【研究論文】中国の大学の大人数会話クラスでのBYODを用いた授業について考察
論題
昨今、教育現場でもICTが普及し、デジタル教材やタブレット活用が推進されている。筆者は目的用途を明確し、科目、学習環境に適した活用が重要であると考える。本論文では、中国の大学の大人数会話クラスでのBYODを用いた授業について考察する。
論文構成
・教授法と教材
(昔は暗記型の教授法、今はコミュニケーション能力を重視した教授法。つまり、今日の授業で教材に求められる役割もコミュニケーション能力の育成である。タブレットの活用例やデジタルアーカイブを活用したキュレーション授業の紹介)
・会話授業で教える項目
(語彙、発音、文法、定型表現、談話構成など)
・映像教材
(会話授業で映像教材が用いられる理由。市販の教材、アニメドラマを用いた授業の紹介)
・中国の大学の学習環境
(クラス規模、教室設備、会話の授業で教えること、そして問題点)
・解決案
(学生自身のスマホを活用BYOD→協働学習の促進、個別最適化)
(BYODに適した映像教材の活用。アニメやドラマは不適当、市販の教材は限られている→岩本の論文を参考に間違い探しビデオ教材の作成)
・実験
(文法の使用間違いを含んだ日常会話のビデオを作成し、学生自身のスマホで見ながら、文法の間違いを探す。)
・考察
(授業後にアンケート調査を実施。考察する)
研究の目的
BYODを用いる場合、どのような映像教材が適しているのか。
大人数会話クラスにおいてBYODを用いることで授業に対する理解度、学生の満足度を高めることが可能かどうか。
方法
筆者が勤務する大学で実践し、学生にアンケート調査を行い、考察する。
主要参考文献
・無菌操作演習における間違い探しビデオ教材の有効性の検討 岩本真紀
・大学授業を活性化する方法
・会話教材を作る
資料
2.研究のプロセス
【研究論文】学びの個別最適化をめざす自律活用型デジタルコンテンツデザインの実践的研究 ~ 中学校音楽科ICT学習のデジタルアーカイブの利活用にむけて ~
1.論文構成
Ⅰ コンピテンシーを育成するデジタルアーカイブの構想/考え方
Ⅱ 学びの個別最適化をめざす中学校音楽科のデジタルアーカイブづくり
Ⅲ JAPAN SEARCHへの連携をめざした情報交換のプラットフォームづくり
2.研究の目的
学びの個別最適化に対応する中学校音楽科学習デジタルアーカイブの在り方を究明する。
3.方法
Ⅰ コンピテンシーを育成するデジタルアーカイブの構想/考え方
感性を育む音楽科の役割を大切にしながら、教科目標と評価のかかわりの視点から、コンピテンシーを育む授業に対応できる授業づくりの工夫・改善策を探る。
Ⅱ 学びの個別最適化をめざす中学校音楽科のデジタルアーカイブづくり
①MEXCBTメクビットで割り振られた学習指導要領番号にあわせた、コンテンツの枠組みフレームワーク・カテゴリーや構成の整理
②生徒がコンテンツを自律的に活用できる授業の流れや学習プリントや手引の作成と工夫
③生徒の学びを可視化するスタディー・ログの残し方の工夫、音源やMIDIデータ、レポート、評価などの整理
④研究(過去の研究主題や指導案等)のデジタルアーカイブ
Ⅲ JAPAN SEARCHへの連携をめざした情報交換のプラットフォームづくり
音楽科学習の意義や価値の発信と、教育データの利活用ができる世界を目指すプラットフォームを立ち上げる。
4.主要参考文献
〇デジタル庁、総務省、文部科学省、経済産業省(2022)「教育データ利活用ロードマップ」
〇白井 俊(2020)「OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来」
資料
初等教科教育法(音楽)(試案)
Ⅰ はじめに
21世紀の知識基盤社会における「学力」は「他者と協働しつつ創造的に生きていく」ための資質・能力の育成である。そのために,学習活動では,他者と共に新たな知識を生み出す活動を引き出しつつ深い知識を創造させていく経験を,数多く積ませることが重要である。また,情報化や国際化が進み,社会が⼤きく変化する中で,学校,そして教師は様々な変化に直面している。児童に求められる学力の変化や授業でのICT活用など,教師はどう対応していけばよいか。
本講座では「インストラクショナルデザイン」を手がかりに,学びの基礎としてのインストラクショナルデザインを取り入れた音楽教育について考える。
Ⅱ 授業の目的・ねらい
知識基盤社会とは,新しい知識やアイデア,技術のイノベーションがほかの何よりも重視される社会である。そのイノベーションのために,他者とのコミュニケーションやコラボレーション(協働,協調)が重視され, それらが効果的・建設的に行えるように,人と人を繋ぐコミュニティやICTの役割に注目が集まっている。つまり,現在決まった答えのないグローバルな課題に対して,大人も子供も含めた重層的なコミュニティの中で,ICT を駆使して一人ひとりが自分の考えや知識を持ち寄り,交換して考えを深め,統合することで解を見出し,その先の課題を見据える社会へと,社会全体が転換しようとしている。ここでは,その高度情報社会とそれに応じて求められる音楽における資質や能力について考える。
Ⅲ 授業の教育目標
(1)「インストラクショナルデザイン」を手がかりに,効果的・効率的・魅力的な授業づくりや学びの方法について考え,自分の考えを具体的に述べることができる。
(2)21世紀に求められる学力を育む新たな授業と評価を,背景や音楽における実践事例を紹介しながら考え,説明できる。
(3)目標を分析して構造がわかると,評価規準ができる。目標の構造がわかるというのは,評価規準のなかで,重要度を決定することを考える。
(4)「教えないで学べる」学びの視点を考え,音楽教育の内容を構造化し整理し提示する。
(5)音楽教育における「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実について考える。
第1講 【21世紀に求められる学力と学習環境】
1.何を学ぶか
(1)知識基盤社会で求められる力
(2)21世紀型学力を育成する授業への変革
(3)授業・教育課程のすがた
(4)評価のすがた
(5)取り組み事例
2.学習到達目標
(1)21世紀に求められる学力について説明できる。
(2)資質・能力を引き出す授業の条件を説明できる。
3.研究課題
(1)知識習得モデルと知識創造モデルの違いを説明しなさい。
(2)知識習得モデルから知識創造モデルへの授業改善について、具体例をあげて説明しなさい。
(3)変容的評価について、具体例をあげて説明しなさい。
。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第2講 【インストラクショナルデザイン】
1.何を学ぶか
(1)インストラクショナルデザインとは
(2)音楽科教材開発とインストラクショナルデザイン
(3)ADDIEモデル(フレームワーク)の活用~授業改善と定着~
2.学習到達目標
(1)インストラクショナルデザインとは何か説明できる。
(2)ADDIEモデルについて事例をあげて説明できる。
3.研究課題
(1)ADDIEのプロセスを検討し,音楽の教材を作成しなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第3講 【教育方法の歴史 ~教えと学びのパラダイムの交錯~】
1.何を学ぶか
(1)教育方法の歴史
・行動主義的学習観について
・認知主義的学習理論について
・構成主義的学習理論について
・社会構成主義的学習理論について
(2)これからの学びにおける,学習者の学びに向かう態度とは何か
2.学習到達目標
(1)教育方法の歴史をつかむ。
現行学習指導要領の転換が図られていることを理解し,説明することができる。
(2)現在の学習指導要領において,重要視されている学習者の主体的に学ぶ態度(自律的な学び)について,具体例を示しながら説明できる。
3.研究課題
(1)教育方法の歴史としての,学習観の変遷を,学習者の具体的な姿を示し,述べなさい。
(2)現在の学習観において、重要視されている学習者の主体的に学ぶ態度(自律的な学び)について、具体例を示し、述べなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第4講 【音楽科学習目標のデザイン】
1.何を学ぶか
(1)学習目標の明確化
(2)学習目標の分類
(3)明確な学習目標を設定する
2.学習到達目標
(1)ブルームの教育⽬標分類について、行動目標による例を取り挙げて説明できる。
(2)ガニェの学習成果の5分類について、具体例を挙げて説明できる。
(3)明確な学習目標について、具体的に説明できる。
3.研究課題
(1)ブルームの教育目標分類について、行動目標による例を取り上げて説明しなさい。
(2)ガニェの学習成果の5分類について、音楽教育の具体例を挙げて説明しなさい。
(3)明確な学習目標について、音楽の具体的な題材において設定しなさい。
(4)学年音楽の目標のタキソノミーテーブルを作成しなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第5講 【音楽科授業の分析と設計】
1.何を学ぶか
(1)授業の目標分析
(2)教育目標の分類学
(3)題材構成と教材の構造
(4)授業の設計・開発の手順
2.学習到達目標
(1)何を学ぶのか、そのための授業のあり方について説明できる。
(2)システム的な授業設計・開発の手順を5つに分けて説明できる。
3.研究課題
(1)自分が授業を行うとするならば、何を学ぶ授業とするのかを具体的に述べなさい。学ぶことを実現するために、どのような授業とするのか、その方針を述べなさい。
(2)(1)で述べた授業を基に、システム的な授業設計について、①何をしたいのか②何を学びたいか③何を指導したいか④どのような順序で学ぶのか⑤それを指導するために何がいるのか、の5つに分けて、具体例を示しなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第6講 【子どもの学習意欲を高める音楽教育】
1.何を学ぶか
(1)動機づけを高める要因
(2)ARCSモデル
(3)アンドラゴジーとペダゴジー
(4)学習意欲を高める音楽科学習指導法
(5)学ぶ意欲を保ち続けるために
2.学習到達目標
(1)学習意欲を高める音楽の指導法について説明できる。
(2)インストラクショナルデザイン(ID)の一環、ジョン・M・ケラーの ARCS(アークス)モデルについて具体的に説明できる。
(3)アンドラゴジーをもとにして学校式教育から大人の学び支援について,その違いを具体的に説明できる。
3.研究課題
(1)アンドラゴジーをもとにして、学校式教育から大人の学び支援について、その違いを具体的に5つあげて、KJ 法を使ってグループごとに分類し、説明しなさい。
(2)各グループで学習の動機づけの具体的な方法をあげて、ジョン・M・ケラーの ARCSモデルのどの分類にあたるか、説明しなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第7講 【発達段階を踏まえた指導の充実】
1.何を学ぶか
(1)保幼、中学校の音楽科学習の接続
(2)発達段階を踏まえた音楽の感受を深める・表出する方法とその手だて
2.学習到達目標
(1)保幼小の連携、小中の学習指導要領の構成について、説明できる。
(2)発達段階を踏まえた指導の充実(低・中・高学年)について、具体的な手だてを説明できる。
3.研究課題
(1)音楽科の学習指導において、児童の発達段階を踏まえた指導の具体例を、教材(楽曲)例を用いて説明しなさい。
(2)育みたい資質・能力を焦点化した音楽科学習指導の、小中比較表を作成しなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第8講 【「教えないで学べる」という新たな学び】
1.何を学ぶか
(1)J・Bキャロル(Carroll)の学校学習の時間モデル
(2)自分の人生設計ができる子どもを育てる「教えないで学べる」学習環境
(3)学校教育の情報化
2.学習到達目標
(1)「教えないで学べる」とはどのようなことか具体例を挙げて説明できる。
(2)「教えないで学べる」という新たな学びの設計ができる。
3.研究課題
(1)J・B・キャロル(Carroll)の学校学習の時間モデルについて説明しなさい。
(2)「教えないで学べる」学習環境について具体的に説明しなさい。
(3)必要な時間と労力をかけても学んでみたいと思えるキャロルのモデルに基づく個人差への対応例を挙げなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第9講 【新たな学びとしての反転授業】
1.何を学ぶか
(1)協働学習と互恵的教授法の考え方と学習効果
(2)協働学習に影響を与える要因
(3)協働学習のデザインの手法と協働学習を支援する教材開発
2.学習到達目標
(1)反転授業について、具体例な説明ができる。
(2)音楽教育における反転授業の授業設計ができる。
3.研究課題
(1)音楽教育における反転授業の学習展開について具体的に指導案を作成しなさい。
(2)音楽教育における反転授業とその効果と可能性について説明しなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第10講 【協働的な学びのICTデザイン】
1.何を学ぶか
(1)協働学習と互恵的教授法の考え方と学習効果
(2)協働学習に影響を与える要因
(3)協働学習のデザインの手法と協働学習を支援する教材開発
2.学習到達目標
(1)協働的な学びにおけるICT活用のメリットを説明できる。
(2)協働学習の考え方を理解し、実際に授業デザインできる。
3.研究課題
(1)協働的な学びにおけるICT活用について、学習活動と方法を、具体例を挙げて説明しなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第11講 【学びの個別最適化をめざす音楽教育】
1.何を学ぶか
(1)指導の個別化と学習の個性化
(2)学びの個別最適化
(3)個別最適な学びと協働的な学びの一体的な充実
2.学習到達目標
(1)一人一人の子どもの音楽技能や興味・関心によって、追究方法や内容を選ぶ授業づくりができる。
(2)協働的な学びをいかした学びの個別最適化を授業設計できる。
3.研究課題
(1)学びの個別最適化に対応する音楽科学習の授業設計例を、フローチャートで示しなさい。
(2)協働的な学びをいかした学びの個別最適化に対応する授業設計を、(1)に続けてフローチャートで示しなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第12講 【カリキュラム・マネジメントと音楽科学習指導】
1.何を学ぶか
(1)資質・能力を育むカリキュラム・マネジメント
(2)教科目標と21世紀型学力
(3)補充的・発展的な学習への対応
2.学習到達目標
(1)音楽科におけるカリキュラム・マネジメントの充実について、説明できる。
(2)教科目標と評価のかかわりの視点から、コンピテンシーを育む授業づくりの工夫・改善について説明できる。
3.研究課題
(1)教科目標と21世紀型学力を関連して説明しなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第13講 【コンピテンシーを育成するデジタルアーカイブの構築】
1.何を学ぶか
(1)コンピテンシーを育む音楽科デジタルアーカイブの構築
(2)学びを可視化するスタディー・ログや学習データ(音源、MIDIデータ、動画、レポートなど)の整理と工夫
(3)補充的・発展的な学習への対応とデジタルアーカイブ
(4)音楽科教育研究とデジタルアーカイブ
2.学習到達目標
(1)音楽科におけるデジタルアーカイブの利点を説明できる。
(2)音楽科デジタルアーカイブを構想できる。
3.研究課題
(1)音楽科デジタルアーカイブのフレームワークを構成しなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第14講 【音楽の意味と価値】
1.何を学ぶか
(1)人間を知る、感じる
(2)音楽の世界
(3)音楽の見方・考え方
(4)教材の範囲とマトリックス
・鑑賞 西洋音楽史
・日本と諸外国の音楽
・ポピュラーミュージック
・表現
・歌唱と合唱
・器楽創作
2.学習到達目標
(1)音楽のおこりと発展について、説明できる。
(3)教材のマトリックスとその活用について、説明できる。
3.研究課題
(1)学年の音楽科年間指導計画を作成し、教材選定意図を説明しなさい。
4.映像資料
5.プレゼン資料
第15講 【音楽はなぜ学校に必要か~未来を生きる世代に必要なこと~】
1.何を学ぶか
(1)音楽の多様性と普遍性
~文化や歴史の理解~
(2)人間の感情と音楽・芸術表現のエネルギー
(3)感性を育む音楽科の役割
(4)想像力とイノベーション(創造性)の発展
2.学習到達目標
(1)音楽の多様性と普遍性について、音楽の例を挙げて説明できる。
(2)子ども一人一人が自分の個性に気付き、創造の担い手となる経験ができる音楽科学習を構想できる。
3.研究課題
(1)創造力を育む音楽科学習指導のために取り組むべきことを説明できる。
4.映像資料
5.プレゼン資料
Ⅳ レポート課題
課題1
課題2
Ⅴ アドバイス
課題1
課題2
Ⅵ 科目修得試験:レポート試験
Ⅶ テキスト
Ⅷ 参考文献
資料
1.学修到達目標
【研究論文】地域資源デジタルアーカイブにおけるオープンデータの有用性の研究 ~ 沖縄の地域文化遺産を例にして ~
1.はじめに
官民データ活用推進基本法(平成28年法律第103号)において、国及び地方公共団体はオープンデータに取り組むことが義務付けられた。しかし、2022年9月の時点で、沖縄県内市町村の取り組み率は、1位である岐阜県の100%に対し、26.8%と全国最下位だ。結果から、DXに対する意識の格差やデジタル技術不足の現状を知った。また、沖縄には特有の地域文化遺産が存在する。それらを地域活性化に活かしたいと考えた。
そこで、本研究では沖縄の地域文化遺産を中心にデジタルアーカイブを行うとともに、データを活用してWebページ制作を行う。そのWebページを地域文化遺産の保存、地域活性化を目的としたオープンデータ化を行い、どのような有用性があるのか明らかにする。
2.研究の方法
①オープンデータの定義、意義・目的などの基本となる情報やオープンデータ化における課題など、その活用推進の社会的背景について調査を行う。
②国及び地方公共団体が取り組んでいるオープンデータの利活用事例を調査する。事例を参考に、沖縄がオープンデータに取り組む際の課題や改善点について考察する。
③デジタルアーカイブの対象を、沖縄の地域文化遺産を情報収集、文献調査して決定する。現地で対象の地域文化遺産の撮影を行い、実際の情報、資料を収集・記録する。
④撮影データをもとに、地域文化遺産の保存、及び地域活性化を目的としたWebページ制作を行い、オープンデータとして公開する。
3.研究の結果
オープンデータの定義とは、機械判読に適し、二次利用可能なルールが適用され、無償で利用できるように公開されたデータである。その意義・目的は、諸課題の解決、経済活性化、行政の高度化・効率化、透明化・信頼の向上だ。日本でオープンデータの活用が推進されるきっかけとなったのは、東日本大震災や急速なインターネット普及による情報社会化が挙げられる。オープンデータの懸念点は、誰でも容易に利用できるため、個人情報漏えいのリスクがあることだ。他にも、オープンデータ化に取り組むことでの具体的なメリットがイメージできない、そもそも方法が分からないという知識・技術者不足も課題である。
利活用事例の調査を行い、大阪市立図書館では、平成28年度より市立図書館の蔵書統計・利用統計や、デジタルアーカイブの著作権が消滅したデジタル画像情報等のオープンデータ化を進めていることが分かった。ブックカバーや書籍、スウェット・Tシャツ等にオープンデータ画像が活用され、日本経済新聞電子版の記事にも活用されるなどその有用性は高いと考える。
4.おわりに
オープンデータの社会的背景、利活用事例の文献調査が終了し、そこから課題や有用性の有無を考察した。今後は現地で地域文化遺産の撮影を行い、Webページ制作も行う。
参考文献
1)琉球新報.今日のニュース.琉球新報.
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1587009.html
論文
地域資源デジタルアーカイブにおけるオープンデータの有用性の研究
~沖縄の地域文化遺産を例にして~
第1章 緒 言
官庁と民間が保有するデータを流通・活用することで、自立的で個性豊かな地域社会の形成、新事業の創出、国際競争力の強化などを目指す官民データ活用推進基本法(平成28年法律第103号)において、国及び地方公共団体はオープンデータに取り組むことを義務付けられている。しかし、デジタル庁の「都道府県別の市区町村オープンデータ取組率」についての調査では、令和4年6月28日時点で沖縄県内市町村の取り組み率は、1位である岐阜県100%に対し26.8%と全国最下位になっている。その調査結果から、沖縄ではDX(デジタル・トランスフォーメーション)に対する意識の格差やデジタル技術不足の現状があるのではないかと考察した。また、沖縄には琉球王国時代の名残をとどめている特有の地域文化遺産があり、それらを地域活性化に活かしたいと考えた。そこで、本研究では沖縄の地域文化遺産を撮影してデジタルアーカイブを行うとともに、データを活用してWebページ制作を行う。そのWebページを地域文化遺産の保存、地域文化理解、地域活性化を目的としたオープンデータにどのような有用性があるのかを考察する。
第2章 オープンデータとは
1.オープンデータの定義
オープンデータの定義とは、オープンデータを効果的に利用しやすくし、利用者がデータを有効に活用できるようにするために設けられており、平成29年5月30日IT総合戦略本部の官民データ活用推進戦略会議にて決定され、令和3年6月15日に改正されたものである。
その内容はオープンデータの基本事項を示している「オープンデータ基本指針」に、以下のように定義されている。
国、地方公共団体及び事業者が保有する官民データのうち、国民誰もがインターネット等を通じて容易に利用(加工、編集、再配布等)できるよう、次のいずれの項目にも該当する形で公開されたデータをオープンデータと定義する。
① 営利目的、非営利目的を問わず二次利用可能なルールが適用されたもの
② 機械判読に適したもの
③ 無償で利用できるもの
引用:「オープンデータ基本指針」より抜粋
2.オープンデータの意義・目的
オープンデータは、様々な分野で重要な意義を持っており、公共データの二次利用可能な形での公開、またその活用を促進する意義、いくつかの重要な目的については、以下のように規定されている。
(1)国民参加・官民協働の推進を通じた諸課題の解決、経済活性化
広範な主体による公共データの活用が進展することで、創意工夫を活かした多様なサービスの迅速かつ効率的な提供、官民の協働による公共サービスの提供や改善が実現し、ニーズや価値観の多様化、技術革新等の環境変化への適切な対応とともに、厳しい財政状況、急速な少子高齢化の進展等の我が国が直面する諸課題の解決に貢献することができる。
(2)行政の高度化・効率化
国や地方公共団体においてデータ活用により得られた情報を根拠として政策や施策の企画及び立案が行われることで(EBPM:Evidence Based Policy Making)、効果的かつ効率的な行政の推進につながる。
(3)透明性・信頼の向上
政策立案等に用いられた公共データが公開されることで、国民は政策等に関して十分な分析、判断を行うことが可能になり、行政の透明性、行政に対する国民の信頼が高まる。
引用:「オープンデータ基本指針」より抜粋
3.オープンデータの必要性
オープンデータの提供と活用は、現代社会において多岐にわたる利点と必要性を有している。
その重要な側面の1つは、オープンデータの意義・目的にもある通り透明性と信頼性の向上だ。政府や組織が行動や決定をデータとして公開することで、市民はこれらのプロセスを理解し、監視することが可能となる。透明性の向上は、行政の公正性や誠実性に対する信頼感を高め、民主主義の基盤を強化することに繋がる。
第2に、オープンデータは市民参加を促進し、民主的な社会の形成に寄与する。市民がデータを利用して政策や提案に参加できる環境が整うことで、より効果的な意思決定が可能となる。これにより、行政が市民のニーズや懸念を正確に把握し、それに応じた施策を打つことが期待できる。
第3に、オープンデータはイノベーションの推進に役立っている。データの自由なアクセスは、新しいアプリケーションやサービス、ビジネスモデルの創造を助長する。研究者や企業が異なるデータセットを組み合わせ、新たな洞察を得ることで、社会に新しい価値をもたらすことが可能となるのだ。
第4に、オープンデータは社会的課題に対する効果的な解決策を見つけ出す手段を提供している。例えば、環境データを活用して持続可能な開発戦略を策定したり、医療データを分析して効果的な治療法を見つけたりすることが可能になる。
以上の、透明性の向上、市民参加の促進、イノベーションの推進、社会的課題への対応といった側面から見ても、オープンデータは社会全体に広がる利益と必要性を有しているといえるだろう。現代社会においてオープンデータの役割はますます不可欠となるのだ。
第3章 地域のオープンデータ
1.大阪市立図書館のオープンデータ
地方自治体が取り組んでいるオープンデータの事例として大阪市立図書館を紹介する。
平成28年度より、大阪市立図書館では「大阪市オープンデータの取り組みに関する指針」や「大阪市ICT戦略」に基づき、活力と魅力ある大阪の実現に資することを目的に、オープンデータ化を進めている。また他機関とも連携し、ビジネスの活性化や学校における教科学習での活用をも視野に入れた利活用推進に取り組むとともに、提供するオープンデータの拡大を図っている。
大阪市立図書館Webサイトでは、公開しているデータのうち、CC(クリエイティブコモンズ)ライセンスにおけるCC-BY4.0の表示があるデータをオープンデータとして取り扱っている。また、CC(クリエイティブコモンズ)ライセンスの「CC-BYコンテンツ」「CC-BY-SAコンテンツ」「CC0コンテンツ」について、例文とともにわかりやすく利用条件が記載されている。大阪市立図書館Webサイトで公開されている不正確な情報の混在等による利用者の損害等、一切の行為について大阪市立図書館はいかなる責任も負わないという表記があり、利用者は注意する必要がある。
オープンデータの活動事例を募集し、それらを一覧にまとめて記事として紹介している。大阪市立図書館のオープンデータは、一般の利用者からテレビ局、YouTubeなど幅広い分野で利活用されており、大阪市立図書館オープンデータの有用性は高いと考えられる。
オープンデータ活用事例の募集も同ページで行っている。使用したオープンデータの種類や何に活用したかを入力してフォームを送り、それを大阪市立図書館が記事にして紹介している。
2.地域におけるオープンデータの現状
地方自治体におけるオープンデータに関する取組の実施状況は、平成29年総務省にて行われた「地域におけるICT利活用の現状に関する調査研究」において、2012年度の調査から2016年度調査まで、「取組を推進している団体数」「取組を行っている団体数の比率」ともに増加している。
また、オープンデータに関する取組を推進している自治体では、6割程度が一定以上の成果が上がっているが、約4割では成果が上がっていない。そのため地方自治体にとってオープンデータは、なかなか成果が見えにくい取組であると考えられる。
3.地域におけるオープンデータの課題
オープンデータに関する取組を進める上での課題として、2016年度の調査では「具体的な利用イメージやニーズの明確化」(69.2%)、「提供側の効果・メリットの具体化」(61.5%)が2013年度に比べて増加した。一方、「個人情報等の機微情報の扱いに関する制度的な整備」、「政府におけるオープンデータの具体的な全体方針の整備」は2013年度に比べて10%程度減少している。
この結果から地方公共団体等がオープンデータに関する取組を推進していく上での大きな課題は、具体的にどうオープンデータを利用したらよいのか、オープンデータに取り組む目的や取り組むことで得る提供側のメリットが分からない等、オープンデータに対する知識・理解不足が挙げられる。反対に、権利処理の整備や政府における全体方針の整備、利用者と提供者間の責任分担の整理については、2013年度の調査からオープンデータに取り組む中でそれらの理解が広まり適応されたといえるだろう。
また、このアンケート調査の項目以外にもオープンデータの普及と利用にはさまざまな課題が存在する。これらの課題は、データの公開や利用を妨げる可能性があり、慎重な対応が求められる。
1つに、プライバシーとセキュリティの懸念だ。オープンデータは一般に匿名化や個人情報の削除が行われているが、これが十分に行われない場合、個人のプライバシーが侵害される可能性がある。また、データが悪意ある者の手に渡ることでセキュリティリスクが生じる可能性もある。こういったことから、機密情報やセンシティブなデータの公開には慎重な対応が求められる。
2つめに、データの品質と信頼性だ。オープンデータが利用価値を有するためには、データの品質と信頼性が確保されている必要がある。大阪市立図書館Webサイトにも「公開するオープンデータは、正確な情報となるよう努めていますが、不正確な情報の混在等による利用者の損害等、一切の行為について大阪市立図書館はいかなる責任も負いません。」と記載されている。誤った情報や不正確なデータが公開されると、これを基にした意思決定や研究が誤った方向に進む可能性があるため注意しなければならない。
3つめは、アクセスとデジタル格差だ。オープンデータを利用するためにはアクセスが必要だが、一部の地域や社会階層ではデジタル格差が依然として存在する。データへの平等なアクセスを確保するためには、デジタルリテラシーの向上やアクセス可能なインフラの整備が重要となる。
4つめは、文化的・倫理的な課題だ。特定の文化やコミュニティに関連するデータを公開する際には、文化的な課題や倫理的な配慮が必要となる。特に先住民族に関するデータなど、敏感なトピックに対する配慮が求められる。
これらの課題に対処するためには、データプロバイダや利用者、政府などが協力して適切なガイドラインや標準を策定し、透明性と公正性を確保する取組が求められる。オープンデータの利活用を進める上で、これらの課題に対する適切な対応は必要不可欠といえるだろう。
第4章 沖縄の地域文化遺産デジタルアーカイブ
1.沖縄の地域文化遺産撮影
地域文化遺産は、その地域の歴史・伝統・文化を集約した象徴的な存在であり、そこに属する人々にとって何ものにも代え難い誇りであると同時に、世界の多くの国の人々をも感動させる価値を持っている。実際に文化遺産へ訪れた際には、多国籍の外国人観光客が多いような印象があった。そのような文化遺産を人類共通の貴重な遺産として国際的に手を携えて次世代へ伝えていくことは、お互いの文化を認め、尊重する姿勢にもつながり、安定した国際社会の基礎を成すものといえるだろう。
沖縄の地域文化遺産は、琉球王国時代の名残をとどめているものが多く存在する。その中から世界遺産の城跡に着目し、座喜味城跡、中城城跡、勝連城跡、首里城跡の撮影を行うことにした。撮影に使用したカメラはDJI Osmo Pocketである。撮影は静止画撮影と動画撮影を行った。(首里城跡は、雨天で動画撮影が困難だったため動画撮影を行っていない。)
⑴.座喜味城跡(ざきみじょうあと)
座喜味城跡は、沖縄県中頭郡読谷村にある史跡名勝天然記念物だ。読谷村按司護佐丸によって築かれたと伝えられる座喜味城は、昭和47年5月15日、沖縄の本土復帰と同時に史跡に指定した。しかし、アメリカ軍の基地として使用されていた部分は指定し得なかったので、返還されたのを機に追加指定することになる。
沖縄本島西海岸の南部と中部の境、城原の山の上にあり、沖縄史上第一の築城家として名高い護佐丸(ごさまる)の居城である。中山王(尚巴志)の北山討伐に従った護佐丸が、一時今帰仁城で戦後処理にあたるが、やがてこの城を築き、読谷山一帯の広大な地域を確保し、北方の長浜港での貿易の利を掌握した。
城郭は丘陵の先端部に位置し、本丸の南側二の丸には第1・第2のアーチ型の城門があり、石垣がめぐらされている。どのようにしてアーチ型の城門を石垣で造ったのか気になった。本丸は二の丸より高く、もと5段の石の階段があったが現在はない。護佐丸は数年後に中城城に移ったので、この城はまもなく廃城となった。だが、築城の技術、護佐丸の歴史上の役割からもこの城は重要だといえる。
座喜味城は、戦乱の世だった「三山時代」に活躍し、琉球王国統一後の国の安定に尽力した名将護佐丸(ごさまる)によって築かれた城です。
国王に対抗する勢力を監視する目的でつくられ、1420年頃に完成しています。
規模は小さいですが、城壁や城門の石積みの精巧さや美しさは沖縄の城の中で随一といわれ、当時の石造建築技術の高さを示す貴重な史跡となっています。
⑵.中城城跡(なかぐすくじょうあと)
中城城跡は、沖縄県中頭郡北中城村・中城村にある史跡名勝天然記念物だ。1972年5月15日(日本復帰)の日に、国の史跡に指定された。指定面積は、110,473㎡(約33,440坪)で、その内14,473㎡(約4,300坪)が城壁面積だ。2000年12月2日には、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の1つとして世界遺産にも登録された。
中城城跡は、かつて貿易が行われていた屋宜の港から2㎞離れた標高約160mの高台上
にある。300余もあるとされる沖縄のグスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られている城跡だ。東北から西南に一直線に連郭式に築かれた城で、6つの郭で構成されている。城壁は、主に琉球石灰岩の切石で積まれており、自然の岩石と地形的条件を活かした美しい曲線で構成されている。その構築技術の高さは、芸術的といわれ、歴史的にも高い評価を受けている。裏門からはいって、次第に高く、かつ広くなる三の丸・二の丸・本丸は、それぞれ堅牢優美な石塁で囲まれ、石の階段と門で各郭に通じている。とくに三の丸の城壁のように外側から目立つ石組は五角形の石を積みあげ、またアーチ門の回りは特に大きな切石を用い、石塁の角が丸味を帯びているのも特徴であるが、全体としてきわめて堂々たる外観を呈している。城の規模は必ずしも大きくはないが、東南側は自然の絶壁をなし、西北側は10mほど低い位置で外郭の石塁が走り、城の繩張りは日本中世の城に似たものがある。築城は護佐丸といわれるが、護佐丸が座喜味城から中城城に居城を移したのは、尚泰久の妻となった自分の娘の住む首里に近いということのほかに、王権を勝連按司阿麻和利から守るためであった。後に紹介する勝連城は、この城から直線で8キロ、中城湾をはさんで東北方指呼の間にある堅固な城である。つまり、護佐丸と阿麻和利が、それぞれ相手の居所のよく見える位置に築城して対峙したわけである。
しかし1458年、護佐丸は阿麻和利に滅ぼされ、中城城は王の直轄となり、第2尚氏の時代には王子の居城となった。中城城は、近年琉球政府文化財保護委員会の手で一部修理が加えられたが、当初の遺構をほとんどそのまま残し、その技法や構造において沖縄城郭史上いっそうの完成度を見ることのできる城である。とくに丸には門が1つ、二の丸には三の丸からはいる門と本丸に通じる門が2つ設けられ、殿舎の遺構、「いべ」と、三のいうように、あらゆる条件を備えている。しかも、この城こそが、沖縄における第1尚氏による中央集権の確立に重要な役割を果たし、沖縄のいわば中世的な戦乱の最後の築城であったことはきわめて注目すべきところだろう。
1853年に来島したペリー探検隊一行が現地調査を行い、「要塞の資材は、石灰岩であり、その石造建築は、賞賛すべきものであった。石は・・・非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされているので、漆喰もセメントも何も用いてないが、この工事の耐久性を損なうようにも思わなかった。」と記し、中城城跡のすばらしさを讃えている。
また、中城城跡から14世紀後半から15世紀前半のものと思われる中国製青磁器が発掘されている。
中城城は、勝連城の勢力を牽制するために、国王の命令によって武将・護佐丸(ごさまる)が移り住んだ城として知られています。
標高167メートルの丘陵地に築かれ、城壁の上からは海を見渡すことができます。
名築城家でもあった護佐丸が増築した城壁と、それ以前の古い城壁が共存していて、築城文化を知る上でも貴重な城です。
⑶.勝連城跡(かつれんじょうあと)
勝連城跡は、沖縄県うるま市勝連南風原にある史跡名勝天然記念物だ。沖縄本島南部の東海岸に突出した与勝半島の付け根に近い台地上に、自然の地形を利用して築かれた一種の山城形式の城である。東南から北西にかけて、現在米軍基地になっている東郭から一段下がって鞍部のような部分の郭、それから珊瑚性石灰岩で石垣をめぐらす三の丸・二の丸・本丸、その先は深い谷となる。昭和40年から3年間、琉球政府文化財保護委員会によって発掘調査され、各郭の構造および他の郭に通ずる門や石段などがかなり明確になったほか、宋・元の青磁や南蛮手の陶器など、中国・南海との貿易資料も発見できた。
この城は、もと一平民であった阿麻和利が茂知附(もちづき)按司に代わって城主となり、勢力が増大して尚泰久の王女をめとった。護佐丸と対決してこれを滅ぼすが、1458年中山王と争い、敗死するまでの居城である。また城下町の形成など、政治史的、社会史的にも重要な城跡だ。
勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にあったグスク(御城)の城趾である。阿麻和利の城として有名。
概要
城は勝連半島の南の付け根部にある標高60mから100mの丘陵に位置する[1]。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。北城は石垣で仕切られた一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪を備える(曲輪は郭とも言う)。一から三までの曲輪が階段状に連なり、一の曲輪が最も高い。
城の南側に南風原集落(南風原古島遺跡)が広がり、交易のための港を備えていた。城の北側は田地として穀倉地帯であった[1]。
城内の「浜川ガー」(はんがーがー)は、7代目城主濱川按司の女(むすめ)、真鍋樽が身の丈の1つ半の長さもある長髪を洗髪したと伝わる[2]。
構造
二の曲輪には正面約17m、奥行き約14.5mほどの比較的大きな舎殿跡が発見された。等間隔に柱が並び礎石もある社殿であったと推定されている。また城が構築された時代の屋根は板葺きが主流であったが、大和系の瓦も付近から発見されている[3]。
歴史
勝連城は、14世紀初頭に英祖王統2代・大成の五男、勝連按司によって築城されたと考えられているが、いっぽうで12世紀から13世紀頃には既に築城が始まっていたとする説もある。
そして、この城の最後の城主・阿麻和利(10代目勝連按司)は、圧政を敷き酒に溺れていた9代目勝連按司の茂知附按司に対してクーデターを起こし殺害、この地方の按司として成り代わり海外貿易などを推し進めますます力を付けた。阿麻和利は護佐丸・阿麻和利の乱で護佐丸を討ち取ったのち、尚泰久王をも倒そうと琉球の統一を目論んだが、1458年に王府によって滅ぼされた。[4]
城内からは中国、元代の陶磁器(染付)が出土しており、『おもろさうし』からも当時の繁栄をみることができる。民俗学者の柳田国男は、勝連が当時の文化の中心であったことは大和(やまと)の鎌倉のごとしと『おもろさうし』にあるように、浦添・首里・那覇を中心とした浦添文化に対して、系統上異なる勝連文化と言うべきものがあったのではないか、と推測した[5]。
現代
城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られてきたが、現在は復元工事により往時の姿を取り戻しつつある。
1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の本土復帰にともない即日、日本国の史跡に指定された。2000年(平成12年)11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は勝連城跡)。登録されたグスク(城)の中では最も築城年代が古いグスクとされている。
2010年(平成22年)、沖縄本島近海地震で城壁の一部が崩落する被害を受けた[6]。
2016年、2013年の遺構調査で発掘された10枚の金属製品の中に14世紀から15世紀の地層から3世紀から4世紀頃に製造されたローマ帝国のコインが4点、17世紀の地層から17世紀頃に製造されたオスマン帝国の貨幣が1点が確認された[7]。14世紀から15世紀にかけての海上交易を通じて東アジア経由で流入したと考えられ[8]、また、日本国内でローマ、オスマン帝国の貨幣が発見されたのは初めてのこと[9]。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(200番)に選定された。
歴代城主
勝連城は、14世紀始め頃に英祖王統の第二代国王・大成の五男、勝連按司によって築城され、阿麻和利に到るまで十代の城主により統治されたと考えられている。
勝連按司二世の娘は察度に嫁ぎ、察度が西威を倒して中山王国を建てると勝連も中山との結びつきを強め、中興し栄えたと伝わる。
初代 勝連按司一世(英祖王統・第二代王大成の五男)
二代 勝連按司二世(一世の世子、娘・眞鍋樽は察度王の妃)
三代 勝連按司三世(二世の世子)
四代 勝連按司四世(三世の世子)
五代 勝連按司五世(勝連の伊波按司に敗れ戦死)
六代 勝連の伊覇按司(伊覇按司一世の六男、姉妹の眞鍋金は尚巴志の妃。勝連按司五世の家臣・浜川按司に敗れ戦死)
七代 浜川按司一世(前領主・勝連按司五世の家臣)
八代 浜川按司二世(一世の世子)
九代 茂知附按司(家臣の阿麻和利に敗れ戦死)
十代 阿麻和利(越来賢雄率いる尚泰久王の王府軍に敗れ戦死、廃城)
観光
この城跡は山を利用して造られている天険の要害であり、城跡入口から急勾配がつづくため、軽装でも良いが足回りには注意が必要。
真鍋樽伝説
前述7代目城主濱川按司の女(むすめ)真鍋樽(マナンダルー、マランラルー)は絶世の美女だったと言う伝承が琉球各地にあり、例として具志頭間切(八重瀬町具志頭)の若者、白川桃樽金(シラカワトゥバルタルガニー)が真鍋樽に恋をし結婚を申し込むが結ばれず、二人は恋焦がれるうちに病死してしまい、葬送の行列が北中城で会合したので一緒に埋葬されたと言う伝承がある(「熱田マーシリー」)[10]。また、南山他魯毎の子、樽真佐(タルマサ)の孫に四郎樽金(シルタルガニー)がいて、彼の親はもてなかったが彼は真鍋樽と結婚したと言う。先述の白川桃樽金は謎かけをして解けない内に死んでしまい、四郎樽金は謎かけを解いて結ばれたと言う伝承である。
⑷.首里城跡(しゅりじょうあと)
首里城跡は、沖縄県那覇市首里にある史跡にある名勝天然記念物だ。首里城跡は、琉球王国の栄華を物語る世界遺産であり、沖縄の歴史・文化を象徴する城跡である。1429年から1879年までの450年間にわたり存在した王政の国である琉球王国では、中国や日本、東南アジア諸国との盛んな交易により琉球独自の文化が育まれていた。その王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇ったのが首里城なのである。
首里城は14世紀頃に創建されたといわれ、中国や日本の文化も混合する琉球独特の城で、随所に中国や日本の建築文化の影響を受けている琉球王国最大の木造建築物だった。小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられている。いくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在する。これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴である。首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成している。正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としている。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つである。
首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもあった。また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍していた。首里城は文化芸術の中心でもあったのである。
1879年(明治12)の春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。1930年代には大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼した。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後に復元事業が推進され現在に及んでいる。
そして、2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が日本で11番目の世界遺産として文化遺産に登録された。世界遺産に登録されたグスクの中でもひときわ目立っているのが首里城跡だ。また、尚巴志が琉球を統一した頃には、すでに歴史の表舞台に登場していたという。
2019年10月31日の火災で、正殿を含む9つの施設が焼損した。現在は、国内外の多くの人々からの支援により、「見せる復興」をテーマに一歩ずつ着実に復興へ向け歩みを進めている首里城。復元工事は正殿から着手しており、正殿の建っていた御庭には、木材を加工する「木材倉庫」、原寸大の図面を描く「原寸場」、建設中の正殿を雨風や埃から守る「素屋根」が建てられ、併設された見学エリアからガラス越しに復元工事の様子を見ることができる。
今から400~500年前の首里城は、板葺き屋根だった。1660年に火事になり、それから
再建した首里城は、瓦葺きになった。しかし瓦の色は、発掘調査によると、赤ではなく灰色の瓦が出たそうだ。赤瓦になったのは、また火事で首里城が焼けた後、1715年に再建した首里城からだ。なぜ灰色から赤瓦に変わったかと言うと、その頃の琉球で起こった人口増加問題にあったようである。400年前の琉球の人口は約10万人。それから100年後、人口は20万人近くになり、今も昔も、生活に欠かせない火は、薪を燃料にしていたので、人が増えると薪が無くなる。灰色の瓦だと高い温度で焼かないといけないが、赤瓦だと低い温度でも焼けるので、薪を使う量を節約できるのだ。
首里城の瓦を赤くして資材を節約した後、琉球王国では、山原(やんばる)に植林して、各村の山を管理し、守ろうとした。当時の琉球の人々は、すでに自然の大切さに気付いていたのだ。その証拠の一つが、首里城の赤瓦とも言えるのではないだろうか。瓦屋根は士族の家の他、陶器を焼く窯(かま)元、酒屋等の火を使う職業の家屋などに制限されていた。このことから、赤瓦は省エネ対策のひとつだったと考えられる。
平成の復元で首里城の赤瓦が蘇り、さらに県内の公共建築物や住宅・ホテル等でも赤瓦が見かけられるようになってきている。首里城正殿の赤瓦は、浸水防止等のための低吸収や割れにくいことが求められる。なお、平成の復元で原料とした沖縄本島北部の粘土は、現在入手できない状況である。
平成の復元以降、県内に継承されている技術や材料をできるだけ活用するため、令和の復元では沖縄本島内での材料調査から取り組み、試作瓦の作成や瓦をプレス加工するための金型の検討を行っている。
また、沖縄県では、首里城復興を応援するため、首里城のデザインを取り入れた「首里城図柄入りナンバープレート」の普及推進に取り組んでいる。このプレートを付けることで首里城復興を応援することができる。
首里城正殿の唐破風正面と屋根瓦の両端に大きな龍の棟飾が取り付けられている。これは、「龍頭棟飾」といい、首里王府の史書である「球陽」によると1682年の正殿修理の際に平田典通(ひらたてんつう)という人物が五彩の釉薬を全島に探し求め、焼物で作り正殿に飾ったと記されている。この平田典通は、それまで琉球では焼くことが出来なかった釉薬を使用する方法を中国で学び次々と焼物の歴史に残る功績を上げた琉球の名工だった。この釉薬を使った焼物技法は、現在では「上焼」と呼ばれ、平田典通の弟子たちによって伝え受け継がれていったと考えられている。
首里城(しゅりじょう、沖縄方言: スイグシク[1])は、琉球王国中山首里(現在の沖縄県那覇市)にあり、かつて海外貿易の拠点だった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾である。現在は国営沖縄記念公園の首里城地区(通称・首里城公園)として都市公園になっている。
第二次世界大戦中に焼失後、1992年に柱・壁・瓦など朱色を基調として再建された[2][3][4][5]。しかし、2019年10月31日に正殿など主要7棟が火災で焼失し[6]、その後復興作業が進められている[7]。
概要
首里城の空中写真(2010年)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
城壁
城内より市街を望む
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は沖縄神社社殿としての正殿などが旧国宝に指定されていたが[8]、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設によりほぼ完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている状態だった。
1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが朱色を基調とした形で完成した[2][3][4]。
1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、首里城跡(しゅりじょうあと)として「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録されたが、復元された建物や城壁は世界遺産に含まれていない。
2019年10月31日未明の火災により、正殿を始めとする多くの復元建築と収蔵・展示されていた工芸品が焼失または焼損した。
周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵(たまうどぅん)、園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう、天女橋)などの文化財がある。
2.Webページ制作
現地で撮影した映像データを、岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所の「地域資源デジタルアーカイブにおけるオープンデータの有用性の研究」ページに掲載した。
城跡の概要、歴史や建てられた目的等の情報、またGoogleマップでその所在地をわかりやすく記載した。座喜味城跡、中城城跡、勝連城跡の3つは動画も添付した。そして、このWebページをオープンデータとして公開した。
第5章 考 察
ここまで、オープンデータの必要性や地方自治体のオープンデータの現状と課題等について考えてきた。それをふまえて地域文化遺産の保存、地域文化理解、地域活性化を目的としたオープンデータにどのような有用性があるのかを考察する。
大阪市立図書館は、活力と魅力ある大阪の実現に資することを目的に、オープンデータの取組を進めている。結果、書籍やブックカバー、新聞の電子版の記事といった一般の利用者からテレビ局、YouTubeなど幅広い分野で利活用されており、オープンデータとしての高い有用性を持っていると考えられる。
沖縄の地域文化遺産については、その独自の文化、歴史から世界中から人々が訪れている観光スポットの一つになっている。しかし、2019年に起きた首里城の火災では、正殿を含む9つの施設が焼損してしまった。そのような事態で地域文化遺産が失われてしまうことがあったときに、復興のために重要なのは「記録」だろうと、実際に現地で撮影しWebページを作成したことで理解できた。地域文化遺産の保存の観点からみて、データとして記録・保管・管理することでより深く文化遺産について理解でき、復興のための情報も多く残すことができると考えられる。また、オープンデータとして公開することで、現地に行くことができない場合でも地域文化遺産への理解を深めることができることがわかった。
第6章 結 言
本研究を通して、地方公共団体のオープンデータ化の取組率は増加し、成果も上がっている一方で、取り組むことで見えてくる課題もあるとわかった。また、大阪市立図書館のように上手くオープンデータ化を進めている地域もあれば、沖縄の市町村のようにあまりオープンデータ化に取り組むことができていない地域もあるため、オープンデータ化の課題でもあるように適切なガイドラインや標準の策定、その普及が重要になる。
本研究では、沖縄の世界遺産の城跡のオープンデータ化を行った。このような地域文化遺産のオープンデータ化を進めていくことで、その地域文化遺産の保存や地域文化への理解、地域活性化につながり、社会全体に広がる。
このことはオープンデータ化が必要であるといえる1つの理由になるだろう。
参考文献
本論文の作成にあたり、終始適切な助言と丁寧な指導をして下さった久世均先生に深く感謝します。また、調査にあたり多くの方にご協力をいただきましたことに、感謝の念を示します。今回の卒業論文では多くのご支援・ご協力のおかげで自分の納得のいく結論を出すことができました。卒業論文制作にあたり関係して下さった全ての方々に、厚く御礼を申し上げ、感謝の意をしめします。
謝 辞
岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究室: 教育リソース
(2023年1月22日アクセス)
https://digitalarchiveproject.jp/category/text/
文化遺産オンライン:首里城跡(2023年1月22日アクセス)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/164241
大阪市立図書館ホームページ:オープンデータについて(2023年3月1日アクセス)
https://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=1633
総務省:平成29年版情報通信白書:オープンデータに関する取り組み状況と課題
(2023年3月2日アクセス)
https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h29/html/nc122210.html
首里城公園(2023年3月10日アクセス)
https://oki-park.jp/shurijo/
デジタル庁:オープンデータ(2023年5月30日アクセス)
https://www.digital.go.jp/resources/open_data
大阪市立図書館:オープンデータ利活用事例の紹介(2023年6月5日アクセス)
https://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=1636
文化遺産オンライン:座喜味城跡(2023年6月13日アクセス)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/173575
文化遺産オンライン:中城城跡(2023年6月28日アクセス)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/217969
文化遺産オンライン:勝連城跡(2023年10月3日アクセス)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/140047
沖縄地域文化資源デジタルアーカイブ(2023年12月10日アクセス)
https://digitalarchiveproject.jp/category/database/okinawa/
沖縄県オープンデータカタログサイト(2024年1月2日アクセス)
https://www.pref.okinawa.jp/site/kikaku/joho/kikaku/opendata/opendata.html
沖縄市オープンデータ(2023年12月19日アクセス)
https://www.city.okinawa.okinawa.jp/k010-004/shiseijouhou/opnedata/index.html
那覇市公式ホームページ:オープンデータ(2023年10月25日アクセス)
https://www.city.naha.okinawa.jp/online/opendata/
論文資料
【研究論文】地域資源デジタルアーカイブ活用した探究学習の試行
探究学習とは,生徒自らが課題を設定し,解決に向けて情報を収集・整理・分析したり,周囲 の人と意見交換・協働したりしながら進めていく学習活動のことである.この探究学習では,生 徒の思考力や判断力,表現力などの育成を目的とし,高等学校では「総合的な探究の時間」など の科目において,探究学習を導入した授業が行われている.ここでは,地域資源デジタルアーカ イブを総合的な探究の時間での学習に生かし,効果的な実践したので報告する.
<キーワード> 探究学習,地域資源デジタルアーカイブ,総合的な探究の時間
1.はじめに
探究学習とは,生徒自らが課題を設定し,解決に向けて情報を収集・整理・分析したり,周囲の人と意見交換・協働したりしながら進めていく学習活動のことである.探究学習では,生徒の思考力や判断力,表現力などの育成を目的とし,小学校や中学校では「総合的な学習の時間」の科目,高等学校では「総合的な探究の時間」などの科目において,探究学習を導入した授業が行われている.
平成30年の高等学校の学習指導要領では, 総合的な学習の時間は,学校が地域や学校, 児童生徒の実態等に応じて,教科・科目等の 枠を超えた横断的・総合的な学習とすること と同時に,探究的な学習や協働的な学習とす ることが重要であるとしてきた.特に,探究 的な学習を実現するため,「1課題の設定→ 2情報の収集→3整理・分析→4まとめ・表 現」の探究のプロセスを明示し,学習活動を 発展的に繰り返していくことを重視してき た.
全国学力・学習状況調査の分析等において,総合的な学習の時間で探究のプロセスを意識した学習活動に取り組んでいる児童生徒ほど各教科の正答率が高い傾向にあること,探究的な学習活動に取り組んでいる児童生徒の割合が増えていることなどが明らかになっている.
また,総合的な学習の時間の役割はOECD が実施する生徒の学習到達度調査(PISA)に おける好成績につながったことのみならず, 学習の姿勢の改善に大きく貢献するものとし て OECD をはじめ国際的にも高く評価され
ている.そこで,高等学校においては,名称を「総合的な探究の時間」に変更し,小・中学校における総合的な学習の時間の取組を基盤とした上で,各教科・科目等の特質に応じた「見方・考え方」を総合的・統合的に働かせることに加えて,自己の在り方生き方に照らし,自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら「見方・考え方」を組み合わせて統合させ,働かせながら,自ら問いを見いだし探究する力を育成するようにしている.
2.総合的な探究の時間の目標
「総合的な探究の時間」のねらいや育成を目指す資質・能力を明確にし,その特質と目指すところが何かを端的に示したものが,以下の総合的な探究の時間の目標である.
第 1_目標 探究の見方・考え方を働かせ,横断的・総合的な学習を行うことを通して,自己の在り 方生き方を考えながら,よりよく課題を発見 し解決していくための資質・能力を次のとお り育成することを目指す. (1)探究の過程において,課題の発見と解決に必要な知識及び技能を身に付け,課題に関わる概念を形成し,探究の意義や価値を理解するようにする.
(2)実社会や実生活と自己との関わりから問 いを見いだし,自分で課題を立て,情報を 集め,整理・分析して,まとめ・表現する ことができるようにする.
(3)探究に主体的・協働的に取り組むととも に,互いのよさを生かしながら,新たな価 値を創造し,よりよい社会を実現しようとする態度を養う.
つまり,「総合的な学習の時間」を「総合的な探究の時間」に変更することにより,その目的や授業の在り方についても大きく変更することが求められている.そもそも,「探求」とは,探し求めると書くように何かを探し求め手に入れようとすることである.一方で「探究」とは,探し究めると書くように何かを探しながら究めていくことになる.特に究めるという言葉は学問を究めたり,真相を究めたりといった場合に使われる言葉で,「探求」と「探究」では目的が異なっている.
「総合的な学習の時間」と「総合的な探究の時間」の違いについて学習指導要領の解説には以下のように示している.両者の違いは(中略)「総合的な学習の時間」は,課題を解決することで自己の生き方を考えていく学びであるのに対して,「総合的な探究の時間」は,自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題を自ら発見し,解決していくような学びを展開していく.ということである.「総合的な学習の時間」が課題解決→自己の生き方の順であることに対し「総合的な探究の時間」はそれが同時であることが違いとしていえる.
3.地域資源デジタルアーカイブと探究学習
高度情報通信社会において,この世には情報があふれていると言われながら,意外に知らないのが自分の生まれ育った地域である.この地域の貴重な「文化資源」を記録し保存等を行うことを「地域資源デジタルアーカイブ」と呼んでいる.
しかし,このような地域資源デジタルアーカイブには,地域の人々の参加が必要となってくる.特に,地域の資料の収集,デジタル化には,地域の実情に応じた活動が重要であり,自分たちの身近な場でアーカイブをすべきである.
このためには,いかに地域の人々が自分たちの「文化資源」としていかに主体的に収集・整理することできるかが課題である.また,このような地域の人々や,大学,学校,社会教育施設などとの協働によるデジタルアーカイブの活動を,地域における探究的な学習の一環として捉えることが重要である.この,地域資源のデジタルアーカイブでは,自分の生まれた地域のさまざまな地域資源などをデジタルアーカイブすることにより,これまでに気付かなかったさまざまなものが,素材を通して見えるようになる.そのような意味で,この地域資源デジタルアーカイブは,このように地域のさまざまなことを再発見し,理解を深めていく上で大切な教育活動であると考えている.
4.おわりに
この地域資源デジタルアーカイブには,地域の人々の参加が必要となってくる.特に,地域の資料の収集,デジタル化には,地域の実情に応じた活動が重要で,今後,地域住民たちが身近な場で地域のデジタルアーカイブをすべきだと考えている.
このためには,地域住民自らが自分たちの「地域資源」としていかに主体的に発見・収集・整理することできるかが課題である.この度の高大連携における大学と高等学校との「共創」によるデジタルアーカイブの活動を,新しい学びの一環として捉えることは重要である.
ここでの「共創」とは,多様な立場の人たちと対話しながら,新しい価値を「共」に「創」り上げていくことである.デジタルアーカイブは,単なる記録ではなくて,研究成果,「知」を集積することがデジタルアーカイブに問われている.
あらゆる地域が地域としてのアイデンティティを確立するためにも,「知」の拠点としての地域資源デジタルアーカイブを含めた探究的なデジタルアーカイブを構築することが求められている.
これからの学びは,「競争」から「共創」の学びに着実に変化していく.これからの高校生にも課題探究という探究的な学びを,大学と高等学校が連携し,お互いに対話しながら,新しい価値を「共」に「創」り上げていきたいと考えている.
参考文献
(1) 久世均:遠隔教育特講,2022.7,岐阜女子大学
資料
① 高校における地域資源デジタルアーカイブ活用した探究学習の試行(論文)
② 高校における地域資源デジタルアーカイブ活用した探究学習の試行(プレゼン)(PDF)
③ 高校における地域資源デジタルアーカイブ活用した探究学習の試行(プレゼン)(PPT)
実践例
① 【高大連携講座】総合的な探究の時間【伊那西高等学校】
② 【高大連携講座】学校設定科目 デジタルアーカイブ【岐阜県立郡上北高等学校】
【研究論文】世界遺産としての白山文化遺産の研究
研究概要
1,はじめに
白山は日本列島のほぼ中央部に位置し、世界有数の豪雪山岳地帯でユネスコの生物圏保存地域にもなっている豊かな自然がある。
白山では山麓一帯が禅定道を基軸に互いに結ばれ、加賀、越前、美濃の三馬場とその禅定道筋にはそれぞれ社寺や集落が形成され、山村特有の生活文化が培われた。
山麓には白山信仰を全国に広めた御師集落で、今もかつての美濃禅定道の面影や、御師の伝統と習俗を色濃く残している石徹白、山麓の村々を統轄した集落で巨大な大壁造りの建築物が見られる白峰などがある。また、厳しい気象条件等に適合した出作り・焼畑という生活形態は、世界でも希有な存在である。このように白山信仰を基盤として白山麓でたくましく生き続けてきた風景は日本人の暮らしを代表する文化的景観である。
本研究では、この白山文化遺産の世界遺産への登録の課題を分析し、デジタルアーカイブの必要性について明らかにする。
2,世界遺産への登録過程
世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき「世界遺産リスト」に記載された、「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことである。 「顕著な普遍的価値」は、どの国や地域の人でも、いつの時代のどの世代の人でも、どのような信仰や価値観をもつ人でも、同じように素晴らしいと感じる価値のことで、そうした価値をもつ世界遺産は、人類共通の財産といえる。
世界遺産は、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類される。文化遺産が最も多く、世界遺産の総数は1,000件を超えている。世界遺産リストに記載する遺産は、1年に一度開催される世界遺産委員会で審議され、登録の可否が決定します。世界遺産委員会では「登録」、「情報照会」、「登録延期」、「不登録」の4段階の決議を行う。21の委員国からなる世界遺産委員会では、他にも、世界遺産条約を運用していく諸事項や、世界遺産基金の使い道の決定、世界遺産の保全状況の確認、危機遺産リストへの記載の可否など様々な話し合いを行っている。
3,登録における課題
大野市では、平成19年12月20日に、白山麓の文化遺産群を関係自治体とともに「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」というテーマで、世界文化遺産候補として文化庁に提案した。今回の提案は2回目となる。第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に行った。平成19年1月にその審査結果が発表され、提案に対する課題が示され、継続審査となった。
今回の提案では、文化庁から指摘を受けた課題を修正するとともに、大野市のほか、新たに小松市、高山市、白川村が加わり、共同提案している。
4.おわりに
石川、福井、岐阜の3県と白山市、小松市、勝山市、大野市、郡上市、高山市、白川村の6市1村は、世界遺産の申請において継続審議となっていた「霊峰白山と山麓の文化的景観」の課題について、2007(平成19)年12月に検討状況報告書並びに再提案書を提出した。
しかし、文化審議会は2008(平成20)年9月、再度暫定リストへの追加登載を見送り、現在、関係自治体で文化審議会の指摘に沿い提案内容などの見直し作業と研究を続けている。
本研究では、白山文化遺産のデジタルアーカイブを進め、白山文化遺産を世界遺産に登録できるような条件を検討し、その課題を明らかにすることを目的とする。
研究資料
白山は日本列島のほぼ中央部に位置し、世界有数の豪雪山岳地帯でユネスコの生物圏保存地域にもなっている豊かな自然がある。
白山では山麓一帯が禅定道を基軸に互いに結ばれ、加賀、越前、美濃の三馬場とその禅定道筋にはそれぞれ社寺や集落が形成され、山村特有の生活文化が培われた。
山麓には白山信仰を全国に広めた御師集落で、今もかつての美濃禅定道の面影や、御師の伝統と習俗を色濃く残している石徹白、山麓の村々を統轄した集落で巨大な大壁造りの建築物が見られる白峰などがある。また、厳しい気象条件等に適合した出作り・焼畑という生活形態は、世界でも希有な存在である。このように白山信仰を基盤として白山麓でたくましく生き続けてきた風景は日本人の暮らしを代表する文化的景観である。
石川、福井、岐阜の3県と白山市、小松市、勝山市、大野市、郡上市、高山市、白川村の6市1村は、世界遺産の申請において継続審議となっていた「霊峰白山と山麓の文化的景観」の課題について、2007(平成19)年12月に検討状況報告書並びに再提案書を提出した。
しかし、文化審議会は2008(平成20)年9月、再度暫定リストへの追加登載を見送り、現在、関係自治体で文化審議会の指摘に沿い提案内容などの見直し作業と研究を続けている。
本研究では、白山文化遺産のデジタルアーカイブを進め、白山文化遺産を世界遺産に登録できるような条件を検討し、その課題を明らかにすることを目的とする。
1.白山文化
(1)白山信仰(白山国立公園)の山
白山は雪を被った純白の印象から、古くは「越の白嶺」とも呼ばれ、養老元年(西暦717)に越前の僧「泰澄たいちょう」が開山した信仰の山として知られている。
また、富士山・立山と並ぶ日本三名山の一つでもある。
- 白山比咩神社(加賀馬場の中心石川県白山市鶴来の白山本宮)
- 平泉寺白山神社(越前馬場の中心福井県勝山市)
- 石徹白(いとしろ)
白山周辺に広がる白山国立公園の山麓にある小さな集落。標高700mの高地にある。美濃禅定道の白山中居神社、大師堂、いとしろ多すぎなどの白山信仰ゆかりの寺社や名所は、この石徹白地区にある。
(2)石徹白の歴史
石器土器が出土されていることから縄文時代から人々が生活していたとされており、白山中居神社は景行天皇12年(82)に創建された。
2.世界遺産
「人類共通の財産」世界遺産
世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき「世界遺産リスト」に記載された、「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことです。 「顕著な普遍的価値」は、どの国や地域の人でも、いつの時代のどの世代の人でも、どのような信仰や価値観をもつ人でも、同じように素晴らしいと感じる価値のことで、そうした価値をもつ世界遺産は、人類共通の財産といえます。
世界遺産の分類と数
世界遺産は、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類されます。文化遺産が最も多く、世界遺産の総数は1,000件を超えます。
世界遺産委員会
世界遺産リストに記載する遺産は、1年に一度開催される世界遺産委員会で審議され、登録の可否が決定します。世界遺産委員会では「登録」、「情報照会」、「登録延期」、「不登録」の4段階の決議を行います。
21の委員国からなる世界遺産委員会では、他にも、世界遺産条約を運用していく諸事項や、世界遺産基金の使い道の決定、世界遺産の保全状況の確認、危機遺産リストへの記載の可否など様々な話し合いを行っています。
日本と世界遺産
世界遺産条約が採択されたユネスコ総会の議長は、萩原徹日本政府代表が務めました。しかし、日本が世界遺産条約に参加したのは条約採択から20年後の1992年のことです。 1993年、「法隆寺地域の仏教建造物群」、「姫路城」、「白神山地」、「屋久島」の4件が日本で最初の世界遺産として登録されました。世界遺産保全への協力や、「真正性」などの価値の見直しに日本は重要な役割を担っています。
危機遺産
世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が危機に直面している遺産は、「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に記載され、世界遺産条約加盟国の協力を得ながら、危機を取り除く努力がなされます。 世界遺産の危機としては、戦争や紛争による遺産破壊、密猟や不法伐採などの自然破壊、地震などの自然災害、過度の観光地化や都市開発などが考えられます。危機を取り除くために「世界遺産基金」なども使われます。
世界遺産リストからの削除
世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が失われたと判断された場合は、世界遺産リストから削除されることもあります。これまでに、オマーンの「アラビアオリックスの保護地区」とドイツの「ドレスデン・エルベ渓谷」が削除されました。
(1)世界遺産の基準
【世界遺産に登録されるまでの流れ】
1.各国政府が世界遺産条約を締結・批准
2.各国が作成した暫定リストから推薦書を提出
3.ユネスコの世界遺産センターは推薦書を受理し専門調査を依頼
4.文化遺産…ICOMOSが現地調査などを行う
自然遺産…IUCNが現地調査などを行う
5.ユネスコの世界遺産センターを通して専門調査に基づく勧告
6.世界遺産委員会にて審議・決議
世界遺産登録が決定
(2)世界遺産の登録条件
登録基準所為解散に登録される為には、「世界遺産条約履行のための作業指針」で示されている登録基準、いずれか1つ以上合致するとともに、真実性(オーセンティシティ)や完全性(インテグリティ)の条件満たし、締約国の国内法によって適切な保護管理体制が取られていることが必要。
(i)人間の創造的才能を表す傑作である。
(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(v)あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)
(vi顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
(vii)最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
(viii)生命進化の記録や、地形形成における重要な進行中の地質学的過程、あるいは重要な地形学的又は自然地理学的特徴といった、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な見本である。
(ix)陸上・淡水域・沿岸・海洋の生態系や動植物群集の進化、発展において、重要な進行中の生態学的過程又は生物学的過程を代表する顕著な見本である。
(x)学術上又は保全上顕著な普遍的価値を有する絶滅のおそれのある種の生息地など、生物多様性の生息域内保全にとって最も重要な自然の生息地を包含する。
3.「霊峰白山と山麓の文化的景観」の世界文化遺産登録をめざして
「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」
大野市では、平成19年12月20日に、白山麓の文化遺産群を関係自治体とともに「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」というテーマで、世界文化遺産候補として文化庁に提案しました。
今回の提案は2回目となります。第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に福井県、石川県、岐阜県の3県と、勝山市、白山市、郡上市の3市が共同で行いました。平成19年1月にその審査結果が発表され、提案に対する課題が示され、継続審査となりました。
今回の提案では、文化庁から指摘を受けた課題を修正するとともに、大野市のほか、新たに小松市、高山市、白川村が加わり、共同提案しております。
【主な遺産群】
白山(標高2,702m、ユネスコの生物圏保存地区、高山植物の宝庫、山頂の遺跡群)
信仰の拠点三馬場(勝山市:平泉寺、白山市:白山本宮、郡上市:長滝寺)
禅定道(白山と三馬場を結ぶ参詣道、美濃禅定道が大野市上打波を通過)など
世界遺産とは
さまざまな国や地域の人たちが誇る文化財や自然環境などが、ユネスコの世界遺産として登録されています。
世界遺産には次の3種類があり、有形の不動産が対象となっています。世界遺産の登録件数は1052件(2016年7月現在)です。
・文化遺産 顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など
・自然遺産 顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域
・複合遺産 文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産
日本の世界遺産(20件)
・文化遺産(16件)
1 法隆寺地域の仏教建造物 (平成5年記載)
2 姫路城 (平成5年記載)
3 古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市) (平成6年記載)
4 白川郷・五箇山の合掌造り集落 (平成7年記載)
5 原爆ドーム (平成8年記載)
6 厳島神社 (平成8年記載)
7 古都奈良の文化財 (平成10年記載)
8 日光の社寺 (平成11年記載)
9 琉球王国のグスク及び関連資産群 (平成12年記載)
10 紀伊山地の霊場と参詣道 (平成16年記載)
11 石見銀山とその文化的景観 (平成19年記載)
12 平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群 (平成23年記載)
13 富士山―信仰の対象と芸術の源泉 (平成25年記載)
14 富岡製糸場と絹産業遺産群 (平成26年記載)
15 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業 (平成27年記載)
16 ル・コルビュジエの建築作品 近代建築運動への顕著な貢献 (平成28年記載)
・自然遺産(3件)
1 屋久島 (平成5年記載)
2 白神山地 (平成5年記載)
3 知床 (平成17年記載)
4 小笠原諸島 (平成23年記載)
・複合遺産(0件)
4.霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰 提案書
(2007(平成19)年12月提出)
表紙・目次
(1)提案のコンセプト
1 資産名称・概要
2 写真
3 構成資産の位置図
(2)資産に含まれる文化財
1 整理表
構成資産
参考資産
2 構成資産の位置と写真
A 自然
B 山麓の人々のくらし
C 白山の信仰
参考資産
(3)保存管理計画、又は策定に向けての検討状況
1 個別構成要素に係る保存計画の概要又は策定に向けての検討状況
2 資産全体の包括的な保存管理計画の概要、又は策定に向けての検討状況
3 資産と一体をなす周辺環境の範囲、それに係る保全措置の概要又は措置に関する検討状況
(4)世界遺産の登録基準への該当性
世界遺産の登録基準への該当性
提案書
表紙・目次(PDF:13KB)0-1top
提案のコンセプト 1資産名称・概要(PDF:15KB)1-1concept
提案のコンセプト 2写真(PDF:63KB)1-2concept-photo
提案のコンセプト 構成資産の位置図(PDF:251KB)1-3map1
資産に含まれる文化財 1整理表 構成資産(PDF:260KB)2-1-1list
資産に含まれる文化財 1整理票 参考資産(PDF:260KB)2-1-2list-sankoh
資産に含まれる文化財 2構成資産の位置と写真 自然(PDF:516KB)2-2-1photo-sizen
資産に含まれる文化財 2構成資産の位置と写真 山麓の人々のくらし(PDF:472KB)2-2-2photo-kurashi
資産に含まれる文化財 2構成資産の位置と写真 白山の信仰(PDF:476KB)2-2-3photo-shinkoh
資産に含まれる文化財 参考資産(PDF:162KB)2-2-4photo-sankoh
保存管理計画 検討状況1(PDF:15KB)3-1-1-1plan
保存管理計画 検討状況2(PDF:10KB)3-1-1-2plan
保存管理計画 検討状況3(PDF:15KB)3-1-1-3plan
登録基準の該当性(PDF:12KB)4gaitoh
5.国史跡平泉寺を含む白山麓の文化遺産の世界遺産登録をめざして
勝山市では、平成19年12月20日に、市内にある国史跡白山平泉寺旧境内を含む白山麓の文化遺産群を「霊峰白山と山麓の文化的景観」というテーマで、関係自治体とともに世界文化遺産候補として文化庁に再提案しました。
今回の提案は2回目となりますが、第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に福井県、石川県、岐阜県の3県と、勝山市、白山市、郡上市の3市が共同で行いました。その審査結果の発表は、昨年の1月にあり、「白山」の提案は、他の提案19件とともに継続審査となっていました。
今回の再提案では、文化庁からの指摘事項を修正して提出しています。もっとも大きな修正点は、共同提案した自治体が増えたことです。今回の提案では、新たに大野市、小松市、高山市、白川村の3市1村が加わり、霊峰白山を取り巻く自治体の共同提案が実現しました。
霊峰白山は秀麗な山容で知られ、古くから多くの人々の信仰をあつめてきました。その信仰の拠点は三馬場(さんばんば)と呼ばれ、福井県では勝山市の平泉寺(現在は平泉寺白山神社)、石川県では白山市の白山本宮(現在は白山比め神社)、岐阜県では郡上市の長滝寺(現在は白山長滝神社)をさします。特に勝山市の平泉寺では、“石造りの中世宗教都市”とも言える貴重な遺構が数多く見つかっています。
霊峰白山とその信仰の拠点“三馬場”、両者をつなぐ禅定道(ぜんじょうどう)、さらにその周辺には、信仰に関わる貴重な遺跡が数多く残されています。また、標高500m以上の白山山麓一帯には、豪雪地帯特有の歴史的な建物群が多く残り、日本を代表する貴重な遺産群となっています。
こういった白山と山麓の貴重な文化遺産を世界遺産として守り伝えていくために、今回の提案となりました。
主な遺産群
白山(標高2,702m、ユネスコの生物圏保存地区、高山植物の宝庫、山頂の遺跡群)
信仰の拠点三馬場(勝山市:平泉寺、白山市:白山本宮、郡上市:長滝寺)
禅定道(白山と三馬場を結ぶ参詣道)
白山麓の豪雪地帯にある伝統的な建物群(白山市白峰地区、郡上市石徹白地区)など
- 表紙 (5.5 KB)4265
- 提案のコンセプト (1.2 MB)4266
- 資産に含まれる文化財 (1.8 MB)4267
- 保存管理計画 (706.5 KB)4268
- 世界遺産の登録基準への該当性 (14.7 KB)4269
引用
白山文化(白山信仰・石徹白)https://tabitabigujo.com/appeal/hakusanshinko-faith/about/
公益社団法人日本ユネスコ協会連盟 世界遺産の基準 https://www.unesco.or.jp/activities/isan/decides/
資料
2.プレゼン資料
世界遺産としての白山文化の研究
第1章 緒 言
1,はじめに
白山は日本列島のほぼ中央部に位置し、世界有数の豪雪山岳地帯でユネスコの生物圏保存地域にもなっている豊かな自然がある。白山では山麓一帯が禅定道を基軸に互いに結ばれ、加賀、越前、美濃の三馬場とその禅定道筋にはそれぞれ社寺や集落が形成され、山村特有の生活文化が培われた。山麓には白山信仰を全国に広めた御師集落で、今もかつての美濃禅定道の面影や、御師の伝統と習俗を色濃く残している石徹白、山麓の村々を統轄した集落で巨大な大壁造りの建築物が見られる白峰などがある。また、厳しい気象条件等に適合した出作り・焼畑という生活形態は、世界でも希有な存在である。このように白山信仰を基盤として白山麓でたくましく生き続けてきた風景は日本人の暮らしを代表する文化的景観である。
本研究では、この白山文化遺産の世界遺産への登録の課題を分析し、デジタルアーカイブの必要性について明らかにする。
この、世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき「世界遺産リスト」に記載された、「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことである。 「顕著な普遍的価値」は、どの国や地域の人でも、いつの時代のどの世代の人でも、どのような信仰や価値観をもつ人でも、同じように素晴らしいと感じる価値のことで、そうした価値をもつ世界遺産は、人類共通の財産といえる。世界遺産は、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類される。文化遺産が最も多く、世界遺産の総数は1,000件を超えている。世界遺産リストに記載する遺産は、1年に一度開催される世界遺産委員会で審議され、登録の可否が決定します。世界遺産委員会では「登録」、「情報照会」、「登録延期」、「不登録」の4段階の決議を行う。21の委員国からなる世界遺産委員会では、他にも、世界遺産条約を運用していく諸事項や、世界遺産基金の使い道の決定、世界遺産の保全状況の確認、危機遺産リストへの記載の可否など様々な話し合いを行っている。
例えば、大野市では、平成19年12月20日に、白山麓の文化遺産群を関係自治体とともに「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」というテーマで、世界文化遺産候補として文化庁に提案した。今回の提案は2回目となる。第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に行った。平成19年1月にその審査結果が発表され、提案に対する課題が示され、継続審査となった。今回の提案では、文化庁から指摘を受けた課題を修正するとともに、大野市のほか、新たに小松市、高山市、白川村が加わり、共同提案している。
そこで、石川、福井、岐阜の3県と白山市、小松市、勝山市、大野市、郡上市、高山市、白川村の6市1村は、世界遺産の申請において継続審議となっていた「霊峰白山と山麓の文化的景観」の課題について、2007(平成19)年12月に検討状況報告書並びに再提案書を提出した。
しかし、文化審議会は2008(平成20)年9月、再度暫定リストへの追加登載を見送り、現在、関係自治体で文化審議会の指摘に沿い提案内容などの見直し作業と研究を続けている。
本研究では、白山文化遺産のデジタルアーカイブを進め、白山文化遺産を世界遺産に登録できるような条件を検討し、その課題を明らかにすることを目的とする。
第2章 白山文化とは
1.白山信仰
白山
白山は、岐阜県、福井県、石川県、富山県の4県にまたがる山で、富士山、立山とともに日本三名山といわれることがあります。白山は主峰を持たない山で、御前(ごぜんが)峰(みね)(2,702メートル)、大汝(おおなんじが)峰(みね)(2,684メートル)、剣ケ峰(けんがみね)(2,677メートル)の3つの峰からなります。ここに別山(べっさん)も含めて、ひろく白山と総称することもあります。古来は「しらやま」と呼ばれていたようです。
白山には貴重な植物が多く、「ハクサンコザクラ」「ハクサンイチゲ」など白山の名前を冠する植物も18種類あります。昭和37年(1962)に白山国立公園に指定されたのに続き、森林生態系保護地域、カモシカ保護地域にも指定されています。国際的にもユネスコの生物圏保存地域に指定されるなど、国際的にも高い評価がされているといえます。
白山信仰のはじまり
一年中雪を頂き、長良川(岐阜県)、九頭竜川(福井県)、手取川(石川県)、庄川(富山県)の水源となる白山は、古来から人びとの崇拝の対象であったと考えられます。
白山信仰は、御前(ごぜんが)峰(みね)には伊弉冉(いざなみの)尊(みこと)(別称・白山(はくさん)妙(みょう)理(り)大菩薩(だいぼさつ)。本地仏は十一面観音で白山妙理大権現ともいう。)、大汝(おおなんじが)峰(みね)には大己(おおなむ)貴(ちの)尊(みこと)(本地仏は阿弥陀如来)、別山には小白山(こはくさん)別山(べっさん)大行事(だいぎょうじ)(本地仏は聖観音)がましますとされる、白山三所(はくさんさんしょ)権現(ごんげん)の考え方を基礎とし、神仏習合の山岳信仰として発展しました。養老元年(717)に、越の国(現在の福井市)の僧・泰澄が白山を開いたことに始まるとされています。※本地仏神は、仏や菩薩が人間を救うために仮の姿で現れたものという考え方に基づき、本来の姿である仏や菩薩のことを本地仏といいます。
馬場と禅定道
白山信仰が確立していく中で、天長9年(832)には、馬場(ばんば)と禅定(ぜんじょう)道(どう)が整えられたとされます。 馬場とは、白山を遥拝する場所のことで、この馬場から白山への登拝路のことを禅定道といいます。美濃の白山本地中宮長滝寺(現・長滝白山神社/長瀧寺、郡上市白鳥町長滝)、越前の白山中宮平泉寺(現・平泉寺白山神社、福井県勝山市)、加賀の白山本宮白山寺(現・白山比咩(しらやまひめ)神社、石川県白山市)の3つの馬場と、この馬場からそれぞれに白山へ登拝する禅定道(美濃禅定道、越前禅定道、加賀禅定道)がありました。
白山信仰の歴史
白山を開いたとされる僧・泰澄が、聖武天皇の病気を平癒したり、伝染病の流行を治めたりしたことで、白山も広く諸国からの崇敬を集めたと伝えられます。 平安時代初期から、天台・真言宗の力が増すとともに、天長5年(828)に長滝寺がいちはやく天台宗比叡山延暦寺の末寺となったことに続き、ほかの馬場が置かれた平泉寺、白山寺も延暦寺の末寺となっていきます。 平安時代中期以降は、山岳修験道の母胎として、諸国から多くの信者が白山へ登拝するとともに、時の権力者たちも信仰を寄せ、白山信仰は隆盛期を迎えます。 鎌倉・室町時代を境に、諸国の政情不安により徐々に白山神の威光は最盛期の力を失ってゆくものの、江戸時代には藩主から寄進を受けるなど、人びとの信仰を集めていました。
しかし、明治元年(1868)に明治政府が出した「神仏判然令」は神仏分離を命じたもので、神仏混淆の白山信仰は大きな影響を受けました。
2.美濃馬場と禅定道
美濃馬場・白山本地中宮長滝寺の歩み
現在の郡上市白鳥町長滝におかれた美濃馬場(ばんば)・白山本地中宮長滝寺は、養老元年(717)に越の国(現在の福井市)の僧・泰澄が白山中宮を創建したことに始まるとされます。その後、天平2年(730)に元正天皇が、本地十一面観音、聖観音、阿弥陀如来の三像を奉納したことから、白山本地中宮長滝寺と称するようになったと伝えられます。
長滝寺は、天長5年(828)に、法相宗から天台宗に改宗し、近国における総本山として勢力を増し、同寺の周辺には「6谷6院360坊」といわれるほどの塔頭や宿坊が立ち並んだと伝えられます。治安元年(1021)には後一条天皇の勅命で国家鎮護の祈祷をし、天台別院という高い格式を得ました。
美濃側からの白山への登拝拠点として、尾張・駿河方面からの登拝者たちを迎えたとされます。また、藤原秀衡が鐘楼を寄進したこと、足利尊氏が祈祷を依頼したことなどが記録されており、その時代の権力者の信仰も集めていたと推測されます。
明治元年(1868)の神仏分離令により、白山本地中宮長滝寺は、神を祀る長滝白山神社と、仏を祀る長瀧寺の2つに分離されました。 明治32年(1899)には、濃州第一とうたわれた社殿仏閣は灰燼に帰しましたが、国指定重要文化財の釈迦三尊像などかつての白山信仰の栄華を伝える宝物等が今に伝えられ、一部は龍宝殿や白山文化博物館で公開されています。
美濃禅定道
馬場(ばんば)から白山への登拝路のことを禅定(ぜんじょう)道(どう)といいますが、美濃馬場を起点にする禅定道を美濃禅定道といいます。 美濃禅定道は、白山本地中宮長滝寺を起点に、床並とこなみ社、桧峠を越え、白山中居神社へ。その後、美女下社、今冷泉いましみず社、石徹白大スギ、神(かん)鳩(ばと)社から銚子ケ峰、一ノ峰、ニノ峰、三ノ峰、南竜ケ馬場、別山を経て白山へ至る道のことで、一般の登拝者が登った道だと伝えられます。
行者(山伏や修験者たち)が通った行者道は、白山本地中宮長滝寺から、一ノ宿、二ノ宿、三ノ宿、多和宿、国坂、泉ノ宿、中須、大日宿、カウハシを経て神鳩宿で禅定道と合流しました。 美濃禅定道は、3つの禅定道の中で最も登拝者が多かった道だとされます。
その盛況さを示す言葉として「のぼり千人、くだり千人、ふもと千人」があります。史料からは、実際の登拝者はもっと少なかったと推測されますが、この道が、美濃・尾張方面からの多くの登拝者たちで賑わったことを思い起こさせます。
白山信仰の衰退とともに、美濃禅定道も荒廃しましたが、一部が復元されています。
3.石徹白と白山信仰
石徹白
石(い)徹(と)白(しろ)地区は、郡上市白鳥町に位置し、白山連峰に源を発した石(い)徹(と)白川(しろがわ)に沿った集落です。人口は316人(平成17年度国勢調査)、地区内は、上在所(かみざいしょ)、西在所(にしざいしょ)、中在所(なかざいしょ)、下在所(しもざいしょ)の4地域にわかれ、いずれも標高約700メートル以上の高地にあります。 石徹白という地名の由来は、「いしどうしろ」から転じて「いとしろ」となったとする説など、諸説あります。
地区内の寺社は、白山(はくさん)中居(ちゅうきょ)神社(じんじゃ)、安養寺(あんにょうじ)道場、白鳥山威徳寺(いとくじ)、雷鳥山円周寺(えんしゅうじ)です。地区内の文化財は、国指定特別天然記念物「石徹白の大スギ」、国指定重要文化財「銅像虚空像(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)坐像(ざぞう)」、県指定重要文化財「白山中居神社の彫刻」県指定天然記念物「浄安(じょうあん)スギ」のほか、県指定文化財7件、市指定文化財8件があります。
石徹白地区の歴史
石徹白地区からは、縄文式土器や石器類が発掘されており、古くからから人びとが生活をしていたものと推測されます。 養老元年(717)に僧・泰(たい)澄(ちょう)が白山を開いた際に、石徹白地区の白山中居神社の社域を拡張し、社殿を修復したと伝えられます。
石徹白地区は、全域が、この白山中居神社の神領でした。人びとは、社家・社人と呼ばれ、それぞれに白山中居神社と関わりあいながら暮らしました。神領ということから、無税(税金が免除)で、名字を名乗ること、帯刀を指すことが許されていました。
また、無主(むしゅ)無従(むじゅう)で、いわゆる大名領になったことはほとんどありません。石徹白地区の主要な出来事は、オトナ(頭社人)と呼ばれる12人の人びとの合議によって決められました。 このような石徹白地区で、江戸時代中期の宝暦年間には、真宗道場威徳寺の昇格を発端とし、白山中居神社の神職間の対立関係が原因の「石徹白騒動」が、明治初年には新政府の神仏分離令に端を発する神仏分離騒動が、そして昭和30年代初期には越県合併問題という、石徹白地区内を2分するような騒動が3度起きています。
社家・社人
石徹白地区の中でも、白山中居神社がある上在所(かみざいしょ)の人は社家(しゃけ)とよばれ、そのほかの在所の人びとは社人(しゃじん)といわれました。また、小谷堂(こたんどう)・三面(さつら)集落の人びとは、末社人と呼ばれました。 社家は、神に仕えることを本職とし、神頭、神主、幣司、神楽司等として、白山中居神社の神事・祭礼をつかさどりました。 社人は、平常は百姓をしていながら、白山中居神社の祭事のときに奉仕した人びとのことで、同社の維持管理を担いました。
社家・社人たちの暮らしと白山信仰
「木山三里、笹山三里、はげ山三里」といわれた白山への長い禅定道では、登拝者たちに先達(案内人)は欠かせないものでした。行者(ぎょうじゃ)(修験者・山伏等)以外の登拝者たちは、石徹白地区で1泊した後、銚子ケ峰、別山を経て白山を目指したとされます。
こうした登拝者たちの宿坊を営み、祈祷をし、登拝者たちの案内人をしたのが御師(おし)と呼ばれる人びとです。冬場は、白山神の羽織袴に帯刀を指し、雷除けの護符に牛王札、白山の薬草、白山略図を持って、各地の檀那場を回り、白山信仰を広めました。檀那場を一回りすると金50両・米50俵などの寄進があったともいわれます。
御師は、上在所の社家がなりました。社家は、神に仕えることを本職としたので、御師としての収入が、生活の支えでした。 一方で、平常は百姓として田畑を耕作していた社人たちは、石徹白地区が白山中居神社の神領として無税であったことから、収穫物は全て自分のものとなりました。 社家は、御師として、社人は、神領ゆえ無税という恩恵を受けながら、白山信仰の中で生活をしていました。
第3章 白山文化遺産の構成
1.郡上市白鳥町
岐阜県郡上市白鳥町は長良川の上流に位置し、白山山系の山々と小高い山地に囲まれた山間の地である。集落の多くは長良川が堆積した狭い平地や山裾に立地している。
江戸時代、二十一カ村あった集落は統合や合併を重ね、現在では白鳥町の十八の地区に再編され、存続している。町域を走る基幹交通は東海方面から北陸、越前へと抜ける国道156号線、国道158号線であり、その結節点でもある白鳥町は白山麓の交通の要所として多くの情報や文物が行き通う地となっている。
白鳥町長滝の長良川右岸には養老元年(717)年に白山の開祖泰澄(たいちょう)大師が創建したと伝えられる長滝白山神社と天台宗長龍寺がある。神社は東海方面の白山信仰の拠点であり、平安時代以降、「上がり千人、下り千人」、「菅笠の尾が触れる」と言われるほど多くの白山参詣者が参拝し、繁栄している。
長期にわたって長滝の神社等から発せられる白山神事や白山祭礼の影響もあって白鳥町一円には白山信仰によって醸成されてきた共通の風俗、慣習、生活様式等が集落の枠を超えて広がり、盆踊り、祭礼等となって今日まで引き継がれている。
また、長滝白山神社・長龍寺や石徹白の白山中居(ちゅうきよ)神社等には白山参詣者が寄進した奉納物や白山信仰の遺構も数多く残されている。白鳥町には盆踊りや祭礼、奉納物や遺構が醸し出す歴史と文化の香りが町一帯に漂い、近年、白鳥町は「白山文化の里」とも称されるようになっている。
郡上市白鳥町白鳥の風景
東海地方と北陸、越前方面を結ぶ交通の要所であり、市街地は白鳥神社を中心に長良川左岸沿いに南に伸びている。
長滝白山神社と長滝寺
長良川上流の右岸、白山山系の山裾に鎮座する。境内には長滝寺もあり神仏習合の面影を留めている。
1. 白山への祈り~美濃馬場の白山信仰
白山は御前ケ峰、剣ケ峰、大汝峰の三峰を持ち、石川県、福井県、岐阜県の3県にまたがる標高2702メートルの山である。単独でそそり立つ白山は遠く離れた濃尾平野や北陸各地からも眺望することができる。青空を背景に白雪を戴くその山姿は神々しさと清楚な美しさを感じさせ、古来より神が住む山として人々の尊崇と畏怖の対象になってきた。
○ 「霊山」崇拝
郡上一円の集落では古来から白山を「山の神」が宿る霊山として畏敬、崇拝する素朴な山岳信仰が人々の間に根付いていた。長滝白山神社や石徹白の白山中居神社、集落の白山神社の境内や森は「山の神」が宿る神域として神聖視されてきた。
禅定道に架かる注連縄(しめなわ)
白山中居神社入り口付近の上在所集落に架けられている。
注連縄の架かる地から神聖な地となる。
布橋灌頂(ぬのはしかんじょう)
白山中居神社境内を流れる宮川に架かる橋。彼岸と此岸を繋ぐ橋。参詣者はこの布橋より神域に入ったとされる。以前までは木造の橋で白布がされていたと伝えられる。
白山中居神社の磐境(いわさか)
古代の斎場、神霊が降臨する場。神殿が建てられる前までは祭祀の場であった。山岳信仰の面影が残る。
白山を霊山として神聖視することで白山麓や社域には広大な自然環境が手つかずのまま保全された。白山山系の山々から流れ出る谷川は長良川の清冽な流れとなり、流域に住む多くの生命を育んできた。
清流長良川
山間の谷間から平地に流れ出た長良川は水面に翠を映じながら穏やかな流れとなる。
長良川での游泳
白鳥町二日町。清流長良川に点在する深みは子供たちの絶好の游泳場となる。
長良川の鮎釣り風景
清流長良川は鮎などの川魚が多く生息している。シーズンに入ると東海地方等からの太公望で賑わう。
清流長良川あゆパーク
平成三十年六月に白鳥町長滝の「道の駅」にオープン世界農業遺産「清流長良川の鮎」に関する情報発信の場として開館。魚釣りやつかみ取り等、漁業に関する体験学習が行われている。
○「水分神(みくまりのかみ)」崇拝
美濃側の白山山系から流れ出る川は多くの支川を集め長良川となり、山間地を蛇行しながら河岸平野を形成し、流域の平野を潤して伊勢湾に注いでいる。白山山麓や長良川の流域で生活する人々にとって、日々見慣れた白山は飲料水や灌漑用水を供給する恵みの山であった。
白山から流れ出る大量の水によって土地の開墾がなされ、農耕地が拡大し収穫が増加するにつれ、人々の間では白山を生活に不可欠な水を供給し、五穀豊穣をもたらす水分神が鎮座する山として畏敬、崇拝する素朴な山岳信仰が生まれ、長良川やその支川沿いの集落には白山神社や小祠、遙拝所が祀られようになる。
蛭ヶ野高原の分水嶺
白山山系から流れ出る水は郡上市高鷲町蛭ヶ野の地で分岐し、長良川、荘川の流れとなってそれぞれ伊勢湾、日本海へと流れ込む。
長良川の源流 阿弥陀ヶ滝
長良川最上流にあり、落差は60m、豊富な水量で知られる東海地方唯一の名瀑。泰澄大師によって発見されたと伝えられ、長滝白山神社の神官、僧侶、修験者の修行の場であり、白山参詣者が身を清めた滝でもある。滝までの散策路は森林浴にも適している。日本の滝百選に指定されている。(県指定名所)
長良川沿いの水田地帯
白鳥町二日町。長良川から取水された豊富な農業用水が集落に豊穣をもたらす。田植え間もない頃の風景。
集落の白山神社
神社は集落の氏神であり、白山神への豊穣祈願と報謝の場でもある。白鳥町の集落の大半が白山神社を勧請している。
○「霊水」崇拝
白山の開祖泰澄大師が千匹の悪蛇を封じたとされる万年雪の積もる「千蛇ガ池」や断崖絶壁、千仞の滝から流れ落ちる白山の水は人の齢を延ばす水とされてきた。美濃馬場には白山からの湧水を霊水とする信仰が見られる。
白山千蛇ケ池の霊泉
長滝白山神社境内にある湧水。「白山千蛇ケ池」から湧き出る霊泉と伝えられ、命を長らえる薬水として神社参詣者に愛飲された。
延年(えんねん)水(すい)
長滝白山神社境内にある。別名を「千蛇ケ清水」と言い、夏でも枯れることはない。古文書には「道雅上人加持水」と記され、神社ではこの霊水を神仏に供え、五穀豊穣、悪霊退散の加持祈祷を行っていた。また、神社が発行し、各地に配布される牛王札(ごおうふだ)の「白山瀧(りゅう)宝(ほう)印」はこの霊水を使用し、刷られていた。
村間ケ池(むらまがいけ)
神秘的な光景が漂う池。千蛇が住むとの伝承が伝えられている。池の湧水は年中一定の水量が保たれている。水面には睡蓮科のコウホネや羊草が花を咲かせる。白鳥町前谷地区の標高七百メートルの山中にある。(市指定天然記念物)
2. 長滝白山神社の景観
養老元年(717)、越前の僧泰澄大師は「霊山」として神聖視されていた白山に始めて登拝している。天長九年(832)には、美濃、加賀、越前の三方から白山への登拝道(禅定道(ぜんじょうどう))が開かれ、その登拝拠点には「三馬場(さんばば)」と称される社寺がそれぞれ置かれた。美濃側からの登拝拠点である「美濃馬場」の長滝白山神社は白山の名声が高まるにつれ、東海地方から多くの白山参詣者や修験者が訪れ、賑わいを見せるようになる。
平安時代後期には白山麓一円に広大な寺領を有し、「神殿仏閣三十六余宇、六谷六院、僧坊三百六十」と言われ、神仏習合の「白山中宮長滝寺」と称し法灯の最盛黄を向かえている。長滝寺では天下太平、五穀豊穣を祈願する白山神事祭礼や『延年』、そして『法華経』八巻を朝夕1巻ずつ四日間にわたり修する「修正会」、「修二会」等の法会等が宝治二年(一二四八)から約六百年間に渡って続けられてきた。
明治元年(1868)の神仏分離令によって「白山中宮長滝寺」は天台宗の白山長滝寺と長滝白山神社に分離し、存続の危機に瀕したが、長滝地区の氏子衆の協力もあり、祭礼や法会は失われることなく今日まで継承されている。神社境内には盛時の神仏習合の面影を伝える神殿、仏閣、堂宇の遺構、宿坊が佇み、参拝者を迎えている。
長滝白山神社の参道
参道が神社本殿に向けて伸びている。付近を長良川鉄道、国道156号線が並行して走る。
長滝白山神社の本殿
白山三神(白山妙理大権現、大己(おお)貴(な)尊(むち)、別山大行事(だいぎょうじ))を祀る。本地(ほんち)垂迹(すいじゃく)説では白山妙理大権現は十一面観自在菩薩、大己貴尊は阿弥陀如来、別山大行事は聖観音の垂迹とされている。
長滝寺
天長五年(828)、法相宗から天台宗に改宗、その後、比叡山延暦寺別院となる。明治の神仏分離で天台宗白山長滝寺となる。『郡上踊り』の踊り曲<かわさき>で「郡上に過ぎたは長滝講堂」と歌われた講堂は明治三十二年の大火で焼失、残された礎石が往時の面影を伝えている。
石(いし)燈(とう)籠(ろう)
神社本殿と長滝寺の双方に直面する位置に立てられている。正安四年(1302)に伝燈大法師覚海が寄進した燈籠。(国指定重要文化財)刻銘「正安四年壬寅七月日 願主伝燈大法師覚海」
宝篋印塔(ほうきょういんとう)
印経文を納める塔。天保四年(1833)、長滝寺僧侶の良雅の本願で寄付を募り建てられた。(市指定重要文化財)
天神堂
昭和六年に神社に合祀された。毎年二月二十五日に男の子の学問向上を願い、『天神祭り』が長滝地区の氏子衆によって行われる。
弁天堂
毎年八月七日に女子の成長と五穀豊穣を祈願する『弁財天七夕祭り』が長滝地区の氏子衆によって行われる。正応五年(1292)建立、その後焼失。
三重塔跡
神社の西側の山裾にはかって三重塔、常行堂、法華堂、開山堂等の堂宇が建ち並び、威容を誇っていた。三重塔は天正十三年(1583)の大地震と大風によって倒壊、嘉永六年(1853)に郡上藩に再建願いが提出されたが認可されず。
宝憧坊(ほうどうぼう)
参道入り口に位置している。多くの僧坊が退転する中、今日まで存続している坊である。僧坊には長滝寺僧侶や修験者が起居し、僧侶は月ごとに順に『荘厳講(しょうごんこう)』の執事を勤めた。また、白山参詣者の宿泊所ともなった。
蔵泉坊跡
寛文九年(1669)には僧坊数は二十七坊あったが寛延三年(1750)には十四坊になり、半減している。明治元年の神仏分離で多くの僧坊が退転、廃絶している。明治七年の神社記録には存続している坊とし蔵泉坊、大日坊、竹本坊、宝憧坊、経聞坊、持善坊、阿名院の七坊が挙げられている。蔵泉坊の名もあることからその後に退転したと思われる。
経聞坊(きょうもんぼう)
江戸時代、長滝寺の坊の中で格式が最も高い僧坊。今日まで存続している。享保年間、経聞坊の檀那場は尾州、三州、美濃等の百ケ村余りの農村を中心に、名古屋では武士にも及んでいた。経聞坊からは、終日読経が参道に流れていたと言われる。
阿名院(あみよういん)
廃絶した山伏寺の花蔵院を室町時代に経聞坊隠居の道雅法印が再興、長滝白山神社に残る唯一の坊院。境内には歴代の長滝寺僧侶の墓や六十六部廻国碑等がある。
若宮家
長滝白山神社の執行家、現在の建物は天明五年(1785)、文化八年(1811)にそれぞれ建築されている。(県指定重要文化財)
金剛童子堂
白山修験者は金剛童子堂、護摩檀で護摩を焚き、祈祷の峰入り儀式を行った。長滝寺には応仁二年(1468)の金剛童子堂再建の棟札がある。明治五年に修験道は廃止。
護摩壇跡
護摩を焚いた当時の礎石が残る。金剛童子堂の前にある。
入峯堂跡
白山修験者は峰入りの儀式を受けた後、入峯堂に籠もり身心を清め、一般の白山参詣者が利用する美濃禅定(ぜんじょう)道(どう)とは異なる行者道で白山頂上へと向かった。
行者道の跡
行者道のおおよその行程は「金剛童子堂」~「一ノ宿」~「三ノ宿」~「三国峠」~「大日宿」~「神鳩」~「白山頂上」であった。途次、「白山二十八宿」で山伏は修行し宿をとった。今日、道の多くに草木が生い茂り、わずかな痕跡を残すのみである。
3. 長滝白山神社の奉納遺産
長滝白山神社には尾張や三河から多くの白山参詣者が訪れている。長滝白山神社にはこれらの白山参詣者が五穀豊穣、延命息災等を祈願し、奉納した奉納遺産が数多く残されている。現在、これらの奉納遺産は白山文化博物館の常設展、及び白山瀧宝殿で見ることができる。
瓶子(べし)
正和元年(1312)に中島郡奥田にある天台宗の安楽寺高僧の栄秀が白山神に奉納。「中島郡奥田」は現在の愛知県稲沢市奥田町にあたる。(国指定重要文化財)
瓶子
尾州愛知郡の清原広重が同型の瓶子を同じ正和元年十二月に奉納している。「尾州愛知郡」は現在の愛知県愛知郡東郷町、日進市、長久手市、瀬戸市付近。(国指定重要文化財)二口ともに神前に配される酒器。
昭和八年(1933)越美南線工事中、神社近くの民家の地下から対で掘り出された。正和元年制作の古瀬戸は他に類をみない。二口の瓶子は形状もほとんど同一で同一制作者である。奉納者の清原広重は瀬戸物の産地の瀬戸市付近に住んでいることから、安楽寺の阿闍梨の栄秀が陶工の清原広重に制作を依頼し、二口制作し、二人で別々に奉納した瓶子と思われる。
仏餉(ぶっしょう)鉢(ばち)
正和三年(1314)に伴友長が奉納した鉢。米や供物を仏前に盛る容器。奉納された三口のひとつ。(国指定重要文化財)
吊り燈籠
天文年間に愛知県犬山市の水野勘左衛門が所願成就を願い奉納した吊燈籠。釣環は亡失している。(市指定重要文化財)
五部(ごぶ)大乗(だいじょう)経(きょう)唐(から)櫃(びつ)
弘安二年(1279)に白山の別山社に五部大乗経を施入した際に使用したスギ材の唐櫃。奉納の銘文は、うちぶたに朱漆で記されている。
(県指定重要文化財)
経机(きょうづくえ)
静岡県袋井市国本の住人平野常光と平野勝五郎の両名が奉納した木製の机。(県指定重要文化財)
狩衣
尾州名古屋の有萱又左衛門が元和六年(1620)に奉納。長滝寺の修正会の後宴『延年』の演目<当弁>で役者が着した狩衣。
蝶と梅模様、牡丹模様の二流が残されている。(国指定重要文化財)
能面<翁>
駿河の人が天文十一年(1542)に奉納した翁面。長滝寺では戦国時代、越前から大和五郎大夫が来訪し僧侶に能を教え、その成果が『延年』や領主ので演じられていた。本面は五穀豊穣、天下太平を言祝ぐ長滝寺の神事能<式三番>で使用された面。制作者の「酒惣」の出自については不明。(国指定重要文化財)
古猿楽面(1)
応安二年(1369)に奉納された面。『延年』で演じられていた物真似芸の猿楽で使用された面と思われる。(尉)面が様式化される以前の面(国指定重要文化財)
古猿楽面(2)
『延年』の物真似や田楽で使用されていた面。頻繁に使用された形跡がある。能面制作史上、注目される面。(国指定重要文化財)
能面<若い女>
白山参詣者が文明二年(1470)に奉納した能面。女面の様式が統一される移行期に制作された面と思われる。天文年間、『延年』の能で大和五郎大夫や長滝寺僧侶が手猿楽で使用した面。(国指定重要文化財)
能面<喝食(がっしき)>
福井県福井市北庄の住人が元和二年(1616)に延命息災を願い長滝白山神社に奉納した面。面裏の鼻の部分に「◇」が刻されていることから、面は近江の世襲面打ち井関家が戦国時代に制作した面と思われる。「喝食」とは禅寺にて寺院の雑務等に従事する半俗半僧の僧を言う。(国指定重要文化財)
4. 白山への道~美濃禅定道の遺構
長滝白山神社に参詣し、供物を奉納した参詣者は白山頂上を目指した。長滝白山神社から頂上への道は美濃禅定道と呼ばれ、長滝白山神社を起点に郡上市白鳥町前谷を経て、白鳥町石徹白の白山中居神社より白山頂上に至る全長約40キロメートルの山道である『白山之記』に「白山は観音菩薩利益の砌なり。一度清涼の峰を践(ふ)めば、必ず文殊の利益に預かり、一度白山によづる類観音の冥助を疑がはざるものか」とある。白山参詣者は禅定道沿いにある道標や白山神を祀る社や小祠、泰澄大師の事蹟跡、修行僧が籠もった石室の修行跡に遺徳を偲び、白山の懐に懐かれたとの幸福感を懐きながら、登拝の危険や辛苦も厭わず、白山の奥宮を目指したのである。白山登拝を成し遂げた参詣者の多くは頂上に祀られた仏像や石垣で防御された粗末な奥宮、御来迎や日没の神秘的な光景を目の当たりにし、白山神への尊崇の念をさらに高揚させたものと思われる。
文化四年(1807)の初秋に白山登拝を行った白鳥町歩岐島の悲願寺住職は次ぎのような行程を経ている。
長滝白山神社~床並社~桧峠~一之瀬社~石徹白~白山中居神社~斧石~美女下社犬石~おたけり坂~かぶろ杉~神鳩宮~母御石~銚子ガ峯~一の峯~二の峯~三の峯美濃室跡~御手洗池~別山~大屏風~小屏風~南龍が馬場~高天原~御前峯~白山奥宮剣が峯~翠が池~大汝峯~蛇塚~市ノ瀬
住職は奥宮に参拝後、越前禅定道を下り、市ノ瀬経由で杉峠を越え、大野市の鳩ヶ湯、和泉を経て白鳥町歩岐島に戻ったと思われる。白鳥町を通過する美濃禅定道は近年まで生活道としても利用されていたが、国道156号線や県道314号線(石徹白・前谷線)の整備によりその多くが欠失し、道筋は不明になりつつある。残された禅定道には草木が生い茂り、かつて参詣者を癒やした社や小祠、石仏等は道沿いにひっそりと佇んでいる。一方、林道の敷設により新たな登山口となった「石徹白の大杉」付近から別山までの禅定道は大正年間以降、石徹白の人々やボランティアによって毎年、「白山道刈り」が行われ、道の保全と維持がされている。
十一面観音像の道標
白鳥町前谷の国道156号線と県道314号線が分岐する地。台座には「右飛騨道 左白山」とあり、文久元年(1861)に当地の氏子衆が奉納している。
前谷の禅定道
白鳥町前谷の県道314号線沿いに残る。
禅定道にある床(とこ)並(なみ)社跡
白鳥町前谷の山中。参詣者が礼拝し、疲れた体を休めた社。明治期に前谷の白山神社に合祀され、その社跡には前谷の氏子によって建てられた石碑と二十段の石段が整備されている。
床並社跡付近の禅定道
利用されなくなった禅定道の石畳には雑草が生い茂っている。
桧峠付近の禅定道と小祠
白鳥町前谷と白鳥町石徹白の境界。桧峠はかって「三国峠」とも呼ばれていた。道筋には草木が生い茂っている。
石徹白の山中の禅定道
禅定道は生活道として近年まで利用されていた。
カルヴィラいとしろ付近。
中在所にある禅定道の道標
禅定道と大野道(福井県大野市方面)との分岐点に置かれ、
「是より右ハ白山左ハ大の」
とある。
石徹白集落の禅定道
禅定道は集落の東側を走り、
白山中居神社へと続く。
「浄安スギ」付近の禅定道
利用されなくなって久しい。近年、付近の禅定道が整備されつつある。樹齢1200年と言われる「スギ」は多くの登拝者を見てきたのであろう。
禅定道にある美女下社跡 禅定道に残る社の礎石
白山への女人登拝はここから禁制になっていた。社跡には大杉の切り株跡が残る。
禅定道にある斧石
泰澄が登拝の折、使用していた斧を「結界」との理由で石に打ち付け、刃をつぶしたとの言い伝えがある。石の穴はその際のものと言われる。
禅定道にある犬石
泰澄の母の下山を待つ侍女が石になったと伝えられる。
白山登山口
林道の敷設により標高965メートルの地に新たに設けられた石徹白からの登山口。30台の駐車可。石段を登りきると「石徹白の大スギ」付近を通過する禅定道と合流する。
石徹白の大スギ
推定樹齢1800年、周囲十二メートル、十二人抱えの大杉と言われる古木。「大スギ」は禅定道を往く多くの登拝者を見守ってきたのであろう。(国指定特別記念物)
白山登山道の清掃
ボランテイアによる清掃。「石徹白の大スギ」付近。
5. 石徹白集落の風景
白山中居神社がある郡上市白鳥町石徹白は白山南麓の緩やかな傾斜地に開けた戸数111戸、人口256人(平成30年6月現在)の小さな集落である。以前までは福井県大野郡に属していたが、隣接する郡上との交流が深く、昭和33年越県合併で岐阜県郡上郡白鳥町(現郡上市白鳥町)に編入している。平安時代に著された『白山之記』に「石同代ト云社マテ女人ハ参詣ス」とあり、石徹白は古くから白山の登拝口となっていた。集落は上在所、中在所、西在所、下在所の四地区で構成され、住民は土地の産土神(うぶすなかみ)でもある白山中居神社に社家・社人として仕えていた。
白山中居神社の近辺に位置する上在所は神社の祭祀を行う社家が居住する地区であり、「白山御師(おし)」の里とも称されていた。一方、中在所は美濃禅定道が桧峠を越え、初めて石徹白の集落に入る地であり、泰澄大師を祀る大師堂や浄土真宗の威徳寺、旅館等の家々が建ち並び、また室町時代に石徹白を統治した石徹白氏の城跡もあり、歴史の面影を伝える地区となっている。西在所は集落の中で高い台地にあり、広い水田の間に家々がまばらに点在し、自動車や農作業用の軽トラックが行き通う農耕地が広がっている。下在所は台地の縁に位置し、家々は福井県大野市へ伸びる県道127号線(石徹白・朝日線)沿いに細長に点在している。
石徹白のすべての家の土台は石積みであり、屋敷林や門構え、屏はなく、隣家との距離もあり、広々としている。石積みは道路や水路、池、農地の区画にも数多く用いられている。
高台から眺望する石徹白は白山山系の山々を背後にして、杉木立や水田が広がり、その合間を長滝白山神社からの美濃禅定道、基幹道、そして大野市へと向かう「おおの道」が南北に走り、開放感ある農村風景を醸し出している。
上在所の風景
白山中居神社の門前の地に、かつての御師の家屋が並ぶ。
中在所の風景
石徹白地区の中心地。家屋が密集している。
西在所の風景
農耕地(畑・水田)が広がる。
下在所の風景
福井県大野市と近接しとている。
6. 白山中居神社の景観
白山中居神社は白山山系から流れ出る石徹白川と宮川が合流する地に鎮座している。鳥居をくぐり、杉の巨木を抜け、宮川の布橋を渡り切ると神社境内に到達する。集落の産土神でもある神さびた神社は養老元年(717)、泰澄大師が白山を開く途次、社殿を修復、拡張したと伝えられる。
境内には古代祭祀跡の磐境が祀られ、泰澄大師堂跡も残されるなど、山岳信仰の面影が色濃く漂っている。白山登拝者は神社東側を通過する登拝起点から神社背後に広がる杉、ブナの自然林の中を白山頂上に向けて歩を進めたのである。
白山中居神社本殿
本殿は安政年間(1854~1859)に越前志比(福井県吉田郡永平寺町志比)の大工により再建されている。梁には同時代に大坂と諏訪の彫刻師が彫った龍、水、うづら、葡萄の彫刻が、正面には鳳、桐の花が彫られている。「七十五翁、立川富昌(花押)」とある(彫刻は県指定重要文化財)。
白山中居神社の森
神社境内には推定樹齢二百年から千年の杉の巨木が林立し参道、社殿を取り囲んでいる。(県指定天然記念物)
磐境
神霊が降臨する場であり、古代には祭祀が行われていた。六月十八日に磐境の前で創業祭が行われ、社家が御幣を捧げる。
泰澄堂跡
明治の神仏分離で大師堂に合祀された。 白山中居神社の神仏習合の面影がただよう。
7. 白山中居神社の奉納遺産
白山参詣者は長滝白山神社を経て、白山中居神社に参詣、供物を奉納し白山頂上を目指した。白山中居神社には東海地方からの奉納された供物が多く見られる。これらの奉納物の中、仏教関係の供物は明治の神仏分離令により新たに建造された観音堂と泰澄大師を祀る大師堂に移され、神社には神道関係、祭礼関係の奉納物を残すのみとなっている。
能面<若い女>
美濃馬場の白山信仰が盛んな天正八年(1580)に柴山喜蔵が五穀豊穣、延命息災等の祈願成就を白山神に願い、奉納した面。現行の様式化された女面とは違い、写実的な作りに特徴がある。(県指定重要文化財)
木造獅子頭
貞享五年(1688)に美濃の恵那郡加子母村の熊沢与七が白山神に家内安全、除厄を祈願し、奉納した獅子頭。刻銘がかすかに残る。
8. 大師堂の奉納遺産
石徹白の浄土真宗門徒によって明治五年(1872)に泰澄大師を祀る観音堂・大師堂として中在所に建てられた。堂には中居神社から移された仏像、仏具等の奉納物が納められている。
大師堂の風景
堂の入り口には泰澄大師の石像が建つ。大師堂では三月十八日の大師の命日に門徒によって法要が行われている。
泰澄大師坐像
泰澄大師か初めて白山登拝をした三十六歳の期の坐像とされる。後補が加えられている。(市指定重要文化財)
花瓶
応永二年(1395)に郡上市大和町牧にあった「尊星王院」の仏慶が神鳩社に奉納した花立。「神鳩」は美濃禅定道に祀られていた神鳩社。(市指定重要文化財)
銅造虚空蔵菩薩坐像(こくうぞうぼさつざぞう)
神仏分離以前までは白山中居神社の本地仏として祀られていた。平安時代末期に奥州平泉豪族の藤原秀衡が奉納したと伝えられる。金属工芸の高い技術で制作されており、日本の彫刻史上、特筆すべき金銅仏である。若干の後補がなされている。(国指定重要文化財)
青銅鰐口(わにぐち)
織田信長が元亀二年(1571)に家臣の菅谷九右衛門を奉行として社家の石徹白源三郎胤弘の祈願によって白山の三神の一つ別山大行事(べつざんだいぎょうじ)に奉納した鰐口。「信長鰐口」として知られる。(県指定重要文化財)
9. 石徹白の白山御師
上在所に居住する白山中居神社の「社家」は「白山御師」として白山信仰を全国各地に広めている。その布教活動は冬期の一月から五月にかけて各地の集落に赴き、神札、白山略図、雷よけの護札、白山薬草を配布した。また、当地へ白山社を勧請するため村民に協力を求めるなど、勧進僧的な役割をも果たしていた。白山登拝シーズンの七月~八月には檀那場から白山登拝に訪れる白山講の講員や巡礼を自宅に泊まらせ、祈祷や禅定道の道案内を行っていた。御師の巡回によって白山信仰が定着した「檀那場(だんなば)」は飛騨、美濃、越前、近江、尾張、三河、信濃、甲斐、遠江、駿河、相模、武蔵、上野(こうずけ)、石見(いわみ)、美作(みまさか)等に及んでいた。「白山御師」の布教活動は三馬場では美濃馬場にのみで、明治三年に御師制度は廃止されたが、石徹白では大正年間まで続いていた。
御師の家 石徹白伊織家
石徹白に残る唯一の御師の家。越前志比の大工によって万延元年(1860)頃に建てられている。切妻式の平屋でトタン板、かってはクレ板葺であった。門構え等はなく水田と消雪用の池に囲まれ、部屋は「シンレイノマ」、「キャクマ」等の八間。参詣者は一階に宿泊していた。
石徹白清住家
切妻式の二階建て、かってはクレ板葺であった。二階には「ゴシンゼンノマ」、「ミタマサマノマ」がある。神前の間と仏間から、神道と浄土真宗の双方の影響が見て取られる。
(国登録有形文化財)
白山版木
御師が檀那場で配布した神札等の木
10. 白山信仰が育んできた芸能と祭礼
長滝白山神社では宝治年間(1247)頃から天下太平、五穀豊穣を白山神に祈願する例祭や法会が行われ、後宴の芸能が僧侶や神官、山伏等によって盛大に催されてきた。
長滝白山神社の祭礼や芸能は白鳥町一円の集落にも波及し、末社の白山神社の祭礼では氏子衆によって五穀豊穣、延命息災を感謝、祈願する祭礼や芸能が奉納されるようになる。
〇長滝白山神社の芸能『延年』
長滝白山神社の『延年』は一月六日の「六日祭(むいかまつり)」に奉納される。 拝殿の中央には胡桃等の白山の幸が盛られ、白山の三峰の御前峰、大汝峰、別山に似せ白米が盛られ、山に雲がかかる様子を表現した紙ばりを被い、依代(よりしろ)となる三日月松が立てられる。この「菓子台」の前で最初の演目の《酌取り》がなされる。《酌取り(しゃくとり)》が終わると「菓子台」の供物は参拝者に播かれる。次ぎの《当弁(とうべん)》では役者が当弁竿を振りかざし梅、竹の功徳を褒め称える。続く《露払い(つゆはらい)》では鬼面の武者姿の役者が扇をかざし、囃子に合わせて劍舞や足踏みなどの所作を行う。《乱(らん)拍子(びょうし)》では稚児が「開運厄除祈祷札白山総社表本宮白山長滝神社」と記された菊の造花を持ち、舞台を廻り、小さな足踏みを行う。演目は《(<)田歌(おた)》、《花笠ねり歌》、《当弁ねり歌》と続き、《しろすり》へと進む。腰に鎌をさした農作業の出で立ちの役者が社領の鍬打ちをすると述べ、白山神社の繁栄を讃える詞章を述べ、田打ちの所作を繰り返す。
このように『延年』は厳粛な中にも随所に白山との関わりを演出し、華やかさを漂わせながら滞りなく演じられていく。最後の《大衆(たいしゅう)舞(まい)》で役者は「はっさいや」の掛け声とともに足拍子を踏み、片手を挙げて首をひねるコミカルなしぐさをして退場、『延年』は終了する。
一方、舞台上の『延年』が佳境にさしかかった頃、拝殿の天井に吊られた「花笠」の奪い合いが始まる。若者が「人梯子」を組み、「花笠」を引きずり下ろそうとするが幾度となくその梯子は崩れる。「花笠」が地に落ちるや多くの参拝者が殺到する。「花奪い」で花笠の断片を手にした参拝者は白山の神の依代として家に持ち帰り、五穀豊穣、延命息災、家内安全を願い、神棚に祭祀するのである。(国指定無形民俗文化財)
『延年』の演目
白山からの寒風が吹きすさぶ拝殿で行われる。
<答弁> <しろすり> <露払い>
菓子台
江戸時代までは「菓子台」の前で長老の僧侶が天下太平、五穀豊穣、寺領の繁栄を白山に祈願し、賛を唱える演目の「菓種」があった。
演目《酌取り》
永瀧寺に居住まいする山伏が演じる演目であった。
花奪祭り
明治時代以降、拝殿土間で行われるようになったと言われる。
<飛出(とびで)>面
天文年間(1532~1554)の時期、越前の大和五大夫が長滝寺の僧侶に能を指導している。神社には『延年』の夜の能で使用された能面が残されている。
<飛出>面はその一面。(国指定重要文化財)
〇長滝白山神社の祭礼『でででん祭』
長滝白山神社では。五月五日の端午の節句に子供の成長を白山神に祈願する例祭が行われる。開始時に打たれる太鼓の音に模し、「でででん祭り」とも言われる。本祭前日、菖蒲、よもぎ、山吹が供えられた白山三社の神輿(みこし)の前で宮司による祝詞、お祓いが行われ、その後、子供逹は神輿の隙間をくぐり抜ける。以前までは男の子が中心であったが、近年は地区以外の成人、男女誰でも参加できる。五日当日は神事の後、巫女四人による「浦安の舞」が奉納され、太鼓の合図とともに白山三社の神輿は宮司を先頭に白装束、立て烏帽子の若者八人によって担がれ、御旅所までの渡御が始まる。子供御輿も加わる。御旅所では祝詞奏上の神事の後、菖蒲酒が振る舞われ、神輿は再び本殿に還御される。その後、境内では餅撒きが行われ、参拝者は白山神の縁起物の餅を競い合って取り合うのである。
神輿くぐりと安浦の舞
子供の無病息災と健やかな成長を願う行事がに行われる。
御神体の神輿(みこし)渡御(とぞよ)
参道にある太鼓橋を渡るときが渡御のハイライト。
〇長滝地区の祭礼『弁天七夕祭り』
長滝白山神社に合祀されている弁天堂では八月七日に『弁天様の祭り』が長滝の氏子衆によって行われている。『祭り』では女の子が弁天堂の前に整列し、長滝寺の僧侶が《般若心経》を読経、各自がお参りした後、青竹に自作の和歌や「天の川、「なす」、「きゅうり」と書いた短冊を吊し、「弁天様のお祭りじゃ、秋のこがねの豊年じゃ」と唱えながら長滝地区の家々を回る。提供された供物は弁天堂に供えられる。「弁天様の祭り」は長滝の『弁天七夕祭り』が水分神でもある白山の神と結びつき、豊穣を願う祭りへと変容したものと思われる。
以前までは『弁天様の祭り』は男女を問わず行っていたが、昭和六年に境内に天神堂が合祀され、それ以降は男子は『天神樣の祭り』、女子は『弁天様の祭り』として区分され、それぞれ行われるようになった。
弁天七夕祭り 巡回風景
〇長滝地区の祭礼『天神祭り』
昭和六年に長滝白山神社に合祀された天神堂では毎年二月二十五日に男の子の成長と学問の向上を願う『天神祭り』が長滝地区の氏子衆によって催される。祭りの前日、男の子たちは長滝の家々を回り、供物としての提供された餅米で餅をつき、菅原道真の歌「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて 春な忘れそ」、「ひさかたの月の桂も祈るばかり家の風をも吹かせてしがな」を半紙に毛筆で清書する。祭り当日、男の子たちは清書した歌と餅を天神様に供え、長滝白山神社の宮司の祝詞を受ける。その後、両親や一般の人々も参加し、雪を積み重ねた高台から男の子による餅撒きが行われ、祭りは終了する。清書された歌と餅は長滝地区の全戸に配布され、居間や子供部屋に供えられる。
天神祭り
雪かき等の会場設営は長滝地区の人々が行う。
宮司の祝詞 もちまき
白山中居神社の例祭と『五段の神楽』
白山中居神社では五月十五日に神迎え祭りの春季例祭が行われ、神事芸能の『五段の神楽』が神事終了後に奉納される。「五段の神楽」は巫女姿の姉と妹の二人が鈴を振り、扇、弊束をかざしながら笛、鼓、大小の太鼓、雅楽に合わせ、静かな足取りで舞いを舞う。
演目は<とびの舞>、<二人舞>、<扇の舞>、<鈴の舞>、<弊の舞>があり、最後に姉妹は神前に置かれた小机の前に坐り白山神に二拝して舞を終える。
その後、境内の磐境前で神事が行われ、御旅所(おたびしょ)までの「神輿渡御」が始まる。御旅所では地元の婦人会によって『石徹白の民踊り』も披露される。(市指定重要無形民俗文化財)
五段の神楽
神輿渡御の風景
〇『白鳥踊り』と『拝殿踊り』
白鳥町一円の集落の盆踊りは享保八年(1723)以前から神社拝殿で行われていた。拝殿での踊り曲は石徹白の白山への祈祷に起源を持つ<場所踊り>であった。踊りの形態は天井から吊られた悪霊封じのキリコ灯籠の下、音頭取りの音頭に合わせて両手を後ろに汲み、手足を前後左右にゆっくりと移動させ、下駄の音でリズムを取りながら踊る単純な所作の輪踊りである。
踊りは享保八年の奉行所の停止命令、明治政府の禁止令、大正、昭和の度重なる戦争、自然災害にも途絶えることなく集落の神社拝殿で踊り続けられてきた。
第二次大戦後、踊りの場所は拝殿から市街へと移り、その形態も屋形から流れる音頭取りの音頭と太鼓、三味線、笛の伴奏に合わせて白山麓の民謡を軽快なテンポで踊る『白鳥踊り』へと変容している。
これによって囃子なしの『拝殿踊り』は衰退し、<場所踊り>はほとんど踊られなくなった。
一部の踊り好きによって各集落の神社拝殿で細々と踊られていた。平成八年『白鳥の拝殿踊り』として白鳥町重要無形民俗文化財に指定されてから注目されるようになった。今日では『白鳥踊り』の期間中、長滝、前谷、白鳥、野添の集落の白山神社拝殿などで古態のままの<場所踊り>を含め、<さのさ>、<よいとそりゃ>、<チョイナチョイナ>や忘れ去られた曲、廃絶した曲が即興で踊られる。<場所踊り>の神さびた所作は白山への祈祷芸の面影を今日に伝えている。
『白鳥踊り』
軽快な踊り曲<神代>が若者に好まれる。踊り場を変え二十一夜にわたって踊られる。
『拝殿踊り』
静寂な夜の境内に踊りの別世界が形成される。(国選択無形民俗文化財)
長滝白山神社 白鳥神社
野添・貴船神社 野添・貴船神社
中津屋(なかつや)地区の『嘉喜(かき)踊り』
郡上市一円の集落では九月から十月にかけて氏神の白山神等に五穀豊穣、村民快楽を祈願し、感謝する神事芸能の『かき踊り』が奉納されてきた。
近年、集落の少子化、高齢化の影響もあり、郡上一円の『かき踊り』は姿を消しつつあり、白鳥町では今日では中津屋地区のみとなり、数年に一度、『大神楽』と併せて氏神の白山神社と八幡神社で奉納される。八十名余りの役者と輪の中央に配された三人の「拍子打」が踊る色彩感溢れる輪踊りである。
踊りは「東西よばり」役の「東西しずまれおしずまれ」の一声で始まり、「歌おろし」役が氏神の白山神社を鑽仰し、宮の造り、周囲の四季の景観、農事の様子を愛でる詩章を交代で歌い、その音頭に合わせ「拍子打ち」が太鼓を打ちながら軽快に踊る。他の大勢の役者は「ヤッコリャコリャ、ドッコイサ ドッコイサ」と囃しながら足を前後させ、両足を揃えて手拍子を打つ所作を繰り返す。
<本踊り>、<十禅寺踊り>と進み、<返し踊り>に入ると「拍子打」は身をかがめ背中のシナイで境内を掃く真似する。ここが『嘉喜踊り』の見せ場となり多くの観客から歓声があがる。(県指定無形民俗文化財)
中津屋地区の白山神社
養老年間、泰澄が創建したと伝えられる。かつては「東永山十禅寺」と称されていた。
白山神社の『嘉喜踊り』
中津屋地区には白山神社、八幡神社の二つの氏神が祀られている。『嘉喜踊り』は両神社で奉納される。
第4章 世界遺産
「人類共通の財産」世界遺産
世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき「世界遺産リスト」に記載された、「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことです。 「顕著な普遍的価値」は、どの国や地域の人でも、いつの時代のどの世代の人でも、どのような信仰や価値観をもつ人でも、同じように素晴らしいと感じる価値のことで、そうした価値をもつ世界遺産は、人類共通の財産といえます。
世界遺産の分類と数
世界遺産は、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類されます。文化遺産が最も多く、世界遺産の総数は1,000件を超えます。
世界遺産委員会
世界遺産リストに記載する遺産は、1年に一度開催される世界遺産委員会で審議され、登録の可否が決定します。世界遺産委員会では「登録」、「情報照会」、「登録延期」、「不登録」の4段階の決議を行います。
21の委員国からなる世界遺産委員会では、他にも、世界遺産条約を運用していく諸事項や、世界遺産基金の使い道の決定、世界遺産の保全状況の確認、危機遺産リストへの記載の可否など様々な話し合いを行っています。
日本と世界遺産
世界遺産条約が採択されたユネスコ総会の議長は、萩原徹日本政府代表が務めました。しかし、日本が世界遺産条約に参加したのは条約採択から20年後の1992年のことです。 1993年、「法隆寺地域の仏教建造物群」、「姫路城」、「白神山地」、「屋久島」の4件が日本で最初の世界遺産として登録されました。世界遺産保全への協力や、「真正性」などの価値の見直しに日本は重要な役割を担っています。
危機遺産
世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が危機に直面している遺産は、「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に記載され、世界遺産条約加盟国の協力を得ながら、危機を取り除く努力がなされます。 世界遺産の危機としては、戦争や紛争による遺産破壊、密猟や不法伐採などの自然破壊、地震などの自然災害、過度の観光地化や都市開発などが考えられます。危機を取り除くために「世界遺産基金」なども使われます。
世界遺産リストからの削除
世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が失われたと判断された場合は、世界遺産リストから削除されることもあります。これまでに、オマーンの「アラビアオリックスの保護地区」とドイツの「ドレスデン・エルベ渓谷」が削除されました。
(1)世界遺産の基準
【世界遺産に登録されるまでの流れ】
1.各国政府が世界遺産条約を締結・批准
2.各国が作成した暫定リストから推薦書を提出
3.ユネスコの世界遺産センターは推薦書を受理し専門調査を依頼
4.文化遺産…ICOMOSが現地調査などを行う
自然遺産…IUCNが現地調査などを行う
5.ユネスコの世界遺産センターを通して専門調査に基づく勧告
6.世界遺産委員会にて審議・決議
世界遺産登録が決定
(2)世界遺産の登録条件
登録基準所為解散に登録される為には、「世界遺産条約履行のための作業指針」で示されている登録基準、いずれか1つ以上合致するとともに、真実性(オーセンティシティ)や完全性(インテグリティ)の条件満たし、締約国の国内法によって適切な保護管理体制が取られていることが必要。
(i)人間の創造的才能を表す傑作である。
(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(v)あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)
(vi顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
(vii)最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
(viii)生命進化の記録や、地形形成における重要な進行中の地質学的過程、あるいは重要な地形学的又は自然地理学的特徴といった、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な見本である。
(ix)陸上・淡水域・沿岸・海洋の生態系や動植物群集の進化、発展において、重要な進行中の生態学的過程又は生物学的過程を代表する顕著な見本である。
(x)学術上又は保全上顕著な普遍的価値を有する絶滅のおそれのある種の生息地など、生物多様性の生息域内保全にとって最も重要な自然の生息地を包含する。
(3)世界遺産とは
さまざまな国や地域の人たちが誇る文化財や自然環境などが、ユネスコの世界遺産として登録されています。
世界遺産には次の3種類があり、有形の不動産が対象となっています。世界遺産の登録件数は1052件(2016年7月現在)です。
・文化遺産 顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など
・自然遺産 顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域
・複合遺産 文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産
(4)日本の世界遺産(20件)
・文化遺産(16件)
1 法隆寺地域の仏教建造物 (平成5年記載)
2 姫路城 (平成5年記載)
3 古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市) (平成6年記載)
4 白川郷・五箇山の合掌造り集落 (平成7年記載)
5 原爆ドーム (平成8年記載)
6 厳島神社 (平成8年記載)
7 古都奈良の文化財 (平成10年記載)
8 日光の社寺 (平成11年記載)
9 琉球王国のグスク及び関連資産群 (平成12年記載)
10 紀伊山地の霊場と参詣道 (平成16年記載)
11 石見銀山とその文化的景観 (平成19年記載)
12 平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群 (平成23年記載)
13 富士山―信仰の対象と芸術の源泉 (平成25年記載)
14 富岡製糸場と絹産業遺産群 (平成26年記載)
15 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業 (平成27年記載)
16 ル・コルビュジエの建築作品 近代建築運動への顕著な貢献 (平成28年記載)
・自然遺産(3件)
1 屋久島 (平成5年記載)
2 白神山地 (平成5年記載)
3 知床 (平成17年記載)
4 小笠原諸島 (平成23年記載)
・複合遺産(0件)
第5章 「霊峰白山と山麓の文化的景観」の世界文化遺産登録をめざして
「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」
大野市では、平成19年12月20日に、白山麓の文化遺産群を関係自治体とともに「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」というテーマで、世界文化遺産候補として文化庁に提案しました。
今回の提案は2回目となります。第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に福井県、石川県、岐阜県の3県と、勝山市、白山市、郡上市の3市が共同で行いました。平成19年1月にその審査結果が発表され、提案に対する課題が示され、継続審査となりました。
今回の提案では、文化庁から指摘を受けた課題を修正するとともに、大野市のほか、新たに小松市、高山市、白川村が加わり、共同提案しております。
【主な遺産群】
白山(標高2,702m、ユネスコの生物圏保存地区、高山植物の宝庫、山頂の遺跡群)
信仰の拠点三馬場(勝山市:平泉寺、白山市:白山本宮、郡上市:長滝寺)
禅定道(白山と三馬場を結ぶ参詣道、美濃禅定道が大野市上打波を通過)など
世界遺産とは
さまざまな国や地域の人たちが誇る文化財や自然環境などが、ユネスコの世界遺産として登録されています。
世界遺産には次の3種類があり、有形の不動産が対象となっています。世界遺産の登録件数は1052件(2016年7月現在)です。
・文化遺産 顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など
・自然遺産 顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域
・複合遺産 文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産
日本の世界遺産(20件)
・文化遺産(16件)
1 法隆寺地域の仏教建造物 (平成5年記載)
2 姫路城 (平成5年記載)
3 古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市) (平成6年記載)
4 白川郷・五箇山の合掌造り集落 (平成7年記載)
5 原爆ドーム (平成8年記載)
6 厳島神社 (平成8年記載)
7 古都奈良の文化財 (平成10年記載)
8 日光の社寺 (平成11年記載)
9 琉球王国のグスク及び関連資産群 (平成12年記載)
10 紀伊山地の霊場と参詣道 (平成16年記載)
11 石見銀山とその文化的景観 (平成19年記載)
12 平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群 (平成23年記載)
13 富士山―信仰の対象と芸術の源泉 (平成25年記載)
14 富岡製糸場と絹産業遺産群 (平成26年記載)
15 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業 (平成27年記載)
16 ル・コルビュジエの建築作品 近代建築運動への顕著な貢献 (平成28年記載)
・自然遺産(3件)
1 屋久島 (平成5年記載)
2 白神山地 (平成5年記載)
3 知床 (平成17年記載)
4 小笠原諸島 (平成23年記載)
・複合遺産(0件)
霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰 提案書
(2007(平成19)年12月提出)
表紙・目次
(1)提案のコンセプト
1 資産名称・概要
2 写真
3 構成資産の位置図
(2)資産に含まれる文化財
1 整理表
構成資産
参考資産
2 構成資産の位置と写真
A 自然
B 山麓の人々のくらし
C 白山の信仰
参考資産
(3)保存管理計画、又は策定に向けての検討状況
1 個別構成要素に係る保存計画の概要又は策定に向けての検討状況
2 資産全体の包括的な保存管理計画の概要、又は策定に向けての検討状況
3 資産と一体をなす周辺環境の範囲、それに係る保全措置の概要又は措置に関する検討状況
(4)世界遺産の登録基準への該当性
世界遺産の登録基準への該当性
国史跡平泉寺を含む白山麓の文化遺産の世界遺産登録をめざして
勝山市では、平成19年12月20日に、市内にある国史跡白山平泉寺旧境内を含む白山麓の文化遺産群を「霊峰白山と山麓の文化的景観」というテーマで、関係自治体とともに世界文化遺産候補として文化庁に再提案しました。
今回の提案は2回目となりますが、第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に福井県、石川県、岐阜県の3県と、勝山市、白山市、郡上市の3市が共同で行いました。その審査結果の発表は、昨年の1月にあり、「白山」の提案は、他の提案19件とともに継続審査となっていました。
今回の再提案では、文化庁からの指摘事項を修正して提出しています。もっとも大きな修正点は、共同提案した自治体が増えたことです。今回の提案では、新たに大野市、小松市、高山市、白川村の3市1村が加わり、霊峰白山を取り巻く自治体の共同提案が実現しました。
霊峰白山は秀麗な山容で知られ、古くから多くの人々の信仰をあつめてきました。その信仰の拠点は三馬場(さんばんば)と呼ばれ、福井県では勝山市の平泉寺(現在は平泉寺白山神社)、石川県では白山市の白山本宮(現在は白山比め神社)、岐阜県では郡上市の長滝寺(現在は白山長滝神社)をさします。特に勝山市の平泉寺では、“石造りの中世宗教都市”とも言える貴重な遺構が数多く見つかっています。
霊峰白山とその信仰の拠点“三馬場”、両者をつなぐ禅定道(ぜんじょうどう)、さらにその周辺には、信仰に関わる貴重な遺跡が数多く残されています。また、標高500m以上の白山山麓一帯には、豪雪地帯特有の歴史的な建物群が多く残り、日本を代表する貴重な遺産群となっています。
こういった白山と山麓の貴重な文化遺産を世界遺産として守り伝えていくために、今回の提案となりました。
主な遺産群
白山(標高2,702m、ユネスコの生物圏保存地区、高山植物の宝庫、山頂の遺跡群)
信仰の拠点三馬場(勝山市:平泉寺、白山市:白山本宮、郡上市:長滝寺)
禅定道(白山と三馬場を結ぶ参詣道)
白山麓の豪雪地帯にある伝統的な建物群(白山市白峰地区、郡上市石徹白地区)など
- 表紙 (5.5 KB)4265
- 提案のコンセプト (1.2 MB)4266
- 資産に含まれる文化財 (1.8 MB)4267
- 保存管理計画 (706.5 KB)4268
- 世界遺産の登録基準への該当性 (14.7 KB)4269
第6章 世界遺産登録への課題
(4)世界遺産の登録基準への該当性
① 遺産の適用種別及び世界文化遺産の登録基準
・遺産の適用種別:記念物、建造物群及び遺跡(文化的景観を含む)
・登録基準:(ⅲ)、(ⅳ)、(ⅴ)、(ⅵ)
(ⅲ)白山麓の焼畑は世界の雑穀栽培の焼畑地帯の北限に位置する。ここでは、東南アジアの山の神に祈る火入れ儀礼を行う南方系文化とシベリア等の北方系文化が交流し、アフリカ原産のシコクビエやスウェーデンカブ等の南北の作物が栽培されている。しかも世界有数の豪雪山岳地帯にあるという点から特異な地域とされ、アジアの山村における焼畑の文化的伝統を伝承する無二の存在である。また、石徹白は白山信仰を全国に広めた御師集落で、今も石畳や道標がかつての美濃禅定道の面影を残すとともに、民家には仏間とは別に立派な「ハクサンノマ」がみられるなど、御師の伝統と習俗を色濃く残し、文化的伝統を継承する稀有な存在である。
一方、白山山頂には平安時代に日本で独自に形成された修験道に関する日本最高所の遺跡が良好に遺存するとともに、越前馬場の平泉寺では日本最大ともいえる中世宗教都市の遺構が確認されており、これら遺跡群は日本の宗教の歴史と伝統を語る希有なものである。
(ⅳ)白峰には平野部より早く、商品経済や分業化が進展し、周辺の山麓に営まれた多数の出作り民家と生産物と生活物資との取引を行う商家や山麓の支配を担った大庄屋格の豪家が残り、それが奥深い谷間の河岸段丘上に高層の大壁造りの伝統的建築物群を形成している。これは近世日本の山間集落の伝統的建築物群を代表するものである。また、白山麓は茅葺きのネブキと呼ばれる平屋建ての木造建築物から屋根が茅から板、瓦葺き、壁が茅から板、土壁へと変化した様々な建築物が存在する地域であり、建築学的に貴重である。
(ⅴ)日本の焼畑はその存続が危ぶまれながらも、白山麓では今も続けられており、その焼畑は火入れ後施肥もせず農耕した後、長い間休閑させており、その土地の条件に適応した利用形態で、日本の豪雪山岳地帯の土地利用形態を代表するものである。
また、白峰の大きな大壁造りの伝統的建造物群は、土地を高密度に利用するため高層化されたものであり、日本の山間集落の土地利用形態を代表するものである。さらに、白山とその山麓には信仰の対象として巨樹や岩がみられ、自然環境への負荷を最小限に抑えた焼畑農耕体系などとあわせて、人と環境とのふれあいを示す顕著な例である。
(ⅵ)山頂と禅定道筋の積石塚などの個々の記念工作物及び遺跡は、神祇信仰及び仏教、その融合の過程で生まれた修験道などの独特の信仰形態の特質を表す顕著な事例である。また、鳥越城跡は世界史的に希有な事例とされる、真宗信仰を基盤に百年間にわたり続いた、地域自治の加賀一向一揆の最後の砦の遺構である。中・近世から継続的に行われている能楽の源流である「長滝の延年」(延年の舞)などの祝祭や「でくまわし」などは、文化的景観を構成する優秀なものである。さらに、『古今和歌集』や『枕草子』をはじめ日本を代表する多くの文学作品にも登場している。
② 真実性/完全性の証明
構成資産のうち国指定文化財については、すでにその価値の真実性は示されており、指定されて以後、所有者はじめ地方公共団体などにより適切に維持されている。また県・市の指定文化財については、詳細調査を実施し、国指定を目指すとともに、その適切な保存に努める。国・県・市の指定を受けていない文化財については、個々の調査により完全性を確認しているが、さらに詳細調査を実施し、国等の文化財の指定、選定を受けることにより保護し、資産全体の完全性を担保する。
③ 類似資産との比較
紀伊山地の霊場と参詣道は、仏教的世界の浄土と関連づけて重要視された過程を示す遺産であり、富士山は古来から人々に神聖さと崇高で壮大な美を感じさせる遺産である。また、泰山や廬山国立公園(中国)などは、山岳信仰に関する遺産である。これに対して今回の再提案は、世界有数の豪雪山岳地帯の中で、白山の信仰を基盤として形成された特有の生業景観が、人間と自然との共生を顕著に表していることを示すものである。
白川郷・五箇山の合掌造り集落は庄川流域の集落であり、構造や内部の利用形態等において貴重な木造建築物である。また、ホローケーの古集落(ハンガリー)などは山岳地帯の伝統的集落景観である。一方、今回の再提案は白山信仰を基盤に禅定道筋の山麓に形成された、特有な生業景観である。
①遺産の適用種別及び世界文化遺産の登録基準
・遺産の適用種別:記念物、建造物群及び遺跡(文化的景観を含む)
・登録基準:(ⅲ)(ⅴ)、(ⅵ)に該当
(ⅲ)越前馬場の平泉寺では日本最大ともいえる中世宗教都市の遺構が確認されているほか、各社寺の境内や禅定道沿いに点在する社堂跡などには今は失われた建造物や宗教儀礼に関する豊富な考古学的遺跡が地下に埋蔵されている。この遺跡群は宗教文化に
関連して、今は失われた文化的伝統の存在を示す希な事例である。
(ⅴ)白山麓には、大壁造りの伝統的建造物群や仏間とは別に「ハクサンノマ」をもつ石徹白御師集落などあるが、これらはいずれも白山を背景として、世界屈指の豪雪地帯の人々の暮らし、信仰、家族形態、養蚕等の生産体制を反映した伝統的居住形態であり、このような悪条件に適応した居住形態のあり方として、希有な事例といえる。また、出作り小屋など焼畑農業・養蚕に関する文化遺産は、白山麓の土地に適応した土地利用の顕著な見本であるといえる。
(ⅵ)資産を構成する個々の記念工作物及び遺跡は、神道及び仏教、その融合の過程、あるいは分離の過程で生まれた修験道などの独特の信仰形態の特質を表す顕著な事例である。このような神聖性の高い自然物又は自然の地域において、中・近世から継続的に行われている能の流である「長滝の延年」(延年の舞)などの祝祭や木偶まわしなどは文化的景観を構成する有形・無形の諸要素として優秀なものである。また、『枕草子』をはじめ日本を代表する多くの文学作品にも登場している。
②真実性の証明―完全性の証明
構成資産のうち国指定文化財については、すでにその価値の真実性は示されており、指定されて以後、所有者をはじめ地方公共団体などにより適切に維持されている。また、県・市の指定文化財については、詳細調査を実施し、国指定を目指すとともに、その適切な保存に努める。国・県・市の指定を受けていない文化財については、個々の調査により完全性を確認しているが、さらに詳細調査を実施し、国等の文化財の指定、選定を受けることにより保護し、資産全体の完全性を担保する。
③類似資産との比較
紀伊山地の霊場と参詣道はこの地方の神聖性が仏教国である浄土と関連づけて重要視された過程を示す遺産であり、普遍的な価値を人々の心の癒しとしているのに対して、白山は白山信仰が日本の神仏習合の先駆けをなした点が際立っている。眺めるという行為を「遙拝」という宗教的な営みに変えたところに白山の眺望文化の深さがある。また、世界有数の豪雪地帯という厳しい自然環境に耐えた山麓の人々を支えた白山信仰の強さである。これを背景とした白山信仰の関連遺産群をはじめ伝統的居住形態や文化的景観が顕著な普遍的価値を有する。
今回提案された富士山は、顕著で普遍的な価値が古来から人々がその神聖さと崇高で畏敬の念を起こさせる壮大な美を感じ、様々な価値を見出してきたことにあるとしている。また、出羽三山は、出羽三山への人々の信仰や米、紅花が最上川を通って運ばれた文化などによって形づくられた文化的景観を提案する方向で検討中との発表がなされている。よって、白山とはコンセプトが異なる。
第7章 結 言
秀麗な山容の白山は日本列島のほぼ中央部に位置し、世界有数の豪雪山岳地帯である。ここから日本海と太平洋に流れでる手取川、九頭竜川、長良川及び庄川の四つの河川は、日本列島を横断して長い流域を潤し、山麓や平野部の人々の暮らしを支えている。
白山には修験道が盛んになるに伴い数多くの修験者が訪れるようになり、山麓一帯が禅定道(登山道)を基軸に互いに結ばれた。加賀、越前、美濃の三馬場(宗教拠点)と禅定道筋にはそれぞれ寺社や集落が形成され、人、物、情報などが行き交い、山村特有の生活文化が培われ
た。また白山信仰は、三馬場を基点に全国に広まった。
このように厳しくも豊かな自然環境の中でたくましく生き続けてきた、白山をめぐる生業と生活と信仰を表す風景が、希有な形で承継されている。これは日本の山麓の暮らしと信仰を代表する文化的景観であり、人間と自然との共生を示すものである。
白山(標高2,702 メートル)は10 メートルを超える積雪があり、高山植物の宝庫で、雪解けの頃、花が一斉に咲き誇る光景は壮観である。またブナなどの巨樹、巨木が繁茂し、植生が非常に豊富で、カモシカをはじめ熊、イヌワシなどの多彩な動物や鳥類が生息することから、ユネスコの生物圏保存地域に指定されている。
白山信仰の歴史は、奈良時代に「越の大徳」とも呼ばれた泰澄が、養老元(717)年に登頂したことに始まるとされる。やがて平安時代になると、自然崇拝の山から神仏習合に彩られた観音の聖地と仰がれ、「越の白山」とも讃えられて、都びとの憧憬の対象とされた。日本で独自に形成された修験道の山岳修行の場であり、古代の山頂遺跡や経塚は日本最高所のものである。さらに白山は日本人の宗教観にも通じる擬死再生の山とされ、神聖な山とされるヒマラヤなど世界の白い山との共通性がある。また、水の神、農耕の神、漁業の神、オシラサマ(養蚕)などの生業の神としても広く信仰を集めてきた。
平安時代末期以来、登山口にある集落では、信仰の道と生業とが一体となり、登拝者の案内や宿坊を営み、護符を配布するとともに、木材、養蚕、鉱物採掘、温泉など、豊かな山の恵みを受けて人々が暮らしてきた。石徹白は薬草などを持ち白山信仰を広めた御師の集落であり、石畳や道標がかつての美濃禅定道の面影を残す。真壁造りの民家には、仏間とは別に立派な「ハクサンノマ」が見られ、白山中居神社では五段の神楽が行われるなど、御師の伝統と習俗を色濃く残している。白峰は谷間の河岸段丘上に位置した大集落であり、牛首紬などの機織りなども盛んで、土地利用の高密度化や高層化が進み、防寒を考慮した大壁造りの町並みを形成している。かつて山麓の村々を統轄した大庄屋や生活物資を商う豪家の機能を有した巨大な大壁造りの建築物が見られる。これは日本の山間集落における自然環境に適応した木造建築物の到達点であり、集落の規模や賑わいの面でも日本有数である。白峰では今でも白山を開いた泰澄を讃えてカンコ踊りなどが行われている。
白山麓には自然地形に制約されて水田のない景観が広がり、室町時代以降、母村の白峰から奥深く高地へ入り込み、山の斜面を利用して出作り・焼畑が盛んに行われてきた。そこでは東南アジアの山の神に祈る火入れ儀礼がみられ、アフリカ原産のシコクビエやスウェーデンカブ等の南北の作物が栽培されている。また、農作業は労働集約的に最も丁寧に行われる点に大きな特色があり、気象条件等に適合したもので、豪雪山岳地帯の焼畑として、世界でも希有な存在である。越前の白山平泉寺旧境内には日本最大の中世宗教都市遺構が発掘されたが、これは白山信仰の盛行を象徴するものである。
戦国時代以降、白山麓にも白山神の本地仏である阿弥陀仏への信仰が媒介となって急速に真宗が浸透し、世界史上希有な事例とされる、真宗信仰を基盤に百年間にわたり地域自治を続けた、加賀一向一揆の最後の砦である鳥越城跡などがある。今も山麓では真宗道場を中心とする信仰生活が営まれ、濃密な真宗地帯となっている。
建築物の面では、大壁造りや真壁造り、合掌造りと様々な伝統的建築物が見られ、民俗芸能の面でも、能楽の源流である長滝白山神社の「延年の舞」、人形浄瑠璃の古い形態を伝える「でくまわし」などが、山村の暮らしの中で演じられ、季節ごとの様々な芸能文化を承け継いできた。これらは古くから盛んに人々の交流があった証であり、白山麓の自然と生業と信仰が織りなす、希有な文化的景観である。
本研究では、白山文化遺産のデジタルアーカイブを進め、白山文化遺産を世界遺産に登録できるような条件を検討し、その課題を明らかにすることを目的としている。
今まで、勝山市を中心に世界遺産に申請してきたが、様々な課題があり申請が通らなかった。次にその課題について整理する。
(1)白山山頂には平安時代に日本で独自に形成された修験道に関する日本最高所の遺跡が良好に遺存するとともに、越前馬場の平泉寺では日本最大ともいえる中世宗教都市の遺構が確認されており、これら遺跡群は日本の宗教の歴史と伝統を語る希有なものであるが、その保全については各県や街頭市町村で温度差があり、必ずしも保全が充分といえない現状がある。
(2)今回の再提案では、文化庁からの指摘事項を修正して提出している。もっとも大きな修正点は、共同提案した自治体が増えたことである。今回の提案では、新たに大野市、小松市、高山市、白川村の3市1村が加わり、霊峰白山を取り巻く自治体の共同提案が実現した。しかし、自治体として県やその他の関係する自治体並びに大学が結束して申請する必要があり、一部の自治体の主導で行っていたことである。
(3)地域文化遺産のデジタルアーカイブを進めることにより、これらの文化遺産についての文化遺伝子(ミーム)と言えるものを抽出し、学術的に検証する必要がある。このように、学術的な検証を踏まえたのち文化遺産を保全活用することが必要である。
参考文献
(1)白山山麓 石徹白郷シリーズ⑬
いとしろ白山御師資料集
平成29年編集 上村俊邦氏編集
(2)郡上学
白山信仰と白山文化
平成23年郡上市発行
(3)白山文化手帖~白山文化とは何か~
岐阜県博物館協会発行
(4)岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブ/石徹白
石徹白 | 地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成のための基盤整備事業 (digitalarchiveproject.jp)
謝 辞
本論文の作成にあたり、多くの方々にご指導ご鞭撻を賜りましたこと、心より感謝申し上げます。また、 ご指導いただきました主査の文化創造学部久世均教授には終始適切なご指導を賜りました。ここに深謝の意を表します。
論文資料
1.卒論要旨
【研究論文】高遠石工 石造物のデジタルアーカイブ
研究概要
1.はじめに
長野県伊那市高遠地域は、風光明媚な風土やタカトオコヒガンザクラの樹林、高遠石工の石造物など独創性ある地域資源を有している。その中でも、高遠石工とその石仏は地域の歴史的価値を高め、観光資源としても魅力的な文化財であると考える。しかし、高遠石工の存在は、高遠町民には周知されているが、長野県民を始め、県外観光客からみると認知度が低いのではないかと考える。また、高遠石工の石造物のデジタルアーカイブ化への取り組みがほぼ行われていない。石造物は経年劣化や自然災害により、石工達の活動や石造物そのものが損傷または喪失するリスクが高いと考える。
そこで、本研究では主に高遠石工への興味を県内外で喚起することと、地域文化財の保存と普及を目的とし、高遠町を中心に、長野県南信地方の上伊那地域に現存する石造物の撮影を行いデジタルアーカイブを作成する。また、高遠石工の作品がどのようにして江戸時代の社会や文化等に寄与したのか歴史を明らかにし、今に残る石造文化財が現代の地域社会にどのような影響を与えているのか調査し、アーカイブすることの意義について考察する。
2.研究の方法
はじめに、研究対象である、高遠石工と名工と呼ばれた守屋貞治に関する資料を収集し文献調査を行う。石工誕生背景、石仏の種類、表現技法など、基本的な情報を調査し、その起源と現在までの変遷を辿りながら、当時の地域信仰や生活を考察する。表現技法については、守屋貞治の作品と人柄を深堀し、どのような特徴があるのか調査する。文献調査で分かったことをまとめ、分析する。
次に、高遠町と上伊那地域に現存する石仏(写真1)、道祖神、庚申塔、供養塔などの撮影を行い、または関連施設を訪問し情報や資料を収集し記録する。
収集したデータをもとに、地域学習や観光資源として利活用でき、石工への興味喚起を図れるようなWebページの制作を行う。
3.研究の結果(考察等)
高遠石工とは、江戸時代に信州高遠を拠点に全国で活躍した石材加工の職人集団のことである。活躍した時代背景には、高遠藩による出稼ぎ石工の奨励、民間信仰が盛んになり造立が活発化したこと、高遠藩領では良質な石材が豊富であったことなどが挙げられる。また、収集した資料を、所在地や石仏の種類ごとに整理すると、それぞれの地域ごとに民間信仰や石造物の特色が捉えることができた。多量の石造物が造立されていることから、当時の庶民の信仰心が強いことが分かった。
撮影方法としては、対象とする石仏の全体像を前後左右の4方向と、碑文や台座、持物、印相、石仏の表情を部分的にクローズアップして撮影し、石仏1体1体の特徴や魅力が伝わるよう意識をしつつ、一眼レフカメラを使用し静止画で記録を行った。ただし、崖や川付近に安置され、格子に囲まれている石仏については正面と斜め左右の3方向から撮影を行う。
4.おわりに
現在、約165体の石造物の撮影が完了している。今後も撮影を進めるとともに、Webページの制作も行う。そして、文献調査した結果から、これらの石造物が現代の人々にどのような影響を与えているのかを考察する。
参考文献
高遠町誌編纂委員会.高遠の石仏.伊那毎日新聞社,1975
研究資料
高遠石工とは
江戸時代、信州高遠を拠点に全国で活躍した、石材加工の職人集団のこと。主に手彫りによる石の加工技術が特徴的。
全国各地に、石仏、石鳥居、石橋、供養塔など数多くの石造物を造った。
江戸時代、民間信仰が盛んになった風潮の中で、寺社の建築、石造物の造立も活性化した。
石造物の需要が増したことで高遠の石工は各地に出向いて働くようになり、優れた技術が各地で評価された。
高遠石工の名が全国を轟かせたことで、高遠石工がブランド化した。ブランド化したことによって、石工の活動もさらに盛んとなり、全国各地で数多くの作品を残すこととなった。
現状と課題
1.石工技術を持った職人の高齢化、人材不足
→専門家や職人の高齢化、後継者不足により、技術の伝承が途絶えてしまい、石工技術継承の危機に陥る。
2.高遠石工の文化遺産に対する、若者の興味関心が低い
→伝統的な技術やノウハウの継承が困難になる。
3.石造物は観光資源、人文資源として価値がある。
→石造物を観光資源として活用することにより、魅力ある地域づくりが可能になり、高遠町はもちろんのこと、全国各地の地域社会の活性化に繋がる。
高遠石工の足跡
全国18都府県
長野県、山梨県、静岡県、神奈川県、東京都、新潟県、福島県、山形県、青森県、群馬県、
栃木県、埼玉県、茨城県、愛知県、岐阜県、三重県、兵庫県、山口県
高遠藩による他国への出稼ぎが奨励され、全国各地に
高遠石工が出向き活躍。
長野県内だけでなく、各地
に高遠石工が携わった石造物が存在する。
⇒そのため、観光資源として価値があり、今後
さらに注目されるべき文化財である。
高遠町民には高遠石工が十分周知されている。
⇒しかし、高遠町は桜の名所として認知されているため、高遠石工の存在が桜に埋もれてしまっていることが問題点だと考えられる。
高遠の文化遺産に対する人々の関心、認知を高めるために、高遠石工の歴史や文化的な背景を説明し、その価値を明確にすることが大切であると考える。
そして、高遠町の特色や文化遺産との関連性を強調し、遺産が地域の歴史や文化と深く結びついていることを伝えることにより、地域住民のアイデンティティや誇りを引き出し、さらに価値を高められる。
高遠石工の存在を知ってもらうことにより、観光資源として活用でき、さらに観光客が増加することで地域振興に繋げられる。
目 的
高遠石工の石材加工技術者の高齢化、後継者不足により技術継承が途絶えることが危惧される。そこで、伊那市の地域文化遺産である高遠石工の技術の継承と、地域資源への興味喚起のために、高遠石工のデジタルアーカイブ化を行う。
研究内容
〇守屋貞治・渋谷藤兵衛の石仏デジタルアーカイブ
伊那市内にある主な守屋貞治の作品
〇歴 史
高遠石工は、1187年(文治3年)に源頼朝から代々石細工職人として日本国内で仕事が出来るとの許可をもらったものとの由緒書が伝わっているが、発祥は中世頃と推定されている[2]。由緒に基づき、全国を行脚しており、現在の青森県から山口県まで旅稼ぎをしていた。
天正末期、徳川家康の命で江戸城工事に従事し、八王子付近に定住していたことが「新編武蔵風土記稿」に記載されている[4]。鳥居氏の所領だった(1636年〜1689年)の間の高遠地方旧記の引き継ぎ目録に記録が残っている[5]。元禄4年(1691年)に内藤清枚が藩主となると、藩の財政難解消策の一環として出稼ぎが奨励されるようになった。明和4年(1767年)には「他国稼ぎ御改め帳」が発行されるなど、石工が全国を回っていた[6]が、それは「旅稼ぎ」といわれ、藩には運上金を1人年1貫文(千文)を収め決まりとなっておりお高遠藩にとっては重要な収入源だった。
文化8年(1811年)の記録では領内の主要な産業として保護、統制を受けており、職人団体の中で運上金上納額最高が石切職人だった。
その存在が日本全国に知られるようになったのは江戸時代、17世紀半ば頃のことであったとされる[1]。彼らは日本の各地に散らばり、石仏を始めとする彫刻作品を残した[1]。活動に取り組む姿勢は芸術家さながらであったとも、あくまでも職人であったとも言われる[8][9]。高遠石工は18世紀が最盛期だったが、明治になり廃れた。
現在、高遠石工による作品は地元の伊那谷周辺に多く残され、安曇野に多い石像道祖神も、その多くは高遠石工の手によるものである。その他にも首都圏や東海・近畿、山口にまで散見されている。
伊那市高遠町の建福寺には西国三十三所観世音をはじめとして多くの作品を見ることができる。
主な石工
〇守屋 貞治(もりや さだじ、1765年 – 1832年)- 明和2年(1765年)に信州伊那郡高遠藤澤郷塩供(しおく、現在の長野県伊那市高遠町長藤〈おさふじ〉塩供)で孫兵衛の3男として生まれる。高遠石工の中でも稀代の名工と言われ、68年の生涯に336体の石仏を残している。亡くなる前年の天保2年(1831年)に「石仏菩薩細工」を書き残しており、いつどこで何の石仏を刻んだのかが、その正確な記録から判明している。この記録によって、彼の作品は1都9県(長野、群馬、東京、神奈川、山梨、岐阜、愛知、三重、兵庫、山口)に残っていることが確認されているが、数多くの石工を輩出した高遠石工にあって西日本にまで作品を残しているのは貞治だけである。貞治は信州諏訪の温泉寺の名僧、願王和尚を師と仰ぎ深く仏門に帰依し、香を焚き経を唱えて石仏を刻んだと伝えられ、ゆえに貞治は単に石工ではなく「石仏師」と呼ばれ、貞治の刻んだ石仏は特に「貞治仏」と呼ばれている。
〇守屋 孫兵衛(まごべえ、生年不明 – 1782年) – 貞治の父
〇守屋 貞七(さだしち、1700年頃 – 没年不明) – 貞治の祖父。
〇向山 重左衛門 (むかいやま じゅうざえもん、1690年頃 – 1773年) – 寛延から明和年間の作品が残る高遠藤澤郷御堂垣外(みどがいと)の石工。
〇久左衛門(きゅうざえもん、生没年不詳) – 向山重左衛門の弟弟子 。
〇下平 文左右門(しもだいら ぶんざえもん、生没年不詳) – 明和から安永 (元号)年間を中心に活動した安永東春近の石工。なお、息子の太左右門(たざえもん)も石工である[13] 。
〇渋谷 藤兵衛(しぶや とうべえ、1784年 – 1853年) – 守屋貞治の高弟。信州伊那郡川下り郷川手(現在の長野県伊那市美篶下川手)に生まれる。伊那市高遠町建福寺の石段には師貞治の延命地蔵が石段左に、藤兵衛の柳楊観音(嘉永2年、1849年)が石段右に対になって立っている。上伊那郡箕輪町長岡の長松寺に残る貞治の延命地蔵尊は、まず藤兵衛が先に長岡に来て村の世話人と打ち合わせと石の詮議をし、村人足とともに石を切り出して下準備をした後に貞治の作業が始まっている。これは同寺の「地蔵建立諸入用控帳」に残されており、それには「石屋定治郎 手代藤兵衛」と記されている。
〇小笠原 政平(おがさわら まさへい、1796年 – 1861年) – 信州伊那郡殿島(現在の伊那市東春近下殿島)に生まれる。東春近を中心に作品が残るが「俺の石仏は銘がなくとも頬骨のふくらみを見ればそれとわかる」と言っていたとの言い伝えがある。
高遠石工が生まれた背景
古来より、人々は自然の猛威の前には成す術もなく、平穏な暮らしや豊穣を願い、ただただ神仏に祈りを捧げるのみでした。
江戸時代に入り、安定した世の中になると、心のよりどころとして神仏に祈る民間信仰が盛んになり、元禄年間(江戸時代前期)には石仏造立も活発化します。石造物の需要が増えるにつれ、高収入が得られる石工のなり手も増えていきましたが、高遠藩では税収増加をねらって「旅稼ぎ石工」を奨励したことから、その数は領内だけでも数百人に達していたといわれています。
高遠石工の多くは、農耕地が狭い山間部の農家で二男以降に生まれた男子です。一般的には農作業の傍ら、農閑期を中心に旅稼ぎをしていたと言われていますが、当時の石工は大工など他の職人と比べて給金が良く、仕事が豊富であったこともあり、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門の職業とする専業石工も多く存在しました。
高遠石工の活動
現在、高遠石工の銘が確認されている石造物は、北は青森、南は山口の1都18県に及びます。
和泉石工(泉州石工)など、高遠石工と同時期に活躍した石工集団は他にもいましたが、高遠石工ほど多くの銘を残していません。「高遠」という銘がはっきりと確認できるのが元禄期以降であるため、高遠石工の活動年代は内藤家が高遠藩を拝領した元禄4年(1691)以降とみる向きもありますが、山梨県甲府市塩澤寺にある正保5年(1648)銘「大工信州之角兵衛」の無縫塔をはじめ、元禄期以前の高遠石工の作と推定される石造物も確認されているため、江戸時代初頭より広域的な活動をしていたと考えられます。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事に関わったり、有名な安曇野の道祖神の中にも、高遠石工たちが刻んだものが数多くあります。
高遠石工が確かな技術で刻んだ石造物は、人々の心を捉え、江戸時代中期にはその名が全国にとどろくようになりました。「高遠石工」の名が一種のブランドと化したことによって、その活動も一層盛んになり、各地で多くの作品を残すこととなったのです。
集落を見守る石仏たち
諏訪と高遠を結ぶ杖突街道沿いには、農村風景に溶け込むように多くの石仏があるのが目に入ります。そのほとんどが集落の入口(村境)にまとまっており、馬頭観音、庚申塔、道祖神など様々な石仏が見られます。
これらは、災厄が村に入ってこないように、また子孫繁栄や旅の安全などを願って、江戸時代から昭和まで長年にわたって受け継がれてきた民間信仰の証です。
石工のふるさとの美しい景観を保ちながら、石仏たちは今も集落を見守っています。
高遠石工の特徴
高遠石工は、長野県の高遠地域で発展した石工技術のことを指します。この地域は古くから石材が豊富であり、その質の高さから日本各地に石材を供給してきました。高遠石工は、主に神社仏閣や城郭などの建築物において石材を加工し、美しい彫刻や堅牢な構造を実現するための技術として重要な役割を果たしてきました。
高遠石工の特徴的な技法としては、以下のようなものがあります:
面取り(めんどり): 石材の角を斜めに削り取り、エッジを丸くすることで安全性を高めるとともに、美しい仕上がりを実現します。
目地加工(めじかこう): 石材同士の接合部分に目地を設けることで、石材の結合を強化します。目地には石の割れや変形を防ぐ役割もあります。
彫刻技法: 高遠石工では、美しい彫刻技法が発展しています。彫刻によって龍や花卉、幾何学的な模様などを表現し、建築物に装飾的な要素を与えます。
石積み技法: 石材を組み合わせて壁や柱を構築する石積み技法も高遠石工の特徴です。石同士のバランスや組み合わせによって、安定性や美しさを追求します。
高遠石工は、伝統的な技術でありながら現代にも受け継がれ、多くの建築物や文化財に活かされています。その美しい石組みや彫刻は、日本の建築文化の一環として高く評価されています。
研究内容
・石工の誕生、石仏の造立の背景
・高遠石工が手掛けた石造物の良さとは(他の石工との比較)
・産業としての石工の仕事の位置づけ
〇特徴・魅力
・高遠石工ならではの石仏表現法や技法
〇技術が今にどう生かされているのか
石仏師・守屋貞治
数多くいた高遠石工の中でも、高い技術を持った稀代の名工と呼ばれる石仏師。
石仏の制作を専門としており、生涯において336体に及ぶ作品を残している。
守屋家は祖父・貞七の代から石工を生業としている。そのため、貞治も自然と石工を志すようになった。
造形や技法は、祖父と父から影響されていると考えられる。
江戸時代、石工の仕事は細分化され、専門性が高い者も増えていましたが、高遠石工の中でも稀代の名工と呼ばれたのが守屋貞治です。彼は石仏の制作を専門とし、68年の生涯において336体におよぶ名作を残しました。
貞治は明和2年(1765)、高遠藩藤沢郷塩供村(現、伊那市高遠町長藤)で守屋孫兵衛の三男として生まれました。守屋家は貞治の祖父・貞七の代から石工を生業としており、貞治も自然と石工を志すようになりました。修業時代の師は不明ですが、造形や技法の面で祖父や父の影響が垣間見られます。
温泉寺(現、諏訪市)の住職で名僧と名高い願王和尚を仏道の師と仰いだ貞治は、自らも仏に帰依し、経典や儀軌(経典に説かれた仏、菩薩などの姿形をまとめたもの)に基づいて仏心の込められた石仏を刻みました。石仏を刻む際は経文を唱え、香をたきしめて作業に打ち込んだといわれています。貞治が単なる「石工」ではなく「石仏師」と呼ばれるのは、こうした所以からです。
貞治は亡くなる前年の天保2年(1831)に、自身の生涯を振り返り、これまでに彫り上げた石仏を『石仏菩薩細工』にまとめていますが、これによると貞治が手がけた作品は1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及びます。西日本に作品を残した高遠石工は貞治以外には確認されておらず、また、他の高遠石工を見ても複数の場所で活動した例は少ないため、この広範囲にわたる活動こそが貞治の特徴といえます。これは願王和尚の影響によるところが大きく、貞治のよき理解者であり、彼の石仏を礼賛した願王和尚が、全国各地の布教先で貞治を推薦したためと考えられます。
身を律し、ひたすら意にかなう石仏を造立し続けた貞治でしたが、天保3年11月19日、静かに68年の生涯を終えました。他の石工を圧倒する技量で彫られた貞治の石仏は、端正で繊細優美でまさしく「貞治仏」と呼ぶにふさわしい名作ばかりです。
守屋貞治仏の技法と表現法
1.口元円形微笑型
・口元円形→人が笑うとほうれい線が丸くなる様子を表す。
特徴→石仏の口を中央にして、鼻の付け根と下あごを外周とする円形に彫りくぼめた形態を形成した上で、その中に口と円形凸型の下あごを表現する。
2.蓮華座花弁巻き返し表現
石仏を豪華に魅せたり、重量感を持たせたる技法。
特徴→蓮華座の花弁が裏側に巻き返し状になっている。
資料
2.中間発表レジュメ
テーマ「高遠地域における高遠石工遺産デジタルアーカイブの研究」
第1章 緒 言
1. 研究の動機と課題
本研究では、高遠地域における高遠石工遺産デジタルアーカイブの研究をテーマとする。この研究の動機として、私の故郷である長野県伊那市への愛嬌心から、伊那の遺産を本研究で取り上げたいと考えた。生まれ育った地域に対する知的好奇心と、伊那市の文化遺産について多くの人に興味を抱いてもらいたいという思いがある。これまで、デジタルアーカイブ専攻で身に着けた知識を活かし、高遠地域の文化遺産である高遠石工の石造物に焦点を当ててデジタルアーカイブを行うことで、地域社会への貢献を果たせるのではないかと考えた。地域の歴史や文化を後世に繋いでいくために、高遠石工遺産に関する研究に取り組むことを決定した。
本研究の対象地域である長野県伊那市高遠町は、長野県南部にあり、伊那谷北部に位置する(図1-1)。風光明媚な風土やタカトオコヒガンザクラの樹林、高遠石工の石造物など独創性ある地域資源を有している。その中でも特に、高遠石工たちが造立に携わった石造物の数多くが市の有形文化財として指定されているため、高遠地域に現存する高遠石工遺産は我が国が守るべき貴重な遺産であり、歴史上、芸術上、学術上、文化価値が高いものであるといえる。しかし、現存する石造物の保護状況を見ると、その多くが野ざらしに安置され、管理が行き届いていないことが課題の1つなのではないかと考えている。これらの石造物の保護が十分に行われていない場合、経年劣化や自然災害により、損傷または喪失の危険性が高まるのではないかと懸念している。
また、デジタルアーカイブの数やその取り組みが少ないのではないかと考えている。自然の中に安置されている石造物は、災害が起こり、年月が経つほど、石造物本来の姿形を保つことはかなり困難であると感じている。だからこそ石造物をデジタル資料として保存し、デジタルアーカイブ化に取り組んでいく必要性が高いのではないかと考える。実際、デジタルアーカイブの重要さについて郷土史・石仏研究家の田中清文氏は、石仏は「野にあるため、もう50年100年経つと風化してなんだかわからなくなってしまう。今のうちに記録して写真に残しておかないといけない」(https://www.inadanikankou.jp/より引用)と発言している。このことからも、高遠地域に残る高遠石工たちが残した活動跡を、後世に残し、継承していくこと、地域の歴史的価値を高めていくためにもデジタルアーカイブ化に取り組んでいくことが非常に重要であると考える。
以上のことから、高遠石工に関して、石造物の保護状況が十分でないこと、デジタルアーカイブ化への取り組みが少数であるという2つの課題が存在しているのではないかと考える。そこで第2節では、石造物の保護状況とアーカイブ化への取り組みについて明らかにする。
2. 石造物の保護状況とアーカイブ化の現状
第1節では、石造物の保護状況が良好でないこと、デジタルアーカイブ化への取り組みが少数であることの2点が課題であるのではないかと考えた。そこで、現在の石造物の保護状況と高遠石工に関するアーカイブ化の取り組みの現状を知るために実際に高遠町に足を運び現地調査を行うとともにweb調査を行った。
(1) 石造物の保護状況
石造物の保護状況をみると、高遠石工の中でも特に高い技術をもっていたとされる守屋(もりや)貞治(さだじ)が造った石仏には雨風や雪を凌ぐために格子で四方を取り囲み、屋根が設置されていたため状態良く保存されていた(図1-2)(図1-3)。
しかし、その他の場所、例えば集落、路傍や川・崖付近などに安置されている石造物については、格子や屋根は取り付けられておらずそのままの状態で安置されていた。それなのにも関わらず、予想以上に多くの石造物が綺麗な状態で残されていたのが驚きであった。ただし、体の一部が欠けてしまっているもの(図1-4)、下部が埋まってしまっているもの、石の表面に苔やカビが発生しているものも数多く発見することができた。
苔やカビの発生に関しては、気候などの環境だけが原因だけでなく、使用されている石材の質の違いであるとも考えられる。苔やカビの発生は、風合いとして美術的な観点からみると風情があって良いという見方もできる。だが、本体が一部欠けてしまっている場合は、問題であると考える。しかし、全ての石造物に格子や屋根を取り付けるということを考えると膨大な費用と労力がかかるため現実的に厳しい側面があり、町の景観も損なわれてしまうのではないかと考える。
次に、石造物の損傷原因として、特に自然災害によるものが多いと考えた。
伊那市高遠町は、東西11㎞、南北19㎞で、総面積の85%を山林が占めており、耕地面積や可住地面積が小さい自然に恵まれた地域である。また、冬季は積雪も多い。そのため、山林面積の大きいこの地域では、土砂災害や川の氾濫、雪害による自然災害が多いといえる。石造物は、崖や川付近、峠道などに多く存在している。そのため、自然災害による石造物の損傷や喪失が多発する可能性が非常に高いということが考えられる。
自然災害が発生しやすい地域であるからこそ、文化遺産を本来の姿のままどのようにして残していくのかが重要であると考える。そして、その1つの方法としてデジタルアーカイブを進めることが遺産を守ることに繋がるのではないかと考える。
(2) 高遠石工に関するアーカイブ化の現状
高遠石工に関する資料のアーカイブ化への取り組みの現状(2023年12月9日現在)を把握するために、どの機関がアーカイブ化に携わっているのか、どのような高遠石工に関するコンテンツ作成されているのかインターネットを通じたweb調査を行った。調査結果は以下の①~⑤である。
① 高遠石工研究センター
高遠石工研究センターでは、高遠石工の調査・研究を行いながら、石仏を静止画や動画で記録し、アーカイブ化する活動を行っていた。しかし、その活動記録や撮影した資料は公開されておらず、web上にも公式サイトは見当たらなかった。
また、調査研究やアーカイブ活動に加えて、「高遠石工の石仏巡礼ガイド」などを紙冊子で発行しており、伊那市役所と高遠町総合支所で購入することができるようになっていた(図1-5)(図1-6)。
② 高遠町歴史博物館
高遠町歴史博物館は、古代・中世に至る高遠城と城下町高遠の歴史、文化、人物、民俗をテーマごとにスポットを当て展示を行っている。また、歴史博物館デジタルアーカイブ事業に携わっており、地域住民から寄せられた地域に残る写真資料を募集しデジタルアーカイブ化に取り組んでいる。さらに、伊那市教育委員会と協働し、高遠石工の足跡調査を行い、情報提供を募っている。博物館の所蔵品には、高遠石工に関する多くの資料があった。ただし、これらの資料はデジタル化が進められているものの、インターネットを通じた資料の公開は行われていなかった。
③ 伊那市デジタルアーカイブ(向山雅重資料デジタルアーカイブ)
「向山雅重資料デジタルアーカイブ(https://adeac.jp/ina-city/top/)」においては、伊那図書館が所蔵していた向山(むかいやま)雅(まさ)重(しげ)の写真資料がデジタルアーカイブ化され、約2000点のモノクロ静止画資料が閲覧できる。このデジタルアーカイブでは、高遠石工を主とした項目はなかったが、高遠石工が携わった石造物に関する資料が登録・公開されていた。これは、民俗学の研究や、教育機関で活用できるデジタルアーカイブだと感じた(図1-7)(図1-8)。
④ ホームページ
伊那市観光協会公式サイト、伊那市公式ホームページ、長野伊那谷観光局にて、観光客向けに高遠石工遺産が存在する名所の紹介や歴史を大まかに説明しているWebページがあった。伊那市観光協会の公式サイトでは、「高遠石仏探訪マップ」と「伊那市高遠町・長谷周辺の石造物探訪マップ」などのパンフレット資料がPDFファイル形式でダウンロードできるようになっており、デジタルパンフレットとして活用できるようになっている(図1-9)。これは、電子版だけでなく、紙媒体での発行もされている。
伊那市公式ホームページでは、外国人向けに作られたWebページとパンフレットが作成されていた(図1-10)。パンフレットはダウンロード可能でデジタルパンフレットとして利用できる。
⑤ YouTube動画
伊那市公式動画チャンネルや一般の個人による高遠石工の歴史に関する話や説明、シンポジウム動画がいくつかYouTubeにて投稿されていた。
以上のことから、主に高遠石工研究センターと高遠町歴史博物館の2機関がアーカイブ化に通り組んでおり、資料の収集とそのデジタル化は進んでいたことが分かった。しかし、アーカイブ化が一部進められてはいるものの、高遠石工の石造物を主としたデジタルアーカイブの数は圧倒的に少なく、インターネットを通じた公開がほぼ行われていなかった。
また、紙媒体と電子版の石仏マップやパンフレットが作成されており、観光事業に活用できるようになっていた。
3. 研究の目的および方法
高遠町に現存する石造物は、高遠石工たちの活動跡であり、その地域の歴史を伝える貴重な遺産であるため、後世に残していくべきである。また、高遠石工遺産は観光資源や文化資源として活用することで地域活性化に繋げることができると考えている。しかし、石造物の保護状況とデジタルアーカイブ化への取り組みを調査すると、石造物の残存状態が悪いものも一部存在しており、高遠石工に関するデジタルアーカイブ数も非常に少ないということが分かった。
そこで本研究では、地域文化遺産の保存と普及を目的とした高遠石工の石造物のアーカイブ化を行うとともに、江戸時代から始まった高遠石工の歴史と当時の民間信仰や石造物に対する人々の信仰心から今に残る石造文化財の価値を明確にし、石造物デジタルアーカイブを行うことの意義について考察をする。
本研究では、以下の3つを軸に行っていく。
① 文献調査
文献調査では、高遠石工の起源と発展、石造物造立の時代背景など歴史を調査する。また、高遠に現存する石造物を種類ごとに分け、造立数、造立年代、それぞれの石造物がもつ特徴について調べる。この石造物調査から、造立当時の生活や民間信仰を見出す。
② 高遠石工に関する資料の撮影
主に長野県伊那市高遠町に存在する石造物の撮影を実施する。また、稀代の石工と呼ばれた守屋貞治の石仏の撮影を行う。石造物に加え、石工関連施設を訪問し情報や資料を収集する。
③ Webページの作成
岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所が運営している「地域資源デジタルアーカイブ」にて収集したデータをもとにwebページを作成する。
第2章 高遠石工の歴史
1. 高遠石工とは
高遠石工とは、江戸時代、信濃国高遠を拠点に全国で活躍した、石材加工の職人集団のことである。彼らが手掛けた作品には、銘や造立年代が刻まれており、そこから江戸中期(元禄時代)以前の石造物が複数確認されているため、高遠石工たちは江戸初期から活動をしていたと考えられている。また、石造物の造立だけでなく、石材の採石や、石材加工をする際に使用する道具も自分たちで鍛冶していたと言われている(図2-1)。
高遠石工の多くは、農家の二男や三男、あるいは山峡の農民であり、江戸時代に活躍した石工の数はおよそ1700人以上いたと推定されている。彼らは拠点地である高遠のみでなく、全国各地に出向き、石仏・石神・石碑・石灯籠・供養塔など多くの石造物を造った。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事にも関わったといわれている。高遠石工たちが携わった石造物は、北は青森県から、南は山口県まで、全18都府県で散見されている(図2-2)。
彼らの石材加工技術が他地域の石工よりも群を抜いて高かったことから、その技術が求められ活動域が広くなっていった。技術の高さに加えて、彼らが活動域を全国に広げることができたのは、高遠が交通の要衝であったからである。彼らの技術がいくら高くても、仕事を頼む側に高遠石工の技術の高さなどの情報が流れていなければ依頼することもできない。だが、石工の活動が活発化していた江戸時代までは、杖突峠を通って伊那谷から三河に抜ける伊那街道、あるいは大鹿から遠江に抜ける秋葉街道が、民衆の道として広く利用されていた。そのため、五街道や地域民衆の生活の道が高遠を通り、全国に繋がっていった。石工たちはこの道を使い、情報を発信し、逆に受け入れながら、社会の求めに応じてどのような技術が必要とされているのか知ることで、社会の需要に応じることができていたのである。
2. 高遠石工が活躍した理由と時代背景
(1) 江戸時代の信仰と石造物
江戸時代(1596年~1868年)とは、室町時代から続く長い乱戦の世に終わりを告げ、江戸幕府による封建的かつ中央集権的支配によって社会が安定した時代である。江戸幕府は参勤交代や武家諸法度などの制度を作り、幕府の権力を高めていった。庶民は土農工商の身分制度により、職業ごとに身分を分けられ、身分を固定化された。また、制度による支配だけでなく、儒教の朱子学を幕府の思想・教育の基本とし、江戸幕府が支配・管理しやすい思想が広まっていった。このような徹底した管理によって情政が安定し、交通網が整備され、身分が固定化されたことによって、庶民にも余裕が生まれ、庶民中心とした文化が栄えるとともに、経済活動も活発化し産業も徐々に発達していった。その他に、江戸幕府や諸藩は、農業政策にも力を入れ、産業の発達を促した。生産力の向上、安定化することを目的に、新田開発を奨励し、河川の治水や干拓などを実施した。この時に農民も、生産量の増加、作業の効率化、生活の安定化のために、備中鍬や千歯扱などの新しい農具も使用するようになっていったという。
江戸時代による石造物造立の背景としては、人々の間では、神仏と結びついた民間信仰が盛んになっていたことが理由として挙げられる。上記で述べたように、江戸期は、農民が経済的に発展していった時代でもある。家を興し、田畑を耕して家族を養えるようになっていくが、度重なる天災や風水害、凶作、流行病など、飢饉や人為を超えた災いが当時の農民の生活を脅かし苦しめていた。現在のように科学が進歩していない時代、伝染病が流行して、村全体が壊滅的打撃を受けることも多かったため、病に対する恐怖心はとても強いものだったのではないかと予測できる。このような状況から、人々の生命を脅かすものに対して、人間の力だけでは限界ということを悟り、無病息災や平和を願い、ひたすた神仏に祈りを捧げていたのではないかと考えられる。
全国的に民間信仰が盛んになった風潮の中で、寺社の建築、石造物の造立も活性化、石造物の需要増加により、石工の成り手も増えていった。そして、平安・鎌倉時代のような強い権力をもつ人々による造立に加え、庶民の間にも次第に信仰に基づいた石造物の建立が広まっていった。特に江戸中期になると、個人や講、村中での造立が盛んに行われるようになり、五穀豊穣、子孫繁栄、健康祈願、厄除け、旅の安全など様々な願いを神仏に託し、祈りの拠点として石造物は大事にされていた。また、それぞれの家庭でお墓を持てるようにもなり、先祖供養の念とともに平安を願っていた。
(2) 高遠石工が活躍した理由
江戸時代に、民間信仰が盛んになったことで石造物の造立、石工の数が増加していった。しかし、この時期には高遠石工のみだけでなく、和泉国の泉州石工が存在していた。しかし泉州石工は高遠石工ほどの広範囲での活動はなかった。では、なぜこれほどまで高遠石工たちの活動が全国各地で行われていたのか。
その理由は、主に以下の5つである。
① 高遠藩による、旅稼ぎ石工の奨励
1つ目は、高遠藩による出稼ぎが奨励され政治的な後押しがあったことである。
江戸時代、高遠城を拠点に地を治めた高遠藩は、元禄4年頃から、藩の税収増加を狙って石工たちに領外に出て稼ぐ出稼ぎを奨励した。この石工たちの出稼ぎは、農業の傍ら、農閑期を中心に行っていたといわれている。この頃の藩の財政は厳しく、度重なる凶作で農民からの微税も苦しかった。さらに幕府による出費も多く藩の財政は逼迫したため、石工たちは旅稼ぎ石工となって稼いでいたのである。幕末のある時期には藩の税収の3分の1を稼ぎ出していたという。このため、旅稼ぎ石工の奨励は、石工たちが農業だけでは補えない分の家計の負担を減らすことだけを目的としていたのではなく、藩財政の補完的役割ももたせられていたことが分かる。
この旅稼ぎ石工の存在を示す資料として石沸菩薩細工がある(図2-3)。この石沸菩薩細工とは、稀代の名工と呼ばれた守屋貞治がこれまでに彫り上げた石仏を書き記しているものである。この石沸菩薩細工から、「貞治の活動は、現在の1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及んでいる」(https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1318より引用)ということが分かっている。このことから、高遠石工の1人である守屋貞治が残した石沸菩薩細工から広範囲にわたる活動が行われていたということが分かる。
② 優れた技術
2つ目は、優れた技術を持っていたことである。特に、精巧にして芸術性の高い作品を残していいること、多様な石造物を造っていたということが評価されていた。
その中でも彫刻技法が評価されている。それぞれの作品によって龍や花弁、幾何学的な模様などを表現し、装飾的な要素を含んでいる。その例として、長藤塩供に残る花文字の道祖神を挙げる(図2-4)。また、仏像を彫る際には、微笑みを浮かべた穏やかで引き締まった顔を表現する口元円形微笑型表現や蓮華座を豪華に見せる手法の蓮華座花弁巻き返し表現なども技術力が高いためできる表現方法である。高遠石工たちは、優れた技術を持っていることで、独創性のある石造物を造れたのではないかと考える。
高遠石工の中でも、群を抜いて高水準な石造物を彫る専業工が存在し、その石工の元には多くの修業石工たちが集まるようになった。このような高い技術を持った職人たちは、技術水準を高め、同時に高遠石工の名を全国に轟かせ、高遠石工が一種のブランド化したことによって、その活動も一層盛んになっていった。
③ 素行の良さ
3つ目は、優れた技術を持ちながらも、出稼ぎ先で素行が良かったことである。
この石工たちの素行の良さには、以下のように藩との間に厳しい御誓文が交わされていたという背景があったからである。
一、 他国へ当分出稼ぎするについては、五人組でよく吟味し、請人を立て、年貢や諸役に支障のないようにすること。
一、 御公様より仰付けられている御法度は勿論、堂々仰付けられている御法度にも決して背かないこと。
一、 旅稼ぎに出て、その年に帰らない者がある場合は、請人及び五人組でよく詮議をとげ早速申出ること。無事帰った場合も、名主、組頭、五人組迄届けること。
つけたり、少しの田畑持といえども田畑を荒らさぬ様、耕作の時期にはかえって、仕つけなど手落のないように妻子にもよく申し付けて置くこと。また旅稼ぎに出た以上、秋になって不作であっても、年貢を引いてくれなどといわないこと。
一、 私供旅稼ぎに出る上は御公儀様で決められている御法度をよく守り、旅先で盗み、ばくち、酒乱、口論、腕力沙汰など一切しないように心掛ける。万一旅先で何かの入費のことがあっても国元の御公儀様や、村役人、お組合等へ一切迷惑をかけないよう石工仲間で処理する。又旅先で越年して帰らない者がある場合は、請人が迎えに行ってきっと連れ帰り、お役人衆に御苦労はかけない。(高遠町誌編纂委員会,1977,pp.17-20)
このように、彼らが農閑期に出稼ぎに出る際には、藩との間に「運上金を必ず収めること」「農繁期には帰ってくること」「問題を起こさないこと」など御誓文が交わされていた。誓約があったからこそ、旅先でも素行よく真面目に仕事に取り組み、世間から人柄も評価されていたということが考えられる。
④ 専業石工が多数存在していた。
石工は大工など他の職人と比べて給料が良く、仕事量も多かったため、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門とする専業石工も多数存在していた。また、高遠藩は高冷地で、米作りを行うことも難しかったため、家計を支えるために石工になった人も多く、石工の数も徐々に増加していった。
⑤ 高遠藩領では、良質な石が産出し石材に恵まれていた。
高遠藩では、石仏を彫るのに適した石が豊富であり、採石場からは輝緑岩や安山岩、花崗岩が多く産出した。(https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1317より引用)この中でも特に輝緑岩は、きめの細かい美しさとなめらかな手触りが特徴的で、見た目からも表面がつるつるしていることが分かる。これは、稀代の名工と呼ばれた守屋貞治も作品に使用しており、重宝されている(図2-5)。
高遠は、山間部で耕地が狭い地域だが、人々の知恵と土地の形勢を生かしながら働いていたと考える。
第3章 石造物に現れる日本人の民間信仰
まず、民間信仰について説明する。「民間信仰は、特定の教祖・教義・教団などをもつことなしに、地域共同体に伝承的に機能してきた庶民信仰である。体系的に整備された宗教と異なり、呪術的な性格の強い信仰形態を示す。イエ(家)を単位とする組や村などの共同体の中で機能するのできわめて地域性の高いものである。」(松沢邦男, 2001, p.71)
この民間信仰が盛んになった江戸時代は、多くの石造物が造立されていることが特徴的である。そして、民間信仰は地域性が非常に高いものといえるため、この信仰心が造形となって現れる石造物を深堀し調査することで、当時の庶民の生活や信仰を見出すことができると考えた。そこで、本章では高遠地域に残る石造物数や造立年代、どのような石造物が造られているのか調査を行い、そこから石造物がもつ特徴や意味を明らかにする。そして、今に残る石造物が現代とどんな繋がりがあり、どのような影響を与えているのか考察する。
1. 高遠地域に現存する石造物の種類と数
「高遠石仏 付 石造物」の石仏調査一覧表を参考に、庚申塔、甲子塔、道祖神、月待塔、石塔、仏像(如来、菩薩、明王、天部)の形態分類ごとにデータを整理し、種類、造立数、造立年代を調査した。結果は表3-1の通りである。
1974年11月に行われた石仏調査によると、高遠町で確認された石造物数は2229基、未確認であるもの加えると2500基以上にわたるほどの膨大な数が造立されている。この中には、仏像や庚申塔、道祖神、月待塔、石塔、仏足石、石灯籠など様々な石造物が造立されていた。
石造物を種類ごとに数を集計すると、上位トップ3は仏像、庚申塔、道祖神であることが分かった。また、仏像(如来、菩薩、明王、天部)の中でも菩薩が812基と最も多いことが分かった。
ここからさらに、菩薩を「観音菩薩」「地蔵菩薩」「その他の菩薩」に細分化し、数を集計すると、特に馬頭観音と地蔵菩薩が多いことが分かった。
菩薩の分類結果は表3-2、表3-3、表3-4の通りである。
高遠地域に現存する石造物の造立年代は、全体的に見ると江戸時代から昭和までと長期にわたって石造物が造られており、特に江戸時代に造立が活発化していた。また、最も古いものは江戸初期の寛永(1624年~)に造立されており、400年近くの年月を経ても現代まで残されている。
また、表を見ると石造物の造立が活発化したのが江戸時代からということが考えられるが、高遠の良質な石材採れる地形と石工業の給料の良さから考えると、江戸時代以前から高遠石工は活動しており石造物の造立は始まっていたのではないかと推測する。
2. 高遠石工が造立した石造物
高遠地域に現存する石造物は、石仏、石神、石塔、石灯籠など多種多様で、造立数も非常に多かったことが分かった。本節では、高遠石工たちが造った石造物とその特徴について説明する。
また、造立数が多かった菩薩、庚申塔、道祖神、月待塔の4つについては、第3節で詳しく取り上げる。
(1) 仏像(如来、菩薩、明王、天部)
石で造られた仏像のことで、仏教で信仰される釈迦の姿、仏の姿をうつしたものである。各地域で様々な場所に安置されており、日常生活でよく見かける石造物である。如来、菩薩、明王、天部に分類され、それぞれの種類が細分化されている。外見や持ち物など特徴も異なり、4つの仏には階層がある(図3-1)。
「如来」とは、真理に目覚め、悟りを開いた仏のこと。外見は、一般的に装身具類をつけず、薄い衣一枚をまとい、螺髪という渦巻いた髪型をしている。如来の中には、人々を苦しみから救う「釈迦如来」、あの世の平和を取り戻す「阿弥陀如来」、宇宙全体を統一する「大日如来」、病苦を取り除く「薬師如来」などが存在している。この如来は。高遠地域に5体存在していた。
「菩薩」とは、悟りを求め、如来になるために修行をしている者のこと。菩薩は、如来のすぐ下の位にあり、如来の意思に従って様々な姿に変身をするため、観音菩薩や地蔵菩薩など多くの種類がある。
観音菩薩は、観音様で親しまれ、多くの人を救うために三十三種類の姿に変身すると言い伝えられている。聖観音菩薩が基本的な観音様の姿であり、ここから様々な観音菩薩が派生していった(図3-2)。
また、如意輪観音、准胝観音、十一面観音、馬頭観音、千手観音、聖観音の6種の観音菩薩のことを六観音と呼び、六道で苦しむ者たちを救済する。仏教では、死んだ後も、別の生命に生まれ変わるという輪廻転生の思想が基本になっており、この死後に生まれ変わる6つの世界のことを六道という。六道それぞれに担当の観音様がいるため、観音菩薩は、たとえどんな世界に生まれ変わっても救済の道があることを教えてくれる存在であるといわれている。
地蔵菩薩は、お地蔵様として親しまれ、あらゆる人を救済すると言われている。外見は、きらびやかな装飾品をつけ、髪を結い上げた中世的な姿をしている。座像や立像などの形態があるが、救いを求める人をすぐ助けられるように基本的に立ち姿で表していることが多い。
これらの菩薩は、高遠地域では、十一面観音(図3-3)、千手観音(図3-4)、准胝観音(図3-5)、如意輪観音(図3-6)、不空羂索(ふくうけんさく)観音(かんのん)(図3-7)、聖観音(図3-8)、馬頭観音、地蔵菩薩の8種類が特に多く見られた。
「明王」は、修行するものを煩悩から守る仏のこと。悪を懲らしめ、仏の教えに従わない者たちを正しく導く。そのため、外見は背中に炎を背負い、右手には剣を、左手には縄を持ち、憤怒の形相をしている。明王の中には、「不動明王」「愛染明王」「孔雀明王」「馬頭明王」があるが、高遠では不動明王が25体と最も多く現存していた(図3-9)。
「天部」とは、仏法と仏教世界の守護の役割を担う。もともと、仏教成立以前に民間信仰されていたバラモン教やヒンズー教などの神々が仏教に帰依したものである。外見は、官服を着た貴婦人や、鎧を纏った武将姿、鬼の姿など表現が多彩である。高遠地域では弁財天、大黒天など29体残っている。
(2) 石塔(無宝塔・宝篋印塔・五輪塔・笠塔婆・石幢)
石塔とは、お釈迦様の遺骨である仏舎利を安置するための仏塔のことであり、供養塔を指す。また、後々人々のお墓としても造られるようになったため墓石のことも指す。石塔は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)(図3-10)、多重塔(図3-11)、無縫塔、五輪塔、笠塔婆、石幢(せきどう)と呼ばれるものがあり、形も大きさも異なる。神社仏閣、墓地に安置されていることが多い。その中でも、宝篋印塔などは高い石工技術が必要なため高価であり、身分の高い人々の間でしか使われていなかった。
(3) その他(仏足石・石灯籠・石垣・御神使・記念碑)
石仏、石塔、庚申塔、道祖神の他には、仏がその場所にいることを示す印として釈迦の足裏の形を刻んだ仏足石や、石灯籠、石垣、御神使、道しるべ、性神、石積みなど多種多様な石造物があった(図3-12)(図3-13)(図3-14)。
3. 石造物からみる民間信仰と現代との繋がり
本節では、造立数の多かった菩薩、庚申塔、道祖神、月待塔の4つの石造物がもつ特徴や意味を明らかにし、今に残る石造物が現代とどんな繋がりがあって、どのような影響を与えているのかを見出す。
(1) 菩薩からみる民間信仰
石造物数調査において、仏像数が871基であり、その中でも菩薩が812基と最も数が多いことが分かった。さらに、菩薩の中でどの種類が多いか調査すると、馬頭観音(614基)と地蔵菩薩(97基)の2つが特に多く高遠地域に造立されていた。そこで、菩薩の中でも造立数が多かった馬頭観音と地蔵菩薩に焦点を当て、詳しく取り上げる。
「馬頭観音」とは、馬の安全息災を祈り、死馬の供養のために建てられたものである。六観音の一つに数えられ、畜生道に迷う人々を救済する。
当時、馬は農耕や輸送などで重要な働きをしたため、人々は馬を大切にし、馬の無病息災を祈る信仰が生まれた。そして、馬とともに道中の安全を祈り、道端で力尽きた馬を供養するために祀られるようになっていったという。
像容は、頭上には馬の頭をのせ、三面六臂や四面六臂など顔と手が複数ある仏像や(図3-15)、馬頭観音の墓碑(図3-16)、文字塔(図3-17)、供養塔、記念碑、など様々な形態があった。また、観音菩薩の中では唯一、憤怒の形相をしていて、この怒りが強ければ強いほど馬頭観音の人を救う力が大きく、馬が濁り水を飲みつくし雑草を食べ尽くすことから人々の悩みや苦しみを食べ尽くすと言われている。
この馬頭観音が高遠地区で614基と最も多い理由として、江戸時代から昭和初期にかけて軍馬や農耕馬として使用し、物資の運搬に馬が最も大きな働きをしていたからであると考える。武士や農家など、多くの人々にとって馬は生活の一部になっているため、病気や事故などで死んでしまった愛馬を供養することが増加していったのではないか。
「地蔵菩薩」とは、お釈迦様が亡くなった後、弥勒菩薩が次の仏になるまでの間、釈迦に代わってあらゆる人を地獄の苦しみや悩みから救う菩薩のこと。日本では、平安時代以降から、地獄を恐れる風潮が強まり、地蔵菩薩への信仰が江戸時代から庶民にも広がっていった。地蔵菩薩が6体並んだ六地蔵がある理由も、お地蔵様が六道をめぐりながら人々の身代わりになり苦しみを背負ってくれるという信仰があったからである。また、祈りに特別な決まりはなく、自分の願いを直接ぶつければ良いとされたことから宗派を超えて多くの人の信仰を集めていたのである。
地蔵菩薩はお地蔵さんとして親しまれ、寺院や道端、墓地などあらゆる場所に安置されており、民衆の目に留まりやすい場所に安置されている。その身近さから、最も周知され親しまれている仏像であると感じる。地蔵菩薩は、特に子どもを守る仏として信仰されたため子育地蔵として親しまれるものが多い。日常生活で見かけるお地蔵さんは、赤い涎掛けや頭巾をしていることが多いが、この涎掛けなどをしている理由も、子どもが健やかに育つようにと願いが込められているからである(図3-18)。この子育地蔵の他にも、願掛け地蔵、身代わり地蔵、火防・盗難除けの役割を持つなど庶民の願いを聞き届ける仏として親しまれていた。このように地蔵菩薩には、様々なご利益があることが分かり、それぞれの地域の人々が地蔵菩薩への意味付けが異なっているのではないかと考える。
さらに、地蔵菩薩は広く親しまれ、信仰されてきた対象であるからこそ、様々な迷信や俗信も生まれてきたと考えられる。その一例として、笠地蔵や地蔵浄土などの昔話がある。笠地蔵は、大みそかの日、優しいお爺さんが六地蔵の頭に笠をかぶせると、夜中に米や宝物を運んできてくれるというお話である。また、地蔵浄土は、正直なお爺さんがお地蔵さんに助けられ、鬼から宝物を奪うお話である。このように、地蔵菩薩は昔話の中では、困っている人を助けたり、教訓を語ったりする存在として登場している。このことから、昔話は日本における信仰や暮らしを物語り、民話として現代まで語り継げられてきたこと分かる。
また、地蔵菩薩の信仰は現代においても続いており、地域ごとに独自の行事や祭りが行われている。例えば、8月に近畿、北陸地方で行われる地蔵盆では、地蔵菩薩の元に集まって像を綺麗にしたり、お菓子をお供えして地蔵菩薩に感謝を捧げる行事が子どもたちを中心にして行われている。江戸時代、地蔵菩薩に祈りを捧げていたように、現代でも地蔵菩薩は大事にされ、地域の人々の生活と深く関わりがあるということが分かった。そして、これらの行事や信仰が、江戸時代の信仰性と今の日本文化との繋がりを感じさせる。
(2) 庚申塔からみる民間信仰
庚申(こうしん)とは、干支(十干、十二支)にあてはめた言葉で、十干と十二支を組み合わせる暦の十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)が合わさる日または年のことをいい、60日あるいは60年ごとに巡って来る日のことである。昔の暦の干支は、60日、60年で一回りする仕組みになっており、この庚申(かえのさる)の年は人心が冷めて災いが起こると言われていたため、この災いを避けるために、60年に一回めぐって来る庚申の年には、村に悪疫や災厄を入り込ませないように庚申塔を建て祈願していたのである。またこの庚申塔を建てる理由として、村の安全を祈るだけでなく、ご利益や記念も目的としていた。
庚申(こうしん)はかえのさるの晩に行った民間信仰で、この信仰の由来は、中国の三大宗教の1つである道教の三尸(さんし)説によるものである。庚申信仰では、人間の体内には、三尸(さんし)と呼ばれる病を引き起こす三匹の虫がいて常にその人間の行いを見ていると考えられていた。三尸は、人が死ぬことで自由になることができるため、人を欲深くさせ悪事を働かせ、寿命を縮めようと隙を狙う。だが、普段は体内から出ることはできず、庚申の日、眠っている時にだけ出ることができた。そのため、庚申の夜に人が寝静まった時、人間の体内から抜け出して閻魔大王のもとへ行き、その人の悪事を告げることで、それを聞いた閻魔大王が、その人間の寿命を縮め、命を奪うと言われていた。そのため、庚申の夜は眠らずに夜を明かす庚申待という習わしが生まれ、庶民の間で庚申講と呼ばれる集まりをつくり、会場を決めて庚申待をする風習が広まっていったという。そのため高遠地域に現存する庚申塔は、公民館や神社仏閣、道端など人が集まる場所に多く、町を見渡せばどこにでもある石造物であった。
像容は、庚申の文字が刻まれたもの(図3-19)と、青面金剛・太陽と月・2匹の鳥と3匹の猿が刻まれているもの(図3-20)がある。文字が刻まれたものは、文字の書体や、石の大きさも異なっている。
青面金剛の像に日月、鳥と猿が彫られたものは、庚申塔の基本形である。高遠地域に残る最古の青面金剛・日月・鳥と猿の庚申塔には、延宝の文字が刻まれているため、庚申塔の造立と庚申信仰は江戸初期から始まっていたのではないかと考える。
(3) 道祖神からみる民間信仰
道祖神とは、厄災や疫病が村へ入るのを防ぐ村の守り神である。五穀豊穣や旅人の安全を祈るなど道祖神によって祈りは様々である。村の守り神とされていたため、村境、村の中心部、三叉路、道端などに立っている場合が多い。
また、道祖神は地域ごとに呼び方も様々で、「どうそじん」の他に、障(さえ)の神、塞(さい)の神、道(どう)陸(ろく)神(じん)、だうそじん、などがある。また、塞の神が訛ると「せいのかみ」になるため、性との深い結びつきがあり、子孫繁栄のために建てられたともいわれている。道祖神の像容は、大きく分けて2つある。
1つは、道祖神の文字を刻んだ文字碑型のものである。この道祖神の文字は、楷書や草書、篆書などの様々な書体で彫り込まれており、ひとつとして同じものはなかった(図3-21)(図3-22)。また、高遠塩供地区には全国的に見ても珍しい、装飾的な花文字道祖神が存在していたことが分かった(図3-23)。
2つ目は、双体道祖神である。双体道祖神は、仲睦まじい男女の姿が浮き彫りされている(図3-23)。男女が遠慮がちに寄り添って立つもの、手を握るもの、抱きしめあうなどその姿態はさまざまであるが、高遠地域では、向かって右側に男神、左側に女神が彫られ、お互いに握手している像が多かった。このことから、夫婦仲が良ければ子どもも生まれて、村の繁栄にも繋がるという意味を指し、人々の繁栄を祈るために造立され始めたのではないかと考えられる。
道祖神は呼び方や形態もひとつひとつ異なり独創性がある。さらに、様々なご利益を願われ造立されていた。道祖神は、呼び方によって形や意味が変わるという訳ではなく、神社やお寺の神像や仏像と違い決まった様式はないため、村の人々が石工に自由に注文をつけて造ってもらっていたといわれている。
このように、道祖神が建てられた意味や呼び方、像容を見ると、当時の地域性が最も現れる石造物が道祖神であると考える。
さらに、道祖神と関連する行事として「どんど焼き」が挙げられる。これは長野県各地で行われる行事で、道祖神のための祭りであり、お正月の松飾りを集めて焚き上げ、厄落としを行う。このような、行事を通じて、道祖神は地域の信仰と行事に関わりがあることが伺える。
(4) 月待塔からみる民間信仰
月待とは、特定の月齢の日の夜に人々が寄り合い、神仏に祈りを捧げ、仲間とともに飲食をしながら月の出を待つ行事のことで、月が出るとありがたく拝んだり、悪霊を祓うという意味合いを持っていたが、昔の人の月の満ち欠けへの恐れから生まれた行事とも言われている。この月待を行った人々が供養のしるしに造立したのが月待塔である。月待塔は、二十二夜や二十三夜、二十六夜など、〇〇夜と刻まれている(図3-24)(図3-25)。高遠地域では、その中でも特に二十二夜塔と二十三夜塔の数が多く残されていた。
十九夜と二十二夜には如意輪観音菩薩、二十三夜は勢至菩薩、二十六夜は愛染明王のようにそれぞれの月夜には特定の神仏が結び付けられている。
例えば、高遠地域に多く現存していた二十二夜に結び付けられる神仏は、如意輪観音であり、この如意輪観音は女性の守り仏と考えられていたため、女性だけの月待行事も行われていたとされている。この女性限定の月待を現代風に言い換えてみると、真夜中まで月を待つ女子会のようなもので、仲間の家やお堂に集まり、おしゃべりをしながら食べ、飲み、月の出を待ってそれぞれの願いを月に託す場面が浮かび上がる。このように、月を眺めながら仲間と語らい、お互いの絆や親交を深めていた当時の人々の姿は、現代の私達の日常とさほど変わりはなく、共通しているように思える。こういった人間の本質的なものは時代を経ても変化しないのだなと感じる。
月待の信仰は今ではほとんど見られないが、現代では全国で中秋の名月にお月見イベントなどが開催され、月に関する行事も多い。このように、江戸時代から主流になっていった月待の民間信仰は、現代の日本文化にも通ずるものがあることが分かった。月に惹きつけられた人が集い、人と人とが結びつけられている様子は今も昔も同じである。
第4章 デジタルアーカイブする意義とは
本章では、第1章から第3章までの内容で分かったことから、石造物をデジタルアーカイブする必要性について考察する。石造物のデジタルアーカイブを行うべき理由は主に3つあると考える。
1つ目は、未来への遺産の継承である。
第1章より、高遠地域に現存する石造物は、自然の中に安置されているため、災害や経年劣化による喪失や損傷はなかなか避けることができない状態にあることが分かった。このように物理的な保存が難しい場合でも、デジタル化して保存することにより、今ある本来の姿のまま永続的に保存できるため、アーカイブ化を進めていくことが重要であると考える。
2つ目は、歴史と信仰の保存である。
第2章・第3章より、江戸時代は、飢饉や天然痘などの災害や疫病に人々が苦しめられた時代であったため、石造物は当時の人々の拠り所となり、守り神として建立されていたことが分かった。石造物は、仏像や道祖神、庚申塔など多くの種類が造立されており、どの石造物にいたっても人々の祈りの対象となっていた。そのため、今に残る石造物は、地域の人々の篤い信仰によって建てられたということが分かり、何百年前の人々の生活や民間信仰、時代性を反映し、歴史の変遷を知ることができる貴重な遺産であると感じる。だからこそ、高遠の歴史を物語る石造物をアーカイブすることで、歴史と文化の理解をさらに深め、歴史的・文化的価値を高められるのではないかと考える。そして、インターネットやデジタルメディアを通じて、高遠石工遺産をデジタル資料として提供することで、多くの人々が高遠石工を知る1つのきっかけとなり、高遠石工に興味関心を抱いてもらうことで、観光資源としてもさらに活用できるようになり、地域の活性化に繋がるのではないかと考える。
3つ目は、教育への活用である。
上に記したように、石造物は人々の生活を反映しているため非常に地域性が高い遺産であるといえる。また、地蔵菩薩や道祖神など石造物が関連した行事やお祭りが各地で行われていることが分かり、神仏に祈りや願いを捧げる信仰は、現代の私達の日常生活や文化の中で引き継がれていると感じた。だからこそ、石造物デジタルアーカイブを通じて、日本文化に対する学びをより深めるとともに、地元の歴史や文化に誇りを持たせ、地元への愛着や関心を高められるのではないかと考える。
第5章 高遠石工 石造物デジタルアーカイブ
1. デジタルアーカイブの対象と撮影方法
(1) デジタルアーカイブの対象
「高遠石工 石造物デジタルアーカイブ」では、主に、長野県伊那市高遠町に現存する石造物の撮影を行う。石造物は、仏像、石塔、道祖神、庚申塔などを含む。上伊那地域に現存する、高遠石工の中でも高い技術を持ったといわれる守屋貞治の石仏も撮影対象とする。加えて、高遠町歴史博物館の所蔵品と高遠石工研究センターの方や学芸員による高遠石工に関する講座の動画撮影を行った。
撮影場所は、「高遠石仏探訪マップ」「伊那市高遠町・長谷周辺の石造物探訪マップ」「高遠の石仏 付 石造物」から選定した。また、撮影場所までの道中で発見した石造物も撮影した。撮影は19ヶ所で行い、約300基以上の石造物の資料を収集した。(2023年12月21日時点)
以下の表5-1、は、石造物の撮影場所、撮影した石造物の種類、数をまとめたものである。
(2) 撮影方法
対象とする石造物を前後左右の4方向から静止画で撮影を行う。格子に囲まれているものや、崖や川付近など近づくことができない場合は、前方のみ撮影を行う。一眼レフカメラを使用する。特に仏像については、碑文、台座、持物、印相、表情をクローズアップして、1体1体の特徴や魅力が伝わるように撮影を行った。
また、高遠石工に関する講座については、高遠町歴史博物館が主催する第27回歴博講座を対象として動画撮影を実施した(図5-1)。講座内容は、伊那市誌編さん委員、駒ケ根市立博物館専門委員の北澤夏樹氏による「地形・地質からみた長谷・高遠地域」と、高遠石工研究センターの熊谷友幸氏による「深まる高遠石工の世界―貞治仏調査結果から―」の2講座である。
2.Webページの作成
本学のデジタルアーカイブ研究所が運営している、「地域資源デジタルアーカイブ」にて、収集したデータをもとにwebページを作成する(図5-2)。このWebページは、下のQRコードから閲覧できる(図5-3)。
Webページは、撮影場所ごとにページを作成する。ページは、タイトル、サムネイル画像、概要(歴史、石造物の特徴や説明など)、収集した石造物の画像、所在地を知らせるためのマップで構成されている(図5-4)。石造物の画像は、横移動させて画像を切り替えて閲覧することができるようになっている。
第6章 結 言
本研究では、地域文化遺産の保存と普及を目的とした高遠石工の石造物のアーカイブ化を行うとともに、高遠石工の歴史と当時の石造物に対する人々の信仰心から、今に残る石造文化財の価値を明確にし、石造物デジタルアーカイブを行うことの意義について考察をした。
石造物造立が活発化した江戸時代は、天災や病に苦しめられた時代であった。そのため、人々は生命を脅かすものに対抗するため、神仏への信仰が一般化し、石造物を通じて無病息災などを祈り、守り神として人々に希望と安心をもたらしていた。これらの石造物は、造立当時の人々の生活や信仰心、時代性を反映しており、高遠地域で今なお数多く残されていた。そして、江戸時代から強まっていった信仰心や民間信仰は、今の私たちの生活や文化、行事にも受け継がれていることが分かった。そのため、高遠石工の活動跡として残る石造物は、歴史的・文化的価値を有し、高遠地域そのものの価値を高める遺産であるといえるため、後世に繋げていくためにデジタルアーカイブを行うべきである。
また、撮影中には地域住民の方から声をかけていただき、貴重なお話を伺うことができた。その際、高遠石工の存在やその石造物が今でも大事にされ続けていることを痛感した。このような地域住民の遺産に対する愛着や関与があるからこそ、私達がその意思を受け継ぎ、地域の文化遺産を残していくことが地域貢献に繋がるのではないかと感じた。
そして今回、デジタルアーカイブに取り組むうえで、もっと撮影場所の下調べを入念に行うべきであったことが一番の反省点であった。撮影場所の選定は、石仏探訪マップや文献から行ったが、そこには地区名や所在を示した大まかな地図の情報しかなかったため、実際に行ってみると目的地にたどり着くまでに相当な時間がかかってしまった。特に自然の中に安置され管理があまり行き届いていない石造物については、Googleマップ等の検索エンジンを用いてもマップ上に掲載されておらず、場所を特定することができなかった。そのため、専門的に研究に従事している高遠石工研究センターなどの機関に確認を取り、石造物がどこにあるのか、周囲に目印とするものはあるのか等を聞き、場所を明確にしておくべきだった。アーカイブ化を行ううえで、石造物は自然に溶け込んでいるため、建造物とは違い発見しにくい。そのため、意識を巡らせながら町を探索することも大切だと感じた。また、道中が険しい場所もあり、車でのアクセスが困難で徒歩での移動も多く、目的地までたどり着けずに撮影を断念した場所もいくつかあり資料収集に苦労した。そのため、デジタルアーカイブ化を行う際には、知識や技術だけでなく、根気と体力も不可欠であると感じた。
本研究を通じて、高遠石工について探求し、石造物を目指し高遠を巡ることで、故郷の見え方が大きく変わった。自分が生まれ育った地域こそ、価値ある遺産や風景が当たり前すぎて見過ごしてしまっていたことに気づき、その価値を再確認することができた。だからこそ、遺産を記録し、多くの人にその魅力を伝えていくことが重要であると考える。
今回、約300基の石造物をアーカイブしたが、まだまだアーカイブ化するべき石造文化財が沢山ある。高遠石工遺産を保存し後世に残していくこと、高遠地域の発展に繋げていくためにも、地域遺産にもっと興味関心を持ち、デジタルアーカイブする人材が増えていけば良いと考える。
参考文献
1) 松沢邦男.庚申塔と道祖神-見て、歩きの手引き-.ほおずき書籍, 2001, 166p
2) 高遠町誌編纂委員会.高遠の石仏 付 石造物.高遠町誌刊行会, 1975, 215p
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7) 石川純一郎.地蔵の世界.時事通信社, 1995, 352p
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9) 木戸ひろし.再発見!高遠石工.ほおずき書籍, 2015, 235p
10) 石川純一郎.地蔵の世界.時事通信社, 1995, 352p
11) 市川智康.図解・仏像の見分け方.大法輪閣,1992, 192p
12) 笹本正治.再発見!高遠石工.ほおずき書籍,2015,235p
13) 伊那市高遠町・長谷周辺の石造物マップ.
https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/bunka/takatoishiku.files/map.pdf(2023/8/10 閲覧)
14) 石仏探訪マップ
https://www.inacity.jp/kankojoho/kanko_news/174t_knk.files/map_takato.pdf
(2023/8/10 閲覧)
15) 日本地図ジェネレーター.
https://www.start-point.net/maps/map_maker/ (2023/10/1閲覧)
16) 名古屋刀剣ワールド.“江戸時代日本史 |ホームメイト”.
https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-edo/(2023/10/6 閲覧)
17) 伊那市.“市指定文化財:伊那市公式ホームページ”.
https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/bunka/shishiteibunkazai.html (2023/12/8閲覧)
18) 伊那市.“伊那市の文化財の概要”.
https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/shogaigakushu_news/rekishibunka.files/02.pdf (2023/12/8閲覧)
19) 文化庁.“伊那市【長野県】‐歴史文化構想”.
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/rekishibunka/pdf/92756301_01.pdf
(2023/12/8閲覧)
20) 伊那市公式ホームページ.“高遠石工:伊那市公式ホームページ”.
https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/bunka/takatoishiku.html (2023/12/26閲覧)
21) 長野伊那谷観光局.“高遠石工のふるさと伊那谷”.
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1150 (2023/12/26閲覧)
22) 「日本で最も美しい村」連合.“長野県伊那市高遠町たかとお-「日本で最も美しい村」連合.https://utsukushii-mura.jp/map/takatoo/ (2023/12/26閲覧)
23) 伊那市観光協会.“おいでな伊那―一般社団法人伊那市観光協会公式サイト”.
https://inashi-kankoukyoukai.jp/ (2023/12/26閲覧)
24) 伊那市デジタルアーカイブ.https://adeac.jp/ina-city/top/ (2023/12/26閲覧)
25) 高遠石工と天才仏師 守屋貞治を追って.https://stone-c.net/report/8032 (2024/02/13 閲覧)
論文資料
【研究論文】岐阜和傘の歴史と技術のアーカイブ
〜岐阜市文化資源デジタルアーカイブの構築〜
研究概要
1,はじめに
卒業研究のテーマを決める中で、現在住んでいる岐阜市について関心を持ち、岐阜市を知っていく中で岐阜県の伝統工芸品である岐阜和傘を初めて知り、岐阜市にはまだあまり知られていない伝統工芸品があるかもしれないと考え、そこから若い世代や知らない方に岐阜和傘を知ってもらえる様にデジタルアーカイブを通して伝えたいと考えた。本研究では、岐阜和傘の技術と歴史を中心に、岐阜和傘以外の伝統工芸品と長良川の関係性をアーカイブし、より多くの人に伝える事が本研究の目的である。
2,研究の方法
研究対象である岐阜和傘とその他の伝統工芸品の歴史や技術などの資料を集め、文献調査を行う。次に、文献調査で分かった事をまとめ、分析しまとめていく。文献調査だけでなく岐阜和傘の資料や岐阜和傘に関連する施設などを実際に訪問し、撮影をさせてもらう。文献調査や撮影などを基にデジタルアーカイブを作成し、活用の方法とデジタルアーカイブをする事の意義を考察、提案する。
3,研究の結果(考察等)
本研究では、最初に岐阜和傘の歴史やその他の岐阜市の伝統工芸品の歴史・技術を知る為に文献調査を行った。そこから分かった岐阜市の伝統工芸品の共通点として長良川に沿って伝統工芸品が生まれている事が調査で分かった。
長良川は、岐阜県北部の大日ヶ岳から南へと岐阜県内を横断し、三重県桑名市で揖斐川に合流し、伊勢湾へと流れ込む。全長は166kmで、流域には、86万人が暮らしている。長良川は江戸時代では、物流の手段として使われていた。長良川は、伊勢までたどり着く事から関西から関東まで荷物を運ぶ事ができ、物流の要として使われていた。その為、出来た品物や材料などが手に入れやすい事から長良川の流域で数多くの伝統工芸品が生まれた。
その事から、岐阜和傘・岐阜うちわ・岐阜提灯の関係性が分かった。また、長良川の役割や歴史を知る事で、岐阜和傘の成り立ちと深く関係している事が分かった。
また、文献調査を進めるにあたって岐阜市和傘の現状の課題点が見えてきた。昨今は、和傘よりも洋傘が主流となっており、和傘の需要が減少しており、最近では舞台での小道具や結婚式の前撮りの小道具として使われる事が多くなった。そこで若い世代の方にも和傘をより身近に知ってもらう為にもデジタルアーカイブを通して岐阜和傘の歴史と技術を知ってもらう事が需要だと考える。その為に現在は、岐阜和傘に関連する場所や施設などを撮影し、ネットに上げる事を行っている。また、文献調査も並行して行う。
4.おわりに
岐阜和傘の普及の為に様々な取り組みが行われてきているが、現状はまだ若い世代に「岐阜和傘」の普及がないと考える。若い世代に「岐阜和傘」を知ってもらう為にもインターネットを通して、「岐阜和傘」の普及に努める。Mata,
関連の場所での撮影が出来ていないので、撮影を重点的に行いながら、岐阜和傘の歴史や技術、長良川の伝統工芸品の関連性と歴史の文献調査を行っていく。
参考文献
(1)岐阜傘に関する調査研究
(2)加納町史 下巻
(3)密柑水の文化センター 機関誌『水の文化』50号「江戸時代から続く岐阜・加納の和傘づくり」
https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no50/05.html
(4)和傘CASA
研究資料
岐阜和傘の歴史
・岐阜和傘の成り立ち
1756年(宝暦6)、加納藩主・永井直陳は下級武士の生計を助けるため和傘づくりを推奨した。岐阜で和傘を製造するにあたって、分業体制の確立に加え、美濃和紙の生産地に近く、周辺の山間地で良質の竹が採取できるなどに加えて、加納は位置的にも原材料に恵まれた事もあり、加納の和傘は栄え、最盛期の昭和20年代半ばには年産100万本を超えている。
・岐阜和傘と長良川
岐阜和傘を搬送するにあたって、長良川は大きな役割を果たした。搬送経路としては、長良川から伊勢湾の桑名に出て、廻船によって江戸・大阪などの大消費地へと搬送する事が可能となったため、広範囲に和傘を販売することができ、岐阜和傘が栄えた一因となった。
岐阜和傘とは?
・岐阜和傘の特徴
岐阜和傘は、畳むと細く収まる傘「細物」を特徴として、傘の製造に優れた技術を有し、豊富な装飾技法を継承している。
・和傘の種類
「蛇の目傘」→細みかつ色柄が豊富で女性が使用する事が多い
「番傘」→太めの骨や白の和紙で作られる男性用で、雨傘としても作られ、
わしには水除けの油が引かれる。
「舞踊傘」→日本舞踊や歌舞伎などで使われる
「野点傘(のだてかさ)」→野外のお茶会などで使われる
など様々な和傘が存在している。
・岐阜和傘が認められて…
2022年3月には、国の伝統的な工芸品に推定されている。
岐阜和傘の現状と課題
・岐阜和傘の今
現在、岐阜和傘を製造販売するのは加納地区に3件のみとなっている。最盛期だった頃と比べ、洋傘の普及に伴い、需要が減り、今の岐阜和傘の主な収入源としては、歌舞伎や日本舞踊などでの貸し出しや結婚式での貸し出しが主となっており、和傘を普段使いの傘として買う人は減少している。岐阜和傘は一つ一つが手作りで分業制で出来ているからこそ一本一本の値段が洋傘に比べると高く、中々手に届かないのも一つの原因となっていると考えられる。
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その現状を打破しようと様々な事が取り組まれてきている。最近だと岐阜市に岐阜県で唯一の和傘専門店である「CASA和傘」というショップが出来た。このショップでは「岐阜和傘」をブランド化し、現代に合わせ、洋服に合うデザインの岐阜和傘を店頭やオンラインショップ等で販売している。また、公式のホームページでは買った方の写真や感想などが掲載されていたり、岐阜和傘の種類等も掲載されており、和傘をより身近に普段使いしやすいサービス等が提供されている。
研究内容(仮)
岐阜和傘の普及の為に様々な取り組みが行われてきているが、現状はまだ若い世代に「岐阜和傘」の普及がないと考える。若い世代に「岐阜和傘」を知ってもらう為にもインターネットを通して、「岐阜和傘」の普及に努める。
◎岐阜和傘の歴史と人をアーカイブする
⇒「岐阜和傘」はどういう物なのかどの様な歴史なのか、今現在どの様に作られているのか作っている人をアーカイブし、公開する事で岐阜和傘について知ってもらう。
(例)職人の方の作業風景やインタビューを行いアーカイブする
岐阜和傘や岐阜の伝統工芸品にまつわる資料などをアーカイブする
◎岐阜和傘を通して長良川周辺にある伝統工芸品についても調べ、マップにする
⇒長良川周辺で生まれた岐阜うちわや岐阜提灯などを調べ、紙のマップにしたり、ウェブでのマップを作成する
(例)そこにある伝統工芸品についての歴史や豆知識などをタップして見れるようにする。
資料
論 文
岐阜和傘の歴史と技術のアーカイブ
〜岐阜市文化資源デジタルアーカイブの構築〜
第1章 緒 言
1. はじめに
卒業研究のテーマを決めるにあたって、現在住んでいる岐阜市について関心を持ち、岐阜市を調べていく中で、岐阜県の伝統工芸品である岐阜和傘が岐阜市で作られてきたことを初めて知った。岐阜和傘の技術と歴史をもっとより多くの人に知ってもらいたいと考えた。また岐阜和傘以外にもまだあまり知られていない伝統工芸品があるかもしれないと考えた。そこから調べてく中で岐阜うちわ、岐阜提灯の2つがある事が分かった。この二つの伝統工芸品と岐阜和傘の成り立ちなどを調べていく際に、この3つとも長良川付近で作られている事が分かった。そこから若い世代の方や知らない方に岐阜和傘や岐阜和傘以外の伝統工芸品を知ってもらえる様にデジタルアーカイブを通して伝えたいと考えた。本研究では、岐阜和傘の技術と歴史を中心に、岐阜和傘以外の伝統工芸品と長良川の歴史的関係性を調査し、デジタルアーカイブを通じてより多くの人に伝える事が本研究の目的である。
2. 岐阜和傘の歴史的変遷
上記でも述べた通り、岐阜和傘をより多くの人に知ってもらう事が本研究の目的である。岐阜和傘は最盛期の1950年頃は600件以上の問屋があり、月に120万本から130万本まで生産されていた。しかし、現在は職人の高齢化や後継者が少なく、お店を畳む人が多く岐阜和傘を扱うお店も全盛期より大幅に減った。また、もう一つの原因として挙げられるのは、洋傘の普及だ。昭和20年頃日本は敗戦し、終戦を迎えた。それに伴い生活様式が大きく変わった。和傘の需要低下が本格的に進んだのは、終戦直後の昭和23年~25年をピークに急激に落ち込んだ。その背景としてあるのは、生活様式が変わった事に伴い、洋傘の普及が始まった事が和傘の需要低下に拍車をかけた一つだ。その他にも、服装の変化として、着物から洋服へと変わった事、交通機関の発達、なども挙げられる。また物資不足だったのも原因の一つと考えられる。そして、昭和30年には洋傘の生産と和傘の生産が逆転し、急激に低下した。現代においても、傘というと洋傘の方が日常使いのイメージが強い。一本一本人の手で作られており、単価が高く手に出しにくい。しかし、洋傘の場合は大量生産に適しており、単価も安いものから高いものまである。また、洋服に和傘は合わせづらいという事もある。これは和傘が洋傘よりもデザインの幅がない事が原因だと私は考えている。この様に和傘は現代の生活様式には合わなくなっている。また和傘を作っている会社のホームページはあるが、岐阜和傘について作られたサイトは少ない印象がある。この岐阜和傘での問題は他の岐阜市の伝統工芸品出も同じだと考えている。今回取り上げる岐阜うちわ、岐阜提灯でも現代の生活様式に合わず、生産量なども最盛期に比べると随分減った。岐阜和傘を中心に岐阜市の伝統工芸品をより多くの人に知ってもらえる様にするには、インターネットの活用が最適と考えた。そこで、デジタルアーカイブを用いて、岐阜市の伝統工芸品の和傘について歴史的変遷と共に周知する事が問題の解決だと考える。
3.目 的
本研究の目的は、「岐阜市の伝統工芸品をより多くの人にデジタルアーカイブを用いて知ってもらう」事だ。岐阜市には伝統工芸品が数多くある。本研究では、岐阜和傘の技術と歴史について、デジタルアーカイブを中心に岐阜うちわ、岐阜提灯と長良川の関係性をアーカイブしていく。
第2章 岐阜市の歴史
1.岐阜市について
岐阜市は、岐阜県の県庁所在地であり、人口は42万人で、岐阜県の市町村の中で一番多い人口だ。パーセンテージで表すと、岐阜県の20%が住んでいる。の主な産業としてはアパレルが挙げられる。市内中心部を清流長良川が流れており、金華山がそびえている。歴史も長く、岐阜市が歴史に登場したのは旧石器時代で、最初は岐阜市の北部から東部にかけた台地上に営みがあり、縄文、弥生、古墳時代にはほぼ全域に営みは広がっていった。その証拠として、紀元前1300年頃の石器や遺跡などが見つかっている。応仁・文明の頃には、斎藤道三が美濃国を手中にして、井口と呼ばれた稲葉山山麓に城下町を形成。永禄10年には、織田信長が美濃国を手中にし、「井口」から「岐阜」と改めた。その後、「楽市楽座」を行い城下町を発展させた。その後は合併が繰り返され、今の岐阜市が出来たのは1889年(明治22年)7月1日、その後2006年に柳津町と合併し、2019年に130周年を迎えた。本研究では、岐阜市の伝統工芸品を紹介してきたが、岐阜市には他にも様々な伝統文化や産業がある。その一つとして、岐阜市の伝統文化である長良川の鵜飼がある。長良川の鵜飼は、その歴史と伝統に培われた技術が評価され、国の重要無形民俗文化財に指定されている。また岐阜市を代表する産業として、アパレル産業が挙げられる。岐阜市のアパレル産業は満州から引き揚げられた人達が中心に軍服を売る店を立ち上げ、そこから発展していき、日本でも有数のアパレルの産地となった。また、岐阜市には様々な史跡が残されている。城の跡地が残っている所もあり、金華山の上にそびえる岐阜城跡は、岐阜城を含む金華山一帯が「岐阜城跡」として国史跡に指定されている。国史跡とは、日本の歴史を正しく判断する上で欠く事が出来ない遺跡の事であり、岐阜城跡地は岐阜市内の国史跡としては4件目に登録された。岐阜市は岐阜県の中心地として栄えながらも伝統と歴史のある町であり、自然にも恵まれている。
2.岐阜市の伝統工芸品について
岐阜県には、国の指定を受けた伝統的工芸品が6品目あり、その中の2つの伝統的工芸品は岐阜市にある。岐阜市には5つの伝統工芸品があり、内訳としては、国から指定された伝統的工芸品は、岐阜提灯、岐阜和傘の2つで、岐阜県から指定された郷土工芸品は、岐阜渋うちわ、のぼり鯉・花合羽、美濃筒引き本染め・手刷り捺染の3つが指定されている。本研究では、この5つのうち岐阜和傘、岐阜提灯、岐阜うちわについて取り上げていく。まず伝統工芸品とはどの様なものかを説明していく。一般には伝統工芸品と言われる事が多いが、それとは別に「伝統的工芸品」という呼称がある。伝統的工芸品は「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)」(以下から「伝産法」と略す)で定められている。この伝統的工芸品の「的」には、「工芸品の特長となっている原材料や技術・技法の主要な部分が今日まで継承されていて、さらに、その持ち味を維持しながらも、産業環境に適するように改良を加えたり、時代の需要に即した製品作りがされている工芸品」の意味が含まれている。「伝統的工芸品」には、法律上で次の要件が必要になる。
・主として日常生活で使われるもの
冠婚葬祭や節句などのように、一生あるいは年に数回の行事でも、生活に密着し一般家庭で使われる場合は日常生活に含まれる。
・製造過程の主要部分が手作り
すべて手作りでなくてもよいが、製品の品質、形態、デザインなど製品の特長や持ち味を継承する工程は「手作り」が条件だ。持ち味が損なわれない様な補助的な工程には、機械を導入する事が可能だ。
・伝統的技術または技法によって製造
伝統的とはおよそ100年間以上の継続を意味する。工芸品の技術、技法は、100年間以上、多くの作り手の試行錯誤や改良を経て初めて確立すると考えられている。伝統的技術、技法は、昔からの方法そのままではなく、根本的な変化や製品の特長を変えることが無ければ、改善や発展は差支えない。
・伝統的に使用されてきた原材料
「伝統的技術または技法によって製造」と同様に、100年間以上の継続を意味し、長い間吟味された、人と自然にやさしい材料が使われているか。またすでに枯渇したものや入手が極めて困難な原材料もある場合は、持ち味を変えない範囲で同様の原材料に転換する事は、伝統的であるとされている。
・一定の地域で産地を形成
一定の地域で、ある程度の製造者があり、地域産業として成立していることが必要。ある程度の規模とは、10企業以上または30人以上が想定されている。
以下の要件を全て満たし、伝産法に基づいて経済産業大臣の指定を受けた工芸品の事を指す。今回取り上げる岐阜提灯、岐阜和傘は伝統的工芸品で、岐阜うちわは郷土工芸品に分類されているが、3つとも伝統工芸品である事には変わらないので、ここでは3つとも伝統工芸品と呼称していく。それでは、いつ伝統的工芸品と郷土工芸品について指定されたのかというと、岐阜提灯は平成7年4月5日、岐阜和傘は令和4年3月18日に伝統的工芸品として岐阜渋うちわは平成4年3月30日に指定されている。
3.岐阜市加納地域に地域性
加納の地名の由来は、荘園が誕生した時代に盛んぼる。荘園とは、功績のあった貴族やお寺に与えた土地が荘園である。今の茜部には茜部の荘という東大寺の荘園があり、その荘園の管理者は、荒地を開墾し、その土地を国に言わずに自分の土地にして、年貢を手に入れていた。しかし、隣の荘園との境にぶつかると、正式に権限が欲しいため、開墾した土地を正式に届出を出し、そこから国に年貢の一部を納めた。その様な経緯から、元の荘園に後で加えて納めたことから「加納」という地名が出来た。加納は岐阜県稲葉郡に存在した町で旧城下町でもあった。加納城が出来たのは、1600年11月出来ヶ原合戦後、家康は西方の脅威に備え、交通の要衝を理由に加納城の築城を命じられ、加納城が築城された。加納城初代城主には奥平信昌が任されたという。また、加納は加納城が築城する前は、中山道の宿場町としても栄えた。中山道は、1601年から7年間で他の4街道(東海道、日光街道、奥州街道、甲州街道)とともに整備された会堂であり、古くは都と東国を結ぶ東山道と称されていた。加納宿は守山宿から東海道の草津宿を経て京都三条に大橋に至ると69の宿があり、そこまでを「木曽路69次」とも言われている。美濃路には16宿が設けられていて、そのうちの最大の宿だと加納宿は言われていた。加納は加納城を中心に、侍屋敷と宿場町から成り立っていた。侍屋敷は加納城周辺(丸の内,東西の丸,長刀堀等)で、宿場町は本町一丁目~九丁目,天神町,広江,新町,柳町,安良町,八幡町等22町からなっていた。()そこから明治16年には、東加納町と西加納町が確立。その後、明治30年には、東加納町と西加納町、下加納町が合併し、加納町となった。その後、昭和に入り、加納町は岐阜市と合併した。加納の特産品としては、岐阜和傘があり、加納に数多くの国に指定された史跡が残っている。加納城だけでなく、加納宿、加納天満宮、加納八幡神社などがある。加納天満宮は、祭神は菅原道真公で加納城が築城される前から祀られていた古社で、慶長年間に現在の場所に移設された。加納天満宮は、学問の神様としても有名で、戦炎で焼け残った拝殿は、文化7年創建され、三十六歌仙,六歌仙,等の宝物や市文化財指定の山車(鞍馬車)があり、天神祭りやみそぎまつり、提灯まつりなどが開催されている。平成15年10月には、御鎮座400年と官公御神忌1100年の記念事業として本殿造営工事がされた。また、町政時代の名所として、1962年に竣工された旧加納町役場が存在しており、武田五一設計で、鉄骨鉄筋コンクリート造2階建ての近代建築で、国の登録有形文化財にも登録された。しかし、耐震性の問題などから2016年に取り壊され、その跡地は現在中山道加納宿まちづくり交流センターとなっている。この中山道加納宿まちづくり交流センターでは、加納宿を中心とした中山道の歴史の継承を図り、地域のまちづくりの活動の場という役割で令和2年10月14日に開館した。屋内には和傘や加納城のジオラマなどの展示が展開されており、街歩きなどで中山道を訪れる方へのトイレの提供や休憩スペースとしても利用が出来る様になっている。この様に加納を知る事ができる施設もある。また、旧加納町役場以外にも加納小学校の正門は、赤いレンガ造りが有名で「赤門」と呼ばれており、明治32年4月の開港同時に設置された。市内最古の門であり、平成7年10月には「岐阜の宝百選」にも選ばれた。加納は、1940年の1月23日に岐阜市への編入案が可決されたが、編入案が可決する条件として、岐阜駅、東海道本線下に地下道を設ける事、「加納」という地名を残すことを提示した。この条件を承諾した事で、岐阜市に編入した今も加納という地名は残っている。
4.長良川という自然環境
長良川は、岐阜県北部の大日ヶ岳から南へと岐阜県内を横断し、三重県桑名市揖斐川に合流、伊勢湾へ流れ込む。その全長は166kmで、流域には86万人が住んでいる。高知県の四万十川、静岡県の柿田川と並んで日本三大清流と言われており、名水百選にも選ばれている。また、長良川は上流約1㎞の水浴場があり、全国で唯一河川の水浴場として、「日本の水浴場88選」に選定されている。また、長良川にはダムや工場群が無く、水の美しい川として有名だ。長良川は水が美しい清流の為、鮎を中心に川の魚が良く捕れる。鮎は、澄んだ川の象徴と言われている。夏を告げる旬の魚だ。柳の葉のようなスリムな体をしていて、鮎の身からスイカの匂いが漂う為に「香魚」とも呼ばれる事もある。鮎は北海道から沖縄まで生息していて、澄んだ清流を好む。また、鮎は「年魚」とも呼ばれ、一年で命を閉じる。
おいしい鮎が育つためには、エサとなる上質なコケ(藻類)が必要となる。太陽光線 がコケ(藻類)の生える石まで届けばコケが豊富に育つが、泥や落ち葉などのゴミに遮られるとあまりコケは育ちにくい。しかし、長良川は、本流にダム(河川法で規定される高さ15m以上のモノ)が無く、大雨で自然に川の底が洗われやすいため、コケ(藻類)が育ちやすい環境にある。また、鮎は1日あたり自分の体重の半分の重さのエサを食べる。その為、鮎は縄張りを作るのは、他の鮎からエサ場を守る為だという。その為、たくさんの鮎が育つには、広範囲に美しい川が必要となる。また、鮎のエサとなるコケは、水中の二酸化炭素や窒素、リンなどを吸収し、水を綺麗にする役割がある。鮎がコケを食べる事で、次々に新しいコケが育ち、水を綺麗にし続ける。この循環がある事で、長良川の水の美しさを保ち続けることが出来る。鮎は水を綺麗に保つ役割を果たしている。長良川は、宮内庁の御魚場が定められていて、鵜飼の鵜匠が捕った鮎は皇室や伊勢神宮へ納められている。鮎の他にも、長良川の流域には、伝統工芸が多くある。
5.美濃和紙との関係性ついて
本研究でも取り上げている岐阜和傘や岐阜提灯、岐阜うちわ以外にも様々な伝統工芸がある。例えば、「美濃和紙」もその一つだ。美濃和紙の紀元はおよそ1300年前、天保9年(737年)ころで、奈良時代の「正倉院文書」の戸籍和紙が美濃和紙であったことが記されている。美濃和紙の原材料は、和紙の原料となる落葉低木楮、三椏、雁皮で、幹を使うのではなく、皮の部分の繊維を利用する。そして、良質の冷たい水が豊富にある事が、和紙を作る上で大事になってくる。美濃市は、その2つが揃っており、都からも近い場所だった為、和紙の産地として栄えた。
民間でも広く和紙が使われるようになったのは、室町・戦国時代の文明年間以後だった。美濃の守護職土岐氏は、製紙を保護推奨、紙市場を大矢田に開いた。紙市場は、月に六回開かれていたため、六斎市と呼ばれていて、現在も行われている。この紙市によって、近江の枝村商人の手で、京都、大阪、伊勢方面へ運ばれ、美濃の和紙が全国に知られるようになった。そして、慶長5年に徳川家康からこの地を拝領した金森長近は、長良川河畔に小倉山城を築城した。
慶長11年には、現在も残る町割りが完成した。こうして江戸時代には藩の保護や一般需要の増加もあり、美濃和紙は、幕府・尾張藩御用達となっていった。明治維新により、紙すき業に必要だった免許の制限がなくなり、製紙業が急増し、国内の需要や海外市場の進出などもあり、美濃は紙と原料の集積地として栄えた。しかし、濃尾震災と太平洋戦争の影響で、物資不足、人材不足などが生産に大きく影響し、陰りを落とすようになった。その影響は大正時代にも続いて行く。機械抄きが導入し、戦後には石油化学製品の進出が続いた。美濃では日用品を主とした素材を中心に生産していたため、打撃が大きく、昭和30年には、1200戸あった生産者が、昭和60年では40戸に減ってしまった。現在では、20戸程度になっている。美濃和紙は機械で漉く和紙を含め、美濃で作られた和紙全般を指す。
美濃和紙の中でも重要文化財指定の材料、道具を使い認められた職人が漉いた和紙のみ「本美濃和紙」と呼ぶことが出来る。上品な色合いや、薄くても布の様に丈夫で太陽の光に透かした時の美しさから。本美濃和紙は江戸時代以来最高級の障子紙として高く評価されてきた。美濃和紙の長い歴史の中で伝統の技が受け継がれてきたことなどが評価され、本美濃和紙は、昭和44年に国の重要文化財に指定され、平成26年には、ユネスコ無形文化遺産(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)に日本の手漉き和紙技術(石州和紙・本美濃和紙・細川紙)が登録された。
前述にも書いた通り、和紙の製法には「手漉き」と「機械抄き」がある。
〈手漉き〉
手漉きは、伝統的な「流し漉き」「溜め漉き」の技法を使用し、職人が一枚一枚丁寧に漉いている。仕上がった紙には四方に手漉きの特徴である「耳」がある。また、職人の手作りの為、一点として同じものはない。手漉きの技法には、前述でも述べた通りに2種類の技法がある。「流し漉き」は日本独特の技法で、靱皮繊維(雁皮・三椏・楮など)の紙料にネリ(植物性粘液)を混ぜ、簀桁ですくい上げ、全体を揺り動かしながら紙層をつくり、簀桁を傾けて余分な紙料を流しながら漉く。繊維が絡み合うため、横にも縦にも破れにくい紙が出来る。「溜め漉き」は、中国古来の紙漉きの技法。日本独自の流し漉きと違い、ネリを用いず一枚ごとに簀桁の中の水を簾の間から自然に落として漉き上げるので、「機械抄き」では製造できない厚さのある紙を造る事ができる。証券や賞状などに用いられる局紙は溜め漉きで漉かれている。
〈機械抄き〉
「機械抄き」は和紙の伝統的な技法である「流し漉き」の手法を機械に置き換えて製造する方法。比較的均一な紙を造ることができ、洋紙ほどではないが大量に生産をする事が可能である。しかし、伝統的な原料から製造するので、「手漉き」と同様に天然原料の持つ光沢や風合いを活かした美しく強靭な紙を造る事ができる。本来は「手漉き和紙」こそが「和紙」という存在であったとされている。しかし、日本古来の「手漉き」が色々な道具や手法を取り入れて進歩し、現在に至ったという事を考えると「機械抄き」も「和紙」の形の一種と考えられている。
第3章 和傘の歴史
1. 和傘について
世界で初めて傘が登場したのは、約4000年前の古代エジプトやペルシャで、当時の壁画にもその様子が残っている。
当時は、今の様に雨をしのぐ道具として使用しておらず、太陽の日差しを遮る事を目的とした日傘として使われだした。また、現在の様に開閉機能はなく、常時開きっぱなしだった。その後、傘はヨーロッパに渡り、富の象徴として多くの帰属が使用する事になった。13世紀頃(西暦1201~1300)のイタリアでは、傘の骨組となるフレームが考案され、18世紀頃になると現在のような傘の形状になった。そして、これまで日傘として使われてきた傘だったが、次第に雨避けとして傘をさす人が
増えていった。日本で最も古く傘についての記述があるのは、日本最古の歴史書である「日本書紀」に登場した。日本書紀で記述されている傘は、現代の傘の形状ではなく、「かぶりがさ」と知られる笠である。また、古墳時代には笠をかぶった埴輪なども残されている。
この当時の笠の材料は、イグサ、ヒノキ、竹などが使われている。この被り笠は現在も屋外の労働に、雨や日よけとして広く東南アジア各地でも使われている。一方、軸を中心に頭の上に広げる「傘」が日本に伝来した時期については詳しく分かっておらず、古墳時代の後期、鉄明天皇の時代には、百済から仏具の傘(天蓋)が日本に献上したと記憶されている。
和傘は平安時代前後に仏教やお茶・漢字等と同じく中国から伝来したと言われている。平安時代に登場する和傘は現在のような形ではなく、傘(蓋・笠)であり、天蓋のような覆う形のような物で、貴人に差し掛けて日除けや魔除け、権威の象徴として使用されていた。また、この時代では傘は開いたままで閉じる事は出来なかった。開閉が出来る様になったのは、安土桃山時代で、その頃には、製紙や竹細工の技術の進歩により、和紙に油を塗り防水性を持たせ、開閉できる「和傘」が作られるようになった。
和傘が広く一般に使われだしたのは分業制の発達した江戸時代中期のことで、江戸時代の浮世絵にも傘をさしている町人の姿が多く見受けられた。生活必需品として、広く普及していた事が伺える。普及するにつれ、和傘はただの日常品としてだけでなく、装いにアクセントを付けるファッションの小道具でもあったので、美しさも兼ね揃える様な様々な技巧やデザインを凝らした和傘が生まれた。和傘は、日常使いだけでなく、歌舞伎や日本舞踊、茶道の中でも取り入られてきた。また、傘に屋号をデザインしたものを客に貸与する事で、雨具としてだけでなく、宣伝の道具としても使われた。
和傘は、和紙、竹、木などの自然素材で作られている傘の総称となる。和傘は柿渋や油などを塗って防水加工した和紙などが用いられている。その和紙を数十本の骨組みで支える構造となっている。柄と骨部分には主に竹や木が使用されている。和傘の種類は、以下の種類がある。
・番傘(ばんがさ)
江戸時代に誕生した和傘。特徴としては、シンプルな構造と無骨な重厚感が挙げられる。持ち手は太い竹を使用し、傘布に使われる油紙は厚く、基本的に無地で、洋傘と比べると大振りで重量がある。番傘は、もともと商家が屋「〇〇の十三番」を入れて使用していた事から番傘と呼ばれるようになった。
・蛇の目傘(じゃのめがさ)
歌舞伎役者が舞台で使用することでおなじみの蛇の目傘。特徴は、骨組みの細さと装飾的な趣向である。江戸時代に軽量化されたことで、腰に差して使われていた。番傘に比べるとデザイン性があり、細身の骨を使用していて、女性でも使いやすい傘だ。中を白く、周辺を黒・紺・赤などで太く輪状に塗った模様が、蛇の目に見える事から、「蛇の目」と呼ばれている。
・日傘(ひがさ)
日傘は傘布に油による防水加工をしていないため、雨傘としては使用できないが、和傘独特の風合いや、程よく日光を遮り、透過する見た目が非常に美しいため、夏場に活躍する和傘だ。特徴としては、一般的に雲龍紙を使用したものが定番だが、一本ずつ表情の異なる手絞りの和紙を使ったものから、華やかな型染和紙を使ったものまで、多種多様だ。ろくろ部分には、飾り糸が付けられている。
・舞傘(まいがさ)
名前の通り主に舞台で使用される和傘で、和紙のものから絹を使った高価なものもある。デザインは、舞の邪魔にならないように基本的に無地の物が多いが、「助六」と呼ばれる紫地に白い輪状に色抜きしたものから渦巻き模様などもある。舞傘も防水加工はされていないが、日傘としても活用可能である。
この様に、和傘には雨傘としてではなく、日傘や舞傘、宣伝の為にも使われてきた。
次に、岐阜和傘の制作過程を述べていく。和傘の制作は大きく分けて、轆轤・柄作り、つなぎ、張り、仕上げの工程がある。一般的な轆轤作り以外の工程は現在も手作業で行われている。また、和傘は「分業制」で作る事が特徴で、この制度がある事で、大量生産と品質の向上が図られてきた。
傘張りは、以下の工程で作られた。
①親骨先端の軒と軒糸に、帯状に軒紙を張る。(軒付け)
②親骨と小骨を繫いだ中節と中糸の上に中置紙を張る。(中置紙張り)
③軒から中心にかけて、平紙を親骨に張る。(平張り)
④頭轆轤に紙を巻き、親骨とつないだ部分に、カナヘラやカナオサエヘラで天井紙を押し込み、ひだを作りながら張る。更に数度頭轆轤に紙を巻き張り、下部を天井紙と接着する。(天井張り)
⑤小骨の手元轆轤と繫いだ部分に、手元紙カナヘラやカナオサエヘラでひだを作りながら張る。(手元紙張り)
この工程で傘に和紙を張っていく。
2.岐阜和傘の成り立ち
岐阜和傘は、主に加納地区で作られてきた。岐阜和傘の起源として、今現在考えられているのは2説ある。
①寛永16年(1639年)藩州明石藩主戸田丹波守重(7万石)が加納城に移封された時、一所に明石から傘屋かね右衛門一家を連れ、傘張りを始めさせた。(文化 2 年〔 1805〕 6 月の久運寺留書の記事より )。金右衛門が加納にきたという事実はあるがそれが直接に傘産業を興したとはまだ傘が一般庶民には使用禁止されていたので家中の需要に応ずるのみで商品として製造販売されなく、あまり需要がなく発達したとは考えられにくい。
②宝暦 6 年(1756)永井伊賀守尚陳が加納に移封されたとき、わずか 3 万 2 千石と 10 万石の城下町にとって財政が苦しく、家臣たちは生きていくために、“武士は食わねど高楊子”といって生活は苦しいが武士は内職が許された時代ではなかったので、目立たない内職として傘骨削り、轆轤作りに従事し、また藩主の奨励が出たことにより地場産業として確立していった。また永井氏の時代、天保年間 (1781~ 88)には都会で傘の需要が高まってきた時代で産業として伸びた時期と思われる。
(引用元:岐阜大学地域課学部,地域学実習報告書,2004,3,第7章加納の和傘産業と現状とこれから,p.22)
この様に、岐阜和傘の起源は諸説ある。また①は、藩主の移封では、浄化の商工業者が従われるのは通例で、その中で金右衛門が一緒に来たのもあり得る事から、この金右衛門が加納で傘を広めたといえるかもしれない。加納にある久運寺の過去帳には、初代金右衛門から3代目まではっきりと傘屋長次郎と記されている。しかし、金右衛門が傘を加納で発達させたかは記されていないため不明である。また、戸田氏は7万石といえども領地はだいぶ輪中地帯にあり、災害が度々続き、財政が苦しかったと考えられる。その為、戸田氏が移封された頃は加納で岐阜和傘が産業として成立するほどではなかった。一方、宝暦5年に加納城の藩主となった永井直陳の頃は、傘の需要が増え、産業として成立する基礎が確立されてきたと考えられる。寛永の歴史的起源と宝暦の産業的起源の二つが岐阜和傘の起源であるといえる。
加納で和傘の産業が本格化したのは、永井直陳が加納城藩主をしていた時代である。石高の減少や度重なる水害による財政難のため、武士に和傘の内職を薦めた。本格化した頃には、武士は傘骨削り、埴輪作り、柄竹作りなどをし、加納町民・農閑期の農民は傘張り、仕上げをするなどといった分業制が生まれてきた。この分業制があったからこそ加納で和傘が栄えたともいえる。
文政9年になると宮田吉左衛門(江戸席酒造家で宿老)と森孫作(脇本陣の年寄)が加納藩より領分傘問屋を申し付けた。この狙いとしては財政難に苦しむ藩役人が城下の傘作りに専売制を実施し、江戸積産業を育成して、その利益を回収しようとした。この統制は全体で5万本を超えていったが長くは続かなかった。また、この江戸積については、従来仲買人制度の頃から行われており、統制の時期に始まったものではない。
加納傘の生産量はその後年々増えていき、安政6年の4月の「加納領傘銀桟留出来数取調帳によると、傘生産者が加納の町内に35人で、その中の上位の3業者の主な販路として、江戸、京都、など遠隔地で出荷し、それ以外の業者は岐阜・名古屋など近辺に出荷していた。その時の加納で作られた傘の生産量は、業者によってばらつきはあるが、全て合わせると加納町内だけで、49万1380本を生産していた。
明治維新の後、当時の加納藩主と重役は東京へ移住したが、一般武士はほとんど残り、傘生産に従事した武士も多く残った。明治5年頃には、上加納の中村源之助が絵日傘を神戸のイギリス商人と取引し、杉山新七は小型の絵日傘を製造して海外輸出を試み、この年は年間150万本の生産を記録した。明治12年には、オーストラリアのシドニーで万国博覧会が開催され、加納の赤塚源次郎が加納傘13種を出品した。この事が岐阜和傘の海外進出への基礎を築き上げた。その後、東海線開通により、郵送時間の短縮、包装堅固などの企業利益からほとんどの業者が製品郵送で往来使っていた水運から鉄道を使うようになり、東京が主な取引先だったが、他府県の直接販売に成功し、北は北海道、南は宮城県まで京阪地方にも直接販売を拡張していった。明治36年第五回国内勧業博覧会が大阪で開催されるとき、加納傘問屋から多数出品をし、加納傘の精美にして安価であるため飛ぶように売れ、それ以降も出店をし、加納傘は1日1万本から2万本へと著しく生産量が増加した。しかし、大正元年に入ると、大阪の松坂屋が原価を無視した宣伝がされ、傘は飛ぶように売れ、同様の事を松坂屋だけでなく、三越、大丸でも行われ、京都、東京にも波及した。しかし、この事態は都市の傘小売店に大影響を与え、問屋や製造元までに影響は広がった。その結果、安価に傘が大量に売られた事で粗製品であるように思われ、実際粗製品が市場に出回り、評判が悪くなった。昭和に入り、当時の岐阜和傘同業組合の会長だった赤塚源八は県当局から助力を得て、取引上の欠陥、製品、業界の改良、回復をし、以前あった組合を解散させ、昭和10年に新たに「岐阜県傘商業組合」を誕生させた。その後、昭和20年代半ばには、生産1000万本を超えている。その後は洋傘の普及、交通機関の発達、生活様式の変化により、和傘の需要は戦争直後で物資不足だった昭和23年~25年をピークに急激に落ち込み、洋傘の生産と和傘の生産が逆転した。
3.長良川と岐阜和傘の関係性について
長良川は岐阜和傘にとって欠かせない存在だ。長良川は、公共交通機関が発達する前、運送の手段として使われてきた。
各地で城下町や門前町、宿場町などの建設の為に大量の木材が運ばれたり、幕府・大名の御用物資・年貢米などの郵送、各地の商品生産との流通や荷船による船運の役割などにも長良川は活躍してきた。長良川流域には各地に川湊ができ、大小の船が頻繁に往来していた。
また、長良川が伊勢湾に繋がる事から東京や大阪にも出やすかった。その為、岐阜和傘の原材料である和紙や竹なども頻繁に運送されていた。また、加納町が長良川に近い事もあり、出来た和傘をすぐに東京や大阪に出荷出来る位置にあった。また、長良川は水運としての役割だけでなく、文化の発達の役割もしていた。長良川の流域には多くの伝統文化が生まれた。清流の水を使い染める郡上本染、長良川と津保川の水運や水を使う関市の刃物産業、長良川で捕れる鮎を取る漁法鵜飼などが挙げられる。その内の一つが岐阜和傘である。長良川流域には上述でも述べた通り様々な伝統文化が誕生してきた。その中には、岐阜和傘の原材料となる美濃和紙、周辺の産地で取れる良質な竹、エゴの木、柿渋・亜麻仁油・桐油などがあった事と運送の事も合わせると岐阜和傘を作る環境が整っていた。長良川があったからこそ岐阜和傘は発達してきたのである。
第4章 デジタルアーカイブと地域活性化
1.デジタルアーカイブについて
今回の研究では、デジタルアーカイブを活用している。デジタルアーカイブとは、「デジタル技術を用いて作成されたアーカイブという意味の造語」(特定非営利活動法人,“デジタルアーカイブとは”,https://jdaa.jp/ ,最終閲覧日:2023年12月26日 )だ。アーカイブは、古文書や公文書館というのが元来の意味である。デジタルアーカイブの対象は、公的な博物館、図書館、文書館の収蔵資料、自治体・企業等の文書・設計図・映像資料などを含め有形無形の文化・産業資源など多岐に渡る。また、完成されたものだけでなく、そのプロセスに関する資料も対象となる。
デジタルアーカイブはそれらを収集するだけでなく、デジタル形式で記録し、データベースの技術を用いて保存、蓄積をして、ネットワーク技術を用い検索を可能にすることで持続的に活用するまでがデジタルアーカイブである。この様に蓄積したデータは、研究や学習支援、地域の振興、防災、経済の発展、新たなコンテンツの創作などの活用が可能となる。この事からデジタルアーカイブは地域循環型社会の社会基盤として重要視されている。
デジタルアーカイブにする事で、文字、図表、画像、映像、音声などの様々な情報を統合して扱う事が出来、保存や複製をしても劣化しない事が特徴である。また、分野を横断した関連情報の連携・共有も可能となり、ネットワーク技術を使い、時間や場所にとらわれず情報やコンテンツへのアクセスも簡単に行える事からデジタルデータのメリットや特徴がデジタルアーカイブの役割を担っている。デジタルデータで記録する事で、長年の経験や研鑽により培われた個人の技術などは、言葉や文字にも表しにくいため継承が困難になる事も少なくない。しかし、デジタルデータを活用する事で、形式知可出来る可能性があり、技術の継承や知識の共有などに役立てる事が出来る。また、文化財や文化遺産がアーカイブされると考えがちだが、地域の文化や伝統芸能、生活の記録は、貴重な地域資産としての価値があり、産業技術や職人の技術などを中心とした伝統産業、日常の生活、テレビ、ファッションなども社会全体の財産を記録として残す事が求められている。また、過去だけでなく今も残す事も必要である。今を記録し、残していく事で、震災や自然災害の復興に役立つことも重要視されている。これらがデジタルアーカイブの役割である。デジタルアーカイブの活用事例として多いのは、博物館、図書館、公文書館などの公的な施設が多い。特に博物館は、デジタルアーカイブを利用したデジタルミュージアムを各地の博物館や大学で行っている。岐阜女子大学でもデジタルミュージアムが行われており、内容としては、全国各地の文化情報を取り扱っている。
また、デジタルアーカイブのメタデータを提供し、検索・閲覧・活用できるプラットフォーム「ジャパンサーチ」もある。日本国内で保有する様々な分野のコンテンツを提供している。利活用の例としては、検索機能を提供したり、インターネット上でギャラリーを作る事が出来る。
2.岐阜県とデジタルアーカイブの活用例について
ここでは、実際に岐阜市ではどの様なデジタルアーカイブが活用されているかを述べていく。
①岐阜市digitalarchive写真貸出システム
このサイトでは、岐阜市の「観光振興を目的とした広報活動に利用しても羅う事を目的としたデジタルアーカイブを活用したサイトである。デジタルアーカイブの対象は、岐阜市の伝統文化である鵜飼を始め、長良川や金華山、史跡・旧跡、町並み、博物館など岐阜市が対象である。写真貸出システムというサイト名の通りに写真を利用する際には、利用申し込みをする必要がある。
②岐阜県図書館
岐阜県図書館では、岐阜県関連資料や地図資料等を図書の検索と同じように「資料検索」のページからキーワードで検索できるようになっている。岐阜県図書館では、ウェブサイトで公開しているデジタルコレクションで、パブリックドメインを付している画像は、申込書等の手続きが条件を守った上で不要となっている。
③岐阜市歴史博物館
岐阜市歴史博物館では、ウェブサイトに館蔵品一覧を公開している。館蔵品一覧では、岐阜市歴史博物館が所蔵する資料をテーマごとに紹介している。テレビ放映や刊行物への掲載、インターネット公開、展示パネルでの刑事での目的で利用する場合は、申請を行う必要がある。
④岐阜県博物館 デジタル展示室
ここでは、岐阜県博物館の収蔵品がインターネット上で無料で見れるようになっている。カテゴリに分かれており、収蔵品の写真は、様々な角度から見れるようになっている。所蔵品の説明もされている。
岐阜県でデジタルアーカイブを行われているのは、公的な施設が多かった。今回だと博物館や図書館だとほとんどの所では、所蔵されている作品が家にいても見られる様になっていた、また、データでの貸し出しや画像を静止画だけではなく、様々な角度から見られるような工夫をしている事が分かった。
3.伝統工芸品のデジタルアーカイブの活用事例について
ここでは、実際に伝統工芸品のデジタルアーカイブ化をし、どの様な活用がされているのかを国立工芸館の一例を基に述べていく。
・国立工芸館
国立工芸館では、2020年10月に石川県金沢市に移転開館した国立工芸館が所蔵する一部の工芸作品を、3Dデジタルアーカイブ化をし、設置したタッチディスプレイで公開した。また、2Dでのデジタルアーカイブ化も行った。
上の写真の様に作品が展示された。実物展示では見られない展示品の器物の底などが見られるように様々な角度から見られる仕様となっている。展示品の写真だけでなく、キャプションも一緒に組み込まれている。
この様な画面になっており、タッチディスプレイの為、来館者好きな様に展示品を動かし、見る事が出来る。また、多言語にも対応している。2Dの方では、国立工芸館のコレクションの中で気になる作品画像からその作品の解説や技法を閲覧する事が出来る。検索機能が主となってくるため、年代選択から選ぶことが出来たり、分類選択など様々な角度から検索する事が出来る。
この様な画面から来館者が好きな作品を選ぶことが出来る様になっている。
作品を選択すると「解説」・「技法」・「拡大画像」を見る事が出来る。2Dなので、3Dの様に自分で様々な角度を見ようと動かす事は出来ないが、拡大したり、解説だけでなく、技法も合わせて見る事が出来る。
検索機能では、様々な方法から検索する事が出来る。年代からの検索では、選択された年代に該当する作品一覧が表示される。分類選択でも選択された分類に該当する作品の一覧が表示される。
国立工芸館では、デジタルアーカイブを展示する事によって、様々な方面から伝統工芸品について知る事ができる様になっていた。国立工芸館は当初、展示品を飾る際に鏡を使うという案もあったが、難しく物理的規約に縛られない仮想現実を用いて作品を紹介する取り組みを行った。デジタルアーカイブを用いる事で、今まで見れなかった部分を見る事ができるのは、デジタルアーカイブを活用したからこそ伝統工芸品に身近に触れて知ってもらうが出来るのである。
第5章 岐阜市文化遺産デジタルアーカイブ
1.岐阜市文化遺産とデジタルアーカイブの関係性について
ここでは、岐阜市文化遺産とデジタルアーカイブの関係性について詳しく述べていく。文化遺産とは、その国や地域またはコミュニティの歴史・伝統・文化を象徴した存在である。文化遺産は様々な種類があり、有形の物から無形の物まである。岐阜市にも様々な文化遺産がある。今回の研究のテーマである伝統工芸品から史跡や銅像、絵画など様々な文化遺産が岐阜市にある。様々な文化遺産が岐阜市にある中でその文化遺産がどこにあるのかどの様な物なのかを紹介するためにもデジタルアーカイブという方法は最適であると思う。実際に、岐阜市のホームページには岐阜市の文化遺産を紹介するページがある。
上の写真の様に、写真だけでなく、解説や史跡についての歴史もアーカイブをしている。その他にも文化財一覧では、国指定の文化財は、文化庁のホームぺージにリンクが飛ぶようになっている。
また、前述でも述べた通り岐阜市にある博物館や図書館に所蔵している作品もサイト上で公開されている。岐阜市立図書館でも所蔵している文化財をデジタルアーカイブとして誰でも見られるようになっている。
また、メディアコスモスでは、昔の地図や写真、伝統工芸品などをデジタルアーカイブをした物を今と比べたマップが一階のシビックプライドプレイスで展示されている。
この様に岐阜市では文化遺産をデジタルアーカイブをし、活用している。文化遺産をデジタルアーカイブする事で町おこしや後世に伝える役割をしている事が分かった。
2.岐阜和傘デジタルアーカイブのコンテンツ構成
ここでは、デジタルアーカイブを使って岐阜和傘のコンテンツを構成を述べていく。デジタルアーカイブを使ったコンテンツはたくさんあるが、今回は岐阜和傘の歴史・技術を知らない人、若い世代に向けたコンテンツを構成する。今回このコンテンツとして入れる要素で特に重要視して入れる要素は「歴史」と「技術」である。まず初めに「歴史」と「技術」をどの様な構成デジタルアーカイブにしていくかを述べていく。この後世でのデジタルアーカイブの撮影方法は、写真を中心に考えている。また、どの様な所を撮影するかは、岐阜和傘だけを撮影するのではなく、岐阜和傘に関わる場所や物、加納の歴史、岐阜和傘を作成している様子などをデジタルアーカイブをしていく。また、デジタルアーカイブをした物は、一つのウェブサイトにまとめたいと考えている。そこでは、「歴史」と「技術」をカテゴリに分ける。例えば、一つのウェブサイトで「歴史」と「技術」を分ける事で、検索をもっとしやすくなると考える。また、解説も詳しく書いていきたいと考える。
歴史と技術を中心にアーカイブをしていく予定だ。アーカイブで載せる写真や動画は、様々な方向から撮っていく。このウェブサイトでは、岐阜和傘の歴史と技術を知らない人や若い世代の人にも分かりやすく伝える事が目的のコンテンツにしてく。
3.岐阜市伝統工芸品と長良川の関係性のアーカイブのコンテンツ構成について
ここでは、岐阜市の伝統工芸品とアーカイブの関係性を分かりやすくまとめたコンテンツの構成にしていく。前述では、岐阜和傘を中心に取り上げてきたが、このコンテンツでは、岐阜市の伝統工芸品である岐阜和傘を始め、岐阜うちわ、岐阜提灯の共通点である長良川の関係性について写真や図、表などを用いて、若い世代の方にも分かりやすく伝えたいと考えている。まずは、岐阜和傘と岐阜うちわ、岐阜提灯の説明をするページを設ける。その後、長良川についてのページを設け、長良川と岐阜市の伝統工芸品をデジタルアーカイブでの資料を使いながら、図や表を用いて説明していきたいと考えている。
この様に図や写真を使って分かりやすく岐阜市の伝統工芸品と長良川の関係性のアーカイブをウェブサイトでまとめていく。長良川のアーカイブや図を用いながら、流域にある伝統工芸品も一緒に紹介していく事で関係性について詳しく理解してもらえる様にする。このウェブサイトで長良川と岐阜市の伝統工芸品の関係性について若い世代や知らない人にも興味を持ってもらえるサイトにする。
4.岐阜市文化遺産の活用について
ここでは、デジタルアーカイブ以外に現在岐阜市文化遺産を知ってもらえるまたは盛り上げているどの様な活用をしているかを述べていく。
・和傘CASA
和傘CASAは、岐阜県岐阜市港町にある岐阜県で唯一の和傘専門店である。長谷川てしごと町屋というお店の中に和傘CASAはある。和傘CASAでは、和傘の販売から貸出までやっている。和傘CASAは店舗からの販売もしているが、インターネット上での販売も行っている。店舗では、実際に和傘を触る事が出来たり、レンタルをしている。和傘CASAの建物には和傘以外にも提灯や活版印刷など様々な文化遺産も取り扱っている。
・岐阜灯り物語
岐阜市で行われる岐阜市の伝統工芸品とプロジェクションマッピングがコラボしたイベントが岐阜公園や正法寺等で行われる。このイベントは、毎年行われており、岐阜和傘と岐阜提灯を用いて行われる。また、連動イベントとして、岐阜駅前広場から金公園でも同様のライトアップが行われている。
ここでは、岐阜市の文化遺産をデジタルアーカイブ以外の方法で紹介しているイベントや店などについて紹介してきた。
第6章 結 言
本研究では、岐阜和傘の歴史と技術を中心に岐阜市の伝統工芸品と長良川の関係性をデジタルアーカイブを用いて、若い世代や岐阜市の伝統工芸品を知らない人に伝えていく事を目的にこれまで述べてきた。若い世代や岐阜市の伝統工芸品を知らない人に、技術と歴史を伝えるためには、紙媒体だけでなく、デジタルアーカイブを活用する事でより多くの人の目に留まるのではないかと私は考えた。
岐阜市の伝統工芸品を多くの人に知ってもらえる事で、現在問題視されている後継者不足が解消するのではないかと私は考える。岐阜和傘では、和傘を非日常の物として使うのではなく、昔の様に普段使いしてもらえる様に様々な取り組みが行われている事が本研究を進めていく中で分かった。岐阜和傘を販売している「和傘CASA」の方にお話を聞いて、岐阜和傘は普段使いをする事で和傘自体の劣化を防ぐ事が分かった。また、現在は岐阜和傘の柄を洋服にも合わせてもらえる様に様々なデザインがある。
また、岐阜市では、伝統工芸品とプロジェクションマッピングとのライトアップのイベントが毎年行われている事も分かった。岐阜和傘の技術と歴史をデジタルアーカイブをする事で、岐阜和傘を知ってもらい、現在行われている取り組みを知ってもらえるのではないかと考えた。
また、岐阜市の伝統工芸品と長良川の関係性をデジタルアーカイブにする事で、岐阜市の伝統工芸品がどの様にして誕生したのかを知ってもらい、岐阜市の伝統工芸品を知ってもらう事で現在ある問題の解決に繋がると考える。デジタルアーカイブを活用し、岐阜和傘を中心に岐阜市の伝統工芸品の普及が出来る事が本研究を通して分かった。
参考文献
1.和傘CASA (最終閲覧日:12月30日)
https://wagasa.shop/
2. 密柑水の文化センター 機関誌『水の文化』50号「江戸時代から続く岐阜・加納の和傘づくり」 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no50/05.html
3.マルト藤沢商店 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.wagasa.co.jp/
4. 坂井田永吉商店 (最終閲覧日:12月30日)
http://kano-wagasa.jp/html/wagasa.html
5.世界農業遺産 清流長良川の鮎 (最終閲覧日:12月30日)
6.public relations office 和傘最大の生産地・岐阜市 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202306/202306_03_jp.html
7.日本洋傘振興協議会 (最終閲覧日:12月30日)
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8.岐阜市 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.city.gifu.lg.jp/info/kidspage/1009717/1009718.html
9.加納町づくり会 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.city.gifu.lg.jp/info/kidspage/1009717/1009718.html
10.岐阜市漫遊 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.gifucvb.or.jp/outline/index.php
11.人力 (最終閲覧日:12月30日)
「人力」とは – 旧街道ウォーキング – 人力 (jinriki.info)
12.岐阜県 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.pref.gifu.lg.jp/page/3156.html
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14.全国鮎養殖漁業組合連合会 (最終閲覧日:12月30日)
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15.Corsoyard (最終閲覧日:12月30日)
16.岐阜大学 (最終閲覧日:12月30日)
https://www1.gifu-u.ac.jp/~forest/rilc/senngonowasi.html
17.「ふるさとの岐阜の歴史をさぐる」No.27 (最終閲覧日:12月30日)
https://gifurekisi.web.fc2.com/rekisi/no27.htm
18.太田成和(1980),加納町史 下巻
19,岡村精次,神馬仁太郎(1929),岐阜傘に関する調査研究
20,岐阜和傘の技と美 パンフレット
論文資料
1.卒論要旨
【研究論文】教育のDX時代における “新たな学び”の在り方-教育リソースと連携したe-Learningシステムの構築-
教育DX(Digital Transformation)時代における“新たな学び”とは,教師がデジタル技術を活用し,学びのあり方やカリキュラムを革新させると同時に,教職員の業務や組織,プロセス,学校文化を革新し,時代に対応した教育を確立することである.
また,学びという側面から考えてみると教育DXの目的は,「個別最適な学びという“新たな学び”の実現」である.20世紀の学習観は,行動主義・認知主義の学習観を採用していた.しかし,21世紀に入り,学習観は「主体的・対話的な深い学びの実現」という構成主義・社会構成主義の学習観に移行した.この変化から分かるように,教育が「全員に同じ教育」から「個々が持つ能力を最大限活かす教育」に変化している.また,デジタルツールを学びに活用することで,さらなるクリエイティブな学びの実現もDX時代における“新たな学び”の目的とされている.ここでは,これらの教育のDX時代における “新たな学び”の在り方について考える.
<キーワード>教育DX,GIGAスクール構想,J・B・キャロルの学校学習の時間モデル
1.はじめに
「DX(Digital Transformation)」は,2004年にスウェーデンのウメオ大学のエリック・ストルターマン教授によって提唱された概念である.その内容は「進化し続けるテクノロジーが人々の生活を豊かにしていく」というもので,“進化したデジタル技術を浸透させることで人々の生活をより良いものへと変革すること”と解釈できる.
ただし,教育DXが及ぼすのは単なる「変革」ではなく,デジタル技術による破壊的な変革を意味する「デジタル・ディスラプション」.すなわち,既存の価値観や枠組みを根底から覆すような革新的なイノベーションをもたらすものであると捉えられている.
文部科学省も,この教育DX時代に対応して令和2年12月23日に文部科学省デジタル化推進本部から「文部科学省におけるデジタル化推進プラン」を報告している.ここでは,「・・・ポスト・コロナ期のニューノーマルに的確に対応していくために必要なDXに係る取組を早急かつ一体的に推進していかなければならない局面を迎えている.」とし,次のように4つの具体的な方針を掲げている.
①GIGA(Global and Innovation Gateway for All)スクール構想による1人1台端末の活用をはじめとした学校 教育の充実
②大学におけるデジタル活用の推進
③生涯学習・社会教育におけるデジタル化の推進
④教育データの利活用による,個人の学び,教師の指導・支援の充実, EBPM等の推進
特に,①のGIGAスクール構想については,令和3年3月12日の「GIGAスクール構想の下で整備された1人1台端末の積極的な利活用等について(通知)」において,「文部科学省では,Society 5.0 時代を生きる全ての子供たちの可能性を引き出す個別最適な学びと協働的な学びを実現するためには,学校現場における ICT の積極的な活用が不可欠との観点から「GIGA スクール構想」を推進しているところであり,関係各位の御尽力により,本年4月から,全国のほとんどの義務教育段階の学校において,児童生徒の「1人1台端末」及び「高速大容量の通信環境」の下での新しい学びが本格的にスタートする見込みとなっている.」と述べている.また,“新たな学び”について,文部科学大臣がメッセージで,「1人1台端末環境は,もはや令和の時代における学校の「スタンダード」であり,特別なことではない.これまでの我が国の 150 年に及ぶ教育実践の蓄積の上に,最先端の ICT 教育を取り入れ,これまでの実践と ICT とのベストミックスを図っていくことにより,これからの学校教育は劇的に変わる.この“新たな学び”の技術革新は,多様な子供たちを誰一人取り残すことのない公正に個別最適化された学びや創造性を育む学びにも寄与するものであり,特別な支援が必要な子供たちの可能性も大きく広げるものである.」と子供たち一人一人に個別最適化され,創造性を育む教育 ICT 環境の実現を求めている.ここでは,子供たち一人一人に個別最適化され,創造性を育む学びとは何か,その実現のための“新たな学び”とはどのような学びで,従来の学びとどのように異なるのかについて考える.
2.GIGAスクール構想
児童生徒一人一台コンピュータを実現することで,これまでの我が国の教育実践と最先端のICTのベストミックスを図り,教師・児童生徒の力を最大限に引き出す.災害や感染症の発生等による学校の臨時休業等の緊急時における,児童生徒の学びの保障の観点からも,ICTを効果的にフル活用することが重要である.
GIGAスクール構想が推し進められた背景は,日本の学校のICT環境整備の遅れだった.GIGAスクール構想の発表当初,教育用コンピュータ1台当たりの児童生徒数は全国平均で5.4人/台と1人1台には遠く及ばず,地域間格差も大きかった.また,その当時は世界的に見ても日本の学校におけるICT活用は遅れており,34カ国の先進諸国で構成されているOECDの中で,「学校の授業におけるデジタル機器の使用時間が最下位」という結果になっていた.こうした状況を打破するために,政府は校内通信ネットワークの整備と児童生徒1人1台端末の整備に補助金制度を導入し,GIGAスクール構想を推し進めることになった.
加えて,GIGAスクール構想より前から取り組み自体は始まっていたプログラミング教育もGIGAスクール構想の一部としてあらためて提唱された.AIやIoTを積極的に活用するSociety 5.0の時代の到来に備え,プログラミング教育を通して,情報活用能力と論理的思考力を身に付ける狙いだ.
こうした背景により始まったGIGAスクール構想は,「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)」の世界的な大流行を受けてその必要性が急速に高まり,2023年度までとした当初目標も2020年度内と前倒しされ,それに伴う予算措置も取られ,加速度的に端末などの整備が進んだ.
1人1台の端末が配布されることで,子供一人一人に応じたコンテンツや教材を配信できるため,学習状況に合わせた学びが可能になる.これまでの一斉型の授業では子供たちの理解力に差があっても,一人一人に最適化した教材や指導を取れないことが課題だった.また,地域間での教育格差など,学ぶ場所によって学習レベルが異なるという課題も存在していた.
しかし,GIGAスクール構想の目標である1人1台の端末と家庭を含むネットワーク環境整備が大きく進んだ現在,学習状況や地域を問わず,全ての子供が自分に合った教育を受け,災害や感染症による臨時休校時でも学びの機会を奪われない土台ができたといえる.
今後は授業や自宅学習での有効な利活用を進める,それを支える教員のスキルを向上させる,よりリッチなコンテンツを作るなど,端末や通信環境などのハードを活用したソフト側の高度化を進めることで,より質の高い教育が実現される.
生徒一人一人に端末を持たせることで,子供が互いの考えをリアルタイムで共有でき,双方向での意見交換が活発になると期待される.生徒どうしのみならず教員と生徒のコミュニケーションも行えるため,教員が生徒の学習状況や反応をより深く知ることができる.
従来の一斉型の授業では,手を挙げた子供だけが回答や意見を発表していたため,自ら表現できない子供も多かったが,GIGAスクール構想では,全ての子供の意見が情報端末を活用して共有されるなどして,コミュニケーションを活性化させることが期待される.
また,学びの機会は授業中の教員と生徒間でのコミュニケーション以外からも得ることができる.例えば,整備された端末を活用して子供たちが興味を持ったことを調べたり,写真や動画などでアウトプットしたり友達どうしで共有したりする過程で,創造性を育む学びにつながるとも言える.
GIGAスクール構想の重要な考え方として「創造性を育む学び」がある.滋賀県草津市の事例では,「タブレットを活用することで主体的かつ対話的な学習が可能になり,大きな効果を発揮した」としている.ICTは一方通行の勉強を教えるツールではなく,子供たちが学ぶためのツールであり,授業のみに留まらず,勉強にも遊びにも活用し,日常の一部として創造的に学ぶために活用されてこそ,真価を発揮する.ここでは,これらを背景とした“教育DX時代における新たな学び”を具体的に考えてみる.
3.J・B・キャロルの学校学習の時間モデル
学習者には,それぞれに個性があり,知識の差や興味関心が違う.このような個人差について教師はどのように考えたらいいか.
J・B・キャロル(Carroll)は,1963年に提唱した学校学習の時間モデルで,学習者の学習の目標の達成ができないことについて,それは学習者の能力が原因ではなく,学習の目標を達成するための学習者の時間が不足していたと考えた.このことにより,学習の目標の達成に必要な時間をどのように確保し,どのように支援を工夫したらもっと短い時間で学ぶことができるか改善することができる.つまり,J・B・キャロルは,能力から時間への発想の転換を行ったのである.
さらに,J・B・キャロルは,学習率に影響を与える変数を,5つの要素に分解して説明している.まず,「課題への適性」とは,ある課題を達成するのに必要な時間の長短によって表される学習者の特性を課題への適性とした.次に,「授業の質」は,学習者が短時間のうちにある課題を学べる授業かどうかを授業の質としてとらえている.質の高い授業の要件としては,少なくとも何をどう学習するかが学習者に伝わっていて,はっきりとした形で材料が提示され,授業同士が有機的に次につながっていて,授業を受ける学習者の特性に応じた配慮がなされていることが挙げられている.次に,授業の質の低さを克服する力を「授業理解力」と呼び,これが第3の要因としている.次に,学習に費やされる時間を左右する要因を次のように示している.ある課題を学習するためにカリキュラムの中に用意されている授業時間を「学習機会」と呼び,学習に費やされる時間を左右する第一の要因と考えている.また,与えられた学習機会のうち,学習者が実際に学ぼうと努力して,学習に使われた時間の割合を「学習持続力」としている.
教師は,学習率を高めるために,学習に必要な時間を分母の要因に注目して減らす工夫と,学習に費やされる時間を分子の要因に注目して増やす工夫ができる.J・B・キャロルの時間モデルに含まれている5つの変数は,教師として授業を工夫し,学習者一人一人が学習に費やす時間を確保し,また,学習に必要な時間を短縮していくためのチェックポイントと考えることができる.
ICT(Information and Communication Technology:情報通信技術)の活用についても,学校学習の時間モデルのどの変数に働きかけるのが,何が,いつ,どのように効果があるのかという視点で考えると,ICTの活用の発想が広くなる.最近のインターネット上で誰もが無料で受講できる大規模な開かれた講義であるMOOCs(Massive Open Online Courses)や反転学習で代表される学習の場合は,授業時間以外の利用によって,「学習機会」の拡大につながる可能性が大きいことがわかる.
ここで,「インストラクショナルデザイン」や「教えないで学べる」学習環境は,キャロルの学校学習の時間モデルの授業の質を高め,授業理解力を助け,学習機会や学習持続力を高めるための手法であり,学習環境でもある.「教えないで学べる」という“新たな学び”を実現するためには,これらの手法や学習環境を整備することによって実現するものであり,学習者の学ぶ意欲を促し,自律的に継続して学ぶ力をつけていくことが大切である.
4.「教えないで学べる」学習環境
学校における授業は,教科書や様々な教材等を使用して行われており,児童生徒たちの学びにとってこれらの果たす役割は極めて大きいと考えられる.学校教育における重要なツールであるデジタル教科書・教材やタブレットPC等について,21 世紀を生きる児童生徒に求められる力の育成に対応した学習環境の整備を図っていくことが必要である.
ICTの活用では,一斉指導による学び(一斉学習)に加え,児童生徒一人一人の能力や特性に応じた学び(個別学習)や,児童生徒同士が教え合い学び合う協働的な学び(協働学習)を推進することにより,基礎的・基本的な知識・技能の習得や,思考力・判断力・表現力等や主体的に学習に取り組む態度の育成ができる.
こうした学びを,学校教育法第30 条第2 項に規定する学力の3 要素である「基礎的・基本的な知識・技能の習得」「思考力・判断力・表現力等の育成」「主体的に学習に取り組む態度の育成」という観点から見た授業を実践するために今後必要な学習環境を次に考えてみる.
(1)クラウドコンピューティング(cloud computing)
クラウドコンピューティングとは,ネットワーク,特にインターネットを介したコンピュータの利用形態で,学習者は,インターネット上にあるサーバやソフトウェアなどのリソースが提供するクラウドサービスを利用し,e-ラーニング(e-Learning)等のさまざまな学習を行うことができる.クラウドコンピューティングは,インターネット回線を経由して,データセンタに蓄積された資源を利用するものであり,学校でサーバ等の設備を持たずに済むことから,情報環境を構築する負荷の軽減と,運用に伴う人的・物的負担を軽減することが可能となる.
(2)電子書籍(デジタル教科書)
電子書籍とは,PCやタブレットPCで読むことができるように設計された従来の印刷図書の電子化で,電子書籍(electronic Book),デジタル書籍,デジタルブック(digital book),eブック(e-book),オンライン図書(online book)とも呼ばれている.
(3)フィールドワーク
フィールドワークのためのタブレットPCの機能分析及び活用方法の検討をとおして,タブレットPCの教育利用には大きな可能性があるものの,現在流通している機器そのままでは教育利用に適さない部分が多々ある.
(4)e-ラーニング(e-Learning)
e-Learningを推進する上では,教育リソースであるデジタル教材(学習材)の整備が必要不可欠となる.デジタル教材(学習材)自体は,各学校の教育事情に応じて整備されるべきもので,一元的に学校間で利用できるものにはなりにくいと考えられる.しかし,リメディアル系やキャリア支援系等の共通基盤教材や,教育素材的なものは,内容的・用途的にも十分共有可能であり,こうした利活用可能なデジタル教材(学習材)・素材を具体的に検討し,実際に実践可能な学校間で提供しあえるルール作りを検討することが重要である.
(5)eポートフォリオ(e-Portfolio)
eポートフォリオとは,「学習,スキル,実績を実証するための成果を,ある目的のもと,組織化/構造化しまとめた収集物」のことで,学びの目標を自己点検・確認させる一つの手段として,学びの成果を可視化するためのeポートフォリオの活用が進みつつある.しかし,まだこのeポートフォリオは,自己管理・点検させるまでに留まっている例が多い.そこで,児童生徒一人一人の課題と向き合い,組織的に学習指導を行い,授業と連携した「反転授業」や,不足している能力を卒業までに身に付させるための振り返りの学習の場を提供するルールを考える必要がある.今後,eポートフォリオをどのように評価するかという研究も行う必要がある.
(6)ラーニング・コモンズ(Learning Commons)
ラーニング・コモンズ(Learning Commons)とは,ICTを活用しながら,学習者自身が主体となって学ぶ教育環境をいう.能動的学習授業では,まず①教育リソース(デジタル教材)で予習をした上で,授業の最初に仮説の予想をし,②仮説をグループで討議し,机の上に用意されたタブレットPCで調査を行い,③調査結果をタブレットPCに接続された電子黒板(アクティブボード)を使って分析し,仮説が正しかったかどうかを検討する.その後,④結果を発表した後,電子黒板(アクティブボード)で仮説の内容を可視化しながらシミュレーションをし,仮説と調査結果の関係をグループで再討議し,⑤授業後に発展課題のレポートを作成する授業を推進するような,グループ・ディスカッション,ディベート,グループ・ワーク等による課題解決型の能動的学習を積極的に導入・実践することが必要となる.
そのためには,児童生徒が,十分な質を伴った学習時間を実質的に増加・確保するためにICTを利用した学習の方法として,授業の内容をアーカイブし,授業外の時間にデジタル教材管理システムで自主的に視聴できるようにする.このことにより,授業では事例や知識の応用を中心とした対話型の活動をする事が可能となる.このように,説明型の授業をオンライン教材化して授業外の時間に視聴し,従来宿題であった応用課題を教室で対話的に学ぶ教育方法(反転授業)を実践することが必要となる.
参考文献
(1)久世均:遠隔教育特講,2022.7,岐阜女子大学
資料
1.教育のDX時代における “新たな学び”の在り方(論文)
2.教育のDX時代における “新たな学び”の在り方プレゼン(PDF)
3.教育のDX時代における “新たな学び”の在り方プレゼン(PPTX)
教育リソースと連携したe-Learningシステム
6.【講義】教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザイン
アメリカ国立訓練研究所の研究によると、学習方法と平均学習定着率の関係は「ラーニングピラミッド」という図で表すことができます。大学の授業や会社の新人研修などでは、講義・実技・議論などさまざまな方法で学習を行いますが、学習時間が限られていて状況では、より効率の良い方法での学習がスムーズに学習内容を身につけることにつながります。
つまり、ラーニングピラミッドは受動的な学習から能動的な学習までを段階的に行い、学習の定着率アップを図っていく方法です。物事を他人に教えるためには、自分でしっかりと内容を理解していなければならないため、ラーニングピラミッド理論では、もっとも知識の定着率が高い段階とされています。
そこで、本講座は、学生と協働して、e-Learningコンテンツを作成します。学生は、各テーマに基づいて興味がある内容を選択し、最新情報も調査しまとめてプレゼン資料と動画資料を作成し人に教えることによって学ぶ方法を教えます。
—–アンケート分析
【参考】