【講義】実践研究Ⅱ (2023年度)
Ⅰ はじめに
デジタルアーカイブは,さまざまな分野で必要とされる資料を記録・保存・発信・評価する重要なプロセスである.このデジタルアーカイブは,わが国の知識基盤社会を支えるものであり,デジタルアーカイブ学会でも,デジタルアーカイブ立国に向けて「デジタルアーカイブ基盤基本法(仮称)」などの法整備への政策提言を積極的に行っている.
今後,知識基盤社会おいてデジタルアーカイブについて責任をもって実践できる専門職であるデジタルアーキビストが必要とされている.ここでは,デジタルアーキビストの学術的な基礎として,地域資源デジタルアーカイブに関する手法やデジタルアーカイブの課題を実践的に学ぶ.
Ⅱ 授業の目的・ねらい
・この授業は講座とスクーリングに分かれて学修する。スクーリングは、実践的にデジタルアーカイブし記録管理を体験することになる。
・事前課題と事後課題が設定されており,個別で学修する場合にも,集団で学修する場合においても学修を深めるために主体的に研究課題を考えることが重要である.
Ⅲ 授業の教育目標
本科目は講座とスクーリングにより構成されている。講座では、各地域の問題意識や課題を明確にし、デジタルアーカイブを計画する。また、実際にスクーリングでは研究計画を立て、調査をし、デジタルアーカイブする、その後記録したデータを管理し、公開するまでを学ぶ。
【事前課題】 各地域の問題意識や課題を明確にし、デジタルアーカイブを計画する
1.何を学ぶか
地域の関心領域における問題意識、課題などを取り上げ、明確化し、デジタルアーカイブの計画を立てる。明確化する過程で、参考文献を読み、地域に関する一定程度の知識を獲得しておく。
2.学習到達目標
① 地域における問題意識や課題を明確化する。
② 地域における問題意識や課題をもとに「デジタルアーカイブ」を計画する。
3.研究課題
下記の①と②のいずれかを選んで提出する。
① 飛騨高山匠の技文化遺産デジタルアーカイブの計画を提出する
(例) 吉島家・日下部家デジタルアーカイブ
② 沖縄文化遺産デジタルアーカイブの計画を提出する。
(例) 首里城のデジタルアーカイブ
また、現地実践演習については、上記課題の内容のいずれかを選んで受講すること。
(前期)【現地実践演習】 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブの実施
1.何を学ぶか
【事前課題】で行った地域の問題意識や課題の明確化し、課題解決にふさわしい場所を選択する。
【現地実践演習】については、スクーリングで行う。
スクーリングでは、【事前課題】で計画した場所のデジタルアーカイブを実施する。
2.学習到達目標
デジタルアーカイブの手法を具体的に実施し、Webで公開する手法を学ぶ。
3.プログラム
授 業:「実践研究Ⅱ」(2単位)
日 程:令和5年 8月12日(土)~13日(日)
会 場:高山地区並びに飛騨・世界生活文化センター
日 程: 12日(土) 13:30 会場の1階 ウェルカムロビー集合
会 場:飛騨・世界生活文化センター
飛騨・世界生活文化センターには、”さるぼぼバス”が便利です。
(13:00発 高山濃飛バスセンター 13:18着)
14:00~15:00(会議室)
講 演:飛騨高山匠の技とデジタルアーカイブについて
田中彰先生(高山市史編纂専門員・高山歴史研究会会長)
15:00~16:30(飛騨ミュージアム)
飛騨高山匠の技に関する解説と見学
解説:一般財団法人飛騨高山大学連携センター
13日(日)10:00~14:00
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブ実践実習(各自)
※各自で事前課題で予定を立てていただいた行程に基づいてデジタルアーカイブしてください。
飛騨高山匠の技デジタルアーカイブを作成して事後レポートとして提出していただきます。
13:30 村半(高山市下二ノ町6 TEL 0577-70-8753) 集合
日程表
実践研究Ⅱ(高山編)
4.資 料
1.映像資料
※飛騨高山匠の技とこころについて、歴史から説明しています。
(後期)【現地実践演習】 沖縄文化遺産デジタルアーカイブの実施
1.何を学ぶか
【事前課題】で行った地域の問題意識や課題の明確化し、課題解決にふさわしい場所を選択する。
【現地実践演習】については、スクーリングで行う。スクーリングでは、【事前課題】で計画した場所のデジタルアーカイブを実施する。
2.学習到達目標
デジタルアーカイブの手法を具体的に実施し、Webで公開する手法を学ぶ。
3.プログラム
授 業:「実践研究Ⅱ」(2単位)
日 程:令和6年 1月13日(土)~14日(日)
会 場:沖縄地区並びに岐阜女子大学沖縄サテライト校
日 程:
13日(土)13:00~17:00
講 演:【沖縄の文化】(仮題)
(沖縄女子短期大学 2F )
12:30 集合
12:50-13:10
□ ガイダンス
13:10-14:40
□ 鎌倉芳太郎の琉球文化研究
(講師)波照間 永吉氏(名桜大学教授)
1950年石垣島生まれ。琉球文学・民俗文化研究者。
琉球大学卒業後、1995年法政大学大学院 人文科学研究科 日本文学専攻博士課程にて博士学位取得。沖縄県立芸術大学教授・付属研究所所長を経て、県立芸大名誉教授。
現在は名桜大学・大学院教授。
主な著書に『南島祭祀歌謡の研究』、共編著書に『沖縄古語大辞典』、『定本 琉球国由来記』、『定本 おもろさうし』、『新編 沖縄の文学』など、他多数あります。
2005年には『鎌倉芳太郎資料集(ノート篇)第1巻(美術・工芸)』(沖縄県立芸術大学附属研究所)、翌2006年には『鎌倉芳太郎資料集(ノート篇)第2巻(民俗・宗教)』(沖縄県立芸術大学附属研究所)を出版されました。また、2007年には『琉球の歴史と文化』を編集されています。
考古学、歴史学、民俗学、言語学など、様々な角度から「沖縄学」を研究されていらっしゃいます。
また、昨年末、2023年度【第51回伊波普猷賞】は、波照間先生の『琉球文学大系1・2おもろさうし上・下』(ゆまに書房)に決定しました。同賞は沖縄学の父といわれる伊波普猷の業績を顕彰し、伊波に続く郷土の文化振興と学術の発展に寄与する研究や著書に贈られます。来月2月に贈呈式・祝賀会が開催されます。
1.映像資料
2.プレゼン資料
3.講演内容
鎌倉(かまくら)芳太郎(よしたろう)の琉球文化研究
波照間(はてるま) 永吉(えいきち)先生
沖縄県立芸術大学名誉教授・名桜大学大学院特任教授
日時:2024年1月13日
会場:岐阜女子大学 沖縄サテライト校
【波照間先生】
ハイサイ グスーヨー チューウガナビラ
ワンネー ハテルマエイキチ ンディイィルムヌナトーイビーン
ユタサルグトゥ ウニゲーサビラ
これが沖縄の言葉で、ご挨拶申し上げましたけれども。今日のお話とちょっと関わりがあるものですから、皆さんにはちょっとわかりにくい言葉で挨拶申し上げました。「みなさんこんにちは。波照間永吉という者でございます。どうぞよろしくお願いいたします」という意味の言葉でございます。
これがいわゆる琉球語。琉球語といっても、沖縄本島中南部の言葉ですね。琉球語というのは、皆さん、本土から来られたということですので、ちょっとだけお話いたしますと、北は奄美、奄美大島、喜界島から下ってきて、徳之島までを「奄美(あまみ)語(ご)」といいます。そして沖永良部、与論、沖縄本島の北部地区、ここまでを「国頭(くにがみ)語(ご)」といっているんですね。そして、沖縄本島の中南部および周辺の離島をひっくるめた地域の言葉を「沖縄(おきなわ)語(ご)」、そして宮古島を筆頭とした、主なる島とした周辺の島々を含めて「宮古(みやこ)語(ご)」と言っています。そして、さらに南の方に下って石垣島。皆さんもよく、ご存じの竹富島や西表島がある。これらの島々を、島々の言葉を与那国語といいます。ああ、「八重山(やえやま)語(ご)」と言います。そして、一番西の方、台湾に近いところにあるちっちゃな島がありますが、そこの言葉を「与那国(よなぐに)語(ご)」と言っているんですね。
このような6つの言葉があるんですが、これらはいずれもユネスコ(UNESCO)の言うところの消滅の危機に瀕した言語。もうこのままでいきますと、いわゆるメインランドである「日本語」、「本土語」によって、これらの島々、奄美から与那国島の言葉はなくなっていくということで、消滅の危機に瀕した言語、一般に「危機言語」と言われているものです。
今、このように奄美から与那国までの話をしましたが、そういったところに鎌倉芳太郎という人は、大正10年にやってきたというわけですね。つまり、日本語のほとんど通じない世界に飛び込んできて、琉球文化の調査研究に従事したんだというふうにお考えいただきたいと思います。
細部については、これからさらにお話をすることになるかと思いますが、この鎌倉芳太郎という先生のお名前、あまり皆さんお聞きになったことないんじゃないかというふうに思いますが、一番簡単に分かりやすい言葉で言うと、人間国宝なんですね。型絵染(かたえぞめ)という、沖縄で言えば紅型(びんがた)という染物がございます。その紅型などのように、型紙によって反物に絵付をしていく。それが型絵染なんですが、鎌倉先生は60代になってそのことをはじめて、工芸、自分の仕事として取り組込んで、60代からですよ。そして人間国宝になった、そういう人物なんですね。ですから、皆さんも、そういった工芸に関心のある方は、鎌倉先生の名前をいずれどこかでお目にすることになるかと思いますが、しかし、これはあくまでも先生60年以降、60代以降の仕事である。
それ以前は何をしていらっしゃったかということになりますが、それ以前は簡単に言えば学者だったんですね。昭和19年まで東京、現在の東京芸術大学に相当する東京美術学校の先生だったんです。彫刻科の先生です。ただ、彫刻の先生として昭和19年まで東京芸大にいるんですが、その以前に沖縄と出会っているわけですね。
この写真〔写真:円覚寺〕。残念ながら、これは現在、沖縄にございません。沖縄のものです。沖縄にありました。首里城のすぐ北側に円覚寺。皆さんも鎌倉円覚寺(えんがくじ)はよく御存じだと思いますが、字は全く同じ様に書きますが、なぜか沖縄では円覚寺(えんかくじ)というように清音で呼んでおります。1500年代の早い時期に創建された琉球国の第二尚(しょう)氏(し)という王様、王代があるんですが、王統があるんですが、その第二尚氏の第3代目の国王の尚(しょう)真(しん)という王様の時代に作られた大きなお寺だったんです。残念ながら戦争で破壊されて、現在はこの建物はない。ただ、皆さんも、この階段だけは見ることができるんです。石の、手前に石の階段が写っていますね。これが現在も残っております。
なぜこれを出したかと申しますと、じつは私が鎌倉芳太郎という名前を知ったのは、この写真によってです。私は1950年の生まれですので、もう当年73になっているんですが。ご存じのように沖縄戦で、沖縄の、とくに首里の文物は全て破壊されたんです。一木一草、みんな真っ白になった。琉球石灰岩が砲弾を浴びて、粉塵となって、真っ白い粉をあびていた。真っ白だったそうです。これは私の先生でありました仲宗根(なかそね)政(せい)善(ぜん)という非常に有名な先生です。言語学者の仲宗根先生が常々話しておられたことです。戦争が終わった6月23日以降のこの首里は、真っ白な町だった。これは琉球石灰岩の粉塵が白いからですね。その沖縄戦の結果、沖縄の文化を代表する首里城も、そして、今ご覧頂いている円覚寺。そして、もちろんこういった建造物のみならず、様々な文化財も破壊されていたわけですね。
で、1950年生まれと申しました。沖縄のいわゆる日本復帰というのは1972年です。ですので、私が成人をして、物心がついて21、2になっている頃に、日本の復帰という、日本への復帰ということが起こってくるわけです。そうしますと、沖縄の人間は非常に複雑な思いになるわけですね。現在も日本と沖縄の関係、その間に構造的差別があると、差別の存在を今なお引きずっている。そういった、いわゆるメインランドである本土の、それこそ、二千年の歴史に比べた時にですね、沖縄はほぼ一千年ぐらいの歴史です。その沖縄の一千年の歴史が太刀打ちできるかどうか、そういったことを若い私達は考えたんです。
結局、この1879年の琉球処分によって琉球王国が解体して、そして沖縄県となった。これからが、いわゆる近代沖縄の出発なんですが、常に日本との日本本土との関係がさまざまな形で、強者対弱者という、簡単にいえば、そういう状況の中でずっと続いてきたのです。それで、1945年の沖縄戦の後に27年間のアメリカ支配があって、そして日本復帰となるわけですけれども。さあ、はたして私達、この当時120万ぐらいですから、人口が127万ぐらい。それだけの沖縄の人間たちが日本に復帰して、その1879年以降、味わった差別と同じような目にまた遭いやしないかとか、そういった非常に不安な思いが私達を覆っていたのです。
もちろん、政治や経済を含めて、もう大変動です。現在、日本の円がアメリカのドルに対していくらくらいですか。148円ぐらいですよね。ところが、1970年前後までは360円でした。ところが、1972年の復帰の前後には、これが305円まで落ちたんです。そうすると、沖縄の人間たちが持っている1ドルが、かつて日本円の360円に相当したものが、うんと減るわけですよね。55円も減るわけです。1ドルあたり。これは大変なことです。そういったことで、もう沖縄中が動乱のような中にある、騒々しい社会です。そういった中で、まだ若い私などは、本当に沖縄に誇るべき歴史や文化というものがあるものなのかどうなのか、そういったことをしきりに考えていたわけです。
その時の1972年の、確か2月16日から当時の琉球政府立博物館で、鎌倉先生が大正の14年、そして、昭和の2年までに撮影した、「50年前の沖縄」展というのがあったんです。その「50年前の沖縄」展の一番最初の写真がこれだったんです。琉球政府立博物館の1階フロアを通って、展示場は2階でしたので、その2階に上がって行く、階段スロープの踊り場に、踊り場の壁にこれがだんとあったんです。ものすごい大きさです。ほとんど実物を見るかのぐらいの大きさで、この写真があって。私はこれを見て、私だけではないですね、この会場に足を運んだ人たちのほとんどが、恐らくこの写真を見て驚いたはずです。こんなすごいものがあったのか。当然、首里城なぞ何もありませんから。当時はこの写真で、かつての琉球の姿、琉球文化の内実というものを一発どんと見せられた。そのような写真です。で、2階に上がっていって数百点の写真を見ていくことになるわけですが、これらの写真を見ることによって、私たちが「沖縄には何もないんだ、誇るべき文化も歴史も見るべきものは何もない」と思っていたのが、じつはそうじゃない。「かつてこれだけのものを持っていた文化を持ち、そして物を生み出す力を持っていたのがかつての琉球なんだ」ということを知ることになったわけです。それで、私の頭の中には、ずっと鎌倉芳太郎という名前が頭の中に残っているというふうなことがございました。
あと、個人的なことはまた時間がありましたらお話するかも、お話しできるかもしれませんが、鎌倉芳太郎という先生はこのような先生です。〔写真:鎌倉芳太郎〕これはちょうど今、皆さんに見ていただいているこの『沖縄文化の遺宝』という本を執筆するために、ご自分が集めた資料をもとに原稿を書いていらっしゃるところですね。この右側のちっちゃな写真のほう、この反物がございますね。見えますでしょうか。これがいわゆる琉球紅型なんですよね。で、右の方は奥様の静江(しずえ)様で、この方はもともと画家なんです。非常に優れた画家だったらしいのですが、鎌倉先生が型絵染の作家としてスタートするに当って、全て画家としての仕事をせずに鎌倉先生の仕事を手伝ったということです。
右手にある、今、ちょっとカーソルが動いている、これがいわゆる紅型の型紙ということになりますね。で、この反物。これ珍しいんです。鎌倉先生が収集したものです。これは現在、沖縄県立芸術大学の図書資料室に収蔵されております。もらってまいりました。私が個人的にもらったのではないですよ。沖縄県のために寄贈された、そのようなものです。
これが鎌倉先生のお姿ですね。これは玉川大学なのか、あるいは新潟大学の教育学部でも、講師を非常勤の講師をしていらっしゃいましたので、その授業の一コマだと思います。これもご遺族から頂戴した写真です。このような立派な字を書かれる、非常に勢いがありますよね。字もちっちゃく書くんじゃなくて、しっかりと大きく書いていらっしゃる。体も大きかったそうです。で、沖縄にやってくるのは、当時の沖縄県の女子師範学校。それから第一高等女学校という学校の旧制中等学校の教員として、それも図画工作の教員としてやってまいります。で、体が非常に大きくて偉丈夫だったということで、この女子の生徒たちはですね、鎌倉先生のあだなをつけるんです。ニオウブトゥキ、仁王仏というのは、仏像のことです。仁王様のようだと、体が大きくてどっしりとしている、その姿が仁王さんだというんですね。そういった形だったんです。
これは鎌倉先生と奥様のお宅、東京沼袋です。西武池袋線の沼袋駅から歩いて7、8分ぐらいのところに、現在でもこのお宅は残っております。お嫁さんが守っていらっしゃいます。お嫁さんとお孫さんですね。これは恐らく鎌倉先生が人間国宝になって、これからその賞状、認定状をもらいに行く、その時の写真じゃないかと思いますね。これなども執筆しているお姿ですね。
で、鎌倉先生は香川県にお生まれになりました。香川の方はいらっしゃいますか。香川県の三木町というところでお生まれになって、香川の師範学校の図画師範科を出て、そして東京芸術大学の東京美術学校の図画師範科に入られるということですが、この左のほうにある建物が鎌倉先生の生家です。現在はこの建物そのものはございません。これは取り壊されて今、新しい建物になっておりますが、これは非常にいい写真だと思いますのは、この右手にあるのが白山(しらやま)という山なんですよね。で、鎌倉先生。これ非常にこの山を意識していらっしゃる。それは皆さんのレジュメにも確か書いてあると思いますけれども、終生この白山の麓で育ったことが頭にあったらしいということがよくわかります。このレジュメの1ページの上から3行目ほどに「白山に あやにかけたる水車 こをひく音の 昔こほしや」という和歌です。その歌に出てくるように、この白山という山非常にいい、丸いおわんを伏せたような形ですね。香川の方には、こういった山がたくさんあるんですよね。これまた、後ほどご覧いただく、たとえば、今お見せしましょうかね。たとえばこれですね。これ、鎌倉先生の作品です。この山が幾重にも重なっています。その山の形がいかにも香川の山なんですよね。それで「ああ、鎌倉先生、この白山の姿を非常に心にとめてこういった作品にしたのかな」というふうに思ったわけなんですが、じつはこの紅型の型紙そのものは琉球のものです。ただ、色付け、それは鎌倉先生の独創なんですね。非常に奇麗な紅型、型絵染になっておりますが、こういった形で、鎌倉先生がご自分のふるさとをずっと偲んでいらっしゃるということがわかると思います。
で、東京美術学校を卒業して、そして、沖縄、教師になるための図画師範科だったものですから、教員にならなきゃいけないわけですね。で、教員になる。そのときには当然官費で入っているわけですので、当時の文部省が指示するところに行かなきゃいけないわけで、その就職する、いわゆる大学の卒業間際に奈良、京都、とくに奈良のほうに、今風に言えば卒業旅行に行かれるわけです。そこで唐招提寺に行きまして、鑑真像に出会うわけです。鑑真は皆さんご存じですよね。日本で最初のいわゆる仏教、いわゆる僧、仏僧を誕生させるための戒壇院というものを作った。それが鑑真だったわけですが、もともと中国の僧ですが、4回も渡航に失敗して、そして5度目に日本にやってくる。しかし、ついにはこの難行のために盲い、光を失うという、そのような人物ですよね。非常に感動的な、日本仏教のための非常に重要な人物で、私なども若い頃、皆さん、井上靖という作家をご存知ですか。井上靖さんの『天平(てんぴょう)の甍(いらか)』という、非常に美しい。そんなに長い作品ではありませんが、その『天平の甍』に鑑真が出てくるわけです。もちろん、鑑真を呼ぶための物語ですよね。その中に鑑真の船、鑑真の乗った船が嵐に遭って琉球に漂着する。沖縄島に漂着するという、こういう事件が起こります。で、その「唐大和上東征伝」、これは鑑真が日本にやってくる。そのことを記録した文書なんですが、その「唐大和上東征伝」には沖縄のことが「阿児奈波(あこなは)」と書いてあるわけです。悪いという字と、児童の児、悪、児童の児、そして奈良の奈、そして波、これで「阿児奈波」と書いてあるわけです。この「阿児奈波」というのは、一体どんなところなんだろうか。沖縄だということは、鎌倉先生知ってらっしゃるけど、沖縄に対する興味をかき立てられるわけですね。で、大正10年、東京美術学校を卒業して沖縄に赴くことになってくるわけです。で、鎌倉先生にとっては、ですから、鑑真が足跡を記した沖縄に自分もやっていくで、鑑真が日本の日本仏教の基礎を築いていくように、自分自身も何がしかのことをしたいというふうに思われたと思います。
これは、大学を卒業する当時の鎌倉先生の写真です。いきなり伊東忠太先生が出てまいりましたけれども、これは後でやるといたしまして、このようにして沖縄にやってくることになるわけですが、大正の10年、沖縄女子師範と第一高等女学校の美術の先生になっていくわけですが、そのときに、当時沖縄で活躍していた沖縄研究の第一人者である伊波(いは)普猷(ふゆう)であるとかですね。伊波普猷の友人である、そしてジャーナリスト、俳句、俳人であり、沖縄の研究者であった末吉(すえよし)麦門冬(ばくもんとう)、そういった人たちと親交を結んで、とくに、末吉麦門冬の影響が非常に大きかったと思われます。沖縄の美術、美術の歴史を訪ねていくという研究に入っていくんですね。
そういった中で、大正の11年の2月に沖縄女子師範学校のテストのため、入学試験のために宮古島と石垣島に渡っていくんです。その宮古島、石垣島で、いわゆる沖縄のずっと南の方の文化に触れる。そこで鎌倉先生は、この沖縄琉球文化の層の厚さというものを実感することになっていくと考えられるんですね。
今画面に出ておりますのは、ちょっと画面が出ておりますけれども、一番右には「鑑真」と書いてありますで、これ「唐大和上東征伝」の一部を鎌倉先生はわざわざノートに筆記してあるんですね。先程、鑑真に影響を受けただろうというふうに話をしましたが、これは鎌倉先生の初期のノート、一番最初、大学ノートじゃなくてですね、こういった革表紙の手帳に書いてあるんです。「ノートナンバー25」とございますが、その一番最初のノートがこれだと思われるんですね。これに、この鎌倉先生が沖縄に目を向けられ惹きつけられる鑑真の事績が書いてある。非常に、鎌倉先生にとって鑑真がどれほど大きな存在だったかということがわかる一例だと思うんですが。
こうして沖縄にやってきて、宮古や八重山の文化に触れ、そして琉球全体に対して、さらにさらに研究を、研究の目を注いでいくということになっていくわけです。で、2か年間だけ、いわゆる沖縄での教員生活の縛りがあったわけですね。それで2か年を経て、再び東京に戻って東京美術学校の研究生となってくるんです。今で言えば、大学院に相当するところに入っていく。そのときに鎌倉先生、もうこの2か年の間に相当たくさんの研究を進めているわけですね。
さまざまな、今ご覧いただいているような、これは宮古島の、これは歌謡です。見えますでしょうか。ローマ字で書いてあります。なぜローマ字で書くのか、石川啄木のローマ字日記じゃありませんけれども。じつは日本の仮名文字、もちろん漢字では論外です。仮名文字では琉球の言葉は表記できないんですよ。今さっき「グスーヨー、チューウガナビラ」、これなどものすごい簡単な言葉です。これは書こうと思えば、仮名文字で書いてくることできるんです。ところが、宮古や八重山の言葉になると、仮名文字じゃ対応できないんですね。今でもだめです。ですから、言語学者は、仮名文字を幾重にも組み合わせをして、そして琉球語の1音1音を表記しようとするんですけど、簡単じゃないんです。1つの音を表すのに、仮名文字が3つも4つも必要になるんですよ。ありえないですよね。そういうことで、鎌倉先生は方言の音を正確に書くためにローマ字を採用した。
鎌倉先生、じつは英語の勉強が非常に好きだったらしいです。これは鎌倉先生自身が書いていらっしゃって、先ほどご紹介しました。香川県の師範学校時代、当時、鎌倉先生の1年、2年、師範学校3年、4年までありますが、その1年、2年の時の先生がなんと小原(おばら)國芳(くによし)という先生。皆さんご存知でしょうか。玉川大学は、その玉川大学を開かれた先生が小原國芳先生。この小原國芳先生に非常に可愛がられるんですね。で、英語の勉強をものすごくするんですよ。ですから、ローマ字表記はお手の物なんです。で、このローマ字表記で書くことを彼は採用するんですね。
ところが、ローマ字表記でも書けない文字があるんですよ。じつは、宮古、八重山の方言には、たとえば、空を飛んでる鳥。この鳥は日本語では「トリ」です。琉球、先程の沖縄語では「トゥイ」です。ところが、宮古に行きますと「とぅす゜[tudzɨ]」、「とぅす゜[tudzɨ]」と。私は石垣島の出身ですが、加治工(かじく)先生は鳩間島ですが、私などの石垣島では鳥は「トゥリゥ [turɨ]」。これは「ル」でもありません「リ」でもありません。「トゥリゥ [turɨ]」という音なんですよ。こういった特別な母音があるんですね。そのためにローマ字だけで足りないところを加治工先生じゃない、鎌倉先生は特殊な自分なりの記号を作って、こう今いった曖昧母音の中舌母音と言っています、それを表記するという工夫を編み出します。
こういった形で、宮古の歌謡、歌ですね、民謡。これは八重山の歌なんです。八重山の方言をローマ字で書いていく。そういった作業をしていくんですね。ですから、鎌倉先生の2か年間というのは、ただ単に芸術調査だけじゃなかったんです。民俗言語にも及ぶような非常に視野の広い目で、視野の広いというよりも、何でもかんでもという感じです。私に言わせると。ともかく珍しいんですね、みんな価値があるんです。そういったことを鎌倉先生自身がしっかりと記録していく。そのような作業をしているんですね。
鎌倉先生が来られた、大正10年頃というのがどのような研究史の中で、日本全体の研究史の中でどういう時代だったかというと、この今日の私のペーパーの一番最後のほうをご覧いただきたいと思いますが、8ページに「参考資料1」と書いてあります。鎌倉先生が来沖する前後の沖縄研究の状況です。その鎌倉先生が来られる大正10年、その前はどういう状況だったかというと、鳥居(とりい)龍蔵(りゅうぞう)という日本の考古学を開拓していた人物です。この人が沖縄にやってくるのが、明治の30年、そして明治31年に石垣島測候所の所長として岩崎(いわさき)卓爾(たくじ)という人。この人は仙台藩、現在の宮城県の出身です。この人がやってくる。そして明治の32年には加藤(かとう)三吾(さんご)。この方は長崎県の佐賀県かな、の出身だったと思いますが、この方がやってきて沖縄の研究を始めていく。そして明治の44年に、先程名前が出た伊波普猷という人物が、一番最初著書の『古琉球(こりゅうきゅう)』というのを出す。これが明治の44年です。伊波普猷の『古琉球』を読んで沖縄に目を向けられたのが柳田(やなぎた)國男(くにお)です。で、柳田國男が沖縄にやってきたのが、この大正10年の正月なんですね。正月に奄美から与那国まで渡って、沖縄の文化の価値の大きさ、いわゆる鎌倉先生、柳田國男にとっては、古代日本の鏡、日本の古代を映し出すのは琉球の文化であるというふうに見て、沖縄の価値を日本の学界に紹介したのがこの柳田國男です。これが来たのが大正10年なんです。その4か月後に鎌倉が沖縄にやってきているんですね。
大切なことは柳田は民俗学には3つの段階があると言ったんです。即ち、民俗研究、「旅人」の民俗学。旅人として島々村々を歩いて、そしてそれをこう書き留めていく、旅人の民俗学。で、そのつぎに、位が、ランクが上がっていく。これがいわゆる「滞在者」、居住者。滞在、外部からやってきて、その地域に滞在して、そして記録を作成し調査していく。これが第2段階の民俗学研究。そして、一番いいそれは何かというと、「その土地で生まれ、その土地で生活している人」の民俗学。これが一番肝心だと言ったんですね。で、鎌倉先生は何だったかというと、2か年間、そして更に1年、1年、4年間滞在する。ですから、第2段階の滞在者の研究です。これに対して、柳田先生の沖縄研究はまさに旅行者なんです。恐らく、そういった自分自身の経験も含めて、民俗学の一番初歩の段階として旅行者の民俗学をいったと思いますけれども。この柳田の旅行者の民俗学に対して、鎌倉先生の研究というのは、まさに滞在者としてのもう一歩進んだ研究であった。
そして、より大切なことはですね。柳田先生や折口(おりくち)信夫(しのぶ)、そしてその後ずっと続く、現在に至るまでと言っていいと思いますが、日本の民俗研究者の琉球語による民俗語彙の表記は、今もってカタカナであったり、ひらがなだったりするんです。たとえば、ヤマト。日本のことを沖縄では「ヤマトゥ」と言います。この「トゥ」の音を書けないんですよ。日本の民俗学の研究者は。ところが、先ほど紹介したように鎌倉先生は、あの難しい宮古語であるとか、八重山語であるとか、そういったものをちゃんと正確に書こうとしているんですね。これだけを見ても、鎌倉という人がどれだけ先進的な研究をしようとしていたかということがわかるというわけです。
そうこうして、大正の10年、11年の任期を終えて、12年の3月には沖縄を去って12年の4月から東京美術学校の研究科に入っていくわけですね。そこで出会ったのが、先程写真が出てきました、この伊東(いとう)忠太(ちゅうた)という先生なんですね。この伊東忠太という人物は、日本の建築学の建築学そのものの祖とされる人物ですね。この「建築」なんていう。我々にとってごく普通の言葉。この建築という言葉を編み出したのは、この伊東忠太なんです。「建築学」というのは、伊東忠太以前は「造家学(ぞうかがく)」と言われたんです。ぞうは造るの造。家、家を造る学問。これが伊東忠太以前なんです。それを建築学に変えた、そういった人物です。当時は当然、東京帝国大学の教授ですね。この伊東忠太に出会うわけですが、それが鎌倉のその後を開いていくことになっていきます。
で、その中でこの伊東、鎌倉を結びつけたのが首里城取り壊しという大事件だったわけですね。この首里城取り壊しを阻止するということが起こってきます。これも本当に偶然の中でですね。鎌倉が当時の沖縄県の男子学生の寮である明正(めいせい)塾(じゅく)というところです。そこで、沖縄の新聞を見ていたら、首里城取り壊しが始まるという記事を、ちっちゃな記事を発見するんです。これは一大事だということで、伊東忠太のところに駆け込んで行って、そして、その伊東忠太が当時の内務大臣である平田(ひらた)、名を何といったかな、という人にかけあって電報を打ってこの工事を止めさせる。そしてこれは、鎌倉自身はもう既に自分の目で見てきているわけですから、その価値の大きさは知っているわけです。これを壊しちゃいけない。それで首里城の解体を食い止めて、結局、首里城をいわゆる国宝指定に導いていくということになってくるわけです。で、こういうことで、この伊東忠太の紹介を得てですね。当時、赤星(あかぼし)鉄馬(てつま)という、赤い星、鉄、馬、すごい名前です。赤星鉄馬という人が創設した啓明会(けいめいかい)という、けいは尊敬の、ああ、拝啓の啓。めいは明るい。で、会合の会ですね。啓明会。啓明会から研究費を獲得して、鎌倉芳太郎、伊東忠太、二人による琉球芸術調査事業というのが始まっていくんですね。当時のお金で3千円。現在、明治時代すぐでしたら、1円、現在のお金で1万円ぐらいの価値ですが、この時代には大体6千円ぐらいの価値ではないかと言われてますね。ですから、3千円ということは、1千8百万、1千8百万から2千万円ぐらいの価値のあるお金。現在でいえば、科学研究費みたいなものをもらって、沖縄研究に入っていくわけです。
その中で特筆すべきことは、鎌倉先生はその時、写真機を買うわけですね。で、日本製は当時ありませんので、ドイツのカメラを買うわけです。そのドイツのカメラを手にするわけですが、これは簡単に扱えるものではありませんね。それで当時、東京美術学校の写真科の教授をしていた森(もり)芳(よし)太郎(たろう)、同じ芳の字です。芳太郎。同じです。その森芳太郎教授に付いて、なんと1か月でこれマスターするんです。その勉強ぶりについては、鎌倉先生自身がこの鎌倉ノートにちゃんと書いてあるんですよ。薬品の配合比率、この写真の撮り方。これはこの本の中にちゃんと活字に起こしてあります。普通の人だったら1年も2年もかかるようなところを、わずか1か月でマスターしたって言うんですよ。これは本人が書いていらっしゃるから間違いがない。
そして、沖縄にやってくるんですね。沖縄でもちろん首里城をはじめ円覚寺や先程ご覧いただいた円覚寺の写真であるとか、これは八重山の権現堂という、ちっちゃなお社ですか。そういった権現堂であるとか、これは桃林寺(とうりんじ)と呼ばれるお寺にある仁王像です。鎌倉先生はこれなど非常に絶賛しているんですね。これはいわゆる鎌倉期の彫刻家、有名な快慶とか運慶とかという、そういった彫刻家に比するものじゃない。鎌倉の大仏、鎌倉の仁王、鎌倉、東大寺の奈良時代の仁王像に匹敵する、そのような作品だ、というふうなことを鎌倉先生は言ってらっしゃるんですよ。これらについては、今日皆さんにお配りしました、資料の6ページから7ページですね。たとえば、この仁王像については、ポツ点の4番目、3番目4番目、桃林寺の仁王像と法隆寺の大門の仁王像とは、ともに8世紀の芸術で、私は先程東大寺と言いましたが、法隆寺の仁王像と同じなんだと。そしてその下、「レンブラントの示す赤暗の中に燦然たる明暗の美であった。そのモチーフの純真なる遠く鎌倉期の仁王像にも凌駕するであらう」鎌倉の快慶運慶の仁王像もはるかにしのいでいるというんです。「否私の直観には、推古期なる法隆寺の大門を連想せしめた。共に、発生期間の発生期の芸術である」というふうに非常に褒めたたえる。そういったものすごい価値のあるものが、琉球の一番端の島にあるというんですよ。まさに琉球文化の層の厚さというものをこういったところで発見していくわけですね。で、この権現堂のこの階段の彫刻であるとか、ちょっとこういった獅子像などがあるんですが、こういったところに鎌倉先生、非常に感動しているんですね。そして、さらにこれも権現堂の中ですが、これを「先嶋藝術と桃林寺の印象」という論文に書いていらっしゃるわけですから、もう絶賛ですね。この6ページ7ページに書いてあるのは、この論文から、私が鎌倉先生がその大正の11年の2月に八重山を訪ねた時の感動や琉球の芸術の価値を発見した、その場面を描いた論文だということです。
で、鎌倉先生といえども、いきなり八重山に行って、すぐにそういったのがわかるわけではない。やっぱり研究の手引き者がいたんですね。その研究の手引きをしたのが、この二人の人物です。中央のいわゆるサングラスをかけていらっしゃる方が、先ほど読み上げた岩崎卓爾という石垣島測候所の所長さんです。で、この方については動植物の研究者、そして八重山文化の研究者、初期の研究者なんです。この方の本が1冊ございます。『岩崎卓爾全集』1巻だけの全集です。ぜひご覧になるとよろしいと思います。伝統と現代社だったかな。そこから1972年、3年ぐらいに出されています。そういった研究をした初期の研究者。そして、隣の袴を着けた人物。この人が喜舎場(きしゃば)永珣(えいじゅん)という八重山地域の研究の草分け、そして大成をした人物ですね。この二人の人物によって、八重山の研究に入っていくんです。八重山の芸術家にはどんな人たちがいたのか、そういったことを一つずつ調べていく。
で、この八重山調査の時に出会ったのが八重山蔵元(くらもと)絵師の画稿という、この八重山の琉球王府のいわゆる出張所のような役所があったんです。そこに絵師がいたんですね、絵を描く人が。写真なんてございませんから、全て絵を描く人が記録として物を残して首里王府にあげていくんです。たとえば、アメリカの船がやってくる、中国の船が漂流する、オランダ船、イギリス船が沖を通過する。こういったのを見て絵に描いていくんですね。そのために絵師っていうのがいたんです。その絵師たちが描きためた126枚かな、画稿を、鎌倉先生はこれをもらって東京に持ち帰るわけですね。
で、この絵師の画稿、たとえばこんな絵があるわけです。こういった絵ですね。夫婦喧嘩の絵ですが、この、こちらのあたりに酒器があります。酒を注ぐ道具。で、こちらの煙草盆があって、酒を飲み過ぎた旦那さんが奥さんに叩かれている、そういった図だと思われますが。そういう図であるとか、これは石垣島の登野城(とのしろ)という村の祭りに出てくる。この、この仮面、これ仮面です。弥勒(みろく)という神様なんです。その弥勒神(みろくがみ)を先頭に村の人たちが行列をしている。これは現在もそのままやれているんですよ。なんと、12年に一回。石垣市登野城の結願(けつがん)という祭りの模様がそのまま描かれていたんですね。そういった島々の風俗をかき集めたのが、この蔵元絵師の画稿126枚。これをそのままもらって、鎌倉先生がきれいに表装したんですね。これがおかげさまで残っているんです。ご存じのように、沖縄、八重山、宮古を含めて、この南の地方は白蟻が非常に多いんですよ。そのまま石垣島にあったら、これはみんなもう虫の餌食だったでしょうね。それを鎌倉先生がもらって保存して表装して裏打ちして、そしてこれがなんと1972年の復帰の直後、1977年ですかね。77年じゃない、75年ですか、八重山、石垣市立八重山博物館というのができた時の、一番、開館の展示会として、この「蔵元絵師の画稿」展というのが開かれるんですね。里帰りしたんです。それこそ70年ぶりに里帰りしたこの写真絵図。これらは現在、国の重要文化財です。鎌倉先生が保存したおかげですね。これはみんな石垣市立の八重山博物館に収蔵されております。いわゆる琉球王国末期の八重山という地域の風俗を知るための、非常に貴重な資料になっている。そのような資料も集め歩いたんですね。
で、第1次琉球芸術調査事業、そして第2次琉球芸術調査事業という中で、今見たような写真機を使った調査をしていく。建物のみならずですね。こういった資料を収集していく。これは首里城のこの正殿のいわゆる唐破風という中央部分。この中央部分の写真で見ても描かれるなんて思われないですよね。みんな。これは平成初めに復元になった首里城です。で、そのようなものを知らせるのが、この鎌倉先生が収集した資料なんですよ。鎌倉先生のことを「首里城を2度救った男」などというふうにキャッチフレーズのように称することがございますが、2度救ったというのは、1度目は先程の伊東忠太の力を借りて首里城の解体を食い止めたことですね。これが1度目。で、2度目がこれなんですよ。この平成の復元。その平成の復元に、鎌倉先生が収集した、この首里城正殿の絵図なんですね。これは首里城の正殿の一階の、これ柱の配置図です。設計図ですよね、簡単に言えば。そして、先程ご覧いただいた写真類。これらによって、この平成の復元というものが導かれていくんです。ということで、「首里城を2度救った男」というふうに言われてきているわけです。これなどは、首里城正殿で行われた国王をここにお招きして、飾りものを飾って正月の儀礼をする、その時の儀礼の絵図。
そして、さらにこの琉球芸術調査で鎌倉先生がやった仕事はこんなものだという事例です。たとえば、これは御供飯(うくふぁん)と呼ばれる非常に立派なこれは什器ですね。漆の製品です。この後、上江洲さんが上江洲(うえず)安亨(やすゆき)先生がお話してくれると思いますが、これは現在も沖縄県立博物館に行けば、これは見えます。復元されたものです。それから、伊東忠太がプレゼントしたものがある。復元されたものと伊東忠太入手のものがあってですね。これが鎌倉先生が写した写真なんですが、驚かされるのは、このような図を残しているんですね。で、よく写されていることがわかると思います。で、驚くべきことは、寸法がちゃんと記されているんですね。つまり、鎌倉先生の仕事というのは、工芸品の調査では、写真を写す、図を描く、採寸する、そしてこれを図に落としていく。このような作業を一人でやっているんですよ。恐ろしいんですね。1年1年、1年ごとの調査でこういったことをずっとしていっているわけです。
このようにして得られた写真、これらは全部国の重要文化財に指定されたんですね。こういったものです。この什器があって、これ、これを載せる台です。これの図と側面図、そして寸法。これを至るところでやっていくわけですね。で、そのほか、これは宮古島のいわゆる神事(かみごと)を行う沖縄で一般に御嶽(うたき)と言っております。その御嶽の図です。これは平面図です。上から見た、ちょっとよくわからないと思います。私などもじつはこっちには入ったことがない。男は入れないんですよ。沖縄の神事(かみごと)は、これ全部女がやります。ですから、男は立ち入れないんですよ。ところが、鎌倉先生、入ってらっしゃるんですね。何らかの特権があったんでしょうね。驚くことは、そういったのを平面図として、ちゃんと頭の中に描いて、そして図を落としている。これにみんなこの方言を先程言ったローマ字表記してるわけ。私たちにとってこれは非常に重要な図なんです。こちらに「座御嶽神座見取図」と書いてあります。この座(ざ)御嶽(うたき)というのは現在もあります。ところが、この裏側なんかは入っちゃいけないんです、我々。表まで。この表に立ち入ることはできるんです。それこそ百年前の座御嶽の図なんですね。こういった図を描いていくわけです。
これは、皆さん現地調査で、これから沖縄歩かれるとすれば、南城(なんじょう)市(し)の佐敷(さしき)というところ。馬天(ばてん)というところがあります。その馬天に、馬天(ばてん)御嶽(うたき)っていうのがあるんです。鎌倉先生が大正の14年の正月かな、行ったと書いてあるんですよ。で、このような図を残している。で、これは私が写した写真です。戦争の、あの沖縄戦のさなかを生き残ったのか、手を加えたのか知りませんが、よく似てますでしょ。多分、ここまで弾が飛んでこなかったのかどうなのかわかりませんが、よく描いていらっしゃる。これと、これはですね。ですから、今、このカラー写真の方は、皆さん行って見えるんですよ。鎌倉先生は、今、我々は車でぶわっと行きますから30分で行きますけれども、こちらから行けると本当にもうすぐそこです。6キロ離れているかな、6キロぐらいしか離れていません。行けばすぐ見えます。ところが、その大正の13年、14年の、この冬のさなかに鎌倉先生、重たい写真機材等々を含めて歩いて行っているんですね。バスなどない。そしてこれだけの資料を残すわけですね。
これが鎌倉先生の「琉球芸術調査事業」というふうなものなんですけれども。このような集中的な調査事業で鎌倉先生が入手した資料が、現在、全部沖縄県立芸術大学の図書芸術資料館の中に入っているというわけですね。で、その中のどこにあったのかな。その中の写真、そしてノートですね。レジュメにも書いてあると思うんですが、自分で探しきれません。ここで紹介しますと、当時のガラスは今のようなフィルムじゃありません。今はもう電子データになっていますが、以前はフィルムです。その前はガラス乾板というやつですね。で、鎌倉先生などは、このガラスの乾板を背負っていくわけです。これはガラスですから1枚1枚重たいですよね。で、写真機、三脚を持って歩くわけですから、大変なものです。で、このガラス乾板が1229枚。これはみんな芸大に入っている。そして、この琉球芸術調査事業というシールの貼られた写真があります。それこそ、百年前の写真。百年前に焼き付けられた写真。これが851点、そして先程ご覧になったような手帳ノート。それから大学ノート。ほとんど大学ノートですが、それが81点、そしてこの本を作るために、鎌倉先生のこの1229枚の写真を岩波書店で焼き付けた。新しい紙焼き資料2952点、その他、文書資料、先程の首里城の絵図とか、そういった資料178点、そして紅型の型紙、それから裂地、反物、それらが2154点。それから首里城で採集した陶磁器の資料67点、合計7512点。これだけ全部が、今現在、沖縄県立芸術大学に収蔵されている。鎌倉先生鎌倉先生の遺志を受けて遺族が寄付された、鎌倉先生収集の資料です。これは琉球文化、沖縄の文化を研究する上で、非常に貴重な資料でございます。で、鎌倉ノート81点につきましては、この本、今2冊だけございますが、全部で4冊ございます。この大きさの本が、B5版の上下2段組み、こんな本です。文字だけです。これは鎌倉先生のノート81冊、活字に起こしたらこうなったというわけです。私が沖縄県立芸術大学で30年勤めていたんですが、ほぼ20年で4冊の本を作り上げました。ですから、鎌倉先生のノートは基本的にこれで見ていくことができるというわけですね。で、紅型関係資料につきましては、沖縄県立芸術大学にいらっしゃった柳(やなぎ)悦洲(よしくに)、それから平田(ひらた)美奈子(みなこ)、このお二人によって型紙資料、そして裂地関係資料。これも4冊写真版で出ておりますので、どうぞご覧いただきたいというふうに思います。
で、このようにして鎌倉先生が集められた7500点の資料。これは近代の沖縄を研究しようとした人が収集した、個人で収集した資料としては、質、量共に最高のもの。最高、最大のものというふうに言ってよろしいと思います。
そのように大きな功績を残されたのが鎌倉先生だというわけですが、鎌倉先生はもともと美術の先生ですので、沖縄の絵画についても非常に深い興味を持っていらっしゃったというわけです。これは残念ながら作者は分かりません。画家は分からない。どこにあったかというと、先程、冒頭でお見せした円覚寺のいわゆる仏殿にあった、仏殿、仏殿の仏様を安置する伽藍がございますね。伽藍の背景をなしていた絵です。こういった絵。これもそうです。この絵のどこかにあっ、これですね。これカーソルの動いている、この存在人物をアップするとこうなるというわけですね。このように写しているわけです、ご自身が。私が記述を大きくしたわけではありません。で、みんなこれに入っています。この『沖縄文化の遺宝』というこの本。『沖縄文化の遺宝』という本は、本編とこれみんな写真なんですね。650枚ぐらいでしたかね。ちょうど今、この写真もお見せします。これは毛長禧という人の「闘鶏早房之図」という、こんな絵です。こういった。これもそうですね。こういった、これは屏風絵です。それから先程言った彫刻作品ですね。ともかく、鎌倉先生が写された写真を全部、写真の全部ではないです。セレクトして、600何枚でしたかね。ごめんなさい、600いかない。541枚集めてございます。ですから、先程ガラス乾板が1227枚あるというふうに申し上げましたので、約半分ぐらいがこれの中に入っているというわけです。で、これは解説です。鎌倉先生がこれらを理解する為の自分の研究論文をまとめた本です。これも大層な分量ですよね。先にお見せした原稿を書いている場面がございましたよね。これを書いていたと、この論文を書いていたというわけですが、ちょっと待ってくださいね。これの中に先程の、たとえば、この首里城について書いたところでは、ちゃんと自分が収集したものを利用しながら論文を書いてらっしゃる。ただ集めただけじゃないんですよね。ちゃんと活用して研究に生かしているですから、これはあくまでも鎌倉先生が利用した論文、本なんですが、私達はこういったものを利用しながら、利用しながら新しい研究ができるはずなんです。そういう意味で、後から追っかけてきている私などは、鎌倉先生の仕事を紹介しながら、いずれ鎌倉先生のやりたかったことを後追いしてみたいなというふうに思っているというわけです。
で、鎌倉先生は先程冒頭、型絵染の人間国宝だということで非常に有名なんです。皆さん、ご存じ無かったか知りませんが、ただ私は鎌倉先生が単なる型絵染の作家ではなかったんだと、琉球文化全般に対して非常に目配りをして色んなものを調査し、歩いた。そして、柳田国男の言葉で言えば、滞在者の民俗学、それを実践して、北は伊平屋、伊是名の離島から与那国までみんな歩かれて、たくさんの克明なノートを残されている。そして、それだけではない。首里の王家、即ち、中城(なかぐすく)御殿(うどぅん)と呼ばれる琉球国国王皇太子の邸宅です。そこに沖縄関係の資料がたくさん保管されていたんですね、王府の資料が。それを筆写している。これが大変な資料だったんですね。即ち、この中城御殿にあった、この琉球史関係資料は、全部戦争で吹き飛ばされたんです。ところが、幸いなことに、鎌倉先生が筆写したお陰でこれは残ったんですね。そういった、いわゆる歴史関係資料、文学関係資料の筆写もまた行った。ですから、私が鎌倉先生を型絵染の作家いうだけの評価じゃいけない。琉球文化全般に対して、非常に大きな興味と価値を見出した研究者。琉球文化研究を志した人物だったというふうに思っているというわけですね。
で、これについては鎌倉先生自身がこう言ってらっしゃるというわけですよね。どこだったかな、どこかに書いたと思ったんですが、ちょっと今探し出せませんが、間違いなくレジュメの中に書いてございます。この中城(なかぐすく)御殿(うどぅん)、尚家(しょうけ)、皇太子のお屋敷で自分が筆写したこれらの資料というものは、柳田國男も折口信夫も伊波普猷も東恩納(ひがおんな)寛惇(かんじゅん)、そういった日本の大先達たちもまだ見ていない資料を私は今書いています、筆写しています。これらが日本の民俗学学問の世界に大きな影響を及ぼすことは間違いがないという、そのような自信を持ったことを葉書に書いて伊東忠太に送ってあるんですね。ですから、鎌倉先生が研究しようとした若い頃に研究しようとしたのは型絵染だけじゃない。芸術だけじゃない。幅広く文化全般を研究する、そのような展望の下に調査をしていたということが分かるというわけですね。
で、これなどは、先程も見ていただいた、この沖縄の有名な画家たちの、鎌倉先生が5大画家というふうに選び出している人たちの写真です。これが先程ご覧いただいた「闘鶏早房之図」という鳥の絵ですね。この頭部だけ接写してるわけですね。で、皆さんこういったニワトリの絵というふうなことになりますと、すぐに伊藤(いとう)若冲(じゃくちゅう)を思い出されるかもしれませんが、鎌倉先生はその時代の日本や中国の画家も及ばないと書いてあります。鎌倉先生がこういった仕事をしていらっしゃる頃には、伊藤若冲はまだ発見されていないんですよ。発見されていたら面白いですね。比べてみると、僕もこの写真をちゃんと見ながら伊藤若冲の展覧会を見たことがありますが、この琉球画家毛(もう)長禧(ちょうき)の描いたこれらの絵は決して伊藤若冲に負けていないと思います。これは馬の図です。このように琉球の文化が持っていたその力というものは、非常に日本、中国に比して決していたずらに劣っているものではない。非常に大きな独自の価値を持つものであるということを発見した人なんですね。
ですから、私などそういった意味でこれからも、22歳の、沖縄には何もないと思った私などもですね、是非、今後、鎌倉先生のこのような資料を使いながら、沖縄文化の内実の豊かさ、それをちゃんと伝えてまいりたいというふうに思っております。
ちょうど時間になりましたので、私のお話、これで終わらせていただきます。あっち行きこっち行きで非常に話を追いかけにくかったかと思いますが、この資料をごらんいただいて、もし何かありましたら、また久世先生にでもご質問をお寄せください。よろしくお願いします。どうもありがとうございました。
――質疑応答――
【久世】どうもありがとうございました。せっかくなので何かご質問にでもよろしいですか。ご質問があれば、いいかなと思います。まだ鎌倉芳太郎自体が初めてという方もたくさんいらっしゃいますので、またこれから沖縄のことをよく調べられた時に、どうしても到着するのが、【波照間:そうですね】ということになると思いますので、その時になってまた疑問を持たれる方は、聞きたいということがあると思うんですけれども。
【会場】県立芸術大学のほうで鎌倉芳太郎のノートがアーカイブされていると思うんですが、これを波照間先生が作られたという認識でよろしいでしょうか。
【波照間】本をですね。
【会場】本。こちらの写真とか、ウェブサイトは。
【波照間】あれは私達が、私は県の芸術大学の付属研究所というところに30年間おりました。で、科研をもらって、この写真を公開するという作業をしたんですね。ですから、ノート全部見れるようになっています。はい。で、これを活字化したのがこの本だと、活字化したんです。あれを見てもお分かりだと思いますが、とてもじゃないけど、こういった崩し字などに慣れていないと読めないものなんです。それを読んで一般の人が利用しやすいようにしたというわけですね。
【会場】時間はどのくらいかかったんですか。
【波照間】私、先程20年ほどかかったと言いましたが、最初の1冊を出して、その間別の仕事をしなきゃいけなかったり何したりしたものですから、20年ぐらいかかってしまっているんですが。実質、5、6年じゃないでしょうかね。5、6年というのは短すぎるかな。10年ぐらいですかね。はい。とても大変でした。目が悪くなるくらいの仕事でした。はい、どうぞ他にも。簡単なことで。
【会場】ローマ字の表記が出てきたかと思うんですけど。あれは今でも、やっぱり沖縄の言葉とかを使う時、表記する時に使われてる書き方なんでしょうか。
【波照間】基本的にはローマ字表記はヘボン式とか訓令式とかありますよね。ヘボンでも訓令でもどれでもいいんですけど、先程言った「ズー(す゜[dzɨ])」という音だとか「スー(すぃ[sï])」というとであるとか「ル(リゥ[rɨ])」なんていう音は書けないんですよ。ローマ字では。で、音声表記だと、たとえば鳥、「トリ」でしたら、沖縄のほうでは「トゥリ[turi]」。で、r音が落ちて、今、中南部では「トゥイ[tui]」になってるわけです。ところが宮古だとこんな音になる、「とぅす゜[tudzɨ]」、「す゜[dzɨ]」、摩擦音が入る。八重山だったら、「トゥリゥ[turɨ]」、「リゥ[rɨ]」、という音なんですね。こういった音は、これは音声記号でこう書いてあるわけですが、鎌倉先生、これ困ったんです。それで鎌倉先生はどう書いてあるかというと、どうだったかな。ちょっと正確でありませんが、こう書いて、この下にこんなふうな記号を付けた。こんな記号、こんな記号はローマ字にないんですよ。鎌倉先生の発明なんです。で、なぜこれが、記号、そういった、いわゆるこれ変母音、ドイツ語などでウムラウトと言っている。たとえば、ë、なんてこんな音があったりしますよね。こういった変母音なんですが、これを今、我々は「リィ」と書いたり、人によっては「ルィ」と書いたり、もうまちまちなんです。言語学者はこういった表記をして、「す゜[dzɨ]」、とか、「リゥ[rɨ]」、という音を書き記すわけですが、これは今でも、こういった字で書ければまだいいです。「リ」と書いたり「ル」と書いたり。これじゃ正確な音の復元につながらないですね。それを鎌倉先生は自分自身の記号を編み出して発音を正確にしていこうとした。そこが優れているというわけです。
柳田や、たとえば、お茶のことを、今これ「ティー」ですよね。今でしたら、我々「ティー」と書きますね。ところが大正、昭和、戦前の学者は、この「ティー」が書けないんですよ。で、「てい」と書いてサイドラインを引いたのは誰かというと、これは折口信夫の書き方です。折口は横文字、片仮名文字はみんなこう書いて傍線を付けて、これが外来語であるということを表記したんですね。だから折口は「てい」と書いたけれども、これは元の発音とはちょっと違うよねってちゃんと意識はしてる。しかし、書きようが分からないわけです。それでこういった傍線でもって、それを示そうとしたんですね。そういったいわゆる民俗の語彙、民俗語彙、タームを正確に書いていこうとする、この意識が大切だと僕は思うんです。これは今の歴史学者、ああ、民俗学者は、日本の民俗学者はできないですよ。私などは正確に書こうと思ってますけど。これはまだまだ一部分の人たちです。ですから、百年前にこれをやったということが、いかに優れているかということ。よろしいでしょうか。
【会場】ありがとうございました。
【久世】どうもありがとうございました。改めて拍手で、どうもありがとうございました。
(1時間23分)
14:50-16:20
□ アーカイブされた史資料を活用した研究する・考察の実践
〜琉球国の祭祀儀礼道具の研究から〜
(講師)上江洲 安亨氏(博士(芸術学))(沖縄美ら島財団 首里城公園管理センター)
1969年生まれ。沖縄美ら島財団事業部 首里城事業課副参事、および、同財団 首里城公園管理部 学芸員。沖縄県文化財保護審議会委員 および 専門委員、琉球文化財研究室長なども歴任。現在、2019年10月31日未明の火災で焼け落ちた首里城の2026年の復興に日々尽力されている。
本年度11月、沖縄研究に尽力した優れた若手研究者に贈られる【沖縄文化協会賞】の言語・人類学の分野の金城朝永賞を受賞されました。
沖縄文化協会賞は1979年に創設され今年で45回を数え、沖縄学の精神を受け継ぎ発展させるため、若い人達の有望な研究を助成、奨励することを目的としたものです。
(一財)沖縄美ら島財団主催の首里城講座や沖縄県立博物館・美術館の博物館文化講座などの講師も務めている。
1.映像資料
2.プレゼン資料
16:30-18:00
□ 琉球びんがた体験
・知恵泉「首里城・紅型 沖縄への愛 鎌倉芳太郎」2023年6月13日放送の概要紹介
・びんがたについて
・コースターの染付体験
(講師)加治工 尚子氏(岐阜女子大学准教授)・加治工 摂氏(本場琉球・加治工紅型)
スケジュール(沖縄)
14日(日)9:00〜14:00
現地実習:沖縄文化遺産デジタルアーカイブ実践実習(各自)
当日の予定
9:00 首里城守礼門前に集合(時間厳守)
斎場御嶽
4.資料
1.映像資料
※ 首里城の復元についての講演並びに首里城の説明があります。
2.【報告書】沖縄デジタルアーカイブセミナー報告書
Ⅴ レポート課題
事前課題
① 飛騨高山匠の技文化遺産デジタルアーカイブの計画を提出する
(例) 吉島家・日下部家デジタルアーカイブ
② 沖縄文化遺産デジタルアーカイブの計画を提出する。
(例) 首里城のデジタルアーカイブ
事後課題
① 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブのレポートを提出
② 沖縄文化遺産デジタルアーカイブのレポートを提出
Ⅵ アドバイス
事前課題解説
地域資源デジタルアーカイブ(https://digitalarchiveproject.jp/)内の、
① 飛騨高山匠の技デジタルアーカイブを参考にする。
② 沖縄文化遺産デジタルアーカイブを参考にする。
事後課題解説
地域資源デジタルアーカイブ(https://digitalarchiveproject.jp/)の、
①【報告書】デジタルアーカイブIN ⾼⼭
②【報告書】沖縄デジタルアーカイブセミナー
を参考にする
Ⅷ テキスト
地域資源デジタルアーカイブ(https://digitalarchiveproject.jp/)内の、
大規模公開オンライン講座(MOOC)/【講義】デジタルアーカイブ特講
のテキスト
資 料
実践研究Ⅱ(高山編)申込書
実践研究Ⅱ(沖縄編)申込書
実践研究II(2024年度)(予定)
2024年8月31日(土)ー9月1日(日)
【前期】実践研究II
郡上市
【後期】実践研究II
2025年1月25日(土)-26日(日)
那覇市