や今昔マップoon the webn the web(2211)の18881888年代(明治2121年頃)の長岡(図99–22)では,,馬飼よりも北に位置する拾町野から分流している。
中日新聞の記事は,,現在,,祖父江町よりも南に位置する蟹江町に流れている佐屋川に言及し,,これが廃川の名残なのか,,または別の川として22本あったのか,,“大河”の謎は深まった」と締めくくっている。
こうしたことも,,地元の方から話を聞き,,記録として残すことで全貌が見えてくるのではないだろうか。かつての佐屋川の記憶を持った方々の話を記録に残し,,次世代に伝える必要がある。
■白髭神社(しらひげじんじゃ)
■史跡 とどめき川 渡船場跡(しせき とどめきが とせんじょうあと)
■ 旧佐屋川野田渡船場跡 (きゅうさやがわのだとせんじょうあと)
■愛知県営西中野渡船場 (あいちけんえいにしなかのとせんじょう)
■長岡マップ 写真と説明詳細(5カ所)
資料
■_参考資料