【研究】世界遺産としての白山文化遺産の研究
研究概要
1,はじめに
白山は日本列島のほぼ中央部に位置し、世界有数の豪雪山岳地帯でユネスコの生物圏保存地域にもなっている豊かな自然がある。
白山では山麓一帯が禅定道を基軸に互いに結ばれ、加賀、越前、美濃の三馬場とその禅定道筋にはそれぞれ社寺や集落が形成され、山村特有の生活文化が培われた。
山麓には白山信仰を全国に広めた御師集落で、今もかつての美濃禅定道の面影や、御師の伝統と習俗を色濃く残している石徹白、山麓の村々を統轄した集落で巨大な大壁造りの建築物が見られる白峰などがある。また、厳しい気象条件等に適合した出作り・焼畑という生活形態は、世界でも希有な存在である。このように白山信仰を基盤として白山麓でたくましく生き続けてきた風景は日本人の暮らしを代表する文化的景観である。
本研究では、この白山文化遺産の世界遺産への登録の課題を分析し、デジタルアーカイブの必要性について明らかにする。
2,世界遺産への登録過程
世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき「世界遺産リスト」に記載された、「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことである。 「顕著な普遍的価値」は、どの国や地域の人でも、いつの時代のどの世代の人でも、どのような信仰や価値観をもつ人でも、同じように素晴らしいと感じる価値のことで、そうした価値をもつ世界遺産は、人類共通の財産といえる。
世界遺産は、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類される。文化遺産が最も多く、世界遺産の総数は1,000件を超えている。世界遺産リストに記載する遺産は、1年に一度開催される世界遺産委員会で審議され、登録の可否が決定します。世界遺産委員会では「登録」、「情報照会」、「登録延期」、「不登録」の4段階の決議を行う。21の委員国からなる世界遺産委員会では、他にも、世界遺産条約を運用していく諸事項や、世界遺産基金の使い道の決定、世界遺産の保全状況の確認、危機遺産リストへの記載の可否など様々な話し合いを行っている。
3,登録における課題
大野市では、平成19年12月20日に、白山麓の文化遺産群を関係自治体とともに「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」というテーマで、世界文化遺産候補として文化庁に提案した。今回の提案は2回目となる。第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に行った。平成19年1月にその審査結果が発表され、提案に対する課題が示され、継続審査となった。
今回の提案では、文化庁から指摘を受けた課題を修正するとともに、大野市のほか、新たに小松市、高山市、白川村が加わり、共同提案している。
4.おわりに
石川、福井、岐阜の3県と白山市、小松市、勝山市、大野市、郡上市、高山市、白川村の6市1村は、世界遺産の申請において継続審議となっていた「霊峰白山と山麓の文化的景観」の課題について、2007(平成19)年12月に検討状況報告書並びに再提案書を提出した。
しかし、文化審議会は2008(平成20)年9月、再度暫定リストへの追加登載を見送り、現在、関係自治体で文化審議会の指摘に沿い提案内容などの見直し作業と研究を続けている。
本研究では、白山文化遺産のデジタルアーカイブを進め、白山文化遺産を世界遺産に登録できるような条件を検討し、その課題を明らかにすることを目的とする。
研究資料
白山は日本列島のほぼ中央部に位置し、世界有数の豪雪山岳地帯でユネスコの生物圏保存地域にもなっている豊かな自然がある。
白山では山麓一帯が禅定道を基軸に互いに結ばれ、加賀、越前、美濃の三馬場とその禅定道筋にはそれぞれ社寺や集落が形成され、山村特有の生活文化が培われた。
山麓には白山信仰を全国に広めた御師集落で、今もかつての美濃禅定道の面影や、御師の伝統と習俗を色濃く残している石徹白、山麓の村々を統轄した集落で巨大な大壁造りの建築物が見られる白峰などがある。また、厳しい気象条件等に適合した出作り・焼畑という生活形態は、世界でも希有な存在である。このように白山信仰を基盤として白山麓でたくましく生き続けてきた風景は日本人の暮らしを代表する文化的景観である。
石川、福井、岐阜の3県と白山市、小松市、勝山市、大野市、郡上市、高山市、白川村の6市1村は、世界遺産の申請において継続審議となっていた「霊峰白山と山麓の文化的景観」の課題について、2007(平成19)年12月に検討状況報告書並びに再提案書を提出した。
しかし、文化審議会は2008(平成20)年9月、再度暫定リストへの追加登載を見送り、現在、関係自治体で文化審議会の指摘に沿い提案内容などの見直し作業と研究を続けている。
本研究では、白山文化遺産のデジタルアーカイブを進め、白山文化遺産を世界遺産に登録できるような条件を検討し、その課題を明らかにすることを目的とする。
1.白山文化
(1)白山信仰(白山国立公園)の山
白山は雪を被った純白の印象から、古くは「越の白嶺」とも呼ばれ、養老元年(西暦717)に越前の僧「泰澄たいちょう」が開山した信仰の山として知られている。
また、富士山・立山と並ぶ日本三名山の一つでもある。
白山周辺に広がる白山国立公園の山麓にある小さな集落。標高700mの高地にある。美濃禅定道の白山中居神社、大師堂、いとしろ多すぎなどの白山信仰ゆかりの寺社や名所は、この石徹白地区にある。
(2)石徹白の歴史
石器土器が出土されていることから縄文時代から人々が生活していたとされており、白山中居神社は景行天皇12年(82)に創建された。
石徹白民踊
2.世界遺産
「人類共通の財産」世界遺産
世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき「世界遺産リスト」に記載された、「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことです。 「顕著な普遍的価値」は、どの国や地域の人でも、いつの時代のどの世代の人でも、どのような信仰や価値観をもつ人でも、同じように素晴らしいと感じる価値のことで、そうした価値をもつ世界遺産は、人類共通の財産といえます。
世界遺産の分類と数
世界遺産は、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類されます。文化遺産が最も多く、世界遺産の総数は1,000件を超えます。
世界遺産委員会
世界遺産リストに記載する遺産は、1年に一度開催される世界遺産委員会で審議され、登録の可否が決定します。世界遺産委員会では「登録」、「情報照会」、「登録延期」、「不登録」の4段階の決議を行います。
21の委員国からなる世界遺産委員会では、他にも、世界遺産条約を運用していく諸事項や、世界遺産基金の使い道の決定、世界遺産の保全状況の確認、危機遺産リストへの記載の可否など様々な話し合いを行っています。
日本と世界遺産
世界遺産条約が採択されたユネスコ総会の議長は、萩原徹日本政府代表が務めました。しかし、日本が世界遺産条約に参加したのは条約採択から20年後の1992年のことです。 1993年、「法隆寺地域の仏教建造物群」、「姫路城」、「白神山地」、「屋久島」の4件が日本で最初の世界遺産として登録されました。世界遺産保全への協力や、「真正性」などの価値の見直しに日本は重要な役割を担っています。
危機遺産
世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が危機に直面している遺産は、「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に記載され、世界遺産条約加盟国の協力を得ながら、危機を取り除く努力がなされます。 世界遺産の危機としては、戦争や紛争による遺産破壊、密猟や不法伐採などの自然破壊、地震などの自然災害、過度の観光地化や都市開発などが考えられます。危機を取り除くために「世界遺産基金」なども使われます。
世界遺産リストからの削除
世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が失われたと判断された場合は、世界遺産リストから削除されることもあります。これまでに、オマーンの「アラビアオリックスの保護地区」とドイツの「ドレスデン・エルベ渓谷」が削除されました。
【世界遺産に登録されるまでの流れ】
1.各国政府が世界遺産条約を締結・批准
2.各国が作成した暫定リストから推薦書を提出
3.ユネスコの世界遺産センターは推薦書を受理し専門調査を依頼
4.文化遺産…ICOMOSが現地調査などを行う
自然遺産…IUCNが現地調査などを行う
5.ユネスコの世界遺産センターを通して専門調査に基づく勧告
6.世界遺産委員会にて審議・決議
世界遺産登録が決定
登録基準所為解散に登録される為には、「世界遺産条約履行のための作業指針」で示されている登録基準、いずれか1つ以上合致するとともに、真実性(オーセンティシティ)や完全性(インテグリティ)の条件満たし、締約国の国内法によって適切な保護管理体制が取られていることが必要。
(i)人間の創造的才能を表す傑作である。
(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(v)あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)
(vi顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
(vii)最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
(viii)生命進化の記録や、地形形成における重要な進行中の地質学的過程、あるいは重要な地形学的又は自然地理学的特徴といった、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な見本である。
(ix)陸上・淡水域・沿岸・海洋の生態系や動植物群集の進化、発展において、重要な進行中の生態学的過程又は生物学的過程を代表する顕著な見本である。
(x)学術上又は保全上顕著な普遍的価値を有する絶滅のおそれのある種の生息地など、生物多様性の生息域内保全にとって最も重要な自然の生息地を包含する。
3.「霊峰白山と山麓の文化的景観」の世界文化遺産登録をめざして
「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」
大野市では、平成19年12月20日に、白山麓の文化遺産群を関係自治体とともに「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」というテーマで、世界文化遺産候補として文化庁に提案しました。
今回の提案は2回目となります。第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に福井県、石川県、岐阜県の3県と、勝山市、白山市、郡上市の3市が共同で行いました。平成19年1月にその審査結果が発表され、提案に対する課題が示され、継続審査となりました。
今回の提案では、文化庁から指摘を受けた課題を修正するとともに、大野市のほか、新たに小松市、高山市、白川村が加わり、共同提案しております。
【主な遺産群】
白山(標高2,702m、ユネスコの生物圏保存地区、高山植物の宝庫、山頂の遺跡群)
信仰の拠点三馬場(勝山市:平泉寺、白山市:白山本宮、郡上市:長滝寺)
禅定道(白山と三馬場を結ぶ参詣道、美濃禅定道が大野市上打波を通過)など
世界遺産とは
さまざまな国や地域の人たちが誇る文化財や自然環境などが、ユネスコの世界遺産として登録されています。
世界遺産には次の3種類があり、有形の不動産が対象となっています。世界遺産の登録件数は1052件(2016年7月現在)です。
・文化遺産 顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など
・自然遺産 顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域
・複合遺産 文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産
日本の世界遺産(20件)
・文化遺産(16件)
1 法隆寺地域の仏教建造物 (平成5年記載)
2 姫路城 (平成5年記載)
3 古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市) (平成6年記載)
4 白川郷・五箇山の合掌造り集落 (平成7年記載)
5 原爆ドーム (平成8年記載)
6 厳島神社 (平成8年記載)
7 古都奈良の文化財 (平成10年記載)
8 日光の社寺 (平成11年記載)
9 琉球王国のグスク及び関連資産群 (平成12年記載)
10 紀伊山地の霊場と参詣道 (平成16年記載)
11 石見銀山とその文化的景観 (平成19年記載)
12 平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群 (平成23年記載)
13 富士山―信仰の対象と芸術の源泉 (平成25年記載)
14 富岡製糸場と絹産業遺産群 (平成26年記載)
15 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業 (平成27年記載)
16 ル・コルビュジエの建築作品 近代建築運動への顕著な貢献 (平成28年記載)
・自然遺産(3件)
1 屋久島 (平成5年記載)
2 白神山地 (平成5年記載)
3 知床 (平成17年記載)
4 小笠原諸島 (平成23年記載)
・複合遺産(0件)
(2007(平成19)年12月提出)
表紙・目次
(1)提案のコンセプト
1 資産名称・概要
2 写真
3 構成資産の位置図
(2)資産に含まれる文化財
1 整理表
構成資産
参考資産
2 構成資産の位置と写真
A 自然
B 山麓の人々のくらし
C 白山の信仰
参考資産
(3)保存管理計画、又は策定に向けての検討状況
1 個別構成要素に係る保存計画の概要又は策定に向けての検討状況
2 資産全体の包括的な保存管理計画の概要、又は策定に向けての検討状況
3 資産と一体をなす周辺環境の範囲、それに係る保全措置の概要又は措置に関する検討状況
(4)世界遺産の登録基準への該当性
世界遺産の登録基準への該当性
提案書
表紙・目次(PDF:13KB)0-1top
提案のコンセプト 1資産名称・概要(PDF:15KB)1-1concept
提案のコンセプト 2写真(PDF:63KB)1-2concept-photo
提案のコンセプト 構成資産の位置図(PDF:251KB)1-3map1
資産に含まれる文化財 1整理表 構成資産(PDF:260KB)2-1-1list
資産に含まれる文化財 1整理票 参考資産(PDF:260KB)2-1-2list-sankoh
資産に含まれる文化財 2構成資産の位置と写真 自然(PDF:516KB)2-2-1photo-sizen
資産に含まれる文化財 2構成資産の位置と写真 山麓の人々のくらし(PDF:472KB)2-2-2photo-kurashi
資産に含まれる文化財 2構成資産の位置と写真 白山の信仰(PDF:476KB)2-2-3photo-shinkoh
資産に含まれる文化財 参考資産(PDF:162KB)2-2-4photo-sankoh
保存管理計画 検討状況1(PDF:15KB)3-1-1-1plan
保存管理計画 検討状況2(PDF:10KB)3-1-1-2plan
保存管理計画 検討状況3(PDF:15KB)3-1-1-3plan
登録基準の該当性(PDF:12KB)4gaitoh
勝山市では、平成19年12月20日に、市内にある国史跡白山平泉寺旧境内を含む白山麓の文化遺産群を「霊峰白山と山麓の文化的景観」というテーマで、関係自治体とともに世界文化遺産候補として文化庁に再提案しました。
今回の提案は2回目となりますが、第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に福井県、石川県、岐阜県の3県と、勝山市、白山市、郡上市の3市が共同で行いました。その審査結果の発表は、昨年の1月にあり、「白山」の提案は、他の提案19件とともに継続審査となっていました。
今回の再提案では、文化庁からの指摘事項を修正して提出しています。もっとも大きな修正点は、共同提案した自治体が増えたことです。今回の提案では、新たに大野市、小松市、高山市、白川村の3市1村が加わり、霊峰白山を取り巻く自治体の共同提案が実現しました。
霊峰白山は秀麗な山容で知られ、古くから多くの人々の信仰をあつめてきました。その信仰の拠点は三馬場(さんばんば)と呼ばれ、福井県では勝山市の平泉寺(現在は平泉寺白山神社)、石川県では白山市の白山本宮(現在は白山比め神社)、岐阜県では郡上市の長滝寺(現在は白山長滝神社)をさします。特に勝山市の平泉寺では、“石造りの中世宗教都市”とも言える貴重な遺構が数多く見つかっています。
霊峰白山とその信仰の拠点“三馬場”、両者をつなぐ禅定道(ぜんじょうどう)、さらにその周辺には、信仰に関わる貴重な遺跡が数多く残されています。また、標高500m以上の白山山麓一帯には、豪雪地帯特有の歴史的な建物群が多く残り、日本を代表する貴重な遺産群となっています。
こういった白山と山麓の貴重な文化遺産を世界遺産として守り伝えていくために、今回の提案となりました。
主な遺産群
白山(標高2,702m、ユネスコの生物圏保存地区、高山植物の宝庫、山頂の遺跡群)
信仰の拠点三馬場(勝山市:平泉寺、白山市:白山本宮、郡上市:長滝寺)
禅定道(白山と三馬場を結ぶ参詣道)
白山麓の豪雪地帯にある伝統的な建物群(白山市白峰地区、郡上市石徹白地区)など
- 表紙 (5.5 KB)4265
- 提案のコンセプト (1.2 MB)4266
- 資産に含まれる文化財 (1.8 MB)4267
- 保存管理計画 (706.5 KB)4268
- 世界遺産の登録基準への該当性 (14.7 KB)4269
引用
白山文化(白山信仰・石徹白)https://tabitabigujo.com/appeal/hakusanshinko-faith/about/
公益社団法人日本ユネスコ協会連盟 世界遺産の基準 https://www.unesco.or.jp/activities/isan/decides/
資料
1.中間発表レジュメ_
2.プレゼン資料
世界遺産としての白山文化の研究
世界遺産としての白山文化の研究
第1章 緒 言
1,はじめに
白山は日本列島のほぼ中央部に位置し、世界有数の豪雪山岳地帯でユネスコの生物圏保存地域にもなっている豊かな自然がある。白山では山麓一帯が禅定道を基軸に互いに結ばれ、加賀、越前、美濃の三馬場とその禅定道筋にはそれぞれ社寺や集落が形成され、山村特有の生活文化が培われた。山麓には白山信仰を全国に広めた御師集落で、今もかつての美濃禅定道の面影や、御師の伝統と習俗を色濃く残している石徹白、山麓の村々を統轄した集落で巨大な大壁造りの建築物が見られる白峰などがある。また、厳しい気象条件等に適合した出作り・焼畑という生活形態は、世界でも希有な存在である。このように白山信仰を基盤として白山麓でたくましく生き続けてきた風景は日本人の暮らしを代表する文化的景観である。
本研究では、この白山文化遺産の世界遺産への登録の課題を分析し、デジタルアーカイブの必要性について明らかにする。
この、世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき「世界遺産リスト」に記載された、「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことである。 「顕著な普遍的価値」は、どの国や地域の人でも、いつの時代のどの世代の人でも、どのような信仰や価値観をもつ人でも、同じように素晴らしいと感じる価値のことで、そうした価値をもつ世界遺産は、人類共通の財産といえる。世界遺産は、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類される。文化遺産が最も多く、世界遺産の総数は1,000件を超えている。世界遺産リストに記載する遺産は、1年に一度開催される世界遺産委員会で審議され、登録の可否が決定します。世界遺産委員会では「登録」、「情報照会」、「登録延期」、「不登録」の4段階の決議を行う。21の委員国からなる世界遺産委員会では、他にも、世界遺産条約を運用していく諸事項や、世界遺産基金の使い道の決定、世界遺産の保全状況の確認、危機遺産リストへの記載の可否など様々な話し合いを行っている。
例えば、大野市では、平成19年12月20日に、白山麓の文化遺産群を関係自治体とともに「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」というテーマで、世界文化遺産候補として文化庁に提案した。今回の提案は2回目となる。第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に行った。平成19年1月にその審査結果が発表され、提案に対する課題が示され、継続審査となった。今回の提案では、文化庁から指摘を受けた課題を修正するとともに、大野市のほか、新たに小松市、高山市、白川村が加わり、共同提案している。
そこで、石川、福井、岐阜の3県と白山市、小松市、勝山市、大野市、郡上市、高山市、白川村の6市1村は、世界遺産の申請において継続審議となっていた「霊峰白山と山麓の文化的景観」の課題について、2007(平成19)年12月に検討状況報告書並びに再提案書を提出した。
しかし、文化審議会は2008(平成20)年9月、再度暫定リストへの追加登載を見送り、現在、関係自治体で文化審議会の指摘に沿い提案内容などの見直し作業と研究を続けている。
本研究では、白山文化遺産のデジタルアーカイブを進め、白山文化遺産を世界遺産に登録できるような条件を検討し、その課題を明らかにすることを目的とする。
第2章 白山文化とは
1.白山信仰
白山
白山は、岐阜県、福井県、石川県、富山県の4県にまたがる山で、富士山、立山とともに日本三名山といわれることがあります。白山は主峰を持たない山で、御前(ごぜんが)峰(みね)(2,702メートル)、大汝(おおなんじが)峰(みね)(2,684メートル)、剣ケ峰(けんがみね)(2,677メートル)の3つの峰からなります。ここに別山(べっさん)も含めて、ひろく白山と総称することもあります。古来は「しらやま」と呼ばれていたようです。
白山には貴重な植物が多く、「ハクサンコザクラ」「ハクサンイチゲ」など白山の名前を冠する植物も18種類あります。昭和37年(1962)に白山国立公園に指定されたのに続き、森林生態系保護地域、カモシカ保護地域にも指定されています。国際的にもユネスコの生物圏保存地域に指定されるなど、国際的にも高い評価がされているといえます。
白山信仰のはじまり
一年中雪を頂き、長良川(岐阜県)、九頭竜川(福井県)、手取川(石川県)、庄川(富山県)の水源となる白山は、古来から人びとの崇拝の対象であったと考えられます。
白山信仰は、御前(ごぜんが)峰(みね)には伊弉冉(いざなみの)尊(みこと)(別称・白山(はくさん)妙(みょう)理(り)大菩薩(だいぼさつ)。本地仏は十一面観音で白山妙理大権現ともいう。)、大汝(おおなんじが)峰(みね)には大己(おおなむ)貴(ちの)尊(みこと)(本地仏は阿弥陀如来)、別山には小白山(こはくさん)別山(べっさん)大行事(だいぎょうじ)(本地仏は聖観音)がましますとされる、白山三所(はくさんさんしょ)権現(ごんげん)の考え方を基礎とし、神仏習合の山岳信仰として発展しました。養老元年(717)に、越の国(現在の福井市)の僧・泰澄が白山を開いたことに始まるとされています。※本地仏神は、仏や菩薩が人間を救うために仮の姿で現れたものという考え方に基づき、本来の姿である仏や菩薩のことを本地仏といいます。
馬場と禅定道
白山信仰が確立していく中で、天長9年(832)には、馬場(ばんば)と禅定(ぜんじょう)道(どう)が整えられたとされます。 馬場とは、白山を遥拝する場所のことで、この馬場から白山への登拝路のことを禅定道といいます。美濃の白山本地中宮長滝寺(現・長滝白山神社/長瀧寺、郡上市白鳥町長滝)、越前の白山中宮平泉寺(現・平泉寺白山神社、福井県勝山市)、加賀の白山本宮白山寺(現・白山比咩(しらやまひめ)神社、石川県白山市)の3つの馬場と、この馬場からそれぞれに白山へ登拝する禅定道(美濃禅定道、越前禅定道、加賀禅定道)がありました。
白山信仰の歴史
白山を開いたとされる僧・泰澄が、聖武天皇の病気を平癒したり、伝染病の流行を治めたりしたことで、白山も広く諸国からの崇敬を集めたと伝えられます。 平安時代初期から、天台・真言宗の力が増すとともに、天長5年(828)に長滝寺がいちはやく天台宗比叡山延暦寺の末寺となったことに続き、ほかの馬場が置かれた平泉寺、白山寺も延暦寺の末寺となっていきます。 平安時代中期以降は、山岳修験道の母胎として、諸国から多くの信者が白山へ登拝するとともに、時の権力者たちも信仰を寄せ、白山信仰は隆盛期を迎えます。 鎌倉・室町時代を境に、諸国の政情不安により徐々に白山神の威光は最盛期の力を失ってゆくものの、江戸時代には藩主から寄進を受けるなど、人びとの信仰を集めていました。
しかし、明治元年(1868)に明治政府が出した「神仏判然令」は神仏分離を命じたもので、神仏混淆の白山信仰は大きな影響を受けました。
2.美濃馬場と禅定道
美濃馬場・白山本地中宮長滝寺の歩み
現在の郡上市白鳥町長滝におかれた美濃馬場(ばんば)・白山本地中宮長滝寺は、養老元年(717)に越の国(現在の福井市)の僧・泰澄が白山中宮を創建したことに始まるとされます。その後、天平2年(730)に元正天皇が、本地十一面観音、聖観音、阿弥陀如来の三像を奉納したことから、白山本地中宮長滝寺と称するようになったと伝えられます。
長滝寺は、天長5年(828)に、法相宗から天台宗に改宗し、近国における総本山として勢力を増し、同寺の周辺には「6谷6院360坊」といわれるほどの塔頭や宿坊が立ち並んだと伝えられます。治安元年(1021)には後一条天皇の勅命で国家鎮護の祈祷をし、天台別院という高い格式を得ました。
美濃側からの白山への登拝拠点として、尾張・駿河方面からの登拝者たちを迎えたとされます。また、藤原秀衡が鐘楼を寄進したこと、足利尊氏が祈祷を依頼したことなどが記録されており、その時代の権力者の信仰も集めていたと推測されます。
明治元年(1868)の神仏分離令により、白山本地中宮長滝寺は、神を祀る長滝白山神社と、仏を祀る長瀧寺の2つに分離されました。 明治32年(1899)には、濃州第一とうたわれた社殿仏閣は灰燼に帰しましたが、国指定重要文化財の釈迦三尊像などかつての白山信仰の栄華を伝える宝物等が今に伝えられ、一部は龍宝殿や白山文化博物館で公開されています。
美濃禅定道
馬場(ばんば)から白山への登拝路のことを禅定(ぜんじょう)道(どう)といいますが、美濃馬場を起点にする禅定道を美濃禅定道といいます。 美濃禅定道は、白山本地中宮長滝寺を起点に、床並とこなみ社、桧峠を越え、白山中居神社へ。その後、美女下社、今冷泉いましみず社、石徹白大スギ、神(かん)鳩(ばと)社から銚子ケ峰、一ノ峰、ニノ峰、三ノ峰、南竜ケ馬場、別山を経て白山へ至る道のことで、一般の登拝者が登った道だと伝えられます。
行者(山伏や修験者たち)が通った行者道は、白山本地中宮長滝寺から、一ノ宿、二ノ宿、三ノ宿、多和宿、国坂、泉ノ宿、中須、大日宿、カウハシを経て神鳩宿で禅定道と合流しました。 美濃禅定道は、3つの禅定道の中で最も登拝者が多かった道だとされます。
その盛況さを示す言葉として「のぼり千人、くだり千人、ふもと千人」があります。史料からは、実際の登拝者はもっと少なかったと推測されますが、この道が、美濃・尾張方面からの多くの登拝者たちで賑わったことを思い起こさせます。
白山信仰の衰退とともに、美濃禅定道も荒廃しましたが、一部が復元されています。
3.石徹白と白山信仰
石徹白
石(い)徹(と)白(しろ)地区は、郡上市白鳥町に位置し、白山連峰に源を発した石(い)徹(と)白川(しろがわ)に沿った集落です。人口は316人(平成17年度国勢調査)、地区内は、上在所(かみざいしょ)、西在所(にしざいしょ)、中在所(なかざいしょ)、下在所(しもざいしょ)の4地域にわかれ、いずれも標高約700メートル以上の高地にあります。 石徹白という地名の由来は、「いしどうしろ」から転じて「いとしろ」となったとする説など、諸説あります。
地区内の寺社は、白山(はくさん)中居(ちゅうきょ)神社(じんじゃ)、安養寺(あんにょうじ)道場、白鳥山威徳寺(いとくじ)、雷鳥山円周寺(えんしゅうじ)です。地区内の文化財は、国指定特別天然記念物「石徹白の大スギ」、国指定重要文化財「銅像虚空像(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)坐像(ざぞう)」、県指定重要文化財「白山中居神社の彫刻」県指定天然記念物「浄安(じょうあん)スギ」のほか、県指定文化財7件、市指定文化財8件があります。
石徹白地区の歴史
石徹白地区からは、縄文式土器や石器類が発掘されており、古くからから人びとが生活をしていたものと推測されます。 養老元年(717)に僧・泰(たい)澄(ちょう)が白山を開いた際に、石徹白地区の白山中居神社の社域を拡張し、社殿を修復したと伝えられます。
石徹白地区は、全域が、この白山中居神社の神領でした。人びとは、社家・社人と呼ばれ、それぞれに白山中居神社と関わりあいながら暮らしました。神領ということから、無税(税金が免除)で、名字を名乗ること、帯刀を指すことが許されていました。
また、無主(むしゅ)無従(むじゅう)で、いわゆる大名領になったことはほとんどありません。石徹白地区の主要な出来事は、オトナ(頭社人)と呼ばれる12人の人びとの合議によって決められました。 このような石徹白地区で、江戸時代中期の宝暦年間には、真宗道場威徳寺の昇格を発端とし、白山中居神社の神職間の対立関係が原因の「石徹白騒動」が、明治初年には新政府の神仏分離令に端を発する神仏分離騒動が、そして昭和30年代初期には越県合併問題という、石徹白地区内を2分するような騒動が3度起きています。
社家・社人
石徹白地区の中でも、白山中居神社がある上在所(かみざいしょ)の人は社家(しゃけ)とよばれ、そのほかの在所の人びとは社人(しゃじん)といわれました。また、小谷堂(こたんどう)・三面(さつら)集落の人びとは、末社人と呼ばれました。 社家は、神に仕えることを本職とし、神頭、神主、幣司、神楽司等として、白山中居神社の神事・祭礼をつかさどりました。 社人は、平常は百姓をしていながら、白山中居神社の祭事のときに奉仕した人びとのことで、同社の維持管理を担いました。
社家・社人たちの暮らしと白山信仰
「木山三里、笹山三里、はげ山三里」といわれた白山への長い禅定道では、登拝者たちに先達(案内人)は欠かせないものでした。行者(ぎょうじゃ)(修験者・山伏等)以外の登拝者たちは、石徹白地区で1泊した後、銚子ケ峰、別山を経て白山を目指したとされます。
こうした登拝者たちの宿坊を営み、祈祷をし、登拝者たちの案内人をしたのが御師(おし)と呼ばれる人びとです。冬場は、白山神の羽織袴に帯刀を指し、雷除けの護符に牛王札、白山の薬草、白山略図を持って、各地の檀那場を回り、白山信仰を広めました。檀那場を一回りすると金50両・米50俵などの寄進があったともいわれます。
御師は、上在所の社家がなりました。社家は、神に仕えることを本職としたので、御師としての収入が、生活の支えでした。 一方で、平常は百姓として田畑を耕作していた社人たちは、石徹白地区が白山中居神社の神領として無税であったことから、収穫物は全て自分のものとなりました。 社家は、御師として、社人は、神領ゆえ無税という恩恵を受けながら、白山信仰の中で生活をしていました。
第3章 白山文化遺産の構成
1.郡上市白鳥町
岐阜県郡上市白鳥町は長良川の上流に位置し、白山山系の山々と小高い山地に囲まれた山間の地である。集落の多くは長良川が堆積した狭い平地や山裾に立地している。
江戸時代、二十一カ村あった集落は統合や合併を重ね、現在では白鳥町の十八の地区に再編され、存続している。町域を走る基幹交通は東海方面から北陸、越前へと抜ける国道156号線、国道158号線であり、その結節点でもある白鳥町は白山麓の交通の要所として多くの情報や文物が行き通う地となっている。
白鳥町長滝の長良川右岸には養老元年(717)年に白山の開祖泰澄(たいちょう)大師が創建したと伝えられる長滝白山神社と天台宗長龍寺がある。神社は東海方面の白山信仰の拠点であり、平安時代以降、「上がり千人、下り千人」、「菅笠の尾が触れる」と言われるほど多くの白山参詣者が参拝し、繁栄している。
長期にわたって長滝の神社等から発せられる白山神事や白山祭礼の影響もあって白鳥町一円には白山信仰によって醸成されてきた共通の風俗、慣習、生活様式等が集落の枠を超えて広がり、盆踊り、祭礼等となって今日まで引き継がれている。
また、長滝白山神社・長龍寺や石徹白の白山中居(ちゅうきよ)神社等には白山参詣者が寄進した奉納物や白山信仰の遺構も数多く残されている。白鳥町には盆踊りや祭礼、奉納物や遺構が醸し出す歴史と文化の香りが町一帯に漂い、近年、白鳥町は「白山文化の里」とも称されるようになっている。
郡上市白鳥町白鳥の風景
東海地方と北陸、越前方面を結ぶ交通の要所であり、市街地は白鳥神社を中心に長良川左岸沿いに南に伸びている。
長滝白山神社と長滝寺
長良川上流の右岸、白山山系の山裾に鎮座する。境内には長滝寺もあり神仏習合の面影を留めている。
1. 白山への祈り~美濃馬場の白山信仰
白山は御前ケ峰、剣ケ峰、大汝峰の三峰を持ち、石川県、福井県、岐阜県の3県にまたがる標高2702メートルの山である。単独でそそり立つ白山は遠く離れた濃尾平野や北陸各地からも眺望することができる。青空を背景に白雪を戴くその山姿は神々しさと清楚な美しさを感じさせ、古来より神が住む山として人々の尊崇と畏怖の対象になってきた。
○ 「霊山」崇拝
郡上一円の集落では古来から白山を「山の神」が宿る霊山として畏敬、崇拝する素朴な山岳信仰が人々の間に根付いていた。長滝白山神社や石徹白の白山中居神社、集落の白山神社の境内や森は「山の神」が宿る神域として神聖視されてきた。
禅定道に架かる注連縄(しめなわ)
白山中居神社入り口付近の上在所集落に架けられている。
注連縄の架かる地から神聖な地となる。
布橋灌頂(ぬのはしかんじょう)
白山中居神社境内を流れる宮川に架かる橋。彼岸と此岸を繋ぐ橋。参詣者はこの布橋より神域に入ったとされる。以前までは木造の橋で白布がされていたと伝えられる。
白山中居神社の磐境(いわさか)
古代の斎場、神霊が降臨する場。神殿が建てられる前までは祭祀の場であった。山岳信仰の面影が残る。
白山を霊山として神聖視することで白山麓や社域には広大な自然環境が手つかずのまま保全された。白山山系の山々から流れ出る谷川は長良川の清冽な流れとなり、流域に住む多くの生命を育んできた。
清流長良川
山間の谷間から平地に流れ出た長良川は水面に翠を映じながら穏やかな流れとなる。
長良川での游泳
白鳥町二日町。清流長良川に点在する深みは子供たちの絶好の游泳場となる。
長良川の鮎釣り風景
清流長良川は鮎などの川魚が多く生息している。シーズンに入ると東海地方等からの太公望で賑わう。
清流長良川あゆパーク
平成三十年六月に白鳥町長滝の「道の駅」にオープン世界農業遺産「清流長良川の鮎」に関する情報発信の場として開館。魚釣りやつかみ取り等、漁業に関する体験学習が行われている。
○「水分神(みくまりのかみ)」崇拝
美濃側の白山山系から流れ出る川は多くの支川を集め長良川となり、山間地を蛇行しながら河岸平野を形成し、流域の平野を潤して伊勢湾に注いでいる。白山山麓や長良川の流域で生活する人々にとって、日々見慣れた白山は飲料水や灌漑用水を供給する恵みの山であった。
白山から流れ出る大量の水によって土地の開墾がなされ、農耕地が拡大し収穫が増加するにつれ、人々の間では白山を生活に不可欠な水を供給し、五穀豊穣をもたらす水分神が鎮座する山として畏敬、崇拝する素朴な山岳信仰が生まれ、長良川やその支川沿いの集落には白山神社や小祠、遙拝所が祀られようになる。
蛭ヶ野高原の分水嶺
白山山系から流れ出る水は郡上市高鷲町蛭ヶ野の地で分岐し、長良川、荘川の流れとなってそれぞれ伊勢湾、日本海へと流れ込む。
長良川の源流 阿弥陀ヶ滝
長良川最上流にあり、落差は60m、豊富な水量で知られる東海地方唯一の名瀑。泰澄大師によって発見されたと伝えられ、長滝白山神社の神官、僧侶、修験者の修行の場であり、白山参詣者が身を清めた滝でもある。滝までの散策路は森林浴にも適している。日本の滝百選に指定されている。(県指定名所)
長良川沿いの水田地帯
白鳥町二日町。長良川から取水された豊富な農業用水が集落に豊穣をもたらす。田植え間もない頃の風景。
集落の白山神社
神社は集落の氏神であり、白山神への豊穣祈願と報謝の場でもある。白鳥町の集落の大半が白山神社を勧請している。
○「霊水」崇拝
白山の開祖泰澄大師が千匹の悪蛇を封じたとされる万年雪の積もる「千蛇ガ池」や断崖絶壁、千仞の滝から流れ落ちる白山の水は人の齢を延ばす水とされてきた。美濃馬場には白山からの湧水を霊水とする信仰が見られる。
白山千蛇ケ池の霊泉
長滝白山神社境内にある湧水。「白山千蛇ケ池」から湧き出る霊泉と伝えられ、命を長らえる薬水として神社参詣者に愛飲された。
延年(えんねん)水(すい)
長滝白山神社境内にある。別名を「千蛇ケ清水」と言い、夏でも枯れることはない。古文書には「道雅上人加持水」と記され、神社ではこの霊水を神仏に供え、五穀豊穣、悪霊退散の加持祈祷を行っていた。また、神社が発行し、各地に配布される牛王札(ごおうふだ)の「白山瀧(りゅう)宝(ほう)印」はこの霊水を使用し、刷られていた。
村間ケ池(むらまがいけ)
神秘的な光景が漂う池。千蛇が住むとの伝承が伝えられている。池の湧水は年中一定の水量が保たれている。水面には睡蓮科のコウホネや羊草が花を咲かせる。白鳥町前谷地区の標高七百メートルの山中にある。(市指定天然記念物)
2. 長滝白山神社の景観
養老元年(717)、越前の僧泰澄大師は「霊山」として神聖視されていた白山に始めて登拝している。天長九年(832)には、美濃、加賀、越前の三方から白山への登拝道(禅定道(ぜんじょうどう))が開かれ、その登拝拠点には「三馬場(さんばば)」と称される社寺がそれぞれ置かれた。美濃側からの登拝拠点である「美濃馬場」の長滝白山神社は白山の名声が高まるにつれ、東海地方から多くの白山参詣者や修験者が訪れ、賑わいを見せるようになる。
平安時代後期には白山麓一円に広大な寺領を有し、「神殿仏閣三十六余宇、六谷六院、僧坊三百六十」と言われ、神仏習合の「白山中宮長滝寺」と称し法灯の最盛黄を向かえている。長滝寺では天下太平、五穀豊穣を祈願する白山神事祭礼や『延年』、そして『法華経』八巻を朝夕1巻ずつ四日間にわたり修する「修正会」、「修二会」等の法会等が宝治二年(一二四八)から約六百年間に渡って続けられてきた。
明治元年(1868)の神仏分離令によって「白山中宮長滝寺」は天台宗の白山長滝寺と長滝白山神社に分離し、存続の危機に瀕したが、長滝地区の氏子衆の協力もあり、祭礼や法会は失われることなく今日まで継承されている。神社境内には盛時の神仏習合の面影を伝える神殿、仏閣、堂宇の遺構、宿坊が佇み、参拝者を迎えている。
長滝白山神社の参道
参道が神社本殿に向けて伸びている。付近を長良川鉄道、国道156号線が並行して走る。
長滝白山神社の本殿
白山三神(白山妙理大権現、大己(おお)貴(な)尊(むち)、別山大行事(だいぎょうじ))を祀る。本地(ほんち)垂迹(すいじゃく)説では白山妙理大権現は十一面観自在菩薩、大己貴尊は阿弥陀如来、別山大行事は聖観音の垂迹とされている。
長滝寺
天長五年(828)、法相宗から天台宗に改宗、その後、比叡山延暦寺別院となる。明治の神仏分離で天台宗白山長滝寺となる。『郡上踊り』の踊り曲<かわさき>で「郡上に過ぎたは長滝講堂」と歌われた講堂は明治三十二年の大火で焼失、残された礎石が往時の面影を伝えている。
石(いし)燈(とう)籠(ろう)
神社本殿と長滝寺の双方に直面する位置に立てられている。正安四年(1302)に伝燈大法師覚海が寄進した燈籠。(国指定重要文化財)刻銘「正安四年壬寅七月日 願主伝燈大法師覚海」
宝篋印塔(ほうきょういんとう)
印経文を納める塔。天保四年(1833)、長滝寺僧侶の良雅の本願で寄付を募り建てられた。(市指定重要文化財)
天神堂
昭和六年に神社に合祀された。毎年二月二十五日に男の子の学問向上を願い、『天神祭り』が長滝地区の氏子衆によって行われる。
弁天堂
毎年八月七日に女子の成長と五穀豊穣を祈願する『弁財天七夕祭り』が長滝地区の氏子衆によって行われる。正応五年(1292)建立、その後焼失。
三重塔跡
神社の西側の山裾にはかって三重塔、常行堂、法華堂、開山堂等の堂宇が建ち並び、威容を誇っていた。三重塔は天正十三年(1583)の大地震と大風によって倒壊、嘉永六年(1853)に郡上藩に再建願いが提出されたが認可されず。
宝憧坊(ほうどうぼう)
参道入り口に位置している。多くの僧坊が退転する中、今日まで存続している坊である。僧坊には長滝寺僧侶や修験者が起居し、僧侶は月ごとに順に『荘厳講(しょうごんこう)』の執事を勤めた。また、白山参詣者の宿泊所ともなった。
蔵泉坊跡
寛文九年(1669)には僧坊数は二十七坊あったが寛延三年(1750)には十四坊になり、半減している。明治元年の神仏分離で多くの僧坊が退転、廃絶している。明治七年の神社記録には存続している坊とし蔵泉坊、大日坊、竹本坊、宝憧坊、経聞坊、持善坊、阿名院の七坊が挙げられている。蔵泉坊の名もあることからその後に退転したと思われる。
経聞坊(きょうもんぼう)
江戸時代、長滝寺の坊の中で格式が最も高い僧坊。今日まで存続している。享保年間、経聞坊の檀那場は尾州、三州、美濃等の百ケ村余りの農村を中心に、名古屋では武士にも及んでいた。経聞坊からは、終日読経が参道に流れていたと言われる。
阿名院(あみよういん)
廃絶した山伏寺の花蔵院を室町時代に経聞坊隠居の道雅法印が再興、長滝白山神社に残る唯一の坊院。境内には歴代の長滝寺僧侶の墓や六十六部廻国碑等がある。
若宮家
長滝白山神社の執行家、現在の建物は天明五年(1785)、文化八年(1811)にそれぞれ建築されている。(県指定重要文化財)
金剛童子堂
白山修験者は金剛童子堂、護摩檀で護摩を焚き、祈祷の峰入り儀式を行った。長滝寺には応仁二年(1468)の金剛童子堂再建の棟札がある。明治五年に修験道は廃止。
護摩壇跡
護摩を焚いた当時の礎石が残る。金剛童子堂の前にある。
入峯堂跡
白山修験者は峰入りの儀式を受けた後、入峯堂に籠もり身心を清め、一般の白山参詣者が利用する美濃禅定(ぜんじょう)道(どう)とは異なる行者道で白山頂上へと向かった。
行者道の跡
行者道のおおよその行程は「金剛童子堂」~「一ノ宿」~「三ノ宿」~「三国峠」~「大日宿」~「神鳩」~「白山頂上」であった。途次、「白山二十八宿」で山伏は修行し宿をとった。今日、道の多くに草木が生い茂り、わずかな痕跡を残すのみである。
3. 長滝白山神社の奉納遺産
長滝白山神社には尾張や三河から多くの白山参詣者が訪れている。長滝白山神社にはこれらの白山参詣者が五穀豊穣、延命息災等を祈願し、奉納した奉納遺産が数多く残されている。現在、これらの奉納遺産は白山文化博物館の常設展、及び白山瀧宝殿で見ることができる。
瓶子(べし)
正和元年(1312)に中島郡奥田にある天台宗の安楽寺高僧の栄秀が白山神に奉納。「中島郡奥田」は現在の愛知県稲沢市奥田町にあたる。(国指定重要文化財)
瓶子
尾州愛知郡の清原広重が同型の瓶子を同じ正和元年十二月に奉納している。「尾州愛知郡」は現在の愛知県愛知郡東郷町、日進市、長久手市、瀬戸市付近。(国指定重要文化財)二口ともに神前に配される酒器。
昭和八年(1933)越美南線工事中、神社近くの民家の地下から対で掘り出された。正和元年制作の古瀬戸は他に類をみない。二口の瓶子は形状もほとんど同一で同一制作者である。奉納者の清原広重は瀬戸物の産地の瀬戸市付近に住んでいることから、安楽寺の阿闍梨の栄秀が陶工の清原広重に制作を依頼し、二口制作し、二人で別々に奉納した瓶子と思われる。
仏餉(ぶっしょう)鉢(ばち)
正和三年(1314)に伴友長が奉納した鉢。米や供物を仏前に盛る容器。奉納された三口のひとつ。(国指定重要文化財)
吊り燈籠
天文年間に愛知県犬山市の水野勘左衛門が所願成就を願い奉納した吊燈籠。釣環は亡失している。(市指定重要文化財)
五部(ごぶ)大乗(だいじょう)経(きょう)唐(から)櫃(びつ)
弘安二年(1279)に白山の別山社に五部大乗経を施入した際に使用したスギ材の唐櫃。奉納の銘文は、うちぶたに朱漆で記されている。
(県指定重要文化財)
経机(きょうづくえ)
静岡県袋井市国本の住人平野常光と平野勝五郎の両名が奉納した木製の机。(県指定重要文化財)
狩衣
尾州名古屋の有萱又左衛門が元和六年(1620)に奉納。長滝寺の修正会の後宴『延年』の演目<当弁>で役者が着した狩衣。
蝶と梅模様、牡丹模様の二流が残されている。(国指定重要文化財)
能面<翁>
駿河の人が天文十一年(1542)に奉納した翁面。長滝寺では戦国時代、越前から大和五郎大夫が来訪し僧侶に能を教え、その成果が『延年』や領主ので演じられていた。本面は五穀豊穣、天下太平を言祝ぐ長滝寺の神事能<式三番>で使用された面。制作者の「酒惣」の出自については不明。(国指定重要文化財)
古猿楽面(1)
応安二年(1369)に奉納された面。『延年』で演じられていた物真似芸の猿楽で使用された面と思われる。(尉)面が様式化される以前の面(国指定重要文化財)
古猿楽面(2)
『延年』の物真似や田楽で使用されていた面。頻繁に使用された形跡がある。能面制作史上、注目される面。(国指定重要文化財)
能面<若い女>
白山参詣者が文明二年(1470)に奉納した能面。女面の様式が統一される移行期に制作された面と思われる。天文年間、『延年』の能で大和五郎大夫や長滝寺僧侶が手猿楽で使用した面。(国指定重要文化財)
能面<喝食(がっしき)>
福井県福井市北庄の住人が元和二年(1616)に延命息災を願い長滝白山神社に奉納した面。面裏の鼻の部分に「◇」が刻されていることから、面は近江の世襲面打ち井関家が戦国時代に制作した面と思われる。「喝食」とは禅寺にて寺院の雑務等に従事する半俗半僧の僧を言う。(国指定重要文化財)
4. 白山への道~美濃禅定道の遺構
長滝白山神社に参詣し、供物を奉納した参詣者は白山頂上を目指した。長滝白山神社から頂上への道は美濃禅定道と呼ばれ、長滝白山神社を起点に郡上市白鳥町前谷を経て、白鳥町石徹白の白山中居神社より白山頂上に至る全長約40キロメートルの山道である『白山之記』に「白山は観音菩薩利益の砌なり。一度清涼の峰を践(ふ)めば、必ず文殊の利益に預かり、一度白山によづる類観音の冥助を疑がはざるものか」とある。白山参詣者は禅定道沿いにある道標や白山神を祀る社や小祠、泰澄大師の事蹟跡、修行僧が籠もった石室の修行跡に遺徳を偲び、白山の懐に懐かれたとの幸福感を懐きながら、登拝の危険や辛苦も厭わず、白山の奥宮を目指したのである。白山登拝を成し遂げた参詣者の多くは頂上に祀られた仏像や石垣で防御された粗末な奥宮、御来迎や日没の神秘的な光景を目の当たりにし、白山神への尊崇の念をさらに高揚させたものと思われる。
文化四年(1807)の初秋に白山登拝を行った白鳥町歩岐島の悲願寺住職は次ぎのような行程を経ている。
長滝白山神社~床並社~桧峠~一之瀬社~石徹白~白山中居神社~斧石~美女下社犬石~おたけり坂~かぶろ杉~神鳩宮~母御石~銚子ガ峯~一の峯~二の峯~三の峯美濃室跡~御手洗池~別山~大屏風~小屏風~南龍が馬場~高天原~御前峯~白山奥宮剣が峯~翠が池~大汝峯~蛇塚~市ノ瀬
住職は奥宮に参拝後、越前禅定道を下り、市ノ瀬経由で杉峠を越え、大野市の鳩ヶ湯、和泉を経て白鳥町歩岐島に戻ったと思われる。白鳥町を通過する美濃禅定道は近年まで生活道としても利用されていたが、国道156号線や県道314号線(石徹白・前谷線)の整備によりその多くが欠失し、道筋は不明になりつつある。残された禅定道には草木が生い茂り、かつて参詣者を癒やした社や小祠、石仏等は道沿いにひっそりと佇んでいる。一方、林道の敷設により新たな登山口となった「石徹白の大杉」付近から別山までの禅定道は大正年間以降、石徹白の人々やボランティアによって毎年、「白山道刈り」が行われ、道の保全と維持がされている。
十一面観音像の道標
白鳥町前谷の国道156号線と県道314号線が分岐する地。台座には「右飛騨道 左白山」とあり、文久元年(1861)に当地の氏子衆が奉納している。
前谷の禅定道
白鳥町前谷の県道314号線沿いに残る。
禅定道にある床(とこ)並(なみ)社跡
白鳥町前谷の山中。参詣者が礼拝し、疲れた体を休めた社。明治期に前谷の白山神社に合祀され、その社跡には前谷の氏子によって建てられた石碑と二十段の石段が整備されている。
床並社跡付近の禅定道
利用されなくなった禅定道の石畳には雑草が生い茂っている。
桧峠付近の禅定道と小祠
白鳥町前谷と白鳥町石徹白の境界。桧峠はかって「三国峠」とも呼ばれていた。道筋には草木が生い茂っている。
石徹白の山中の禅定道
禅定道は生活道として近年まで利用されていた。
カルヴィラいとしろ付近。
中在所にある禅定道の道標
禅定道と大野道(福井県大野市方面)との分岐点に置かれ、
「是より右ハ白山左ハ大の」
とある。
石徹白集落の禅定道
禅定道は集落の東側を走り、
白山中居神社へと続く。
「浄安スギ」付近の禅定道
利用されなくなって久しい。近年、付近の禅定道が整備されつつある。樹齢1200年と言われる「スギ」は多くの登拝者を見てきたのであろう。
禅定道にある美女下社跡 禅定道に残る社の礎石
白山への女人登拝はここから禁制になっていた。社跡には大杉の切り株跡が残る。
禅定道にある斧石
泰澄が登拝の折、使用していた斧を「結界」との理由で石に打ち付け、刃をつぶしたとの言い伝えがある。石の穴はその際のものと言われる。
禅定道にある犬石
泰澄の母の下山を待つ侍女が石になったと伝えられる。
白山登山口
林道の敷設により標高965メートルの地に新たに設けられた石徹白からの登山口。30台の駐車可。石段を登りきると「石徹白の大スギ」付近を通過する禅定道と合流する。
石徹白の大スギ
推定樹齢1800年、周囲十二メートル、十二人抱えの大杉と言われる古木。「大スギ」は禅定道を往く多くの登拝者を見守ってきたのであろう。(国指定特別記念物)
白山登山道の清掃
ボランテイアによる清掃。「石徹白の大スギ」付近。
5. 石徹白集落の風景
白山中居神社がある郡上市白鳥町石徹白は白山南麓の緩やかな傾斜地に開けた戸数111戸、人口256人(平成30年6月現在)の小さな集落である。以前までは福井県大野郡に属していたが、隣接する郡上との交流が深く、昭和33年越県合併で岐阜県郡上郡白鳥町(現郡上市白鳥町)に編入している。平安時代に著された『白山之記』に「石同代ト云社マテ女人ハ参詣ス」とあり、石徹白は古くから白山の登拝口となっていた。集落は上在所、中在所、西在所、下在所の四地区で構成され、住民は土地の産土神(うぶすなかみ)でもある白山中居神社に社家・社人として仕えていた。
白山中居神社の近辺に位置する上在所は神社の祭祀を行う社家が居住する地区であり、「白山御師(おし)」の里とも称されていた。一方、中在所は美濃禅定道が桧峠を越え、初めて石徹白の集落に入る地であり、泰澄大師を祀る大師堂や浄土真宗の威徳寺、旅館等の家々が建ち並び、また室町時代に石徹白を統治した石徹白氏の城跡もあり、歴史の面影を伝える地区となっている。西在所は集落の中で高い台地にあり、広い水田の間に家々がまばらに点在し、自動車や農作業用の軽トラックが行き通う農耕地が広がっている。下在所は台地の縁に位置し、家々は福井県大野市へ伸びる県道127号線(石徹白・朝日線)沿いに細長に点在している。
石徹白のすべての家の土台は石積みであり、屋敷林や門構え、屏はなく、隣家との距離もあり、広々としている。石積みは道路や水路、池、農地の区画にも数多く用いられている。
高台から眺望する石徹白は白山山系の山々を背後にして、杉木立や水田が広がり、その合間を長滝白山神社からの美濃禅定道、基幹道、そして大野市へと向かう「おおの道」が南北に走り、開放感ある農村風景を醸し出している。
上在所の風景
白山中居神社の門前の地に、かつての御師の家屋が並ぶ。
中在所の風景
石徹白地区の中心地。家屋が密集している。
西在所の風景
農耕地(畑・水田)が広がる。
下在所の風景
福井県大野市と近接しとている。
6. 白山中居神社の景観
白山中居神社は白山山系から流れ出る石徹白川と宮川が合流する地に鎮座している。鳥居をくぐり、杉の巨木を抜け、宮川の布橋を渡り切ると神社境内に到達する。集落の産土神でもある神さびた神社は養老元年(717)、泰澄大師が白山を開く途次、社殿を修復、拡張したと伝えられる。
境内には古代祭祀跡の磐境が祀られ、泰澄大師堂跡も残されるなど、山岳信仰の面影が色濃く漂っている。白山登拝者は神社東側を通過する登拝起点から神社背後に広がる杉、ブナの自然林の中を白山頂上に向けて歩を進めたのである。
白山中居神社本殿
本殿は安政年間(1854~1859)に越前志比(福井県吉田郡永平寺町志比)の大工により再建されている。梁には同時代に大坂と諏訪の彫刻師が彫った龍、水、うづら、葡萄の彫刻が、正面には鳳、桐の花が彫られている。「七十五翁、立川富昌(花押)」とある(彫刻は県指定重要文化財)。
白山中居神社の森
神社境内には推定樹齢二百年から千年の杉の巨木が林立し参道、社殿を取り囲んでいる。(県指定天然記念物)
磐境
神霊が降臨する場であり、古代には祭祀が行われていた。六月十八日に磐境の前で創業祭が行われ、社家が御幣を捧げる。
泰澄堂跡
明治の神仏分離で大師堂に合祀された。 白山中居神社の神仏習合の面影がただよう。
7. 白山中居神社の奉納遺産
白山参詣者は長滝白山神社を経て、白山中居神社に参詣、供物を奉納し白山頂上を目指した。白山中居神社には東海地方からの奉納された供物が多く見られる。これらの奉納物の中、仏教関係の供物は明治の神仏分離令により新たに建造された観音堂と泰澄大師を祀る大師堂に移され、神社には神道関係、祭礼関係の奉納物を残すのみとなっている。
能面<若い女>
美濃馬場の白山信仰が盛んな天正八年(1580)に柴山喜蔵が五穀豊穣、延命息災等の祈願成就を白山神に願い、奉納した面。現行の様式化された女面とは違い、写実的な作りに特徴がある。(県指定重要文化財)
木造獅子頭
貞享五年(1688)に美濃の恵那郡加子母村の熊沢与七が白山神に家内安全、除厄を祈願し、奉納した獅子頭。刻銘がかすかに残る。
8. 大師堂の奉納遺産
石徹白の浄土真宗門徒によって明治五年(1872)に泰澄大師を祀る観音堂・大師堂として中在所に建てられた。堂には中居神社から移された仏像、仏具等の奉納物が納められている。
大師堂の風景
堂の入り口には泰澄大師の石像が建つ。大師堂では三月十八日の大師の命日に門徒によって法要が行われている。
泰澄大師坐像
泰澄大師か初めて白山登拝をした三十六歳の期の坐像とされる。後補が加えられている。(市指定重要文化財)
花瓶
応永二年(1395)に郡上市大和町牧にあった「尊星王院」の仏慶が神鳩社に奉納した花立。「神鳩」は美濃禅定道に祀られていた神鳩社。(市指定重要文化財)
銅造虚空蔵菩薩坐像(こくうぞうぼさつざぞう)
神仏分離以前までは白山中居神社の本地仏として祀られていた。平安時代末期に奥州平泉豪族の藤原秀衡が奉納したと伝えられる。金属工芸の高い技術で制作されており、日本の彫刻史上、特筆すべき金銅仏である。若干の後補がなされている。(国指定重要文化財)
青銅鰐口(わにぐち)
織田信長が元亀二年(1571)に家臣の菅谷九右衛門を奉行として社家の石徹白源三郎胤弘の祈願によって白山の三神の一つ別山大行事(べつざんだいぎょうじ)に奉納した鰐口。「信長鰐口」として知られる。(県指定重要文化財)
9. 石徹白の白山御師
上在所に居住する白山中居神社の「社家」は「白山御師」として白山信仰を全国各地に広めている。その布教活動は冬期の一月から五月にかけて各地の集落に赴き、神札、白山略図、雷よけの護札、白山薬草を配布した。また、当地へ白山社を勧請するため村民に協力を求めるなど、勧進僧的な役割をも果たしていた。白山登拝シーズンの七月~八月には檀那場から白山登拝に訪れる白山講の講員や巡礼を自宅に泊まらせ、祈祷や禅定道の道案内を行っていた。御師の巡回によって白山信仰が定着した「檀那場(だんなば)」は飛騨、美濃、越前、近江、尾張、三河、信濃、甲斐、遠江、駿河、相模、武蔵、上野(こうずけ)、石見(いわみ)、美作(みまさか)等に及んでいた。「白山御師」の布教活動は三馬場では美濃馬場にのみで、明治三年に御師制度は廃止されたが、石徹白では大正年間まで続いていた。
御師の家 石徹白伊織家
石徹白に残る唯一の御師の家。越前志比の大工によって万延元年(1860)頃に建てられている。切妻式の平屋でトタン板、かってはクレ板葺であった。門構え等はなく水田と消雪用の池に囲まれ、部屋は「シンレイノマ」、「キャクマ」等の八間。参詣者は一階に宿泊していた。
石徹白清住家
切妻式の二階建て、かってはクレ板葺であった。二階には「ゴシンゼンノマ」、「ミタマサマノマ」がある。神前の間と仏間から、神道と浄土真宗の双方の影響が見て取られる。
(国登録有形文化財)
白山版木
御師が檀那場で配布した神札等の木
10. 白山信仰が育んできた芸能と祭礼
長滝白山神社では宝治年間(1247)頃から天下太平、五穀豊穣を白山神に祈願する例祭や法会が行われ、後宴の芸能が僧侶や神官、山伏等によって盛大に催されてきた。
長滝白山神社の祭礼や芸能は白鳥町一円の集落にも波及し、末社の白山神社の祭礼では氏子衆によって五穀豊穣、延命息災を感謝、祈願する祭礼や芸能が奉納されるようになる。
〇長滝白山神社の芸能『延年』
長滝白山神社の『延年』は一月六日の「六日祭(むいかまつり)」に奉納される。 拝殿の中央には胡桃等の白山の幸が盛られ、白山の三峰の御前峰、大汝峰、別山に似せ白米が盛られ、山に雲がかかる様子を表現した紙ばりを被い、依代(よりしろ)となる三日月松が立てられる。この「菓子台」の前で最初の演目の《酌取り》がなされる。《酌取り(しゃくとり)》が終わると「菓子台」の供物は参拝者に播かれる。次ぎの《当弁(とうべん)》では役者が当弁竿を振りかざし梅、竹の功徳を褒め称える。続く《露払い(つゆはらい)》では鬼面の武者姿の役者が扇をかざし、囃子に合わせて劍舞や足踏みなどの所作を行う。《乱(らん)拍子(びょうし)》では稚児が「開運厄除祈祷札白山総社表本宮白山長滝神社」と記された菊の造花を持ち、舞台を廻り、小さな足踏みを行う。演目は《(<)田歌(おた)》、《花笠ねり歌》、《当弁ねり歌》と続き、《しろすり》へと進む。腰に鎌をさした農作業の出で立ちの役者が社領の鍬打ちをすると述べ、白山神社の繁栄を讃える詞章を述べ、田打ちの所作を繰り返す。
このように『延年』は厳粛な中にも随所に白山との関わりを演出し、華やかさを漂わせながら滞りなく演じられていく。最後の《大衆(たいしゅう)舞(まい)》で役者は「はっさいや」の掛け声とともに足拍子を踏み、片手を挙げて首をひねるコミカルなしぐさをして退場、『延年』は終了する。
一方、舞台上の『延年』が佳境にさしかかった頃、拝殿の天井に吊られた「花笠」の奪い合いが始まる。若者が「人梯子」を組み、「花笠」を引きずり下ろそうとするが幾度となくその梯子は崩れる。「花笠」が地に落ちるや多くの参拝者が殺到する。「花奪い」で花笠の断片を手にした参拝者は白山の神の依代として家に持ち帰り、五穀豊穣、延命息災、家内安全を願い、神棚に祭祀するのである。(国指定無形民俗文化財)
『延年』の演目
白山からの寒風が吹きすさぶ拝殿で行われる。
<答弁> <しろすり> <露払い>
菓子台
江戸時代までは「菓子台」の前で長老の僧侶が天下太平、五穀豊穣、寺領の繁栄を白山に祈願し、賛を唱える演目の「菓種」があった。
演目《酌取り》
永瀧寺に居住まいする山伏が演じる演目であった。
花奪祭り
明治時代以降、拝殿土間で行われるようになったと言われる。
<飛出(とびで)>面
天文年間(1532~1554)の時期、越前の大和五大夫が長滝寺の僧侶に能を指導している。神社には『延年』の夜の能で使用された能面が残されている。
<飛出>面はその一面。(国指定重要文化財)
〇長滝白山神社の祭礼『でででん祭』
長滝白山神社では。五月五日の端午の節句に子供の成長を白山神に祈願する例祭が行われる。開始時に打たれる太鼓の音に模し、「でででん祭り」とも言われる。本祭前日、菖蒲、よもぎ、山吹が供えられた白山三社の神輿(みこし)の前で宮司による祝詞、お祓いが行われ、その後、子供逹は神輿の隙間をくぐり抜ける。以前までは男の子が中心であったが、近年は地区以外の成人、男女誰でも参加できる。五日当日は神事の後、巫女四人による「浦安の舞」が奉納され、太鼓の合図とともに白山三社の神輿は宮司を先頭に白装束、立て烏帽子の若者八人によって担がれ、御旅所までの渡御が始まる。子供御輿も加わる。御旅所では祝詞奏上の神事の後、菖蒲酒が振る舞われ、神輿は再び本殿に還御される。その後、境内では餅撒きが行われ、参拝者は白山神の縁起物の餅を競い合って取り合うのである。
神輿くぐりと安浦の舞
子供の無病息災と健やかな成長を願う行事がに行われる。
御神体の神輿(みこし)渡御(とぞよ)
参道にある太鼓橋を渡るときが渡御のハイライト。
〇長滝地区の祭礼『弁天七夕祭り』
長滝白山神社に合祀されている弁天堂では八月七日に『弁天様の祭り』が長滝の氏子衆によって行われている。『祭り』では女の子が弁天堂の前に整列し、長滝寺の僧侶が《般若心経》を読経、各自がお参りした後、青竹に自作の和歌や「天の川、「なす」、「きゅうり」と書いた短冊を吊し、「弁天様のお祭りじゃ、秋のこがねの豊年じゃ」と唱えながら長滝地区の家々を回る。提供された供物は弁天堂に供えられる。「弁天様の祭り」は長滝の『弁天七夕祭り』が水分神でもある白山の神と結びつき、豊穣を願う祭りへと変容したものと思われる。
以前までは『弁天様の祭り』は男女を問わず行っていたが、昭和六年に境内に天神堂が合祀され、それ以降は男子は『天神樣の祭り』、女子は『弁天様の祭り』として区分され、それぞれ行われるようになった。
弁天七夕祭り 巡回風景
〇長滝地区の祭礼『天神祭り』
昭和六年に長滝白山神社に合祀された天神堂では毎年二月二十五日に男の子の成長と学問の向上を願う『天神祭り』が長滝地区の氏子衆によって催される。祭りの前日、男の子たちは長滝の家々を回り、供物としての提供された餅米で餅をつき、菅原道真の歌「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて 春な忘れそ」、「ひさかたの月の桂も祈るばかり家の風をも吹かせてしがな」を半紙に毛筆で清書する。祭り当日、男の子たちは清書した歌と餅を天神様に供え、長滝白山神社の宮司の祝詞を受ける。その後、両親や一般の人々も参加し、雪を積み重ねた高台から男の子による餅撒きが行われ、祭りは終了する。清書された歌と餅は長滝地区の全戸に配布され、居間や子供部屋に供えられる。
天神祭り
雪かき等の会場設営は長滝地区の人々が行う。
宮司の祝詞 もちまき
白山中居神社の例祭と『五段の神楽』
白山中居神社では五月十五日に神迎え祭りの春季例祭が行われ、神事芸能の『五段の神楽』が神事終了後に奉納される。「五段の神楽」は巫女姿の姉と妹の二人が鈴を振り、扇、弊束をかざしながら笛、鼓、大小の太鼓、雅楽に合わせ、静かな足取りで舞いを舞う。
演目は<とびの舞>、<二人舞>、<扇の舞>、<鈴の舞>、<弊の舞>があり、最後に姉妹は神前に置かれた小机の前に坐り白山神に二拝して舞を終える。
その後、境内の磐境前で神事が行われ、御旅所(おたびしょ)までの「神輿渡御」が始まる。御旅所では地元の婦人会によって『石徹白の民踊り』も披露される。(市指定重要無形民俗文化財)
五段の神楽
神輿渡御の風景
〇『白鳥踊り』と『拝殿踊り』
白鳥町一円の集落の盆踊りは享保八年(1723)以前から神社拝殿で行われていた。拝殿での踊り曲は石徹白の白山への祈祷に起源を持つ<場所踊り>であった。踊りの形態は天井から吊られた悪霊封じのキリコ灯籠の下、音頭取りの音頭に合わせて両手を後ろに汲み、手足を前後左右にゆっくりと移動させ、下駄の音でリズムを取りながら踊る単純な所作の輪踊りである。
踊りは享保八年の奉行所の停止命令、明治政府の禁止令、大正、昭和の度重なる戦争、自然災害にも途絶えることなく集落の神社拝殿で踊り続けられてきた。
第二次大戦後、踊りの場所は拝殿から市街へと移り、その形態も屋形から流れる音頭取りの音頭と太鼓、三味線、笛の伴奏に合わせて白山麓の民謡を軽快なテンポで踊る『白鳥踊り』へと変容している。
これによって囃子なしの『拝殿踊り』は衰退し、<場所踊り>はほとんど踊られなくなった。
一部の踊り好きによって各集落の神社拝殿で細々と踊られていた。平成八年『白鳥の拝殿踊り』として白鳥町重要無形民俗文化財に指定されてから注目されるようになった。今日では『白鳥踊り』の期間中、長滝、前谷、白鳥、野添の集落の白山神社拝殿などで古態のままの<場所踊り>を含め、<さのさ>、<よいとそりゃ>、<チョイナチョイナ>や忘れ去られた曲、廃絶した曲が即興で踊られる。<場所踊り>の神さびた所作は白山への祈祷芸の面影を今日に伝えている。
『白鳥踊り』
軽快な踊り曲<神代>が若者に好まれる。踊り場を変え二十一夜にわたって踊られる。
『拝殿踊り』
静寂な夜の境内に踊りの別世界が形成される。(国選択無形民俗文化財)
長滝白山神社 白鳥神社
野添・貴船神社 野添・貴船神社
中津屋(なかつや)地区の『嘉喜(かき)踊り』
郡上市一円の集落では九月から十月にかけて氏神の白山神等に五穀豊穣、村民快楽を祈願し、感謝する神事芸能の『かき踊り』が奉納されてきた。
近年、集落の少子化、高齢化の影響もあり、郡上一円の『かき踊り』は姿を消しつつあり、白鳥町では今日では中津屋地区のみとなり、数年に一度、『大神楽』と併せて氏神の白山神社と八幡神社で奉納される。八十名余りの役者と輪の中央に配された三人の「拍子打」が踊る色彩感溢れる輪踊りである。
踊りは「東西よばり」役の「東西しずまれおしずまれ」の一声で始まり、「歌おろし」役が氏神の白山神社を鑽仰し、宮の造り、周囲の四季の景観、農事の様子を愛でる詩章を交代で歌い、その音頭に合わせ「拍子打ち」が太鼓を打ちながら軽快に踊る。他の大勢の役者は「ヤッコリャコリャ、ドッコイサ ドッコイサ」と囃しながら足を前後させ、両足を揃えて手拍子を打つ所作を繰り返す。
<本踊り>、<十禅寺踊り>と進み、<返し踊り>に入ると「拍子打」は身をかがめ背中のシナイで境内を掃く真似する。ここが『嘉喜踊り』の見せ場となり多くの観客から歓声があがる。(県指定無形民俗文化財)
中津屋地区の白山神社
養老年間、泰澄が創建したと伝えられる。かつては「東永山十禅寺」と称されていた。
白山神社の『嘉喜踊り』
中津屋地区には白山神社、八幡神社の二つの氏神が祀られている。『嘉喜踊り』は両神社で奉納される。
第4章 世界遺産
「人類共通の財産」世界遺産
世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき「世界遺産リスト」に記載された、「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことです。 「顕著な普遍的価値」は、どの国や地域の人でも、いつの時代のどの世代の人でも、どのような信仰や価値観をもつ人でも、同じように素晴らしいと感じる価値のことで、そうした価値をもつ世界遺産は、人類共通の財産といえます。
世界遺産の分類と数
世界遺産は、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類されます。文化遺産が最も多く、世界遺産の総数は1,000件を超えます。
世界遺産委員会
世界遺産リストに記載する遺産は、1年に一度開催される世界遺産委員会で審議され、登録の可否が決定します。世界遺産委員会では「登録」、「情報照会」、「登録延期」、「不登録」の4段階の決議を行います。
21の委員国からなる世界遺産委員会では、他にも、世界遺産条約を運用していく諸事項や、世界遺産基金の使い道の決定、世界遺産の保全状況の確認、危機遺産リストへの記載の可否など様々な話し合いを行っています。
日本と世界遺産
世界遺産条約が採択されたユネスコ総会の議長は、萩原徹日本政府代表が務めました。しかし、日本が世界遺産条約に参加したのは条約採択から20年後の1992年のことです。 1993年、「法隆寺地域の仏教建造物群」、「姫路城」、「白神山地」、「屋久島」の4件が日本で最初の世界遺産として登録されました。世界遺産保全への協力や、「真正性」などの価値の見直しに日本は重要な役割を担っています。
危機遺産
世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が危機に直面している遺産は、「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に記載され、世界遺産条約加盟国の協力を得ながら、危機を取り除く努力がなされます。 世界遺産の危機としては、戦争や紛争による遺産破壊、密猟や不法伐採などの自然破壊、地震などの自然災害、過度の観光地化や都市開発などが考えられます。危機を取り除くために「世界遺産基金」なども使われます。
世界遺産リストからの削除
世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が失われたと判断された場合は、世界遺産リストから削除されることもあります。これまでに、オマーンの「アラビアオリックスの保護地区」とドイツの「ドレスデン・エルベ渓谷」が削除されました。
【世界遺産に登録されるまでの流れ】
1.各国政府が世界遺産条約を締結・批准
2.各国が作成した暫定リストから推薦書を提出
3.ユネスコの世界遺産センターは推薦書を受理し専門調査を依頼
4.文化遺産…ICOMOSが現地調査などを行う
自然遺産…IUCNが現地調査などを行う
5.ユネスコの世界遺産センターを通して専門調査に基づく勧告
6.世界遺産委員会にて審議・決議
世界遺産登録が決定
登録基準所為解散に登録される為には、「世界遺産条約履行のための作業指針」で示されている登録基準、いずれか1つ以上合致するとともに、真実性(オーセンティシティ)や完全性(インテグリティ)の条件満たし、締約国の国内法によって適切な保護管理体制が取られていることが必要。
(i)人間の創造的才能を表す傑作である。
(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(v)あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)
(vi顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
(vii)最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
(viii)生命進化の記録や、地形形成における重要な進行中の地質学的過程、あるいは重要な地形学的又は自然地理学的特徴といった、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な見本である。
(ix)陸上・淡水域・沿岸・海洋の生態系や動植物群集の進化、発展において、重要な進行中の生態学的過程又は生物学的過程を代表する顕著な見本である。
(x)学術上又は保全上顕著な普遍的価値を有する絶滅のおそれのある種の生息地など、生物多様性の生息域内保全にとって最も重要な自然の生息地を包含する。
(3)世界遺産とは
さまざまな国や地域の人たちが誇る文化財や自然環境などが、ユネスコの世界遺産として登録されています。
世界遺産には次の3種類があり、有形の不動産が対象となっています。世界遺産の登録件数は1052件(2016年7月現在)です。
・文化遺産 顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など
・自然遺産 顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域
・複合遺産 文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産
(4)日本の世界遺産(20件)
・文化遺産(16件)
1 法隆寺地域の仏教建造物 (平成5年記載)
2 姫路城 (平成5年記載)
3 古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市) (平成6年記載)
4 白川郷・五箇山の合掌造り集落 (平成7年記載)
5 原爆ドーム (平成8年記載)
6 厳島神社 (平成8年記載)
7 古都奈良の文化財 (平成10年記載)
8 日光の社寺 (平成11年記載)
9 琉球王国のグスク及び関連資産群 (平成12年記載)
10 紀伊山地の霊場と参詣道 (平成16年記載)
11 石見銀山とその文化的景観 (平成19年記載)
12 平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群 (平成23年記載)
13 富士山―信仰の対象と芸術の源泉 (平成25年記載)
14 富岡製糸場と絹産業遺産群 (平成26年記載)
15 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業 (平成27年記載)
16 ル・コルビュジエの建築作品 近代建築運動への顕著な貢献 (平成28年記載)
・自然遺産(3件)
1 屋久島 (平成5年記載)
2 白神山地 (平成5年記載)
3 知床 (平成17年記載)
4 小笠原諸島 (平成23年記載)
・複合遺産(0件)
第5章 「霊峰白山と山麓の文化的景観」の世界文化遺産登録をめざして
「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」
大野市では、平成19年12月20日に、白山麓の文化遺産群を関係自治体とともに「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」というテーマで、世界文化遺産候補として文化庁に提案しました。
今回の提案は2回目となります。第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に福井県、石川県、岐阜県の3県と、勝山市、白山市、郡上市の3市が共同で行いました。平成19年1月にその審査結果が発表され、提案に対する課題が示され、継続審査となりました。
今回の提案では、文化庁から指摘を受けた課題を修正するとともに、大野市のほか、新たに小松市、高山市、白川村が加わり、共同提案しております。
【主な遺産群】
白山(標高2,702m、ユネスコの生物圏保存地区、高山植物の宝庫、山頂の遺跡群)
信仰の拠点三馬場(勝山市:平泉寺、白山市:白山本宮、郡上市:長滝寺)
禅定道(白山と三馬場を結ぶ参詣道、美濃禅定道が大野市上打波を通過)など
世界遺産とは
さまざまな国や地域の人たちが誇る文化財や自然環境などが、ユネスコの世界遺産として登録されています。
世界遺産には次の3種類があり、有形の不動産が対象となっています。世界遺産の登録件数は1052件(2016年7月現在)です。
・文化遺産 顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など
・自然遺産 顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域
・複合遺産 文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産
日本の世界遺産(20件)
・文化遺産(16件)
1 法隆寺地域の仏教建造物 (平成5年記載)
2 姫路城 (平成5年記載)
3 古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市) (平成6年記載)
4 白川郷・五箇山の合掌造り集落 (平成7年記載)
5 原爆ドーム (平成8年記載)
6 厳島神社 (平成8年記載)
7 古都奈良の文化財 (平成10年記載)
8 日光の社寺 (平成11年記載)
9 琉球王国のグスク及び関連資産群 (平成12年記載)
10 紀伊山地の霊場と参詣道 (平成16年記載)
11 石見銀山とその文化的景観 (平成19年記載)
12 平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群 (平成23年記載)
13 富士山―信仰の対象と芸術の源泉 (平成25年記載)
14 富岡製糸場と絹産業遺産群 (平成26年記載)
15 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業 (平成27年記載)
16 ル・コルビュジエの建築作品 近代建築運動への顕著な貢献 (平成28年記載)
・自然遺産(3件)
1 屋久島 (平成5年記載)
2 白神山地 (平成5年記載)
3 知床 (平成17年記載)
4 小笠原諸島 (平成23年記載)
・複合遺産(0件)
(2007(平成19)年12月提出)
表紙・目次
(1)提案のコンセプト
1 資産名称・概要
2 写真
3 構成資産の位置図
(2)資産に含まれる文化財
1 整理表
構成資産
参考資産
2 構成資産の位置と写真
A 自然
B 山麓の人々のくらし
C 白山の信仰
参考資産
(3)保存管理計画、又は策定に向けての検討状況
1 個別構成要素に係る保存計画の概要又は策定に向けての検討状況
2 資産全体の包括的な保存管理計画の概要、又は策定に向けての検討状況
3 資産と一体をなす周辺環境の範囲、それに係る保全措置の概要又は措置に関する検討状況
(4)世界遺産の登録基準への該当性
世界遺産の登録基準への該当性
勝山市では、平成19年12月20日に、市内にある国史跡白山平泉寺旧境内を含む白山麓の文化遺産群を「霊峰白山と山麓の文化的景観」というテーマで、関係自治体とともに世界文化遺産候補として文化庁に再提案しました。
今回の提案は2回目となりますが、第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に福井県、石川県、岐阜県の3県と、勝山市、白山市、郡上市の3市が共同で行いました。その審査結果の発表は、昨年の1月にあり、「白山」の提案は、他の提案19件とともに継続審査となっていました。
今回の再提案では、文化庁からの指摘事項を修正して提出しています。もっとも大きな修正点は、共同提案した自治体が増えたことです。今回の提案では、新たに大野市、小松市、高山市、白川村の3市1村が加わり、霊峰白山を取り巻く自治体の共同提案が実現しました。
霊峰白山は秀麗な山容で知られ、古くから多くの人々の信仰をあつめてきました。その信仰の拠点は三馬場(さんばんば)と呼ばれ、福井県では勝山市の平泉寺(現在は平泉寺白山神社)、石川県では白山市の白山本宮(現在は白山比め神社)、岐阜県では郡上市の長滝寺(現在は白山長滝神社)をさします。特に勝山市の平泉寺では、“石造りの中世宗教都市”とも言える貴重な遺構が数多く見つかっています。
霊峰白山とその信仰の拠点“三馬場”、両者をつなぐ禅定道(ぜんじょうどう)、さらにその周辺には、信仰に関わる貴重な遺跡が数多く残されています。また、標高500m以上の白山山麓一帯には、豪雪地帯特有の歴史的な建物群が多く残り、日本を代表する貴重な遺産群となっています。
こういった白山と山麓の貴重な文化遺産を世界遺産として守り伝えていくために、今回の提案となりました。
主な遺産群
白山(標高2,702m、ユネスコの生物圏保存地区、高山植物の宝庫、山頂の遺跡群)
信仰の拠点三馬場(勝山市:平泉寺、白山市:白山本宮、郡上市:長滝寺)
禅定道(白山と三馬場を結ぶ参詣道)
白山麓の豪雪地帯にある伝統的な建物群(白山市白峰地区、郡上市石徹白地区)など
- 表紙 (5.5 KB)4265
- 提案のコンセプト (1.2 MB)4266
- 資産に含まれる文化財 (1.8 MB)4267
- 保存管理計画 (706.5 KB)4268
- 世界遺産の登録基準への該当性 (14.7 KB)4269
第6章 世界遺産登録への課題
(4)世界遺産の登録基準への該当性
① 遺産の適用種別及び世界文化遺産の登録基準
・遺産の適用種別:記念物、建造物群及び遺跡(文化的景観を含む)
・登録基準:(ⅲ)、(ⅳ)、(ⅴ)、(ⅵ)
(ⅲ)白山麓の焼畑は世界の雑穀栽培の焼畑地帯の北限に位置する。ここでは、東南アジアの山の神に祈る火入れ儀礼を行う南方系文化とシベリア等の北方系文化が交流し、アフリカ原産のシコクビエやスウェーデンカブ等の南北の作物が栽培されている。しかも世界有数の豪雪山岳地帯にあるという点から特異な地域とされ、アジアの山村における焼畑の文化的伝統を伝承する無二の存在である。また、石徹白は白山信仰を全国に広めた御師集落で、今も石畳や道標がかつての美濃禅定道の面影を残すとともに、民家には仏間とは別に立派な「ハクサンノマ」がみられるなど、御師の伝統と習俗を色濃く残し、文化的伝統を継承する稀有な存在である。
一方、白山山頂には平安時代に日本で独自に形成された修験道に関する日本最高所の遺跡が良好に遺存するとともに、越前馬場の平泉寺では日本最大ともいえる中世宗教都市の遺構が確認されており、これら遺跡群は日本の宗教の歴史と伝統を語る希有なものである。
(ⅳ)白峰には平野部より早く、商品経済や分業化が進展し、周辺の山麓に営まれた多数の出作り民家と生産物と生活物資との取引を行う商家や山麓の支配を担った大庄屋格の豪家が残り、それが奥深い谷間の河岸段丘上に高層の大壁造りの伝統的建築物群を形成している。これは近世日本の山間集落の伝統的建築物群を代表するものである。また、白山麓は茅葺きのネブキと呼ばれる平屋建ての木造建築物から屋根が茅から板、瓦葺き、壁が茅から板、土壁へと変化した様々な建築物が存在する地域であり、建築学的に貴重である。
(ⅴ)日本の焼畑はその存続が危ぶまれながらも、白山麓では今も続けられており、その焼畑は火入れ後施肥もせず農耕した後、長い間休閑させており、その土地の条件に適応した利用形態で、日本の豪雪山岳地帯の土地利用形態を代表するものである。
また、白峰の大きな大壁造りの伝統的建造物群は、土地を高密度に利用するため高層化されたものであり、日本の山間集落の土地利用形態を代表するものである。さらに、白山とその山麓には信仰の対象として巨樹や岩がみられ、自然環境への負荷を最小限に抑えた焼畑農耕体系などとあわせて、人と環境とのふれあいを示す顕著な例である。
(ⅵ)山頂と禅定道筋の積石塚などの個々の記念工作物及び遺跡は、神祇信仰及び仏教、その融合の過程で生まれた修験道などの独特の信仰形態の特質を表す顕著な事例である。また、鳥越城跡は世界史的に希有な事例とされる、真宗信仰を基盤に百年間にわたり続いた、地域自治の加賀一向一揆の最後の砦の遺構である。中・近世から継続的に行われている能楽の源流である「長滝の延年」(延年の舞)などの祝祭や「でくまわし」などは、文化的景観を構成する優秀なものである。さらに、『古今和歌集』や『枕草子』をはじめ日本を代表する多くの文学作品にも登場している。
② 真実性/完全性の証明
構成資産のうち国指定文化財については、すでにその価値の真実性は示されており、指定されて以後、所有者はじめ地方公共団体などにより適切に維持されている。また県・市の指定文化財については、詳細調査を実施し、国指定を目指すとともに、その適切な保存に努める。国・県・市の指定を受けていない文化財については、個々の調査により完全性を確認しているが、さらに詳細調査を実施し、国等の文化財の指定、選定を受けることにより保護し、資産全体の完全性を担保する。
③ 類似資産との比較
紀伊山地の霊場と参詣道は、仏教的世界の浄土と関連づけて重要視された過程を示す遺産であり、富士山は古来から人々に神聖さと崇高で壮大な美を感じさせる遺産である。また、泰山や廬山国立公園(中国)などは、山岳信仰に関する遺産である。これに対して今回の再提案は、世界有数の豪雪山岳地帯の中で、白山の信仰を基盤として形成された特有の生業景観が、人間と自然との共生を顕著に表していることを示すものである。
白川郷・五箇山の合掌造り集落は庄川流域の集落であり、構造や内部の利用形態等において貴重な木造建築物である。また、ホローケーの古集落(ハンガリー)などは山岳地帯の伝統的集落景観である。一方、今回の再提案は白山信仰を基盤に禅定道筋の山麓に形成された、特有な生業景観である。
①遺産の適用種別及び世界文化遺産の登録基準
・遺産の適用種別:記念物、建造物群及び遺跡(文化的景観を含む)
・登録基準:(ⅲ)(ⅴ)、(ⅵ)に該当
(ⅲ)越前馬場の平泉寺では日本最大ともいえる中世宗教都市の遺構が確認されているほか、各社寺の境内や禅定道沿いに点在する社堂跡などには今は失われた建造物や宗教儀礼に関する豊富な考古学的遺跡が地下に埋蔵されている。この遺跡群は宗教文化に
関連して、今は失われた文化的伝統の存在を示す希な事例である。
(ⅴ)白山麓には、大壁造りの伝統的建造物群や仏間とは別に「ハクサンノマ」をもつ石徹白御師集落などあるが、これらはいずれも白山を背景として、世界屈指の豪雪地帯の人々の暮らし、信仰、家族形態、養蚕等の生産体制を反映した伝統的居住形態であり、このような悪条件に適応した居住形態のあり方として、希有な事例といえる。また、出作り小屋など焼畑農業・養蚕に関する文化遺産は、白山麓の土地に適応した土地利用の顕著な見本であるといえる。
(ⅵ)資産を構成する個々の記念工作物及び遺跡は、神道及び仏教、その融合の過程、あるいは分離の過程で生まれた修験道などの独特の信仰形態の特質を表す顕著な事例である。このような神聖性の高い自然物又は自然の地域において、中・近世から継続的に行われている能の流である「長滝の延年」(延年の舞)などの祝祭や木偶まわしなどは文化的景観を構成する有形・無形の諸要素として優秀なものである。また、『枕草子』をはじめ日本を代表する多くの文学作品にも登場している。
②真実性の証明―完全性の証明
構成資産のうち国指定文化財については、すでにその価値の真実性は示されており、指定されて以後、所有者をはじめ地方公共団体などにより適切に維持されている。また、県・市の指定文化財については、詳細調査を実施し、国指定を目指すとともに、その適切な保存に努める。国・県・市の指定を受けていない文化財については、個々の調査により完全性を確認しているが、さらに詳細調査を実施し、国等の文化財の指定、選定を受けることにより保護し、資産全体の完全性を担保する。
③類似資産との比較
紀伊山地の霊場と参詣道はこの地方の神聖性が仏教国である浄土と関連づけて重要視された過程を示す遺産であり、普遍的な価値を人々の心の癒しとしているのに対して、白山は白山信仰が日本の神仏習合の先駆けをなした点が際立っている。眺めるという行為を「遙拝」という宗教的な営みに変えたところに白山の眺望文化の深さがある。また、世界有数の豪雪地帯という厳しい自然環境に耐えた山麓の人々を支えた白山信仰の強さである。これを背景とした白山信仰の関連遺産群をはじめ伝統的居住形態や文化的景観が顕著な普遍的価値を有する。
今回提案された富士山は、顕著で普遍的な価値が古来から人々がその神聖さと崇高で畏敬の念を起こさせる壮大な美を感じ、様々な価値を見出してきたことにあるとしている。また、出羽三山は、出羽三山への人々の信仰や米、紅花が最上川を通って運ばれた文化などによって形づくられた文化的景観を提案する方向で検討中との発表がなされている。よって、白山とはコンセプトが異なる。
第7章 結 言
秀麗な山容の白山は日本列島のほぼ中央部に位置し、世界有数の豪雪山岳地帯である。ここから日本海と太平洋に流れでる手取川、九頭竜川、長良川及び庄川の四つの河川は、日本列島を横断して長い流域を潤し、山麓や平野部の人々の暮らしを支えている。
白山には修験道が盛んになるに伴い数多くの修験者が訪れるようになり、山麓一帯が禅定道(登山道)を基軸に互いに結ばれた。加賀、越前、美濃の三馬場(宗教拠点)と禅定道筋にはそれぞれ寺社や集落が形成され、人、物、情報などが行き交い、山村特有の生活文化が培われ
た。また白山信仰は、三馬場を基点に全国に広まった。
このように厳しくも豊かな自然環境の中でたくましく生き続けてきた、白山をめぐる生業と生活と信仰を表す風景が、希有な形で承継されている。これは日本の山麓の暮らしと信仰を代表する文化的景観であり、人間と自然との共生を示すものである。
白山(標高2,702 メートル)は10 メートルを超える積雪があり、高山植物の宝庫で、雪解けの頃、花が一斉に咲き誇る光景は壮観である。またブナなどの巨樹、巨木が繁茂し、植生が非常に豊富で、カモシカをはじめ熊、イヌワシなどの多彩な動物や鳥類が生息することから、ユネスコの生物圏保存地域に指定されている。
白山信仰の歴史は、奈良時代に「越の大徳」とも呼ばれた泰澄が、養老元(717)年に登頂したことに始まるとされる。やがて平安時代になると、自然崇拝の山から神仏習合に彩られた観音の聖地と仰がれ、「越の白山」とも讃えられて、都びとの憧憬の対象とされた。日本で独自に形成された修験道の山岳修行の場であり、古代の山頂遺跡や経塚は日本最高所のものである。さらに白山は日本人の宗教観にも通じる擬死再生の山とされ、神聖な山とされるヒマラヤなど世界の白い山との共通性がある。また、水の神、農耕の神、漁業の神、オシラサマ(養蚕)などの生業の神としても広く信仰を集めてきた。
平安時代末期以来、登山口にある集落では、信仰の道と生業とが一体となり、登拝者の案内や宿坊を営み、護符を配布するとともに、木材、養蚕、鉱物採掘、温泉など、豊かな山の恵みを受けて人々が暮らしてきた。石徹白は薬草などを持ち白山信仰を広めた御師の集落であり、石畳や道標がかつての美濃禅定道の面影を残す。真壁造りの民家には、仏間とは別に立派な「ハクサンノマ」が見られ、白山中居神社では五段の神楽が行われるなど、御師の伝統と習俗を色濃く残している。白峰は谷間の河岸段丘上に位置した大集落であり、牛首紬などの機織りなども盛んで、土地利用の高密度化や高層化が進み、防寒を考慮した大壁造りの町並みを形成している。かつて山麓の村々を統轄した大庄屋や生活物資を商う豪家の機能を有した巨大な大壁造りの建築物が見られる。これは日本の山間集落における自然環境に適応した木造建築物の到達点であり、集落の規模や賑わいの面でも日本有数である。白峰では今でも白山を開いた泰澄を讃えてカンコ踊りなどが行われている。
白山麓には自然地形に制約されて水田のない景観が広がり、室町時代以降、母村の白峰から奥深く高地へ入り込み、山の斜面を利用して出作り・焼畑が盛んに行われてきた。そこでは東南アジアの山の神に祈る火入れ儀礼がみられ、アフリカ原産のシコクビエやスウェーデンカブ等の南北の作物が栽培されている。また、農作業は労働集約的に最も丁寧に行われる点に大きな特色があり、気象条件等に適合したもので、豪雪山岳地帯の焼畑として、世界でも希有な存在である。越前の白山平泉寺旧境内には日本最大の中世宗教都市遺構が発掘されたが、これは白山信仰の盛行を象徴するものである。
戦国時代以降、白山麓にも白山神の本地仏である阿弥陀仏への信仰が媒介となって急速に真宗が浸透し、世界史上希有な事例とされる、真宗信仰を基盤に百年間にわたり地域自治を続けた、加賀一向一揆の最後の砦である鳥越城跡などがある。今も山麓では真宗道場を中心とする信仰生活が営まれ、濃密な真宗地帯となっている。
建築物の面では、大壁造りや真壁造り、合掌造りと様々な伝統的建築物が見られ、民俗芸能の面でも、能楽の源流である長滝白山神社の「延年の舞」、人形浄瑠璃の古い形態を伝える「でくまわし」などが、山村の暮らしの中で演じられ、季節ごとの様々な芸能文化を承け継いできた。これらは古くから盛んに人々の交流があった証であり、白山麓の自然と生業と信仰が織りなす、希有な文化的景観である。
本研究では、白山文化遺産のデジタルアーカイブを進め、白山文化遺産を世界遺産に登録できるような条件を検討し、その課題を明らかにすることを目的としている。
今まで、勝山市を中心に世界遺産に申請してきたが、様々な課題があり申請が通らなかった。次にその課題について整理する。
(1)白山山頂には平安時代に日本で独自に形成された修験道に関する日本最高所の遺跡が良好に遺存するとともに、越前馬場の平泉寺では日本最大ともいえる中世宗教都市の遺構が確認されており、これら遺跡群は日本の宗教の歴史と伝統を語る希有なものであるが、その保全については各県や街頭市町村で温度差があり、必ずしも保全が充分といえない現状がある。
(2)今回の再提案では、文化庁からの指摘事項を修正して提出している。もっとも大きな修正点は、共同提案した自治体が増えたことである。今回の提案では、新たに大野市、小松市、高山市、白川村の3市1村が加わり、霊峰白山を取り巻く自治体の共同提案が実現した。しかし、自治体として県やその他の関係する自治体並びに大学が結束して申請する必要があり、一部の自治体の主導で行っていたことである。
(3)地域文化遺産のデジタルアーカイブを進めることにより、これらの文化遺産についての文化遺伝子(ミーム)と言えるものを抽出し、学術的に検証する必要がある。このように、学術的な検証を踏まえたのち文化遺産を保全活用することが必要である。
参考文献
(1)白山山麓 石徹白郷シリーズ⑬
いとしろ白山御師資料集
平成29年編集 上村俊邦氏編集
(2)郡上学
白山信仰と白山文化
平成23年郡上市発行
(3)白山文化手帖~白山文化とは何か~
岐阜県博物館協会発行
(4)岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブ/石徹白
石徹白 | 地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成のための基盤整備事業 (digitalarchiveproject.jp)
謝 辞
本論文の作成にあたり、多くの方々にご指導ご鞭撻を賜りましたこと、心より感謝申し上げます。また、 ご指導いただきました主査の文化創造学部久世均教授には終始適切なご指導を賜りました。ここに深謝の意を表します。
論文資料
1.卒論要旨
2.世界遺産としての白山文化遺産の研究