【研究論文】高遠石工 石造物のデジタルアーカイブ
研究概要
1.はじめに
長野県伊那市高遠地域は、風光明媚な風土やタカトオコヒガンザクラの樹林、高遠石工の石造物など独創性ある地域資源を有している。その中でも、高遠石工とその石仏は地域の歴史的価値を高め、観光資源としても魅力的な文化財であると考える。しかし、高遠石工の存在は、高遠町民には周知されているが、長野県民を始め、県外観光客からみると認知度が低いのではないかと考える。また、高遠石工の石造物のデジタルアーカイブ化への取り組みがほぼ行われていない。石造物は経年劣化や自然災害により、石工達の活動や石造物そのものが損傷または喪失するリスクが高いと考える。
そこで、本研究では主に高遠石工への興味を県内外で喚起することと、地域文化財の保存と普及を目的とし、高遠町を中心に、長野県南信地方の上伊那地域に現存する石造物の撮影を行いデジタルアーカイブを作成する。また、高遠石工の作品がどのようにして江戸時代の社会や文化等に寄与したのか歴史を明らかにし、今に残る石造文化財が現代の地域社会にどのような影響を与えているのか調査し、アーカイブすることの意義について考察する。
2.研究の方法
はじめに、研究対象である、高遠石工と名工と呼ばれた守屋貞治に関する資料を収集し文献調査を行う。石工誕生背景、石仏の種類、表現技法など、基本的な情報を調査し、その起源と現在までの変遷を辿りながら、当時の地域信仰や生活を考察する。表現技法については、守屋貞治の作品と人柄を深堀し、どのような特徴があるのか調査する。文献調査で分かったことをまとめ、分析する。
次に、高遠町と上伊那地域に現存する石仏(写真1)、道祖神、庚申塔、供養塔などの撮影を行い、または関連施設を訪問し情報や資料を収集し記録する。
収集したデータをもとに、地域学習や観光資源として利活用でき、石工への興味喚起を図れるようなWebページの制作を行う。
3.研究の結果(考察等)
高遠石工とは、江戸時代に信州高遠を拠点に全国で活躍した石材加工の職人集団のことである。活躍した時代背景には、高遠藩による出稼ぎ石工の奨励、民間信仰が盛んになり造立が活発化したこと、高遠藩領では良質な石材が豊富であったことなどが挙げられる。また、収集した資料を、所在地や石仏の種類ごとに整理すると、それぞれの地域ごとに民間信仰や石造物の特色が捉えることができた。多量の石造物が造立されていることから、当時の庶民の信仰心が強いことが分かった。
撮影方法としては、対象とする石仏の全体像を前後左右の4方向と、碑文や台座、持物、印相、石仏の表情を部分的にクローズアップして撮影し、石仏1体1体の特徴や魅力が伝わるよう意識をしつつ、一眼レフカメラを使用し静止画で記録を行った。ただし、崖や川付近に安置され、格子に囲まれている石仏については正面と斜め左右の3方向から撮影を行う。
4.おわりに
現在、約165体の石造物の撮影が完了している。今後も撮影を進めるとともに、Webページの制作も行う。そして、文献調査した結果から、これらの石造物が現代の人々にどのような影響を与えているのかを考察する。
参考文献
高遠町誌編纂委員会.高遠の石仏.伊那毎日新聞社,1975
研究資料
高遠石工とは
江戸時代、信州高遠を拠点に全国で活躍した、石材加工の職人集団のこと。主に手彫りによる石の加工技術が特徴的。
全国各地に、石仏、石鳥居、石橋、供養塔など数多くの石造物を造った。
江戸時代、民間信仰が盛んになった風潮の中で、寺社の建築、石造物の造立も活性化した。
石造物の需要が増したことで高遠の石工は各地に出向いて働くようになり、優れた技術が各地で評価された。
高遠石工の名が全国を轟かせたことで、高遠石工がブランド化した。ブランド化したことによって、石工の活動もさらに盛んとなり、全国各地で数多くの作品を残すこととなった。
現状と課題
1.石工技術を持った職人の高齢化、人材不足
→専門家や職人の高齢化、後継者不足により、技術の伝承が途絶えてしまい、石工技術継承の危機に陥る。
2.高遠石工の文化遺産に対する、若者の興味関心が低い
→伝統的な技術やノウハウの継承が困難になる。
3.石造物は観光資源、人文資源として価値がある。
→石造物を観光資源として活用することにより、魅力ある地域づくりが可能になり、高遠町はもちろんのこと、全国各地の地域社会の活性化に繋がる。
高遠石工の足跡
全国18都府県
長野県、山梨県、静岡県、神奈川県、東京都、新潟県、福島県、山形県、青森県、群馬県、
栃木県、埼玉県、茨城県、愛知県、岐阜県、三重県、兵庫県、山口県
高遠藩による他国への出稼ぎが奨励され、全国各地に
高遠石工が出向き活躍。
長野県内だけでなく、各地
に高遠石工が携わった石造物が存在する。
⇒そのため、観光資源として価値があり、今後
さらに注目されるべき文化財である。
高遠町民には高遠石工が十分周知されている。
⇒しかし、高遠町は桜の名所として認知されているため、高遠石工の存在が桜に埋もれてしまっていることが問題点だと考えられる。
高遠の文化遺産に対する人々の関心、認知を高めるために、高遠石工の歴史や文化的な背景を説明し、その価値を明確にすることが大切であると考える。
そして、高遠町の特色や文化遺産との関連性を強調し、遺産が地域の歴史や文化と深く結びついていることを伝えることにより、地域住民のアイデンティティや誇りを引き出し、さらに価値を高められる。
高遠石工の存在を知ってもらうことにより、観光資源として活用でき、さらに観光客が増加することで地域振興に繋げられる。
VIDEO
目 的
高遠石工の石材加工技術者の高齢化、後継者不足により技術継承が途絶えることが危惧される。そこで、伊那市の地域文化遺産である高遠石工の技術の継承と、地域資源への興味喚起のために、高遠石工のデジタルアーカイブ化を行う。
研究内容
〇守屋貞治・渋谷藤兵衛の石仏デジタルアーカイブ
伊那市内にある主な守屋貞治の作品
〇歴 史
高遠石工は、1187年(文治3年)に源頼朝から代々石細工職人として日本国内で仕事が出来るとの許可をもらったものとの由緒書が伝わっているが、発祥は中世頃と推定されている[2]。由緒に基づき、全国を行脚しており、現在の青森県から山口県まで旅稼ぎをしていた。
天正末期、徳川家康の命で江戸城工事に従事し、八王子付近に定住していたことが「新編武蔵風土記稿」に記載されている[4]。鳥居氏の所領だった(1636年〜1689年)の間の高遠地方旧記の引き継ぎ目録に記録が残っている[5]。元禄4年(1691年)に内藤清枚が藩主となると、藩の財政難解消策の一環として出稼ぎが奨励されるようになった。明和4年(1767年)には「他国稼ぎ御改め帳」が発行されるなど、石工が全国を回っていた[6]が、それは「旅稼ぎ」といわれ、藩には運上金を1人年1貫文(千文)を収め決まりとなっておりお高遠藩にとっては重要な収入源だった。
文化8年(1811年)の記録では領内の主要な産業として保護、統制を受けており、職人団体の中で運上金上納額最高が石切職人だった。
その存在が日本全国に知られるようになったのは江戸時代、17世紀半ば頃のことであったとされる[1]。彼らは日本の各地に散らばり、石仏を始めとする彫刻作品を残した[1]。活動に取り組む姿勢は芸術家さながらであったとも、あくまでも職人であったとも言われる[8][9]。高遠石工は18世紀が最盛期だったが、明治になり廃れた。
現在、高遠石工による作品は地元の伊那谷周辺に多く残され、安曇野に多い石像道祖神も、その多くは高遠石工の手によるものである。その他にも首都圏や東海・近畿、山口にまで散見されている。
伊那市高遠町の建福寺には西国三十三所観世音をはじめとして多くの作品を見ることができる。
主な石工
〇守屋 貞治(もりや さだじ、1765年 – 1832年)- 明和2年(1765年)に信州伊那郡高遠藤澤郷塩供(しおく、現在の長野県伊那市高遠町長藤〈おさふじ〉塩供)で孫兵衛の3男として生まれる。高遠石工の中でも稀代の名工と言われ、68年の生涯に336体の石仏を残している。亡くなる前年の天保2年(1831年)に「石仏菩薩細工」を書き残しており、いつどこで何の石仏を刻んだのかが、その正確な記録から判明している。この記録によって、彼の作品は1都9県(長野、群馬、東京、神奈川、山梨、岐阜、愛知、三重、兵庫、山口)に残っていることが確認されているが、数多くの石工を輩出した高遠石工にあって西日本にまで作品を残しているのは貞治だけである。貞治は信州諏訪の温泉寺の名僧、願王和尚を師と仰ぎ深く仏門に帰依し、香を焚き経を唱えて石仏を刻んだと伝えられ、ゆえに貞治は単に石工ではなく「石仏師」と呼ばれ、貞治の刻んだ石仏は特に「貞治仏」と呼ばれている。
〇守屋 孫兵衛(まごべえ、生年不明 – 1782年) – 貞治の父
〇守屋 貞七(さだしち、1700年頃 – 没年不明) – 貞治の祖父。
〇向山 重左衛門 (むかいやま じゅうざえもん、1690年頃 – 1773年) – 寛延から明和年間の作品が残る高遠藤澤郷御堂垣外(みどがいと)の石工。
〇久左衛門(きゅうざえもん、生没年不詳) – 向山重左衛門の弟弟子 。
〇下平 文左右門(しもだいら ぶんざえもん、生没年不詳) – 明和から安永 (元号)年間を中心に活動した安永東春近の石工。なお、息子の太左右門(たざえもん)も石工である[13] 。
〇渋谷 藤兵衛(しぶや とうべえ、1784年 – 1853年) – 守屋貞治の高弟。信州伊那郡川下り郷川手(現在の長野県伊那市美篶下川手)に生まれる。伊那市高遠町建福寺の石段には師貞治の延命地蔵が石段左に、藤兵衛の柳楊観音(嘉永2年、1849年)が石段右に対になって立っている。上伊那郡箕輪町長岡の長松寺に残る貞治の延命地蔵尊は、まず藤兵衛が先に長岡に来て村の世話人と打ち合わせと石の詮議をし、村人足とともに石を切り出して下準備をした後に貞治の作業が始まっている。これは同寺の「地蔵建立諸入用控帳」に残されており、それには「石屋定治郎 手代藤兵衛」と記されている。
〇小笠原 政平(おがさわら まさへい、1796年 – 1861年) – 信州伊那郡殿島(現在の伊那市東春近下殿島)に生まれる。東春近を中心に作品が残るが「俺の石仏は銘がなくとも頬骨のふくらみを見ればそれとわかる」と言っていたとの言い伝えがある。
高遠石工が生まれた背景
古来より、人々は自然の猛威の前には成す術もなく、平穏な暮らしや豊穣を願い、ただただ神仏に祈りを捧げるのみでした。
江戸時代に入り、安定した世の中になると、心のよりどころとして神仏に祈る民間信仰が盛んになり、元禄年間(江戸時代前期)には石仏造立も活発化します。石造物の需要が増えるにつれ、高収入が得られる石工のなり手も増えていきましたが、高遠藩では税収増加をねらって「旅稼ぎ石工」を奨励したことから、その数は領内だけでも数百人に達していたといわれています。
高遠石工の多くは、農耕地が狭い山間部の農家で二男以降に生まれた男子です。一般的には農作業の傍ら、農閑期を中心に旅稼ぎをしていたと言われていますが、当時の石工は大工など他の職人と比べて給金が良く、仕事が豊富であったこともあり、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門の職業とする専業石工も多く存在しました。
高遠石工の活動
現在、高遠石工の銘が確認されている石造物は、北は青森、南は山口の1都18県に及びます。
和泉石工(泉州石工)など、高遠石工と同時期に活躍した石工集団は他にもいましたが、高遠石工ほど多くの銘を残していません。「高遠」という銘がはっきりと確認できるのが元禄期以降であるため、高遠石工の活動年代は内藤家が高遠藩を拝領した元禄4年(1691)以降とみる向きもありますが、山梨県甲府市塩澤寺にある正保5年(1648)銘「大工信州之角兵衛」の無縫塔をはじめ、元禄期以前の高遠石工の作と推定される石造物も確認されているため、江戸時代初頭より広域的な活動をしていたと考えられます。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事に関わったり、有名な安曇野の道祖神の中にも、高遠石工たちが刻んだものが数多くあります。
高遠石工が確かな技術で刻んだ石造物は、人々の心を捉え、江戸時代中期にはその名が全国にとどろくようになりました。「高遠石工」の名が一種のブランドと化したことによって、その活動も一層盛んになり、各地で多くの作品を残すこととなったのです。
集落を見守る石仏たち
諏訪と高遠を結ぶ杖突街道沿いには、農村風景に溶け込むように多くの石仏があるのが目に入ります。そのほとんどが集落の入口(村境)にまとまっており、馬頭観音、庚申塔、道祖神など様々な石仏が見られます。
これらは、災厄が村に入ってこないように、また子孫繁栄や旅の安全などを願って、江戸時代から昭和まで長年にわたって受け継がれてきた民間信仰の証です。
石工のふるさとの美しい景観を保ちながら、石仏たちは今も集落を見守っています。
高遠石工の特徴
高遠石工は、長野県の高遠地域で発展した石工技術のことを指します。この地域は古くから石材が豊富であり、その質の高さから日本各地に石材を供給してきました。高遠石工は、主に神社仏閣や城郭などの建築物において石材を加工し、美しい彫刻や堅牢な構造を実現するための技術として重要な役割を果たしてきました。
高遠石工の特徴的な技法としては、以下のようなものがあります:
面取り(めんどり) : 石材の角を斜めに削り取り、エッジを丸くすることで安全性を高めるとともに、美しい仕上がりを実現します。
目地加工(めじかこう) : 石材同士の接合部分に目地を設けることで、石材の結合を強化します。目地には石の割れや変形を防ぐ役割もあります。
彫刻技法 : 高遠石工では、美しい彫刻技法が発展しています。彫刻によって龍や花卉、幾何学的な模様などを表現し、建築物に装飾的な要素を与えます。
石積み技法 : 石材を組み合わせて壁や柱を構築する石積み技法も高遠石工の特徴です。石同士のバランスや組み合わせによって、安定性や美しさを追求します。
高遠石工は、伝統的な技術でありながら現代にも受け継がれ、多くの建築物や文化財に活かされています。その美しい石組みや彫刻は、日本の建築文化の一環として高く評価されています。
研究内容
・石工の誕生、石仏の造立の背景
・高遠石工が手掛けた石造物の良さとは(他の石工との比較)
・産業としての石工の仕事の位置づけ
〇特徴・魅力
・高遠石工ならではの石仏表現法や技法
〇技術が今にどう生かされているのか
石仏師・守屋貞治
数多くいた高遠石工の中でも、高い技術を持った稀代の名工と呼ばれる石仏師。
石仏の制作を専門としており、生涯において336体に及ぶ作品を残している。
守屋家は祖父・貞七の代から石工を生業としている。そのため、貞治も自然と石工を志すようになった。
造形や技法は、祖父と父から影響されていると考えられる。
江戸時代、石工の仕事は細分化され、専門性が高い者も増えていましたが、高遠石工の中でも稀代の名工と呼ばれたのが守屋貞治です。彼は石仏の制作を専門とし、68年の生涯において336体におよぶ名作を残しました。
貞治は明和2年(1765)、高遠藩藤沢郷塩供村(現、伊那市高遠町長藤)で守屋孫兵衛の三男として生まれました。守屋家は貞治の祖父・貞七の代から石工を生業としており、貞治も自然と石工を志すようになりました。修業時代の師は不明ですが、造形や技法の面で祖父や父の影響が垣間見られます。
温泉寺(現、諏訪市)の住職で名僧と名高い願王和尚を仏道の師と仰いだ貞治は、自らも仏に帰依し、経典や儀軌(経典に説かれた仏、菩薩などの姿形をまとめたもの)に基づいて仏心の込められた石仏を刻みました。石仏を刻む際は経文を唱え、香をたきしめて作業に打ち込んだといわれています。貞治が単なる「石工」ではなく「石仏師」と呼ばれるのは、こうした所以からです。
貞治は亡くなる前年の天保2年(1831)に、自身の生涯を振り返り、これまでに彫り上げた石仏を『石仏菩薩細工』にまとめていますが、これによると貞治が手がけた作品は1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及びます。西日本に作品を残した高遠石工は貞治以外には確認されておらず、また、他の高遠石工を見ても複数の場所で活動した例は少ないため、この広範囲にわたる活動こそが貞治の特徴といえます。これは願王和尚の影響によるところが大きく、貞治のよき理解者であり、彼の石仏を礼賛した願王和尚が、全国各地の布教先で貞治を推薦したためと考えられます。
身を律し、ひたすら意にかなう石仏を造立し続けた貞治でしたが、天保3年11月19日、静かに68年の生涯を終えました。他の石工を圧倒する技量で彫られた貞治の石仏は、端正で繊細優美でまさしく「貞治仏」と呼ぶにふさわしい名作ばかりです。
1.口元円形微笑型
・口元円形→人が笑うとほうれい線が丸くなる様子を表す。
特徴→石仏の口を中央にして、鼻の付け根と下あごを外周とする円形に彫りくぼめた形態を形成した上で、その中に口と円形凸型の下あごを表現する。
2.蓮華座花弁巻き返し表現
石仏を豪華に魅せたり、重量感を持たせたる技法。
特徴→蓮華座の花弁が裏側に巻き返し状になっている。
資料
1.高遠石工デジタルアーカイブ
2.中間発表レジュメ
テーマ「高遠地域における高遠石工遺産デジタルアーカイブの研究」
第1章 緒 言
1. 研究の動機と課題
本研究では、高遠地域における高遠石工遺産デジタルアーカイブの研究をテーマとする。この研究の動機として、私の故郷である長野県伊那市への愛嬌心から、伊那の遺産を本研究で取り上げたいと考えた。生まれ育った地域に対する知的好奇心と、伊那市の文化遺産について多くの人に興味を抱いてもらいたいという思いがある。これまで、デジタルアーカイブ専攻で身に着けた知識を活かし、高遠地域の文化遺産である高遠石工の石造物に焦点を当ててデジタルアーカイブを行うことで、地域社会への貢献を果たせるのではないかと考えた。地域の歴史や文化を後世に繋いでいくために、高遠石工遺産に関する研究に取り組むことを決定した。
本研究の対象地域である長野県伊那市高遠町は、長野県南部にあり、伊那谷北部に位置する(図1-1)。風光明媚な風土やタカトオコヒガンザクラの樹林、高遠石工の石造物など独創性ある地域資源を有している。その中でも特に、高遠石工たちが造立に携わった石造物の数多くが市の有形文化財として指定されているため、高遠地域に現存する高遠石工遺産は我が国が守るべき貴重な遺産であり、歴史上、芸術上、学術上、文化価値が高いものであるといえる。しかし、現存する石造物の保護状況を見ると、その多くが野ざらしに安置され、管理が行き届いていないことが課題の1つなのではないかと考えている。これらの石造物の保護が十分に行われていない場合、経年劣化や自然災害により、損傷または喪失の危険性が高まるのではないかと懸念している。
また、デジタルアーカイブの数やその取り組みが少ないのではないかと考えている。自然の中に安置されている石造物は、災害が起こり、年月が経つほど、石造物本来の姿形を保つことはかなり困難であると感じている。だからこそ石造物をデジタル資料として保存し、デジタルアーカイブ化に取り組んでいく必要性が高いのではないかと考える。実際、デジタルアーカイブの重要さについて郷土史・石仏研究家の田中清文氏は、石仏は「野にあるため、もう50年100年経つと風化してなんだかわからなくなってしまう。今のうちに記録して写真に残しておかないといけない」(https://www.inadanikankou.jp/より引用)と発言している。このことからも、高遠地域に残る高遠石工たちが残した活動跡を、後世に残し、継承していくこと、地域の歴史的価値を高めていくためにもデジタルアーカイブ化に取り組んでいくことが非常に重要であると考える。
以上のことから、高遠石工に関して、石造物の保護状況が十分でないこと、デジタルアーカイブ化への取り組みが少数であるという2つの課題が存在しているのではないかと考える。そこで第2節では、石造物の保護状況とアーカイブ化への取り組みについて明らかにする。
2. 石造物の保護状況とアーカイブ化の現状
第1節では、石造物の保護状況が良好でないこと、デジタルアーカイブ化への取り組みが少数であることの2点が課題であるのではないかと考えた。そこで、現在の石造物の保護状況と高遠石工に関するアーカイブ化の取り組みの現状を知るために実際に高遠町に足を運び現地調査を行うとともにweb調査を行った。
(1) 石造物の保護状況
石造物の保護状況をみると、高遠石工の中でも特に高い技術をもっていたとされる守屋(もりや)貞治(さだじ)が造った石仏には雨風や雪を凌ぐために格子で四方を取り囲み、屋根が設置されていたため状態良く保存されていた(図1-2)(図1-3)。
しかし、その他の場所、例えば集落、路傍や川・崖付近などに安置されている石造物については、格子や屋根は取り付けられておらずそのままの状態で安置されていた。それなのにも関わらず、予想以上に多くの石造物が綺麗な状態で残されていたのが驚きであった。ただし、体の一部が欠けてしまっているもの(図1-4)、下部が埋まってしまっているもの、石の表面に苔やカビが発生しているものも数多く発見することができた。
苔やカビの発生に関しては、気候などの環境だけが原因だけでなく、使用されている石材の質の違いであるとも考えられる。苔やカビの発生は、風合いとして美術的な観点からみると風情があって良いという見方もできる。だが、本体が一部欠けてしまっている場合は、問題であると考える。しかし、全ての石造物に格子や屋根を取り付けるということを考えると膨大な費用と労力がかかるため現実的に厳しい側面があり、町の景観も損なわれてしまうのではないかと考える。
次に、石造物の損傷原因として、特に自然災害によるものが多いと考えた。
伊那市高遠町は、東西11㎞、南北19㎞で、総面積の85%を山林が占めており、耕地面積や可住地面積が小さい自然に恵まれた地域である。また、冬季は積雪も多い。そのため、山林面積の大きいこの地域では、土砂災害や川の氾濫、雪害による自然災害が多いといえる。石造物は、崖や川付近、峠道などに多く存在している。そのため、自然災害による石造物の損傷や喪失が多発する可能性が非常に高いということが考えられる。
自然災害が発生しやすい地域であるからこそ、文化遺産を本来の姿のままどのようにして残していくのかが重要であると考える。そして、その1つの方法としてデジタルアーカイブを進めることが遺産を守ることに繋がるのではないかと考える。
(2) 高遠石工に関するアーカイブ化の現状
高遠石工に関する資料のアーカイブ化への取り組みの現状(2023年12月9日現在)を把握するために、どの機関がアーカイブ化に携わっているのか、どのような高遠石工に関するコンテンツ作成されているのかインターネットを通じたweb調査を行った。調査結果は以下の①~⑤である。
① 高遠石工研究センター
高遠石工研究センターでは、高遠石工の調査・研究を行いながら、石仏を静止画や動画で記録し、アーカイブ化する活動を行っていた。しかし、その活動記録や撮影した資料は公開されておらず、web上にも公式サイトは見当たらなかった。
また、調査研究やアーカイブ活動に加えて、「高遠石工の石仏巡礼ガイド」などを紙冊子で発行しており、伊那市役所と高遠町総合支所で購入することができるようになっていた(図1-5)(図1-6)。
② 高遠町歴史博物館
高遠町歴史博物館は、古代・中世に至る高遠城と城下町高遠の歴史、文化、人物、民俗をテーマごとにスポットを当て展示を行っている。また、歴史博物館デジタルアーカイブ事業に携わっており、地域住民から寄せられた地域に残る写真資料を募集しデジタルアーカイブ化に取り組んでいる。さらに、伊那市教育委員会と協働し、高遠石工の足跡調査を行い、情報提供を募っている。博物館の所蔵品には、高遠石工に関する多くの資料があった。ただし、これらの資料はデジタル化が進められているものの、インターネットを通じた資料の公開は行われていなかった。
③ 伊那市デジタルアーカイブ(向山雅重資料デジタルアーカイブ)
「向山雅重資料デジタルアーカイブ(https://adeac.jp/ina-city/top/)」においては、伊那図書館が所蔵していた向山(むかいやま)雅(まさ)重(しげ)の写真資料がデジタルアーカイブ化され、約2000点のモノクロ静止画資料が閲覧できる。このデジタルアーカイブでは、高遠石工を主とした項目はなかったが、高遠石工が携わった石造物に関する資料が登録・公開されていた。これは、民俗学の研究や、教育機関で活用できるデジタルアーカイブだと感じた(図1-7)(図1-8)。
④ ホームページ
伊那市観光協会公式サイト、伊那市公式ホームページ、長野伊那谷観光局にて、観光客向けに高遠石工遺産が存在する名所の紹介や歴史を大まかに説明しているWebページがあった。伊那市観光協会の公式サイトでは、「高遠石仏探訪マップ」と「伊那市高遠町・長谷周辺の石造物探訪マップ」などのパンフレット資料がPDFファイル形式でダウンロードできるようになっており、デジタルパンフレットとして活用できるようになっている(図1-9)。これは、電子版だけでなく、紙媒体での発行もされている。
伊那市公式ホームページでは、外国人向けに作られたWebページとパンフレットが作成されていた(図1-10)。パンフレットはダウンロード可能でデジタルパンフレットとして利用できる。
⑤ YouTube動画
伊那市公式動画チャンネルや一般の個人による高遠石工の歴史に関する話や説明、シンポジウム動画がいくつかYouTubeにて投稿されていた。
以上のことから、主に高遠石工研究センターと高遠町歴史博物館の2機関がアーカイブ化に通り組んでおり、資料の収集とそのデジタル化は進んでいたことが分かった。しかし、アーカイブ化が一部進められてはいるものの、高遠石工の石造物を主としたデジタルアーカイブの数は圧倒的に少なく、インターネットを通じた公開がほぼ行われていなかった。
また、紙媒体と電子版の石仏マップやパンフレットが作成されており、観光事業に活用できるようになっていた。
3. 研究の目的および方法
高遠町に現存する石造物は、高遠石工たちの活動跡であり、その地域の歴史を伝える貴重な遺産であるため、後世に残していくべきである。また、高遠石工遺産は観光資源や文化資源として活用することで地域活性化に繋げることができると考えている。しかし、石造物の保護状況とデジタルアーカイブ化への取り組みを調査すると、石造物の残存状態が悪いものも一部存在しており、高遠石工に関するデジタルアーカイブ数も非常に少ないということが分かった。
そこで本研究では、地域文化遺産の保存と普及を目的とした高遠石工の石造物のアーカイブ化を行うとともに、江戸時代から始まった高遠石工の歴史と当時の民間信仰や石造物に対する人々の信仰心から今に残る石造文化財の価値を明確にし、石造物デジタルアーカイブを行うことの意義について考察をする。
本研究では、以下の3つを軸に行っていく。
① 文献調査
文献調査では、高遠石工の起源と発展、石造物造立の時代背景など歴史を調査する。また、高遠に現存する石造物を種類ごとに分け、造立数、造立年代、それぞれの石造物がもつ特徴について調べる。この石造物調査から、造立当時の生活や民間信仰を見出す。
② 高遠石工に関する資料の撮影
主に長野県伊那市高遠町に存在する石造物の撮影を実施する。また、稀代の石工と呼ばれた守屋貞治の石仏の撮影を行う。石造物に加え、石工関連施設を訪問し情報や資料を収集する。
③ Webページの作成
岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所が運営している「地域資源デジタルアーカイブ」にて収集したデータをもとにwebページを作成する。
第2章 高遠石工の歴史
1. 高遠石工とは
高遠石工とは、江戸時代、信濃国高遠を拠点に全国で活躍した、石材加工の職人集団のことである。彼らが手掛けた作品には、銘や造立年代が刻まれており、そこから江戸中期(元禄時代)以前の石造物が複数確認されているため、高遠石工たちは江戸初期から活動をしていたと考えられている。また、石造物の造立だけでなく、石材の採石や、石材加工をする際に使用する道具も自分たちで鍛冶していたと言われている(図2-1)。
高遠石工の多くは、農家の二男や三男、あるいは山峡の農民であり、江戸時代に活躍した石工の数はおよそ1700人以上いたと推定されている。彼らは拠点地である高遠のみでなく、全国各地に出向き、石仏・石神・石碑・石灯籠・供養塔など多くの石造物を造った。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事にも関わったといわれている。高遠石工たちが携わった石造物は、北は青森県から、南は山口県まで、全18都府県で散見されている(図2-2)。
彼らの石材加工技術が他地域の石工よりも群を抜いて高かったことから、その技術が求められ活動域が広くなっていった。技術の高さに加えて、彼らが活動域を全国に広げることができたのは、高遠が交通の要衝であったからである。彼らの技術がいくら高くても、仕事を頼む側に高遠石工の技術の高さなどの情報が流れていなければ依頼することもできない。だが、石工の活動が活発化していた江戸時代までは、杖突峠を通って伊那谷から三河に抜ける伊那街道、あるいは大鹿から遠江に抜ける秋葉街道が、民衆の道として広く利用されていた。そのため、五街道や地域民衆の生活の道が高遠を通り、全国に繋がっていった。石工たちはこの道を使い、情報を発信し、逆に受け入れながら、社会の求めに応じてどのような技術が必要とされているのか知ることで、社会の需要に応じることができていたのである。
2. 高遠石工が活躍した理由と時代背景
(1) 江戸時代の信仰と石造物
江戸時代(1596年~1868年)とは、室町時代から続く長い乱戦の世に終わりを告げ、江戸幕府による封建的かつ中央集権的支配によって社会が安定した時代である。江戸幕府は参勤交代や武家諸法度などの制度を作り、幕府の権力を高めていった。庶民は土農工商の身分制度により、職業ごとに身分を分けられ、身分を固定化された。また、制度による支配だけでなく、儒教の朱子学を幕府の思想・教育の基本とし、江戸幕府が支配・管理しやすい思想が広まっていった。このような徹底した管理によって情政が安定し、交通網が整備され、身分が固定化されたことによって、庶民にも余裕が生まれ、庶民中心とした文化が栄えるとともに、経済活動も活発化し産業も徐々に発達していった。その他に、江戸幕府や諸藩は、農業政策にも力を入れ、産業の発達を促した。生産力の向上、安定化することを目的に、新田開発を奨励し、河川の治水や干拓などを実施した。この時に農民も、生産量の増加、作業の効率化、生活の安定化のために、備中鍬や千歯扱などの新しい農具も使用するようになっていったという。
江戸時代による石造物造立の背景としては、人々の間では、神仏と結びついた民間信仰が盛んになっていたことが理由として挙げられる。上記で述べたように、江戸期は、農民が経済的に発展していった時代でもある。家を興し、田畑を耕して家族を養えるようになっていくが、度重なる天災や風水害、凶作、流行病など、飢饉や人為を超えた災いが当時の農民の生活を脅かし苦しめていた。現在のように科学が進歩していない時代、伝染病が流行して、村全体が壊滅的打撃を受けることも多かったため、病に対する恐怖心はとても強いものだったのではないかと予測できる。このような状況から、人々の生命を脅かすものに対して、人間の力だけでは限界ということを悟り、無病息災や平和を願い、ひたすた神仏に祈りを捧げていたのではないかと考えられる。
全国的に民間信仰が盛んになった風潮の中で、寺社の建築、石造物の造立も活性化、石造物の需要増加により、石工の成り手も増えていった。そして、平安・鎌倉時代のような強い権力をもつ人々による造立に加え、庶民の間にも次第に信仰に基づいた石造物の建立が広まっていった。特に江戸中期になると、個人や講、村中での造立が盛んに行われるようになり、五穀豊穣、子孫繁栄、健康祈願、厄除け、旅の安全など様々な願いを神仏に託し、祈りの拠点として石造物は大事にされていた。また、それぞれの家庭でお墓を持てるようにもなり、先祖供養の念とともに平安を願っていた。
(2) 高遠石工が活躍した理由
江戸時代に、民間信仰が盛んになったことで石造物の造立、石工の数が増加していった。しかし、この時期には高遠石工のみだけでなく、和泉国の泉州石工が存在していた。しかし泉州石工は高遠石工ほどの広範囲での活動はなかった。では、なぜこれほどまで高遠石工たちの活動が全国各地で行われていたのか。
その理由は、主に以下の5つである。
① 高遠藩による、旅稼ぎ石工の奨励
1つ目は、高遠藩による出稼ぎが奨励され政治的な後押しがあったことである。
江戸時代、高遠城を拠点に地を治めた高遠藩は、元禄4年頃から、藩の税収増加を狙って石工たちに領外に出て稼ぐ出稼ぎを奨励した。この石工たちの出稼ぎは、農業の傍ら、農閑期を中心に行っていたといわれている。この頃の藩の財政は厳しく、度重なる凶作で農民からの微税も苦しかった。さらに幕府による出費も多く藩の財政は逼迫したため、石工たちは旅稼ぎ石工となって稼いでいたのである。幕末のある時期には藩の税収の3分の1を稼ぎ出していたという。このため、旅稼ぎ石工の奨励は、石工たちが農業だけでは補えない分の家計の負担を減らすことだけを目的としていたのではなく、藩財政の補完的役割ももたせられていたことが分かる。
この旅稼ぎ石工の存在を示す資料として石沸菩薩細工がある(図2-3)。この石沸菩薩細工とは、稀代の名工と呼ばれた守屋貞治がこれまでに彫り上げた石仏を書き記しているものである。この石沸菩薩細工から、「貞治の活動は、現在の1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及んでいる」(https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1318より引用)ということが分かっている。このことから、高遠石工の1人である守屋貞治が残した石沸菩薩細工から広範囲にわたる活動が行われていたということが分かる。
② 優れた技術
2つ目は、優れた技術を持っていたことである。特に、精巧にして芸術性の高い作品を残していいること、多様な石造物を造っていたということが評価されていた。
その中でも彫刻技法が評価されている。それぞれの作品によって龍や花弁、幾何学的な模様などを表現し、装飾的な要素を含んでいる。その例として、長藤塩供に残る花文字の道祖神を挙げる(図2-4)。また、仏像を彫る際には、微笑みを浮かべた穏やかで引き締まった顔を表現する口元円形微笑型表現や蓮華座を豪華に見せる手法の蓮華座花弁巻き返し表現なども技術力が高いためできる表現方法である。高遠石工たちは、優れた技術を持っていることで、独創性のある石造物を造れたのではないかと考える。
高遠石工の中でも、群を抜いて高水準な石造物を彫る専業工が存在し、その石工の元には多くの修業石工たちが集まるようになった。このような高い技術を持った職人たちは、技術水準を高め、同時に高遠石工の名を全国に轟かせ、高遠石工が一種のブランド化したことによって、その活動も一層盛んになっていった。
③ 素行の良さ
3つ目は、優れた技術を持ちながらも、出稼ぎ先で素行が良かったことである。
この石工たちの素行の良さには、以下のように藩との間に厳しい御誓文が交わされていたという背景があったからである。
一、 他国へ当分出稼ぎするについては、五人組でよく吟味し、請人を立て、年貢や諸役に支障のないようにすること。
一、 御公様より仰付けられている御法度は勿論、堂々仰付けられている御法度にも決して背かないこと。
一、 旅稼ぎに出て、その年に帰らない者がある場合は、請人及び五人組でよく詮議をとげ早速申出ること。無事帰った場合も、名主、組頭、五人組迄届けること。
つけたり、少しの田畑持といえども田畑を荒らさぬ様、耕作の時期にはかえって、仕つけなど手落のないように妻子にもよく申し付けて置くこと。また旅稼ぎに出た以上、秋になって不作であっても、年貢を引いてくれなどといわないこと。
一、 私供旅稼ぎに出る上は御公儀様で決められている御法度をよく守り、旅先で盗み、ばくち、酒乱、口論、腕力沙汰など一切しないように心掛ける。万一旅先で何かの入費のことがあっても国元の御公儀様や、村役人、お組合等へ一切迷惑をかけないよう石工仲間で処理する。又旅先で越年して帰らない者がある場合は、請人が迎えに行ってきっと連れ帰り、お役人衆に御苦労はかけない。(高遠町誌編纂委員会,1977,pp.17-20)
このように、彼らが農閑期に出稼ぎに出る際には、藩との間に「運上金を必ず収めること」「農繁期には帰ってくること」「問題を起こさないこと」など御誓文が交わされていた。誓約があったからこそ、旅先でも素行よく真面目に仕事に取り組み、世間から人柄も評価されていたということが考えられる。
④ 専業石工が多数存在していた。
石工は大工など他の職人と比べて給料が良く、仕事量も多かったため、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門とする専業石工も多数存在していた。また、高遠藩は高冷地で、米作りを行うことも難しかったため、家計を支えるために石工になった人も多く、石工の数も徐々に増加していった。
⑤ 高遠藩領では、良質な石が産出し石材に恵まれていた。
高遠藩では、石仏を彫るのに適した石が豊富であり、採石場からは輝緑岩や安山岩、花崗岩が多く産出した。(https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1317より引用)この中でも特に輝緑岩は、きめの細かい美しさとなめらかな手触りが特徴的で、見た目からも表面がつるつるしていることが分かる。これは、稀代の名工と呼ばれた守屋貞治も作品に使用しており、重宝されている(図2-5)。
高遠は、山間部で耕地が狭い地域だが、人々の知恵と土地の形勢を生かしながら働いていたと考える。
第3章 石造物に現れる日本人の民間信仰
まず、民間信仰について説明する。「民間信仰は、特定の教祖・教義・教団などをもつことなしに、地域共同体に伝承的に機能してきた庶民信仰である。体系的に整備された宗教と異なり、呪術的な性格の強い信仰形態を示す。イエ(家)を単位とする組や村などの共同体の中で機能するのできわめて地域性の高いものである。」(松沢邦男, 2001, p.71)
この民間信仰が盛んになった江戸時代は、多くの石造物が造立されていることが特徴的である。そして、民間信仰は地域性が非常に高いものといえるため、この信仰心が造形となって現れる石造物を深堀し調査することで、当時の庶民の生活や信仰を見出すことができると考えた。そこで、本章では高遠地域に残る石造物数や造立年代、どのような石造物が造られているのか調査を行い、そこから石造物がもつ特徴や意味を明らかにする。そして、今に残る石造物が現代とどんな繋がりがあり、どのような影響を与えているのか考察する。
1. 高遠地域に現存する石造物の種類と数
「高遠石仏 付 石造物」の石仏調査一覧表を参考に、庚申塔、甲子塔、道祖神、月待塔、石塔、仏像(如来、菩薩、明王、天部)の形態分類ごとにデータを整理し、種類、造立数、造立年代を調査した。結果は表3-1の通りである。
1974年11月に行われた石仏調査によると、高遠町で確認された石造物数は2229基、未確認であるもの加えると2500基以上にわたるほどの膨大な数が造立されている。この中には、仏像や庚申塔、道祖神、月待塔、石塔、仏足石、石灯籠など様々な石造物が造立されていた。
石造物を種類ごとに数を集計すると、上位トップ3は仏像、庚申塔、道祖神であることが分かった。また、仏像(如来、菩薩、明王、天部)の中でも菩薩が812基と最も多いことが分かった。
ここからさらに、菩薩を「観音菩薩」「地蔵菩薩」「その他の菩薩」に細分化し、数を集計すると、特に馬頭観音と地蔵菩薩が多いことが分かった。
菩薩の分類結果は表3-2、表3-3、表3-4の通りである。
高遠地域に現存する石造物の造立年代は、全体的に見ると江戸時代から昭和までと長期にわたって石造物が造られており、特に江戸時代に造立が活発化していた。また、最も古いものは江戸初期の寛永(1624年~)に造立されており、400年近くの年月を経ても現代まで残されている。
また、表を見ると石造物の造立が活発化したのが江戸時代からということが考えられるが、高遠の良質な石材採れる地形と石工業の給料の良さから考えると、江戸時代以前から高遠石工は活動しており石造物の造立は始まっていたのではないかと推測する。
2. 高遠石工が造立した石造物
高遠地域に現存する石造物は、石仏、石神、石塔、石灯籠など多種多様で、造立数も非常に多かったことが分かった。本節では、高遠石工たちが造った石造物とその特徴について説明する。
また、造立数が多かった菩薩、庚申塔、道祖神、月待塔の4つについては、第3節で詳しく取り上げる。
(1) 仏像(如来、菩薩、明王、天部)
石で造られた仏像のことで、仏教で信仰される釈迦の姿、仏の姿をうつしたものである。各地域で様々な場所に安置されており、日常生活でよく見かける石造物である。如来、菩薩、明王、天部に分類され、それぞれの種類が細分化されている。外見や持ち物など特徴も異なり、4つの仏には階層がある(図3-1)。
「如来」とは、真理に目覚め、悟りを開いた仏のこと。外見は、一般的に装身具類をつけず、薄い衣一枚をまとい、螺髪という渦巻いた髪型をしている。如来の中には、人々を苦しみから救う「釈迦如来」、あの世の平和を取り戻す「阿弥陀如来」、宇宙全体を統一する「大日如来」、病苦を取り除く「薬師如来」などが存在している。この如来は。高遠地域に5体存在していた。
「菩薩」とは、悟りを求め、如来になるために修行をしている者のこと。菩薩は、如来のすぐ下の位にあり、如来の意思に従って様々な姿に変身をするため、観音菩薩や地蔵菩薩など多くの種類がある。
観音菩薩は、観音様で親しまれ、多くの人を救うために三十三種類の姿に変身すると言い伝えられている。聖観音菩薩が基本的な観音様の姿であり、ここから様々な観音菩薩が派生していった(図3-2)。
また、如意輪観音、准胝観音、十一面観音、馬頭観音、千手観音、聖観音の6種の観音菩薩のことを六観音と呼び、六道で苦しむ者たちを救済する。仏教では、死んだ後も、別の生命に生まれ変わるという輪廻転生の思想が基本になっており、この死後に生まれ変わる6つの世界のことを六道という。六道それぞれに担当の観音様がいるため、観音菩薩は、たとえどんな世界に生まれ変わっても救済の道があることを教えてくれる存在であるといわれている。
地蔵菩薩は、お地蔵様として親しまれ、あらゆる人を救済すると言われている。外見は、きらびやかな装飾品をつけ、髪を結い上げた中世的な姿をしている。座像や立像などの形態があるが、救いを求める人をすぐ助けられるように基本的に立ち姿で表していることが多い。
これらの菩薩は、高遠地域では、十一面観音(図3-3)、千手観音(図3-4)、准胝観音(図3-5)、如意輪観音(図3-6)、不空羂索(ふくうけんさく)観音(かんのん)(図3-7)、聖観音(図3-8)、馬頭観音、地蔵菩薩の8種類が特に多く見られた。
「明王」は、修行するものを煩悩から守る仏のこと。悪を懲らしめ、仏の教えに従わない者たちを正しく導く。そのため、外見は背中に炎を背負い、右手には剣を、左手には縄を持ち、憤怒の形相をしている。明王の中には、「不動明王」「愛染明王」「孔雀明王」「馬頭明王」があるが、高遠では不動明王が25体と最も多く現存していた(図3-9)。
「天部」とは、仏法と仏教世界の守護の役割を担う。もともと、仏教成立以前に民間信仰されていたバラモン教やヒンズー教などの神々が仏教に帰依したものである。外見は、官服を着た貴婦人や、鎧を纏った武将姿、鬼の姿など表現が多彩である。高遠地域では弁財天、大黒天など29体残っている。
(2) 石塔(無宝塔・宝篋印塔・五輪塔・笠塔婆・石幢)
石塔とは、お釈迦様の遺骨である仏舎利を安置するための仏塔のことであり、供養塔を指す。また、後々人々のお墓としても造られるようになったため墓石のことも指す。石塔は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)(図3-10)、多重塔(図3-11)、無縫塔、五輪塔、笠塔婆、石幢(せきどう)と呼ばれるものがあり、形も大きさも異なる。神社仏閣、墓地に安置されていることが多い。その中でも、宝篋印塔などは高い石工技術が必要なため高価であり、身分の高い人々の間でしか使われていなかった。
(3) その他(仏足石・石灯籠・石垣・御神使・記念碑)
石仏、石塔、庚申塔、道祖神の他には、仏がその場所にいることを示す印として釈迦の足裏の形を刻んだ仏足石や、石灯籠、石垣、御神使、道しるべ、性神、石積みなど多種多様な石造物があった(図3-12)(図3-13)(図3-14)。
3. 石造物からみる民間信仰と現代との繋がり
本節では、造立数の多かった菩薩、庚申塔、道祖神、月待塔の4つの石造物がもつ特徴や意味を明らかにし、今に残る石造物が現代とどんな繋がりがあって、どのような影響を与えているのかを見出す。
(1) 菩薩からみる民間信仰
石造物数調査において、仏像数が871基であり、その中でも菩薩が812基と最も数が多いことが分かった。さらに、菩薩の中でどの種類が多いか調査すると、馬頭観音(614基)と地蔵菩薩(97基)の2つが特に多く高遠地域に造立されていた。そこで、菩薩の中でも造立数が多かった馬頭観音と地蔵菩薩に焦点を当て、詳しく取り上げる。
「馬頭観音」とは、馬の安全息災を祈り、死馬の供養のために建てられたものである。六観音の一つに数えられ、畜生道に迷う人々を救済する。
当時、馬は農耕や輸送などで重要な働きをしたため、人々は馬を大切にし、馬の無病息災を祈る信仰が生まれた。そして、馬とともに道中の安全を祈り、道端で力尽きた馬を供養するために祀られるようになっていったという。
像容は、頭上には馬の頭をのせ、三面六臂や四面六臂など顔と手が複数ある仏像や(図3-15)、馬頭観音の墓碑(図3-16)、文字塔(図3-17)、供養塔、記念碑、など様々な形態があった。また、観音菩薩の中では唯一、憤怒の形相をしていて、この怒りが強ければ強いほど馬頭観音の人を救う力が大きく、馬が濁り水を飲みつくし雑草を食べ尽くすことから人々の悩みや苦しみを食べ尽くすと言われている。
この馬頭観音が高遠地区で614基と最も多い理由として、江戸時代から昭和初期にかけて軍馬や農耕馬として使用し、物資の運搬に馬が最も大きな働きをしていたからであると考える。武士や農家など、多くの人々にとって馬は生活の一部になっているため、病気や事故などで死んでしまった愛馬を供養することが増加していったのではないか。
「地蔵菩薩」とは、お釈迦様が亡くなった後、弥勒菩薩が次の仏になるまでの間、釈迦に代わってあらゆる人を地獄の苦しみや悩みから救う菩薩のこと。日本では、平安時代以降から、地獄を恐れる風潮が強まり、地蔵菩薩への信仰が江戸時代から庶民にも広がっていった。地蔵菩薩が6体並んだ六地蔵がある理由も、お地蔵様が六道をめぐりながら人々の身代わりになり苦しみを背負ってくれるという信仰があったからである。また、祈りに特別な決まりはなく、自分の願いを直接ぶつければ良いとされたことから宗派を超えて多くの人の信仰を集めていたのである。
地蔵菩薩はお地蔵さんとして親しまれ、寺院や道端、墓地などあらゆる場所に安置されており、民衆の目に留まりやすい場所に安置されている。その身近さから、最も周知され親しまれている仏像であると感じる。地蔵菩薩は、特に子どもを守る仏として信仰されたため子育地蔵として親しまれるものが多い。日常生活で見かけるお地蔵さんは、赤い涎掛けや頭巾をしていることが多いが、この涎掛けなどをしている理由も、子どもが健やかに育つようにと願いが込められているからである(図3-18)。この子育地蔵の他にも、願掛け地蔵、身代わり地蔵、火防・盗難除けの役割を持つなど庶民の願いを聞き届ける仏として親しまれていた。このように地蔵菩薩には、様々なご利益があることが分かり、それぞれの地域の人々が地蔵菩薩への意味付けが異なっているのではないかと考える。
さらに、地蔵菩薩は広く親しまれ、信仰されてきた対象であるからこそ、様々な迷信や俗信も生まれてきたと考えられる。その一例として、笠地蔵や地蔵浄土などの昔話がある。笠地蔵は、大みそかの日、優しいお爺さんが六地蔵の頭に笠をかぶせると、夜中に米や宝物を運んできてくれるというお話である。また、地蔵浄土は、正直なお爺さんがお地蔵さんに助けられ、鬼から宝物を奪うお話である。このように、地蔵菩薩は昔話の中では、困っている人を助けたり、教訓を語ったりする存在として登場している。このことから、昔話は日本における信仰や暮らしを物語り、民話として現代まで語り継げられてきたこと分かる。
また、地蔵菩薩の信仰は現代においても続いており、地域ごとに独自の行事や祭りが行われている。例えば、8月に近畿、北陸地方で行われる地蔵盆では、地蔵菩薩の元に集まって像を綺麗にしたり、お菓子をお供えして地蔵菩薩に感謝を捧げる行事が子どもたちを中心にして行われている。江戸時代、地蔵菩薩に祈りを捧げていたように、現代でも地蔵菩薩は大事にされ、地域の人々の生活と深く関わりがあるということが分かった。そして、これらの行事や信仰が、江戸時代の信仰性と今の日本文化との繋がりを感じさせる。
(2) 庚申塔からみる民間信仰
庚申(こうしん)とは、干支(十干、十二支)にあてはめた言葉で、十干と十二支を組み合わせる暦の十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)が合わさる日または年のことをいい、60日あるいは60年ごとに巡って来る日のことである。昔の暦の干支は、60日、60年で一回りする仕組みになっており、この庚申(かえのさる)の年は人心が冷めて災いが起こると言われていたため、この災いを避けるために、60年に一回めぐって来る庚申の年には、村に悪疫や災厄を入り込ませないように庚申塔を建て祈願していたのである。またこの庚申塔を建てる理由として、村の安全を祈るだけでなく、ご利益や記念も目的としていた。
庚申(こうしん)はかえのさるの晩に行った民間信仰で、この信仰の由来は、中国の三大宗教の1つである道教の三尸(さんし)説によるものである。庚申信仰では、人間の体内には、三尸(さんし)と呼ばれる病を引き起こす三匹の虫がいて常にその人間の行いを見ていると考えられていた。三尸は、人が死ぬことで自由になることができるため、人を欲深くさせ悪事を働かせ、寿命を縮めようと隙を狙う。だが、普段は体内から出ることはできず、庚申の日、眠っている時にだけ出ることができた。そのため、庚申の夜に人が寝静まった時、人間の体内から抜け出して閻魔大王のもとへ行き、その人の悪事を告げることで、それを聞いた閻魔大王が、その人間の寿命を縮め、命を奪うと言われていた。そのため、庚申の夜は眠らずに夜を明かす庚申待という習わしが生まれ、庶民の間で庚申講と呼ばれる集まりをつくり、会場を決めて庚申待をする風習が広まっていったという。そのため高遠地域に現存する庚申塔は、公民館や神社仏閣、道端など人が集まる場所に多く、町を見渡せばどこにでもある石造物であった。
像容は、庚申の文字が刻まれたもの(図3-19)と、青面金剛・太陽と月・2匹の鳥と3匹の猿が刻まれているもの(図3-20)がある。文字が刻まれたものは、文字の書体や、石の大きさも異なっている。
青面金剛の像に日月、鳥と猿が彫られたものは、庚申塔の基本形である。高遠地域に残る最古の青面金剛・日月・鳥と猿の庚申塔には、延宝の文字が刻まれているため、庚申塔の造立と庚申信仰は江戸初期から始まっていたのではないかと考える。
(3) 道祖神からみる民間信仰
道祖神とは、厄災や疫病が村へ入るのを防ぐ村の守り神である。五穀豊穣や旅人の安全を祈るなど道祖神によって祈りは様々である。村の守り神とされていたため、村境、村の中心部、三叉路、道端などに立っている場合が多い。
また、道祖神は地域ごとに呼び方も様々で、「どうそじん」の他に、障(さえ)の神、塞(さい)の神、道(どう)陸(ろく)神(じん)、だうそじん、などがある。また、塞の神が訛ると「せいのかみ」になるため、性との深い結びつきがあり、子孫繁栄のために建てられたともいわれている。道祖神の像容は、大きく分けて2つある。
1つは、道祖神の文字を刻んだ文字碑型のものである。この道祖神の文字は、楷書や草書、篆書などの様々な書体で彫り込まれており、ひとつとして同じものはなかった(図3-21)(図3-22)。また、高遠塩供地区には全国的に見ても珍しい、装飾的な花文字道祖神が存在していたことが分かった(図3-23)。
2つ目は、双体道祖神である。双体道祖神は、仲睦まじい男女の姿が浮き彫りされている(図3-23)。男女が遠慮がちに寄り添って立つもの、手を握るもの、抱きしめあうなどその姿態はさまざまであるが、高遠地域では、向かって右側に男神、左側に女神が彫られ、お互いに握手している像が多かった。このことから、夫婦仲が良ければ子どもも生まれて、村の繁栄にも繋がるという意味を指し、人々の繁栄を祈るために造立され始めたのではないかと考えられる。
道祖神は呼び方や形態もひとつひとつ異なり独創性がある。さらに、様々なご利益を願われ造立されていた。道祖神は、呼び方によって形や意味が変わるという訳ではなく、神社やお寺の神像や仏像と違い決まった様式はないため、村の人々が石工に自由に注文をつけて造ってもらっていたといわれている。
このように、道祖神が建てられた意味や呼び方、像容を見ると、当時の地域性が最も現れる石造物が道祖神であると考える。
さらに、道祖神と関連する行事として「どんど焼き」が挙げられる。これは長野県各地で行われる行事で、道祖神のための祭りであり、お正月の松飾りを集めて焚き上げ、厄落としを行う。このような、行事を通じて、道祖神は地域の信仰と行事に関わりがあることが伺える。
(4) 月待塔からみる民間信仰
月待とは、特定の月齢の日の夜に人々が寄り合い、神仏に祈りを捧げ、仲間とともに飲食をしながら月の出を待つ行事のことで、月が出るとありがたく拝んだり、悪霊を祓うという意味合いを持っていたが、昔の人の月の満ち欠けへの恐れから生まれた行事とも言われている。この月待を行った人々が供養のしるしに造立したのが月待塔である。月待塔は、二十二夜や二十三夜、二十六夜など、〇〇夜と刻まれている(図3-24)(図3-25)。高遠地域では、その中でも特に二十二夜塔と二十三夜塔の数が多く残されていた。
十九夜と二十二夜には如意輪観音菩薩、二十三夜は勢至菩薩、二十六夜は愛染明王のようにそれぞれの月夜には特定の神仏が結び付けられている。
例えば、高遠地域に多く現存していた二十二夜に結び付けられる神仏は、如意輪観音であり、この如意輪観音は女性の守り仏と考えられていたため、女性だけの月待行事も行われていたとされている。この女性限定の月待を現代風に言い換えてみると、真夜中まで月を待つ女子会のようなもので、仲間の家やお堂に集まり、おしゃべりをしながら食べ、飲み、月の出を待ってそれぞれの願いを月に託す場面が浮かび上がる。このように、月を眺めながら仲間と語らい、お互いの絆や親交を深めていた当時の人々の姿は、現代の私達の日常とさほど変わりはなく、共通しているように思える。こういった人間の本質的なものは時代を経ても変化しないのだなと感じる。
月待の信仰は今ではほとんど見られないが、現代では全国で中秋の名月にお月見イベントなどが開催され、月に関する行事も多い。このように、江戸時代から主流になっていった月待の民間信仰は、現代の日本文化にも通ずるものがあることが分かった。月に惹きつけられた人が集い、人と人とが結びつけられている様子は今も昔も同じである。
第4章 デジタルアーカイブする意義とは
本章では、第1章から第3章までの内容で分かったことから、石造物をデジタルアーカイブする必要性について考察する。石造物のデジタルアーカイブを行うべき理由は主に3つあると考える。
1つ目は、未来への遺産の継承である。
第1章より、高遠地域に現存する石造物は、自然の中に安置されているため、災害や経年劣化による喪失や損傷はなかなか避けることができない状態にあることが分かった。このように物理的な保存が難しい場合でも、デジタル化して保存することにより、今ある本来の姿のまま永続的に保存できるため、アーカイブ化を進めていくことが重要であると考える。
2つ目は、歴史と信仰の保存である。
第2章・第3章より、江戸時代は、飢饉や天然痘などの災害や疫病に人々が苦しめられた時代であったため、石造物は当時の人々の拠り所となり、守り神として建立されていたことが分かった。石造物は、仏像や道祖神、庚申塔など多くの種類が造立されており、どの石造物にいたっても人々の祈りの対象となっていた。そのため、今に残る石造物は、地域の人々の篤い信仰によって建てられたということが分かり、何百年前の人々の生活や民間信仰、時代性を反映し、歴史の変遷を知ることができる貴重な遺産であると感じる。だからこそ、高遠の歴史を物語る石造物をアーカイブすることで、歴史と文化の理解をさらに深め、歴史的・文化的価値を高められるのではないかと考える。そして、インターネットやデジタルメディアを通じて、高遠石工遺産をデジタル資料として提供することで、多くの人々が高遠石工を知る1つのきっかけとなり、高遠石工に興味関心を抱いてもらうことで、観光資源としてもさらに活用できるようになり、地域の活性化に繋がるのではないかと考える。
3つ目は、教育への活用である。
上に記したように、石造物は人々の生活を反映しているため非常に地域性が高い遺産であるといえる。また、地蔵菩薩や道祖神など石造物が関連した行事やお祭りが各地で行われていることが分かり、神仏に祈りや願いを捧げる信仰は、現代の私達の日常生活や文化の中で引き継がれていると感じた。だからこそ、石造物デジタルアーカイブを通じて、日本文化に対する学びをより深めるとともに、地元の歴史や文化に誇りを持たせ、地元への愛着や関心を高められるのではないかと考える。
第5章 高遠石工 石造物デジタルアーカイブ
1. デジタルアーカイブの対象と撮影方法
(1) デジタルアーカイブの対象
「高遠石工 石造物デジタルアーカイブ」では、主に、長野県伊那市高遠町に現存する石造物の撮影を行う。石造物は、仏像、石塔、道祖神、庚申塔などを含む。上伊那地域に現存する、高遠石工の中でも高い技術を持ったといわれる守屋貞治の石仏も撮影対象とする。加えて、高遠町歴史博物館の所蔵品と高遠石工研究センターの方や学芸員による高遠石工に関する講座の動画撮影を行った。
撮影場所は、「高遠石仏探訪マップ」「伊那市高遠町・長谷周辺の石造物探訪マップ」「高遠の石仏 付 石造物」から選定した。また、撮影場所までの道中で発見した石造物も撮影した。撮影は19ヶ所で行い、約300基以上の石造物の資料を収集した。(2023年12月21日時点)
以下の表5-1、は、石造物の撮影場所、撮影した石造物の種類、数をまとめたものである。
(2) 撮影方法
対象とする石造物を前後左右の4方向から静止画で撮影を行う。格子に囲まれているものや、崖や川付近など近づくことができない場合は、前方のみ撮影を行う。一眼レフカメラを使用する。特に仏像については、碑文、台座、持物、印相、表情をクローズアップして、1体1体の特徴や魅力が伝わるように撮影を行った。
また、高遠石工に関する講座については、高遠町歴史博物館が主催する第27回歴博講座を対象として動画撮影を実施した(図5-1)。講座内容は、伊那市誌編さん委員、駒ケ根市立博物館専門委員の北澤夏樹氏による「地形・地質からみた長谷・高遠地域」と、高遠石工研究センターの熊谷友幸氏による「深まる高遠石工の世界―貞治仏調査結果から―」の2講座である。
2.Webページの作成
本学のデジタルアーカイブ研究所が運営している、「地域資源デジタルアーカイブ」にて、収集したデータをもとにwebページを作成する(図5-2)。このWebページは、下のQRコードから閲覧できる(図5-3)。
Webページは、撮影場所ごとにページを作成する。ページは、タイトル、サムネイル画像、概要(歴史、石造物の特徴や説明など)、収集した石造物の画像、所在地を知らせるためのマップで構成されている(図5-4)。石造物の画像は、横移動させて画像を切り替えて閲覧することができるようになっている。
第6章 結 言
本研究では、地域文化遺産の保存と普及を目的とした高遠石工の石造物のアーカイブ化を行うとともに、高遠石工の歴史と当時の石造物に対する人々の信仰心から、今に残る石造文化財の価値を明確にし、石造物デジタルアーカイブを行うことの意義について考察をした。
石造物造立が活発化した江戸時代は、天災や病に苦しめられた時代であった。そのため、人々は生命を脅かすものに対抗するため、神仏への信仰が一般化し、石造物を通じて無病息災などを祈り、守り神として人々に希望と安心をもたらしていた。これらの石造物は、造立当時の人々の生活や信仰心、時代性を反映しており、高遠地域で今なお数多く残されていた。そして、江戸時代から強まっていった信仰心や民間信仰は、今の私たちの生活や文化、行事にも受け継がれていることが分かった。そのため、高遠石工の活動跡として残る石造物は、歴史的・文化的価値を有し、高遠地域そのものの価値を高める遺産であるといえるため、後世に繋げていくためにデジタルアーカイブを行うべきである。
また、撮影中には地域住民の方から声をかけていただき、貴重なお話を伺うことができた。その際、高遠石工の存在やその石造物が今でも大事にされ続けていることを痛感した。このような地域住民の遺産に対する愛着や関与があるからこそ、私達がその意思を受け継ぎ、地域の文化遺産を残していくことが地域貢献に繋がるのではないかと感じた。
そして今回、デジタルアーカイブに取り組むうえで、もっと撮影場所の下調べを入念に行うべきであったことが一番の反省点であった。撮影場所の選定は、石仏探訪マップや文献から行ったが、そこには地区名や所在を示した大まかな地図の情報しかなかったため、実際に行ってみると目的地にたどり着くまでに相当な時間がかかってしまった。特に自然の中に安置され管理があまり行き届いていない石造物については、Googleマップ等の検索エンジンを用いてもマップ上に掲載されておらず、場所を特定することができなかった。そのため、専門的に研究に従事している高遠石工研究センターなどの機関に確認を取り、石造物がどこにあるのか、周囲に目印とするものはあるのか等を聞き、場所を明確にしておくべきだった。アーカイブ化を行ううえで、石造物は自然に溶け込んでいるため、建造物とは違い発見しにくい。そのため、意識を巡らせながら町を探索することも大切だと感じた。また、道中が険しい場所もあり、車でのアクセスが困難で徒歩での移動も多く、目的地までたどり着けずに撮影を断念した場所もいくつかあり資料収集に苦労した。そのため、デジタルアーカイブ化を行う際には、知識や技術だけでなく、根気と体力も不可欠であると感じた。
本研究を通じて、高遠石工について探求し、石造物を目指し高遠を巡ることで、故郷の見え方が大きく変わった。自分が生まれ育った地域こそ、価値ある遺産や風景が当たり前すぎて見過ごしてしまっていたことに気づき、その価値を再確認することができた。だからこそ、遺産を記録し、多くの人にその魅力を伝えていくことが重要であると考える。
今回、約300基の石造物をアーカイブしたが、まだまだアーカイブ化するべき石造文化財が沢山ある。高遠石工遺産を保存し後世に残していくこと、高遠地域の発展に繋げていくためにも、地域遺産にもっと興味関心を持ち、デジタルアーカイブする人材が増えていけば良いと考える。
参考文献
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7) 石川純一郎.地蔵の世界.時事通信社, 1995, 352p
8) 松沢邦男.庚申塔と道祖神.ほおずき書籍, 2001, 166p
9) 木戸ひろし.再発見!高遠石工.ほおずき書籍, 2015, 235p
10) 石川純一郎.地蔵の世界.時事通信社, 1995, 352p
11) 市川智康.図解・仏像の見分け方.大法輪閣,1992, 192p
12) 笹本正治.再発見!高遠石工.ほおずき書籍,2015,235p
13) 伊那市高遠町・長谷周辺の石造物マップ.
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14) 石仏探訪マップ
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(2023/8/10 閲覧)
15) 日本地図ジェネレーター.
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16) 名古屋刀剣ワールド.“江戸時代日本史 |ホームメイト”.
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https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/shogaigakushu_news/rekishibunka.files/02.pdf (2023/12/8閲覧)
19) 文化庁.“伊那市【長野県】‐歴史文化構想”.
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21) 長野伊那谷観光局.“高遠石工のふるさと伊那谷”.
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22) 「日本で最も美しい村」連合.“長野県伊那市高遠町たかとお-「日本で最も美しい村」連合.https://utsukushii-mura.jp/map/takatoo/ (2023/12/26閲覧)
23) 伊那市観光協会.“おいでな伊那―一般社団法人伊那市観光協会公式サイト”.
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24) 伊那市デジタルアーカイブ.https://adeac.jp/ina-city/top/ (2023/12/26閲覧)
25) 高遠石工と天才仏師 守屋貞治を追って.https://stone-c.net/report/8032 (2024/02/13 閲覧)
論文資料
1.高遠地域における高遠石工遺産デジタルアーカイブの研究