小出城跡
【案内】 市立西春近北保育園(表記番地)の西約180mより細い道を南に200mほど行くと、城跡碑が建てられている。その手前の空家の前に駐車できる[マップコード171 247 069*78]。
西側の西城との間に堀跡の道路が続いている。主郭には城跡標柱、説明板が建てられている。南と東側に低い土塁があり、北側に空堀があり、東側下段には二重の深い空堀が残っている。
平成二年(1990年)11月1日、伊那市の史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉時代前期、藤原鎌足の流れを汲む工藤氏の一族小井弖(こいで)氏により築城されたと云われる。
工藤氏は源氏派の有力御家人で『住 信濃国 号林二郎、子孫遂信濃人』の記述があり、早くに信濃国に住み着き、治承四年(1180年)源頼朝挙兵の折り甲斐源氏武田信義親子と共に、平家方大田切城を攻め、勝利の勲功により西春近を安堵されたと伝わっている。
工藤氏は、能綱の時、建長三年(1251年)嫡子師能と庶子宮熊わうい間に起きた所領譲りの係争や、正応元年(1288年)課役係争について鎌倉幕府の裁定を仰いだいわゆる工藤文書が5通現存している。
また建武二年(1335年)に起きた中先代の乱、暦応三年(1340年)に起きた大徳王寺城合戦、応永七年(1400年)の大塔合戦、永享十二年(1440年)結城合戦に参戦した記録がある。
享徳二年(1453年)頃、師能系の弾正忠朝能とその兄は、妹が神氏(みわし:後の諏訪氏)に嫁いだ縁で諏訪氏の依頼を受け諏訪に移住したと云われている。
戦国末期に、高遠城家来に6人の所領を得た工藤と名乗る武士がいるが、いずれも小出氏の末流と見られている。
また、尾張の国中村から出て、但馬国出石藩主となった小出甚左衛門秀政やその長子小出吉英(岸和田藩主)・次子親(園部藩主)も、ここの小出氏の末流と考えられている。『現地説明板』より(年号一部追加)。
深妙寺
感応山深妙寺は、平安時代、権現山のふもと小殿寺に権現信仰(真言宗)の寺院として開創されたと言われます。その後、山寺垣外に移りました。
伊那春近領に工藤犬房丸祐時(曽我物語)が流罪になり当山の密教に帰依し、本堂を再建されたと伝えられています。これは、当山開基 三位公 池上弥次郎入道 が伊那春近領で活躍される数十年前の出来事です。 ≪工藤犬房丸の伝承≫ 参照
この、伊那春近領を鎌倉幕府 政所重臣 三位公 池上弥次郎入道(日蓮聖人孫弟子・六老僧日朗上人直弟子・常法院日遊上人・藤原氏、工藤氏と同族)が治めら れました。三位公入道は伊那春近領の政所長官(地頭を指揮監督する役職)をなさ れました。小出(小井弖)には鎌倉幕府の出張所である政所があったといわれてい ます。
政所役人 三位公入道が統括した伊那春近領は現在の伊那市から下伊那郡松川町 に及ぶ天竜川沿いの広大かつ肥沃の地でした。ここには三位公入道に仕える、小出 氏(工藤氏)・赤須氏・飯島氏・田島氏・片桐氏・名子氏などの地頭がいました。
入道は幕政に参画されるとともに、弘安8年(1285)伊那春近領で起きた洪 水の災害復旧を成就され北条政権に信頼されました。当山はこの三位公入道により 鎌倉時代正安元年・1299年(正応元年・1288年説もある)日蓮宗に改宗さ れました。
慶長5年(1600)現在地に移り、実に700年の永きにわたり法華経の教えを弘める道場として栄えて来ました。
宮田宿本陣 旧荒井家住宅
宮田村町区の宿場町にあった伊那街道に唯一残る江戸時代の本陣を、ふれあい広場の隣接地に復元しました。
宮田宿は飯田藩主が参勤交代で江戸に向かう時、この地を宿泊地としたことや、伊那谷一の荒れ川太田切川を南に控えていたことから、伊那街道の要衝として賑わいました。
大名の宿泊施設として置かれた本陣は藩の臨時の役所や役人の休憩所としても使われました。
長野県宝 旧新井家住宅(宮田宿本陣)
指定年月日 1987年8月17日
所在地 宮田村ふれあい広場東
指定物件 母屋、座敷棟、土蔵、門
江戸時代の宿場町のほぼ中央にあった建物を、創建当時の姿に移築復元したもので、向かって右に大きな母屋、その左に門、門の奥、母屋の南に座敷棟、母屋の裏に土蔵があります。母屋が18世紀後半、座敷棟が19世紀初めに建てられたものと推定され、伊那街道では唯一、江戸時代の姿のままに残された本陣建物です。
伊那街道の始まりは、関ケ原の戦いの7年前の1593年(文禄2年)、豊臣秀吉によって飯田の地を治めるよう命ぜられた京極高知(たかとも)が道路整備へ着手してからと言われています。高知はそれまで天竜川の近くを通っていた道を西の一段高い所へ引き上げ、ほぼ一定の間隔に宿場を置きました。飯田から6番目になる宮田宿は、南に太田切川の荒れ川が控えていて、伊那街道の中でも重要な宿場の一つでした。
交通通信の基点として作られた宿場町は、両側にびっしりと家が並び、幅が狭くて奥が長い、いわゆる鰻の寝床の屋敷割で、宮田宿の場合、間口4間(約7m)位の屋敷が多かったのですが、本陣の間口は13間半(約24.5m)あります。
江戸時代の宮田村は宮田町割、宮田南割、宮田北割の3ケ村に分かれていました。各村には名主や組頭を長とする行政機構がありましたが、宿場は、問屋を長とする年寄衆によって運営され、さらにそれから独立した公営宿舎の本陣や、藩役人の日帰り出張の休憩や会合の場所であるお茶屋が設けられていたのです。新井家は本陣と、母屋の部分がお茶屋を兼ね、さらに、一時期問屋も兼ねていたそうです。
母屋と座敷棟の屋根は当時の定めに従って板葺きとなっています。伊那谷の板葺き屋根は1960年代を境に急速に姿を消し、今はもう一般の家庭では見ることができません。
この建物が移築されたあと、総合公園ふれあい広場や、宮田球場などが建設され、周辺は村民をはじめ多くの皆さんの憩いの場となりました。

伊那西高等学校と岐阜女子大学との高大連携に関する協定調印式
日 時:令和5年6月22日(木曜日)14:00〜14:40
場 所:伊那西高等学校 校長室
内 容:
1.岐阜女子大学学長挨拶
2.伊那西高等学校長挨拶
3.調 印
4.写 真 撮 影
5.学生代表挨拶
6.生徒代表挨拶
1.岐阜女子大学学長挨拶
この度は,学校法人高松学園伊那西高等学校と岐阜女子大学が高大連携の調印式を迎えるにあたって一言ご挨拶させていただきます.
現在,教育のデジタルトランスフォーメーション(DX)を加速する中,本学は,ニューノーマル時代に求められる学びの在り方に対応するため,様々な大学改革を不断に実行しています.
特に,本学では,平成29年度より3年間私立大学研究ブランディング事業において「地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成のための基盤整備事業」というテーマで,
更に,令和4・5年度には岐阜県私立大学地方創生推進事業として「デジタルアーカイブによる新たな価値創造推進事業」というテーマでそれぞれ採択され,飛騨高山匠の技と郡上白山文化遺産等を対象にして,20万件以上の静止画・資料・動画を収集整理し,シソーラス,索引語の整理などの「地域資源デジタルアーカイブ」の研究に対する必要な基礎データを準備してまいりました.
この,地域資源のデジタルアーカイブでは,自分の生まれた地域のさまざまな地域資源などをデジタルアーカイブすることにより,これまでに気付かなかったさまざまなものが,素材を通して見えるようになります.そのような意味で,この地域資源デジタルアーカイブは,このように地域のさまざまなことを再発見し,理解を深めていく上で重要な教育活動であると考えています.
また,この地域資源デジタルアーカイブには,地域の人々の参加が必要となってきます.特に,地域の資料の収集,デジタル化には,地域の実情に応じた活動が重要で,今後,地域住民たちが身近な場で地域のデジタルアーカイブをすべきだと考えています.
このためには,地域住民自らが自分たちの「地域資源」としていかに主体的に発見・収集・整理することできるかが課題です.
この度の高大連携における大学と高等学校との「共創」によるデジタルアーカイブの活動を,新しい学びの一環として捉えることができます.
ここでの「共創」とは,多様な立場の人たちと対話しながら,新しい価値を「共」に「創」り上げていくことです.デジタルアーカイブは,単なる記録ではなくて,研究成果,「知」を集積することがデジタルアーカイブに問われています.
あらゆる地域が地域としてのアイデンティティを確立するためにも,「知」の拠点としての地域資源デジタルアーカイブを含めた総合的なデジタルアーカイブを構築することが求められています.
令和4年から高等学校に実施されています学習指導要領では,課題探究型の学びが求められています.
伊那西高等学校と岐阜女子大学のデジタルアーカイブにおける高大連携講座の実践は,この課題探究型の学習の全国のモデルとなりうると考えています.
これからの学びは,「競争」から「共創」の学びに着実に変化していきます.これからの高校生にも課題探究という研究的な学びを,大学と高等学校が連携し,お互いに対話しながら,新しい価値を「共」に「創」り上げていきたいと思います.
本日は,伊那西高等学校の多くの先生並びにここに参加いただいております生徒の代表の皆様に今回の高大連携へのご協力にお礼を申し上げると同時に,今後ますますこの連携の絆が強くなりますことを期待いたしまして,ご挨拶とさせていただきます.
5.学生代表挨拶
この度は,伊那西高等学校と岐阜女子大学との高大連携に関する協定調印式,誠におめでとうございます.
伊那西高等学校の卒業生として,また,岐阜女子大学の在学生としてこの調印式に参加できることを感謝いたします.
私たちが学んでいるデジタルアーキビストという専門職とは「文化資料等のデジタル化についての知識と技能を持ち,文化活動の基礎としての著作権・プライバシーを理解し,総合的な文化情報の収集・管理・保護・活用・創造を担当できる人材」です.
この基盤となるデジタルアーカイブは,さまざまな分野で必要とされる資料を記録・保存・発信・評価する重要なプロセスです.
また,このデジタルアーカイブは,わが国の知識基盤社会を支えるものであり,デジタルアーカイブ学会でも,デジタルアーカイブ立国に向けて「デジタルアーカイブ憲章」などの法整備への政策提言を積極的に行っています.
そのためにも,知識基盤社会おいてデジタルアーカイブについて責任をもって実践できる専門職であるデジタルアーキビストがますます重要になってきます.
これからの高校生や大学生には,地域の様々な解の見えない課題に主体的に向き合い,地域課題を解決すると共に,地域に貢献することを求められています.
私たちは,そのためにも,この岐阜女子大学において,デジタルアーキビストの学術的な基礎として,デジタルアーカイブに関する歴史から我が国の動向並びにデジタルアーカイブの課題を実践的に学んでいます.
私たちは、今回の高大連携により,伊那西高等学校の生徒さんと、また、地域の皆さんとの連携により、デジタルアーカイブの学びを深化させていきたいと思っています。よろしくお願い致します.
資 料
(1)協定書(伊那西高校)
(2)伊那西高等学校と岐阜女子大学との高大連携に関する協定調印式
新聞記事
【研究論文】高遠石工 石造物のデジタルアーカイブ
研究概要
1.はじめに
長野県伊那市高遠地域は、風光明媚な風土やタカトオコヒガンザクラの樹林、高遠石工の石造物など独創性ある地域資源を有している。その中でも、高遠石工とその石仏は地域の歴史的価値を高め、観光資源としても魅力的な文化財であると考える。しかし、高遠石工の存在は、高遠町民には周知されているが、長野県民を始め、県外観光客からみると認知度が低いのではないかと考える。また、高遠石工の石造物のデジタルアーカイブ化への取り組みがほぼ行われていない。石造物は経年劣化や自然災害により、石工達の活動や石造物そのものが損傷または喪失するリスクが高いと考える。
そこで、本研究では主に高遠石工への興味を県内外で喚起することと、地域文化財の保存と普及を目的とし、高遠町を中心に、長野県南信地方の上伊那地域に現存する石造物の撮影を行いデジタルアーカイブを作成する。また、高遠石工の作品がどのようにして江戸時代の社会や文化等に寄与したのか歴史を明らかにし、今に残る石造文化財が現代の地域社会にどのような影響を与えているのか調査し、アーカイブすることの意義について考察する。
2.研究の方法
はじめに、研究対象である、高遠石工と名工と呼ばれた守屋貞治に関する資料を収集し文献調査を行う。石工誕生背景、石仏の種類、表現技法など、基本的な情報を調査し、その起源と現在までの変遷を辿りながら、当時の地域信仰や生活を考察する。表現技法については、守屋貞治の作品と人柄を深堀し、どのような特徴があるのか調査する。文献調査で分かったことをまとめ、分析する。
次に、高遠町と上伊那地域に現存する石仏(写真1)、道祖神、庚申塔、供養塔などの撮影を行い、または関連施設を訪問し情報や資料を収集し記録する。
収集したデータをもとに、地域学習や観光資源として利活用でき、石工への興味喚起を図れるようなWebページの制作を行う。
3.研究の結果(考察等)
高遠石工とは、江戸時代に信州高遠を拠点に全国で活躍した石材加工の職人集団のことである。活躍した時代背景には、高遠藩による出稼ぎ石工の奨励、民間信仰が盛んになり造立が活発化したこと、高遠藩領では良質な石材が豊富であったことなどが挙げられる。また、収集した資料を、所在地や石仏の種類ごとに整理すると、それぞれの地域ごとに民間信仰や石造物の特色が捉えることができた。多量の石造物が造立されていることから、当時の庶民の信仰心が強いことが分かった。
撮影方法としては、対象とする石仏の全体像を前後左右の4方向と、碑文や台座、持物、印相、石仏の表情を部分的にクローズアップして撮影し、石仏1体1体の特徴や魅力が伝わるよう意識をしつつ、一眼レフカメラを使用し静止画で記録を行った。ただし、崖や川付近に安置され、格子に囲まれている石仏については正面と斜め左右の3方向から撮影を行う。
4.おわりに
現在、約165体の石造物の撮影が完了している。今後も撮影を進めるとともに、Webページの制作も行う。そして、文献調査した結果から、これらの石造物が現代の人々にどのような影響を与えているのかを考察する。
参考文献
高遠町誌編纂委員会.高遠の石仏.伊那毎日新聞社,1975
研究資料
高遠石工とは
江戸時代、信州高遠を拠点に全国で活躍した、石材加工の職人集団のこと。主に手彫りによる石の加工技術が特徴的。
全国各地に、石仏、石鳥居、石橋、供養塔など数多くの石造物を造った。
江戸時代、民間信仰が盛んになった風潮の中で、寺社の建築、石造物の造立も活性化した。
石造物の需要が増したことで高遠の石工は各地に出向いて働くようになり、優れた技術が各地で評価された。
高遠石工の名が全国を轟かせたことで、高遠石工がブランド化した。ブランド化したことによって、石工の活動もさらに盛んとなり、全国各地で数多くの作品を残すこととなった。
現状と課題
1.石工技術を持った職人の高齢化、人材不足
→専門家や職人の高齢化、後継者不足により、技術の伝承が途絶えてしまい、石工技術継承の危機に陥る。
2.高遠石工の文化遺産に対する、若者の興味関心が低い
→伝統的な技術やノウハウの継承が困難になる。
3.石造物は観光資源、人文資源として価値がある。
→石造物を観光資源として活用することにより、魅力ある地域づくりが可能になり、高遠町はもちろんのこと、全国各地の地域社会の活性化に繋がる。
高遠石工の足跡
全国18都府県
長野県、山梨県、静岡県、神奈川県、東京都、新潟県、福島県、山形県、青森県、群馬県、
栃木県、埼玉県、茨城県、愛知県、岐阜県、三重県、兵庫県、山口県
高遠藩による他国への出稼ぎが奨励され、全国各地に
高遠石工が出向き活躍。
長野県内だけでなく、各地
に高遠石工が携わった石造物が存在する。
⇒そのため、観光資源として価値があり、今後
さらに注目されるべき文化財である。
高遠町民には高遠石工が十分周知されている。
⇒しかし、高遠町は桜の名所として認知されているため、高遠石工の存在が桜に埋もれてしまっていることが問題点だと考えられる。
高遠の文化遺産に対する人々の関心、認知を高めるために、高遠石工の歴史や文化的な背景を説明し、その価値を明確にすることが大切であると考える。
そして、高遠町の特色や文化遺産との関連性を強調し、遺産が地域の歴史や文化と深く結びついていることを伝えることにより、地域住民のアイデンティティや誇りを引き出し、さらに価値を高められる。
高遠石工の存在を知ってもらうことにより、観光資源として活用でき、さらに観光客が増加することで地域振興に繋げられる。
目 的
高遠石工の石材加工技術者の高齢化、後継者不足により技術継承が途絶えることが危惧される。そこで、伊那市の地域文化遺産である高遠石工の技術の継承と、地域資源への興味喚起のために、高遠石工のデジタルアーカイブ化を行う。
研究内容
〇守屋貞治・渋谷藤兵衛の石仏デジタルアーカイブ
伊那市内にある主な守屋貞治の作品
〇歴 史
高遠石工は、1187年(文治3年)に源頼朝から代々石細工職人として日本国内で仕事が出来るとの許可をもらったものとの由緒書が伝わっているが、発祥は中世頃と推定されている[2]。由緒に基づき、全国を行脚しており、現在の青森県から山口県まで旅稼ぎをしていた。
天正末期、徳川家康の命で江戸城工事に従事し、八王子付近に定住していたことが「新編武蔵風土記稿」に記載されている[4]。鳥居氏の所領だった(1636年〜1689年)の間の高遠地方旧記の引き継ぎ目録に記録が残っている[5]。元禄4年(1691年)に内藤清枚が藩主となると、藩の財政難解消策の一環として出稼ぎが奨励されるようになった。明和4年(1767年)には「他国稼ぎ御改め帳」が発行されるなど、石工が全国を回っていた[6]が、それは「旅稼ぎ」といわれ、藩には運上金を1人年1貫文(千文)を収め決まりとなっておりお高遠藩にとっては重要な収入源だった。
文化8年(1811年)の記録では領内の主要な産業として保護、統制を受けており、職人団体の中で運上金上納額最高が石切職人だった。
その存在が日本全国に知られるようになったのは江戸時代、17世紀半ば頃のことであったとされる[1]。彼らは日本の各地に散らばり、石仏を始めとする彫刻作品を残した[1]。活動に取り組む姿勢は芸術家さながらであったとも、あくまでも職人であったとも言われる[8][9]。高遠石工は18世紀が最盛期だったが、明治になり廃れた。
現在、高遠石工による作品は地元の伊那谷周辺に多く残され、安曇野に多い石像道祖神も、その多くは高遠石工の手によるものである。その他にも首都圏や東海・近畿、山口にまで散見されている。
伊那市高遠町の建福寺には西国三十三所観世音をはじめとして多くの作品を見ることができる。
主な石工
〇守屋 貞治(もりや さだじ、1765年 – 1832年)- 明和2年(1765年)に信州伊那郡高遠藤澤郷塩供(しおく、現在の長野県伊那市高遠町長藤〈おさふじ〉塩供)で孫兵衛の3男として生まれる。高遠石工の中でも稀代の名工と言われ、68年の生涯に336体の石仏を残している。亡くなる前年の天保2年(1831年)に「石仏菩薩細工」を書き残しており、いつどこで何の石仏を刻んだのかが、その正確な記録から判明している。この記録によって、彼の作品は1都9県(長野、群馬、東京、神奈川、山梨、岐阜、愛知、三重、兵庫、山口)に残っていることが確認されているが、数多くの石工を輩出した高遠石工にあって西日本にまで作品を残しているのは貞治だけである。貞治は信州諏訪の温泉寺の名僧、願王和尚を師と仰ぎ深く仏門に帰依し、香を焚き経を唱えて石仏を刻んだと伝えられ、ゆえに貞治は単に石工ではなく「石仏師」と呼ばれ、貞治の刻んだ石仏は特に「貞治仏」と呼ばれている。
〇守屋 孫兵衛(まごべえ、生年不明 – 1782年) – 貞治の父
〇守屋 貞七(さだしち、1700年頃 – 没年不明) – 貞治の祖父。
〇向山 重左衛門 (むかいやま じゅうざえもん、1690年頃 – 1773年) – 寛延から明和年間の作品が残る高遠藤澤郷御堂垣外(みどがいと)の石工。
〇久左衛門(きゅうざえもん、生没年不詳) – 向山重左衛門の弟弟子 。
〇下平 文左右門(しもだいら ぶんざえもん、生没年不詳) – 明和から安永 (元号)年間を中心に活動した安永東春近の石工。なお、息子の太左右門(たざえもん)も石工である[13] 。
〇渋谷 藤兵衛(しぶや とうべえ、1784年 – 1853年) – 守屋貞治の高弟。信州伊那郡川下り郷川手(現在の長野県伊那市美篶下川手)に生まれる。伊那市高遠町建福寺の石段には師貞治の延命地蔵が石段左に、藤兵衛の柳楊観音(嘉永2年、1849年)が石段右に対になって立っている。上伊那郡箕輪町長岡の長松寺に残る貞治の延命地蔵尊は、まず藤兵衛が先に長岡に来て村の世話人と打ち合わせと石の詮議をし、村人足とともに石を切り出して下準備をした後に貞治の作業が始まっている。これは同寺の「地蔵建立諸入用控帳」に残されており、それには「石屋定治郎 手代藤兵衛」と記されている。
〇小笠原 政平(おがさわら まさへい、1796年 – 1861年) – 信州伊那郡殿島(現在の伊那市東春近下殿島)に生まれる。東春近を中心に作品が残るが「俺の石仏は銘がなくとも頬骨のふくらみを見ればそれとわかる」と言っていたとの言い伝えがある。
高遠石工が生まれた背景
古来より、人々は自然の猛威の前には成す術もなく、平穏な暮らしや豊穣を願い、ただただ神仏に祈りを捧げるのみでした。
江戸時代に入り、安定した世の中になると、心のよりどころとして神仏に祈る民間信仰が盛んになり、元禄年間(江戸時代前期)には石仏造立も活発化します。石造物の需要が増えるにつれ、高収入が得られる石工のなり手も増えていきましたが、高遠藩では税収増加をねらって「旅稼ぎ石工」を奨励したことから、その数は領内だけでも数百人に達していたといわれています。
高遠石工の多くは、農耕地が狭い山間部の農家で二男以降に生まれた男子です。一般的には農作業の傍ら、農閑期を中心に旅稼ぎをしていたと言われていますが、当時の石工は大工など他の職人と比べて給金が良く、仕事が豊富であったこともあり、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門の職業とする専業石工も多く存在しました。
高遠石工の活動
現在、高遠石工の銘が確認されている石造物は、北は青森、南は山口の1都18県に及びます。
和泉石工(泉州石工)など、高遠石工と同時期に活躍した石工集団は他にもいましたが、高遠石工ほど多くの銘を残していません。「高遠」という銘がはっきりと確認できるのが元禄期以降であるため、高遠石工の活動年代は内藤家が高遠藩を拝領した元禄4年(1691)以降とみる向きもありますが、山梨県甲府市塩澤寺にある正保5年(1648)銘「大工信州之角兵衛」の無縫塔をはじめ、元禄期以前の高遠石工の作と推定される石造物も確認されているため、江戸時代初頭より広域的な活動をしていたと考えられます。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事に関わったり、有名な安曇野の道祖神の中にも、高遠石工たちが刻んだものが数多くあります。
高遠石工が確かな技術で刻んだ石造物は、人々の心を捉え、江戸時代中期にはその名が全国にとどろくようになりました。「高遠石工」の名が一種のブランドと化したことによって、その活動も一層盛んになり、各地で多くの作品を残すこととなったのです。
集落を見守る石仏たち
諏訪と高遠を結ぶ杖突街道沿いには、農村風景に溶け込むように多くの石仏があるのが目に入ります。そのほとんどが集落の入口(村境)にまとまっており、馬頭観音、庚申塔、道祖神など様々な石仏が見られます。
これらは、災厄が村に入ってこないように、また子孫繁栄や旅の安全などを願って、江戸時代から昭和まで長年にわたって受け継がれてきた民間信仰の証です。
石工のふるさとの美しい景観を保ちながら、石仏たちは今も集落を見守っています。
高遠石工の特徴
高遠石工は、長野県の高遠地域で発展した石工技術のことを指します。この地域は古くから石材が豊富であり、その質の高さから日本各地に石材を供給してきました。高遠石工は、主に神社仏閣や城郭などの建築物において石材を加工し、美しい彫刻や堅牢な構造を実現するための技術として重要な役割を果たしてきました。
高遠石工の特徴的な技法としては、以下のようなものがあります:
面取り(めんどり): 石材の角を斜めに削り取り、エッジを丸くすることで安全性を高めるとともに、美しい仕上がりを実現します。
目地加工(めじかこう): 石材同士の接合部分に目地を設けることで、石材の結合を強化します。目地には石の割れや変形を防ぐ役割もあります。
彫刻技法: 高遠石工では、美しい彫刻技法が発展しています。彫刻によって龍や花卉、幾何学的な模様などを表現し、建築物に装飾的な要素を与えます。
石積み技法: 石材を組み合わせて壁や柱を構築する石積み技法も高遠石工の特徴です。石同士のバランスや組み合わせによって、安定性や美しさを追求します。
高遠石工は、伝統的な技術でありながら現代にも受け継がれ、多くの建築物や文化財に活かされています。その美しい石組みや彫刻は、日本の建築文化の一環として高く評価されています。
研究内容
・石工の誕生、石仏の造立の背景
・高遠石工が手掛けた石造物の良さとは(他の石工との比較)
・産業としての石工の仕事の位置づけ
〇特徴・魅力
・高遠石工ならではの石仏表現法や技法
〇技術が今にどう生かされているのか
石仏師・守屋貞治
数多くいた高遠石工の中でも、高い技術を持った稀代の名工と呼ばれる石仏師。
石仏の制作を専門としており、生涯において336体に及ぶ作品を残している。
守屋家は祖父・貞七の代から石工を生業としている。そのため、貞治も自然と石工を志すようになった。
造形や技法は、祖父と父から影響されていると考えられる。
江戸時代、石工の仕事は細分化され、専門性が高い者も増えていましたが、高遠石工の中でも稀代の名工と呼ばれたのが守屋貞治です。彼は石仏の制作を専門とし、68年の生涯において336体におよぶ名作を残しました。
貞治は明和2年(1765)、高遠藩藤沢郷塩供村(現、伊那市高遠町長藤)で守屋孫兵衛の三男として生まれました。守屋家は貞治の祖父・貞七の代から石工を生業としており、貞治も自然と石工を志すようになりました。修業時代の師は不明ですが、造形や技法の面で祖父や父の影響が垣間見られます。
温泉寺(現、諏訪市)の住職で名僧と名高い願王和尚を仏道の師と仰いだ貞治は、自らも仏に帰依し、経典や儀軌(経典に説かれた仏、菩薩などの姿形をまとめたもの)に基づいて仏心の込められた石仏を刻みました。石仏を刻む際は経文を唱え、香をたきしめて作業に打ち込んだといわれています。貞治が単なる「石工」ではなく「石仏師」と呼ばれるのは、こうした所以からです。
貞治は亡くなる前年の天保2年(1831)に、自身の生涯を振り返り、これまでに彫り上げた石仏を『石仏菩薩細工』にまとめていますが、これによると貞治が手がけた作品は1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及びます。西日本に作品を残した高遠石工は貞治以外には確認されておらず、また、他の高遠石工を見ても複数の場所で活動した例は少ないため、この広範囲にわたる活動こそが貞治の特徴といえます。これは願王和尚の影響によるところが大きく、貞治のよき理解者であり、彼の石仏を礼賛した願王和尚が、全国各地の布教先で貞治を推薦したためと考えられます。
身を律し、ひたすら意にかなう石仏を造立し続けた貞治でしたが、天保3年11月19日、静かに68年の生涯を終えました。他の石工を圧倒する技量で彫られた貞治の石仏は、端正で繊細優美でまさしく「貞治仏」と呼ぶにふさわしい名作ばかりです。
守屋貞治仏の技法と表現法
1.口元円形微笑型
・口元円形→人が笑うとほうれい線が丸くなる様子を表す。
特徴→石仏の口を中央にして、鼻の付け根と下あごを外周とする円形に彫りくぼめた形態を形成した上で、その中に口と円形凸型の下あごを表現する。
2.蓮華座花弁巻き返し表現
石仏を豪華に魅せたり、重量感を持たせたる技法。
特徴→蓮華座の花弁が裏側に巻き返し状になっている。
資料
2.中間発表レジュメ
テーマ「高遠地域における高遠石工遺産デジタルアーカイブの研究」
第1章 緒 言
1. 研究の動機と課題
本研究では、高遠地域における高遠石工遺産デジタルアーカイブの研究をテーマとする。この研究の動機として、私の故郷である長野県伊那市への愛嬌心から、伊那の遺産を本研究で取り上げたいと考えた。生まれ育った地域に対する知的好奇心と、伊那市の文化遺産について多くの人に興味を抱いてもらいたいという思いがある。これまで、デジタルアーカイブ専攻で身に着けた知識を活かし、高遠地域の文化遺産である高遠石工の石造物に焦点を当ててデジタルアーカイブを行うことで、地域社会への貢献を果たせるのではないかと考えた。地域の歴史や文化を後世に繋いでいくために、高遠石工遺産に関する研究に取り組むことを決定した。
本研究の対象地域である長野県伊那市高遠町は、長野県南部にあり、伊那谷北部に位置する(図1-1)。風光明媚な風土やタカトオコヒガンザクラの樹林、高遠石工の石造物など独創性ある地域資源を有している。その中でも特に、高遠石工たちが造立に携わった石造物の数多くが市の有形文化財として指定されているため、高遠地域に現存する高遠石工遺産は我が国が守るべき貴重な遺産であり、歴史上、芸術上、学術上、文化価値が高いものであるといえる。しかし、現存する石造物の保護状況を見ると、その多くが野ざらしに安置され、管理が行き届いていないことが課題の1つなのではないかと考えている。これらの石造物の保護が十分に行われていない場合、経年劣化や自然災害により、損傷または喪失の危険性が高まるのではないかと懸念している。
また、デジタルアーカイブの数やその取り組みが少ないのではないかと考えている。自然の中に安置されている石造物は、災害が起こり、年月が経つほど、石造物本来の姿形を保つことはかなり困難であると感じている。だからこそ石造物をデジタル資料として保存し、デジタルアーカイブ化に取り組んでいく必要性が高いのではないかと考える。実際、デジタルアーカイブの重要さについて郷土史・石仏研究家の田中清文氏は、石仏は「野にあるため、もう50年100年経つと風化してなんだかわからなくなってしまう。今のうちに記録して写真に残しておかないといけない」(https://www.inadanikankou.jp/より引用)と発言している。このことからも、高遠地域に残る高遠石工たちが残した活動跡を、後世に残し、継承していくこと、地域の歴史的価値を高めていくためにもデジタルアーカイブ化に取り組んでいくことが非常に重要であると考える。
以上のことから、高遠石工に関して、石造物の保護状況が十分でないこと、デジタルアーカイブ化への取り組みが少数であるという2つの課題が存在しているのではないかと考える。そこで第2節では、石造物の保護状況とアーカイブ化への取り組みについて明らかにする。
2. 石造物の保護状況とアーカイブ化の現状
第1節では、石造物の保護状況が良好でないこと、デジタルアーカイブ化への取り組みが少数であることの2点が課題であるのではないかと考えた。そこで、現在の石造物の保護状況と高遠石工に関するアーカイブ化の取り組みの現状を知るために実際に高遠町に足を運び現地調査を行うとともにweb調査を行った。
(1) 石造物の保護状況
石造物の保護状況をみると、高遠石工の中でも特に高い技術をもっていたとされる守屋(もりや)貞治(さだじ)が造った石仏には雨風や雪を凌ぐために格子で四方を取り囲み、屋根が設置されていたため状態良く保存されていた(図1-2)(図1-3)。
しかし、その他の場所、例えば集落、路傍や川・崖付近などに安置されている石造物については、格子や屋根は取り付けられておらずそのままの状態で安置されていた。それなのにも関わらず、予想以上に多くの石造物が綺麗な状態で残されていたのが驚きであった。ただし、体の一部が欠けてしまっているもの(図1-4)、下部が埋まってしまっているもの、石の表面に苔やカビが発生しているものも数多く発見することができた。
苔やカビの発生に関しては、気候などの環境だけが原因だけでなく、使用されている石材の質の違いであるとも考えられる。苔やカビの発生は、風合いとして美術的な観点からみると風情があって良いという見方もできる。だが、本体が一部欠けてしまっている場合は、問題であると考える。しかし、全ての石造物に格子や屋根を取り付けるということを考えると膨大な費用と労力がかかるため現実的に厳しい側面があり、町の景観も損なわれてしまうのではないかと考える。
次に、石造物の損傷原因として、特に自然災害によるものが多いと考えた。
伊那市高遠町は、東西11㎞、南北19㎞で、総面積の85%を山林が占めており、耕地面積や可住地面積が小さい自然に恵まれた地域である。また、冬季は積雪も多い。そのため、山林面積の大きいこの地域では、土砂災害や川の氾濫、雪害による自然災害が多いといえる。石造物は、崖や川付近、峠道などに多く存在している。そのため、自然災害による石造物の損傷や喪失が多発する可能性が非常に高いということが考えられる。
自然災害が発生しやすい地域であるからこそ、文化遺産を本来の姿のままどのようにして残していくのかが重要であると考える。そして、その1つの方法としてデジタルアーカイブを進めることが遺産を守ることに繋がるのではないかと考える。
(2) 高遠石工に関するアーカイブ化の現状
高遠石工に関する資料のアーカイブ化への取り組みの現状(2023年12月9日現在)を把握するために、どの機関がアーカイブ化に携わっているのか、どのような高遠石工に関するコンテンツ作成されているのかインターネットを通じたweb調査を行った。調査結果は以下の①~⑤である。
① 高遠石工研究センター
高遠石工研究センターでは、高遠石工の調査・研究を行いながら、石仏を静止画や動画で記録し、アーカイブ化する活動を行っていた。しかし、その活動記録や撮影した資料は公開されておらず、web上にも公式サイトは見当たらなかった。
また、調査研究やアーカイブ活動に加えて、「高遠石工の石仏巡礼ガイド」などを紙冊子で発行しており、伊那市役所と高遠町総合支所で購入することができるようになっていた(図1-5)(図1-6)。
② 高遠町歴史博物館
高遠町歴史博物館は、古代・中世に至る高遠城と城下町高遠の歴史、文化、人物、民俗をテーマごとにスポットを当て展示を行っている。また、歴史博物館デジタルアーカイブ事業に携わっており、地域住民から寄せられた地域に残る写真資料を募集しデジタルアーカイブ化に取り組んでいる。さらに、伊那市教育委員会と協働し、高遠石工の足跡調査を行い、情報提供を募っている。博物館の所蔵品には、高遠石工に関する多くの資料があった。ただし、これらの資料はデジタル化が進められているものの、インターネットを通じた資料の公開は行われていなかった。
③ 伊那市デジタルアーカイブ(向山雅重資料デジタルアーカイブ)
「向山雅重資料デジタルアーカイブ(https://adeac.jp/ina-city/top/)」においては、伊那図書館が所蔵していた向山(むかいやま)雅(まさ)重(しげ)の写真資料がデジタルアーカイブ化され、約2000点のモノクロ静止画資料が閲覧できる。このデジタルアーカイブでは、高遠石工を主とした項目はなかったが、高遠石工が携わった石造物に関する資料が登録・公開されていた。これは、民俗学の研究や、教育機関で活用できるデジタルアーカイブだと感じた(図1-7)(図1-8)。
④ ホームページ
伊那市観光協会公式サイト、伊那市公式ホームページ、長野伊那谷観光局にて、観光客向けに高遠石工遺産が存在する名所の紹介や歴史を大まかに説明しているWebページがあった。伊那市観光協会の公式サイトでは、「高遠石仏探訪マップ」と「伊那市高遠町・長谷周辺の石造物探訪マップ」などのパンフレット資料がPDFファイル形式でダウンロードできるようになっており、デジタルパンフレットとして活用できるようになっている(図1-9)。これは、電子版だけでなく、紙媒体での発行もされている。
伊那市公式ホームページでは、外国人向けに作られたWebページとパンフレットが作成されていた(図1-10)。パンフレットはダウンロード可能でデジタルパンフレットとして利用できる。
⑤ YouTube動画
伊那市公式動画チャンネルや一般の個人による高遠石工の歴史に関する話や説明、シンポジウム動画がいくつかYouTubeにて投稿されていた。
以上のことから、主に高遠石工研究センターと高遠町歴史博物館の2機関がアーカイブ化に通り組んでおり、資料の収集とそのデジタル化は進んでいたことが分かった。しかし、アーカイブ化が一部進められてはいるものの、高遠石工の石造物を主としたデジタルアーカイブの数は圧倒的に少なく、インターネットを通じた公開がほぼ行われていなかった。
また、紙媒体と電子版の石仏マップやパンフレットが作成されており、観光事業に活用できるようになっていた。
3. 研究の目的および方法
高遠町に現存する石造物は、高遠石工たちの活動跡であり、その地域の歴史を伝える貴重な遺産であるため、後世に残していくべきである。また、高遠石工遺産は観光資源や文化資源として活用することで地域活性化に繋げることができると考えている。しかし、石造物の保護状況とデジタルアーカイブ化への取り組みを調査すると、石造物の残存状態が悪いものも一部存在しており、高遠石工に関するデジタルアーカイブ数も非常に少ないということが分かった。
そこで本研究では、地域文化遺産の保存と普及を目的とした高遠石工の石造物のアーカイブ化を行うとともに、江戸時代から始まった高遠石工の歴史と当時の民間信仰や石造物に対する人々の信仰心から今に残る石造文化財の価値を明確にし、石造物デジタルアーカイブを行うことの意義について考察をする。
本研究では、以下の3つを軸に行っていく。
① 文献調査
文献調査では、高遠石工の起源と発展、石造物造立の時代背景など歴史を調査する。また、高遠に現存する石造物を種類ごとに分け、造立数、造立年代、それぞれの石造物がもつ特徴について調べる。この石造物調査から、造立当時の生活や民間信仰を見出す。
② 高遠石工に関する資料の撮影
主に長野県伊那市高遠町に存在する石造物の撮影を実施する。また、稀代の石工と呼ばれた守屋貞治の石仏の撮影を行う。石造物に加え、石工関連施設を訪問し情報や資料を収集する。
③ Webページの作成
岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所が運営している「地域資源デジタルアーカイブ」にて収集したデータをもとにwebページを作成する。
第2章 高遠石工の歴史
1. 高遠石工とは
高遠石工とは、江戸時代、信濃国高遠を拠点に全国で活躍した、石材加工の職人集団のことである。彼らが手掛けた作品には、銘や造立年代が刻まれており、そこから江戸中期(元禄時代)以前の石造物が複数確認されているため、高遠石工たちは江戸初期から活動をしていたと考えられている。また、石造物の造立だけでなく、石材の採石や、石材加工をする際に使用する道具も自分たちで鍛冶していたと言われている(図2-1)。
高遠石工の多くは、農家の二男や三男、あるいは山峡の農民であり、江戸時代に活躍した石工の数はおよそ1700人以上いたと推定されている。彼らは拠点地である高遠のみでなく、全国各地に出向き、石仏・石神・石碑・石灯籠・供養塔など多くの石造物を造った。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事にも関わったといわれている。高遠石工たちが携わった石造物は、北は青森県から、南は山口県まで、全18都府県で散見されている(図2-2)。
彼らの石材加工技術が他地域の石工よりも群を抜いて高かったことから、その技術が求められ活動域が広くなっていった。技術の高さに加えて、彼らが活動域を全国に広げることができたのは、高遠が交通の要衝であったからである。彼らの技術がいくら高くても、仕事を頼む側に高遠石工の技術の高さなどの情報が流れていなければ依頼することもできない。だが、石工の活動が活発化していた江戸時代までは、杖突峠を通って伊那谷から三河に抜ける伊那街道、あるいは大鹿から遠江に抜ける秋葉街道が、民衆の道として広く利用されていた。そのため、五街道や地域民衆の生活の道が高遠を通り、全国に繋がっていった。石工たちはこの道を使い、情報を発信し、逆に受け入れながら、社会の求めに応じてどのような技術が必要とされているのか知ることで、社会の需要に応じることができていたのである。
2. 高遠石工が活躍した理由と時代背景
(1) 江戸時代の信仰と石造物
江戸時代(1596年~1868年)とは、室町時代から続く長い乱戦の世に終わりを告げ、江戸幕府による封建的かつ中央集権的支配によって社会が安定した時代である。江戸幕府は参勤交代や武家諸法度などの制度を作り、幕府の権力を高めていった。庶民は土農工商の身分制度により、職業ごとに身分を分けられ、身分を固定化された。また、制度による支配だけでなく、儒教の朱子学を幕府の思想・教育の基本とし、江戸幕府が支配・管理しやすい思想が広まっていった。このような徹底した管理によって情政が安定し、交通網が整備され、身分が固定化されたことによって、庶民にも余裕が生まれ、庶民中心とした文化が栄えるとともに、経済活動も活発化し産業も徐々に発達していった。その他に、江戸幕府や諸藩は、農業政策にも力を入れ、産業の発達を促した。生産力の向上、安定化することを目的に、新田開発を奨励し、河川の治水や干拓などを実施した。この時に農民も、生産量の増加、作業の効率化、生活の安定化のために、備中鍬や千歯扱などの新しい農具も使用するようになっていったという。
江戸時代による石造物造立の背景としては、人々の間では、神仏と結びついた民間信仰が盛んになっていたことが理由として挙げられる。上記で述べたように、江戸期は、農民が経済的に発展していった時代でもある。家を興し、田畑を耕して家族を養えるようになっていくが、度重なる天災や風水害、凶作、流行病など、飢饉や人為を超えた災いが当時の農民の生活を脅かし苦しめていた。現在のように科学が進歩していない時代、伝染病が流行して、村全体が壊滅的打撃を受けることも多かったため、病に対する恐怖心はとても強いものだったのではないかと予測できる。このような状況から、人々の生命を脅かすものに対して、人間の力だけでは限界ということを悟り、無病息災や平和を願い、ひたすた神仏に祈りを捧げていたのではないかと考えられる。
全国的に民間信仰が盛んになった風潮の中で、寺社の建築、石造物の造立も活性化、石造物の需要増加により、石工の成り手も増えていった。そして、平安・鎌倉時代のような強い権力をもつ人々による造立に加え、庶民の間にも次第に信仰に基づいた石造物の建立が広まっていった。特に江戸中期になると、個人や講、村中での造立が盛んに行われるようになり、五穀豊穣、子孫繁栄、健康祈願、厄除け、旅の安全など様々な願いを神仏に託し、祈りの拠点として石造物は大事にされていた。また、それぞれの家庭でお墓を持てるようにもなり、先祖供養の念とともに平安を願っていた。
(2) 高遠石工が活躍した理由
江戸時代に、民間信仰が盛んになったことで石造物の造立、石工の数が増加していった。しかし、この時期には高遠石工のみだけでなく、和泉国の泉州石工が存在していた。しかし泉州石工は高遠石工ほどの広範囲での活動はなかった。では、なぜこれほどまで高遠石工たちの活動が全国各地で行われていたのか。
その理由は、主に以下の5つである。
① 高遠藩による、旅稼ぎ石工の奨励
1つ目は、高遠藩による出稼ぎが奨励され政治的な後押しがあったことである。
江戸時代、高遠城を拠点に地を治めた高遠藩は、元禄4年頃から、藩の税収増加を狙って石工たちに領外に出て稼ぐ出稼ぎを奨励した。この石工たちの出稼ぎは、農業の傍ら、農閑期を中心に行っていたといわれている。この頃の藩の財政は厳しく、度重なる凶作で農民からの微税も苦しかった。さらに幕府による出費も多く藩の財政は逼迫したため、石工たちは旅稼ぎ石工となって稼いでいたのである。幕末のある時期には藩の税収の3分の1を稼ぎ出していたという。このため、旅稼ぎ石工の奨励は、石工たちが農業だけでは補えない分の家計の負担を減らすことだけを目的としていたのではなく、藩財政の補完的役割ももたせられていたことが分かる。
この旅稼ぎ石工の存在を示す資料として石沸菩薩細工がある(図2-3)。この石沸菩薩細工とは、稀代の名工と呼ばれた守屋貞治がこれまでに彫り上げた石仏を書き記しているものである。この石沸菩薩細工から、「貞治の活動は、現在の1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及んでいる」(https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1318より引用)ということが分かっている。このことから、高遠石工の1人である守屋貞治が残した石沸菩薩細工から広範囲にわたる活動が行われていたということが分かる。
② 優れた技術
2つ目は、優れた技術を持っていたことである。特に、精巧にして芸術性の高い作品を残していいること、多様な石造物を造っていたということが評価されていた。
その中でも彫刻技法が評価されている。それぞれの作品によって龍や花弁、幾何学的な模様などを表現し、装飾的な要素を含んでいる。その例として、長藤塩供に残る花文字の道祖神を挙げる(図2-4)。また、仏像を彫る際には、微笑みを浮かべた穏やかで引き締まった顔を表現する口元円形微笑型表現や蓮華座を豪華に見せる手法の蓮華座花弁巻き返し表現なども技術力が高いためできる表現方法である。高遠石工たちは、優れた技術を持っていることで、独創性のある石造物を造れたのではないかと考える。
高遠石工の中でも、群を抜いて高水準な石造物を彫る専業工が存在し、その石工の元には多くの修業石工たちが集まるようになった。このような高い技術を持った職人たちは、技術水準を高め、同時に高遠石工の名を全国に轟かせ、高遠石工が一種のブランド化したことによって、その活動も一層盛んになっていった。
③ 素行の良さ
3つ目は、優れた技術を持ちながらも、出稼ぎ先で素行が良かったことである。
この石工たちの素行の良さには、以下のように藩との間に厳しい御誓文が交わされていたという背景があったからである。
一、 他国へ当分出稼ぎするについては、五人組でよく吟味し、請人を立て、年貢や諸役に支障のないようにすること。
一、 御公様より仰付けられている御法度は勿論、堂々仰付けられている御法度にも決して背かないこと。
一、 旅稼ぎに出て、その年に帰らない者がある場合は、請人及び五人組でよく詮議をとげ早速申出ること。無事帰った場合も、名主、組頭、五人組迄届けること。
つけたり、少しの田畑持といえども田畑を荒らさぬ様、耕作の時期にはかえって、仕つけなど手落のないように妻子にもよく申し付けて置くこと。また旅稼ぎに出た以上、秋になって不作であっても、年貢を引いてくれなどといわないこと。
一、 私供旅稼ぎに出る上は御公儀様で決められている御法度をよく守り、旅先で盗み、ばくち、酒乱、口論、腕力沙汰など一切しないように心掛ける。万一旅先で何かの入費のことがあっても国元の御公儀様や、村役人、お組合等へ一切迷惑をかけないよう石工仲間で処理する。又旅先で越年して帰らない者がある場合は、請人が迎えに行ってきっと連れ帰り、お役人衆に御苦労はかけない。(高遠町誌編纂委員会,1977,pp.17-20)
このように、彼らが農閑期に出稼ぎに出る際には、藩との間に「運上金を必ず収めること」「農繁期には帰ってくること」「問題を起こさないこと」など御誓文が交わされていた。誓約があったからこそ、旅先でも素行よく真面目に仕事に取り組み、世間から人柄も評価されていたということが考えられる。
④ 専業石工が多数存在していた。
石工は大工など他の職人と比べて給料が良く、仕事量も多かったため、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門とする専業石工も多数存在していた。また、高遠藩は高冷地で、米作りを行うことも難しかったため、家計を支えるために石工になった人も多く、石工の数も徐々に増加していった。
⑤ 高遠藩領では、良質な石が産出し石材に恵まれていた。
高遠藩では、石仏を彫るのに適した石が豊富であり、採石場からは輝緑岩や安山岩、花崗岩が多く産出した。(https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1317より引用)この中でも特に輝緑岩は、きめの細かい美しさとなめらかな手触りが特徴的で、見た目からも表面がつるつるしていることが分かる。これは、稀代の名工と呼ばれた守屋貞治も作品に使用しており、重宝されている(図2-5)。
高遠は、山間部で耕地が狭い地域だが、人々の知恵と土地の形勢を生かしながら働いていたと考える。
第3章 石造物に現れる日本人の民間信仰
まず、民間信仰について説明する。「民間信仰は、特定の教祖・教義・教団などをもつことなしに、地域共同体に伝承的に機能してきた庶民信仰である。体系的に整備された宗教と異なり、呪術的な性格の強い信仰形態を示す。イエ(家)を単位とする組や村などの共同体の中で機能するのできわめて地域性の高いものである。」(松沢邦男, 2001, p.71)
この民間信仰が盛んになった江戸時代は、多くの石造物が造立されていることが特徴的である。そして、民間信仰は地域性が非常に高いものといえるため、この信仰心が造形となって現れる石造物を深堀し調査することで、当時の庶民の生活や信仰を見出すことができると考えた。そこで、本章では高遠地域に残る石造物数や造立年代、どのような石造物が造られているのか調査を行い、そこから石造物がもつ特徴や意味を明らかにする。そして、今に残る石造物が現代とどんな繋がりがあり、どのような影響を与えているのか考察する。
1. 高遠地域に現存する石造物の種類と数
「高遠石仏 付 石造物」の石仏調査一覧表を参考に、庚申塔、甲子塔、道祖神、月待塔、石塔、仏像(如来、菩薩、明王、天部)の形態分類ごとにデータを整理し、種類、造立数、造立年代を調査した。結果は表3-1の通りである。
1974年11月に行われた石仏調査によると、高遠町で確認された石造物数は2229基、未確認であるもの加えると2500基以上にわたるほどの膨大な数が造立されている。この中には、仏像や庚申塔、道祖神、月待塔、石塔、仏足石、石灯籠など様々な石造物が造立されていた。
石造物を種類ごとに数を集計すると、上位トップ3は仏像、庚申塔、道祖神であることが分かった。また、仏像(如来、菩薩、明王、天部)の中でも菩薩が812基と最も多いことが分かった。
ここからさらに、菩薩を「観音菩薩」「地蔵菩薩」「その他の菩薩」に細分化し、数を集計すると、特に馬頭観音と地蔵菩薩が多いことが分かった。
菩薩の分類結果は表3-2、表3-3、表3-4の通りである。
高遠地域に現存する石造物の造立年代は、全体的に見ると江戸時代から昭和までと長期にわたって石造物が造られており、特に江戸時代に造立が活発化していた。また、最も古いものは江戸初期の寛永(1624年~)に造立されており、400年近くの年月を経ても現代まで残されている。
また、表を見ると石造物の造立が活発化したのが江戸時代からということが考えられるが、高遠の良質な石材採れる地形と石工業の給料の良さから考えると、江戸時代以前から高遠石工は活動しており石造物の造立は始まっていたのではないかと推測する。
2. 高遠石工が造立した石造物
高遠地域に現存する石造物は、石仏、石神、石塔、石灯籠など多種多様で、造立数も非常に多かったことが分かった。本節では、高遠石工たちが造った石造物とその特徴について説明する。
また、造立数が多かった菩薩、庚申塔、道祖神、月待塔の4つについては、第3節で詳しく取り上げる。
(1) 仏像(如来、菩薩、明王、天部)
石で造られた仏像のことで、仏教で信仰される釈迦の姿、仏の姿をうつしたものである。各地域で様々な場所に安置されており、日常生活でよく見かける石造物である。如来、菩薩、明王、天部に分類され、それぞれの種類が細分化されている。外見や持ち物など特徴も異なり、4つの仏には階層がある(図3-1)。
「如来」とは、真理に目覚め、悟りを開いた仏のこと。外見は、一般的に装身具類をつけず、薄い衣一枚をまとい、螺髪という渦巻いた髪型をしている。如来の中には、人々を苦しみから救う「釈迦如来」、あの世の平和を取り戻す「阿弥陀如来」、宇宙全体を統一する「大日如来」、病苦を取り除く「薬師如来」などが存在している。この如来は。高遠地域に5体存在していた。
「菩薩」とは、悟りを求め、如来になるために修行をしている者のこと。菩薩は、如来のすぐ下の位にあり、如来の意思に従って様々な姿に変身をするため、観音菩薩や地蔵菩薩など多くの種類がある。
観音菩薩は、観音様で親しまれ、多くの人を救うために三十三種類の姿に変身すると言い伝えられている。聖観音菩薩が基本的な観音様の姿であり、ここから様々な観音菩薩が派生していった(図3-2)。
また、如意輪観音、准胝観音、十一面観音、馬頭観音、千手観音、聖観音の6種の観音菩薩のことを六観音と呼び、六道で苦しむ者たちを救済する。仏教では、死んだ後も、別の生命に生まれ変わるという輪廻転生の思想が基本になっており、この死後に生まれ変わる6つの世界のことを六道という。六道それぞれに担当の観音様がいるため、観音菩薩は、たとえどんな世界に生まれ変わっても救済の道があることを教えてくれる存在であるといわれている。
地蔵菩薩は、お地蔵様として親しまれ、あらゆる人を救済すると言われている。外見は、きらびやかな装飾品をつけ、髪を結い上げた中世的な姿をしている。座像や立像などの形態があるが、救いを求める人をすぐ助けられるように基本的に立ち姿で表していることが多い。
これらの菩薩は、高遠地域では、十一面観音(図3-3)、千手観音(図3-4)、准胝観音(図3-5)、如意輪観音(図3-6)、不空羂索(ふくうけんさく)観音(かんのん)(図3-7)、聖観音(図3-8)、馬頭観音、地蔵菩薩の8種類が特に多く見られた。
「明王」は、修行するものを煩悩から守る仏のこと。悪を懲らしめ、仏の教えに従わない者たちを正しく導く。そのため、外見は背中に炎を背負い、右手には剣を、左手には縄を持ち、憤怒の形相をしている。明王の中には、「不動明王」「愛染明王」「孔雀明王」「馬頭明王」があるが、高遠では不動明王が25体と最も多く現存していた(図3-9)。
「天部」とは、仏法と仏教世界の守護の役割を担う。もともと、仏教成立以前に民間信仰されていたバラモン教やヒンズー教などの神々が仏教に帰依したものである。外見は、官服を着た貴婦人や、鎧を纏った武将姿、鬼の姿など表現が多彩である。高遠地域では弁財天、大黒天など29体残っている。
(2) 石塔(無宝塔・宝篋印塔・五輪塔・笠塔婆・石幢)
石塔とは、お釈迦様の遺骨である仏舎利を安置するための仏塔のことであり、供養塔を指す。また、後々人々のお墓としても造られるようになったため墓石のことも指す。石塔は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)(図3-10)、多重塔(図3-11)、無縫塔、五輪塔、笠塔婆、石幢(せきどう)と呼ばれるものがあり、形も大きさも異なる。神社仏閣、墓地に安置されていることが多い。その中でも、宝篋印塔などは高い石工技術が必要なため高価であり、身分の高い人々の間でしか使われていなかった。
(3) その他(仏足石・石灯籠・石垣・御神使・記念碑)
石仏、石塔、庚申塔、道祖神の他には、仏がその場所にいることを示す印として釈迦の足裏の形を刻んだ仏足石や、石灯籠、石垣、御神使、道しるべ、性神、石積みなど多種多様な石造物があった(図3-12)(図3-13)(図3-14)。
3. 石造物からみる民間信仰と現代との繋がり
本節では、造立数の多かった菩薩、庚申塔、道祖神、月待塔の4つの石造物がもつ特徴や意味を明らかにし、今に残る石造物が現代とどんな繋がりがあって、どのような影響を与えているのかを見出す。
(1) 菩薩からみる民間信仰
石造物数調査において、仏像数が871基であり、その中でも菩薩が812基と最も数が多いことが分かった。さらに、菩薩の中でどの種類が多いか調査すると、馬頭観音(614基)と地蔵菩薩(97基)の2つが特に多く高遠地域に造立されていた。そこで、菩薩の中でも造立数が多かった馬頭観音と地蔵菩薩に焦点を当て、詳しく取り上げる。
「馬頭観音」とは、馬の安全息災を祈り、死馬の供養のために建てられたものである。六観音の一つに数えられ、畜生道に迷う人々を救済する。
当時、馬は農耕や輸送などで重要な働きをしたため、人々は馬を大切にし、馬の無病息災を祈る信仰が生まれた。そして、馬とともに道中の安全を祈り、道端で力尽きた馬を供養するために祀られるようになっていったという。
像容は、頭上には馬の頭をのせ、三面六臂や四面六臂など顔と手が複数ある仏像や(図3-15)、馬頭観音の墓碑(図3-16)、文字塔(図3-17)、供養塔、記念碑、など様々な形態があった。また、観音菩薩の中では唯一、憤怒の形相をしていて、この怒りが強ければ強いほど馬頭観音の人を救う力が大きく、馬が濁り水を飲みつくし雑草を食べ尽くすことから人々の悩みや苦しみを食べ尽くすと言われている。
この馬頭観音が高遠地区で614基と最も多い理由として、江戸時代から昭和初期にかけて軍馬や農耕馬として使用し、物資の運搬に馬が最も大きな働きをしていたからであると考える。武士や農家など、多くの人々にとって馬は生活の一部になっているため、病気や事故などで死んでしまった愛馬を供養することが増加していったのではないか。
「地蔵菩薩」とは、お釈迦様が亡くなった後、弥勒菩薩が次の仏になるまでの間、釈迦に代わってあらゆる人を地獄の苦しみや悩みから救う菩薩のこと。日本では、平安時代以降から、地獄を恐れる風潮が強まり、地蔵菩薩への信仰が江戸時代から庶民にも広がっていった。地蔵菩薩が6体並んだ六地蔵がある理由も、お地蔵様が六道をめぐりながら人々の身代わりになり苦しみを背負ってくれるという信仰があったからである。また、祈りに特別な決まりはなく、自分の願いを直接ぶつければ良いとされたことから宗派を超えて多くの人の信仰を集めていたのである。
地蔵菩薩はお地蔵さんとして親しまれ、寺院や道端、墓地などあらゆる場所に安置されており、民衆の目に留まりやすい場所に安置されている。その身近さから、最も周知され親しまれている仏像であると感じる。地蔵菩薩は、特に子どもを守る仏として信仰されたため子育地蔵として親しまれるものが多い。日常生活で見かけるお地蔵さんは、赤い涎掛けや頭巾をしていることが多いが、この涎掛けなどをしている理由も、子どもが健やかに育つようにと願いが込められているからである(図3-18)。この子育地蔵の他にも、願掛け地蔵、身代わり地蔵、火防・盗難除けの役割を持つなど庶民の願いを聞き届ける仏として親しまれていた。このように地蔵菩薩には、様々なご利益があることが分かり、それぞれの地域の人々が地蔵菩薩への意味付けが異なっているのではないかと考える。
さらに、地蔵菩薩は広く親しまれ、信仰されてきた対象であるからこそ、様々な迷信や俗信も生まれてきたと考えられる。その一例として、笠地蔵や地蔵浄土などの昔話がある。笠地蔵は、大みそかの日、優しいお爺さんが六地蔵の頭に笠をかぶせると、夜中に米や宝物を運んできてくれるというお話である。また、地蔵浄土は、正直なお爺さんがお地蔵さんに助けられ、鬼から宝物を奪うお話である。このように、地蔵菩薩は昔話の中では、困っている人を助けたり、教訓を語ったりする存在として登場している。このことから、昔話は日本における信仰や暮らしを物語り、民話として現代まで語り継げられてきたこと分かる。
また、地蔵菩薩の信仰は現代においても続いており、地域ごとに独自の行事や祭りが行われている。例えば、8月に近畿、北陸地方で行われる地蔵盆では、地蔵菩薩の元に集まって像を綺麗にしたり、お菓子をお供えして地蔵菩薩に感謝を捧げる行事が子どもたちを中心にして行われている。江戸時代、地蔵菩薩に祈りを捧げていたように、現代でも地蔵菩薩は大事にされ、地域の人々の生活と深く関わりがあるということが分かった。そして、これらの行事や信仰が、江戸時代の信仰性と今の日本文化との繋がりを感じさせる。
(2) 庚申塔からみる民間信仰
庚申(こうしん)とは、干支(十干、十二支)にあてはめた言葉で、十干と十二支を組み合わせる暦の十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)が合わさる日または年のことをいい、60日あるいは60年ごとに巡って来る日のことである。昔の暦の干支は、60日、60年で一回りする仕組みになっており、この庚申(かえのさる)の年は人心が冷めて災いが起こると言われていたため、この災いを避けるために、60年に一回めぐって来る庚申の年には、村に悪疫や災厄を入り込ませないように庚申塔を建て祈願していたのである。またこの庚申塔を建てる理由として、村の安全を祈るだけでなく、ご利益や記念も目的としていた。
庚申(こうしん)はかえのさるの晩に行った民間信仰で、この信仰の由来は、中国の三大宗教の1つである道教の三尸(さんし)説によるものである。庚申信仰では、人間の体内には、三尸(さんし)と呼ばれる病を引き起こす三匹の虫がいて常にその人間の行いを見ていると考えられていた。三尸は、人が死ぬことで自由になることができるため、人を欲深くさせ悪事を働かせ、寿命を縮めようと隙を狙う。だが、普段は体内から出ることはできず、庚申の日、眠っている時にだけ出ることができた。そのため、庚申の夜に人が寝静まった時、人間の体内から抜け出して閻魔大王のもとへ行き、その人の悪事を告げることで、それを聞いた閻魔大王が、その人間の寿命を縮め、命を奪うと言われていた。そのため、庚申の夜は眠らずに夜を明かす庚申待という習わしが生まれ、庶民の間で庚申講と呼ばれる集まりをつくり、会場を決めて庚申待をする風習が広まっていったという。そのため高遠地域に現存する庚申塔は、公民館や神社仏閣、道端など人が集まる場所に多く、町を見渡せばどこにでもある石造物であった。
像容は、庚申の文字が刻まれたもの(図3-19)と、青面金剛・太陽と月・2匹の鳥と3匹の猿が刻まれているもの(図3-20)がある。文字が刻まれたものは、文字の書体や、石の大きさも異なっている。
青面金剛の像に日月、鳥と猿が彫られたものは、庚申塔の基本形である。高遠地域に残る最古の青面金剛・日月・鳥と猿の庚申塔には、延宝の文字が刻まれているため、庚申塔の造立と庚申信仰は江戸初期から始まっていたのではないかと考える。
(3) 道祖神からみる民間信仰
道祖神とは、厄災や疫病が村へ入るのを防ぐ村の守り神である。五穀豊穣や旅人の安全を祈るなど道祖神によって祈りは様々である。村の守り神とされていたため、村境、村の中心部、三叉路、道端などに立っている場合が多い。
また、道祖神は地域ごとに呼び方も様々で、「どうそじん」の他に、障(さえ)の神、塞(さい)の神、道(どう)陸(ろく)神(じん)、だうそじん、などがある。また、塞の神が訛ると「せいのかみ」になるため、性との深い結びつきがあり、子孫繁栄のために建てられたともいわれている。道祖神の像容は、大きく分けて2つある。
1つは、道祖神の文字を刻んだ文字碑型のものである。この道祖神の文字は、楷書や草書、篆書などの様々な書体で彫り込まれており、ひとつとして同じものはなかった(図3-21)(図3-22)。また、高遠塩供地区には全国的に見ても珍しい、装飾的な花文字道祖神が存在していたことが分かった(図3-23)。
2つ目は、双体道祖神である。双体道祖神は、仲睦まじい男女の姿が浮き彫りされている(図3-23)。男女が遠慮がちに寄り添って立つもの、手を握るもの、抱きしめあうなどその姿態はさまざまであるが、高遠地域では、向かって右側に男神、左側に女神が彫られ、お互いに握手している像が多かった。このことから、夫婦仲が良ければ子どもも生まれて、村の繁栄にも繋がるという意味を指し、人々の繁栄を祈るために造立され始めたのではないかと考えられる。
道祖神は呼び方や形態もひとつひとつ異なり独創性がある。さらに、様々なご利益を願われ造立されていた。道祖神は、呼び方によって形や意味が変わるという訳ではなく、神社やお寺の神像や仏像と違い決まった様式はないため、村の人々が石工に自由に注文をつけて造ってもらっていたといわれている。
このように、道祖神が建てられた意味や呼び方、像容を見ると、当時の地域性が最も現れる石造物が道祖神であると考える。
さらに、道祖神と関連する行事として「どんど焼き」が挙げられる。これは長野県各地で行われる行事で、道祖神のための祭りであり、お正月の松飾りを集めて焚き上げ、厄落としを行う。このような、行事を通じて、道祖神は地域の信仰と行事に関わりがあることが伺える。
(4) 月待塔からみる民間信仰
月待とは、特定の月齢の日の夜に人々が寄り合い、神仏に祈りを捧げ、仲間とともに飲食をしながら月の出を待つ行事のことで、月が出るとありがたく拝んだり、悪霊を祓うという意味合いを持っていたが、昔の人の月の満ち欠けへの恐れから生まれた行事とも言われている。この月待を行った人々が供養のしるしに造立したのが月待塔である。月待塔は、二十二夜や二十三夜、二十六夜など、〇〇夜と刻まれている(図3-24)(図3-25)。高遠地域では、その中でも特に二十二夜塔と二十三夜塔の数が多く残されていた。
十九夜と二十二夜には如意輪観音菩薩、二十三夜は勢至菩薩、二十六夜は愛染明王のようにそれぞれの月夜には特定の神仏が結び付けられている。
例えば、高遠地域に多く現存していた二十二夜に結び付けられる神仏は、如意輪観音であり、この如意輪観音は女性の守り仏と考えられていたため、女性だけの月待行事も行われていたとされている。この女性限定の月待を現代風に言い換えてみると、真夜中まで月を待つ女子会のようなもので、仲間の家やお堂に集まり、おしゃべりをしながら食べ、飲み、月の出を待ってそれぞれの願いを月に託す場面が浮かび上がる。このように、月を眺めながら仲間と語らい、お互いの絆や親交を深めていた当時の人々の姿は、現代の私達の日常とさほど変わりはなく、共通しているように思える。こういった人間の本質的なものは時代を経ても変化しないのだなと感じる。
月待の信仰は今ではほとんど見られないが、現代では全国で中秋の名月にお月見イベントなどが開催され、月に関する行事も多い。このように、江戸時代から主流になっていった月待の民間信仰は、現代の日本文化にも通ずるものがあることが分かった。月に惹きつけられた人が集い、人と人とが結びつけられている様子は今も昔も同じである。
第4章 デジタルアーカイブする意義とは
本章では、第1章から第3章までの内容で分かったことから、石造物をデジタルアーカイブする必要性について考察する。石造物のデジタルアーカイブを行うべき理由は主に3つあると考える。
1つ目は、未来への遺産の継承である。
第1章より、高遠地域に現存する石造物は、自然の中に安置されているため、災害や経年劣化による喪失や損傷はなかなか避けることができない状態にあることが分かった。このように物理的な保存が難しい場合でも、デジタル化して保存することにより、今ある本来の姿のまま永続的に保存できるため、アーカイブ化を進めていくことが重要であると考える。
2つ目は、歴史と信仰の保存である。
第2章・第3章より、江戸時代は、飢饉や天然痘などの災害や疫病に人々が苦しめられた時代であったため、石造物は当時の人々の拠り所となり、守り神として建立されていたことが分かった。石造物は、仏像や道祖神、庚申塔など多くの種類が造立されており、どの石造物にいたっても人々の祈りの対象となっていた。そのため、今に残る石造物は、地域の人々の篤い信仰によって建てられたということが分かり、何百年前の人々の生活や民間信仰、時代性を反映し、歴史の変遷を知ることができる貴重な遺産であると感じる。だからこそ、高遠の歴史を物語る石造物をアーカイブすることで、歴史と文化の理解をさらに深め、歴史的・文化的価値を高められるのではないかと考える。そして、インターネットやデジタルメディアを通じて、高遠石工遺産をデジタル資料として提供することで、多くの人々が高遠石工を知る1つのきっかけとなり、高遠石工に興味関心を抱いてもらうことで、観光資源としてもさらに活用できるようになり、地域の活性化に繋がるのではないかと考える。
3つ目は、教育への活用である。
上に記したように、石造物は人々の生活を反映しているため非常に地域性が高い遺産であるといえる。また、地蔵菩薩や道祖神など石造物が関連した行事やお祭りが各地で行われていることが分かり、神仏に祈りや願いを捧げる信仰は、現代の私達の日常生活や文化の中で引き継がれていると感じた。だからこそ、石造物デジタルアーカイブを通じて、日本文化に対する学びをより深めるとともに、地元の歴史や文化に誇りを持たせ、地元への愛着や関心を高められるのではないかと考える。
第5章 高遠石工 石造物デジタルアーカイブ
1. デジタルアーカイブの対象と撮影方法
(1) デジタルアーカイブの対象
「高遠石工 石造物デジタルアーカイブ」では、主に、長野県伊那市高遠町に現存する石造物の撮影を行う。石造物は、仏像、石塔、道祖神、庚申塔などを含む。上伊那地域に現存する、高遠石工の中でも高い技術を持ったといわれる守屋貞治の石仏も撮影対象とする。加えて、高遠町歴史博物館の所蔵品と高遠石工研究センターの方や学芸員による高遠石工に関する講座の動画撮影を行った。
撮影場所は、「高遠石仏探訪マップ」「伊那市高遠町・長谷周辺の石造物探訪マップ」「高遠の石仏 付 石造物」から選定した。また、撮影場所までの道中で発見した石造物も撮影した。撮影は19ヶ所で行い、約300基以上の石造物の資料を収集した。(2023年12月21日時点)
以下の表5-1、は、石造物の撮影場所、撮影した石造物の種類、数をまとめたものである。
(2) 撮影方法
対象とする石造物を前後左右の4方向から静止画で撮影を行う。格子に囲まれているものや、崖や川付近など近づくことができない場合は、前方のみ撮影を行う。一眼レフカメラを使用する。特に仏像については、碑文、台座、持物、印相、表情をクローズアップして、1体1体の特徴や魅力が伝わるように撮影を行った。
また、高遠石工に関する講座については、高遠町歴史博物館が主催する第27回歴博講座を対象として動画撮影を実施した(図5-1)。講座内容は、伊那市誌編さん委員、駒ケ根市立博物館専門委員の北澤夏樹氏による「地形・地質からみた長谷・高遠地域」と、高遠石工研究センターの熊谷友幸氏による「深まる高遠石工の世界―貞治仏調査結果から―」の2講座である。
2.Webページの作成
本学のデジタルアーカイブ研究所が運営している、「地域資源デジタルアーカイブ」にて、収集したデータをもとにwebページを作成する(図5-2)。このWebページは、下のQRコードから閲覧できる(図5-3)。
Webページは、撮影場所ごとにページを作成する。ページは、タイトル、サムネイル画像、概要(歴史、石造物の特徴や説明など)、収集した石造物の画像、所在地を知らせるためのマップで構成されている(図5-4)。石造物の画像は、横移動させて画像を切り替えて閲覧することができるようになっている。
第6章 結 言
本研究では、地域文化遺産の保存と普及を目的とした高遠石工の石造物のアーカイブ化を行うとともに、高遠石工の歴史と当時の石造物に対する人々の信仰心から、今に残る石造文化財の価値を明確にし、石造物デジタルアーカイブを行うことの意義について考察をした。
石造物造立が活発化した江戸時代は、天災や病に苦しめられた時代であった。そのため、人々は生命を脅かすものに対抗するため、神仏への信仰が一般化し、石造物を通じて無病息災などを祈り、守り神として人々に希望と安心をもたらしていた。これらの石造物は、造立当時の人々の生活や信仰心、時代性を反映しており、高遠地域で今なお数多く残されていた。そして、江戸時代から強まっていった信仰心や民間信仰は、今の私たちの生活や文化、行事にも受け継がれていることが分かった。そのため、高遠石工の活動跡として残る石造物は、歴史的・文化的価値を有し、高遠地域そのものの価値を高める遺産であるといえるため、後世に繋げていくためにデジタルアーカイブを行うべきである。
また、撮影中には地域住民の方から声をかけていただき、貴重なお話を伺うことができた。その際、高遠石工の存在やその石造物が今でも大事にされ続けていることを痛感した。このような地域住民の遺産に対する愛着や関与があるからこそ、私達がその意思を受け継ぎ、地域の文化遺産を残していくことが地域貢献に繋がるのではないかと感じた。
そして今回、デジタルアーカイブに取り組むうえで、もっと撮影場所の下調べを入念に行うべきであったことが一番の反省点であった。撮影場所の選定は、石仏探訪マップや文献から行ったが、そこには地区名や所在を示した大まかな地図の情報しかなかったため、実際に行ってみると目的地にたどり着くまでに相当な時間がかかってしまった。特に自然の中に安置され管理があまり行き届いていない石造物については、Googleマップ等の検索エンジンを用いてもマップ上に掲載されておらず、場所を特定することができなかった。そのため、専門的に研究に従事している高遠石工研究センターなどの機関に確認を取り、石造物がどこにあるのか、周囲に目印とするものはあるのか等を聞き、場所を明確にしておくべきだった。アーカイブ化を行ううえで、石造物は自然に溶け込んでいるため、建造物とは違い発見しにくい。そのため、意識を巡らせながら町を探索することも大切だと感じた。また、道中が険しい場所もあり、車でのアクセスが困難で徒歩での移動も多く、目的地までたどり着けずに撮影を断念した場所もいくつかあり資料収集に苦労した。そのため、デジタルアーカイブ化を行う際には、知識や技術だけでなく、根気と体力も不可欠であると感じた。
本研究を通じて、高遠石工について探求し、石造物を目指し高遠を巡ることで、故郷の見え方が大きく変わった。自分が生まれ育った地域こそ、価値ある遺産や風景が当たり前すぎて見過ごしてしまっていたことに気づき、その価値を再確認することができた。だからこそ、遺産を記録し、多くの人にその魅力を伝えていくことが重要であると考える。
今回、約300基の石造物をアーカイブしたが、まだまだアーカイブ化するべき石造文化財が沢山ある。高遠石工遺産を保存し後世に残していくこと、高遠地域の発展に繋げていくためにも、地域遺産にもっと興味関心を持ち、デジタルアーカイブする人材が増えていけば良いと考える。
参考文献
1) 松沢邦男.庚申塔と道祖神-見て、歩きの手引き-.ほおずき書籍, 2001, 166p
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7) 石川純一郎.地蔵の世界.時事通信社, 1995, 352p
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9) 木戸ひろし.再発見!高遠石工.ほおずき書籍, 2015, 235p
10) 石川純一郎.地蔵の世界.時事通信社, 1995, 352p
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13) 伊那市高遠町・長谷周辺の石造物マップ.
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14) 石仏探訪マップ
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15) 日本地図ジェネレーター.
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20) 伊那市公式ホームページ.“高遠石工:伊那市公式ホームページ”.
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21) 長野伊那谷観光局.“高遠石工のふるさと伊那谷”.
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22) 「日本で最も美しい村」連合.“長野県伊那市高遠町たかとお-「日本で最も美しい村」連合.https://utsukushii-mura.jp/map/takatoo/ (2023/12/26閲覧)
23) 伊那市観光協会.“おいでな伊那―一般社団法人伊那市観光協会公式サイト”.
https://inashi-kankoukyoukai.jp/ (2023/12/26閲覧)
24) 伊那市デジタルアーカイブ.https://adeac.jp/ina-city/top/ (2023/12/26閲覧)
25) 高遠石工と天才仏師 守屋貞治を追って.https://stone-c.net/report/8032 (2024/02/13 閲覧)
論文資料
建福寺
建福寺(けんぷくじ)は、長野県伊那市高遠町西高遠にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
伝承によれば文覚上人(1139年~1203年)が独鈷池付近に開創。 康元元年(1256年)蘭渓道隆(大覚禅師)が立ち寄り、鉾持山乾福興国禅寺(ほこじさんけんぷくこうこくぜんじ)を興した。 のち、武田信玄の帰依により、静岡市の臨済寺から東谷宗杲禅師を招いて中興開山とし、妙心寺派となった。 貞享2年(1685年)、喝道和尚中興、明和3年(1765年)3月24日類焼、安永4年(1775年)少山和尚がさらに中興するも、嘉永4年(1851年)正月19日焼失、安政3年(1856年)に再建した。
武田勝頼が高遠城主の時、武田家菩提所とし、母諏訪御料人を埋葬して乾福院殿という。 さらに次の藩主、保科氏も菩提寺とし、大寶山建福寺と改名。 寛永13年(1636年)保科正之が会津若松藩主となり、移封する際に、鉄舟和尚が供奉して会津にも建福寺 (会津若松市)を創建した。
建福寺の石仏群
本堂への階段へ上る石段の両側および境内には、江戸時代の高遠石工によって作られた45体の石仏がある。45体の石仏のうち、西国三十三観音が33体、延命地蔵1体、願王地蔵1体、六地蔵6体、不動明王1体、楊柳観音1体、法陀羅山地蔵1体、仏足石などがある。
桂泉院
現在は田中の里にあるが、最初は法憧院曲輪にあった。開山は月哺禅師で、正平8年(1353)に時の城主であった高遠太郎家親が月哺禅師の高徳を聞き、城の鎮護の寺としたと言われる。その後、文禄元年(1592)に上野国松井田の補陀寺の住僧であった荊室広林が来て、どんな人でも出入りができる城外に移すよう勧め、清い泉の湧き出る桂の木の傍にうつして、龍澤山桂泉院と称するようになった。
梵鐘は県宝であり、勘助桜、仁科盛信の位牌堂、武田信虎の墓が伝えらえれ、守屋貞治の石仏などがある。
美篶刈る信濃の国上伊那の郡その名も高遠の里なる、龍澤山桂泉院の由緒をたづねまいらするに、今を去ること云々。
九七代後村上天皇の代丹波の国曹洞宗永澤寺の名僧月浦和尚、正平八年(1353)高遠の地に遍歴して来る。城主は木曽義仲六世の孫木曽又太郎家村の嫡子高遠太郎家親、和尚の高徳を聞き、城内に宝冠釈迦如来を安置し高遠城鎮護の寺とし、法瞳院と称す。開山月浦和尚、開基高遠太郎家親なり。
正親町天皇の天正元年(1573)甲斐の国主武田信玄の五男仁科五郎盛信公城主となり、板町村沖の平に存す諏訪大神を信仰し城内に遷宮、法腫院の僧に大神のお祭りも行わせる。
天正十年(1582)織田勢の攻勢により、仁科五郎盛信公の霊を弔い、霊牌を同院に納め。蒼龍院殿源晴清公成嶽建功大居士と血脈を誼号す。後陽成天皇の文禄元年(1592)二月二十九日群馬県松井田の大泉山補陀寺の十二世荊室廣琳大和尚高遠の地に来て法幡院に住す。その時の城主は内藤修理亮昌月で内藤修理信豊の子で和尚とは兄弟なり。これより大泉山補陀寺の末寺となる。
和尚の徳を仰ぎ、近隣の人々集まりしも城内にて誰でも白由に出入りできず、法化もできないので板町村龍ケ澤に庵を設けて住す。ある夜年たけたる翁ありて、戒法を授けてくださるように請い奉る、そこで「百丈野狐」の戒法を授けたところ、翁忽ち白龍となり桂ケ池のほとりに現れて、法施に清らかな泉を出しましょうと、高遠三泉の一「桂井の水」が湧きでて現在にいたる。和尚の高徳を聞き、城主昌月公村民とともに法腫院の堂宇を龍ケ澤に移し、その所の名をとりて、龍澤山桂泉院と命名す。
慶長五年(1600)三月二十九日である。中興開基内藤修理昌月。中興開山荊室廣琳大和尚。その後歴代の高遠城主に信仰され、十一月二十五日を開山忌とした。城主が参拝に来られるので、庫裡の書院の間を一段と高くし、高遠八ケ寺の一となり、高遠城鎮護の寺となる。内藤駿河守頼寧公より田地を与えられた。伊那市美篶洞泉寺・長谷村非持正随寺を末寺とす。
【高大連携公開講座】総合的な探究の時間【伊那西高等学校】
目 的
総合的な探究の時間として、伊那市の歴史を学び、伊那市の良さを実感し、それらをデジタルアーカイブすることにより、伊那市文化資源を再発見する。また、伊那市の地域課題を RESAS(地域経済分析システム)で調査し、
エビデンスを元に地域課題を分析し、これらの地域課題を解決する方法を探り、そのためにデジタルアーカイブを活用しシティプロモーションビデオを新たに創造する。
デジタルアーカイブとは
① 文化はどのように記録するの
② 地域文化とデジタルアーカイブ
③ 沖縄おうらい
e-Learning講座
第1講 デジタルアーカイブの基礎
1.目 的
デジタルアーカイブは、「デジタル」と「アーカイブ」という言葉からできた和製英語と言われています。デジタルアーカイブとは何か? デジタルアーキビストに必要な能力は何か?ここでは、言葉の意味と発展の歴史から、基本的な考え方を理解し、今後のデジタルアーカイブの方向性を考えます。
2.学習到達目標
① デジタルアーカイブとは何か説明できる。
② デジタルアーカイブがどのように発展してきたかについて具体例をあげ説明できる。
③ デジタルアーキビストに求められている能力について具体的に説明できる。
3.課 題
① デジタルアーカイブとは何か自身の立場で説明しなさい。
② デジタルアーカイブがどのように発展してきたか説明しなさい。
③ デジタルアーキビストに求められている能力は何か自身の立場で説明しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブの基礎
5.動画資料
第2講 デジタルアーカイブ開発と活用プロセス
1.目 的
デジタルアーカイブの利用は、資料の提示や提供から始まり、課題解決、知的創造等の処理へと進みます。またデジタルアーカイブを活用し、新しい「知」の創造を求め、さらに新しい「知」と人々の経験を付加し、新たな知的活動へと発展します。ここでは、デジタルアーカイブの開発と活用プロセスについて考えます。
2.学習到達目標
①デジタルアーカイブの活用について具体例を挙げて説明できる
②資料の選定評価について説明できる。
③デジタルアーカイブのプロセスや記録方法について説明できる。
3.課 題
①デジタルアーカイブの活用について具体例を挙げて説明してください。
②資料の選定評価の課題について説明してください。
③デジタルアーカイブのプロセスや記録方法について説明してください。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブ開発と活用プロセス
5.動画資料
第3講 デジタルアーカイブの評価とメタデータ
1.目 的
デジタルアーカイブは、対象とする資料(情報資源)の分野も多岐にわたり、プロジェクト規模なども異なるため、それぞれにあわせた評価手法が求められます。そこで、本講では、デジタルアーカイブの自己点検ツールとして考案された「デジタルアーカイブアセスメントツール」の内容を把握し、その評価項目の中でも重視されているメタデータについて、記述のための国際標準、国際指針として制定されている事例から学びます。
2.学習到達目標
① 「デジタルアーカイブアセスメントツール」の内容について説明できる。
② 記述のための国際標準、国際指針などの事例について説明できる。
③ 資料(情報資源)のメタデータ記述ができる。
3.課 題
① 「デジタルアーカイブアセスメントツール」の評価項目の内、あなたが重要だと思う項目について、なぜそう思うかを含めて説明してください。
② 具体的に何か資料(情報資源)を一つ取り上げ、その資料のメタデータ記述項目を設定した上で実際の記述を行ってください。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブの評価とメタデータ
5.動画資料
第4講 デジタルアーカイブの利活用
1.目 的
デジタルアーカイブは、1990年代の初期から、過去から現在の資料をデジタル化し、次の世代への伝承と現状での利活用を目指して開発が進められてきた。デジタルアーカイブの基本は、過去~現在の資料の収集・保管、デジタル化、さらに現状での利活用と次の世代への伝承である。
過去~現在の各種資料を収集・保管し、次のように使われる。
①次世代へのデジタルコンテンツの確かな伝承
②国内外のデジタルコンテンツの流通と利活用
ここでは、図書館や博物館等におけるデジタルアーカイブの利活用について考える。
2.学習到達目標
① 図書館におけるデジタルアーカイブの実践例を具体的に説明できる。
② 博物館におけるデジタルアーカイブの実践例を具体的に説明できる。
③ デジタルアーカイブの共通利用について説明できる。
3.課 題
① 図書館におけるデジタルアーカイブの実践例を具体的に説明しなさい。
② 博物館におけるデジタルアーカイブの実践例を具体的に説明しなさい。
③ デジタルアーカイブの共通利用について説明しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブの利活用
5.動画資料
第5講 デジタルアーカイブによる地域活性化
1.目 的
知識基盤社会においてデジタルアーカイブを有効的に活用し,新たな知を創造するという本学独自の「知の増殖型サイクル」の手法により,地域課題に実践的な解決方法を確立するために,地域に開かれた地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成をする。このことにより,地域課題に主体的に取り組む人材を養成する大学として,伝統文化産業の振興と新たな観光資源の発掘並びにデジタルアーカイブ研究による地方創成イノベーションの創出について具体的に考える。
2.学習到達目標
① デジタルアーカイブと地域課題解決について説明できる。
② 地方創成イノベーションの創出について具体的に説明できる。
3.課 題
① 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブにより,地域の文化産業を振興するための方策を3つ挙げて説明しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブによる地域活性化
5.動画資料
※本映像は本学の学部の授業(情報の管理と流通)の内容の一部を利用して提供しています。
6.テキスト資料
デジタルアーカイブによる地域活性化
第6講 デジタルアーカイブと知的財産権(1)
1.目 的
デジタルアーキビストとして、アーカイブを計画し、そして資料収集し、そして構築し、そして利用許諾し、また運用していくという、こういったときに必要な権利処理について説明する。
2.学習到達目標
① デジタルアーキビストに著作権処理の能力が必要であることについて具体的に説明ができる。
② 著作者の権利について具体的に説明できる。
③ 著作権の契約書を作成できる。
3.課 題
① デジタルアーキビストに著作権処理の能力が必要であることについて具体的に説明しなさい。
② 著作者の権利について具体的に説明しなさい。
③ 著作権の契約書を作成しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブと知的財産権(1)
第7講 デジタルアーカイブと知的財産権(2)
1.目 的
著作権について、自分の立ち位置とは関係ない形で第三者的に実践の試みの良い部分と課題について理解を深め、基本的な理解を図った後に、実践の中から法律など制度的な課題について考えます
2.学習到達目標
① デジタルアーカイブの実践における著作権に関する課題について説明できる。
② 著作権のデジタルアーカイブの活用に関する課題について具体例を挙げて
説明できる。
3.課 題
1.デジタルアーカイブの実践における著作権に関する課題について説明しなさい。
2.著作権のデジタルアーカイブの活用に関する課題について具体例を挙げて説明しなさい。
4.プレゼン資料
→ デジタルアーカイブと知的財産権(2)
5.動画資料
6.テキスト
【テキスト】デジタルアーカイブ概論
7.資料
① 文化資料はどのように管理流通するの?
② 文化はどのように記録するの
③ 地域文化とデジタルアーカイブ
④ 情報の発信と伝達
⑤ 個人情報の保護と知的財産権
⑥ 【参考文献】デジタルアーキビスト入門:デジタルアーカイブの基礎 岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所 | 2019/5/16
⑦ 【参考文献】地域文化とデジタルアーカイブ 岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所 | 2019/5/16
8.動画資料
第8講 文化(対象)の理解
1.伊那市の文化を探り、伊那市の文化について理解する。
【目的】
・伊那市の地域文化のビデオを視聴し、伊那市の文化を分析する。
・伊那の地域の再発見
【講演】伊那の歴史をデジタルアーカイブする
【講師】高遠町歴史博物館館長 塚田博之先生
資料
2.伊那市文化遺産デジタルアーカイブ
② 建福寺
③ 桂泉院
⑤ 深妙寺
⑥ 小出城跡
3.動画資料
4.資料
① 伊那市の文化遺産
② 【研究】デジタルアーカイブにおける地域文化遺産の伝承に関する研究 ~高遠石工のデジタルアーカイブ~
第9講 伊那市の地域の課題から地域課題の解決方法を探る
1. RESAS の使い方説明
2. RESAS による地域の課題を抽出
3. 地域の課題の解決方法を探る
4.伊那市のプロモーションビデオのコンセプトの企画
5.資料
① RESAS(地域経済分析システム)
② 総合的な探究の時間(例)
③ 伊那市活性化プロジェクト(PPT)・・・ダウンロードして活用してください。
④ 伊那市活性化プロジェクト(PDF)
6.動画資料
第10講 プロモーションビデオ制作
学校の施設をデジタルアーカイブして学校
紹介プロモーションビデオを制作してみよう。
第11講 シティプロモーションビデオの企画
1. シティプロモーションビデオとは
2. 絵コンテ・構成表の制作
3.制作計画の作成
4.資料
① 伊那市活性化プロジェクト
第12講 シティプロモーションビデオの制作
(例)【講義】企業とデジタルアーカイブ
第12講 シティプロモーションビデオを発表してみよう
① 審査票(Excel)
第13講 シティプロモーションビデオの評価・改善
資料
① 高・大生のための利活用入門テキスト①
② 高・大生のための利活用入門テキスト②
報道
第14講 シティプロモーションビデオ作品(2023年度)
第15講 発展講座
■ ジャパンサーチとデジタルアーカイブ活用基盤
国立情報学研究所名誉教授 高野明彦氏
➝ プレゼン資料:ジャパンサーチとデジタルアーカイブ活用基盤
■ 世界のデジタルアーカイブの発展とその活用
東京大学大学院情報学環 時実象一氏
➝ プレゼン資料:世界のデジタルアーカイブの発展とその活用
■ デジタルアーカイブと法制度の現在地点
骨董通り法律事務所パートナー弁護士 福井健策氏
➝ プレゼン資料:デジタルアーカイブと法制度の現在地点
伊那西高校と郡上北高校のオンライン接続による発表会
日 時:2024年1月29日(月)
伊那西高校1時限目~3時限目実施
(①9:25~10:15 ②10:25~11:15 ③11:25~12:15)
※特別時間のため、休憩時間等はフレキシブルに対応可
【伊那西高校】・・・7グループ 【郡上北高校】・・・4グループ
各グループ 準備1分 説明1分 動画3~4分 評価用紙記入3分
→ 10分回しで設定
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1月29日(月)日程(案)
9:25~ 接続確認
9:50~ 開会の辞(伊那西高等学校)
10:00~ 伊那西高校発表①
10:10~ 伊那西高校発表②
10:20~ 伊那西高校発表③
10:30~ 各校代表挨拶
10:40~ 郡上北高校発表①
10:50~ 郡上北高校発表②
11:00~ 郡上北高校発表③
11:10~ 郡上北高校発表④
11:20~ 伊那西高校発表④
11:30~ 伊那西高校発表⑤
11:40~ 伊那西高校発表⑥
11:50~ 伊那西高校発表⑦
12:00~ まとめ・講評
12:10~ 閉会の辞(郡上北高等学校)
伊那西高校と郡上北高校のオンライン接続による発表会
時刻: 2024年1月29日 09:00 AM 大阪、札幌、東京
参加 Zoom ミーティング
https://us02web.zoom.us/j/85786605327?pwd=ZVFUalUyaG1WdVNtY1R4cFlCdkprQT09
ミーティング ID: 857 8660 5327
パスコードを設定する: 863467
評価用紙
R5年度 伊那西高校と郡上北高校のオンライン接続による発表会 評価用紙
令和5年度 伊那市シティプロモーション作品
高遠城址公園
武田信玄の五男仁科五郎盛信が織田信長の長男信忠と戦い、壮絶な死を遂げた高遠城は、明治4年(1871年)の廃藩置県で、城が取り壊され、明治8年(1875年)に公園となりました。高遠藩の旧藩士達が「桜の馬場」から桜を移植したことにより、今では全国でも有数の桜の名所となりました。本丸の老木はこの時植えられたもので、4月には、130年生以上の古木20本、50年生以上のもの500本などに若木を加えた約1,500本のタカトオコヒガンザクラが、淡紅色で小ぶりの花を枝いっぱいにつけます。
また、秋にはタカトオコヒガンザクラ独特のほとんど紅葉せずに落葉した公園に、およそ250本のカエデがきれいに色づき紅葉が楽しめます。
公園内には、国の登録有形文化財の指定を受けた高遠閣や城下から移築された問屋門、太鼓櫓、新城藤原神社のほか、高遠公園碑、無字の碑、靖国招魂碑などの碑文等、古きを偲ぶ歴史的資料がたくさんあります。
春の桜のほかに、夏の新緑、秋の紅葉など年間を通じて多くの観光客がこの城址公園を訪れています。
(伊那市役所 商工観光部 高遠商工観光課Webより引用)
①法幢院曲輪
笹曲輪は本丸の南に隣接する曲輪で、一段低い位置にあります。周囲に笹が多く生育していることから、この名前になったと言われています。
法幢院曲輪は、城内の南の端はしにある曲輪です。戦国時代、ここには「法幢院」というお寺がありました。高遠城の戦いの後も戦死者を弔とむらう法要ほうようが行われました。寺は文禄元年(1592)に城外へ移りましたが(現在の桂泉院)、その後も法幢院曲輪と呼ばれ続けました。
②問屋門(本丸跡)
現在本丸の入口にある門は、元々、城にあった門ではなく、高遠城下の本町の問屋役所にあった門です。昭和20年代、問屋役所の建物を取り壊す際、歴史ある門が高遠から失われることを惜おしんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて城跡に移築したものです。
現在では、手前の桜雲橋とともに、城跡には欠かすことができない景観シンボルとなっています。
③太鼓櫓(本丸跡)
明治時代に建てられた櫓で、時を告げる太鼓がおかれました。
江戸時代、時の太鼓は城内の搦手門の中にありましたが、明治に入り搦手門が取り壊されると、太鼓を置くための櫓が城の対岸の白山に建てられました。この太鼓櫓は明治10年(1877)頃に現在の位置に移され、昭和18年(1943)まで朝6時から夕方6時まで偶数時に太鼓が打ち鳴らされ、時を告げました。
④新城神社と藤原神社(本丸跡)
「新城神社」と「藤原神社」の2つの神社が1つの社の中に祀まつられています。新城神社の祭神は仁科五郎盛信で、藤原神社の祭神は高遠藩主内藤家の祖先にあたる藤原鎌足や代々の内藤家当主です。どちらも江戸時代から城内にあった神社ですが、明治12年(1879)に現在の場所にまとめて祀れるようになりました。
⑤高遠閣(二ノ丸跡)
昭和11年(1936)に高遠町出身の有志らの寄付で建てられました。
木造総2階建だて、入母屋造り、2階には200畳敷の大広間があります。昭和初期の大規模和風建築としては稀有建物であるとして、国の登録有形文化財になっています。遠くからもよく見える赤い屋根の建物は、城跡のランドマークとして親しまれています。
⑥伊那市立高遠町歴史博物館
高遠町歴史博物館は高遠湖畔にあり、原始時代から現代に至る高遠城と城下町高遠の歴史、文化、人物、民俗などをテーマごとにスポットをあてた展示構成になっています。
敷地内には、徳川6代将軍家宣の側室に仕えた大奥女中頭の「絵島」が、絵島生島事件で高遠に流刑とされ、61歳で生涯を閉じるまでの27年余を過ごした「絵島囲み屋敷」も復元されています。
また、開花期の高遠城址公園の映像や、展示解説の映像などを鑑賞することができる「桜シアター」も備えています。
⑦高遠石工
江戸時代、信州高遠は石工の里として全国的に知られていました。
石工(いしく)とは石材加工を行う職人のことで、石切(いしきり)とも呼ばれました。
高遠藩領内出身の石工は「高遠石工(たかとおいしく)」と呼ばれ、優れた腕を持っていました。彼らは全国各地に出向き、出張先で石仏や石塔、石橋、鳥居、石垣など様々な石造物を造りました。
高遠石工が生まれた背景
古来より、人々は自然の猛威の前には成す術もなく、平穏な暮らしや豊穣を願い、ただただ神仏に祈りを捧げるのみでした。
江戸時代に入り、安定した世の中になると、心のよりどころとして神仏に祈る民間信仰が盛んになり、元禄年間(江戸時代前期)には石仏造立も活発化します。石造物の需要が増えるにつれ、高収入が得られる石工のなり手も増えていきましたが、高遠藩では税収増加をねらって「旅稼ぎ石工」を奨励したことから、その数は領内だけでも数百人に達していたといわれています。
高遠石工の多くは、農耕地が狭い山間部の農家で二男以降に生まれた男子です。一般的には農作業の傍ら、農閑期を中心に旅稼ぎをしていたと言われていますが、当時の石工は大工など他の職人と比べて給金が良く、仕事が豊富であったこともあり、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門の職業とする専業石工も多く存在しました。
高遠石工の活動
現在、高遠石工の銘が確認されている石造物は、北は青森、南は山口の1都18県に及びます。
和泉石工(泉州石工)など、高遠石工と同時期に活躍した石工集団は他にもいましたが、高遠石工ほど多くの銘を残していません。「高遠」という銘がはっきりと確認できるのが元禄期以降であるため、高遠石工の活動年代は内藤家が高遠藩を拝領した元禄4年(1691)以降とみる向きもありますが、山梨県甲府市塩澤寺にある正保5年(1648)銘「大工信州之角兵衛」の無縫塔をはじめ、元禄期以前の高遠石工の作と推定される石造物も確認されているため、江戸時代初頭より広域的な活動をしていたと考えられます。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事に関わったり、有名な安曇野の道祖神の中にも、高遠石工たちが刻んだものが数多くあります。
高遠石工が確かな技術で刻んだ石造物は、人々の心を捉え、江戸時代中期にはその名が全国にとどろくようになりました。「高遠石工」の名が一種のブランドと化したことによって、その活動も一層盛んになり、各地で多くの作品を残すこととなったのです。





















































































































































































































































































































































































































































































