文部科学省委託事業
令和5年度 大学等を通じたキャリア形成支援による幼児教育の「職」の魅力向上・発信事業(幼稚園教諭免許法認定講習等の在り方に関する調査研究)
Reborn infant education(幼児教育を再生する)
子どもを取り巻く社会のへ変化の中で,子どもたち自身が身に付ける資質能力や幼児教育が抱える諸課題が大きく変化しています。その中で,幼児教育においても,幼保こ小の連携促進や,幼児の発達段階や教育ニーズを理解し,それに基づいた教育プログラムを開発するなど専門職としての「幼児教育コーディネータ」が求められるようになっています。そこで,本講演会では,これからの幼児教育の創造やその時に幼児教育者に求められる資質能力についてご講演いただき,共通理解を図り,認識を深めていきます。
1.日 時
2023年10月8日(日) 10:00~12:00(受付 9:30~)
2.実施方法
対面・オンライン(zoom)開催(ハイブリッド型)
3.対面会場
沖縄女子短期大学・1階 大教室
〒901-1304 沖縄県島尻郡与那原町東浜1
4.内 容
(1)基調講演
幼保こ小連携と幼児教育コーディネータ
文部科学省初等中等教育局 幼児教育課長 藤岡謙一 氏
①プレゼン資料
②動画資料
(2)講演
①これからの幼児教育を創造する「幼児教育コーディネータ」
岐阜女子大学文化創造学部 教授 久世 均 氏
①プレゼン資料
②動画資料
②これからの沖縄の幼児教育に向けて
沖縄女子短期大学児童教育学科 専任講師 名渡山 よし乃 氏
①プレゼン資料
②動画資料
資 料
2.幼稚園教諭の資質向上を目指すキャリアステージにおける講座の在り方の研究Ⅱ
3.【講義】幼児教育コーディネータ概論
4.【報告会】令和4年度
文部科学省委託事業
幼児教育における人材確保・キャリアアップ支援事業 並びに現職教員の新たな免許状取得を促進する講習等開発事業報告会
5.【研究開発事業】幼稚園教諭免許法認定講習等の在り方に関する調査研究
6.【研究】幼稚園教諭の資質向上を目指すキャリアステージ における講座の在り方の研究
アンケート
右のアンケートにご協力ください。 → アンケート
【研究論文】地域資源デジタルアーカイブ活用した探究学習の試行
探究学習とは,生徒自らが課題を設定し,解決に向けて情報を収集・整理・分析したり,周囲 の人と意見交換・協働したりしながら進めていく学習活動のことである.この探究学習では,生 徒の思考力や判断力,表現力などの育成を目的とし,高等学校では「総合的な探究の時間」など の科目において,探究学習を導入した授業が行われている.ここでは,地域資源デジタルアーカ イブを総合的な探究の時間での学習に生かし,効果的な実践したので報告する.
<キーワード> 探究学習,地域資源デジタルアーカイブ,総合的な探究の時間
1.はじめに
探究学習とは,生徒自らが課題を設定し,解決に向けて情報を収集・整理・分析したり,周囲の人と意見交換・協働したりしながら進めていく学習活動のことである.探究学習では,生徒の思考力や判断力,表現力などの育成を目的とし,小学校や中学校では「総合的な学習の時間」の科目,高等学校では「総合的な探究の時間」などの科目において,探究学習を導入した授業が行われている.
平成30年の高等学校の学習指導要領では, 総合的な学習の時間は,学校が地域や学校, 児童生徒の実態等に応じて,教科・科目等の 枠を超えた横断的・総合的な学習とすること と同時に,探究的な学習や協働的な学習とす ることが重要であるとしてきた.特に,探究 的な学習を実現するため,「1課題の設定→ 2情報の収集→3整理・分析→4まとめ・表 現」の探究のプロセスを明示し,学習活動を 発展的に繰り返していくことを重視してき た.
全国学力・学習状況調査の分析等において,総合的な学習の時間で探究のプロセスを意識した学習活動に取り組んでいる児童生徒ほど各教科の正答率が高い傾向にあること,探究的な学習活動に取り組んでいる児童生徒の割合が増えていることなどが明らかになっている.
また,総合的な学習の時間の役割はOECD が実施する生徒の学習到達度調査(PISA)に おける好成績につながったことのみならず, 学習の姿勢の改善に大きく貢献するものとし て OECD をはじめ国際的にも高く評価され
ている.そこで,高等学校においては,名称を「総合的な探究の時間」に変更し,小・中学校における総合的な学習の時間の取組を基盤とした上で,各教科・科目等の特質に応じた「見方・考え方」を総合的・統合的に働かせることに加えて,自己の在り方生き方に照らし,自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら「見方・考え方」を組み合わせて統合させ,働かせながら,自ら問いを見いだし探究する力を育成するようにしている.
2.総合的な探究の時間の目標
「総合的な探究の時間」のねらいや育成を目指す資質・能力を明確にし,その特質と目指すところが何かを端的に示したものが,以下の総合的な探究の時間の目標である.
第 1_目標 探究の見方・考え方を働かせ,横断的・総合的な学習を行うことを通して,自己の在り 方生き方を考えながら,よりよく課題を発見 し解決していくための資質・能力を次のとお り育成することを目指す. (1)探究の過程において,課題の発見と解決に必要な知識及び技能を身に付け,課題に関わる概念を形成し,探究の意義や価値を理解するようにする.
(2)実社会や実生活と自己との関わりから問 いを見いだし,自分で課題を立て,情報を 集め,整理・分析して,まとめ・表現する ことができるようにする.
(3)探究に主体的・協働的に取り組むととも に,互いのよさを生かしながら,新たな価 値を創造し,よりよい社会を実現しようとする態度を養う.
つまり,「総合的な学習の時間」を「総合的な探究の時間」に変更することにより,その目的や授業の在り方についても大きく変更することが求められている.そもそも,「探求」とは,探し求めると書くように何かを探し求め手に入れようとすることである.一方で「探究」とは,探し究めると書くように何かを探しながら究めていくことになる.特に究めるという言葉は学問を究めたり,真相を究めたりといった場合に使われる言葉で,「探求」と「探究」では目的が異なっている.
「総合的な学習の時間」と「総合的な探究の時間」の違いについて学習指導要領の解説には以下のように示している.両者の違いは(中略)「総合的な学習の時間」は,課題を解決することで自己の生き方を考えていく学びであるのに対して,「総合的な探究の時間」は,自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題を自ら発見し,解決していくような学びを展開していく.ということである.「総合的な学習の時間」が課題解決→自己の生き方の順であることに対し「総合的な探究の時間」はそれが同時であることが違いとしていえる.
3.地域資源デジタルアーカイブと探究学習
高度情報通信社会において,この世には情報があふれていると言われながら,意外に知らないのが自分の生まれ育った地域である.この地域の貴重な「文化資源」を記録し保存等を行うことを「地域資源デジタルアーカイブ」と呼んでいる.
しかし,このような地域資源デジタルアーカイブには,地域の人々の参加が必要となってくる.特に,地域の資料の収集,デジタル化には,地域の実情に応じた活動が重要であり,自分たちの身近な場でアーカイブをすべきである.
このためには,いかに地域の人々が自分たちの「文化資源」としていかに主体的に収集・整理することできるかが課題である.また,このような地域の人々や,大学,学校,社会教育施設などとの協働によるデジタルアーカイブの活動を,地域における探究的な学習の一環として捉えることが重要である.この,地域資源のデジタルアーカイブでは,自分の生まれた地域のさまざまな地域資源などをデジタルアーカイブすることにより,これまでに気付かなかったさまざまなものが,素材を通して見えるようになる.そのような意味で,この地域資源デジタルアーカイブは,このように地域のさまざまなことを再発見し,理解を深めていく上で大切な教育活動であると考えている.
4.おわりに
この地域資源デジタルアーカイブには,地域の人々の参加が必要となってくる.特に,地域の資料の収集,デジタル化には,地域の実情に応じた活動が重要で,今後,地域住民たちが身近な場で地域のデジタルアーカイブをすべきだと考えている.
このためには,地域住民自らが自分たちの「地域資源」としていかに主体的に発見・収集・整理することできるかが課題である.この度の高大連携における大学と高等学校との「共創」によるデジタルアーカイブの活動を,新しい学びの一環として捉えることは重要である.
ここでの「共創」とは,多様な立場の人たちと対話しながら,新しい価値を「共」に「創」り上げていくことである.デジタルアーカイブは,単なる記録ではなくて,研究成果,「知」を集積することがデジタルアーカイブに問われている.
あらゆる地域が地域としてのアイデンティティを確立するためにも,「知」の拠点としての地域資源デジタルアーカイブを含めた探究的なデジタルアーカイブを構築することが求められている.
これからの学びは,「競争」から「共創」の学びに着実に変化していく.これからの高校生にも課題探究という探究的な学びを,大学と高等学校が連携し,お互いに対話しながら,新しい価値を「共」に「創」り上げていきたいと考えている.
参考文献
(1) 久世均:遠隔教育特講,2022.7,岐阜女子大学
資料
① 高校における地域資源デジタルアーカイブ活用した探究学習の試行(論文)
② 高校における地域資源デジタルアーカイブ活用した探究学習の試行(プレゼン)(PDF)
③ 高校における地域資源デジタルアーカイブ活用した探究学習の試行(プレゼン)(PPT)
実践例
① 【高大連携講座】総合的な探究の時間【伊那西高等学校】
② 【高大連携講座】学校設定科目 デジタルアーカイブ【岐阜県立郡上北高等学校】
もっと知りたい!昔の沖縄の子どもの食と道具
仲本先生が子どもころは、コンビニも冷蔵庫もない時代!
みなさんは おなかがすいたら どうしますか?
仲本先生が子どもだったころの沖縄は、家のそばにスーパーやコンビニなどはなく、家のなかには 冷蔵庫(れいぞうこ)やレンジ、ガスコンロもない時代(じだい)でした
そんな時代(じだい)の子どもたちは、どんなものを食べ、どのようにくらしていたのでしょうか
小学生向けWeb教材 「もっと知りたい!昔の沖縄の子どもの食と道具」
ねらい:昭和8年生まれの仲本先生の話を通して、
沖縄の昔の子どもの食生活や使われていた道具について知り、
生活が移り変わってきたことや、人々の暮らしの中の知恵や工夫について考える
【大学教育推進会議】e-Learning推進部会【2023年度】
第1回 【大学教育推進会議】e-Learning推進部会
令和5年8月3日(木)14:00-16:00
【資料】
1.【大学教育推進会議】e-Learning推進部会
2.Multi Campus One Digital University構想(仮称)
3.【大学教育推進会議】e-Learning推進部会 スキーム管理
4.科目名_テキスト(様式)配付(ward版)
5.科目名_プレゼン(様式)(pptx版)
6.e-Learning推進部会(第1回)議事録
第2回 【大学教育推進会議】e-Learning推進部会
令和5年9月7日(木)13:10-14:10
【資料】
1.【大学教育推進会議】第2回e-Learning推進部会
2.【大学教育推進会議】e-Learning推進部会 スキーム管理(最終)
3.①-3メディア授業の実施が認められるための要件
4.Multi Campus One Digital University構想(仮称)
第3回 【大学教育推進会議】e-Learning推進部会
令和5年10月4日(水)13:10-14:10
場所:本館中会議室
内容:
1.e-Learning科目の学修到達目標について
2.テキスト作成(12 月31 日〆切)
3.その他
【資料】
3.e-Learning推進部会(第3回)議事
e-Learning科目の学修到達目標(9月30日〆切)
① 生活科学_消費生活論
② 住居学_インテリアデザイン論
③ 住居学_構造力学基礎Ⅰ
④ 健康栄養_基礎生物
⑤ 国語教育_日本語文章表現
⑥ 書道教育_日本書道史
⑦ 観光_世界遺産論
⑧ 英語教育_英語科教育法Ⅰ
⑨ デジタルアーカイブ_情報処理実習
⑩ 初等教育学_教育の方法・技術
⑫ メタバース基礎
⑬ ドローン基礎
第4回 【大学教育推進会議】e-Learning推進部会
令和5年11月30日(木) 13:10~14:10
場所:本館中会議室
内容:
1.テキスト並びにプレゼン資料並びに動画作成の進捗状況
2.プレゼン資料並びに動画作成の方法について
3.科目ガイドブックの作成について(12月31日〆切)
4.タキソノミ―テーブルの作成について(12月31日〆切)
5.その他
提出
テキスト作成(12月31日〆切)
プレゼン資料並びに動画作成(1月31日〆切)
【資料】
2.e-Learning科目ガイドブック(様式)
3.デジタルアーカイブ特講ガイドブック(例)
4.タキソノミーテーブル(教育目標の分類体系:タキソノミー)様式
タキソノミ―テーブルには、ディプロマ・ポリシーとの関連性を明確にする必要がある。また、ディプロマ・ポリシーには、知識技能と資質能力を分けて構造化することが重要である。
5.タキソノミーテーブル(教育目標の分類体系:タキソノミー)地域資料デジタルアーカイブ(例)
6.Multi_Campus_One_Digital_University構想の企画書の作成
①Multi_Campus_One_Digital_University構想(pptx)
②Multi_Campus_One_Digital_University構想(pdf)
10.大学教育推進e-Learningテキスト(科目名)(Word)
第5回 【大学教育推進会議】e-Learning推進部会
令和6年1月11日(木) 13:30~14:30
場所:本館中会議室
内容:
1.テキスト並びに科目ガイドブック・タキソノミ―テーブルの提出状況
➝ タキソノミ―テーブルには、ディプロマ・ポリシーとの関連性を明確にする必要があります。また、ディプロマ・ポリシーには、知識技能と資質能力を分けて構造化することが重要です。下記のタキソノミ―テーブルや科目ガイドブックと各専攻のディプロマ・ポリシーの関連について留意してください。
2.プレゼン資料並びに動画作成の進捗状況について(提出締切1月31日)
3.e-Learningプラットフォームについて
➝今回構築するe-Learningプラットフォームは、いわばe-Learningコンテンツのコンビニエンスストアを構築するものであり、学生が必要なe-Learningコンテンツを”いつでも、だれでも、何処からでも”活用できるプラットフォーム環境を目指します。従って、e-Learningコンテンツが今後膨大になれば、検索機能(必要ならLMS(Learning Management System機能)が充実した新たなプラットフォームを再構築する必要があります。
4.その他
次回 令和6年2月8日(木) 13:30~14:30 (予定)
【資料】
1.【大学教育推進会議】第5回e-Learning推進部会
2.テキスト並びに科目ガイドブック・タキソノミ―テーブルの提出
4.Multi_Campus_One_Digital_University構想
【作成状況】
【テキスト】(12 月31 日〆切)
① 生活科学_消費生活論
② 住居学_インテリアデザイン論
③ 住居学_構造力学基礎Ⅰ
【テキスト】構造力学基礎Ⅰ
④ 健康栄養_基礎生物
⑤ 国語教育_日本語文章表現
⑥ 書道教育_日本書道史
【テキスト】
⑦ 観光_世界遺産論
⑧ 英語教育_英語科教育法Ⅰ
⑨ デジタルアーカイブ_情報処理実習
⑩ 初等教育学_教育の方法・技術
【テキスト】教育の方法・技術
【テキスト】メタバース基礎
⑬ ドローン基礎
【テキスト】ドローン基礎
⑭ データサイエンス_データサイエンス基礎
※文部科学省では、通信教育のテキストは200ページ(2単位)を基本としています。
※2.遠隔授業のデザイン手法(前記)で示しているように、e-Learningによる学びには3つのパターンがあり、それらの学びを含めてe-Learning学習と定義している。従って、15講全ての講座をe-Learning にする必要はありません。
※3.自律的なオンライン授業の分析と設計(前記)で示すように、e-Learning の学びは多様であり、広い概念でとらえられている。反転授業も含めてこのe-Learning教材により”あたらな学び”を創造するツールとして活用することが重要です。
【科目ガイドブック】(12 月31 日〆切)
① 生活科学_消費生活論
② 住居学_インテリアデザイン論
③ 住居学_構造力学基礎Ⅰ
④ 健康栄養_基礎生物
⑤ 国語教育_日本語文章表現
⑥ 書道教育_日本書道史
⑦ 観光_世界遺産論
⑧ 英語教育_英語科教育法Ⅰ
⑨ デジタルアーカイブ_情報処理実習
⑩ 初等教育学_教育の方法・技術
⑫ メタバース基礎
⑬ ドローン基礎
⑭ データサイエンス_データサイエンス基礎(未提出)
【タキソノミ―テーブル】(12 月31 日〆切)
① 生活科学_消費生活論
② 住居学_インテリアデザイン論
③ 住居学_構造力学基礎Ⅰ
④ 健康栄養_基礎生物
⑤ 国語教育_日本語文章表現
⑥ 書道教育_日本書道史
⑦ 観光_世界遺産論
⑧ 英語教育_英語科教育法Ⅰ
⑨ デジタルアーカイブ_情報処理実習
⑩ 初等教育学_教育の方法・技術
⑫ メタバース基礎
⑬ ドローン基礎
⑭ データサイエンス_データサイエンス基礎(未提出)
【プレゼン資料並びに動画作成】(1 月31 日〆切)
① 生活科学_消費生活論
② 住居学_インテリアデザイン論
③ 住居学_構造力学基礎Ⅰ
④ 健康栄養_基礎生物
⑤ 国語教育_日本語文章表現
⑥ 書道教育_日本書道史
⑦ 観光_世界遺産論
⑧ 英語教育_英語科教育法Ⅰ
⑨ デジタルアーカイブ_情報処理実習
⑩ 初等教育学_教育の方法・技術
⑫ メタバース基礎
⑬ ドローン基礎(未提出)
⑭ データサイエンス_データサイエンス基礎(未提出)
第6回 【大学教育推進会議】e-Learning推進部会
令和6年2月8日(木) 13:30~14:30
場所:本館中会議室
内容:
1.プレゼン資料並びに動画作成の進捗状況について(提出1月31日〆切)
2.e-Learningプラットフォームの構築ついて(2月29日〆切)
3.e-Learning-サイトの確認並びに検証(3月末〆切)
4.来年度のe-Learning構築科目(15科目)について(3月28日〆切)
〇構築科目には戦略をもって科目構成を考えることが必要です。その戦略の方向性は、大学の新たな展開に結びつけることが重要です。部会で考えている新たな展開は以下の通りです。
①大学等連携の推進
②学生 社会人の教育プログラムの開発
③単位互換プログラム事業の展開
④リカレント教育 リスキリング教育の推進
⑤高大接続の推進
⑥学修成果の評価方法の開発 普及
⑦地域活性化の推進
5.その他
次回 令和6年3月28日(木) 教授会終了後 (予定)
【資料】
2.【大学教育推進会議】e-Learning推進部会 プレゼン・動画提出(Ward版 )
3.【大学教育推進会議】e-Learning推進部会 e-Learning-サイトの確認並びに検証(Ward版)
4.【大学教育推進会議】e-Learning推進部会 ス来年度のe-Learning構築科目(15科目)並びに担当者(学科・専攻名)(Ward版)
【構築状況】
【e-Learning サイト】(2月29日〆切)
① 生活科学_消費生活論
② 住居学_インテリアデザイン論
③ 住居学_構造力学基礎Ⅰ
④ 健康栄養_基礎生物
⑤ 国語教育_日本語文章表現
⑥ 書道教育_日本書道史
⑦ 観光_世界遺産論
⑧ 英語教育_英語科教育法Ⅰ
⑨ デジタルアーカイブ_情報処理実習
⑩ 初等教育学_教育の方法・技術
⑫ メタバース基礎
⑬ ドローン基礎
⑭ データサイエンス_データサイエンス基礎(未構築)
【e-Learning-サイトの確認並びに検証】(3月末〆切)
① 生活科学_消費生活論
② 住居学_インテリアデザイン論
③ 住居学_構造力学基礎Ⅰ
④ 健康栄養_基礎生物
⑤ 国語教育_日本語文章表現
⑥ 書道教育_日本書道史
⑦ 観光_世界遺産論
⑧ 英語教育_英語科教育法Ⅰ
⑨ デジタルアーカイブ_情報処理実習
⑩ 初等教育学_教育の方法・技術
⑫ メタバース基礎
⑬ ドローン基礎
⑭ データサイエンス_データサイエンス基礎(未構築)
※確認の視点
1.本Webサイトが教えないで学ぶことができるサイトになっているか?
【参考】前述 4.「教えないで学べる」という新たな学び
2.本Webサイトのみで主体的な学びにより、深い学びへ導くことができるか?
3.何を学ぶか、学修到達目標、研究課題が適切であり、学生にわかりやすく説明されているか?
4.将来社会で本科目で得た成果を活用することができるか?
5.今後、類似した問題に直面した時の解決の手がかりがつかめるようになっているか?
6.本科目で目指した学修到達目標が、自分に身についたかについて学生自身で確認できるか?
【参考】 【講義】遠隔教育特講 第4講 学習目標とその明確化
※授業の設計の考え方において,1960年代に米国の教育工学研究者のロバート・メーガー (Robert F. Mager)は,次の3つの質問をすることで,授業の目標と評価方法を定めることの重要性について説明している.
- Where am I going? (どこへ⾏くのか︖)
- How do I know when I get there? (たどりついたかどうかをどうやって知るのか︖)
- How do I get there? (どうやってそこへ⾏くのか︖)
7.教育リソース(写真・PDF資料・Webサイト・他の講座の内容)との連携がされているか?
8.多様な学生を誰一人取り残すことのない、公正に個別最適化された学びを実現できるような方策を考えているか?
※新たな教育の技術革新は、多様な子供たちを誰一人取り残すことのない公正に個別最適化された学びや創造性を育む学びにも寄与するものであり、特別な支援が必要な子供たちの可能性も大きく広げるものです。(令和元年(2019 年)12 月 19 日 文部科学大臣 萩生田光一氏の大臣メッセージ)
※ 指導の個別化と学びの個性化
確認用シート
【大学教育推進会議】e-Learning推進部会 e-Learning-サイトの確認並びに検証(Ward版)
第7回 【大学教育推進会議】e-Learning推進部会
令和6年3月28日(木)15:00~16:00
場所:本館中会議室
内容:
1.多様な学生に対応した公正に個別最適化された学び(例)
【指導の個別化】
① 【講義】情報の管理と流通
・・・e-Learningによる課題の提出の方法により修正力の育成
ポイント
- 主体的に課題を選択
- 他の学生の課題を相互に閲覧可能
学生の感想
- ただ課題を提出して終わるのではなく、他の人の課題も参照できることで、自分とは何が違うのかや、違う視点からも考えることができたので良かった。
【学びの個性化】
② 【講義】情報処理Ⅱ ~情報と人権~
・・・ 学生自身によるe-Learningコンテンツの作成による学び
③ 【講義】人工知能(AI)入門
・・・生成AIによるカリキュラムの構築
・・・学生の興味関心による自主的な学び
④ 【講義】情報科教育法Ⅰ・Ⅱ
・・・学生による模擬授業を記録・発信
⑤ 【講義】企業とデジタルアーカイブ
・・・学習の成果を発信
⑥ 高大連携講座・・・大学と連携した学び
【高大連携講座】総合的な探究の時間【伊那西高等学校】
【高大連携講座】デジタルアーカイブ【岐阜県立郡上北高等学校】
【高大連携講座】ICTを活用した「主体的・対話的で深い学び」の実現【愛知県立天白高等学校】
【高大連携講座】女子高校生のためのデジタルアーカイブクリエータ 資格取得講座
⑦ 卒業研究並びに修士論文・・・学びの表現並びに発信
【研究】高遠石工 石造物のデジタルアーカイブ
【研究】郡上白山文化における御師の歴史的役割の研究 ~石徹白地域における御師と現代の観光とのつながり~
【社会人の学び】
⑧ 公開講座
【公開講座】デジタルアーカイブIN岐阜2023
【公開講座】社会人のための準デジタルアーキビスト資格取得講座2023
【報告会】令和4年度文部科学省委託事業 幼児教育における人材確保・キャリアアップ支援事業報告会
【学びの評価】
⑨ e-Learningの学生による評価
【授業評価】情報の管理と流通
【授業評価】情報処理Ⅱ~情報と人権~
2.来年度のe-Learning構築科目(15科目)について(3月28日〆切)
〇構築科目には戦略をもって科目構成を考えることが必要です。その戦略の方向性は、大学の新たな展開に結びつけることが重要です。部会で考えている新たな展開は以下の通りです。
- ①大学等連携の推進
②学生 社会人の教育プログラムの開発
③単位互換プログラム事業の展開
④リカレント教育 リスキリング教育の推進
⑤高大接続の推進
⑥学修成果の評価方法の開発 普及
⑦地域活性化の推進
提出用シート
【大学教育推進会議】e-Learning推進部会 ス来年度のe-Learning構築科目(15科目)並びに担当者(学科・専攻名)(Ward版 )
3.その他
次回 4月18日(木) 15:00~16:00
【資料】
2.【大学教育推進会議】e-Learning推進部会 来年度のe-Learning構築科目(15科目)並びに担当者(学科・専攻名)
【来年度のe-Learning構築科目(15科目)】
① 生活科学_来年度のe-Learning構築科目(15科目)並びに担当者(生活科学専攻)
② 住居学_【大学教育推進会議】e-Learning推進部会 来年度のe-Learning構築科目(15科目)並びに担当者(住居学専攻)
③ 健康栄養_来年度のe-Learning構築科目(15科目)並びに担当者(学科・専攻名)_-健栄
⑤ 書道教育_来年度のe-Learning構築科目(15科目)並びに担当者(書道)
⑥ 観光・英語_来年度のe-Learning構築科目(15科目)並びに担当者_観光
⑧ デジタルアーカイブ_来年度のe-Learning構築科目(15科目)並びに担当者(DA専攻)
⑨ 初等教育学_来年度のe-Learning構築科目(15科目)並びに担当者(文化創造学科・初等教育学専攻)
⑩ その他_来年度のe-Learning構築科目(15科目)並びに担当者(横山先生)
第8回 【大学教育推進会議】e-Learning推進部会
令和6年4月18日(木)15:00~16:00
場所:本館中会議室
内容:
1.来年度のe-Learning構築科目(15科目)について(3月28日〆切)
〇構築科目には戦略をもって科目構成を考えることが必要です。その戦略の方向性は、大学の新たな展開に結びつけることが重要です。部会で考えている新たな展開は以下の通りです。
- ①大学等連携の推進
②学生 社会人の教育プログラムの開発
③単位互換プログラム事業の展開
④リカレント教育 リスキリング教育の推進
⑤高大接続の推進
⑥学修成果の評価方法の開発 普及
⑦地域活性化の推進
2.令和6年度岐阜県私立大学地方創生推進事業について
【事業概要】
〇地域産業や地域社会を担う人材確保のため,デジタル・グリーン等成長分野に関するリスキリングを推進する,このためにリスキリング教育のための「Multi Campus One Digital University」を新たに構築し,地域人材の育成カリキュラムを開発し実践する。
(注)「Multi Campus One Digital University」とは,DX(Digital Transformation)時代における“新たな学び”の創出により,デジタル技術を活用し,学びのあり方やカリキュラムを革新させると同時に,リスキリング文化を革新し,時代に対応した新たなリスキリング教育システムである。
〇本システムにより,全ての講座をいつでもどこからでも受講できるようなオープンなデジタルユニバーシティの構築することにより,新たな雇用機会を創出し,地域に必要な人材確保の新たな展開を実現する。
3.その他
資料
2.Multi_Campus_One_Digital_University構想__私立大学地域創生推進事業
4.【大学教育推進会議】e-Learning推進部会 令和6年度e-Learning構築科目と今年度のスケジュール
次回 令和6年5月30日(木)13:30~14:30(予定)
【研究】教育DX時代における大学教育
教育DX(Digital Transformation)時代における“新たな学び”とは,教師がデジタル技術を活用し,学びのあり方やカリキュラムを革新させると同時に,教職員の業務や組織,プロセス,学校文化を革新し,時代に対応した教育を確立することである.
また,学びという側面から考えてみると教育DXの目的は,「個別最適な学びという“新たな学び”の実現」である.20世紀の学習観は,行動主義・認知主義の学習観を採用していた.しかし,21世紀に入り,学習観は「主体的・対話的な深い学びの実現」という構成主義・社会構成主義の学習観に移行した.この変化から分かるように,教育が「全員に同じ教育」から「個々が持つ能力を最大限活かす教育」に変化している.また,デジタルツールを学びに活用することで,さらなるクリエイティブな学びの実現もDX時代における“新たな学び”の目的とされている.ここでは,これらの教育のDX時代における “新たな学び”の在り方について考える.
1.はじめに
「DX(Digital Transformation)」は,2004年にスウェーデンのウメオ大学のエリック・ストルターマン教授によって提唱された概念である.その内容は「進化し続けるテクノロジーが人々の生活を豊かにしていく」というもので,“進化したデジタル技術を浸透させることで人々の生活をより良いものへと変革すること”と解釈できる.
ただし,教育DXが及ぼすのは単なる「変革」ではなく,デジタル技術による破壊的な変革を意味する「デジタル・ディスラプション」.すなわち,既存の価値観や枠組みを根底から覆すような革新的なイノベーションをもたらすものであると捉えられている.
文部科学省も,この教育DX時代に対応して令和2年12月23日に文部科学省デジタル化推進本部から「文部科学省におけるデジタル化推進プラン」を報告している.ここでは,「・・・ポスト・コロナ期のニューノーマルに的確に対応していくために必要なDXに係る取組を早急かつ一体的に推進していかなければならない局面を迎えている.」とし,次のように4つの具体的な方針を掲げている.
①GIGA(Global and Innovation Gateway for All)スクール構想による1人1台端末の活用をはじめとした学校 教育の充実
②大学におけるデジタル活用の推進
③生涯学習・社会教育におけるデジタル化の推進
④教育データの利活用による,個人の学び,教師の指導・支援の充実, EBPM等の推進
特に,①のGIGAスクール構想については,令和3年3月12日の「GIGAスクール構想の下で整備された1人1台端末の積極的な利活用等について(通知)」において,「文部科学省では,Society 5.0 時代を生きる全ての子供たちの可能性を引き出す個別最適な学びと協働的な学びを実現するためには,学校現場における ICT の積極的な活用が不可欠との観点から「GIGA スクール構想」を推進しているところであり,関係各位の御尽力により,本年4月から,全国のほとんどの義務教育段階の学校において,児童生徒の「1人1台端末」及び「高速大容量の通信環境」の下での新しい学びが本格的にスタートする見込みとなっている.」と述べている.また,“新たな学び”について,文部科学大臣がメッセージで,「1人1台端末環境は,もはや令和の時代における学校の「スタンダード」であり,特別なことではない.これまでの我が国の 150 年に及ぶ教育実践の蓄積の上に,最先端の ICT 教育を取り入れ,これまでの実践と ICT とのベストミックスを図っていくことにより,これからの学校教育は劇的に変わる.この“新たな学び”の技術革新は,多様な子供たちを誰一人取り残すことのない公正に個別最適化された学びや創造性を育む学びにも寄与するものであり,特別な支援が必要な子供たちの可能性も大きく広げるものである.」と子供たち一人一人に個別最適化され,創造性を育む教育 ICT 環境の実現を求めている.ここでは,子供たち一人一人に個別最適化され,創造性を育む学びとは何か,その実現のための“新たな学び”とはどのような学びで,従来の学びとどのように異なるのかについて考える.
1.教育DX時代における新たな学び
1.何を学ぶか
子供たち一人一人に個別最適化され,創造性を育む学びとは何か,その実現のための“新たな学び”とはどのような学びで,従来の学びとどのように異なるのかについて考える.
2.学修到達目標
・教育DX時代の社会の変化について説明できる.
・教育DX時代における新たな学びについて具体例を示して説明できる.
・従来の学びと教育DX時代における“新たな学び”との関係について説明できる.
3.課 題
1.教育DX(Digital Transformation)についてその効果と可能性について説明しなさい.
2.GIGAスクール構想について,具体例を挙げて説明しなさい.
4.プレゼン資料
プレゼン
5.動画資料
6.資料
① デジタル推進化プラン
② GIGA スクール構想の下で整備された1人1台端末の積極的な利活用等について(通知)
③ ポスト・コロナ期における新たな学びの在り方について
④ GIGA スクール構想の実現
2.遠隔授業(ハイブリット型授業)
授業の設計に関して「何をどのように教えるか」がカリキュラムである.それに対して,カリキュラムを構築するための方法論が「インストラクショナルデザイン」である.インストラクショナルデザインは,カリキュラムを効率的に教えるために,学習者の特徴や与えられた環境,教育リソースなどを考慮し,最も効果的で効率的・魅力的な教育方法を選択することであり,実行と評価を繰り返すことで,研修の成果を高めることができる.
ハイブリット型授業のためには,テキスト,教育リソース(教材・素材のデジタルアーカイブ),質問・応答の体制が重要である.特に,各教科の学習到達目標の見直しと学習を深化するための仕掛け,教育リソース(個別に対応した教材・素材のデジタルアーカイブ等学習支援デジタルアーカイブ)が重要である.また,「自ら知識を構成する」学習観である構成主義の学びと創造的に学ぶ(クリエイティブ・ラーニング)教育を実現においても,教材のデジタルアーカイブの充実は必要となる.このハイブリット型授業には以下の3つの型がある.
(a)Ⅰ型
対面授業とe-Learning を交代に組み合わせて,e-Learningの映像により理論的な学びをし,対面授業によりグループ討議やワークショップを行う.e-Learningにより授業内容に課題や疑問点を持ち対面授業に向かうことで,個別最適化した学びの実現と問題解決能力を身に着けることができる.
(b)Ⅱ型
対面授業とe-Learning を組み合わせて,最初の対面授業にて授業の目標を明確化し,学習の方法を示したのちにe-Learningによるオンライン授業(オンデマンド学習)に取り組む.e-Learningでは,わからなかった内容を繰り返し閲覧し確認することが,自分の理解度やペースに合わせて繰り返し視聴できるため,予習時の理解も高めることができる.また,復習にも活用することができるため,知識を定着させる効率を高めることができる.
(c)Ⅲ型
e-Learning のみでの学習は,いつでも,どこからでも学習ができ,教えないで学べる完成型として位置付ける.社会には多くのオンラインでの学習機会がある.今後,広く深く学びを継続し,学び続ける教師としてハイブリット型授業Ⅲ型は,発展性がある学習方法になる.
2.遠隔授業のデザイン手法
1.何を学ぶか
未来社会を見据えて育成すべき資質・能力を育むためのこれら3つの「新たな学び」やそれを実現していくための「新たな学びの空間」を形成するためにICTを効果的に活用することが重要である.さらに,ICTを活用することで,チームとしての学校の経営力を高め,教育の質の向上と教員が子供と向き合う時間的・精神的余裕を確保することにつながる.そこで,ここでは「新たな学び」の一つである遠隔授業の教育利用・研究での課題について考える.
2.学修到達目標
・ハイブリット型授業について具体的に説明できる.
・ハイブリット型授業について授業設計ができる.
3.課 題
1.遠隔教育の変遷について説明しなさい.
2.ハイブリット型授業の3つのパターンについて,具体例を挙げて説明しなさい.
3.ハイブリット型授業を具体的に企画しなさい.
4.ハイブリット型授業の課題について具体例を挙げて説明しなさい.
5.遠隔教育の必要性について具体例を挙げて説明しなさい.
6.遠隔協働学習を企画し,実際にやってみなさい.
4.プレゼン資料
プレゼン
5.動画資料
6.資料
情報の管理と流通 e-Learningの評価
3.自律的なオンライン授業の分析と設計
1.何を学ぶか
教えない授業を実現するためには,自律的な学習者となることが重要であり,自律的な学習者であれば自律的なオンライン授業が実現する.ここでは,自律的なオンライン授業の分析と設計について考える.
2.学修到達目標
・e-Learningという学習について説明できる.
・授業の効果分析について具体例を挙げて説明できる.
3.課 題
1.自律的なオンライン研修について,具体的に企画しなさい.
2.研修の効果測定について具体例を挙げて説明しなさい.
4.プレゼン資料
プレゼン
5.動画資料
(d) 教育リソース
これらのハイブリット型授業の効果を上げるのが教育リソース(個別に対応した教材・素材のデジタルアーカイブ等学習支援デジタルアーカイブ)である.これらの教材をデジタルアーカイブし,提供できるシステムを構築しておくことが重要である.
図4 ハイブリット型授業における教育リソース
このように,学習者の状況などを考慮してハイブリット型授業をデザインしていくことが重要である.講座の目的は「教えること」ではなく,学習者が「自ら学ぶ」ことを手助けし,学習者に変化が起こることである.成果につながる行動変容できる人材育成のみならず,大学など学校に「学習する文化」を広げることが重要である.
本学では,2000年から遠隔教育を衛星放送,テレビ会議システムを使用して実施し,その後,2010年からはテレビ会議システム,e-Learningによるハイブリット型授業を一部で導入・実施している.
また,通信制の大学院文化創造学研究科を2008年に設置し,教員免許状上進講座,各種公開講座,デジタル・アーキビスト資格取得講座等において遠隔教育を推進してきた.
コロナ禍が教育のデジタルトランスフォーメーション(DX)を加速する中,本学は,ニューノーマル時代に求められる学びの在り方に対応するため,大学生から社会人まで幅広い学習者を対象として,本学における今までの「遠隔教育の実績」と「膨大な教育リソース(デジタルアーカイブ)」を最大限に活用し,e-Learningを授業主体として展開する新しい遠隔教育を推進している.
そして,「生涯学習社会」の実現に向けて,学習者が生活している場所を離れることなくいつでも,どこからでも,誰とでも,資格の取得を含め広く文化創造学を学び,多様な文化創造活動を支える専門的かつ実践的な力を持つ知的な素養のある人材の養成を目指している.
3.「教えないで学べる」という新たな学び
学校における授業は,教科書や様々な教材等を使用して行われており,児童生徒たちの学びにとってこれらの果たす役割は極めて大きい.学校教育における重要なツールであるデジタル教科書・教材やタブレットPC等について,21 世紀を生きる児童生徒に求められる力の育成に対応した学習環境の整備を図っていくことが必要である.
ICTの活用では,一斉指導による学び(一斉学習)に加え,児童生徒一人一人の能力や特性に応じた学び(個別学習)や,児童生徒同士が教え合い学び合う協働的な学び(協働学習)を推進することにより,基礎的・基本的な知識・技能の習得や,思考力・判断力・表現力等や主体的に学習に取り組む態度の育成ができる.
こうした学びを,学校教育法第30 条第2 項に規定する学力の3 要素である「基礎的・基本的な知識・技能の習得」「思考力・判断力・表現力等の育成」「主体的に学習に取り組む態度の育成」という観点から見た授業を実践するために今後必要な学習環境を次に考えてみる.
(1)クラウドコンピューティング(cloud computing)
クラウドコンピューティングとは,ネットワーク,特にインターネットを介したコンピュータの利用形態で,学習者は,インターネット上にあるサーバやソフトウェアなどのリソースが提供するクラウドサービスを利用し,e-ラーニング(e-Learning)等のさまざまな学習を行うことができる.クラウドコンピューティングは,インターネット回線を経由して,データセンタに蓄積された資源を利用するものであり,学校でサーバ等の設備を持たずに済むことから,情報環境を構築する負荷の軽減と,運用に伴う人的・物的負担を軽減することが可能となる.
(2)教育リソース
教育リソースとは,PCやタブレットPCで読むことができるように設計された電子化された資料などで,電子書籍(electronic Book),デジタル書籍,デジタルブック(digital book),eブック(e-book),オンライン図書(online book)も含まれる.今後は,メディアの特性を生かし,学習者が主体的に活用でき,一人一人の学習者の特性に対応した教育リソースのあり方を調査研究する必要がある.
(3)フィールドワーク
フィールドワークのためのタブレットPCの機能分析及び活用方法の検討をとおして,タブレットPCの教育利用には大きな可能性があるものの,現在流通している機器そのままでは教育利用に適さない部分が多々ある.
(4)e-ラーニング(e-Learning)
e-Learningを推進する上では,教育リソースであるデジタル教材(学習材)の整備が必要不可欠となる.デジタル教材(学習材)自体は,各学校の教育事情に応じて整備されるべきもので,一元的に学校間で利用できるものにはなりにくいと考えられる.しかし,リメディアル系やキャリア支援系等の共通基盤教材や,教育素材的なものは,内容的・用途的にも十分共有可能であり,こうした利活用可能なデジタル教材(学習材)・素材を具体的に検討し,実際に実践可能な大学間で提供しあえるルール作りを検討することが重要である.
(5)eポートフォリオ(e-Portfolio)
eポートフォリオとは,「学習,スキル,実績を実証するための成果を,ある目的のもと,組織化/構造化しまとめた収集物」のことで,学びの目標を自己点検・確認させる一つの手段として,学びの成果を可視化するためのeポートフォリオの活用が進みつつある.しかし,まだこのeポートフォリオは,自己管理・点検させるまでに留まっている例が多い.そこで,児童生徒一人一人の課題と向き合い,組織的に学習指導を行い,授業と連携した「反転授業」や,不足している能力を卒業までに身に付させるための振り返りの学習の場を提供するルールを考える必要がある.今後,eポートフォリオをどのように評価するかという研究も行う必要がある.
(6)ラーニング・コモンズ(Learning Commons)
ラーニング・コモンズ(Learning Commons)とは,ICTを活用しながら,学習者自身が主体となって学ぶ教育環境をいう.能動的学習授業では,まず①教育リソース(デジタル教材)で予習をした上で,授業の最初に仮説の予想をし,②仮説をグループで討議し,机の上に用意されたタブレットPCで調査を行い,③調査結果をタブレットPCに接続された電子黒板(アクティブボード)を使って分析し,仮説が正しかったかどうかを検討する.その後,④結果を発表した後,電子黒板(アクティブボード)で仮説の内容を可視化しながらシミュレーションをし,仮説と調査結果の関係をグループで再討議し,⑤授業後に発展課題のレポートを作成する授業を推進するような,グループ・ディスカッション,ディベート,グループ・ワーク等による課題解決型の能動的学習を積極的に導入・実践することが必要となる.
そのためには,児童生徒が,十分な質を伴った学習時間を実質的に増加・確保するためにICTを利用した学習の方法として,授業の内容をアーカイブし,授業外の時間にデジタル教材管理システムで自主的に視聴できるようにする.このことにより,授業では事例や知識の応用を中心とした対話型の活動をする事が可能となる.このように,説明型の授業をオンライン教材化して授業外の時間に視聴し,従来宿題であった応用課題を教室で対話的に学ぶ教育方法(反転授業)を実践することが必要となる.
4.「教えないで学べる」という新たな学び
1.何を学ぶか
「インストラクショナルデザイン」や「教えないで学べる」学習環境は,キャロルの学校学習の時間モデルの授業の質を高め,授業理解力を助け,学習機会や学習持続力を高めるための手法であり,学習環境でもある.「教えないで学べる」という“新たな学び”を実現するためには,これらの手法や学習環境を整備することによって実現するものであり,学習者の学ぶ意欲を促し,自律的に継続して学ぶ力をつけていくことについて考える.
2.学修到達目標
・「教えないで学べる」とはどのようなことは具体例を挙げて説明できる.
・「教えないで学べる」という新たな学びの設計ができる.
3.課 題
1.J・B・キャロル(Carroll)の学校学習の時間モデルについて説明しなさい.
2.「教えないで学べる」学習環境について具体的に説明しなさい.
3.「教えないで学べる」授業を実現するための手立てを考えなさい.
4.プレゼン資料
プレゼン
5.動画資料
5.おわりに
学校においては,「答えのない問題」を発見してその原因について考え,最善解を導くために必要な専門的知識及び汎用的能力を鍛えること,あるいは,実習や体験活動などを伴う質の高い効果的な教育によって知的な基礎に裏付けられた技術や技能を身に付けることができる.また,授業ための事前の準備(資料の下調べや読書,思考,学生同士の議論など),授業の受講(教員の直接指導,その中での教員と学習者,学習者同士の対話や意思疎通など),事後の展開(授業内容の確認や理解の深化のための探究,さらなる討論や対話など)やインターンシップやサービス・ラーニング等の体験活動など,事前の準備,授業の受講,事後の展開を通した主体的な学びに要する総学習時間の確保することができる.さらに,学生の主体的な学びを確立し,十分な質を伴った学習時間が実質的に増加・確保できる.
また,この学習支援を実施するためにも,自学学習をする児童生徒の利用目的や学習方法にあわせ,ICTを柔軟に活用し,効率的に学習を進めるための総合的な学習環境であるラーニング・コモンズ(Learning Commons)を各学校に整備する必要がある.
資料
【プレゼン資料】—最新のプレゼンし資料をダウンロードしてください。
⑧Multi Campus One Digital University構想
⑨Multi Campus One Digital University構想20230802
⑩Multi Campus One Digital University構想20230802(pptx)・・・ダウンロードしてご活用ください。
⑪Multi Campus One Digital University構想20230820
⑫Multi Campus One Digital University構想20230820(pptx)・・・ダウンロードしてご活用ください。(コーオプ教育を追加)
⑬Multi Campus One Digital University構想20230823
⑭Multi Campus One Digital University構想20230823(pptx)・・・ダウンロードしてご活用ください。(レジリエンスを追加)
【論文資料】
【論文】教育DX時代における教育リソース並びにe-Learningの構成
教育DX時代における教育リソース並びにe-Learningの構成(PDF)
教育DX時代における教育リソース並びにe-Learningの構成(PPT)
【研究開発事業】
【研究開発事業】幼稚園教諭免許法認定講習等の在り方に関する調査研究
【研究開発事業】教師の養成・採用・研修の一体的改革推進事業
【研究論文】世界遺産としての白山文化遺産の研究
研究概要
1,はじめに
白山は日本列島のほぼ中央部に位置し、世界有数の豪雪山岳地帯でユネスコの生物圏保存地域にもなっている豊かな自然がある。
白山では山麓一帯が禅定道を基軸に互いに結ばれ、加賀、越前、美濃の三馬場とその禅定道筋にはそれぞれ社寺や集落が形成され、山村特有の生活文化が培われた。
山麓には白山信仰を全国に広めた御師集落で、今もかつての美濃禅定道の面影や、御師の伝統と習俗を色濃く残している石徹白、山麓の村々を統轄した集落で巨大な大壁造りの建築物が見られる白峰などがある。また、厳しい気象条件等に適合した出作り・焼畑という生活形態は、世界でも希有な存在である。このように白山信仰を基盤として白山麓でたくましく生き続けてきた風景は日本人の暮らしを代表する文化的景観である。
本研究では、この白山文化遺産の世界遺産への登録の課題を分析し、デジタルアーカイブの必要性について明らかにする。
2,世界遺産への登録過程
世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき「世界遺産リスト」に記載された、「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことである。 「顕著な普遍的価値」は、どの国や地域の人でも、いつの時代のどの世代の人でも、どのような信仰や価値観をもつ人でも、同じように素晴らしいと感じる価値のことで、そうした価値をもつ世界遺産は、人類共通の財産といえる。
世界遺産は、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類される。文化遺産が最も多く、世界遺産の総数は1,000件を超えている。世界遺産リストに記載する遺産は、1年に一度開催される世界遺産委員会で審議され、登録の可否が決定します。世界遺産委員会では「登録」、「情報照会」、「登録延期」、「不登録」の4段階の決議を行う。21の委員国からなる世界遺産委員会では、他にも、世界遺産条約を運用していく諸事項や、世界遺産基金の使い道の決定、世界遺産の保全状況の確認、危機遺産リストへの記載の可否など様々な話し合いを行っている。
3,登録における課題
大野市では、平成19年12月20日に、白山麓の文化遺産群を関係自治体とともに「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」というテーマで、世界文化遺産候補として文化庁に提案した。今回の提案は2回目となる。第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に行った。平成19年1月にその審査結果が発表され、提案に対する課題が示され、継続審査となった。
今回の提案では、文化庁から指摘を受けた課題を修正するとともに、大野市のほか、新たに小松市、高山市、白川村が加わり、共同提案している。
4.おわりに
石川、福井、岐阜の3県と白山市、小松市、勝山市、大野市、郡上市、高山市、白川村の6市1村は、世界遺産の申請において継続審議となっていた「霊峰白山と山麓の文化的景観」の課題について、2007(平成19)年12月に検討状況報告書並びに再提案書を提出した。
しかし、文化審議会は2008(平成20)年9月、再度暫定リストへの追加登載を見送り、現在、関係自治体で文化審議会の指摘に沿い提案内容などの見直し作業と研究を続けている。
本研究では、白山文化遺産のデジタルアーカイブを進め、白山文化遺産を世界遺産に登録できるような条件を検討し、その課題を明らかにすることを目的とする。
研究資料
白山は日本列島のほぼ中央部に位置し、世界有数の豪雪山岳地帯でユネスコの生物圏保存地域にもなっている豊かな自然がある。
白山では山麓一帯が禅定道を基軸に互いに結ばれ、加賀、越前、美濃の三馬場とその禅定道筋にはそれぞれ社寺や集落が形成され、山村特有の生活文化が培われた。
山麓には白山信仰を全国に広めた御師集落で、今もかつての美濃禅定道の面影や、御師の伝統と習俗を色濃く残している石徹白、山麓の村々を統轄した集落で巨大な大壁造りの建築物が見られる白峰などがある。また、厳しい気象条件等に適合した出作り・焼畑という生活形態は、世界でも希有な存在である。このように白山信仰を基盤として白山麓でたくましく生き続けてきた風景は日本人の暮らしを代表する文化的景観である。
石川、福井、岐阜の3県と白山市、小松市、勝山市、大野市、郡上市、高山市、白川村の6市1村は、世界遺産の申請において継続審議となっていた「霊峰白山と山麓の文化的景観」の課題について、2007(平成19)年12月に検討状況報告書並びに再提案書を提出した。
しかし、文化審議会は2008(平成20)年9月、再度暫定リストへの追加登載を見送り、現在、関係自治体で文化審議会の指摘に沿い提案内容などの見直し作業と研究を続けている。
本研究では、白山文化遺産のデジタルアーカイブを進め、白山文化遺産を世界遺産に登録できるような条件を検討し、その課題を明らかにすることを目的とする。
1.白山文化
(1)白山信仰(白山国立公園)の山
白山は雪を被った純白の印象から、古くは「越の白嶺」とも呼ばれ、養老元年(西暦717)に越前の僧「泰澄たいちょう」が開山した信仰の山として知られている。
また、富士山・立山と並ぶ日本三名山の一つでもある。
- 白山比咩神社(加賀馬場の中心石川県白山市鶴来の白山本宮)
- 平泉寺白山神社(越前馬場の中心福井県勝山市)
- 石徹白(いとしろ)
白山周辺に広がる白山国立公園の山麓にある小さな集落。標高700mの高地にある。美濃禅定道の白山中居神社、大師堂、いとしろ多すぎなどの白山信仰ゆかりの寺社や名所は、この石徹白地区にある。
(2)石徹白の歴史
石器土器が出土されていることから縄文時代から人々が生活していたとされており、白山中居神社は景行天皇12年(82)に創建された。
2.世界遺産
「人類共通の財産」世界遺産
世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき「世界遺産リスト」に記載された、「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことです。 「顕著な普遍的価値」は、どの国や地域の人でも、いつの時代のどの世代の人でも、どのような信仰や価値観をもつ人でも、同じように素晴らしいと感じる価値のことで、そうした価値をもつ世界遺産は、人類共通の財産といえます。
世界遺産の分類と数
世界遺産は、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類されます。文化遺産が最も多く、世界遺産の総数は1,000件を超えます。
世界遺産委員会
世界遺産リストに記載する遺産は、1年に一度開催される世界遺産委員会で審議され、登録の可否が決定します。世界遺産委員会では「登録」、「情報照会」、「登録延期」、「不登録」の4段階の決議を行います。
21の委員国からなる世界遺産委員会では、他にも、世界遺産条約を運用していく諸事項や、世界遺産基金の使い道の決定、世界遺産の保全状況の確認、危機遺産リストへの記載の可否など様々な話し合いを行っています。
日本と世界遺産
世界遺産条約が採択されたユネスコ総会の議長は、萩原徹日本政府代表が務めました。しかし、日本が世界遺産条約に参加したのは条約採択から20年後の1992年のことです。 1993年、「法隆寺地域の仏教建造物群」、「姫路城」、「白神山地」、「屋久島」の4件が日本で最初の世界遺産として登録されました。世界遺産保全への協力や、「真正性」などの価値の見直しに日本は重要な役割を担っています。
危機遺産
世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が危機に直面している遺産は、「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に記載され、世界遺産条約加盟国の協力を得ながら、危機を取り除く努力がなされます。 世界遺産の危機としては、戦争や紛争による遺産破壊、密猟や不法伐採などの自然破壊、地震などの自然災害、過度の観光地化や都市開発などが考えられます。危機を取り除くために「世界遺産基金」なども使われます。
世界遺産リストからの削除
世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が失われたと判断された場合は、世界遺産リストから削除されることもあります。これまでに、オマーンの「アラビアオリックスの保護地区」とドイツの「ドレスデン・エルベ渓谷」が削除されました。
(1)世界遺産の基準
【世界遺産に登録されるまでの流れ】
1.各国政府が世界遺産条約を締結・批准
2.各国が作成した暫定リストから推薦書を提出
3.ユネスコの世界遺産センターは推薦書を受理し専門調査を依頼
4.文化遺産…ICOMOSが現地調査などを行う
自然遺産…IUCNが現地調査などを行う
5.ユネスコの世界遺産センターを通して専門調査に基づく勧告
6.世界遺産委員会にて審議・決議
世界遺産登録が決定
(2)世界遺産の登録条件
登録基準所為解散に登録される為には、「世界遺産条約履行のための作業指針」で示されている登録基準、いずれか1つ以上合致するとともに、真実性(オーセンティシティ)や完全性(インテグリティ)の条件満たし、締約国の国内法によって適切な保護管理体制が取られていることが必要。
(i)人間の創造的才能を表す傑作である。
(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(v)あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)
(vi顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
(vii)最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
(viii)生命進化の記録や、地形形成における重要な進行中の地質学的過程、あるいは重要な地形学的又は自然地理学的特徴といった、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な見本である。
(ix)陸上・淡水域・沿岸・海洋の生態系や動植物群集の進化、発展において、重要な進行中の生態学的過程又は生物学的過程を代表する顕著な見本である。
(x)学術上又は保全上顕著な普遍的価値を有する絶滅のおそれのある種の生息地など、生物多様性の生息域内保全にとって最も重要な自然の生息地を包含する。
3.「霊峰白山と山麓の文化的景観」の世界文化遺産登録をめざして
「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」
大野市では、平成19年12月20日に、白山麓の文化遺産群を関係自治体とともに「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」というテーマで、世界文化遺産候補として文化庁に提案しました。
今回の提案は2回目となります。第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に福井県、石川県、岐阜県の3県と、勝山市、白山市、郡上市の3市が共同で行いました。平成19年1月にその審査結果が発表され、提案に対する課題が示され、継続審査となりました。
今回の提案では、文化庁から指摘を受けた課題を修正するとともに、大野市のほか、新たに小松市、高山市、白川村が加わり、共同提案しております。
【主な遺産群】
白山(標高2,702m、ユネスコの生物圏保存地区、高山植物の宝庫、山頂の遺跡群)
信仰の拠点三馬場(勝山市:平泉寺、白山市:白山本宮、郡上市:長滝寺)
禅定道(白山と三馬場を結ぶ参詣道、美濃禅定道が大野市上打波を通過)など
世界遺産とは
さまざまな国や地域の人たちが誇る文化財や自然環境などが、ユネスコの世界遺産として登録されています。
世界遺産には次の3種類があり、有形の不動産が対象となっています。世界遺産の登録件数は1052件(2016年7月現在)です。
・文化遺産 顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など
・自然遺産 顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域
・複合遺産 文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産
日本の世界遺産(20件)
・文化遺産(16件)
1 法隆寺地域の仏教建造物 (平成5年記載)
2 姫路城 (平成5年記載)
3 古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市) (平成6年記載)
4 白川郷・五箇山の合掌造り集落 (平成7年記載)
5 原爆ドーム (平成8年記載)
6 厳島神社 (平成8年記載)
7 古都奈良の文化財 (平成10年記載)
8 日光の社寺 (平成11年記載)
9 琉球王国のグスク及び関連資産群 (平成12年記載)
10 紀伊山地の霊場と参詣道 (平成16年記載)
11 石見銀山とその文化的景観 (平成19年記載)
12 平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群 (平成23年記載)
13 富士山―信仰の対象と芸術の源泉 (平成25年記載)
14 富岡製糸場と絹産業遺産群 (平成26年記載)
15 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業 (平成27年記載)
16 ル・コルビュジエの建築作品 近代建築運動への顕著な貢献 (平成28年記載)
・自然遺産(3件)
1 屋久島 (平成5年記載)
2 白神山地 (平成5年記載)
3 知床 (平成17年記載)
4 小笠原諸島 (平成23年記載)
・複合遺産(0件)
4.霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰 提案書
(2007(平成19)年12月提出)
表紙・目次
(1)提案のコンセプト
1 資産名称・概要
2 写真
3 構成資産の位置図
(2)資産に含まれる文化財
1 整理表
構成資産
参考資産
2 構成資産の位置と写真
A 自然
B 山麓の人々のくらし
C 白山の信仰
参考資産
(3)保存管理計画、又は策定に向けての検討状況
1 個別構成要素に係る保存計画の概要又は策定に向けての検討状況
2 資産全体の包括的な保存管理計画の概要、又は策定に向けての検討状況
3 資産と一体をなす周辺環境の範囲、それに係る保全措置の概要又は措置に関する検討状況
(4)世界遺産の登録基準への該当性
世界遺産の登録基準への該当性
提案書
表紙・目次(PDF:13KB)0-1top
提案のコンセプト 1資産名称・概要(PDF:15KB)1-1concept
提案のコンセプト 2写真(PDF:63KB)1-2concept-photo
提案のコンセプト 構成資産の位置図(PDF:251KB)1-3map1
資産に含まれる文化財 1整理表 構成資産(PDF:260KB)2-1-1list
資産に含まれる文化財 1整理票 参考資産(PDF:260KB)2-1-2list-sankoh
資産に含まれる文化財 2構成資産の位置と写真 自然(PDF:516KB)2-2-1photo-sizen
資産に含まれる文化財 2構成資産の位置と写真 山麓の人々のくらし(PDF:472KB)2-2-2photo-kurashi
資産に含まれる文化財 2構成資産の位置と写真 白山の信仰(PDF:476KB)2-2-3photo-shinkoh
資産に含まれる文化財 参考資産(PDF:162KB)2-2-4photo-sankoh
保存管理計画 検討状況1(PDF:15KB)3-1-1-1plan
保存管理計画 検討状況2(PDF:10KB)3-1-1-2plan
保存管理計画 検討状況3(PDF:15KB)3-1-1-3plan
登録基準の該当性(PDF:12KB)4gaitoh
5.国史跡平泉寺を含む白山麓の文化遺産の世界遺産登録をめざして
勝山市では、平成19年12月20日に、市内にある国史跡白山平泉寺旧境内を含む白山麓の文化遺産群を「霊峰白山と山麓の文化的景観」というテーマで、関係自治体とともに世界文化遺産候補として文化庁に再提案しました。
今回の提案は2回目となりますが、第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に福井県、石川県、岐阜県の3県と、勝山市、白山市、郡上市の3市が共同で行いました。その審査結果の発表は、昨年の1月にあり、「白山」の提案は、他の提案19件とともに継続審査となっていました。
今回の再提案では、文化庁からの指摘事項を修正して提出しています。もっとも大きな修正点は、共同提案した自治体が増えたことです。今回の提案では、新たに大野市、小松市、高山市、白川村の3市1村が加わり、霊峰白山を取り巻く自治体の共同提案が実現しました。
霊峰白山は秀麗な山容で知られ、古くから多くの人々の信仰をあつめてきました。その信仰の拠点は三馬場(さんばんば)と呼ばれ、福井県では勝山市の平泉寺(現在は平泉寺白山神社)、石川県では白山市の白山本宮(現在は白山比め神社)、岐阜県では郡上市の長滝寺(現在は白山長滝神社)をさします。特に勝山市の平泉寺では、“石造りの中世宗教都市”とも言える貴重な遺構が数多く見つかっています。
霊峰白山とその信仰の拠点“三馬場”、両者をつなぐ禅定道(ぜんじょうどう)、さらにその周辺には、信仰に関わる貴重な遺跡が数多く残されています。また、標高500m以上の白山山麓一帯には、豪雪地帯特有の歴史的な建物群が多く残り、日本を代表する貴重な遺産群となっています。
こういった白山と山麓の貴重な文化遺産を世界遺産として守り伝えていくために、今回の提案となりました。
主な遺産群
白山(標高2,702m、ユネスコの生物圏保存地区、高山植物の宝庫、山頂の遺跡群)
信仰の拠点三馬場(勝山市:平泉寺、白山市:白山本宮、郡上市:長滝寺)
禅定道(白山と三馬場を結ぶ参詣道)
白山麓の豪雪地帯にある伝統的な建物群(白山市白峰地区、郡上市石徹白地区)など
- 表紙 (5.5 KB)4265
- 提案のコンセプト (1.2 MB)4266
- 資産に含まれる文化財 (1.8 MB)4267
- 保存管理計画 (706.5 KB)4268
- 世界遺産の登録基準への該当性 (14.7 KB)4269
引用
白山文化(白山信仰・石徹白)https://tabitabigujo.com/appeal/hakusanshinko-faith/about/
公益社団法人日本ユネスコ協会連盟 世界遺産の基準 https://www.unesco.or.jp/activities/isan/decides/
資料
2.プレゼン資料
世界遺産としての白山文化の研究
第1章 緒 言
1,はじめに
白山は日本列島のほぼ中央部に位置し、世界有数の豪雪山岳地帯でユネスコの生物圏保存地域にもなっている豊かな自然がある。白山では山麓一帯が禅定道を基軸に互いに結ばれ、加賀、越前、美濃の三馬場とその禅定道筋にはそれぞれ社寺や集落が形成され、山村特有の生活文化が培われた。山麓には白山信仰を全国に広めた御師集落で、今もかつての美濃禅定道の面影や、御師の伝統と習俗を色濃く残している石徹白、山麓の村々を統轄した集落で巨大な大壁造りの建築物が見られる白峰などがある。また、厳しい気象条件等に適合した出作り・焼畑という生活形態は、世界でも希有な存在である。このように白山信仰を基盤として白山麓でたくましく生き続けてきた風景は日本人の暮らしを代表する文化的景観である。
本研究では、この白山文化遺産の世界遺産への登録の課題を分析し、デジタルアーカイブの必要性について明らかにする。
この、世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき「世界遺産リスト」に記載された、「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことである。 「顕著な普遍的価値」は、どの国や地域の人でも、いつの時代のどの世代の人でも、どのような信仰や価値観をもつ人でも、同じように素晴らしいと感じる価値のことで、そうした価値をもつ世界遺産は、人類共通の財産といえる。世界遺産は、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類される。文化遺産が最も多く、世界遺産の総数は1,000件を超えている。世界遺産リストに記載する遺産は、1年に一度開催される世界遺産委員会で審議され、登録の可否が決定します。世界遺産委員会では「登録」、「情報照会」、「登録延期」、「不登録」の4段階の決議を行う。21の委員国からなる世界遺産委員会では、他にも、世界遺産条約を運用していく諸事項や、世界遺産基金の使い道の決定、世界遺産の保全状況の確認、危機遺産リストへの記載の可否など様々な話し合いを行っている。
例えば、大野市では、平成19年12月20日に、白山麓の文化遺産群を関係自治体とともに「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」というテーマで、世界文化遺産候補として文化庁に提案した。今回の提案は2回目となる。第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に行った。平成19年1月にその審査結果が発表され、提案に対する課題が示され、継続審査となった。今回の提案では、文化庁から指摘を受けた課題を修正するとともに、大野市のほか、新たに小松市、高山市、白川村が加わり、共同提案している。
そこで、石川、福井、岐阜の3県と白山市、小松市、勝山市、大野市、郡上市、高山市、白川村の6市1村は、世界遺産の申請において継続審議となっていた「霊峰白山と山麓の文化的景観」の課題について、2007(平成19)年12月に検討状況報告書並びに再提案書を提出した。
しかし、文化審議会は2008(平成20)年9月、再度暫定リストへの追加登載を見送り、現在、関係自治体で文化審議会の指摘に沿い提案内容などの見直し作業と研究を続けている。
本研究では、白山文化遺産のデジタルアーカイブを進め、白山文化遺産を世界遺産に登録できるような条件を検討し、その課題を明らかにすることを目的とする。
第2章 白山文化とは
1.白山信仰
白山
白山は、岐阜県、福井県、石川県、富山県の4県にまたがる山で、富士山、立山とともに日本三名山といわれることがあります。白山は主峰を持たない山で、御前(ごぜんが)峰(みね)(2,702メートル)、大汝(おおなんじが)峰(みね)(2,684メートル)、剣ケ峰(けんがみね)(2,677メートル)の3つの峰からなります。ここに別山(べっさん)も含めて、ひろく白山と総称することもあります。古来は「しらやま」と呼ばれていたようです。
白山には貴重な植物が多く、「ハクサンコザクラ」「ハクサンイチゲ」など白山の名前を冠する植物も18種類あります。昭和37年(1962)に白山国立公園に指定されたのに続き、森林生態系保護地域、カモシカ保護地域にも指定されています。国際的にもユネスコの生物圏保存地域に指定されるなど、国際的にも高い評価がされているといえます。
白山信仰のはじまり
一年中雪を頂き、長良川(岐阜県)、九頭竜川(福井県)、手取川(石川県)、庄川(富山県)の水源となる白山は、古来から人びとの崇拝の対象であったと考えられます。
白山信仰は、御前(ごぜんが)峰(みね)には伊弉冉(いざなみの)尊(みこと)(別称・白山(はくさん)妙(みょう)理(り)大菩薩(だいぼさつ)。本地仏は十一面観音で白山妙理大権現ともいう。)、大汝(おおなんじが)峰(みね)には大己(おおなむ)貴(ちの)尊(みこと)(本地仏は阿弥陀如来)、別山には小白山(こはくさん)別山(べっさん)大行事(だいぎょうじ)(本地仏は聖観音)がましますとされる、白山三所(はくさんさんしょ)権現(ごんげん)の考え方を基礎とし、神仏習合の山岳信仰として発展しました。養老元年(717)に、越の国(現在の福井市)の僧・泰澄が白山を開いたことに始まるとされています。※本地仏神は、仏や菩薩が人間を救うために仮の姿で現れたものという考え方に基づき、本来の姿である仏や菩薩のことを本地仏といいます。
馬場と禅定道
白山信仰が確立していく中で、天長9年(832)には、馬場(ばんば)と禅定(ぜんじょう)道(どう)が整えられたとされます。 馬場とは、白山を遥拝する場所のことで、この馬場から白山への登拝路のことを禅定道といいます。美濃の白山本地中宮長滝寺(現・長滝白山神社/長瀧寺、郡上市白鳥町長滝)、越前の白山中宮平泉寺(現・平泉寺白山神社、福井県勝山市)、加賀の白山本宮白山寺(現・白山比咩(しらやまひめ)神社、石川県白山市)の3つの馬場と、この馬場からそれぞれに白山へ登拝する禅定道(美濃禅定道、越前禅定道、加賀禅定道)がありました。
白山信仰の歴史
白山を開いたとされる僧・泰澄が、聖武天皇の病気を平癒したり、伝染病の流行を治めたりしたことで、白山も広く諸国からの崇敬を集めたと伝えられます。 平安時代初期から、天台・真言宗の力が増すとともに、天長5年(828)に長滝寺がいちはやく天台宗比叡山延暦寺の末寺となったことに続き、ほかの馬場が置かれた平泉寺、白山寺も延暦寺の末寺となっていきます。 平安時代中期以降は、山岳修験道の母胎として、諸国から多くの信者が白山へ登拝するとともに、時の権力者たちも信仰を寄せ、白山信仰は隆盛期を迎えます。 鎌倉・室町時代を境に、諸国の政情不安により徐々に白山神の威光は最盛期の力を失ってゆくものの、江戸時代には藩主から寄進を受けるなど、人びとの信仰を集めていました。
しかし、明治元年(1868)に明治政府が出した「神仏判然令」は神仏分離を命じたもので、神仏混淆の白山信仰は大きな影響を受けました。
2.美濃馬場と禅定道
美濃馬場・白山本地中宮長滝寺の歩み
現在の郡上市白鳥町長滝におかれた美濃馬場(ばんば)・白山本地中宮長滝寺は、養老元年(717)に越の国(現在の福井市)の僧・泰澄が白山中宮を創建したことに始まるとされます。その後、天平2年(730)に元正天皇が、本地十一面観音、聖観音、阿弥陀如来の三像を奉納したことから、白山本地中宮長滝寺と称するようになったと伝えられます。
長滝寺は、天長5年(828)に、法相宗から天台宗に改宗し、近国における総本山として勢力を増し、同寺の周辺には「6谷6院360坊」といわれるほどの塔頭や宿坊が立ち並んだと伝えられます。治安元年(1021)には後一条天皇の勅命で国家鎮護の祈祷をし、天台別院という高い格式を得ました。
美濃側からの白山への登拝拠点として、尾張・駿河方面からの登拝者たちを迎えたとされます。また、藤原秀衡が鐘楼を寄進したこと、足利尊氏が祈祷を依頼したことなどが記録されており、その時代の権力者の信仰も集めていたと推測されます。
明治元年(1868)の神仏分離令により、白山本地中宮長滝寺は、神を祀る長滝白山神社と、仏を祀る長瀧寺の2つに分離されました。 明治32年(1899)には、濃州第一とうたわれた社殿仏閣は灰燼に帰しましたが、国指定重要文化財の釈迦三尊像などかつての白山信仰の栄華を伝える宝物等が今に伝えられ、一部は龍宝殿や白山文化博物館で公開されています。
美濃禅定道
馬場(ばんば)から白山への登拝路のことを禅定(ぜんじょう)道(どう)といいますが、美濃馬場を起点にする禅定道を美濃禅定道といいます。 美濃禅定道は、白山本地中宮長滝寺を起点に、床並とこなみ社、桧峠を越え、白山中居神社へ。その後、美女下社、今冷泉いましみず社、石徹白大スギ、神(かん)鳩(ばと)社から銚子ケ峰、一ノ峰、ニノ峰、三ノ峰、南竜ケ馬場、別山を経て白山へ至る道のことで、一般の登拝者が登った道だと伝えられます。
行者(山伏や修験者たち)が通った行者道は、白山本地中宮長滝寺から、一ノ宿、二ノ宿、三ノ宿、多和宿、国坂、泉ノ宿、中須、大日宿、カウハシを経て神鳩宿で禅定道と合流しました。 美濃禅定道は、3つの禅定道の中で最も登拝者が多かった道だとされます。
その盛況さを示す言葉として「のぼり千人、くだり千人、ふもと千人」があります。史料からは、実際の登拝者はもっと少なかったと推測されますが、この道が、美濃・尾張方面からの多くの登拝者たちで賑わったことを思い起こさせます。
白山信仰の衰退とともに、美濃禅定道も荒廃しましたが、一部が復元されています。
3.石徹白と白山信仰
石徹白
石(い)徹(と)白(しろ)地区は、郡上市白鳥町に位置し、白山連峰に源を発した石(い)徹(と)白川(しろがわ)に沿った集落です。人口は316人(平成17年度国勢調査)、地区内は、上在所(かみざいしょ)、西在所(にしざいしょ)、中在所(なかざいしょ)、下在所(しもざいしょ)の4地域にわかれ、いずれも標高約700メートル以上の高地にあります。 石徹白という地名の由来は、「いしどうしろ」から転じて「いとしろ」となったとする説など、諸説あります。
地区内の寺社は、白山(はくさん)中居(ちゅうきょ)神社(じんじゃ)、安養寺(あんにょうじ)道場、白鳥山威徳寺(いとくじ)、雷鳥山円周寺(えんしゅうじ)です。地区内の文化財は、国指定特別天然記念物「石徹白の大スギ」、国指定重要文化財「銅像虚空像(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)坐像(ざぞう)」、県指定重要文化財「白山中居神社の彫刻」県指定天然記念物「浄安(じょうあん)スギ」のほか、県指定文化財7件、市指定文化財8件があります。
石徹白地区の歴史
石徹白地区からは、縄文式土器や石器類が発掘されており、古くからから人びとが生活をしていたものと推測されます。 養老元年(717)に僧・泰(たい)澄(ちょう)が白山を開いた際に、石徹白地区の白山中居神社の社域を拡張し、社殿を修復したと伝えられます。
石徹白地区は、全域が、この白山中居神社の神領でした。人びとは、社家・社人と呼ばれ、それぞれに白山中居神社と関わりあいながら暮らしました。神領ということから、無税(税金が免除)で、名字を名乗ること、帯刀を指すことが許されていました。
また、無主(むしゅ)無従(むじゅう)で、いわゆる大名領になったことはほとんどありません。石徹白地区の主要な出来事は、オトナ(頭社人)と呼ばれる12人の人びとの合議によって決められました。 このような石徹白地区で、江戸時代中期の宝暦年間には、真宗道場威徳寺の昇格を発端とし、白山中居神社の神職間の対立関係が原因の「石徹白騒動」が、明治初年には新政府の神仏分離令に端を発する神仏分離騒動が、そして昭和30年代初期には越県合併問題という、石徹白地区内を2分するような騒動が3度起きています。
社家・社人
石徹白地区の中でも、白山中居神社がある上在所(かみざいしょ)の人は社家(しゃけ)とよばれ、そのほかの在所の人びとは社人(しゃじん)といわれました。また、小谷堂(こたんどう)・三面(さつら)集落の人びとは、末社人と呼ばれました。 社家は、神に仕えることを本職とし、神頭、神主、幣司、神楽司等として、白山中居神社の神事・祭礼をつかさどりました。 社人は、平常は百姓をしていながら、白山中居神社の祭事のときに奉仕した人びとのことで、同社の維持管理を担いました。
社家・社人たちの暮らしと白山信仰
「木山三里、笹山三里、はげ山三里」といわれた白山への長い禅定道では、登拝者たちに先達(案内人)は欠かせないものでした。行者(ぎょうじゃ)(修験者・山伏等)以外の登拝者たちは、石徹白地区で1泊した後、銚子ケ峰、別山を経て白山を目指したとされます。
こうした登拝者たちの宿坊を営み、祈祷をし、登拝者たちの案内人をしたのが御師(おし)と呼ばれる人びとです。冬場は、白山神の羽織袴に帯刀を指し、雷除けの護符に牛王札、白山の薬草、白山略図を持って、各地の檀那場を回り、白山信仰を広めました。檀那場を一回りすると金50両・米50俵などの寄進があったともいわれます。
御師は、上在所の社家がなりました。社家は、神に仕えることを本職としたので、御師としての収入が、生活の支えでした。 一方で、平常は百姓として田畑を耕作していた社人たちは、石徹白地区が白山中居神社の神領として無税であったことから、収穫物は全て自分のものとなりました。 社家は、御師として、社人は、神領ゆえ無税という恩恵を受けながら、白山信仰の中で生活をしていました。
第3章 白山文化遺産の構成
1.郡上市白鳥町
岐阜県郡上市白鳥町は長良川の上流に位置し、白山山系の山々と小高い山地に囲まれた山間の地である。集落の多くは長良川が堆積した狭い平地や山裾に立地している。
江戸時代、二十一カ村あった集落は統合や合併を重ね、現在では白鳥町の十八の地区に再編され、存続している。町域を走る基幹交通は東海方面から北陸、越前へと抜ける国道156号線、国道158号線であり、その結節点でもある白鳥町は白山麓の交通の要所として多くの情報や文物が行き通う地となっている。
白鳥町長滝の長良川右岸には養老元年(717)年に白山の開祖泰澄(たいちょう)大師が創建したと伝えられる長滝白山神社と天台宗長龍寺がある。神社は東海方面の白山信仰の拠点であり、平安時代以降、「上がり千人、下り千人」、「菅笠の尾が触れる」と言われるほど多くの白山参詣者が参拝し、繁栄している。
長期にわたって長滝の神社等から発せられる白山神事や白山祭礼の影響もあって白鳥町一円には白山信仰によって醸成されてきた共通の風俗、慣習、生活様式等が集落の枠を超えて広がり、盆踊り、祭礼等となって今日まで引き継がれている。
また、長滝白山神社・長龍寺や石徹白の白山中居(ちゅうきよ)神社等には白山参詣者が寄進した奉納物や白山信仰の遺構も数多く残されている。白鳥町には盆踊りや祭礼、奉納物や遺構が醸し出す歴史と文化の香りが町一帯に漂い、近年、白鳥町は「白山文化の里」とも称されるようになっている。
郡上市白鳥町白鳥の風景
東海地方と北陸、越前方面を結ぶ交通の要所であり、市街地は白鳥神社を中心に長良川左岸沿いに南に伸びている。
長滝白山神社と長滝寺
長良川上流の右岸、白山山系の山裾に鎮座する。境内には長滝寺もあり神仏習合の面影を留めている。
1. 白山への祈り~美濃馬場の白山信仰
白山は御前ケ峰、剣ケ峰、大汝峰の三峰を持ち、石川県、福井県、岐阜県の3県にまたがる標高2702メートルの山である。単独でそそり立つ白山は遠く離れた濃尾平野や北陸各地からも眺望することができる。青空を背景に白雪を戴くその山姿は神々しさと清楚な美しさを感じさせ、古来より神が住む山として人々の尊崇と畏怖の対象になってきた。
○ 「霊山」崇拝
郡上一円の集落では古来から白山を「山の神」が宿る霊山として畏敬、崇拝する素朴な山岳信仰が人々の間に根付いていた。長滝白山神社や石徹白の白山中居神社、集落の白山神社の境内や森は「山の神」が宿る神域として神聖視されてきた。
禅定道に架かる注連縄(しめなわ)
白山中居神社入り口付近の上在所集落に架けられている。
注連縄の架かる地から神聖な地となる。
布橋灌頂(ぬのはしかんじょう)
白山中居神社境内を流れる宮川に架かる橋。彼岸と此岸を繋ぐ橋。参詣者はこの布橋より神域に入ったとされる。以前までは木造の橋で白布がされていたと伝えられる。
白山中居神社の磐境(いわさか)
古代の斎場、神霊が降臨する場。神殿が建てられる前までは祭祀の場であった。山岳信仰の面影が残る。
白山を霊山として神聖視することで白山麓や社域には広大な自然環境が手つかずのまま保全された。白山山系の山々から流れ出る谷川は長良川の清冽な流れとなり、流域に住む多くの生命を育んできた。
清流長良川
山間の谷間から平地に流れ出た長良川は水面に翠を映じながら穏やかな流れとなる。
長良川での游泳
白鳥町二日町。清流長良川に点在する深みは子供たちの絶好の游泳場となる。
長良川の鮎釣り風景
清流長良川は鮎などの川魚が多く生息している。シーズンに入ると東海地方等からの太公望で賑わう。
清流長良川あゆパーク
平成三十年六月に白鳥町長滝の「道の駅」にオープン世界農業遺産「清流長良川の鮎」に関する情報発信の場として開館。魚釣りやつかみ取り等、漁業に関する体験学習が行われている。
○「水分神(みくまりのかみ)」崇拝
美濃側の白山山系から流れ出る川は多くの支川を集め長良川となり、山間地を蛇行しながら河岸平野を形成し、流域の平野を潤して伊勢湾に注いでいる。白山山麓や長良川の流域で生活する人々にとって、日々見慣れた白山は飲料水や灌漑用水を供給する恵みの山であった。
白山から流れ出る大量の水によって土地の開墾がなされ、農耕地が拡大し収穫が増加するにつれ、人々の間では白山を生活に不可欠な水を供給し、五穀豊穣をもたらす水分神が鎮座する山として畏敬、崇拝する素朴な山岳信仰が生まれ、長良川やその支川沿いの集落には白山神社や小祠、遙拝所が祀られようになる。
蛭ヶ野高原の分水嶺
白山山系から流れ出る水は郡上市高鷲町蛭ヶ野の地で分岐し、長良川、荘川の流れとなってそれぞれ伊勢湾、日本海へと流れ込む。
長良川の源流 阿弥陀ヶ滝
長良川最上流にあり、落差は60m、豊富な水量で知られる東海地方唯一の名瀑。泰澄大師によって発見されたと伝えられ、長滝白山神社の神官、僧侶、修験者の修行の場であり、白山参詣者が身を清めた滝でもある。滝までの散策路は森林浴にも適している。日本の滝百選に指定されている。(県指定名所)
長良川沿いの水田地帯
白鳥町二日町。長良川から取水された豊富な農業用水が集落に豊穣をもたらす。田植え間もない頃の風景。
集落の白山神社
神社は集落の氏神であり、白山神への豊穣祈願と報謝の場でもある。白鳥町の集落の大半が白山神社を勧請している。
○「霊水」崇拝
白山の開祖泰澄大師が千匹の悪蛇を封じたとされる万年雪の積もる「千蛇ガ池」や断崖絶壁、千仞の滝から流れ落ちる白山の水は人の齢を延ばす水とされてきた。美濃馬場には白山からの湧水を霊水とする信仰が見られる。
白山千蛇ケ池の霊泉
長滝白山神社境内にある湧水。「白山千蛇ケ池」から湧き出る霊泉と伝えられ、命を長らえる薬水として神社参詣者に愛飲された。
延年(えんねん)水(すい)
長滝白山神社境内にある。別名を「千蛇ケ清水」と言い、夏でも枯れることはない。古文書には「道雅上人加持水」と記され、神社ではこの霊水を神仏に供え、五穀豊穣、悪霊退散の加持祈祷を行っていた。また、神社が発行し、各地に配布される牛王札(ごおうふだ)の「白山瀧(りゅう)宝(ほう)印」はこの霊水を使用し、刷られていた。
村間ケ池(むらまがいけ)
神秘的な光景が漂う池。千蛇が住むとの伝承が伝えられている。池の湧水は年中一定の水量が保たれている。水面には睡蓮科のコウホネや羊草が花を咲かせる。白鳥町前谷地区の標高七百メートルの山中にある。(市指定天然記念物)
2. 長滝白山神社の景観
養老元年(717)、越前の僧泰澄大師は「霊山」として神聖視されていた白山に始めて登拝している。天長九年(832)には、美濃、加賀、越前の三方から白山への登拝道(禅定道(ぜんじょうどう))が開かれ、その登拝拠点には「三馬場(さんばば)」と称される社寺がそれぞれ置かれた。美濃側からの登拝拠点である「美濃馬場」の長滝白山神社は白山の名声が高まるにつれ、東海地方から多くの白山参詣者や修験者が訪れ、賑わいを見せるようになる。
平安時代後期には白山麓一円に広大な寺領を有し、「神殿仏閣三十六余宇、六谷六院、僧坊三百六十」と言われ、神仏習合の「白山中宮長滝寺」と称し法灯の最盛黄を向かえている。長滝寺では天下太平、五穀豊穣を祈願する白山神事祭礼や『延年』、そして『法華経』八巻を朝夕1巻ずつ四日間にわたり修する「修正会」、「修二会」等の法会等が宝治二年(一二四八)から約六百年間に渡って続けられてきた。
明治元年(1868)の神仏分離令によって「白山中宮長滝寺」は天台宗の白山長滝寺と長滝白山神社に分離し、存続の危機に瀕したが、長滝地区の氏子衆の協力もあり、祭礼や法会は失われることなく今日まで継承されている。神社境内には盛時の神仏習合の面影を伝える神殿、仏閣、堂宇の遺構、宿坊が佇み、参拝者を迎えている。
長滝白山神社の参道
参道が神社本殿に向けて伸びている。付近を長良川鉄道、国道156号線が並行して走る。
長滝白山神社の本殿
白山三神(白山妙理大権現、大己(おお)貴(な)尊(むち)、別山大行事(だいぎょうじ))を祀る。本地(ほんち)垂迹(すいじゃく)説では白山妙理大権現は十一面観自在菩薩、大己貴尊は阿弥陀如来、別山大行事は聖観音の垂迹とされている。
長滝寺
天長五年(828)、法相宗から天台宗に改宗、その後、比叡山延暦寺別院となる。明治の神仏分離で天台宗白山長滝寺となる。『郡上踊り』の踊り曲<かわさき>で「郡上に過ぎたは長滝講堂」と歌われた講堂は明治三十二年の大火で焼失、残された礎石が往時の面影を伝えている。
石(いし)燈(とう)籠(ろう)
神社本殿と長滝寺の双方に直面する位置に立てられている。正安四年(1302)に伝燈大法師覚海が寄進した燈籠。(国指定重要文化財)刻銘「正安四年壬寅七月日 願主伝燈大法師覚海」
宝篋印塔(ほうきょういんとう)
印経文を納める塔。天保四年(1833)、長滝寺僧侶の良雅の本願で寄付を募り建てられた。(市指定重要文化財)
天神堂
昭和六年に神社に合祀された。毎年二月二十五日に男の子の学問向上を願い、『天神祭り』が長滝地区の氏子衆によって行われる。
弁天堂
毎年八月七日に女子の成長と五穀豊穣を祈願する『弁財天七夕祭り』が長滝地区の氏子衆によって行われる。正応五年(1292)建立、その後焼失。
三重塔跡
神社の西側の山裾にはかって三重塔、常行堂、法華堂、開山堂等の堂宇が建ち並び、威容を誇っていた。三重塔は天正十三年(1583)の大地震と大風によって倒壊、嘉永六年(1853)に郡上藩に再建願いが提出されたが認可されず。
宝憧坊(ほうどうぼう)
参道入り口に位置している。多くの僧坊が退転する中、今日まで存続している坊である。僧坊には長滝寺僧侶や修験者が起居し、僧侶は月ごとに順に『荘厳講(しょうごんこう)』の執事を勤めた。また、白山参詣者の宿泊所ともなった。
蔵泉坊跡
寛文九年(1669)には僧坊数は二十七坊あったが寛延三年(1750)には十四坊になり、半減している。明治元年の神仏分離で多くの僧坊が退転、廃絶している。明治七年の神社記録には存続している坊とし蔵泉坊、大日坊、竹本坊、宝憧坊、経聞坊、持善坊、阿名院の七坊が挙げられている。蔵泉坊の名もあることからその後に退転したと思われる。
経聞坊(きょうもんぼう)
江戸時代、長滝寺の坊の中で格式が最も高い僧坊。今日まで存続している。享保年間、経聞坊の檀那場は尾州、三州、美濃等の百ケ村余りの農村を中心に、名古屋では武士にも及んでいた。経聞坊からは、終日読経が参道に流れていたと言われる。
阿名院(あみよういん)
廃絶した山伏寺の花蔵院を室町時代に経聞坊隠居の道雅法印が再興、長滝白山神社に残る唯一の坊院。境内には歴代の長滝寺僧侶の墓や六十六部廻国碑等がある。
若宮家
長滝白山神社の執行家、現在の建物は天明五年(1785)、文化八年(1811)にそれぞれ建築されている。(県指定重要文化財)
金剛童子堂
白山修験者は金剛童子堂、護摩檀で護摩を焚き、祈祷の峰入り儀式を行った。長滝寺には応仁二年(1468)の金剛童子堂再建の棟札がある。明治五年に修験道は廃止。
護摩壇跡
護摩を焚いた当時の礎石が残る。金剛童子堂の前にある。
入峯堂跡
白山修験者は峰入りの儀式を受けた後、入峯堂に籠もり身心を清め、一般の白山参詣者が利用する美濃禅定(ぜんじょう)道(どう)とは異なる行者道で白山頂上へと向かった。
行者道の跡
行者道のおおよその行程は「金剛童子堂」~「一ノ宿」~「三ノ宿」~「三国峠」~「大日宿」~「神鳩」~「白山頂上」であった。途次、「白山二十八宿」で山伏は修行し宿をとった。今日、道の多くに草木が生い茂り、わずかな痕跡を残すのみである。
3. 長滝白山神社の奉納遺産
長滝白山神社には尾張や三河から多くの白山参詣者が訪れている。長滝白山神社にはこれらの白山参詣者が五穀豊穣、延命息災等を祈願し、奉納した奉納遺産が数多く残されている。現在、これらの奉納遺産は白山文化博物館の常設展、及び白山瀧宝殿で見ることができる。
瓶子(べし)
正和元年(1312)に中島郡奥田にある天台宗の安楽寺高僧の栄秀が白山神に奉納。「中島郡奥田」は現在の愛知県稲沢市奥田町にあたる。(国指定重要文化財)
瓶子
尾州愛知郡の清原広重が同型の瓶子を同じ正和元年十二月に奉納している。「尾州愛知郡」は現在の愛知県愛知郡東郷町、日進市、長久手市、瀬戸市付近。(国指定重要文化財)二口ともに神前に配される酒器。
昭和八年(1933)越美南線工事中、神社近くの民家の地下から対で掘り出された。正和元年制作の古瀬戸は他に類をみない。二口の瓶子は形状もほとんど同一で同一制作者である。奉納者の清原広重は瀬戸物の産地の瀬戸市付近に住んでいることから、安楽寺の阿闍梨の栄秀が陶工の清原広重に制作を依頼し、二口制作し、二人で別々に奉納した瓶子と思われる。
仏餉(ぶっしょう)鉢(ばち)
正和三年(1314)に伴友長が奉納した鉢。米や供物を仏前に盛る容器。奉納された三口のひとつ。(国指定重要文化財)
吊り燈籠
天文年間に愛知県犬山市の水野勘左衛門が所願成就を願い奉納した吊燈籠。釣環は亡失している。(市指定重要文化財)
五部(ごぶ)大乗(だいじょう)経(きょう)唐(から)櫃(びつ)
弘安二年(1279)に白山の別山社に五部大乗経を施入した際に使用したスギ材の唐櫃。奉納の銘文は、うちぶたに朱漆で記されている。
(県指定重要文化財)
経机(きょうづくえ)
静岡県袋井市国本の住人平野常光と平野勝五郎の両名が奉納した木製の机。(県指定重要文化財)
狩衣
尾州名古屋の有萱又左衛門が元和六年(1620)に奉納。長滝寺の修正会の後宴『延年』の演目<当弁>で役者が着した狩衣。
蝶と梅模様、牡丹模様の二流が残されている。(国指定重要文化財)
能面<翁>
駿河の人が天文十一年(1542)に奉納した翁面。長滝寺では戦国時代、越前から大和五郎大夫が来訪し僧侶に能を教え、その成果が『延年』や領主ので演じられていた。本面は五穀豊穣、天下太平を言祝ぐ長滝寺の神事能<式三番>で使用された面。制作者の「酒惣」の出自については不明。(国指定重要文化財)
古猿楽面(1)
応安二年(1369)に奉納された面。『延年』で演じられていた物真似芸の猿楽で使用された面と思われる。(尉)面が様式化される以前の面(国指定重要文化財)
古猿楽面(2)
『延年』の物真似や田楽で使用されていた面。頻繁に使用された形跡がある。能面制作史上、注目される面。(国指定重要文化財)
能面<若い女>
白山参詣者が文明二年(1470)に奉納した能面。女面の様式が統一される移行期に制作された面と思われる。天文年間、『延年』の能で大和五郎大夫や長滝寺僧侶が手猿楽で使用した面。(国指定重要文化財)
能面<喝食(がっしき)>
福井県福井市北庄の住人が元和二年(1616)に延命息災を願い長滝白山神社に奉納した面。面裏の鼻の部分に「◇」が刻されていることから、面は近江の世襲面打ち井関家が戦国時代に制作した面と思われる。「喝食」とは禅寺にて寺院の雑務等に従事する半俗半僧の僧を言う。(国指定重要文化財)
4. 白山への道~美濃禅定道の遺構
長滝白山神社に参詣し、供物を奉納した参詣者は白山頂上を目指した。長滝白山神社から頂上への道は美濃禅定道と呼ばれ、長滝白山神社を起点に郡上市白鳥町前谷を経て、白鳥町石徹白の白山中居神社より白山頂上に至る全長約40キロメートルの山道である『白山之記』に「白山は観音菩薩利益の砌なり。一度清涼の峰を践(ふ)めば、必ず文殊の利益に預かり、一度白山によづる類観音の冥助を疑がはざるものか」とある。白山参詣者は禅定道沿いにある道標や白山神を祀る社や小祠、泰澄大師の事蹟跡、修行僧が籠もった石室の修行跡に遺徳を偲び、白山の懐に懐かれたとの幸福感を懐きながら、登拝の危険や辛苦も厭わず、白山の奥宮を目指したのである。白山登拝を成し遂げた参詣者の多くは頂上に祀られた仏像や石垣で防御された粗末な奥宮、御来迎や日没の神秘的な光景を目の当たりにし、白山神への尊崇の念をさらに高揚させたものと思われる。
文化四年(1807)の初秋に白山登拝を行った白鳥町歩岐島の悲願寺住職は次ぎのような行程を経ている。
長滝白山神社~床並社~桧峠~一之瀬社~石徹白~白山中居神社~斧石~美女下社犬石~おたけり坂~かぶろ杉~神鳩宮~母御石~銚子ガ峯~一の峯~二の峯~三の峯美濃室跡~御手洗池~別山~大屏風~小屏風~南龍が馬場~高天原~御前峯~白山奥宮剣が峯~翠が池~大汝峯~蛇塚~市ノ瀬
住職は奥宮に参拝後、越前禅定道を下り、市ノ瀬経由で杉峠を越え、大野市の鳩ヶ湯、和泉を経て白鳥町歩岐島に戻ったと思われる。白鳥町を通過する美濃禅定道は近年まで生活道としても利用されていたが、国道156号線や県道314号線(石徹白・前谷線)の整備によりその多くが欠失し、道筋は不明になりつつある。残された禅定道には草木が生い茂り、かつて参詣者を癒やした社や小祠、石仏等は道沿いにひっそりと佇んでいる。一方、林道の敷設により新たな登山口となった「石徹白の大杉」付近から別山までの禅定道は大正年間以降、石徹白の人々やボランティアによって毎年、「白山道刈り」が行われ、道の保全と維持がされている。
十一面観音像の道標
白鳥町前谷の国道156号線と県道314号線が分岐する地。台座には「右飛騨道 左白山」とあり、文久元年(1861)に当地の氏子衆が奉納している。
前谷の禅定道
白鳥町前谷の県道314号線沿いに残る。
禅定道にある床(とこ)並(なみ)社跡
白鳥町前谷の山中。参詣者が礼拝し、疲れた体を休めた社。明治期に前谷の白山神社に合祀され、その社跡には前谷の氏子によって建てられた石碑と二十段の石段が整備されている。
床並社跡付近の禅定道
利用されなくなった禅定道の石畳には雑草が生い茂っている。
桧峠付近の禅定道と小祠
白鳥町前谷と白鳥町石徹白の境界。桧峠はかって「三国峠」とも呼ばれていた。道筋には草木が生い茂っている。
石徹白の山中の禅定道
禅定道は生活道として近年まで利用されていた。
カルヴィラいとしろ付近。
中在所にある禅定道の道標
禅定道と大野道(福井県大野市方面)との分岐点に置かれ、
「是より右ハ白山左ハ大の」
とある。
石徹白集落の禅定道
禅定道は集落の東側を走り、
白山中居神社へと続く。
「浄安スギ」付近の禅定道
利用されなくなって久しい。近年、付近の禅定道が整備されつつある。樹齢1200年と言われる「スギ」は多くの登拝者を見てきたのであろう。
禅定道にある美女下社跡 禅定道に残る社の礎石
白山への女人登拝はここから禁制になっていた。社跡には大杉の切り株跡が残る。
禅定道にある斧石
泰澄が登拝の折、使用していた斧を「結界」との理由で石に打ち付け、刃をつぶしたとの言い伝えがある。石の穴はその際のものと言われる。
禅定道にある犬石
泰澄の母の下山を待つ侍女が石になったと伝えられる。
白山登山口
林道の敷設により標高965メートルの地に新たに設けられた石徹白からの登山口。30台の駐車可。石段を登りきると「石徹白の大スギ」付近を通過する禅定道と合流する。
石徹白の大スギ
推定樹齢1800年、周囲十二メートル、十二人抱えの大杉と言われる古木。「大スギ」は禅定道を往く多くの登拝者を見守ってきたのであろう。(国指定特別記念物)
白山登山道の清掃
ボランテイアによる清掃。「石徹白の大スギ」付近。
5. 石徹白集落の風景
白山中居神社がある郡上市白鳥町石徹白は白山南麓の緩やかな傾斜地に開けた戸数111戸、人口256人(平成30年6月現在)の小さな集落である。以前までは福井県大野郡に属していたが、隣接する郡上との交流が深く、昭和33年越県合併で岐阜県郡上郡白鳥町(現郡上市白鳥町)に編入している。平安時代に著された『白山之記』に「石同代ト云社マテ女人ハ参詣ス」とあり、石徹白は古くから白山の登拝口となっていた。集落は上在所、中在所、西在所、下在所の四地区で構成され、住民は土地の産土神(うぶすなかみ)でもある白山中居神社に社家・社人として仕えていた。
白山中居神社の近辺に位置する上在所は神社の祭祀を行う社家が居住する地区であり、「白山御師(おし)」の里とも称されていた。一方、中在所は美濃禅定道が桧峠を越え、初めて石徹白の集落に入る地であり、泰澄大師を祀る大師堂や浄土真宗の威徳寺、旅館等の家々が建ち並び、また室町時代に石徹白を統治した石徹白氏の城跡もあり、歴史の面影を伝える地区となっている。西在所は集落の中で高い台地にあり、広い水田の間に家々がまばらに点在し、自動車や農作業用の軽トラックが行き通う農耕地が広がっている。下在所は台地の縁に位置し、家々は福井県大野市へ伸びる県道127号線(石徹白・朝日線)沿いに細長に点在している。
石徹白のすべての家の土台は石積みであり、屋敷林や門構え、屏はなく、隣家との距離もあり、広々としている。石積みは道路や水路、池、農地の区画にも数多く用いられている。
高台から眺望する石徹白は白山山系の山々を背後にして、杉木立や水田が広がり、その合間を長滝白山神社からの美濃禅定道、基幹道、そして大野市へと向かう「おおの道」が南北に走り、開放感ある農村風景を醸し出している。
上在所の風景
白山中居神社の門前の地に、かつての御師の家屋が並ぶ。
中在所の風景
石徹白地区の中心地。家屋が密集している。
西在所の風景
農耕地(畑・水田)が広がる。
下在所の風景
福井県大野市と近接しとている。
6. 白山中居神社の景観
白山中居神社は白山山系から流れ出る石徹白川と宮川が合流する地に鎮座している。鳥居をくぐり、杉の巨木を抜け、宮川の布橋を渡り切ると神社境内に到達する。集落の産土神でもある神さびた神社は養老元年(717)、泰澄大師が白山を開く途次、社殿を修復、拡張したと伝えられる。
境内には古代祭祀跡の磐境が祀られ、泰澄大師堂跡も残されるなど、山岳信仰の面影が色濃く漂っている。白山登拝者は神社東側を通過する登拝起点から神社背後に広がる杉、ブナの自然林の中を白山頂上に向けて歩を進めたのである。
白山中居神社本殿
本殿は安政年間(1854~1859)に越前志比(福井県吉田郡永平寺町志比)の大工により再建されている。梁には同時代に大坂と諏訪の彫刻師が彫った龍、水、うづら、葡萄の彫刻が、正面には鳳、桐の花が彫られている。「七十五翁、立川富昌(花押)」とある(彫刻は県指定重要文化財)。
白山中居神社の森
神社境内には推定樹齢二百年から千年の杉の巨木が林立し参道、社殿を取り囲んでいる。(県指定天然記念物)
磐境
神霊が降臨する場であり、古代には祭祀が行われていた。六月十八日に磐境の前で創業祭が行われ、社家が御幣を捧げる。
泰澄堂跡
明治の神仏分離で大師堂に合祀された。 白山中居神社の神仏習合の面影がただよう。
7. 白山中居神社の奉納遺産
白山参詣者は長滝白山神社を経て、白山中居神社に参詣、供物を奉納し白山頂上を目指した。白山中居神社には東海地方からの奉納された供物が多く見られる。これらの奉納物の中、仏教関係の供物は明治の神仏分離令により新たに建造された観音堂と泰澄大師を祀る大師堂に移され、神社には神道関係、祭礼関係の奉納物を残すのみとなっている。
能面<若い女>
美濃馬場の白山信仰が盛んな天正八年(1580)に柴山喜蔵が五穀豊穣、延命息災等の祈願成就を白山神に願い、奉納した面。現行の様式化された女面とは違い、写実的な作りに特徴がある。(県指定重要文化財)
木造獅子頭
貞享五年(1688)に美濃の恵那郡加子母村の熊沢与七が白山神に家内安全、除厄を祈願し、奉納した獅子頭。刻銘がかすかに残る。
8. 大師堂の奉納遺産
石徹白の浄土真宗門徒によって明治五年(1872)に泰澄大師を祀る観音堂・大師堂として中在所に建てられた。堂には中居神社から移された仏像、仏具等の奉納物が納められている。
大師堂の風景
堂の入り口には泰澄大師の石像が建つ。大師堂では三月十八日の大師の命日に門徒によって法要が行われている。
泰澄大師坐像
泰澄大師か初めて白山登拝をした三十六歳の期の坐像とされる。後補が加えられている。(市指定重要文化財)
花瓶
応永二年(1395)に郡上市大和町牧にあった「尊星王院」の仏慶が神鳩社に奉納した花立。「神鳩」は美濃禅定道に祀られていた神鳩社。(市指定重要文化財)
銅造虚空蔵菩薩坐像(こくうぞうぼさつざぞう)
神仏分離以前までは白山中居神社の本地仏として祀られていた。平安時代末期に奥州平泉豪族の藤原秀衡が奉納したと伝えられる。金属工芸の高い技術で制作されており、日本の彫刻史上、特筆すべき金銅仏である。若干の後補がなされている。(国指定重要文化財)
青銅鰐口(わにぐち)
織田信長が元亀二年(1571)に家臣の菅谷九右衛門を奉行として社家の石徹白源三郎胤弘の祈願によって白山の三神の一つ別山大行事(べつざんだいぎょうじ)に奉納した鰐口。「信長鰐口」として知られる。(県指定重要文化財)
9. 石徹白の白山御師
上在所に居住する白山中居神社の「社家」は「白山御師」として白山信仰を全国各地に広めている。その布教活動は冬期の一月から五月にかけて各地の集落に赴き、神札、白山略図、雷よけの護札、白山薬草を配布した。また、当地へ白山社を勧請するため村民に協力を求めるなど、勧進僧的な役割をも果たしていた。白山登拝シーズンの七月~八月には檀那場から白山登拝に訪れる白山講の講員や巡礼を自宅に泊まらせ、祈祷や禅定道の道案内を行っていた。御師の巡回によって白山信仰が定着した「檀那場(だんなば)」は飛騨、美濃、越前、近江、尾張、三河、信濃、甲斐、遠江、駿河、相模、武蔵、上野(こうずけ)、石見(いわみ)、美作(みまさか)等に及んでいた。「白山御師」の布教活動は三馬場では美濃馬場にのみで、明治三年に御師制度は廃止されたが、石徹白では大正年間まで続いていた。
御師の家 石徹白伊織家
石徹白に残る唯一の御師の家。越前志比の大工によって万延元年(1860)頃に建てられている。切妻式の平屋でトタン板、かってはクレ板葺であった。門構え等はなく水田と消雪用の池に囲まれ、部屋は「シンレイノマ」、「キャクマ」等の八間。参詣者は一階に宿泊していた。
石徹白清住家
切妻式の二階建て、かってはクレ板葺であった。二階には「ゴシンゼンノマ」、「ミタマサマノマ」がある。神前の間と仏間から、神道と浄土真宗の双方の影響が見て取られる。
(国登録有形文化財)
白山版木
御師が檀那場で配布した神札等の木
10. 白山信仰が育んできた芸能と祭礼
長滝白山神社では宝治年間(1247)頃から天下太平、五穀豊穣を白山神に祈願する例祭や法会が行われ、後宴の芸能が僧侶や神官、山伏等によって盛大に催されてきた。
長滝白山神社の祭礼や芸能は白鳥町一円の集落にも波及し、末社の白山神社の祭礼では氏子衆によって五穀豊穣、延命息災を感謝、祈願する祭礼や芸能が奉納されるようになる。
〇長滝白山神社の芸能『延年』
長滝白山神社の『延年』は一月六日の「六日祭(むいかまつり)」に奉納される。 拝殿の中央には胡桃等の白山の幸が盛られ、白山の三峰の御前峰、大汝峰、別山に似せ白米が盛られ、山に雲がかかる様子を表現した紙ばりを被い、依代(よりしろ)となる三日月松が立てられる。この「菓子台」の前で最初の演目の《酌取り》がなされる。《酌取り(しゃくとり)》が終わると「菓子台」の供物は参拝者に播かれる。次ぎの《当弁(とうべん)》では役者が当弁竿を振りかざし梅、竹の功徳を褒め称える。続く《露払い(つゆはらい)》では鬼面の武者姿の役者が扇をかざし、囃子に合わせて劍舞や足踏みなどの所作を行う。《乱(らん)拍子(びょうし)》では稚児が「開運厄除祈祷札白山総社表本宮白山長滝神社」と記された菊の造花を持ち、舞台を廻り、小さな足踏みを行う。演目は《(<)田歌(おた)》、《花笠ねり歌》、《当弁ねり歌》と続き、《しろすり》へと進む。腰に鎌をさした農作業の出で立ちの役者が社領の鍬打ちをすると述べ、白山神社の繁栄を讃える詞章を述べ、田打ちの所作を繰り返す。
このように『延年』は厳粛な中にも随所に白山との関わりを演出し、華やかさを漂わせながら滞りなく演じられていく。最後の《大衆(たいしゅう)舞(まい)》で役者は「はっさいや」の掛け声とともに足拍子を踏み、片手を挙げて首をひねるコミカルなしぐさをして退場、『延年』は終了する。
一方、舞台上の『延年』が佳境にさしかかった頃、拝殿の天井に吊られた「花笠」の奪い合いが始まる。若者が「人梯子」を組み、「花笠」を引きずり下ろそうとするが幾度となくその梯子は崩れる。「花笠」が地に落ちるや多くの参拝者が殺到する。「花奪い」で花笠の断片を手にした参拝者は白山の神の依代として家に持ち帰り、五穀豊穣、延命息災、家内安全を願い、神棚に祭祀するのである。(国指定無形民俗文化財)
『延年』の演目
白山からの寒風が吹きすさぶ拝殿で行われる。
<答弁> <しろすり> <露払い>
菓子台
江戸時代までは「菓子台」の前で長老の僧侶が天下太平、五穀豊穣、寺領の繁栄を白山に祈願し、賛を唱える演目の「菓種」があった。
演目《酌取り》
永瀧寺に居住まいする山伏が演じる演目であった。
花奪祭り
明治時代以降、拝殿土間で行われるようになったと言われる。
<飛出(とびで)>面
天文年間(1532~1554)の時期、越前の大和五大夫が長滝寺の僧侶に能を指導している。神社には『延年』の夜の能で使用された能面が残されている。
<飛出>面はその一面。(国指定重要文化財)
〇長滝白山神社の祭礼『でででん祭』
長滝白山神社では。五月五日の端午の節句に子供の成長を白山神に祈願する例祭が行われる。開始時に打たれる太鼓の音に模し、「でででん祭り」とも言われる。本祭前日、菖蒲、よもぎ、山吹が供えられた白山三社の神輿(みこし)の前で宮司による祝詞、お祓いが行われ、その後、子供逹は神輿の隙間をくぐり抜ける。以前までは男の子が中心であったが、近年は地区以外の成人、男女誰でも参加できる。五日当日は神事の後、巫女四人による「浦安の舞」が奉納され、太鼓の合図とともに白山三社の神輿は宮司を先頭に白装束、立て烏帽子の若者八人によって担がれ、御旅所までの渡御が始まる。子供御輿も加わる。御旅所では祝詞奏上の神事の後、菖蒲酒が振る舞われ、神輿は再び本殿に還御される。その後、境内では餅撒きが行われ、参拝者は白山神の縁起物の餅を競い合って取り合うのである。
神輿くぐりと安浦の舞
子供の無病息災と健やかな成長を願う行事がに行われる。
御神体の神輿(みこし)渡御(とぞよ)
参道にある太鼓橋を渡るときが渡御のハイライト。
〇長滝地区の祭礼『弁天七夕祭り』
長滝白山神社に合祀されている弁天堂では八月七日に『弁天様の祭り』が長滝の氏子衆によって行われている。『祭り』では女の子が弁天堂の前に整列し、長滝寺の僧侶が《般若心経》を読経、各自がお参りした後、青竹に自作の和歌や「天の川、「なす」、「きゅうり」と書いた短冊を吊し、「弁天様のお祭りじゃ、秋のこがねの豊年じゃ」と唱えながら長滝地区の家々を回る。提供された供物は弁天堂に供えられる。「弁天様の祭り」は長滝の『弁天七夕祭り』が水分神でもある白山の神と結びつき、豊穣を願う祭りへと変容したものと思われる。
以前までは『弁天様の祭り』は男女を問わず行っていたが、昭和六年に境内に天神堂が合祀され、それ以降は男子は『天神樣の祭り』、女子は『弁天様の祭り』として区分され、それぞれ行われるようになった。
弁天七夕祭り 巡回風景
〇長滝地区の祭礼『天神祭り』
昭和六年に長滝白山神社に合祀された天神堂では毎年二月二十五日に男の子の成長と学問の向上を願う『天神祭り』が長滝地区の氏子衆によって催される。祭りの前日、男の子たちは長滝の家々を回り、供物としての提供された餅米で餅をつき、菅原道真の歌「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて 春な忘れそ」、「ひさかたの月の桂も祈るばかり家の風をも吹かせてしがな」を半紙に毛筆で清書する。祭り当日、男の子たちは清書した歌と餅を天神様に供え、長滝白山神社の宮司の祝詞を受ける。その後、両親や一般の人々も参加し、雪を積み重ねた高台から男の子による餅撒きが行われ、祭りは終了する。清書された歌と餅は長滝地区の全戸に配布され、居間や子供部屋に供えられる。
天神祭り
雪かき等の会場設営は長滝地区の人々が行う。
宮司の祝詞 もちまき
白山中居神社の例祭と『五段の神楽』
白山中居神社では五月十五日に神迎え祭りの春季例祭が行われ、神事芸能の『五段の神楽』が神事終了後に奉納される。「五段の神楽」は巫女姿の姉と妹の二人が鈴を振り、扇、弊束をかざしながら笛、鼓、大小の太鼓、雅楽に合わせ、静かな足取りで舞いを舞う。
演目は<とびの舞>、<二人舞>、<扇の舞>、<鈴の舞>、<弊の舞>があり、最後に姉妹は神前に置かれた小机の前に坐り白山神に二拝して舞を終える。
その後、境内の磐境前で神事が行われ、御旅所(おたびしょ)までの「神輿渡御」が始まる。御旅所では地元の婦人会によって『石徹白の民踊り』も披露される。(市指定重要無形民俗文化財)
五段の神楽
神輿渡御の風景
〇『白鳥踊り』と『拝殿踊り』
白鳥町一円の集落の盆踊りは享保八年(1723)以前から神社拝殿で行われていた。拝殿での踊り曲は石徹白の白山への祈祷に起源を持つ<場所踊り>であった。踊りの形態は天井から吊られた悪霊封じのキリコ灯籠の下、音頭取りの音頭に合わせて両手を後ろに汲み、手足を前後左右にゆっくりと移動させ、下駄の音でリズムを取りながら踊る単純な所作の輪踊りである。
踊りは享保八年の奉行所の停止命令、明治政府の禁止令、大正、昭和の度重なる戦争、自然災害にも途絶えることなく集落の神社拝殿で踊り続けられてきた。
第二次大戦後、踊りの場所は拝殿から市街へと移り、その形態も屋形から流れる音頭取りの音頭と太鼓、三味線、笛の伴奏に合わせて白山麓の民謡を軽快なテンポで踊る『白鳥踊り』へと変容している。
これによって囃子なしの『拝殿踊り』は衰退し、<場所踊り>はほとんど踊られなくなった。
一部の踊り好きによって各集落の神社拝殿で細々と踊られていた。平成八年『白鳥の拝殿踊り』として白鳥町重要無形民俗文化財に指定されてから注目されるようになった。今日では『白鳥踊り』の期間中、長滝、前谷、白鳥、野添の集落の白山神社拝殿などで古態のままの<場所踊り>を含め、<さのさ>、<よいとそりゃ>、<チョイナチョイナ>や忘れ去られた曲、廃絶した曲が即興で踊られる。<場所踊り>の神さびた所作は白山への祈祷芸の面影を今日に伝えている。
『白鳥踊り』
軽快な踊り曲<神代>が若者に好まれる。踊り場を変え二十一夜にわたって踊られる。
『拝殿踊り』
静寂な夜の境内に踊りの別世界が形成される。(国選択無形民俗文化財)
長滝白山神社 白鳥神社
野添・貴船神社 野添・貴船神社
中津屋(なかつや)地区の『嘉喜(かき)踊り』
郡上市一円の集落では九月から十月にかけて氏神の白山神等に五穀豊穣、村民快楽を祈願し、感謝する神事芸能の『かき踊り』が奉納されてきた。
近年、集落の少子化、高齢化の影響もあり、郡上一円の『かき踊り』は姿を消しつつあり、白鳥町では今日では中津屋地区のみとなり、数年に一度、『大神楽』と併せて氏神の白山神社と八幡神社で奉納される。八十名余りの役者と輪の中央に配された三人の「拍子打」が踊る色彩感溢れる輪踊りである。
踊りは「東西よばり」役の「東西しずまれおしずまれ」の一声で始まり、「歌おろし」役が氏神の白山神社を鑽仰し、宮の造り、周囲の四季の景観、農事の様子を愛でる詩章を交代で歌い、その音頭に合わせ「拍子打ち」が太鼓を打ちながら軽快に踊る。他の大勢の役者は「ヤッコリャコリャ、ドッコイサ ドッコイサ」と囃しながら足を前後させ、両足を揃えて手拍子を打つ所作を繰り返す。
<本踊り>、<十禅寺踊り>と進み、<返し踊り>に入ると「拍子打」は身をかがめ背中のシナイで境内を掃く真似する。ここが『嘉喜踊り』の見せ場となり多くの観客から歓声があがる。(県指定無形民俗文化財)
中津屋地区の白山神社
養老年間、泰澄が創建したと伝えられる。かつては「東永山十禅寺」と称されていた。
白山神社の『嘉喜踊り』
中津屋地区には白山神社、八幡神社の二つの氏神が祀られている。『嘉喜踊り』は両神社で奉納される。
第4章 世界遺産
「人類共通の財産」世界遺産
世界遺産とは、1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づき「世界遺産リスト」に記載された、「顕著な普遍的価値」をもつ建造物や遺跡、景観、自然のことです。 「顕著な普遍的価値」は、どの国や地域の人でも、いつの時代のどの世代の人でも、どのような信仰や価値観をもつ人でも、同じように素晴らしいと感じる価値のことで、そうした価値をもつ世界遺産は、人類共通の財産といえます。
世界遺産の分類と数
世界遺産は、人類が作り上げた「文化遺産」と、地球の歴史や動植物の進化を伝える「自然遺産」、その両方の価値をもつ「複合遺産」に分類されます。文化遺産が最も多く、世界遺産の総数は1,000件を超えます。
世界遺産委員会
世界遺産リストに記載する遺産は、1年に一度開催される世界遺産委員会で審議され、登録の可否が決定します。世界遺産委員会では「登録」、「情報照会」、「登録延期」、「不登録」の4段階の決議を行います。
21の委員国からなる世界遺産委員会では、他にも、世界遺産条約を運用していく諸事項や、世界遺産基金の使い道の決定、世界遺産の保全状況の確認、危機遺産リストへの記載の可否など様々な話し合いを行っています。
日本と世界遺産
世界遺産条約が採択されたユネスコ総会の議長は、萩原徹日本政府代表が務めました。しかし、日本が世界遺産条約に参加したのは条約採択から20年後の1992年のことです。 1993年、「法隆寺地域の仏教建造物群」、「姫路城」、「白神山地」、「屋久島」の4件が日本で最初の世界遺産として登録されました。世界遺産保全への協力や、「真正性」などの価値の見直しに日本は重要な役割を担っています。
危機遺産
世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が危機に直面している遺産は、「危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト)」に記載され、世界遺産条約加盟国の協力を得ながら、危機を取り除く努力がなされます。 世界遺産の危機としては、戦争や紛争による遺産破壊、密猟や不法伐採などの自然破壊、地震などの自然災害、過度の観光地化や都市開発などが考えられます。危機を取り除くために「世界遺産基金」なども使われます。
世界遺産リストからの削除
世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が失われたと判断された場合は、世界遺産リストから削除されることもあります。これまでに、オマーンの「アラビアオリックスの保護地区」とドイツの「ドレスデン・エルベ渓谷」が削除されました。
(1)世界遺産の基準
【世界遺産に登録されるまでの流れ】
1.各国政府が世界遺産条約を締結・批准
2.各国が作成した暫定リストから推薦書を提出
3.ユネスコの世界遺産センターは推薦書を受理し専門調査を依頼
4.文化遺産…ICOMOSが現地調査などを行う
自然遺産…IUCNが現地調査などを行う
5.ユネスコの世界遺産センターを通して専門調査に基づく勧告
6.世界遺産委員会にて審議・決議
世界遺産登録が決定
(2)世界遺産の登録条件
登録基準所為解散に登録される為には、「世界遺産条約履行のための作業指針」で示されている登録基準、いずれか1つ以上合致するとともに、真実性(オーセンティシティ)や完全性(インテグリティ)の条件満たし、締約国の国内法によって適切な保護管理体制が取られていることが必要。
(i)人間の創造的才能を表す傑作である。
(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(v)あるひとつの文化(または複数の文化)を特徴づけるような伝統的居住形態若しくは陸上・海上の土地利用形態を代表する顕著な見本である。又は、人類と環境とのふれあいを代表する顕著な見本である(特に不可逆的な変化によりその存続が危ぶまれているもの)
(vi顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
(vii)最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
(viii)生命進化の記録や、地形形成における重要な進行中の地質学的過程、あるいは重要な地形学的又は自然地理学的特徴といった、地球の歴史の主要な段階を代表する顕著な見本である。
(ix)陸上・淡水域・沿岸・海洋の生態系や動植物群集の進化、発展において、重要な進行中の生態学的過程又は生物学的過程を代表する顕著な見本である。
(x)学術上又は保全上顕著な普遍的価値を有する絶滅のおそれのある種の生息地など、生物多様性の生息域内保全にとって最も重要な自然の生息地を包含する。
(3)世界遺産とは
さまざまな国や地域の人たちが誇る文化財や自然環境などが、ユネスコの世界遺産として登録されています。
世界遺産には次の3種類があり、有形の不動産が対象となっています。世界遺産の登録件数は1052件(2016年7月現在)です。
・文化遺産 顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など
・自然遺産 顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域
・複合遺産 文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産
(4)日本の世界遺産(20件)
・文化遺産(16件)
1 法隆寺地域の仏教建造物 (平成5年記載)
2 姫路城 (平成5年記載)
3 古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市) (平成6年記載)
4 白川郷・五箇山の合掌造り集落 (平成7年記載)
5 原爆ドーム (平成8年記載)
6 厳島神社 (平成8年記載)
7 古都奈良の文化財 (平成10年記載)
8 日光の社寺 (平成11年記載)
9 琉球王国のグスク及び関連資産群 (平成12年記載)
10 紀伊山地の霊場と参詣道 (平成16年記載)
11 石見銀山とその文化的景観 (平成19年記載)
12 平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群 (平成23年記載)
13 富士山―信仰の対象と芸術の源泉 (平成25年記載)
14 富岡製糸場と絹産業遺産群 (平成26年記載)
15 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業 (平成27年記載)
16 ル・コルビュジエの建築作品 近代建築運動への顕著な貢献 (平成28年記載)
・自然遺産(3件)
1 屋久島 (平成5年記載)
2 白神山地 (平成5年記載)
3 知床 (平成17年記載)
4 小笠原諸島 (平成23年記載)
・複合遺産(0件)
第5章 「霊峰白山と山麓の文化的景観」の世界文化遺産登録をめざして
「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」
大野市では、平成19年12月20日に、白山麓の文化遺産群を関係自治体とともに「霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰」というテーマで、世界文化遺産候補として文化庁に提案しました。
今回の提案は2回目となります。第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に福井県、石川県、岐阜県の3県と、勝山市、白山市、郡上市の3市が共同で行いました。平成19年1月にその審査結果が発表され、提案に対する課題が示され、継続審査となりました。
今回の提案では、文化庁から指摘を受けた課題を修正するとともに、大野市のほか、新たに小松市、高山市、白川村が加わり、共同提案しております。
【主な遺産群】
白山(標高2,702m、ユネスコの生物圏保存地区、高山植物の宝庫、山頂の遺跡群)
信仰の拠点三馬場(勝山市:平泉寺、白山市:白山本宮、郡上市:長滝寺)
禅定道(白山と三馬場を結ぶ参詣道、美濃禅定道が大野市上打波を通過)など
世界遺産とは
さまざまな国や地域の人たちが誇る文化財や自然環境などが、ユネスコの世界遺産として登録されています。
世界遺産には次の3種類があり、有形の不動産が対象となっています。世界遺産の登録件数は1052件(2016年7月現在)です。
・文化遺産 顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観など
・自然遺産 顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、景観、絶滅のおそれのある動植物の生息・生息地などを含む地域
・複合遺産 文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えている遺産
日本の世界遺産(20件)
・文化遺産(16件)
1 法隆寺地域の仏教建造物 (平成5年記載)
2 姫路城 (平成5年記載)
3 古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市) (平成6年記載)
4 白川郷・五箇山の合掌造り集落 (平成7年記載)
5 原爆ドーム (平成8年記載)
6 厳島神社 (平成8年記載)
7 古都奈良の文化財 (平成10年記載)
8 日光の社寺 (平成11年記載)
9 琉球王国のグスク及び関連資産群 (平成12年記載)
10 紀伊山地の霊場と参詣道 (平成16年記載)
11 石見銀山とその文化的景観 (平成19年記載)
12 平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群 (平成23年記載)
13 富士山―信仰の対象と芸術の源泉 (平成25年記載)
14 富岡製糸場と絹産業遺産群 (平成26年記載)
15 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業 (平成27年記載)
16 ル・コルビュジエの建築作品 近代建築運動への顕著な貢献 (平成28年記載)
・自然遺産(3件)
1 屋久島 (平成5年記載)
2 白神山地 (平成5年記載)
3 知床 (平成17年記載)
4 小笠原諸島 (平成23年記載)
・複合遺産(0件)
霊峰白山と山麓の文化的景観 自然・生業・信仰 提案書
(2007(平成19)年12月提出)
表紙・目次
(1)提案のコンセプト
1 資産名称・概要
2 写真
3 構成資産の位置図
(2)資産に含まれる文化財
1 整理表
構成資産
参考資産
2 構成資産の位置と写真
A 自然
B 山麓の人々のくらし
C 白山の信仰
参考資産
(3)保存管理計画、又は策定に向けての検討状況
1 個別構成要素に係る保存計画の概要又は策定に向けての検討状況
2 資産全体の包括的な保存管理計画の概要、又は策定に向けての検討状況
3 資産と一体をなす周辺環境の範囲、それに係る保全措置の概要又は措置に関する検討状況
(4)世界遺産の登録基準への該当性
世界遺産の登録基準への該当性
国史跡平泉寺を含む白山麓の文化遺産の世界遺産登録をめざして
勝山市では、平成19年12月20日に、市内にある国史跡白山平泉寺旧境内を含む白山麓の文化遺産群を「霊峰白山と山麓の文化的景観」というテーマで、関係自治体とともに世界文化遺産候補として文化庁に再提案しました。
今回の提案は2回目となりますが、第1回目の提案は、文化庁の自治体公募を受け、平成18年11月に福井県、石川県、岐阜県の3県と、勝山市、白山市、郡上市の3市が共同で行いました。その審査結果の発表は、昨年の1月にあり、「白山」の提案は、他の提案19件とともに継続審査となっていました。
今回の再提案では、文化庁からの指摘事項を修正して提出しています。もっとも大きな修正点は、共同提案した自治体が増えたことです。今回の提案では、新たに大野市、小松市、高山市、白川村の3市1村が加わり、霊峰白山を取り巻く自治体の共同提案が実現しました。
霊峰白山は秀麗な山容で知られ、古くから多くの人々の信仰をあつめてきました。その信仰の拠点は三馬場(さんばんば)と呼ばれ、福井県では勝山市の平泉寺(現在は平泉寺白山神社)、石川県では白山市の白山本宮(現在は白山比め神社)、岐阜県では郡上市の長滝寺(現在は白山長滝神社)をさします。特に勝山市の平泉寺では、“石造りの中世宗教都市”とも言える貴重な遺構が数多く見つかっています。
霊峰白山とその信仰の拠点“三馬場”、両者をつなぐ禅定道(ぜんじょうどう)、さらにその周辺には、信仰に関わる貴重な遺跡が数多く残されています。また、標高500m以上の白山山麓一帯には、豪雪地帯特有の歴史的な建物群が多く残り、日本を代表する貴重な遺産群となっています。
こういった白山と山麓の貴重な文化遺産を世界遺産として守り伝えていくために、今回の提案となりました。
主な遺産群
白山(標高2,702m、ユネスコの生物圏保存地区、高山植物の宝庫、山頂の遺跡群)
信仰の拠点三馬場(勝山市:平泉寺、白山市:白山本宮、郡上市:長滝寺)
禅定道(白山と三馬場を結ぶ参詣道)
白山麓の豪雪地帯にある伝統的な建物群(白山市白峰地区、郡上市石徹白地区)など
- 表紙 (5.5 KB)4265
- 提案のコンセプト (1.2 MB)4266
- 資産に含まれる文化財 (1.8 MB)4267
- 保存管理計画 (706.5 KB)4268
- 世界遺産の登録基準への該当性 (14.7 KB)4269
第6章 世界遺産登録への課題
(4)世界遺産の登録基準への該当性
① 遺産の適用種別及び世界文化遺産の登録基準
・遺産の適用種別:記念物、建造物群及び遺跡(文化的景観を含む)
・登録基準:(ⅲ)、(ⅳ)、(ⅴ)、(ⅵ)
(ⅲ)白山麓の焼畑は世界の雑穀栽培の焼畑地帯の北限に位置する。ここでは、東南アジアの山の神に祈る火入れ儀礼を行う南方系文化とシベリア等の北方系文化が交流し、アフリカ原産のシコクビエやスウェーデンカブ等の南北の作物が栽培されている。しかも世界有数の豪雪山岳地帯にあるという点から特異な地域とされ、アジアの山村における焼畑の文化的伝統を伝承する無二の存在である。また、石徹白は白山信仰を全国に広めた御師集落で、今も石畳や道標がかつての美濃禅定道の面影を残すとともに、民家には仏間とは別に立派な「ハクサンノマ」がみられるなど、御師の伝統と習俗を色濃く残し、文化的伝統を継承する稀有な存在である。
一方、白山山頂には平安時代に日本で独自に形成された修験道に関する日本最高所の遺跡が良好に遺存するとともに、越前馬場の平泉寺では日本最大ともいえる中世宗教都市の遺構が確認されており、これら遺跡群は日本の宗教の歴史と伝統を語る希有なものである。
(ⅳ)白峰には平野部より早く、商品経済や分業化が進展し、周辺の山麓に営まれた多数の出作り民家と生産物と生活物資との取引を行う商家や山麓の支配を担った大庄屋格の豪家が残り、それが奥深い谷間の河岸段丘上に高層の大壁造りの伝統的建築物群を形成している。これは近世日本の山間集落の伝統的建築物群を代表するものである。また、白山麓は茅葺きのネブキと呼ばれる平屋建ての木造建築物から屋根が茅から板、瓦葺き、壁が茅から板、土壁へと変化した様々な建築物が存在する地域であり、建築学的に貴重である。
(ⅴ)日本の焼畑はその存続が危ぶまれながらも、白山麓では今も続けられており、その焼畑は火入れ後施肥もせず農耕した後、長い間休閑させており、その土地の条件に適応した利用形態で、日本の豪雪山岳地帯の土地利用形態を代表するものである。
また、白峰の大きな大壁造りの伝統的建造物群は、土地を高密度に利用するため高層化されたものであり、日本の山間集落の土地利用形態を代表するものである。さらに、白山とその山麓には信仰の対象として巨樹や岩がみられ、自然環境への負荷を最小限に抑えた焼畑農耕体系などとあわせて、人と環境とのふれあいを示す顕著な例である。
(ⅵ)山頂と禅定道筋の積石塚などの個々の記念工作物及び遺跡は、神祇信仰及び仏教、その融合の過程で生まれた修験道などの独特の信仰形態の特質を表す顕著な事例である。また、鳥越城跡は世界史的に希有な事例とされる、真宗信仰を基盤に百年間にわたり続いた、地域自治の加賀一向一揆の最後の砦の遺構である。中・近世から継続的に行われている能楽の源流である「長滝の延年」(延年の舞)などの祝祭や「でくまわし」などは、文化的景観を構成する優秀なものである。さらに、『古今和歌集』や『枕草子』をはじめ日本を代表する多くの文学作品にも登場している。
② 真実性/完全性の証明
構成資産のうち国指定文化財については、すでにその価値の真実性は示されており、指定されて以後、所有者はじめ地方公共団体などにより適切に維持されている。また県・市の指定文化財については、詳細調査を実施し、国指定を目指すとともに、その適切な保存に努める。国・県・市の指定を受けていない文化財については、個々の調査により完全性を確認しているが、さらに詳細調査を実施し、国等の文化財の指定、選定を受けることにより保護し、資産全体の完全性を担保する。
③ 類似資産との比較
紀伊山地の霊場と参詣道は、仏教的世界の浄土と関連づけて重要視された過程を示す遺産であり、富士山は古来から人々に神聖さと崇高で壮大な美を感じさせる遺産である。また、泰山や廬山国立公園(中国)などは、山岳信仰に関する遺産である。これに対して今回の再提案は、世界有数の豪雪山岳地帯の中で、白山の信仰を基盤として形成された特有の生業景観が、人間と自然との共生を顕著に表していることを示すものである。
白川郷・五箇山の合掌造り集落は庄川流域の集落であり、構造や内部の利用形態等において貴重な木造建築物である。また、ホローケーの古集落(ハンガリー)などは山岳地帯の伝統的集落景観である。一方、今回の再提案は白山信仰を基盤に禅定道筋の山麓に形成された、特有な生業景観である。
①遺産の適用種別及び世界文化遺産の登録基準
・遺産の適用種別:記念物、建造物群及び遺跡(文化的景観を含む)
・登録基準:(ⅲ)(ⅴ)、(ⅵ)に該当
(ⅲ)越前馬場の平泉寺では日本最大ともいえる中世宗教都市の遺構が確認されているほか、各社寺の境内や禅定道沿いに点在する社堂跡などには今は失われた建造物や宗教儀礼に関する豊富な考古学的遺跡が地下に埋蔵されている。この遺跡群は宗教文化に
関連して、今は失われた文化的伝統の存在を示す希な事例である。
(ⅴ)白山麓には、大壁造りの伝統的建造物群や仏間とは別に「ハクサンノマ」をもつ石徹白御師集落などあるが、これらはいずれも白山を背景として、世界屈指の豪雪地帯の人々の暮らし、信仰、家族形態、養蚕等の生産体制を反映した伝統的居住形態であり、このような悪条件に適応した居住形態のあり方として、希有な事例といえる。また、出作り小屋など焼畑農業・養蚕に関する文化遺産は、白山麓の土地に適応した土地利用の顕著な見本であるといえる。
(ⅵ)資産を構成する個々の記念工作物及び遺跡は、神道及び仏教、その融合の過程、あるいは分離の過程で生まれた修験道などの独特の信仰形態の特質を表す顕著な事例である。このような神聖性の高い自然物又は自然の地域において、中・近世から継続的に行われている能の流である「長滝の延年」(延年の舞)などの祝祭や木偶まわしなどは文化的景観を構成する有形・無形の諸要素として優秀なものである。また、『枕草子』をはじめ日本を代表する多くの文学作品にも登場している。
②真実性の証明―完全性の証明
構成資産のうち国指定文化財については、すでにその価値の真実性は示されており、指定されて以後、所有者をはじめ地方公共団体などにより適切に維持されている。また、県・市の指定文化財については、詳細調査を実施し、国指定を目指すとともに、その適切な保存に努める。国・県・市の指定を受けていない文化財については、個々の調査により完全性を確認しているが、さらに詳細調査を実施し、国等の文化財の指定、選定を受けることにより保護し、資産全体の完全性を担保する。
③類似資産との比較
紀伊山地の霊場と参詣道はこの地方の神聖性が仏教国である浄土と関連づけて重要視された過程を示す遺産であり、普遍的な価値を人々の心の癒しとしているのに対して、白山は白山信仰が日本の神仏習合の先駆けをなした点が際立っている。眺めるという行為を「遙拝」という宗教的な営みに変えたところに白山の眺望文化の深さがある。また、世界有数の豪雪地帯という厳しい自然環境に耐えた山麓の人々を支えた白山信仰の強さである。これを背景とした白山信仰の関連遺産群をはじめ伝統的居住形態や文化的景観が顕著な普遍的価値を有する。
今回提案された富士山は、顕著で普遍的な価値が古来から人々がその神聖さと崇高で畏敬の念を起こさせる壮大な美を感じ、様々な価値を見出してきたことにあるとしている。また、出羽三山は、出羽三山への人々の信仰や米、紅花が最上川を通って運ばれた文化などによって形づくられた文化的景観を提案する方向で検討中との発表がなされている。よって、白山とはコンセプトが異なる。
第7章 結 言
秀麗な山容の白山は日本列島のほぼ中央部に位置し、世界有数の豪雪山岳地帯である。ここから日本海と太平洋に流れでる手取川、九頭竜川、長良川及び庄川の四つの河川は、日本列島を横断して長い流域を潤し、山麓や平野部の人々の暮らしを支えている。
白山には修験道が盛んになるに伴い数多くの修験者が訪れるようになり、山麓一帯が禅定道(登山道)を基軸に互いに結ばれた。加賀、越前、美濃の三馬場(宗教拠点)と禅定道筋にはそれぞれ寺社や集落が形成され、人、物、情報などが行き交い、山村特有の生活文化が培われ
た。また白山信仰は、三馬場を基点に全国に広まった。
このように厳しくも豊かな自然環境の中でたくましく生き続けてきた、白山をめぐる生業と生活と信仰を表す風景が、希有な形で承継されている。これは日本の山麓の暮らしと信仰を代表する文化的景観であり、人間と自然との共生を示すものである。
白山(標高2,702 メートル)は10 メートルを超える積雪があり、高山植物の宝庫で、雪解けの頃、花が一斉に咲き誇る光景は壮観である。またブナなどの巨樹、巨木が繁茂し、植生が非常に豊富で、カモシカをはじめ熊、イヌワシなどの多彩な動物や鳥類が生息することから、ユネスコの生物圏保存地域に指定されている。
白山信仰の歴史は、奈良時代に「越の大徳」とも呼ばれた泰澄が、養老元(717)年に登頂したことに始まるとされる。やがて平安時代になると、自然崇拝の山から神仏習合に彩られた観音の聖地と仰がれ、「越の白山」とも讃えられて、都びとの憧憬の対象とされた。日本で独自に形成された修験道の山岳修行の場であり、古代の山頂遺跡や経塚は日本最高所のものである。さらに白山は日本人の宗教観にも通じる擬死再生の山とされ、神聖な山とされるヒマラヤなど世界の白い山との共通性がある。また、水の神、農耕の神、漁業の神、オシラサマ(養蚕)などの生業の神としても広く信仰を集めてきた。
平安時代末期以来、登山口にある集落では、信仰の道と生業とが一体となり、登拝者の案内や宿坊を営み、護符を配布するとともに、木材、養蚕、鉱物採掘、温泉など、豊かな山の恵みを受けて人々が暮らしてきた。石徹白は薬草などを持ち白山信仰を広めた御師の集落であり、石畳や道標がかつての美濃禅定道の面影を残す。真壁造りの民家には、仏間とは別に立派な「ハクサンノマ」が見られ、白山中居神社では五段の神楽が行われるなど、御師の伝統と習俗を色濃く残している。白峰は谷間の河岸段丘上に位置した大集落であり、牛首紬などの機織りなども盛んで、土地利用の高密度化や高層化が進み、防寒を考慮した大壁造りの町並みを形成している。かつて山麓の村々を統轄した大庄屋や生活物資を商う豪家の機能を有した巨大な大壁造りの建築物が見られる。これは日本の山間集落における自然環境に適応した木造建築物の到達点であり、集落の規模や賑わいの面でも日本有数である。白峰では今でも白山を開いた泰澄を讃えてカンコ踊りなどが行われている。
白山麓には自然地形に制約されて水田のない景観が広がり、室町時代以降、母村の白峰から奥深く高地へ入り込み、山の斜面を利用して出作り・焼畑が盛んに行われてきた。そこでは東南アジアの山の神に祈る火入れ儀礼がみられ、アフリカ原産のシコクビエやスウェーデンカブ等の南北の作物が栽培されている。また、農作業は労働集約的に最も丁寧に行われる点に大きな特色があり、気象条件等に適合したもので、豪雪山岳地帯の焼畑として、世界でも希有な存在である。越前の白山平泉寺旧境内には日本最大の中世宗教都市遺構が発掘されたが、これは白山信仰の盛行を象徴するものである。
戦国時代以降、白山麓にも白山神の本地仏である阿弥陀仏への信仰が媒介となって急速に真宗が浸透し、世界史上希有な事例とされる、真宗信仰を基盤に百年間にわたり地域自治を続けた、加賀一向一揆の最後の砦である鳥越城跡などがある。今も山麓では真宗道場を中心とする信仰生活が営まれ、濃密な真宗地帯となっている。
建築物の面では、大壁造りや真壁造り、合掌造りと様々な伝統的建築物が見られ、民俗芸能の面でも、能楽の源流である長滝白山神社の「延年の舞」、人形浄瑠璃の古い形態を伝える「でくまわし」などが、山村の暮らしの中で演じられ、季節ごとの様々な芸能文化を承け継いできた。これらは古くから盛んに人々の交流があった証であり、白山麓の自然と生業と信仰が織りなす、希有な文化的景観である。
本研究では、白山文化遺産のデジタルアーカイブを進め、白山文化遺産を世界遺産に登録できるような条件を検討し、その課題を明らかにすることを目的としている。
今まで、勝山市を中心に世界遺産に申請してきたが、様々な課題があり申請が通らなかった。次にその課題について整理する。
(1)白山山頂には平安時代に日本で独自に形成された修験道に関する日本最高所の遺跡が良好に遺存するとともに、越前馬場の平泉寺では日本最大ともいえる中世宗教都市の遺構が確認されており、これら遺跡群は日本の宗教の歴史と伝統を語る希有なものであるが、その保全については各県や街頭市町村で温度差があり、必ずしも保全が充分といえない現状がある。
(2)今回の再提案では、文化庁からの指摘事項を修正して提出している。もっとも大きな修正点は、共同提案した自治体が増えたことである。今回の提案では、新たに大野市、小松市、高山市、白川村の3市1村が加わり、霊峰白山を取り巻く自治体の共同提案が実現した。しかし、自治体として県やその他の関係する自治体並びに大学が結束して申請する必要があり、一部の自治体の主導で行っていたことである。
(3)地域文化遺産のデジタルアーカイブを進めることにより、これらの文化遺産についての文化遺伝子(ミーム)と言えるものを抽出し、学術的に検証する必要がある。このように、学術的な検証を踏まえたのち文化遺産を保全活用することが必要である。
参考文献
(1)白山山麓 石徹白郷シリーズ⑬
いとしろ白山御師資料集
平成29年編集 上村俊邦氏編集
(2)郡上学
白山信仰と白山文化
平成23年郡上市発行
(3)白山文化手帖~白山文化とは何か~
岐阜県博物館協会発行
(4)岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブ/石徹白
石徹白 | 地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成のための基盤整備事業 (digitalarchiveproject.jp)
謝 辞
本論文の作成にあたり、多くの方々にご指導ご鞭撻を賜りましたこと、心より感謝申し上げます。また、 ご指導いただきました主査の文化創造学部久世均教授には終始適切なご指導を賜りました。ここに深謝の意を表します。
論文資料
1.卒論要旨
【高大連携研究】ICTを活用した「主体的・対話的で深い学び」の実現
研究目標 :
(1)授業改善
(2)ICTを効果的に活用
目標達成に向けた取組:
(1)効果的な問や課題で,系統的な学びの機会を創出する・させる
(2)「個」の考えや「気づき」を深めさせるために,学びの「視覚化」「言語化」「構造化」を伴う対話的な活動を導入して授業改善
(3)指導助言者や職員間のアドバイスを受け入れ専門的多角的に授業改善
(4)全職員が情報収集・発信を意識して多面的に授業改善
発問・学習方略
・効果的な問いや課題で,系統的な学びの機会を創出する・させる
ICT・アクティブラーニング
・「個」の考えや「きづき」をより深めさせるために,学びの「視覚化」「言語化」「構造化」を伴う対話的活動を導入する
発問・アクティブラーニング・ICT・学習方略
・思考を活性化させ,他者と共に新たな「きづき」を生み出し,「知識」「理解」が「構造化」され,学びを深めていく経験ができるように,「インストラクショナル・デザイン」を意識する
【講演】知識の構造化とインストラクショナル・デザイン
Ⅰ はじめに
21 世紀の知識基盤社会における「学力」は「他者と協働しつつ創造的に 生きていく」ための資質・能⼒の育成である。そのために、授業では、他者と共に新たな知識を⽣み出す活動を引き出しつつ深い知識を創造させていく経験を、数多く積ませることが重要である。また、情報化や国際化が進み、社会が⼤きく変化する中で、学校、そして教師は様々な変化に直⾯している。児童・生徒に求められる学⼒の変化や授業でのICT活⽤など、教師はどう対応していけばよいのだろうか。本講座では「インストラクショナルデザイン」を⼿がかりに、教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインについて考えていく。
Ⅱ 授業の目的・ねらい
高度情報社会は新しい課題を世界にもたらし、新しい解を生み出せる人間を求める社会である。つまり、これからの社会は、一部の専門家があらかじめ有する「正解」を適用するだけで解決できるものではなく、問題を共有する者が知識やアイデアを出し合い、不完全にせよ解を出して実行する。そして、その結果を見ながら解とゴールを見直すことが求められている。このような課題に対して、社会全体が応えようとしている表れが、知識基盤社会、コミュニティ基盤社会への転換と進展、ICTの利活用である。知識基盤社会とは、新しい知識やアイデア、技術のイノベーションがほかの何よりも重視される社会である。そのイノベーションのために、他者とのコミュニケーションやコラボレーション(協働、協調)が重視され、 それらが効果的・建設的に行えるように、人と人を繋ぐコミュニティやICTの役割に注目が集まっている。
つまり、現在決まった答えのないグローバルな課題に対して、大人も子 供も含めた重層的なコミュニティの中で、ICT を駆使して一人ひとりが自分の考えや知識を持ち寄り、交換して考えを深め、統合することで解を見出し、その先の課題を見据える社会へと、社会全体が転換しようとしている。ここでは、その高度情報社会とそれに応じて求められる資質や能力について考える。
Ⅲ 授業の教育目標
教育情報とは、検索利用可能な形で集積され、流通される情報を第一義的なものと考え、狭義には学資教材情報を、広義には、教育研究情報や教育の管理経営の情報その他を含めて考えることが情報管理論的に妥当である。こうした教育情報のシステムは、すでに学術的には開発され、試行されているものがあるので、これを基準に、教育情報について体系的に考察する。
(1)「イ ンストラクショナルデザイン」を⼿がかりに、効果的・効率的・魅⼒的な授業づくりや教材開発について考える。
(2)21 世紀に求められる学⼒を育む新たな授業と評価を、背景や実践事例を紹介しながら考える。
(3)⽬標を分析して構造がわかると、評価規準ができる。⽬標の構造がわかるというのは、評価規準のなかで、重要度を決定することを考える。
(4)企業の教材開発の視点を考える。
(5)協働学習の⼿法の⼀つである「ジグソー学習法」を経験し、学習者⾃⾝で知識を統合して答えを出す学習活動過程について理 解を深め、その効⽤を考える。
1. インストラクショナルデザイン
1. 何を学ぶか
情報化や国際化が進み、社会が⼤きく変化する中で、学校、そして教師は様々な変化に直⾯している。⼦供達に求められる学⼒の変 化や授業でのICT活⽤など、教師はどう対応していけばよいのだろうか。ここでは「イ ンストラクショナルデザイン」を⼿がかりに、効果的・効率的・魅⼒的な授業づくりや教材開発について考える。
2. 学習到達目標
① インストラクショナルデザインとは何か説明できる。
② ADDIEモデルについて事例をあげて説明できる。
3. 研究課題
① ADDIEのプロセスを検討し、折り紙を折れるようになる教材を作成しなさい。
4.教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成
5.映像
2. 21世紀に求められる学⼒と学習環境
1. 何を学ぶか
21 世紀にふさわしい主体的・協働的な授業をいかに設計し、評価していくべきだろうか。21 世紀の知識基盤社会における「確かな学⼒」は「他者と協働しつつ創造的に⽣きていく」資質・能⼒の育成であるため、授業では、他者と共に新たな知識を⽣み出す活動を引き出しつつ深い知識を創造させていく経験を、数多く積ませることが重要である。ここでは、21 世紀に求められる学⼒を育む新たな授業と評価を、背景や実践事例を紹介しながら考える。
2. 学習到達目標
① 21 世紀に求められる学⼒について説明できる。
② 資質・能⼒を引き出す授業の条件を説明できる。
3. 研究課題
① 知識習得モデルと知識創造モデルの違いを説明しなさい。
4.教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成
5.映像
3. 教材の分析と設計
1. 何を学ぶか
⽬標分析をできないと評価規準をつくるのは難しいと⾔われる。「⽬標分析をする」とは、⽬標の構造を捉えることである。つまり、 ⽬標は平⾯的で、それだけでは構造はわからない。しかし、⽬標を分析して構造がわかると、評価規準ができる。⽬標の構造がわかるというのは、評価規準のなかで、重要度を決定することである。「この単元で何をしたいのか、何を教えたいか、何を指導したいか、どのような順序で教えるのか」を決定する。そして、「それを指導するために、何がいるのか」を考える。
2. 学習到達目標
① 何を教えるのか、そのための教材作成のあり⽅について説明できる。
② システム的な教材設計・開発の⼿順を5 つに分けて説明できる。
3. 研究課題
① あなたは、どのような場⾯でメディアの影響を強く受けていると思うか、また、どのような場⾯でメディアの影響をあまり受けていないと思うかグループで話し合って発表しなさい。
② テレビなどのCM は、専⾨家がなんとか視聴者をひきつけようとして創作した作品である。どんなCM が印象に残っているか。それは何故か。メディアの特性をどのように使っているか。グループで話し合って発表しなさい。
③ インターネットで、いくつかの教材を調べて、その教材の有効性を5段階で判定しなさい。そして、どのような要因でその判定結果になったかを、書きなさい。
4.教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成
5.映像
4. 学習⽬標のデザイン
1. 何を学ぶか
授業づくりは、まず学習⽬標を適切かつ明確にすることからスタートする。学習⽬標とは、学習者が、わかるようになること、できるようになること、⾝に付けることなど、教師が授業でねらいとすることを、より具体的な形で表し、どのようにわかったか、どのようにできるようになったか、どのように⾝に付いたかについて考える。
2. 学習到達目標
① ブルームの教育⽬標分類について、⾏動⽬標による例を取り上げて説明できる。
② ガニェの学習成果の5 分類について、具体例を挙げて説明できる。
③ 明確な学習⽬標について、具体的な単元において説明できる。
3. 研究課題
① ガニェの学習成果の5分類をもとに、各教科や単元を例にとって、グループで明確な学習⽬標を設定して発表しなさい。
4.教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成
5.映像
5. 協働的な学びをデザインする
1. 何を学ぶか
⽇本において「協働学習(Collaboration Learning)」という⾔葉や概念は教育⼯学・認知科学の分野において使⽤され始め、ICT環境の整備とテクノロジによる学習⽀援が実現されていくのと共に広く知られるようになった。もともと「協働」とは⾃らが属する組織や⽂化の異なる他者と⼀つの⽬標に向けて互いにパートナーとして働くことである。従って「協働学習」は、単に「問題を⼀緒に解く」というような抽象的な活動のことではない。問題を解く場⾯で「どうしても他⼈がいないと起きない活動」を通じて「他⼈がいると⾃分⼀⼈で解くより答えの質が上がる」ことを繰り返し経験することで柔軟に解決できる“使えるスキル“の育成について考える。
2. 学習到達目標
① 協働学習の考え⽅を理解し実際に授業デザインできる。
② ワークショップの⼿法を5種類説明できる。
③ ジグソー学習について説明できる。
3. 研究課題
① 協働学習の⼿法の⼀つである「ジグソー学習法」を経験し、学習者⾃⾝で知識を統合して答えを出す学習活動過程について理解を深め、その効⽤を検討してみましょう。
4.教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成
5.映像
6.教授・学習の理論と教育実践
1. 何を学ぶか
⼈が「学ぶ」ということについて、古くからいろいろな領域での研究がなされてきた。教授と学習という概念は、⼀般に教育者の⾏う教授活動と、学習者の⾏う学習活動という意味で理解されている。しかしながら、現実の多くの教育においては、「教授と無関係に成り⽴っている学習」もあれば、「教授が学習を導けない場合」もある。また、「教師がいないで⾏われている学習」であっても「教師からいかなる指⽰も影響も受けずに学習者が学習を⾏う場合」もあれば、「教師から前もっての指⽰のもとに、⼀⼈で学習する場合」もある。さらには、「教師の指⽰に反する⽅法で学習を⾏うような学習者」もいる。このように、現実の教育の場においては、教授と学習は必ずしもひとつの教育過程を構成しているとはいえない場合がある。ここでは、このような教授・学習の理論の変遷について考える。
2. 学習到達目標
① 教授学習に関する基本的な理論を具体的に説明できる。
② ⾏動主義と認知主義の2つの学習論の区別を説明できること。
3. 研究課題
① ⾏動主義的学習論と認知主義的学習論、構成主義的学習論に対応した教材や課題(問題)を作成し、グループで協議をしなさい。
4.教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成
5.映像
テキスト
1. 教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザイン (テキスト)
2.教育情報研究
タキソノミーテーブル(教育目標の分類体系:タキソノミー)
1. タキソノミーテーブル(教育目標の分類体系:タキソノミー)インストラクショナルデザイン
講演のレジュメ
【講演】ICTを活用した「主体的・対話的で深い学び」の実現
【学習到達目標】
・21世紀に求められる資質能力について説明できる.
・新学習指導要領改訂の視点について説明できる。
・新たな学びの視点について具体例を示して説明できる.
1.21世紀に求められる資質能力と学習環境
21 世紀の知識基盤社会における「学⼒」は「他者と協働しつつ創造的に⽣きていく」ための資質・能⼒の育成である.そのため,授業では,他者と共に新たな知識を⽣み出す活動を引き出しつつ深い知識を創造させていく経験を,数多く積ませることが重要である.ここでは,21世紀に求められる学力と学習環境について述べる.
(1)21世紀型スキル
「21世紀型スキル」とは,世界の教育関係者らが立ち上げた国際団体「ATC21s」が提唱する概念で,これからのグローバル社会を生き抜くために求められる一般的な能力を指している.批判的思考力,問題解決能力,コミュニケーション能力,コラボレーション能力,情報リテラシーなど,次代を担う人材が身に付けるべきスキルを規定したもので,各国政府も知識重視の伝統的な教育から21世紀型スキルを養い伸ばす教育への転換に取り組み始めている.「21世紀型スキル」の定義については,ATC21Sプロジェクトの「21世紀のスキルに関する作業グループ」で検討されており,以下のように書かれている.
①思考の方法(創造性と革新性,批判的思考・問題解決・意思決定,
学習能力・メタ認知)
②仕事の方法(コミュニケーション,コラボレーション(チームワーク))
③学習ツール(情報リテラシー,情報コミュニケーション技術
(ICTリテラシー)
④社会生活(市民権(地域および地球規模),生活と職業,個人的責任お
よび社会的責任(文化的差異の認識および受容能力を含む))
(2) 21世紀型能力
国立教育政策研究所では,教育課程の編成に関する基礎的研究報告書5(2013.3:研究代表者 勝野頼彦)において,前述の21世紀型スキルを踏まえて,21世紀を生き抜く力を「21世紀型能力」と名付け,その試案を次のように提案している.21 世紀型能力は,「21 世紀を生き抜く力をもった市民」としての日本人に求められる能力であり「思考力」,「基礎力」,「実践力」から構成されている.
第1に,21世紀型能力の中核に,「一人ひとりが自ら学び判断し自分の考えを持って,他者と話し合い,考えを比較吟味して統合し,よりよい解や新しい知識を創り出し,さらに次の問いを見つける力」としての「思考力」を位置づけている.
「思考力」は,問題の解決や発見,アイデアの生成に関わる問題解決・発見力・創造力,その過程で発揮され続ける論理的・批判的思考力,自分の問題の解き方や学び方を振り返るメタ認知,そこから次に学ぶべきことを探す適応的学習力等から構成される.
第2に,思考力を支えるのが「基礎力」,すなわち,「言語,数,情報(ICT)を目的に応じて道具として使いこなすスキル」である.技術革新を背景にICT 化が著しく進む今日において,社会に効果的に参加するためには,読み書き計算などの基礎的な知識・技能とともに,情報のスキルが不可欠である.情報スキルは,計算や記憶の代行など,読み書き計算の不足を補償する可能性すらある.その支援力の大きさを使って,思考力を助けるのが,この基礎力の一つの役割と考えることもできる.
第3に,思考力の使い方を方向づける「実践力」を位置づけている.「実践力」とは,「日常生活や社会,環境の中に問題を見つけ出し,自分の知識を総動員して,自分やコミュニティ,社会にとって価値のある解を導くことができる力,さらに解を社会に発信し協調的に吟味することを通して他者や社会の重要性を感得できる力」のことである.
そこには,自分の行動を調整し,生き方を主体的に選択できるキャリア設計力,他者と効果的なコミュニケーションをとる力,協力して社会づくりに参画する力,倫理や市民的責任を自覚して行動する力などが含まれる.
(3)教育用メディア環境
21 世紀にふさわしい主体的・対話的な深い学びのためのどのように教育用メディア環境の設計していくべきだろうか.現在,情報通信技術の急速な汎化が進み,Web情報も重要なデジタルアーカイブの情報源として選択保存の必要性が出てきた.これらの,研究・教育の結果として,デジタルアーカイブ開発として新しい観点で実践・研究を展開されている.従来のデジタルアーカイブは,現物のみを対象として考えてきたが,現在の多様なメディアの実用化にともない,メディアを次の4領域に分けメディア環境として構成することが必要となった.
① 実物・体験・文化活動
② 印刷メディア(記述・印刷の紙などのメディア)
③ 通信メディア(通信でWeb情報として収集可能な資料の選択・保存)
④ デジタルメディア(マルチメディア機能をもつメディア)
新しい教育用メディア環境は,かつての現物としていた対象物を最近の通信メディアの発達により,多様な情報が流通する中から,デジタルアーカイブとして記録・保管すべき情報を選定評価し,必要に応じて保管し,組み合わせて表現することを示す.また,各メディア間では相互に変換し利用が進み,新しい資料活用が始まろうとしている.例えば,書籍や教科書をデジタル化し,紙の印刷物と同じ内容の資料がデジタル教科書として図書の二次利用が既に始まっている.教育用メディア環境では,学習者が,電子黒板や教育用メディア端末,印刷メディアである従来の教科書等必要なメディアを主体的に選択し,あるいは組み合わせて利用を可能にすることが重要である.
(4)デジタル学習材
教育用メディア環境としての4領域の大きなカテゴリー化は,教育用のメディア利用の枠組みとして,適用できるかが課題となる.一般に,デジタル学習材と一括して表現されているものには,ネットワーク型もあり,DVD等の学習材,また,印刷物との複合学習材,教育用メディア端末の学習材等,様々な学習材をもデジタル教材と表現している.前述のように,学習者に対する教育用メディア環境も大きく変化している中で,教師が授業で活用する教材とメディアの特性を活かすデジタル学習材に再分類し,メディアの特性を生かし,学習者が主体的に活用でき,一人ひとりの学習者の特性に対応した学習材のあり方を検討している.このため,今後,このメディアの特性について,組み合わせを含めて資料活用上の実践・研究を進め,その適否の評価をすることが必要である.新しい教育用メディア環境としては,前述の4つの領域に分類し,これらを単独として考えるのではなく,これらを組み合わせたものとしてデジタル学習材を考えることが必要となる.
2.新学習指導要領の視点
新学習指導要領では,図2-2のように,次の「3つの視点」でとらえることができる.
新学習指導要領では,第1は,知識・技能を「何を理解しているか,何ができるか」と捉えなおしていることである.知識基盤社会においては,知識はばらばらにあっても使えるものにならない.個別の知識はすぐに忘れてしまう.またその知識を新たな学習により絶えず再編していくことにより活かすことができる.第2に,思考力・判断力・表現力等について,「理解していること・できることをどう使うか」としている.つまり,これからの視点として問題を発見し,定義し,解決の方向性を決め,解決方法を探し,計画を立て,結果を予測しつつ実行し,そのプロセスを振り返って,次の問題発見・解決につなげていくことが重要となる. 第3に,主体的に学習する態度を「どのように社
会・世界と関わり,よりよい人生を送るか」として概念化している.ここには,情意や態度が含まれ,生きる力の根底に関わるところである.
3.アクティブ・ラーニング
アクティブ・ラーニングについては,図3に示す3つの「新たな学びの視点」としてまとめている.
第1が「深い学びの過程」である.習得・活用・探究という学習プロセスの中で,問題発見・解決を念頭に置いた深い学びが実現できているかどうかということである.これは知識・技能の高度化であり,それらが互いに関連づけられ,体系化されていくことにより,思考力を発揮する問題解決過程を通して主体的に学んでいくことで可能にする.学習者が既に学んできたことと新たに学ぶことをつなげ,体系化された知識として保持し,教科としての体系的な見方を身に付ける中で,それを問題解決過程に使えるということを目指している.
第2が「対話的な学びの過程」である.他者との対話を通じて外界との相互作用を通じて,自らの考えを広げ深める.対話とは,物事の複眼的で深い理解に達するために,様々な考えに触れ,やりとりを通していく.教師と子ども,子ども同士がやりとりすることとともに,外界の出来事やものや表現とのやりとりも重要となる.学習者である子どもが教材を前にその探究と理解に向かい,それを助ける教師がいて,また仲間同士がいる中で,ともに考える.
第3が「主体的な学びの過程」である.子どもたちが見通しを持って粘り強く取り組み,自らの学習活動を振り返って次につなげる.積極的に意欲を持って学習に取り組むことから始まり,難しい点に会ってもすぐにあきらめることなく,複眼的で多視点でものを考え,解決法を工夫し,課題をやり遂げていく.他の学習者や教師と考えの共有を図りつつ,自分の間違いを捉え,また自分と他者の良さを自覚し,多面的な理解を深めていく.意欲から意志へ,そして自覚する学習者へと育てていくのである.
【課題】
(1)新たな学びの視点を入れた授業をデザインし,その指導の概要をまとめてみなさい.
(2)新学習指導要領について,その背景,教育の課題,改訂のポイントという視点で,それぞれ4つキーワードを出して説明しなさい.
【参考文献】
1.林徳治他:教学改善のすすめ ぎょうせい 平成28年4月15日
2.P.グリフィン;21世紀型スキル 北大路書房 2014.4.20
資料
【講座】21世紀に求められる資質能力と学習環境
1.21世紀に求められる資質能力と学習環境
1. 何を学ぶか
21 世紀にふさわしい主体的・協働的な授業をいかに設計し、評価していくべきだろうか。21 世紀の知識基盤社会における「確かな学⼒」は「他者と協働しつつ創造的に⽣きていく」資質・能⼒の育成であるため、授業では、他者と共に新たな知識を⽣み出す活動を引き出しつつ深い知識を創造させていく経験を、数多く積ませることが重要である。ここでは、21 世紀に求められる学⼒を育む新たな授業と評価を、背景や実践事例を紹介しながら考える。
2. 学習到達目標
① 21 世紀に求められる学⼒について説明できる。
② 資質・能⼒を引き出す授業の条件を説明できる。
3. 研究課題
① 知識習得モデルと知識創造モデルの違いを説明しなさい。
4.教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第3講)
5.映像
2.主体的・対話的な深い学びと学習理論
【学習到達目標】
・主体的・対話的で深い学びについて具体例を挙げて説明できる.
・アクティブ・ラーニングと主体的・対話的な深い学びについて説明できる.
・主体的・対話的な学びについて学習理論を示して説明できる.
1.主体的・対話的で深い学びの視点
アクティブ・ラーニングについては,平成24年8月中央教育審議会の「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け,主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)」の中に,能動的学修(アクティブ・ラーニング)と括弧書きで記載されている.「能動」の対義語は「受動」であるため,大きなとらえとしては「受動的にならない学習」であるが,先述の諮問文では「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習」とされている. 一方で「アクティブ」という言葉から,活動性をイメージさせてしまい,授業中に子どもたちが活動する,ダイナミックに動きまわる,何か体験をたくさんさせなければならない,といった誤解を持たれる傾向がある.確かに体が活動的であるということも大事ではあるが,一番活性化してほしいのは子どもたちの頭の中「深い学び」である.
つまり,「子どもたちの思考が活性化し,深い学び」が授業の中で起きているかどうかが重要になる.
例えば活用の場面で「より積極的に自分の考えを他者に伝える」,習得の場面で「何のために習得するのか,自身にどのような成長があるかを自覚的に習得する」さらには「個別ではなく子ども同士で教え合う,教えてもらう」といった場面でも,子どもの思考は活性化している.このような学習の状況を授業場面の中に作っていくことがアクティブ・ラーニングにつながる.
そうすると,これまで国内で積極的に行われてきた授業改善の取り組みは,まさにアクティブ・ラーニングであると言える.特に小学校の先生方は熱心に取り組まれており,例えば問題解決的な学習や発見学習,体験活動やグループ・ディスカッション,ディベートなどさまざまにある.そういったものもアクティブ・ラーニングに含まれる.
しかし,小・中・高等学校,大学と校種が上がるにつれて,より受動的になる傾向がある.これからは,これらをすべての校種の教室で実施し,質的にも担保していくことが求められてくる.さらに,授業の質の向上には,これまで行われていなかった新しい学習・指導方法を考えていくことも必要である.例えばジグソー法や思考ツールを使ったディスカッション,あるいはICTなどを積極的に授業に取り入れ,子どもたちがよりアクティブに学ぶ授業を考えることも求められる.アクティブ・ラーニングについては,前述の答申では,「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり,学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称.学修者が能動的に学修することによって,認知的,倫理的,社会的能力,教養,知識,経験を含めた汎用的能力の育成を図る.発見学習,問題解決学習,体験学習,調査学習等が含まれるが,教室内でのグループ・ディスカッション,ディベート,グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である.」と定義されている.
2.主体的・対話的で深い学びと学習理論
人が「学ぶ」ということについて,古くからいろいろな領域での研究がなされてきた.教授と学習という概念は,一般に教育者の行う教授活動と,学習者の行う学習活動という意味で理解されている.しかしながら,現実の多くの教育においては,「教授と無関係に成り立っている学習」もあれば,「教授が学習を導けない場合」もある.また,「教師がいないで行われている学習」であっても「教師からいかなる指示も影響も受けずに学習者が学習を行う場合」もあれば,「教師から前もっての指示のもとに,一人で学習する場合」もある.さらには,「教師の指示に反する方法で学習を行うような学習者」もいる.このように,現実の教育の場においては,教授と学習は必ずしもひとつの教育過程を構成しているとはいえない場合がある.教授・学習の理論とは,「一定の教材を教師が教授し,学習者がその教授のもとで学習する活動を言い表す概念である.」と定義されるように,本来,教授と学習は一体化して行わなければならない.
3.教授・学習の理論
教授・学習の理論の歴史的な変遷とその課題について考えてみる.1960年代に,世界中で,それまでの学校教育のあり方の見直しが行われた.この動きはカリキュラム改革運動としてアメリカに端を発し,およそ20年間続いた.このカリキュラム改革運動期では多くの教育プロジェクトが出現した.その基礎理論は既存の心理学理論であった.この既存の心理学理論には,大別すると行動主義と認知心理学がある.ここでは,行動主義の代表としてはバラス・スキナー(B.F.Skinner),認知主義の代表としてはピアジェ(J,Piaget)の理論を取り上げ,カリキュラム改革運動期における教授・学習論について考える.さらに,構成主義的学習論から社会的構成主義に至る経緯を述べる.
4.行動主義的学習論
人がどのように思考しているかを研究する学問,心理学が学問として成立したのは19世紀後半のことである.このころ,意識や思考のプロセスを探るには,その人に直接たずねるという「内観法」とよばれる方法に頼っていた.この「内観法」の主観性を問題視し,客観的な心理学を求めて提唱されたのが「行動主義」による心理学である.「行動主義」により学習を定義すると「行動が変わること」となる.つまり,行動主義的学習論では,客観的に示す方法がない頭の中の出来事は全てブラックボックスとみなしてしまい,科学的に扱える「行動」のみを対象に評価や研究を行うのが「行動主義」である.すなわち,「学習者の刺激に対する反応のみに注目し,学習成立の有無を判断しようとするもので,学習者の心的なプロセスは分析の対象としない学習論」といえる.行動主義的学習論では,学習者の行動から学習の成立を考える.例えば,授業が終わった直後に「よくわかりました」と言っている児童生徒がいたとする.しかし,行動主義的学習論では,この時点では学習したとはいわない.学習したかどうかはすべて学習者の行動が変わることによって示されるからである.従って,「わかったならやって見せなさい」というのが行動主義的な考え方といえる.
行動主義的学習論の基本的な理論は,1938年に代表的な行動主義心理学者のひとりであるバラス・スキナー(B.F.Skinner)が考えた.スキナー箱というものを使ってマウスやハトを用いて有名な研究を開始した.このスキナー箱とは,マウスが,餌が出るレバーを押すように自発的に行動(operate)するようになることを観察する代表的な実験装置である.この実験により,報酬や罰などの刺激に反応して,自発的にある行動を行うように,学習することを,オペラント条件づけと呼んだ.すなわち,「オペランド条件づけ」とは,偶発的行動に正の強化を与えるとその行動が生起しやすくなることを研究し,その結果,学習は訓練によってだれにでも身につけさせることできることを理論化したのである.スキナーは,さらにこの「オペラント条件づけ」の理論に基づき,1960年代に「プログラム学習」を開発した.開発のきっかけとなったのは,愛娘の授業参観に行ったスキナーが,授業方法のひどさに呆れ,「これはネズミの訓練以下の教育だ」と憤慨し,その結果開発されたのがプログラム学習だったという話がある.
一般に教育の世界では, 常にものごとの 「基礎・基本」を身につけることの重要性が叫ばれる.そのような「基礎・基本」を身につける手段には,必ずといってよいほど,やさしい問題から順に難しい問題に進む.階段を上がるように一歩一歩,練習問題を解いでいくコースが設定され,それぞれの段階での「反復練習」が強調される.このようにして獲得された反応が,新しい課題状況でも発揮されることにより,基礎技能が「活用」 できるようになるのだときれてきた.学習というものがこのようにあとで役に立つ行動様式の積み重ねで構成されるという考え方を支えてきたのが行動主義的学習論である.しかし,行動主義的学習論には,いくつかの課題があった.それは,動物や頭を使わない訓練の場合はうまくいくが,人間の場合には,報酬にたいする価値観や知的好奇心等複雑な心的な条件が関わってくるため,必ずしも,行動主義的学習論のみでは学習できない.また,学習のプロセスを評価することの是非についても課題となってきた.
5.認知主義的学習論
このような行動主義に対して,ピアジェ(J,Piaget)は,認知主義的学習論として学習者の学習の成立を発達段階に応じた新たなシェマ(Schema)の獲得と位置づけて説明した.シェマとは,学習者が発達していく段階で外部事象を取り入れるために既有の心的構造である.すなわち,学習を,学習のプロセスも含む頭の中での変化を対象とする学習論としてとらえた.ピアジェは,このシェマによって外部事象をそのまま受け入れることを「同化」といい,既有のシェマによる受け入れが困難な場合にはシェマの修正を行い,新たなシェマを獲得することを「調節」といった.また,場面に応じてシェマを適切に運用する人間の心的行為を「操作」と呼んだ.このように,ピアジェは行動主義ではブラックボックスとされた人間の内観をこの「同化」「調節」「操作」という概念でもって説明しようとした.
行動主義的学習論に対して,認知主義的学習論では,学習は,頭の中での変化を含む変容,学習のプロセスも含むと定義しており,学習者が発達していく段階で外部の事象を取り入れるために,既にある心的構造を用いている.ピアジェは人間には,もともと好奇心があり,外に働きかける学びはその関わりの中で生じるといっている.
このようにカリキュラム改革運動期における学習論は,学習者の内観を重視するピアジェの認知主義的学習論と,学習者の行動から学習の成立を検証するスキナーの理論の行動主義的学習論が位置付いていた.
6.構成主義的学習論
認知主義的学習論の次に提唱された学習論として,「構成主義的学習論」がある.ここで,従来の学習論と構成主義的学習論の最も大きな違いは,学習者を受動的な存在と見るか,能動的な存在と見るかという点になる.前者においては学習者を,知識を流し込まれる器のような存在ととらえ,また後者においては学習者を自ら外部に働きかけ知識をつかみとる力を持つ存在ととらえている.この違いに着目して,構成主義的学習論を考える.構成主義とは,学習者たち一人ひとりが主体的に教えられている対象の概念を組み立てていくように教えるという考えである.そこでは学習者自身が能動的に知識を構築していくという考え方があり,その結果,学習プロセスの中で質的な変化が学習者自身に起こると考えた.このように,「行動主義」における教える側からの受動的な学習観に対して,学習者側からの能動的な学習観を提唱するのが「構成主義」による心理学である.構成主義はピアジェ(J,Piaget)の認知主義に基づき「人が,自分がすでに持っている知識構造(シェマ)を通して外界と相互作用しながら,新しい知識を得,新しい知識構造を構成すること」を学習の定義としています.もう少しわかりやすく表現すると構成主義は,「人は自らのいる環境で回りにある材料を使って行動する過程で自らさまざまな概念や知識を主体的に学び取るのである.」といった主体的・積極的な学習観を示す.また,「学習は個人の活動であり,学習の効果は個人の能力として評価される.」という学習観である.
さらに,この構成主義的学習論を進化したのが,ヴィゴツキー(Vygotsky,LS)である.このヴィゴツキーの理論を具現化したのが「社会構成主義的学習論」である.すなわち,学校における学習は,学習者である現在の児童生徒のみでできることではなく,教師の協力や仲間との協働によって可能なことを学ぶのであるという考え方である.言い換えれば,学習者が成長していく過程で,その周りの人たちが果たす役割の重要性について言及したものである.彼はこの考えの中で,知的な能力は他人との関わり合いの中から発達するということを主張した.つまり,彼は学習者が成長するときに,家族や大人,仲間と協働にやることが重要であるということを提示した.ヴィゴツキーはこれを発達の最近接領域と命名した.すなわち,ヴィゴツキーは,発達の最近接領域における「協働学習」の有効性を強調したのである.それは,「協働の中では,学習者は自分一人でする作業のときよりも強力になり,有能になる.かれは,自分が解く知的難問の水準を高く引き上げる.」という言葉に表れている.このようにして,子どもの学習が,「教室における集団」「教師やクラスメイトとの対話」「観察や実験などの事実」「教科書などから得られる情報」等を通じて成立することを理論化したのである.すなわち,このことにより社会的構成主義学習論の基礎が築かれた.
従来の学習論と社会的構成主義の違いについて,今,テストを例に考えてみる.通常,人の手を借りてテストを受けるのはカンニングと言われる.通常の学校教育の現場では,学習者は,「他者の助けなし」で有能であることが求められている.すなわち,学校では,学習はあくまで個人のものであるというようにとらえている.しかし,通常の日常生活を考えてみると,ある研究によると,我々が,仕事場で行う90%以上の仕事は,個人が一人で取り組むのではなく,他人に知恵を借りたり,お互いにできない部分を補いあったり,得意な部分を活かしあったりして,仕事を達成している.これは,先ほどの学校と違って,日常においては,我々は,一人で「有能」であるわけではない.様々な人々と一緒に,彼らとともに「生きる」ことで,有能に振る舞っている.このように日常生活では,学習者は,他の人々とコミュニケーションをとりながら,知的に振る舞う.そしてそこで実施される学習も,決して,個人の中だけに閉じているものではない.わからないときは,教師や有識者の知恵を聞く.より有能な友人から,手助けを得て,知恵をもらいつつ,学習者は,日々生きている.同じくらい有能な同級生との対話によっても,人は,学べる.例えば,あなたは今,Aということをよく知っている.そして同級生はBを知っている.Aについてよく知っているあなたと,Bについてよく知っている同級生が対話をすれば,Cという新しい価値,新しい知識が生まれる可能性がある.もちろん,お互いに「行き着くところは同じではない」かもしれないが,あなたはAについて「より知ること」ができる.同級生はBについて,新たな見方ができるようになる.人が集まり,何かについて話し合えば,必然的に説明をする必要に迫られる.こうして,相互に学びが深まる可能性がある.社会的構成主義は,このような事例に典型的にあらわれている.ここでも,行動主義と社会的構成主義を捉えるうえでのポイントは,学習を「受動的なもの」から「能動的(主体的)なもの」として捉え直すということである.
最後に,基礎的な学習論である行動主義的学習論と認知主義的学習論をまとめると次のようになる.「行動主義」がそのブームを終え,「構成主義」もさらに新たな展開を見せている現在でも,従来の学習論は,プログラム学習に基づく自学自習教材や,「構成主義」に基づく問題解決学習など,伝統的な学習理論は領域に応じて適用され,効果をあげている.また,これらの理論は,現在でもドリル学習や発見学習,協働学習,ジグソー学習,遠隔学習等.また,e-Learning等様々な学習方法の基礎となっている.教育や学習の目的も価値も時代の流れとともに変わり,普遍的なものではない.教える側にとっても学ぶ側にとっても,課題と状況に応じて新旧いろいろな理論からのアプローチを試みながら,均衡点を常に探し続ける柔軟で動的な学習観を持つことが期待されている.
【課題】
(1)主体的・対話的な深い学びの授業をデザインするために必要なことを纏めて説明しなさい.
(2)学習理論から主体的な学びと対話的な学びについて説明しなさい.
【参考文献】
1.R.A.リーサー他:インストラクショナルデザインとテクノロジ
北大路書房、2013.9.20
2.近藤他;教育メディアの開発と活用 ミネルヴァ書房 2015.3.20
資料
5.資料
【講座】 教授・学習の理論と教育実践
1. 何を学ぶか
⼈が「学ぶ」ということについて、古くからいろいろな領域での研究がなされてきた。教授と学習という概念は、⼀般に教育者の⾏う教授活動と、学習者の⾏う学習活動という意味で理解されている。しかしながら、現実の多くの教育においては、「教授と無関係に成り⽴っている学習」もあれば、「教授が学習を導けない場合」もある。また、「教師がいないで⾏われている学習」であっても「教師からいかなる指⽰も影響も受けずに学習者が学習を⾏う場合」もあれば、「教師から前もっての指⽰のもとに、⼀⼈で学習する場合」もある。さらには、「教師の指⽰に反する⽅法で学習を⾏うような学習者」もいる。このように、現実の教育の場においては、教授と学習は必ずしもひとつの教育過程を構成しているとはいえない場合がある。ここでは、このような教授・学習の理論の変遷について考える。
2. 学習到達目標
① 教授学習に関する基本的な理論を具体的に説明できる。
② ⾏動主義と認知主義の2つの学習論の区別を説明できること。
3. 研究課題
① ⾏動主義的学習論と認知主義的学習論、構成主義的学習論に対応した教材や課題(問題)を作成し、グループで協議をしなさい。
4.教材開発の基礎としてのインストラクショナルデザインプレゼン構成(第13講)
5.映像
1.主体的・対話的な深い学びとその評価
【学習到達目標】
・学力の定義の変遷について説明できる.
・パフォーマンス評価とルーブリックの関係を説明できる.
1.知識基盤社会と資質・能力
高度情報社会は新しい課題を世界にもたらし,新しい解を生み出せる人間を求める社会である.つまり,これからの社会は,一部の専門家があらかじめ有する「正解」を適用するだけで解決できるものではなく,問題を共有する者が知識やアイデアを出し合い,不完全にせよ解を出して実行する.そして,その結果を見ながら解とゴールを見直すことが求められている.このような課題に対して,社会全体が応えようとしている表れが,知識基盤社会,コミュニティ基盤社会への転換と進展,ICTの利活用である.
知識基盤社会とは,新しい知識やアイデア,技術のイノベーションがほかの何よりも重視される社会である.そのイノベーションのために,他者とのコミュニケーションやコラボレーション(協働,協調)が重視され,それらが効果的・建設的に行えるように,人と人を繋ぐコミュニティやICTの役割に注目が集まっている.
つまり,現在決まった答えのないグローバルな課題に対して,大人も子供も含めた重層的なコミュニティの中で,ICTを駆使して一人ひとりが自分の考えや知識を持ち寄り,交換して考えを深め,統合することで解を見出し,その先の課題を見据える社会へと,社会全体が転換しようとしている.ここでは,その情報社会とそれに応じて求められる資質や能力について考える.
2.目標分析
「目標分析」とは,目標の構造をとらえることで,目標分析をできないと評価規準をつくるのは困難である.つまり,目標自体は平面的で,それだけでは構造はわかりませんが,目標を分析して全体の構造がわかると,評価規準を作成することができる.
目標の構造がわかるというのは,評価規準のなかで,重要度を決定することである.つまり,教材の目標分析とは,「この単元で何を,どのように教えたいか,いつ指導したいのか,どのような順序で教えるのか,どのような方法で教えるのか,そのためにどのような教材を利用するのか」を決定することといえる.
次に,「それを指導するために,何がいるのか」を考え,そしてそれらを分類する事が重要となる.このように,これを教えるためには何が必要かを考えことを,「目標の構造化」という.目標の構造化をすることにより,教材の流れが出てくる.抽象的な教科全体のことを「目標分析」,教材単元のことを「目標分類」と分けて考えると,「目標分類」によって構造とともに授業の流れがわかる.
それぞれの学校や学級によって目標は変わらないが,目標の構造は,子どもの実態によって変わる.子どもの実態,教師の指導方法・指導力,学習環境など,そういうことを含めた授業研究がなされて初めて目標分析ができる.
2.教育目標の分類
日本で目標分析が行われるようになったのは,B.S.ブルーム(B.S.Bloom)の「教育目標の分類」の研究以降である.B.S.ブルームらが開発した手法は,教育目標を構造化し,マトリックス上に表現したものである.
具体的には,学習の「内容」を縦軸にとり,そこで目指される「学習行動(能力)」を横軸にすえたマトリックスを作成し,学習目標をその枠の中に割り付けていくという手法である.このうち,横軸に並べる学習行動(能力)については3つの領域,すなわち認知的領域,情意的領域,精神運動的領域が枠組みとして設定され,それぞれの領域においては目標に段階性があることを意識しながら目標を割り付けていくことが目指された.
B.S.ブルームによる提案が行われて以降,学習行動(能力)の段階性に関する研究が積み重ねられ,各教科で適用可能な形式へと発展していった.また,各国の教育の実情や文化・風土にあったタキソノミー(Taxonomy)を作ることが推奨され,日本の教育文化にあったタキソノミーづくりの試みも実際になされている(梶田,2002).
この教育目標の分類学という目標分析の手法は,あいまいになりがちな授業の目標を明確化し,子どもの学習の評価観点を明確化するという意義がある.また,教師にとっては,その授業の中で何を教えればよいのかが明確に意識化され,子どもの学習評価を,印象論ではなく,明確な観点を持って行うことができるというメリットもある.さらに,教育目標の高度化の方向も示すこともでき,そのための授業改善の方法を探ることもできる.
例えば,深い学びに授業に改善することは,B.S.ブルームの「教育目標の分類」における認知的領域の「内容」を豊富に含むことであり,そのための授業内容や方法を改善することが必要となる.
4.学 力
学生の学力が低下しているといった報道をよく耳にする.そもそも,学力とはどのようなものか.ここでは,まず学力について考えてみる.
授業を実施した場合に,学んだ内容が学生にしっかり身についているかどうか,最終的に評価しなければならない.その評価で測る対象が学力である.
学校ではどのような学力をつけるべきかを問う際に,その基本構造について合意形成していくことが有効である.ここでは柴田の提示している学力構造と相互関係から考えてみる.(柴田1994)
柴田(1994)は,学力を「学んだ力(基礎的知識・技能)」と「学ぶ力(自ら学ぶ力,学び方)」,そして「学ぼうとする力(学習意欲)」の3つの要素で構成されるとしている.「学んだ力」は学習の結果として身に着けた知識や技能を指し,それらを学ぶための必要な学び方,問題解決の方法を「学ぶ力」と表現している.さらに,それらを支える学習意欲を「学ぼうとする力」としている.
その上で,特に「学ぶ力(学び方)」を中心とした学力構成の重要性を述べ,「学び方の論理的側面」としての基本的な思考様式(推論的思考様式,実験的思考様式等)と「学び方の技術的側面」としての実践的知識(辞書の使い方,発表の仕方,情報機器の使用法等)という方法を教育内容として系統的にきちんと位置付ける必要性を強調している.
学力は児童生徒が社会人になっても役に立つ力であってほしいものである.別の見方でいえば,社会が変化すれば,必要な学力も変化することを意味する.
国際的な学力調査PISAを実施しているOECD(経済協力開発機構)は,これからの社会を知識基盤社会だとして,教育の成果と影響に関する情報への関心が高まり,「キー・コンピテンシー(主要能力)」の特定と分析に伴うコンセプトを各国共通にする必要性を強調した.そのために,OECDではプログラム「コンピテンシーの定義と選択」(DeSeCo)をスタートし,その後「キー・コンピテンシー」の概念を提唱した.ここで,提唱された「コンピテンシー(能力)」とは,単なる知識や技能だけではなく,技能や態度を含む様々な心理的・社会的なリソースを活用して,特定の文脈の中で複雑な要求(課題)に対応することができる力としている.
つまり,「キー・コンピテンシー」とは,日常生活のあらゆる場面で必要なコンピテンシーをすべて列挙するのではなく,コンピテンシーの中で,特に,①人生の成功や社会の発展にとって有益,②さまざまな文脈の中でも重要な要求(課題)に対応するために必要,③特定の専門家ではなくすべての個人にとって重要,といった性質を持つとして選択されたものと定義できる.
今後,このような個人の能力開発に十分な投資を行うことが社会経済の持続可能な発展と世界的な生活水準の向上にとって唯一の戦略であるとしている.そこで,OECD(経済協力開発機構)は,12か国の間で議論し「キー・コンピテンシー」として次の3つを提唱した.
○社会・文化的,技術的道具を相互作用的に活用する力
○自律的に行動する力
○社会的に異質な集団で交流する力
一方,日本の学校では,学習指導要領に教育内容が規定されている.学習指導要領が目指す学力は,1998年以降「生きる力」が掲げられ,次の3つの力の育成が重要とされた.
①基礎・基本を確実に身に付け,いかに社会が変化しようと,自ら課題を見
つけ,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を
解決する資質や能力
②自らを律しつつ,他人とともに協調し,他人を思いやる心や感動する心な
どの豊かな人間性
③たくましく生きるための健康や体力
さらに,幅広い学力を育成するためには,どんな要素から成り立っているかをさらに詳しく把握する必要がある.1989年(平成元年)の学習指導要領では,全ての教科は「関心・意欲・態度」「思考・判断・表現」「技能」「知識・理解」などの4観点に分けられている(国語のみ5観点,それ以外の教科は4観点).
教師はそれぞれの観点ごとに目標を設定し,学習者がその目標に対してどれだけ実現できたかを分析し,評価している.この評価方法は絶対評価で行われ,観点別評価とも言われている.学年末には,各必修教科,選択教科の観点別評価が,観点別学習状況として評定とともに指導要録にも記録されている.
○関心・意欲・態度
○思考・判断・表現
○技能
○知識・理解
ところが,2008年(平成20年)の学習指導要領では,学力について従来の4観点から次の3要素に再編された.特に,学校教育法第30条に,学力について次のように示された.
第三十条 小学校における教育は,前条に規定する目的を実現するために必要な程度において第二十一条各号に掲げる目標を達成するよう行われるものとする.
○2 前項の場合においては,生涯にわたり学習する基盤が培われるよう,基礎的な知識及び技能を習得させるとともに,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくみ,主体的に学習に取り組む態度を養うことに,特に意を用いなければならない.
ここで,第2項に示してある次の3項目を「学力の3要素」と呼んでいる.
○基礎的・基本的な知識・技能
○知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断
力・表現力等
○主体的に学習に取り組む態度
2020年には,児童生徒一人1台のタブレットPCが導入され,アクティブ・ラーニングなどの新しい学習の方法が導入されてくる.現在,学力観は現在大きな転換点を迎えているといえる.
5.新しい評価方法
21世紀型能力のような新しい学びには,新しい評価方法が必要である.学習結果の到達点を測る評価ではなく,学習の進み具合を捉え,次の段階に進むために今やっていることをどう変えたらよいか判断するための評価である.このような評価を学習の進行に合わせて行うためには,学習プロセスの記録を取り,分析・共有して次のステップを検討する強力なICT基盤が必要である.ICT基盤が強力であれば,教員はそのICT環境の維持や新しい評価方法に翻弄されることなく「新しい学びの構築」に集中することができる.
6.パフォーマンス評価と変容的評価
「パフォーマンス評価」とは,「パフォーマンス課題」によって学力をパフォーマンスへと可視化し,学力を解釈する評価法である.パフォーマンス評価は,「パフォーマンス課題」に取り組ませることで,子どもの学力を「見える」ようにし,「ルーブリック」という評価基準を使って評価する.したがって,パフォーマンス課題は,評価したいと思う学力ができるだけ直接的に表れるものにする必要がある.
また,「パフォーマンス評価」の利点として,従来のテストでは見えにくい「思考力」「表現力」などを具体的な表れとして見られることが挙げられる.例えば,算数で,思考の過程を表現させる課題を出し,式や言葉,図,絵などさまざまな方法を用いてもよいとすれば,子どもは自分なりに考え,表現しようとする.パフォーマンス評価では一つとして同じ答案はなく,子どもの思考や表現は実に多様だと実感できる.子どもの思考を理解するのに役立ち,子どもは「書く」経験を積むことができる.答案を発表し合えば,友だちの考えへの理解や,個性の自覚にもつながる.しかし,「パフォーマンス評価」は有効な方法であるが,「思考力」「表現力」を丸ごと測れるわけではない.あくまでも一つの課題に対する結果と考えることが重要である.「思考力」や「表現力」という力そのものを把握できる方法はないので,パフォーマンスから,その背後にある子どもの思考や表現の特徴を把握しようと努めることが大切である.
【課 題】
(1) 知識・技能と資質・能力の違いについて説明しなさい.
(2)パフォーマンス評価とルーブリックについて具体例を示して,説明しなさい.
(3)ルーブリックを児童生徒に作成させることのメリットをグループで解説しなさい.
【参考文献】
1.鈴木:教材設計マニュアル 北大路書房 2013.9.20
2.稲垣・鈴木;授業設計マニュアル 北大路書房 2013.6.20
資料
2.主体的・対話的な深い学びとICT
【学習到達目標】
・主体的・対話的な深い学びを不断の授業改善の視点から説明できる.
・不断の授業改善におけるICTの役割を説明できる.
1.不断の授業改善の視点としての主体的・対話的な深い学び
既に前章までに触れられてきているように,子供たちが成人して社会で活躍する頃には,生産年齢人口の減少,グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等により,社会や職業の在り方そのものが大きく変化する可能性が指摘されている.そうした厳しい挑戦の時代を乗り越えていくためには,伝統や文化に立脚しながら,他者と協働し価値の創造に挑み,未来を切り開いていく力が必要とされている.そのためには,学ぶことと社会とのつながりを意識し,「何を教えるか」という知識の質・量の改善に加え,「どのように学ぶか」という学びの質や深まりを重視することが必要とされている.
そこに向けた取組の視点として「アクティブ・ラーニングの視点からの不断の授業改善」が言われている.より具体的には,①学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら、見通しを持って粘り強く取り組み、自己の学習活動を振り返って次につなげる「主体的な学び」が実現できているか,②子供同士の協働、教職員や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ、自己の考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できているか,③習得・活用・探究という学びの過程の中で、各教科等の特質に応じた「見方・考え方」を働かせながら、知識を相互に関連付けてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見いだして解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりすることに向かう「深い学び」が実現できているか,といった「3つの学び」の視点が掲げられている.
このように質の高い深い学びを目指す中で,教員が,指導方法を工夫して必要な知識・技能を教授しながら,それに加えて,子供たちの思考を深め発言を促したり,気付いていない視点を提示したりするなど,学びに必要な指導の在り方を追究し,必要な学習環境を積極的に設定していくことが求められてきている.
ここでは,習得・活用・探究のプロセスにおいて、習得された知識・技能が思考・判断・表現において活用されるだけでなく,思考・判断・表現を経て知識・技能が生きて働くものとして習得されたり,思考・判断・表現の中で知識・技能が更新されたりすることなども述べられている。このように「主体的・対話的で深い学び」に向けた授業改善を行うことで,学校教育における質の高い学びを実現し,子供たちが学習内容を深く理解し,期待されている資質・能力を身に付け、生涯にわたって能動的(アクティブ)に学び続けるようにすることが,求められてきている.
2.主体的・対話的な深い学びを導く教育・学習環境としてのICT
上記のような授業の絶えざる改善を進めていくためには,一方で学習環境の改善及びその効果的な利用法にも目を向けていく必要がある.
例えば,対話的な学びと関わるグループワークでは、なかなか全員が参加する活動にならないという悩みがよく言われている.また活発に話し合ってはいるがそこに深まりが見られないなどの悩みが言われている.しかし目に見える活発な話し合いの姿は見せないが、人の意見をよく聞いてまた読んで自己の学びを構成していく潜在的対話的な学びをしている児童生徒も実際にいる場合がある.このような潜在的対話的学びをしている児童生徒を生かし,一方で顕在的対話的な学びをリードし自信をもっている児童生徒により他の子の意見を丁寧に見てさらなる熟考を促していくために,ICTなどテクノロジーが有効となる.たとえば,児童生徒のタブレットがネットワークにつながっていることで,顕在的に話し合わなくても,各自が考えていることが互いに見える.教員はこの機能を生かし,従来の机間指導で見取れなかった子供の姿,埋もれがちな子どものよい意見を取り上げたり,全員の意見を等しく見て,限られた授業時間を有効に使いながら議論を組むことも可能となる.もちろんそのための課題設定や発問の質が重要となるが,それぞれの児童生徒の学習スタイルや発達課題を考慮しながら,授業で教員が顕在的な対話と潜在的な対話を適切に組み立てることが,人の考えを参考にして自分の考えの検討をつけたり、新たな考えを創出したり,自分の考えを掘り下げたりすることを促す可能性を作る.発言が苦手な子にはこの取り組みを通じて話す機会を作って自信を持たせ,一方で話し合いには参加しているがじっくり自分の考えを持つことが苦手な子には,熟考できる機会を作る.このようにICTなどのテクノロジーを,教育の原理と絡めて授業の絶えざる改善に向けて使うことが重要となる.
また平成30年から実施される学習指導要領で期待されている資質・能力の育成においては,その成長をいかに見取り,評価するのかが大きな課題である.その点に関しても,コンピュータを使うと難しいといわれている思考のプロセスを残せるようになる.児童生徒の学びの履歴をもとに,授業の改善を考えることができ,長い目で見ると,単元レベルの授業の改善,学年単位レベル,さらには学校全体の教育課程レベルで授業改善を考えていく根拠資料として,その記録が有効となる.このように評価情報を収集し授業の改善につなげていく道具としてICTを用いていく,つまりアセスメントツールとしてICTの活用をより意識すると,「授業の絶えざる改善」をより効果的に進めることができ,さらに言えば,カリキュラム・マネジメントの取り組みにもつながっていく可能性がある.
3.主体的・対話的な深い学びの授業デザインの目を磨くためには
授業にアクティブ・ラーニングの視点を取り入れる際には、「ゴールの姿」と「方法・環境」の両方をしっかりおさえておく必要がある。例えば、「方法・環境」しか見ていない場合は、アクティブ・ラーニングの「型」をなぞるだけとなり、どのような力が育つのかという「ゴール」が分からない授業となってしまう。一方、「ゴールの姿」だけを設定しても、「方法・環境」が十分練られていないと、授業づくりが難しくなる。
これからの授業のデザインは、教員がその授業で身につけさせたい教科の内容と資質・能力を子供の姿のアセスメント情報からより明確にし、学習の内容や方法を検討することがさらに重要となる。当然ながら「本単元に入るために必要な前提となる力をこのクラスの子供がどれくらい持っているかを見定める.そしてこの単元や授業では、ここから入り,この資質・能力のこの部分を伸ばす」といったゴールを明確にすることは行われると思われる.しかし授業にアクティブ・ラーニングの視点を取り入れ,例えば「学ぶ力」や「学びに向かう力」等より意識して指導していくためには,そこに向けて、ここでは思考を広げたいとか、ここでは振り返りをさせたいなど、子どもの学びの姿をイメージしながら、ダイナミックな活動の流れのもつ効果を見定めていく小さな目標(学習活動やそれが持つ効果を見るチェックポイント)を設定する必要がある.図4-1は,「問題解決・発見力」を子供に培っていく際の学習プロセスやそこでのICTなどを生かした学習活動の組み合わせのバリエーションをイメージとして提供してくれている.このように単元デザインを”学びの連続体”としてとらえ、入り口と出口の子供の姿を明確にし,そこでの学びが確かで豊かになる学習活動の組み合わせを考え,どの場面でどのように学びの姿の成果を見るか(形成的評価につながるチェックポイント)を計画し,授業全体をデザインしていく目がより求められてくる.
4.主体的・対話的な深い学びを確かなものとしていくために
一口にアクティブ・ラーニングといっても,いろいろなレベルがある.子どもに気づきを促したいのか,思考を深めさせたいのか,興味・関心を引き出して学びに向かわせたいのかなどによって,議論,探究,表現活動など,行うべき学習活動は異なる.またなかなか自ら学びに向かうことができない子どもたちには,自尊感情を高めることを意図した協働的な学びも考えられる.子どもの状況や目的に応じて,それに適した活動を取り入れることが重要である.
そして子どもが主体的になるために,先にも触れたが,ずっと問いを持ち続けられるような工夫が必要になる.課題の内容やレベルにより,子どもの思考は大きく左右される.例えば、とにかく多くのアイデアを出させたい場面では,子どもの気づきに任せて話し合わせるのもよい.一方、グループワークを通して思考を深めさせたい対話的深い学びの場面では,多様な考え方ができ,すぐには答えにたどり着けない深い課題が必要となる.この場合は,子どもの気づきだけに任せると浅い思考で終わってしまうことが多いため,教員が課題を設定することが必要となる.また子どもの思考は,子どもにとって面白い課題でないと活性化されないことに留意する必要がある.子ども自身が知りたい,解決したいと思うからこそ,そのために何を調べればよいのか,どうまとめると伝わるのかなどを真剣に考えるようになる当事者意識をどう持たせるかが「学びに向かう力」を育てる上では重要となる.
また主体的で深い学びには,振り返りの支援が重要である.子どもが自分で学びを進めるためには,「学びに向かう力」が不可欠であり,振り返りの視点,いわゆるメタ認知の力が欠かせない.自分が今どういう状況にあるのかをモニタリングしたり,何が好きかなど自己認識をしたり,次に何をしたらよいのかを考えたりするなど,自分自身を振り返って高めていく仕組みが必要となる.自分にとって必要な学習を考え,次の一歩を踏み出すことの繰り返しで,学びはつくられていくと考えられるからである.
不断の授業改善に向けて子どもの姿から学びをとらえる姿勢が重要となる.
【課題】
(1) 不断の授業改善の視点として言われている「主体的・対話的な深い学び」で想定されている学びの姿を他の人にわかりやすく伝えることを意識してまとめなさい.
(2) 不断の授業改善におけるICTの活用可能性について,「主体的・対話的な深い学び」と関連付けて説明しなさい.
資料
3.主体的・対話的な深い学びとコミュニケーション
【学習到達目標】
・コミュニケーション能力を構成する3要素について説明できる
・教育的コミュニケーションについて説明できる
・現代のコミュニケーション活動の特徴を知り日常生活面で改善できる
1.コミュニケーション能力の構造(3つの要素)
人を育てる職業である教師にとって,学習者間での相互理解を深めるためのコミュニケーション能力は,極めて重要です。
コミュニケーション(communication)とは,「特定の刺激によって互いにある意味内容を交換すること。人間社会においては,言語・文字・身震いなど種々のシンボルを仲立ちとして複雑かつ頻繁な伝達,交換が行われ,これによって共同生活が成り立っている。」(国語大辞典,小学館)と記されています。すなわちコミュニケーションは,複数の人の間で記号を媒体とする相互作用と定義できます。人間は,社会において共同生活を営み,コミュニケーション活動により様々な課題を克服し,新たなものを創造し,さらに豊かなコミュニティを構築する協創・協働活動を行っています。
次に,相互理解のためのコミュニケーション能力の構造図を図1に示します。
図1よりコミュニケーション能力は,3つの要素から成り立っているのがわかります。
一つ目は,コミュニケーション能力の頂点となる「論理的に考える力(critical thinking, logical thinking)」です。これは,1.問題を発見し情報を収集する力,2.情報を読みとり考察する力,3.問題を明快に分析する力,4.解決策を提案する力,5.道徳的に判断する力を含みます。
二つ目は,「受け止める力(assertion)」です。受け止める力では,一方的な提案や主張(アグレッシブ)にならないよう,相手の気持ちや言い分を受容することで,双方が納得できる関係を構築するための1.受容的に聴く力,2.相手の気持ちを理解する力,3.相手を意欲的する力を含みます。
三つ目は,「伝える力(presentation)」です。伝える力では,1.的確な指示を行う力,2.自分の魅力を伝える力,3.話に刺激があり記憶に残す力,4.身振りで伝える力,5.相手の立場を知り共感される力,6.自己の考えを主張できる力,7.情報を論理的に構造化する力,8.自分の情報を整理する力,9.プレゼンテーションの筋書きを作る力,10.議論に負けない力などがあります。これらは,相手の納得する提案や主張を,効果的・効率的に構築し,伝えるためのさまざまなプレゼンテーションの知識・技能です。
2.3方向の教育的コミュニケーション
授業でのコミュニケーションは,①教授者の情報提示(指示,説明,発問など),②学習者のお返し(回答,意見など),③教授者の働き返し(正解,ほめるなど)の3つの過程が基本的な考えです。この学習理論をもとにした教育的コミュニケーションを図2に示します。
授業は,教授者と学習者,学習者相互間において,上記の教育的コミュニケーションの過程を繰り返すことにより営まれています。授業では,教科書,プリント,黒板,AV,PC,タブレットなど学習を支援する媒体としての教育メディアを活用し,教育的コミュニケーションの改善を図ります。また,図2において教授者からの働き返しをKR(knowledge of results)と言います。これには,正誤を知らせる知的KRと,受容やほめたり励ますなどの情的KRがあり,教授学習過程では重要な役割を果たします。知的KRは,学習者の発言や発表に対して正誤を知らせる認知面にかかわる情報です。情的KRは,学習者の発言や行動に対してほめる,認めるといった情意面にかかわる情報です。教授者の知的KRと情的KRの使い方によって,学習者の理解や意欲が大きく違ってきます。
学校では,学習者の知識や技能のレベルがさまざまな状態にあります。教師は,それぞれの学習者の既習度や特性に応じて適切な情報を抽出し,わかりやすくかみ砕き説明,発問して適切なKR情報を与えることできる能力が求められます。
3.コミュニケーションの分類
(1)言語コミュニケーション(verbal communication)
言語とは,人間社会において,コミュニケーション活動の基盤となる字音的表現であり,人間が創作した人為的な記号体系や音声による記号体系により,人間の感情や思想,意思などを表現したり,相互に伝え合うことができます。言語の目的は,言うまでもなく情報を他者に伝えることです。それでは,言語を音声言語(話し言葉)と文字言語(文字言葉)に分類し考えてみましょう。
音声言語とは,オーラルコミュニケーション(oral communication)が一般的で,聴覚を利用した口頭での意思伝達です。音声言語は一過性による人と人との直接的なコミュニケーションであり,人それぞれに独特の音声の高低や強弱,音質,ポーズ(間)などの特徴が付加されます。同時に,話し手の意思や意味を聴き手が解釈することで話の内容があいまいになるケースもあり,聴き手の既有知識,し好,経験,信頼,感情,立場などの特性によって,多様に解釈され理解されることがあります。また,話し手,聴き手相互間で,「~を言った」,「言っていない」,といった相互の主張によるトラブルがあります。これを補うツールとしてビデオやボイスレコーダなどのメディアがあります。
文字言語は,人間の視覚を利用した文字による意思伝達です。文字言語は記録・保存により,さまざまな用法によって独特の性質をもたらすことができます。そこで,紙や電子媒体を用いて表現,保存することで,伝達の範囲を時間的・空間的に拡大できます。
(2)非言語コミュニケーション(nonverbal communication)
非言語コミュニケーションは,言葉で記号化できるもの以外で,視聴覚など五感を通して収集できるものを言います。たとえば,人の表情や身振り,アイコンタクトをはじめ,髪型,服装,におい,身に着けるアクセサリー,化粧に至るすべてを含みます。現代では,グローバル化が進み,他の国の人々との異文化接触の機会が増えました。その結果,異文化間での言語の違いはもとより彼らの風習や習慣や思想の違いで,非言語コミュニケーションによる誤解や齟齬が生じ,相互理解が困難な場合があります。たとえば,タイ国では子どもを含み人の頭をむやみに撫でたり触れたりしてはいけません。日本でよく見かける,教師が子どもをほめる時に行う頭を撫でることはタイ国では見られません。異文化コミュニケーションを考えるとき,言語コミュニケーションにばかり注目する傾向がありますが,他国の文化や思想を理解する他者理解の視点から非言語コミュニケーションを見直すことが大切です。
最近のコミュニケーション活動は,スマートフォンや電子タブレットなどの普及により表現や伝達方法,内容がますます多様化する傾向にあります。ICTの進展により,映像を介した非言語コミュニケーションも可能になりました。そのため私たちは,普段なにげなく使っている非言語コミュニケーションの特徴を学び意識し,相互理解のためのコミュニケーションについて再考察することが大切でしょう。
次に,非言語コミュニケーションに関する有名な研究があります。アメリカの心理学者アルバート・メラビアン(A. Mehrabian)は,コミュニケーションにおいて話し手が聴き手に与える影響は,7%が言語コミュニケーション(言語情報:言葉そのもの)であり,残りの93%が非言語コミュニケーション(55%が視覚情報:見た目・表情・しぐさ・視線,38%が聴覚情報:声の質・速さ・大きさ・口調)であるとし,非言語コミュニケーションの重要性を述べています。この法則は,メラビアンの法則と呼ばれ広く知られています。
また,非言語コミュニケーションの研究者であるアーガイル(M. Argyll)によると,聴き手の70%以上が話し手の話を聞いているときに目を見ている,会話をしているときは,約60%が相手を見ていると報告されています。他にもエクマン(P. Ekman)は,顔の表情各部分の比率より,基本的感情表出度を表していることを示しています。
以上のように,多くの研究がなされていることからも非言語コミュニケーションの重要性が高いことがわかります。
4.現代社会でのコミュニケーションの光と影
スマートフォン,インターネット,Wi-Fiのインフラの充実に加え,LINE,Skype,Facebookなどコミュニケーションツールの無料アプリが普及した現代では,私たちは日々メディアを利用したコミュニケーションを行うようになりました。ここで言うメディア“media”とは,ミディアム“medium”の複数形であり,声や文字などの情報を伝達する媒体のことです。
マーシャル・マクルーハン(M. McLuhan)は,その著書『人間拡張の原理』で「すべてのメディアは,われわれ人間の感覚の拡張である。メディアはメッセージである。すべてのメディアの内容は常にもう一つのメディアである。」と述べています。つまり,メディアを人間のもつ感覚まで含めているのです。たとえば,衣服は皮膚の拡張,車輪は脚の拡張,電話は耳の拡張などといったことです。
ICTが発展・普及した現代では,社会システムの合理化や効率化に伴い,人と人との直接的なコミュニケーションの機会がますます減少する方向に進んでいるのは事実です。前述したように,今日ではいつでも(時間),どこでも(場所),だれとでも(人)を意識せず,メディアを介した間接的なコミュニケーション活動が容易な時代になりました。現代では,ICTの恩恵や利益など光の部分が先行し,通信メーカによるCMなどの影響で便利な生活が誇張されています。しかし,従来の直接対話に比べ,メディアを介した間接対話は,私たちが予期できなかった想定外の事故や事件,犯罪を招いたり,人間の価値観や判断,活力,究極的には生命まで脅かす影響を与えたりするケースが生じるようになってきました。ICT恩恵の背後には,個人情報や犯罪利用など多くの問題や悪い影響につながる影の部分が多々あることに大きな社会事件を通して気づきます。そのため,一人ひとりが情報・メディアとつきあう教養やコミュニケーション能力(言語・非言語・メディア)を養う必要性を自覚し,日々の生活で実践・向上させる心構えが最も大切です。
【課題】コミュニケーション実践のためのデジタルWeb教材を行ってレポートにまとめなさい。
http://www.hayashi-tokuji.com/td-ict/index.html
【参考・引用文献】
・林徳治・藤本光司・若杉祥太『主体的に学び意欲を育てる教学改善のすすめ』ぎょうせい,2016
・林徳治・奥野雅和・藤本光司『元気がでる学び』ぎょうせい,2011
・沖裕貴・林徳治 他7名『必携!相互理解を深めるコミュニケーション実践学(改訂版)』ぎょうせい,2010
資料
4.学習指導要領とアクティブ・ラーニング
【学習到達目標】
・21世紀に求められる資質能力について説明できる.
・次期学習指導要領改訂の視点について説明できる.
・アクティブ・ラーニングとICTの活用ついて説明できる.
1.21世紀に求められる資質能力と学習環境
21 世紀の知識基盤社会における「学⼒」は「他者と協働しつつ創造的に⽣きていく」ための資質・能⼒の育成である.そのため,授業では,他者と共に新たな知識を⽣み出す活動を引き出しつつ深い知識を創造させていく経験を,数多く積ませることが重要である.ここでは,21世紀に求められる学力と学習環境について述べる.
(1)21世紀型スキル
「21世紀型スキル」とは,世界の教育関係者らが立ち上げた国際団体「ATC21s」が提唱する概念で,これからのグローバル社会を生き抜くために求められる一般的な能力を指している.批判的思考力,問題解決能力,コミュニケーション能力,コラボレーション能力,情報リテラシーなど,次代を担う人材が身に付けるべきスキルを規定したもので,各国政府も知識重視の伝統的な教育から21世紀型スキルを養い伸ばす教育への転換に取り組み始めている.「21世紀型スキル」の定義については,ATC21Sプロジェクトの「21世紀のスキルに関する作業グループ」で検討されており,以下のように書かれている.
①思考の方法(創造性と革新性,批判的思考・問題解決・意思決定,
学習能力・メタ認知)
②仕事の方法(コミュニケーション,コラボレーション(チームワーク))
③学習ツール(情報リテラシー,情報コミュニケーション技術
(ICTリテラシー)
④社会生活(市民権(地域および地球規模),生活と職業,個人的責任お
よび社会的責任(文化的差異の認識および受容能力を含む))
(2) 21世紀型能力
国立教育政策研究所では,教育課程の編成に関する基礎的研究報告書5(2013.3:研究代表者 勝野頼彦)において,前述の21世紀型スキルを踏まえて,21世紀を生き抜く力を「21世紀型能力」と名付け,その試案を次のように提案している.21 世紀型能力は,「21 世紀を生き抜く力をもった市民」としての日本人に求められる能力であり「思考力」,「基礎力」,「実践力」から構成されている.
第1に,21世紀型能力の中核に,「一人ひとりが自ら学び判断し自分の考えを持って,他者と話し合い,考えを比較吟味して統合し,よりよい解や新しい知識を創り出し,さらに次の問いを見つける力」としての「思考力」を位置づけている.
「思考力」は,問題の解決や発見,アイデアの生成に関わる問題解決・発見力・創造力,その過程で発揮され続ける論理的・批判的思考力,自分の問題の解き方や学び方を振り返るメタ認知,そこから次に学ぶべきことを探す適応的学習力等から構成される.
第2に,思考力を支えるのが「基礎力」,すなわち,「言語,数,情報(ICT)を目的に応じて道具として使いこなすスキル」である.技術革新を背景にICT 化が著しく進む今日において,社会に効果的に参加するためには,読み書き計算などの基礎的な知識・技能とともに,情報のスキルが不可欠である.情報スキルは,計算や記憶の代行など,読み書き計算の不足を補償する可能性すらある.その支援力の大きさを使って,思考力を助けるのが,この基礎力の一つの役割と考えることもできる.
第3に,思考力の使い方を方向づける「実践力」を位置づけている.「実践力」とは,「日常生活や社会,環境の中に問題を見つけ出し,自分の知識を総動員して,自分やコミュニティ,社会にとって価値のある解を導くことができる力,さらに解を社会に発信し協調的に吟味することを通して他者や社会の重要性を感得できる力」のことである.
そこには,自分の行動を調整し,生き方を主体的に選択できるキャリア設計力,他者と効果的なコミュニケーションをとる力,協力して社会づくりに参画する力,倫理や市民的責任を自覚して行動する力などが含まれる.
(3)教育用メディア環境
21 世紀にふさわしい主体的・対話的な深い学びのためのどのように教育用メディア環境の設計していくべきだろうか.現在,情報通信技術の急速な汎化が進み,Web情報も重要なデジタルアーカイブの情報源として選択保存の必要性が出てきた.これらの,研究・教育の結果として,デジタルアーカイブ開発として新しい観点で実践・研究を展開されている.従来のデジタルアーカイブは,現物のみを対象として考えてきたが,現在の多様なメディアの実用化にともない,メディアを次の4領域に分けメディア環境として構成することが必要となった.
① 実物・体験・文化活動
② 印刷メディア(記述・印刷の紙などのメディア)
③ 通信メディア(通信でWeb情報として収集可能な資料の選択・保存)
④ デジタルメディア(マルチメディア機能をもつメディア)
新しい教育用メディア環境は,かつての現物としていた対象物を最近の通信メディアの発達により,多様な情報が流通する中から,デジタルアーカイブとして記録・保管すべき情報を選定評価し,必要に応じて保管し,組み合わせて表現することを示す.また,各メディア間では相互に変換し利用が進み,新しい資料活用が始まろうとしている.例えば,書籍や教科書をデジタル化し,紙の印刷物と同じ内容の資料がデジタル教科書として図書の二次利用が既に始まっている.教育用メディア環境では,学習者が,電子黒板や教育用メディア端末,印刷メディアである従来の教科書等必要なメディアを主体的に選択し,あるいは組み合わせて利用を可能にすることが重要である.
(4)デジタル学習材
教育用メディア環境としての4領域の大きなカテゴリー化は,教育用のメディア利用の枠組みとして,適用できるかが課題となる.一般に,デジタル学習材と一括して表現されているものには,ネットワーク型もあり,DVD等の学習材,また,印刷物との複合学習材,教育用メディア端末の学習材等,様々な学習材をもデジタル教材と表現している.前述のように,学習者に対する教育用メディア環境も大きく変化している中で,教師が授業で活用する教材とメディアの特性を活かすデジタル学習材に再分類し,メディアの特性を生かし,学習者が主体的に活用でき,一人ひとりの学習者の特性に対応した学習材のあり方を検討している.このため,今後,このメディアの特性について,組み合わせを含めて資料活用上の実践・研究を進め,その適否の評価をすることが必要である.新しい教育用メディア環境としては,前述の4つの領域に分類し,これらを単独として考えるのではなく,これらを組み合わせたものとしてデジタル学習材を考えることが必要となる.
2.学習指導要領の視点
学習指導要領では,図2-2のように,次の「3つの視点」でとらえることができる.
次期学習指導要領では,第1は,知識・技能を「何を理解しているか,何ができるか」と捉えなおしていることである.知識基盤社会においては,知識はばらばらにあっても使えるものにならない.個別の知識はすぐに忘れてしまう.またその知識を新たな学習により絶えず再編していくことにより活かすことができる.第2に,思考力・判断力・表現力等について,「理解していること・できることをどう使うか」としている.つまり,これからの視点として問題を発見し,定義し,解決の方向性を決め,解決方法を探し,計画を立て,結果を予測しつつ実行し,そのプロセスを振り返って,次の問題発見・解決につなげていくことが重要となる. 第3に,主体的に学習する態度を「どのように社会・世界と関わり,よりよい人生を送るか」として概念化している.ここには,情意や態度が含まれ,生きる力の根底に関わるところである.
3.アクティブ・ラーニング
アクティブ・ラーニングについては,図2-3に示す3つの「新たな学びの視点」としてまとめている.
第1が「深い学びの過程」である.習得・活用・探究という学習プロセスの中で,問題発見・解決を念頭に置いた深い学びが実現できているかどうかということである.これは知識・技能の高度化であり,それらが互いに関連づけられ,体系化されていくことにより,思考力を発揮する問題解決過程を通して主体的に学んでいくことで可能にする.学習者が既に学んできたことと新たに学ぶことをつなげ,体系化された知識として保持し,教科としての体系的な見方を身に付ける中で,それを問題解決過程に使えるということを目指している.
第2が「対話的な学びの過程」である.他者との対話を通じて外界との相互作用を通じて,自らの考えを広げ深める.対話とは,物事の複眼的で深い理解に達するために,様々な考えに触れ,やりとりを通していく.教師と子ども,子ども同士がやりとりすることとともに,外界の出来事やものや表現とのやりとりも重要となる.学習者である子どもが教材を前にその探究と理解に向かい,それを助ける教師がいて,また仲間同士がいる中で,ともに考える.
第3が「主体的な学びの過程」である.子どもたちが見通しを持って粘り強く取り組み,自らの学習活動を振り返って次につなげる.積極的に意欲を持って学習に取り組むことから始まり,難しい点に会ってもすぐにあきらめることなく,複眼的で多視点でものを考え,解決法を工夫し,課題をやり遂げていく.他の学習者や教師と考えの共有を図りつつ,自分の間違いを捉え,また自分と他者の良さを自覚し,多面的な理解を深めていく.意欲から意志へ,そして自覚する学習者へと育てていくのである.
【課題】
(1)各自で,新たな学びの視点を入れた授業をデザインし,グループでそ の効果について協議しなさい.
(2)次期学習指導要領を背景,教育の課題,変更のポイントという視点で,それぞれ4つキーワードを出して,グループで協議をしなさい.
資料
動画資料
5.アクティブ・ラーニングとICTの活用
【学習到達目標】
・アクティブ・ラーニングについて具体例を挙げて説明できる.
・アクティブ・ラーニングとICTの活用について説明できる.
・J・B・キャロルの学校学習の時間モデルついて説明できる.
1.アクティブ・ラーニング
アクティブ・ラーニングについては,平成24年8月中央教育審議会の「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け,主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)」の中に,能動的学修(アクティブ・ラーニング)と括弧書きで記載されている.「能動」の対義語は「受動」であるため,大きなとらえとしては「受動的にならない学習」であるが,先述の諮問文では「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習」とされている.
一方で「アクティブ」という言葉から,活動性をイメージさせてしまい,授業中に子どもたちが活動する,ダイナミックに動きまわる,何か体験をたくさんさせなければならない,といった誤解を持たれる傾向がある.確かに体が活動的であるということも大事ではあるが,一番活性化してほしいのは子どもたちの頭の中「深い学び」である.
つまり,「子どもたちの思考が活性化し,深い学び」が授業の中で起きているかどうかが重要になる.
例えば活用の場面で「より積極的に自分の考えを他者に伝える」,習得の場面で「何のために習得するのか,自身にどのような成長があるかを自覚的に習得する」さらには「個別ではなく子ども同士で教え合う,教えてもらう」といった場面でも,子どもの思考は活性化している.このような学習の状況を授業場面の中に作っていくことがアクティブ・ラーニングにつながる.
そうすると,これまで国内で積極的に行われてきた授業改善の取り組みは,まさにアクティブ・ラーニングであると言える.特に小学校
の先生方は熱心に取り組まれており,例えば問題解決的な学習や発見学習,体験活動やグループ・ディスカッション,ディベートなどさまざまにある.そういったものもアクティブ・ラーニングに含まれる.
しかし,小・中・高等学校,大学と校種が上がるにつれて,より受動的になる傾向がある.これからは,これらをすべての校種の教室で実施し,質的にも担保していくことが求められてくる.さらに,授業の質の向上には,これまで行われていなかった新しい学習・指導方法を考えていくことも必要である.例えばジグソー法や思考ツールを使ったディスカッション,あるいはICTなどを積極的に授業に取り入れ,子どもたちがよりアクティブに学ぶ授業を考えることも求められる.アクティブ・ラーニングについては,前述の答申では,「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり,学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称.学修者が能動的に学修することによって,認知的,倫理的,社会的能力,教養,知識,経験を含めた汎用的能力の育成を図る.発見学習,問題解決学習,体験学習,調査学習等が含まれるが,教室内でのグループ・ディスカッション,ディベート,グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である.」と定義されている.
2.ICTの効果的活用と学校学習の時間モデル
学習者には,それぞれに個性があり,知識の差や興味関心が違う.このような個人差について,教員はどのように考えたらいいか.
J・B・キャロル(Carroll)が1963年に提唱した学校学習の時間モデルでは,ある学習者は成功し,ある学習者は失敗を重ねてしまう現象が起こる原因を,子供の能力ではなく,図3-2の式で示すように学習目標を達成するための時間不足と考えた.このことにより,課題の達成に必要な時間をどのように確保し,どのような援助を工夫したらもっと短い時間で学ぶことができるかを検討することができる.つまり,キャロルは,「能力」から「時間」への発想の転換を行ったのである.
図3-2 J・B・キャロル(Carroll)の時間モデル(1)
また,J・B・キャロルは,図3-2の学習率に影響を与える変数を,5つの要素に分解して説明している.まず,「課題への適性」とは,ある課題を達成するのに必要な時間の長短によって表される学習者の特性を課題への適性とした.次に,「授業の質」とは,学習者が短時間のうちにある課題を学べる授業かどうかを授業の質として捉えている.質の高い授業の要件としては,少なくとも何をどう学習するかが学習者に伝わっていて,はっきりとした形で材料が提示され,授業同士が有機的に次につながっていて,授業を受ける学習者の特性に応じた配慮がなされていることが挙げられている.次に,授業の質の低さを克服する力を「授業理解力」と呼び,これが第3の要因としている.次に,学習に費やされる時間を左右する要因を次のように示している.
ある課題を学習するためにカリキュラムの中に用意されている授業時間を「学習機会」と呼び,学習に費やされる時間を左右する第一の要因と考えている.また,与えられた学習機会のうち,学習者が実際に学ぼうと努力して,学習に使われた時間の割合を「学習持続力」とする.以上の5つの変数を学習率の式にあてはめると図3-3のようになる.
図3-3 J・B・キャロル(Carroll)の時間モデル(2)
教員は,学習率を高めるためには,学習に必要な時間を分母の要因に注目して減らす工夫と,学習に費やされる時間を分子の要因に注目して増やす工夫ができる.J・B・キャロルの時間モデルに含まれている5つの変数は,教員として授業を工夫し,学習者一人ひとりが学習に費やす時間を確保し,また,学習に必要な時間を短縮していくためのチェックポイントと考えることができる.ICTの活用についても,どの変数に働きかけるのかという視点で考えると,ICT活用の発想が広がる.大規模公開オンライン講座のMOOCS(ムークス,Massive Open Online Courses)で代表される授業映像の場合は,授業時間外の利用によって,「学習機会」の拡大につながる可能性が大きいことがわかる.
【課題】
(1)アクティブ・ラーニングを授業の中に定着するためには,どのような
ICT環境が必要かグループで協議しなさい.
(2) J・B・キャロル(Carroll)が1963年に提唱した学校学習の時間モデルにおいて,学習率を高めるにはどのような授業改善が必要かグループで協議しなさい.
資料
動画資料
6.新たな評価とICT
【学習到達目標】
・学力の定義の変遷について説明できる.
・パフォーマンス評価とルーブリックの関係を説明できる.
情報社会は新しい課題を世界にもたらし,新しい解を生み出せる人間を求める.つまり,これからの社会は,一部の専門家があらかじめ有する「正解」を適用するだけで解決できるものではなく,問題を共有する者が知識やアイデアを出し合い,不完全にせよ解を出して実行する.そして,その結果を見ながら解とゴールを見直すことが求められている.このような課題に対して,社会全体が応えようとしている表れが,知識基盤社会,コミュニティ基盤社会への転換と進展,ICT の利活用である.
知識基盤社会とは,新しい知識やアイデア,技術のイノベーションがほかの何よりも重視される社会である.そのイノベーションのために,他者とのコミュニケーションやコラボレーション(協働,協調)が重視され,それらが効果的・建設的に行えるように,人と人を繋ぐコミュニティやICTの役割に注目が集まっている.
つまり,現在決まった答えのないグローバルな課題に対して,大人も子供も含めた重層的なコミュニティの中で,ICTを駆使して一人ひとりが自分の考えや知識を持ち寄り,交換して考えを深め,統合することで解を見出し,その先の課題を見据える社会へと,社会全体が転換しようとしている.ここでは,その情報社会とそれに応じて求められる資質や能力について考える.
1.目標分析
「目標分析」とは,目標の構造をとらえることで,目標分析をできないと評価規準をつくるのは困難である.つまり,目標自体は平面的で,それだけでは構造はわかりませんが,目標を分析して全体の構造がわかると,評価規準を作成することができる.
目標の構造がわかるというのは,評価規準のなかで,重要度を決定することである.つまり,教材の目標分析とは,「この単元で何を,どのように教えたいか,いつ指導したいのか,どのような順序で教えるのか,どのような方法で教えるのか,そのためにどのような教材を利用するのか」を決定することといえる.
次に,「それを指導するために,何がいるのか」を考え,そしてそれらを分類する事が重要となる.このように,これを教えるためには何が必要かを考えことを,「目標の構造化」という.目標の構造化をすることにより,教材の流れが出てくる.抽象的な教科全体のことを「目標分析」,教材単元のことを「目標分類」と分けて考えると,「目標分類」によって構造とともに授業の流れがわかる.
それぞれの学校や学級によって目標は変わらないが,目標の構造は,子どもの実態によって変わる.子どもの実態,教師の指導方法・指導力,学習環境など,そういうことを含めた授業研究がなされて初めて目標分析ができる.
2.教育目標の分類
日本で目標分析が行われるようになったのは,B.S.ブルーム(B.S.Bloom)の「教育目標の分類」の研究以降である.B.S.ブルームらが開発した手法は,教育目標を構造化し,マトリックス上に表現したものである.
具体的には,学習の「内容」を縦軸にとり,そこで目指される「学習行動(能力)」を横軸にすえたマトリックスを作成し,学習目標をその枠の中に割り付けていくという手法である.このうち,横軸に並べる学習行動(能力)については3つの領域,すなわち認知的領域,情意的領域,精神運動的領域が枠組みとして設定され,それぞれの領域においては目標に段階性があることを意識しながら目標を割り付けていくことが目指された.
B.S.ブルームによる提案が行われて以降,学習行動(能力)の段階性に関する研究が積み重ねられ,各教科で適用可能な形式へと発展していった.また,各国の教育の実情や文化・風土にあったタキソノミー(Taxonomy)を作ることが推奨され,日本の教育文化にあったタキソノミーづくりの試みも実際になされている(梶田,2002).
この教育目標の分類学という目標分析の手法は,あいまいになりがちな授業の目標を明確化し,子どもの学習の評価観点を明確化するという意義がある.また,教師にとっては,その授業の中で何を教えればよいのかが明確に意識化され,子どもの学習評価を,印象論ではなく,明確な観点を持って行うことができるというメリットもある.さらに,教育目標の高度化の方向も示すこともでき,そのための授業改善の方法を探ることもできる.
例えば,深い学びに授業に改善することは,B.S.ブルームの「教育目標の分類」における認知的領域の「内容」を豊富に含むことであり,そのための授業内容や方法を改善することが必要となる.
3.学 力
学生の学力が低下しているといった報道をよく耳にする.そもそも,学力とはどのようなものか.ここでは,まず学力について考えてみる.
授業を実施した場合に,学んだ内容が学生にしっかり身についているかどうか,最終的に評価しなければならない.その評価で測る対象が学力である.
学校ではどのような学力をつけるべきかを問う際に,その基本構造について合意形成していくことが有効である.ここでは柴田の提示している学力構造と相互関係から考えてみる.(柴田1994)
柴田(1994)は,学力を「学んだ力(基礎的知識・技能)」と「学ぶ力(自ら学ぶ力,学び方)」,そして「学ぼうとする力(学習意欲)」の3つの要素で構成されるとしている.「学んだ力」は学習の結果として身に着けた知識や技能を指し,それらを学ぶための必要な学び方,問題解決の方法を「学ぶ力」と表現している.さらに,それらを支える学習意欲を「学ぼうとする力」としている.
その上で,特に「学ぶ力(学び方)」を中心とした学力構成の重要性を述べ,「学び方の論理的側面」としての基本的な思考様式(推論的思考様式,実験的思考様式等)と「学び方の技術的側面」としての実践的知識(辞書の使い方,発表の仕方,情報機器の使用法等)という方法を教育内容として系統的にきちんと位置付ける必要性を強調している.
学力は児童生徒が社会人になっても役に立つ力であってほしいものである.別の見方でいえば,社会が変化すれば,必要な学力も変化することを意味する.
国際的な学力調査PISAを実施しているOECD(経済協力開発機構)は,これからの社会を知識基盤社会だとして,教育の成果と影響に関する情報への関心が高まり,「キー・コンピテンシー(主要能力)」の特定と分析に伴うコンセプトを各国共通にする必要性を強調した.そのために,OECDではプログラム「コンピテンシーの定義と選択」(DeSeCo)をスタートし,その後「キー・コンピテンシー」の概念を提唱した.ここで,提唱された「コンピテンシー(能力)」とは,単なる知識や技能だけではなく,技能や態度を含む様々な心理的・社会的なリソースを活用して,特定の文脈の中で複雑な要求(課題)に対応することができる力としている.
つまり,「キー・コンピテンシー」とは,日常生活のあらゆる場面で必要なコンピテンシーをすべて列挙するのではなく,コンピテンシーの中で,特に,①人生の成功や社会の発展にとって有益,②さまざまな文脈の中でも重要な要求(課題)に対応するために必要,③特定の専門家ではなくすべての個人にとって重要,といった性質を持つとして選択されたものと定義できる.
今後,このような個人の能力開発に十分な投資を行うことが社会経済の持続可能な発展と世界的な生活水準の向上にとって唯一の戦略であるとしている.そこで,OECD(経済協力開発機構)は,12か国の間で議論し「キー・コンピテンシー」として次の3つを提唱した.
○社会・文化的,技術的道具を相互作用的に活用する力
○自律的に行動する力
○社会的に異質な集団で交流する力
一方,日本の学校では,学習指導要領に教育内容が規定されている.学習指導要領が目指す学力は,1998年以降「生きる力」が掲げられ,次の3つの力の育成が重要とされた.
①基礎・基本を確実に身に付け,いかに社会が変化しようと,自ら課題を見
つけ,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を
解決する資質や能力
②自らを律しつつ,他人とともに協調し,他人を思いやる心や感動する心な
どの豊かな人間性
③たくましく生きるための健康や体力
さらに,幅広い学力を育成するためには,どんな要素から成り立っているかをさらに詳しく把握する必要がある.1989年(平成元年)の学習指導要領では,全ての教科は「関心・意欲・態度」「思考・判断・表現」「技能」「知識・理解」などの4観点に分けられている(国語のみ5観点,それ以外の教科は4観点).
教師はそれぞれの観点ごとに目標を設定し,学習者がその目標に対してどれだけ実現できたかを分析し,評価している.この評価方法は絶対評価で行われ,観点別評価とも言われている.学年末には,各必修教科,選択教科の観点別評価が,観点別学習状況として評定とともに指導要録にも記録されている.
○関心・意欲・態度
○思考・判断・表現
○技能
○知識・理解
ところが,2008年(平成20年)の学習指導要領では,学力について従来の4観点から次の3要素に再編された.特に,学校教育法第30条に,学力について次のように示された.
第三十条 小学校における教育は,前条に規定する目的を実現するために必要な程度において第二十一条各号に掲げる目標を達成するよう行われるものとする.
○2 前項の場合においては,生涯にわたり学習する基盤が培われるよう,基礎的な知識及び技能を習得させるとともに,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくみ,主体的に学習に取り組む態度を養うことに,特に意を用いなければならない.
ここで,第2項に示してある次の3項目を「学力の3要素」と呼んでいる.
○基礎的・基本的な知識・技能
○知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断
力・表現力等
○主体的に学習に取り組む態度
2020年には,児童生徒一人1台のタブレットPCが導入され,アクティブ・ラーニングなどの新しい学習の方法が導入されてくる.現在,学力観は現在大きな転換点を迎えているといえる.
3.学習目標と学習到達目標
21世紀型能力のような新しい学びには,新しい評価方法が必要である.学習結果の到達点を測る評価ではなく,学習の進み具合を捉え,次の段階に進むために今やっていることをどう変えたらよいか判断するための評価である.このような評価を学習の進行に合わせて行うためには,学習プロセスの記録を取り,分析・共有して次のステップを検討する強力なICT基盤が必要である.ICT基盤が強力であれば,教員はそのICT環境の維持や新しい評価方法に翻弄されることなく「新しい学びの構築」に集中することができる.
4.パフォーマンス評価と変容的評価
「パフォーマンス評価」とは,「パフォーマンス課題」によって学力をパフォーマンスへと可視化し,学力を解釈する評価法である.パフォーマンス評価は,「パフォーマンス課題」に取り組ませることで,子どもの学力を「見える」ようにし,「ルーブリック」という評価基準を使って評価する.したがって,パフォーマンス課題は,評価したいと思う学力ができるだけ直接的に表れるものにする必要がある.
また,「パフォーマンス評価」の利点として,従来のテストでは見えにくい「思考力」「表現力」などを具体的な表れとして見られることが挙げられる.例えば,算数で,思考の過程を表現させる課題を出し,式や言葉,図,絵などさまざまな方法を用いてもよいとすれば,子どもは自分なりに考え,表現しようとする.パフォーマンス評価では一つとして同じ答案はなく,子どもの思考や表現は実に多様だと実感できる.子どもの思考を理解するのに役立ち,子どもは「書く」経験を積むことができる.答案を発表し合えば,友だちの考えへの理解や,個性の自覚にもつながる.しかし,「パフォーマンス評価」は有効な方法であるが,「思考力」「表現力」を丸ごと測れるわけではない.あくまでも一つの課題に対する結果と考えることが重要である.「思考力」や「表現力」という力そのものを把握できる方法はないので,パフォーマンスから,その背後にある子どもの思考や表現の特徴を把握しようと努めることが大切である.
【課題】
(1) 知識・技能と資質・能力の違いについてグループで協議をして発表しなさい.
(2)各自の授業を取り上げ,パフォーマンス課題とルーブリックを作成してみなさい.
(3)ルーブリックを児童生徒に作成させることのメリットをグループで協議しなさい。
資料
動画資料
7.ワークショップ
8.学校における情報セキュリティ及びICT環境整備等に関する研修会
1.教職員対象版
2.教育委員会対象版
9.令和5年度あいちラーニング推進事業 公開授業並びに第1回研究協議会
令和5年11月17日(金)
資料
1.あいちラーニング推進事業プレゼン(PDF)
2.あいちラーニング推進事業プレゼン(PPTX)
10.令和5年度あいちラーニング推進事業 第2回連絡協議会
令和6年1月25日(木)
資料
1.令和5年度あいちラーニング推進事業第2回連絡協議会プレゼン(PDF)
2.令和5年度あいちラーニング推進事業第2回連絡協議会プレゼン(PPTx)
3.学びの構造化
【研究論文】高遠石工 石造物のデジタルアーカイブ
研究概要
1.はじめに
長野県伊那市高遠地域は、風光明媚な風土やタカトオコヒガンザクラの樹林、高遠石工の石造物など独創性ある地域資源を有している。その中でも、高遠石工とその石仏は地域の歴史的価値を高め、観光資源としても魅力的な文化財であると考える。しかし、高遠石工の存在は、高遠町民には周知されているが、長野県民を始め、県外観光客からみると認知度が低いのではないかと考える。また、高遠石工の石造物のデジタルアーカイブ化への取り組みがほぼ行われていない。石造物は経年劣化や自然災害により、石工達の活動や石造物そのものが損傷または喪失するリスクが高いと考える。
そこで、本研究では主に高遠石工への興味を県内外で喚起することと、地域文化財の保存と普及を目的とし、高遠町を中心に、長野県南信地方の上伊那地域に現存する石造物の撮影を行いデジタルアーカイブを作成する。また、高遠石工の作品がどのようにして江戸時代の社会や文化等に寄与したのか歴史を明らかにし、今に残る石造文化財が現代の地域社会にどのような影響を与えているのか調査し、アーカイブすることの意義について考察する。
2.研究の方法
はじめに、研究対象である、高遠石工と名工と呼ばれた守屋貞治に関する資料を収集し文献調査を行う。石工誕生背景、石仏の種類、表現技法など、基本的な情報を調査し、その起源と現在までの変遷を辿りながら、当時の地域信仰や生活を考察する。表現技法については、守屋貞治の作品と人柄を深堀し、どのような特徴があるのか調査する。文献調査で分かったことをまとめ、分析する。
次に、高遠町と上伊那地域に現存する石仏(写真1)、道祖神、庚申塔、供養塔などの撮影を行い、または関連施設を訪問し情報や資料を収集し記録する。
収集したデータをもとに、地域学習や観光資源として利活用でき、石工への興味喚起を図れるようなWebページの制作を行う。
3.研究の結果(考察等)
高遠石工とは、江戸時代に信州高遠を拠点に全国で活躍した石材加工の職人集団のことである。活躍した時代背景には、高遠藩による出稼ぎ石工の奨励、民間信仰が盛んになり造立が活発化したこと、高遠藩領では良質な石材が豊富であったことなどが挙げられる。また、収集した資料を、所在地や石仏の種類ごとに整理すると、それぞれの地域ごとに民間信仰や石造物の特色が捉えることができた。多量の石造物が造立されていることから、当時の庶民の信仰心が強いことが分かった。
撮影方法としては、対象とする石仏の全体像を前後左右の4方向と、碑文や台座、持物、印相、石仏の表情を部分的にクローズアップして撮影し、石仏1体1体の特徴や魅力が伝わるよう意識をしつつ、一眼レフカメラを使用し静止画で記録を行った。ただし、崖や川付近に安置され、格子に囲まれている石仏については正面と斜め左右の3方向から撮影を行う。
4.おわりに
現在、約165体の石造物の撮影が完了している。今後も撮影を進めるとともに、Webページの制作も行う。そして、文献調査した結果から、これらの石造物が現代の人々にどのような影響を与えているのかを考察する。
参考文献
高遠町誌編纂委員会.高遠の石仏.伊那毎日新聞社,1975
研究資料
高遠石工とは
江戸時代、信州高遠を拠点に全国で活躍した、石材加工の職人集団のこと。主に手彫りによる石の加工技術が特徴的。
全国各地に、石仏、石鳥居、石橋、供養塔など数多くの石造物を造った。
江戸時代、民間信仰が盛んになった風潮の中で、寺社の建築、石造物の造立も活性化した。
石造物の需要が増したことで高遠の石工は各地に出向いて働くようになり、優れた技術が各地で評価された。
高遠石工の名が全国を轟かせたことで、高遠石工がブランド化した。ブランド化したことによって、石工の活動もさらに盛んとなり、全国各地で数多くの作品を残すこととなった。
現状と課題
1.石工技術を持った職人の高齢化、人材不足
→専門家や職人の高齢化、後継者不足により、技術の伝承が途絶えてしまい、石工技術継承の危機に陥る。
2.高遠石工の文化遺産に対する、若者の興味関心が低い
→伝統的な技術やノウハウの継承が困難になる。
3.石造物は観光資源、人文資源として価値がある。
→石造物を観光資源として活用することにより、魅力ある地域づくりが可能になり、高遠町はもちろんのこと、全国各地の地域社会の活性化に繋がる。
高遠石工の足跡
全国18都府県
長野県、山梨県、静岡県、神奈川県、東京都、新潟県、福島県、山形県、青森県、群馬県、
栃木県、埼玉県、茨城県、愛知県、岐阜県、三重県、兵庫県、山口県
高遠藩による他国への出稼ぎが奨励され、全国各地に
高遠石工が出向き活躍。
長野県内だけでなく、各地
に高遠石工が携わった石造物が存在する。
⇒そのため、観光資源として価値があり、今後
さらに注目されるべき文化財である。
高遠町民には高遠石工が十分周知されている。
⇒しかし、高遠町は桜の名所として認知されているため、高遠石工の存在が桜に埋もれてしまっていることが問題点だと考えられる。
高遠の文化遺産に対する人々の関心、認知を高めるために、高遠石工の歴史や文化的な背景を説明し、その価値を明確にすることが大切であると考える。
そして、高遠町の特色や文化遺産との関連性を強調し、遺産が地域の歴史や文化と深く結びついていることを伝えることにより、地域住民のアイデンティティや誇りを引き出し、さらに価値を高められる。
高遠石工の存在を知ってもらうことにより、観光資源として活用でき、さらに観光客が増加することで地域振興に繋げられる。
目 的
高遠石工の石材加工技術者の高齢化、後継者不足により技術継承が途絶えることが危惧される。そこで、伊那市の地域文化遺産である高遠石工の技術の継承と、地域資源への興味喚起のために、高遠石工のデジタルアーカイブ化を行う。
研究内容
〇守屋貞治・渋谷藤兵衛の石仏デジタルアーカイブ
伊那市内にある主な守屋貞治の作品
〇歴 史
高遠石工は、1187年(文治3年)に源頼朝から代々石細工職人として日本国内で仕事が出来るとの許可をもらったものとの由緒書が伝わっているが、発祥は中世頃と推定されている[2]。由緒に基づき、全国を行脚しており、現在の青森県から山口県まで旅稼ぎをしていた。
天正末期、徳川家康の命で江戸城工事に従事し、八王子付近に定住していたことが「新編武蔵風土記稿」に記載されている[4]。鳥居氏の所領だった(1636年〜1689年)の間の高遠地方旧記の引き継ぎ目録に記録が残っている[5]。元禄4年(1691年)に内藤清枚が藩主となると、藩の財政難解消策の一環として出稼ぎが奨励されるようになった。明和4年(1767年)には「他国稼ぎ御改め帳」が発行されるなど、石工が全国を回っていた[6]が、それは「旅稼ぎ」といわれ、藩には運上金を1人年1貫文(千文)を収め決まりとなっておりお高遠藩にとっては重要な収入源だった。
文化8年(1811年)の記録では領内の主要な産業として保護、統制を受けており、職人団体の中で運上金上納額最高が石切職人だった。
その存在が日本全国に知られるようになったのは江戸時代、17世紀半ば頃のことであったとされる[1]。彼らは日本の各地に散らばり、石仏を始めとする彫刻作品を残した[1]。活動に取り組む姿勢は芸術家さながらであったとも、あくまでも職人であったとも言われる[8][9]。高遠石工は18世紀が最盛期だったが、明治になり廃れた。
現在、高遠石工による作品は地元の伊那谷周辺に多く残され、安曇野に多い石像道祖神も、その多くは高遠石工の手によるものである。その他にも首都圏や東海・近畿、山口にまで散見されている。
伊那市高遠町の建福寺には西国三十三所観世音をはじめとして多くの作品を見ることができる。
主な石工
〇守屋 貞治(もりや さだじ、1765年 – 1832年)- 明和2年(1765年)に信州伊那郡高遠藤澤郷塩供(しおく、現在の長野県伊那市高遠町長藤〈おさふじ〉塩供)で孫兵衛の3男として生まれる。高遠石工の中でも稀代の名工と言われ、68年の生涯に336体の石仏を残している。亡くなる前年の天保2年(1831年)に「石仏菩薩細工」を書き残しており、いつどこで何の石仏を刻んだのかが、その正確な記録から判明している。この記録によって、彼の作品は1都9県(長野、群馬、東京、神奈川、山梨、岐阜、愛知、三重、兵庫、山口)に残っていることが確認されているが、数多くの石工を輩出した高遠石工にあって西日本にまで作品を残しているのは貞治だけである。貞治は信州諏訪の温泉寺の名僧、願王和尚を師と仰ぎ深く仏門に帰依し、香を焚き経を唱えて石仏を刻んだと伝えられ、ゆえに貞治は単に石工ではなく「石仏師」と呼ばれ、貞治の刻んだ石仏は特に「貞治仏」と呼ばれている。
〇守屋 孫兵衛(まごべえ、生年不明 – 1782年) – 貞治の父
〇守屋 貞七(さだしち、1700年頃 – 没年不明) – 貞治の祖父。
〇向山 重左衛門 (むかいやま じゅうざえもん、1690年頃 – 1773年) – 寛延から明和年間の作品が残る高遠藤澤郷御堂垣外(みどがいと)の石工。
〇久左衛門(きゅうざえもん、生没年不詳) – 向山重左衛門の弟弟子 。
〇下平 文左右門(しもだいら ぶんざえもん、生没年不詳) – 明和から安永 (元号)年間を中心に活動した安永東春近の石工。なお、息子の太左右門(たざえもん)も石工である[13] 。
〇渋谷 藤兵衛(しぶや とうべえ、1784年 – 1853年) – 守屋貞治の高弟。信州伊那郡川下り郷川手(現在の長野県伊那市美篶下川手)に生まれる。伊那市高遠町建福寺の石段には師貞治の延命地蔵が石段左に、藤兵衛の柳楊観音(嘉永2年、1849年)が石段右に対になって立っている。上伊那郡箕輪町長岡の長松寺に残る貞治の延命地蔵尊は、まず藤兵衛が先に長岡に来て村の世話人と打ち合わせと石の詮議をし、村人足とともに石を切り出して下準備をした後に貞治の作業が始まっている。これは同寺の「地蔵建立諸入用控帳」に残されており、それには「石屋定治郎 手代藤兵衛」と記されている。
〇小笠原 政平(おがさわら まさへい、1796年 – 1861年) – 信州伊那郡殿島(現在の伊那市東春近下殿島)に生まれる。東春近を中心に作品が残るが「俺の石仏は銘がなくとも頬骨のふくらみを見ればそれとわかる」と言っていたとの言い伝えがある。
高遠石工が生まれた背景
古来より、人々は自然の猛威の前には成す術もなく、平穏な暮らしや豊穣を願い、ただただ神仏に祈りを捧げるのみでした。
江戸時代に入り、安定した世の中になると、心のよりどころとして神仏に祈る民間信仰が盛んになり、元禄年間(江戸時代前期)には石仏造立も活発化します。石造物の需要が増えるにつれ、高収入が得られる石工のなり手も増えていきましたが、高遠藩では税収増加をねらって「旅稼ぎ石工」を奨励したことから、その数は領内だけでも数百人に達していたといわれています。
高遠石工の多くは、農耕地が狭い山間部の農家で二男以降に生まれた男子です。一般的には農作業の傍ら、農閑期を中心に旅稼ぎをしていたと言われていますが、当時の石工は大工など他の職人と比べて給金が良く、仕事が豊富であったこともあり、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門の職業とする専業石工も多く存在しました。
高遠石工の活動
現在、高遠石工の銘が確認されている石造物は、北は青森、南は山口の1都18県に及びます。
和泉石工(泉州石工)など、高遠石工と同時期に活躍した石工集団は他にもいましたが、高遠石工ほど多くの銘を残していません。「高遠」という銘がはっきりと確認できるのが元禄期以降であるため、高遠石工の活動年代は内藤家が高遠藩を拝領した元禄4年(1691)以降とみる向きもありますが、山梨県甲府市塩澤寺にある正保5年(1648)銘「大工信州之角兵衛」の無縫塔をはじめ、元禄期以前の高遠石工の作と推定される石造物も確認されているため、江戸時代初頭より広域的な活動をしていたと考えられます。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事に関わったり、有名な安曇野の道祖神の中にも、高遠石工たちが刻んだものが数多くあります。
高遠石工が確かな技術で刻んだ石造物は、人々の心を捉え、江戸時代中期にはその名が全国にとどろくようになりました。「高遠石工」の名が一種のブランドと化したことによって、その活動も一層盛んになり、各地で多くの作品を残すこととなったのです。
集落を見守る石仏たち
諏訪と高遠を結ぶ杖突街道沿いには、農村風景に溶け込むように多くの石仏があるのが目に入ります。そのほとんどが集落の入口(村境)にまとまっており、馬頭観音、庚申塔、道祖神など様々な石仏が見られます。
これらは、災厄が村に入ってこないように、また子孫繁栄や旅の安全などを願って、江戸時代から昭和まで長年にわたって受け継がれてきた民間信仰の証です。
石工のふるさとの美しい景観を保ちながら、石仏たちは今も集落を見守っています。
高遠石工の特徴
高遠石工は、長野県の高遠地域で発展した石工技術のことを指します。この地域は古くから石材が豊富であり、その質の高さから日本各地に石材を供給してきました。高遠石工は、主に神社仏閣や城郭などの建築物において石材を加工し、美しい彫刻や堅牢な構造を実現するための技術として重要な役割を果たしてきました。
高遠石工の特徴的な技法としては、以下のようなものがあります:
面取り(めんどり): 石材の角を斜めに削り取り、エッジを丸くすることで安全性を高めるとともに、美しい仕上がりを実現します。
目地加工(めじかこう): 石材同士の接合部分に目地を設けることで、石材の結合を強化します。目地には石の割れや変形を防ぐ役割もあります。
彫刻技法: 高遠石工では、美しい彫刻技法が発展しています。彫刻によって龍や花卉、幾何学的な模様などを表現し、建築物に装飾的な要素を与えます。
石積み技法: 石材を組み合わせて壁や柱を構築する石積み技法も高遠石工の特徴です。石同士のバランスや組み合わせによって、安定性や美しさを追求します。
高遠石工は、伝統的な技術でありながら現代にも受け継がれ、多くの建築物や文化財に活かされています。その美しい石組みや彫刻は、日本の建築文化の一環として高く評価されています。
研究内容
・石工の誕生、石仏の造立の背景
・高遠石工が手掛けた石造物の良さとは(他の石工との比較)
・産業としての石工の仕事の位置づけ
〇特徴・魅力
・高遠石工ならではの石仏表現法や技法
〇技術が今にどう生かされているのか
石仏師・守屋貞治
数多くいた高遠石工の中でも、高い技術を持った稀代の名工と呼ばれる石仏師。
石仏の制作を専門としており、生涯において336体に及ぶ作品を残している。
守屋家は祖父・貞七の代から石工を生業としている。そのため、貞治も自然と石工を志すようになった。
造形や技法は、祖父と父から影響されていると考えられる。
江戸時代、石工の仕事は細分化され、専門性が高い者も増えていましたが、高遠石工の中でも稀代の名工と呼ばれたのが守屋貞治です。彼は石仏の制作を専門とし、68年の生涯において336体におよぶ名作を残しました。
貞治は明和2年(1765)、高遠藩藤沢郷塩供村(現、伊那市高遠町長藤)で守屋孫兵衛の三男として生まれました。守屋家は貞治の祖父・貞七の代から石工を生業としており、貞治も自然と石工を志すようになりました。修業時代の師は不明ですが、造形や技法の面で祖父や父の影響が垣間見られます。
温泉寺(現、諏訪市)の住職で名僧と名高い願王和尚を仏道の師と仰いだ貞治は、自らも仏に帰依し、経典や儀軌(経典に説かれた仏、菩薩などの姿形をまとめたもの)に基づいて仏心の込められた石仏を刻みました。石仏を刻む際は経文を唱え、香をたきしめて作業に打ち込んだといわれています。貞治が単なる「石工」ではなく「石仏師」と呼ばれるのは、こうした所以からです。
貞治は亡くなる前年の天保2年(1831)に、自身の生涯を振り返り、これまでに彫り上げた石仏を『石仏菩薩細工』にまとめていますが、これによると貞治が手がけた作品は1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及びます。西日本に作品を残した高遠石工は貞治以外には確認されておらず、また、他の高遠石工を見ても複数の場所で活動した例は少ないため、この広範囲にわたる活動こそが貞治の特徴といえます。これは願王和尚の影響によるところが大きく、貞治のよき理解者であり、彼の石仏を礼賛した願王和尚が、全国各地の布教先で貞治を推薦したためと考えられます。
身を律し、ひたすら意にかなう石仏を造立し続けた貞治でしたが、天保3年11月19日、静かに68年の生涯を終えました。他の石工を圧倒する技量で彫られた貞治の石仏は、端正で繊細優美でまさしく「貞治仏」と呼ぶにふさわしい名作ばかりです。
守屋貞治仏の技法と表現法
1.口元円形微笑型
・口元円形→人が笑うとほうれい線が丸くなる様子を表す。
特徴→石仏の口を中央にして、鼻の付け根と下あごを外周とする円形に彫りくぼめた形態を形成した上で、その中に口と円形凸型の下あごを表現する。
2.蓮華座花弁巻き返し表現
石仏を豪華に魅せたり、重量感を持たせたる技法。
特徴→蓮華座の花弁が裏側に巻き返し状になっている。
資料
2.中間発表レジュメ
テーマ「高遠地域における高遠石工遺産デジタルアーカイブの研究」
第1章 緒 言
1. 研究の動機と課題
本研究では、高遠地域における高遠石工遺産デジタルアーカイブの研究をテーマとする。この研究の動機として、私の故郷である長野県伊那市への愛嬌心から、伊那の遺産を本研究で取り上げたいと考えた。生まれ育った地域に対する知的好奇心と、伊那市の文化遺産について多くの人に興味を抱いてもらいたいという思いがある。これまで、デジタルアーカイブ専攻で身に着けた知識を活かし、高遠地域の文化遺産である高遠石工の石造物に焦点を当ててデジタルアーカイブを行うことで、地域社会への貢献を果たせるのではないかと考えた。地域の歴史や文化を後世に繋いでいくために、高遠石工遺産に関する研究に取り組むことを決定した。
本研究の対象地域である長野県伊那市高遠町は、長野県南部にあり、伊那谷北部に位置する(図1-1)。風光明媚な風土やタカトオコヒガンザクラの樹林、高遠石工の石造物など独創性ある地域資源を有している。その中でも特に、高遠石工たちが造立に携わった石造物の数多くが市の有形文化財として指定されているため、高遠地域に現存する高遠石工遺産は我が国が守るべき貴重な遺産であり、歴史上、芸術上、学術上、文化価値が高いものであるといえる。しかし、現存する石造物の保護状況を見ると、その多くが野ざらしに安置され、管理が行き届いていないことが課題の1つなのではないかと考えている。これらの石造物の保護が十分に行われていない場合、経年劣化や自然災害により、損傷または喪失の危険性が高まるのではないかと懸念している。
また、デジタルアーカイブの数やその取り組みが少ないのではないかと考えている。自然の中に安置されている石造物は、災害が起こり、年月が経つほど、石造物本来の姿形を保つことはかなり困難であると感じている。だからこそ石造物をデジタル資料として保存し、デジタルアーカイブ化に取り組んでいく必要性が高いのではないかと考える。実際、デジタルアーカイブの重要さについて郷土史・石仏研究家の田中清文氏は、石仏は「野にあるため、もう50年100年経つと風化してなんだかわからなくなってしまう。今のうちに記録して写真に残しておかないといけない」(https://www.inadanikankou.jp/より引用)と発言している。このことからも、高遠地域に残る高遠石工たちが残した活動跡を、後世に残し、継承していくこと、地域の歴史的価値を高めていくためにもデジタルアーカイブ化に取り組んでいくことが非常に重要であると考える。
以上のことから、高遠石工に関して、石造物の保護状況が十分でないこと、デジタルアーカイブ化への取り組みが少数であるという2つの課題が存在しているのではないかと考える。そこで第2節では、石造物の保護状況とアーカイブ化への取り組みについて明らかにする。
2. 石造物の保護状況とアーカイブ化の現状
第1節では、石造物の保護状況が良好でないこと、デジタルアーカイブ化への取り組みが少数であることの2点が課題であるのではないかと考えた。そこで、現在の石造物の保護状況と高遠石工に関するアーカイブ化の取り組みの現状を知るために実際に高遠町に足を運び現地調査を行うとともにweb調査を行った。
(1) 石造物の保護状況
石造物の保護状況をみると、高遠石工の中でも特に高い技術をもっていたとされる守屋(もりや)貞治(さだじ)が造った石仏には雨風や雪を凌ぐために格子で四方を取り囲み、屋根が設置されていたため状態良く保存されていた(図1-2)(図1-3)。
しかし、その他の場所、例えば集落、路傍や川・崖付近などに安置されている石造物については、格子や屋根は取り付けられておらずそのままの状態で安置されていた。それなのにも関わらず、予想以上に多くの石造物が綺麗な状態で残されていたのが驚きであった。ただし、体の一部が欠けてしまっているもの(図1-4)、下部が埋まってしまっているもの、石の表面に苔やカビが発生しているものも数多く発見することができた。
苔やカビの発生に関しては、気候などの環境だけが原因だけでなく、使用されている石材の質の違いであるとも考えられる。苔やカビの発生は、風合いとして美術的な観点からみると風情があって良いという見方もできる。だが、本体が一部欠けてしまっている場合は、問題であると考える。しかし、全ての石造物に格子や屋根を取り付けるということを考えると膨大な費用と労力がかかるため現実的に厳しい側面があり、町の景観も損なわれてしまうのではないかと考える。
次に、石造物の損傷原因として、特に自然災害によるものが多いと考えた。
伊那市高遠町は、東西11㎞、南北19㎞で、総面積の85%を山林が占めており、耕地面積や可住地面積が小さい自然に恵まれた地域である。また、冬季は積雪も多い。そのため、山林面積の大きいこの地域では、土砂災害や川の氾濫、雪害による自然災害が多いといえる。石造物は、崖や川付近、峠道などに多く存在している。そのため、自然災害による石造物の損傷や喪失が多発する可能性が非常に高いということが考えられる。
自然災害が発生しやすい地域であるからこそ、文化遺産を本来の姿のままどのようにして残していくのかが重要であると考える。そして、その1つの方法としてデジタルアーカイブを進めることが遺産を守ることに繋がるのではないかと考える。
(2) 高遠石工に関するアーカイブ化の現状
高遠石工に関する資料のアーカイブ化への取り組みの現状(2023年12月9日現在)を把握するために、どの機関がアーカイブ化に携わっているのか、どのような高遠石工に関するコンテンツ作成されているのかインターネットを通じたweb調査を行った。調査結果は以下の①~⑤である。
① 高遠石工研究センター
高遠石工研究センターでは、高遠石工の調査・研究を行いながら、石仏を静止画や動画で記録し、アーカイブ化する活動を行っていた。しかし、その活動記録や撮影した資料は公開されておらず、web上にも公式サイトは見当たらなかった。
また、調査研究やアーカイブ活動に加えて、「高遠石工の石仏巡礼ガイド」などを紙冊子で発行しており、伊那市役所と高遠町総合支所で購入することができるようになっていた(図1-5)(図1-6)。
② 高遠町歴史博物館
高遠町歴史博物館は、古代・中世に至る高遠城と城下町高遠の歴史、文化、人物、民俗をテーマごとにスポットを当て展示を行っている。また、歴史博物館デジタルアーカイブ事業に携わっており、地域住民から寄せられた地域に残る写真資料を募集しデジタルアーカイブ化に取り組んでいる。さらに、伊那市教育委員会と協働し、高遠石工の足跡調査を行い、情報提供を募っている。博物館の所蔵品には、高遠石工に関する多くの資料があった。ただし、これらの資料はデジタル化が進められているものの、インターネットを通じた資料の公開は行われていなかった。
③ 伊那市デジタルアーカイブ(向山雅重資料デジタルアーカイブ)
「向山雅重資料デジタルアーカイブ(https://adeac.jp/ina-city/top/)」においては、伊那図書館が所蔵していた向山(むかいやま)雅(まさ)重(しげ)の写真資料がデジタルアーカイブ化され、約2000点のモノクロ静止画資料が閲覧できる。このデジタルアーカイブでは、高遠石工を主とした項目はなかったが、高遠石工が携わった石造物に関する資料が登録・公開されていた。これは、民俗学の研究や、教育機関で活用できるデジタルアーカイブだと感じた(図1-7)(図1-8)。
④ ホームページ
伊那市観光協会公式サイト、伊那市公式ホームページ、長野伊那谷観光局にて、観光客向けに高遠石工遺産が存在する名所の紹介や歴史を大まかに説明しているWebページがあった。伊那市観光協会の公式サイトでは、「高遠石仏探訪マップ」と「伊那市高遠町・長谷周辺の石造物探訪マップ」などのパンフレット資料がPDFファイル形式でダウンロードできるようになっており、デジタルパンフレットとして活用できるようになっている(図1-9)。これは、電子版だけでなく、紙媒体での発行もされている。
伊那市公式ホームページでは、外国人向けに作られたWebページとパンフレットが作成されていた(図1-10)。パンフレットはダウンロード可能でデジタルパンフレットとして利用できる。
⑤ YouTube動画
伊那市公式動画チャンネルや一般の個人による高遠石工の歴史に関する話や説明、シンポジウム動画がいくつかYouTubeにて投稿されていた。
以上のことから、主に高遠石工研究センターと高遠町歴史博物館の2機関がアーカイブ化に通り組んでおり、資料の収集とそのデジタル化は進んでいたことが分かった。しかし、アーカイブ化が一部進められてはいるものの、高遠石工の石造物を主としたデジタルアーカイブの数は圧倒的に少なく、インターネットを通じた公開がほぼ行われていなかった。
また、紙媒体と電子版の石仏マップやパンフレットが作成されており、観光事業に活用できるようになっていた。
3. 研究の目的および方法
高遠町に現存する石造物は、高遠石工たちの活動跡であり、その地域の歴史を伝える貴重な遺産であるため、後世に残していくべきである。また、高遠石工遺産は観光資源や文化資源として活用することで地域活性化に繋げることができると考えている。しかし、石造物の保護状況とデジタルアーカイブ化への取り組みを調査すると、石造物の残存状態が悪いものも一部存在しており、高遠石工に関するデジタルアーカイブ数も非常に少ないということが分かった。
そこで本研究では、地域文化遺産の保存と普及を目的とした高遠石工の石造物のアーカイブ化を行うとともに、江戸時代から始まった高遠石工の歴史と当時の民間信仰や石造物に対する人々の信仰心から今に残る石造文化財の価値を明確にし、石造物デジタルアーカイブを行うことの意義について考察をする。
本研究では、以下の3つを軸に行っていく。
① 文献調査
文献調査では、高遠石工の起源と発展、石造物造立の時代背景など歴史を調査する。また、高遠に現存する石造物を種類ごとに分け、造立数、造立年代、それぞれの石造物がもつ特徴について調べる。この石造物調査から、造立当時の生活や民間信仰を見出す。
② 高遠石工に関する資料の撮影
主に長野県伊那市高遠町に存在する石造物の撮影を実施する。また、稀代の石工と呼ばれた守屋貞治の石仏の撮影を行う。石造物に加え、石工関連施設を訪問し情報や資料を収集する。
③ Webページの作成
岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所が運営している「地域資源デジタルアーカイブ」にて収集したデータをもとにwebページを作成する。
第2章 高遠石工の歴史
1. 高遠石工とは
高遠石工とは、江戸時代、信濃国高遠を拠点に全国で活躍した、石材加工の職人集団のことである。彼らが手掛けた作品には、銘や造立年代が刻まれており、そこから江戸中期(元禄時代)以前の石造物が複数確認されているため、高遠石工たちは江戸初期から活動をしていたと考えられている。また、石造物の造立だけでなく、石材の採石や、石材加工をする際に使用する道具も自分たちで鍛冶していたと言われている(図2-1)。
高遠石工の多くは、農家の二男や三男、あるいは山峡の農民であり、江戸時代に活躍した石工の数はおよそ1700人以上いたと推定されている。彼らは拠点地である高遠のみでなく、全国各地に出向き、石仏・石神・石碑・石灯籠・供養塔など多くの石造物を造った。江戸城やお台場(品川浦御台場砲台)の工事にも関わったといわれている。高遠石工たちが携わった石造物は、北は青森県から、南は山口県まで、全18都府県で散見されている(図2-2)。
彼らの石材加工技術が他地域の石工よりも群を抜いて高かったことから、その技術が求められ活動域が広くなっていった。技術の高さに加えて、彼らが活動域を全国に広げることができたのは、高遠が交通の要衝であったからである。彼らの技術がいくら高くても、仕事を頼む側に高遠石工の技術の高さなどの情報が流れていなければ依頼することもできない。だが、石工の活動が活発化していた江戸時代までは、杖突峠を通って伊那谷から三河に抜ける伊那街道、あるいは大鹿から遠江に抜ける秋葉街道が、民衆の道として広く利用されていた。そのため、五街道や地域民衆の生活の道が高遠を通り、全国に繋がっていった。石工たちはこの道を使い、情報を発信し、逆に受け入れながら、社会の求めに応じてどのような技術が必要とされているのか知ることで、社会の需要に応じることができていたのである。
2. 高遠石工が活躍した理由と時代背景
(1) 江戸時代の信仰と石造物
江戸時代(1596年~1868年)とは、室町時代から続く長い乱戦の世に終わりを告げ、江戸幕府による封建的かつ中央集権的支配によって社会が安定した時代である。江戸幕府は参勤交代や武家諸法度などの制度を作り、幕府の権力を高めていった。庶民は土農工商の身分制度により、職業ごとに身分を分けられ、身分を固定化された。また、制度による支配だけでなく、儒教の朱子学を幕府の思想・教育の基本とし、江戸幕府が支配・管理しやすい思想が広まっていった。このような徹底した管理によって情政が安定し、交通網が整備され、身分が固定化されたことによって、庶民にも余裕が生まれ、庶民中心とした文化が栄えるとともに、経済活動も活発化し産業も徐々に発達していった。その他に、江戸幕府や諸藩は、農業政策にも力を入れ、産業の発達を促した。生産力の向上、安定化することを目的に、新田開発を奨励し、河川の治水や干拓などを実施した。この時に農民も、生産量の増加、作業の効率化、生活の安定化のために、備中鍬や千歯扱などの新しい農具も使用するようになっていったという。
江戸時代による石造物造立の背景としては、人々の間では、神仏と結びついた民間信仰が盛んになっていたことが理由として挙げられる。上記で述べたように、江戸期は、農民が経済的に発展していった時代でもある。家を興し、田畑を耕して家族を養えるようになっていくが、度重なる天災や風水害、凶作、流行病など、飢饉や人為を超えた災いが当時の農民の生活を脅かし苦しめていた。現在のように科学が進歩していない時代、伝染病が流行して、村全体が壊滅的打撃を受けることも多かったため、病に対する恐怖心はとても強いものだったのではないかと予測できる。このような状況から、人々の生命を脅かすものに対して、人間の力だけでは限界ということを悟り、無病息災や平和を願い、ひたすた神仏に祈りを捧げていたのではないかと考えられる。
全国的に民間信仰が盛んになった風潮の中で、寺社の建築、石造物の造立も活性化、石造物の需要増加により、石工の成り手も増えていった。そして、平安・鎌倉時代のような強い権力をもつ人々による造立に加え、庶民の間にも次第に信仰に基づいた石造物の建立が広まっていった。特に江戸中期になると、個人や講、村中での造立が盛んに行われるようになり、五穀豊穣、子孫繁栄、健康祈願、厄除け、旅の安全など様々な願いを神仏に託し、祈りの拠点として石造物は大事にされていた。また、それぞれの家庭でお墓を持てるようにもなり、先祖供養の念とともに平安を願っていた。
(2) 高遠石工が活躍した理由
江戸時代に、民間信仰が盛んになったことで石造物の造立、石工の数が増加していった。しかし、この時期には高遠石工のみだけでなく、和泉国の泉州石工が存在していた。しかし泉州石工は高遠石工ほどの広範囲での活動はなかった。では、なぜこれほどまで高遠石工たちの活動が全国各地で行われていたのか。
その理由は、主に以下の5つである。
① 高遠藩による、旅稼ぎ石工の奨励
1つ目は、高遠藩による出稼ぎが奨励され政治的な後押しがあったことである。
江戸時代、高遠城を拠点に地を治めた高遠藩は、元禄4年頃から、藩の税収増加を狙って石工たちに領外に出て稼ぐ出稼ぎを奨励した。この石工たちの出稼ぎは、農業の傍ら、農閑期を中心に行っていたといわれている。この頃の藩の財政は厳しく、度重なる凶作で農民からの微税も苦しかった。さらに幕府による出費も多く藩の財政は逼迫したため、石工たちは旅稼ぎ石工となって稼いでいたのである。幕末のある時期には藩の税収の3分の1を稼ぎ出していたという。このため、旅稼ぎ石工の奨励は、石工たちが農業だけでは補えない分の家計の負担を減らすことだけを目的としていたのではなく、藩財政の補完的役割ももたせられていたことが分かる。
この旅稼ぎ石工の存在を示す資料として石沸菩薩細工がある(図2-3)。この石沸菩薩細工とは、稀代の名工と呼ばれた守屋貞治がこれまでに彫り上げた石仏を書き記しているものである。この石沸菩薩細工から、「貞治の活動は、現在の1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及んでいる」(https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1318より引用)ということが分かっている。このことから、高遠石工の1人である守屋貞治が残した石沸菩薩細工から広範囲にわたる活動が行われていたということが分かる。
② 優れた技術
2つ目は、優れた技術を持っていたことである。特に、精巧にして芸術性の高い作品を残していいること、多様な石造物を造っていたということが評価されていた。
その中でも彫刻技法が評価されている。それぞれの作品によって龍や花弁、幾何学的な模様などを表現し、装飾的な要素を含んでいる。その例として、長藤塩供に残る花文字の道祖神を挙げる(図2-4)。また、仏像を彫る際には、微笑みを浮かべた穏やかで引き締まった顔を表現する口元円形微笑型表現や蓮華座を豪華に見せる手法の蓮華座花弁巻き返し表現なども技術力が高いためできる表現方法である。高遠石工たちは、優れた技術を持っていることで、独創性のある石造物を造れたのではないかと考える。
高遠石工の中でも、群を抜いて高水準な石造物を彫る専業工が存在し、その石工の元には多くの修業石工たちが集まるようになった。このような高い技術を持った職人たちは、技術水準を高め、同時に高遠石工の名を全国に轟かせ、高遠石工が一種のブランド化したことによって、その活動も一層盛んになっていった。
③ 素行の良さ
3つ目は、優れた技術を持ちながらも、出稼ぎ先で素行が良かったことである。
この石工たちの素行の良さには、以下のように藩との間に厳しい御誓文が交わされていたという背景があったからである。
一、 他国へ当分出稼ぎするについては、五人組でよく吟味し、請人を立て、年貢や諸役に支障のないようにすること。
一、 御公様より仰付けられている御法度は勿論、堂々仰付けられている御法度にも決して背かないこと。
一、 旅稼ぎに出て、その年に帰らない者がある場合は、請人及び五人組でよく詮議をとげ早速申出ること。無事帰った場合も、名主、組頭、五人組迄届けること。
つけたり、少しの田畑持といえども田畑を荒らさぬ様、耕作の時期にはかえって、仕つけなど手落のないように妻子にもよく申し付けて置くこと。また旅稼ぎに出た以上、秋になって不作であっても、年貢を引いてくれなどといわないこと。
一、 私供旅稼ぎに出る上は御公儀様で決められている御法度をよく守り、旅先で盗み、ばくち、酒乱、口論、腕力沙汰など一切しないように心掛ける。万一旅先で何かの入費のことがあっても国元の御公儀様や、村役人、お組合等へ一切迷惑をかけないよう石工仲間で処理する。又旅先で越年して帰らない者がある場合は、請人が迎えに行ってきっと連れ帰り、お役人衆に御苦労はかけない。(高遠町誌編纂委員会,1977,pp.17-20)
このように、彼らが農閑期に出稼ぎに出る際には、藩との間に「運上金を必ず収めること」「農繁期には帰ってくること」「問題を起こさないこと」など御誓文が交わされていた。誓約があったからこそ、旅先でも素行よく真面目に仕事に取り組み、世間から人柄も評価されていたということが考えられる。
④ 専業石工が多数存在していた。
石工は大工など他の職人と比べて給料が良く、仕事量も多かったため、農閑期だけの兼業石工ではなく、石工を専門とする専業石工も多数存在していた。また、高遠藩は高冷地で、米作りを行うことも難しかったため、家計を支えるために石工になった人も多く、石工の数も徐々に増加していった。
⑤ 高遠藩領では、良質な石が産出し石材に恵まれていた。
高遠藩では、石仏を彫るのに適した石が豊富であり、採石場からは輝緑岩や安山岩、花崗岩が多く産出した。(https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1317より引用)この中でも特に輝緑岩は、きめの細かい美しさとなめらかな手触りが特徴的で、見た目からも表面がつるつるしていることが分かる。これは、稀代の名工と呼ばれた守屋貞治も作品に使用しており、重宝されている(図2-5)。
高遠は、山間部で耕地が狭い地域だが、人々の知恵と土地の形勢を生かしながら働いていたと考える。
第3章 石造物に現れる日本人の民間信仰
まず、民間信仰について説明する。「民間信仰は、特定の教祖・教義・教団などをもつことなしに、地域共同体に伝承的に機能してきた庶民信仰である。体系的に整備された宗教と異なり、呪術的な性格の強い信仰形態を示す。イエ(家)を単位とする組や村などの共同体の中で機能するのできわめて地域性の高いものである。」(松沢邦男, 2001, p.71)
この民間信仰が盛んになった江戸時代は、多くの石造物が造立されていることが特徴的である。そして、民間信仰は地域性が非常に高いものといえるため、この信仰心が造形となって現れる石造物を深堀し調査することで、当時の庶民の生活や信仰を見出すことができると考えた。そこで、本章では高遠地域に残る石造物数や造立年代、どのような石造物が造られているのか調査を行い、そこから石造物がもつ特徴や意味を明らかにする。そして、今に残る石造物が現代とどんな繋がりがあり、どのような影響を与えているのか考察する。
1. 高遠地域に現存する石造物の種類と数
「高遠石仏 付 石造物」の石仏調査一覧表を参考に、庚申塔、甲子塔、道祖神、月待塔、石塔、仏像(如来、菩薩、明王、天部)の形態分類ごとにデータを整理し、種類、造立数、造立年代を調査した。結果は表3-1の通りである。
1974年11月に行われた石仏調査によると、高遠町で確認された石造物数は2229基、未確認であるもの加えると2500基以上にわたるほどの膨大な数が造立されている。この中には、仏像や庚申塔、道祖神、月待塔、石塔、仏足石、石灯籠など様々な石造物が造立されていた。
石造物を種類ごとに数を集計すると、上位トップ3は仏像、庚申塔、道祖神であることが分かった。また、仏像(如来、菩薩、明王、天部)の中でも菩薩が812基と最も多いことが分かった。
ここからさらに、菩薩を「観音菩薩」「地蔵菩薩」「その他の菩薩」に細分化し、数を集計すると、特に馬頭観音と地蔵菩薩が多いことが分かった。
菩薩の分類結果は表3-2、表3-3、表3-4の通りである。
高遠地域に現存する石造物の造立年代は、全体的に見ると江戸時代から昭和までと長期にわたって石造物が造られており、特に江戸時代に造立が活発化していた。また、最も古いものは江戸初期の寛永(1624年~)に造立されており、400年近くの年月を経ても現代まで残されている。
また、表を見ると石造物の造立が活発化したのが江戸時代からということが考えられるが、高遠の良質な石材採れる地形と石工業の給料の良さから考えると、江戸時代以前から高遠石工は活動しており石造物の造立は始まっていたのではないかと推測する。
2. 高遠石工が造立した石造物
高遠地域に現存する石造物は、石仏、石神、石塔、石灯籠など多種多様で、造立数も非常に多かったことが分かった。本節では、高遠石工たちが造った石造物とその特徴について説明する。
また、造立数が多かった菩薩、庚申塔、道祖神、月待塔の4つについては、第3節で詳しく取り上げる。
(1) 仏像(如来、菩薩、明王、天部)
石で造られた仏像のことで、仏教で信仰される釈迦の姿、仏の姿をうつしたものである。各地域で様々な場所に安置されており、日常生活でよく見かける石造物である。如来、菩薩、明王、天部に分類され、それぞれの種類が細分化されている。外見や持ち物など特徴も異なり、4つの仏には階層がある(図3-1)。
「如来」とは、真理に目覚め、悟りを開いた仏のこと。外見は、一般的に装身具類をつけず、薄い衣一枚をまとい、螺髪という渦巻いた髪型をしている。如来の中には、人々を苦しみから救う「釈迦如来」、あの世の平和を取り戻す「阿弥陀如来」、宇宙全体を統一する「大日如来」、病苦を取り除く「薬師如来」などが存在している。この如来は。高遠地域に5体存在していた。
「菩薩」とは、悟りを求め、如来になるために修行をしている者のこと。菩薩は、如来のすぐ下の位にあり、如来の意思に従って様々な姿に変身をするため、観音菩薩や地蔵菩薩など多くの種類がある。
観音菩薩は、観音様で親しまれ、多くの人を救うために三十三種類の姿に変身すると言い伝えられている。聖観音菩薩が基本的な観音様の姿であり、ここから様々な観音菩薩が派生していった(図3-2)。
また、如意輪観音、准胝観音、十一面観音、馬頭観音、千手観音、聖観音の6種の観音菩薩のことを六観音と呼び、六道で苦しむ者たちを救済する。仏教では、死んだ後も、別の生命に生まれ変わるという輪廻転生の思想が基本になっており、この死後に生まれ変わる6つの世界のことを六道という。六道それぞれに担当の観音様がいるため、観音菩薩は、たとえどんな世界に生まれ変わっても救済の道があることを教えてくれる存在であるといわれている。
地蔵菩薩は、お地蔵様として親しまれ、あらゆる人を救済すると言われている。外見は、きらびやかな装飾品をつけ、髪を結い上げた中世的な姿をしている。座像や立像などの形態があるが、救いを求める人をすぐ助けられるように基本的に立ち姿で表していることが多い。
これらの菩薩は、高遠地域では、十一面観音(図3-3)、千手観音(図3-4)、准胝観音(図3-5)、如意輪観音(図3-6)、不空羂索(ふくうけんさく)観音(かんのん)(図3-7)、聖観音(図3-8)、馬頭観音、地蔵菩薩の8種類が特に多く見られた。
「明王」は、修行するものを煩悩から守る仏のこと。悪を懲らしめ、仏の教えに従わない者たちを正しく導く。そのため、外見は背中に炎を背負い、右手には剣を、左手には縄を持ち、憤怒の形相をしている。明王の中には、「不動明王」「愛染明王」「孔雀明王」「馬頭明王」があるが、高遠では不動明王が25体と最も多く現存していた(図3-9)。
「天部」とは、仏法と仏教世界の守護の役割を担う。もともと、仏教成立以前に民間信仰されていたバラモン教やヒンズー教などの神々が仏教に帰依したものである。外見は、官服を着た貴婦人や、鎧を纏った武将姿、鬼の姿など表現が多彩である。高遠地域では弁財天、大黒天など29体残っている。
(2) 石塔(無宝塔・宝篋印塔・五輪塔・笠塔婆・石幢)
石塔とは、お釈迦様の遺骨である仏舎利を安置するための仏塔のことであり、供養塔を指す。また、後々人々のお墓としても造られるようになったため墓石のことも指す。石塔は、宝篋印塔(ほうきょういんとう)(図3-10)、多重塔(図3-11)、無縫塔、五輪塔、笠塔婆、石幢(せきどう)と呼ばれるものがあり、形も大きさも異なる。神社仏閣、墓地に安置されていることが多い。その中でも、宝篋印塔などは高い石工技術が必要なため高価であり、身分の高い人々の間でしか使われていなかった。
(3) その他(仏足石・石灯籠・石垣・御神使・記念碑)
石仏、石塔、庚申塔、道祖神の他には、仏がその場所にいることを示す印として釈迦の足裏の形を刻んだ仏足石や、石灯籠、石垣、御神使、道しるべ、性神、石積みなど多種多様な石造物があった(図3-12)(図3-13)(図3-14)。
3. 石造物からみる民間信仰と現代との繋がり
本節では、造立数の多かった菩薩、庚申塔、道祖神、月待塔の4つの石造物がもつ特徴や意味を明らかにし、今に残る石造物が現代とどんな繋がりがあって、どのような影響を与えているのかを見出す。
(1) 菩薩からみる民間信仰
石造物数調査において、仏像数が871基であり、その中でも菩薩が812基と最も数が多いことが分かった。さらに、菩薩の中でどの種類が多いか調査すると、馬頭観音(614基)と地蔵菩薩(97基)の2つが特に多く高遠地域に造立されていた。そこで、菩薩の中でも造立数が多かった馬頭観音と地蔵菩薩に焦点を当て、詳しく取り上げる。
「馬頭観音」とは、馬の安全息災を祈り、死馬の供養のために建てられたものである。六観音の一つに数えられ、畜生道に迷う人々を救済する。
当時、馬は農耕や輸送などで重要な働きをしたため、人々は馬を大切にし、馬の無病息災を祈る信仰が生まれた。そして、馬とともに道中の安全を祈り、道端で力尽きた馬を供養するために祀られるようになっていったという。
像容は、頭上には馬の頭をのせ、三面六臂や四面六臂など顔と手が複数ある仏像や(図3-15)、馬頭観音の墓碑(図3-16)、文字塔(図3-17)、供養塔、記念碑、など様々な形態があった。また、観音菩薩の中では唯一、憤怒の形相をしていて、この怒りが強ければ強いほど馬頭観音の人を救う力が大きく、馬が濁り水を飲みつくし雑草を食べ尽くすことから人々の悩みや苦しみを食べ尽くすと言われている。
この馬頭観音が高遠地区で614基と最も多い理由として、江戸時代から昭和初期にかけて軍馬や農耕馬として使用し、物資の運搬に馬が最も大きな働きをしていたからであると考える。武士や農家など、多くの人々にとって馬は生活の一部になっているため、病気や事故などで死んでしまった愛馬を供養することが増加していったのではないか。
「地蔵菩薩」とは、お釈迦様が亡くなった後、弥勒菩薩が次の仏になるまでの間、釈迦に代わってあらゆる人を地獄の苦しみや悩みから救う菩薩のこと。日本では、平安時代以降から、地獄を恐れる風潮が強まり、地蔵菩薩への信仰が江戸時代から庶民にも広がっていった。地蔵菩薩が6体並んだ六地蔵がある理由も、お地蔵様が六道をめぐりながら人々の身代わりになり苦しみを背負ってくれるという信仰があったからである。また、祈りに特別な決まりはなく、自分の願いを直接ぶつければ良いとされたことから宗派を超えて多くの人の信仰を集めていたのである。
地蔵菩薩はお地蔵さんとして親しまれ、寺院や道端、墓地などあらゆる場所に安置されており、民衆の目に留まりやすい場所に安置されている。その身近さから、最も周知され親しまれている仏像であると感じる。地蔵菩薩は、特に子どもを守る仏として信仰されたため子育地蔵として親しまれるものが多い。日常生活で見かけるお地蔵さんは、赤い涎掛けや頭巾をしていることが多いが、この涎掛けなどをしている理由も、子どもが健やかに育つようにと願いが込められているからである(図3-18)。この子育地蔵の他にも、願掛け地蔵、身代わり地蔵、火防・盗難除けの役割を持つなど庶民の願いを聞き届ける仏として親しまれていた。このように地蔵菩薩には、様々なご利益があることが分かり、それぞれの地域の人々が地蔵菩薩への意味付けが異なっているのではないかと考える。
さらに、地蔵菩薩は広く親しまれ、信仰されてきた対象であるからこそ、様々な迷信や俗信も生まれてきたと考えられる。その一例として、笠地蔵や地蔵浄土などの昔話がある。笠地蔵は、大みそかの日、優しいお爺さんが六地蔵の頭に笠をかぶせると、夜中に米や宝物を運んできてくれるというお話である。また、地蔵浄土は、正直なお爺さんがお地蔵さんに助けられ、鬼から宝物を奪うお話である。このように、地蔵菩薩は昔話の中では、困っている人を助けたり、教訓を語ったりする存在として登場している。このことから、昔話は日本における信仰や暮らしを物語り、民話として現代まで語り継げられてきたこと分かる。
また、地蔵菩薩の信仰は現代においても続いており、地域ごとに独自の行事や祭りが行われている。例えば、8月に近畿、北陸地方で行われる地蔵盆では、地蔵菩薩の元に集まって像を綺麗にしたり、お菓子をお供えして地蔵菩薩に感謝を捧げる行事が子どもたちを中心にして行われている。江戸時代、地蔵菩薩に祈りを捧げていたように、現代でも地蔵菩薩は大事にされ、地域の人々の生活と深く関わりがあるということが分かった。そして、これらの行事や信仰が、江戸時代の信仰性と今の日本文化との繋がりを感じさせる。
(2) 庚申塔からみる民間信仰
庚申(こうしん)とは、干支(十干、十二支)にあてはめた言葉で、十干と十二支を組み合わせる暦の十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)が合わさる日または年のことをいい、60日あるいは60年ごとに巡って来る日のことである。昔の暦の干支は、60日、60年で一回りする仕組みになっており、この庚申(かえのさる)の年は人心が冷めて災いが起こると言われていたため、この災いを避けるために、60年に一回めぐって来る庚申の年には、村に悪疫や災厄を入り込ませないように庚申塔を建て祈願していたのである。またこの庚申塔を建てる理由として、村の安全を祈るだけでなく、ご利益や記念も目的としていた。
庚申(こうしん)はかえのさるの晩に行った民間信仰で、この信仰の由来は、中国の三大宗教の1つである道教の三尸(さんし)説によるものである。庚申信仰では、人間の体内には、三尸(さんし)と呼ばれる病を引き起こす三匹の虫がいて常にその人間の行いを見ていると考えられていた。三尸は、人が死ぬことで自由になることができるため、人を欲深くさせ悪事を働かせ、寿命を縮めようと隙を狙う。だが、普段は体内から出ることはできず、庚申の日、眠っている時にだけ出ることができた。そのため、庚申の夜に人が寝静まった時、人間の体内から抜け出して閻魔大王のもとへ行き、その人の悪事を告げることで、それを聞いた閻魔大王が、その人間の寿命を縮め、命を奪うと言われていた。そのため、庚申の夜は眠らずに夜を明かす庚申待という習わしが生まれ、庶民の間で庚申講と呼ばれる集まりをつくり、会場を決めて庚申待をする風習が広まっていったという。そのため高遠地域に現存する庚申塔は、公民館や神社仏閣、道端など人が集まる場所に多く、町を見渡せばどこにでもある石造物であった。
像容は、庚申の文字が刻まれたもの(図3-19)と、青面金剛・太陽と月・2匹の鳥と3匹の猿が刻まれているもの(図3-20)がある。文字が刻まれたものは、文字の書体や、石の大きさも異なっている。
青面金剛の像に日月、鳥と猿が彫られたものは、庚申塔の基本形である。高遠地域に残る最古の青面金剛・日月・鳥と猿の庚申塔には、延宝の文字が刻まれているため、庚申塔の造立と庚申信仰は江戸初期から始まっていたのではないかと考える。
(3) 道祖神からみる民間信仰
道祖神とは、厄災や疫病が村へ入るのを防ぐ村の守り神である。五穀豊穣や旅人の安全を祈るなど道祖神によって祈りは様々である。村の守り神とされていたため、村境、村の中心部、三叉路、道端などに立っている場合が多い。
また、道祖神は地域ごとに呼び方も様々で、「どうそじん」の他に、障(さえ)の神、塞(さい)の神、道(どう)陸(ろく)神(じん)、だうそじん、などがある。また、塞の神が訛ると「せいのかみ」になるため、性との深い結びつきがあり、子孫繁栄のために建てられたともいわれている。道祖神の像容は、大きく分けて2つある。
1つは、道祖神の文字を刻んだ文字碑型のものである。この道祖神の文字は、楷書や草書、篆書などの様々な書体で彫り込まれており、ひとつとして同じものはなかった(図3-21)(図3-22)。また、高遠塩供地区には全国的に見ても珍しい、装飾的な花文字道祖神が存在していたことが分かった(図3-23)。
2つ目は、双体道祖神である。双体道祖神は、仲睦まじい男女の姿が浮き彫りされている(図3-23)。男女が遠慮がちに寄り添って立つもの、手を握るもの、抱きしめあうなどその姿態はさまざまであるが、高遠地域では、向かって右側に男神、左側に女神が彫られ、お互いに握手している像が多かった。このことから、夫婦仲が良ければ子どもも生まれて、村の繁栄にも繋がるという意味を指し、人々の繁栄を祈るために造立され始めたのではないかと考えられる。
道祖神は呼び方や形態もひとつひとつ異なり独創性がある。さらに、様々なご利益を願われ造立されていた。道祖神は、呼び方によって形や意味が変わるという訳ではなく、神社やお寺の神像や仏像と違い決まった様式はないため、村の人々が石工に自由に注文をつけて造ってもらっていたといわれている。
このように、道祖神が建てられた意味や呼び方、像容を見ると、当時の地域性が最も現れる石造物が道祖神であると考える。
さらに、道祖神と関連する行事として「どんど焼き」が挙げられる。これは長野県各地で行われる行事で、道祖神のための祭りであり、お正月の松飾りを集めて焚き上げ、厄落としを行う。このような、行事を通じて、道祖神は地域の信仰と行事に関わりがあることが伺える。
(4) 月待塔からみる民間信仰
月待とは、特定の月齢の日の夜に人々が寄り合い、神仏に祈りを捧げ、仲間とともに飲食をしながら月の出を待つ行事のことで、月が出るとありがたく拝んだり、悪霊を祓うという意味合いを持っていたが、昔の人の月の満ち欠けへの恐れから生まれた行事とも言われている。この月待を行った人々が供養のしるしに造立したのが月待塔である。月待塔は、二十二夜や二十三夜、二十六夜など、〇〇夜と刻まれている(図3-24)(図3-25)。高遠地域では、その中でも特に二十二夜塔と二十三夜塔の数が多く残されていた。
十九夜と二十二夜には如意輪観音菩薩、二十三夜は勢至菩薩、二十六夜は愛染明王のようにそれぞれの月夜には特定の神仏が結び付けられている。
例えば、高遠地域に多く現存していた二十二夜に結び付けられる神仏は、如意輪観音であり、この如意輪観音は女性の守り仏と考えられていたため、女性だけの月待行事も行われていたとされている。この女性限定の月待を現代風に言い換えてみると、真夜中まで月を待つ女子会のようなもので、仲間の家やお堂に集まり、おしゃべりをしながら食べ、飲み、月の出を待ってそれぞれの願いを月に託す場面が浮かび上がる。このように、月を眺めながら仲間と語らい、お互いの絆や親交を深めていた当時の人々の姿は、現代の私達の日常とさほど変わりはなく、共通しているように思える。こういった人間の本質的なものは時代を経ても変化しないのだなと感じる。
月待の信仰は今ではほとんど見られないが、現代では全国で中秋の名月にお月見イベントなどが開催され、月に関する行事も多い。このように、江戸時代から主流になっていった月待の民間信仰は、現代の日本文化にも通ずるものがあることが分かった。月に惹きつけられた人が集い、人と人とが結びつけられている様子は今も昔も同じである。
第4章 デジタルアーカイブする意義とは
本章では、第1章から第3章までの内容で分かったことから、石造物をデジタルアーカイブする必要性について考察する。石造物のデジタルアーカイブを行うべき理由は主に3つあると考える。
1つ目は、未来への遺産の継承である。
第1章より、高遠地域に現存する石造物は、自然の中に安置されているため、災害や経年劣化による喪失や損傷はなかなか避けることができない状態にあることが分かった。このように物理的な保存が難しい場合でも、デジタル化して保存することにより、今ある本来の姿のまま永続的に保存できるため、アーカイブ化を進めていくことが重要であると考える。
2つ目は、歴史と信仰の保存である。
第2章・第3章より、江戸時代は、飢饉や天然痘などの災害や疫病に人々が苦しめられた時代であったため、石造物は当時の人々の拠り所となり、守り神として建立されていたことが分かった。石造物は、仏像や道祖神、庚申塔など多くの種類が造立されており、どの石造物にいたっても人々の祈りの対象となっていた。そのため、今に残る石造物は、地域の人々の篤い信仰によって建てられたということが分かり、何百年前の人々の生活や民間信仰、時代性を反映し、歴史の変遷を知ることができる貴重な遺産であると感じる。だからこそ、高遠の歴史を物語る石造物をアーカイブすることで、歴史と文化の理解をさらに深め、歴史的・文化的価値を高められるのではないかと考える。そして、インターネットやデジタルメディアを通じて、高遠石工遺産をデジタル資料として提供することで、多くの人々が高遠石工を知る1つのきっかけとなり、高遠石工に興味関心を抱いてもらうことで、観光資源としてもさらに活用できるようになり、地域の活性化に繋がるのではないかと考える。
3つ目は、教育への活用である。
上に記したように、石造物は人々の生活を反映しているため非常に地域性が高い遺産であるといえる。また、地蔵菩薩や道祖神など石造物が関連した行事やお祭りが各地で行われていることが分かり、神仏に祈りや願いを捧げる信仰は、現代の私達の日常生活や文化の中で引き継がれていると感じた。だからこそ、石造物デジタルアーカイブを通じて、日本文化に対する学びをより深めるとともに、地元の歴史や文化に誇りを持たせ、地元への愛着や関心を高められるのではないかと考える。
第5章 高遠石工 石造物デジタルアーカイブ
1. デジタルアーカイブの対象と撮影方法
(1) デジタルアーカイブの対象
「高遠石工 石造物デジタルアーカイブ」では、主に、長野県伊那市高遠町に現存する石造物の撮影を行う。石造物は、仏像、石塔、道祖神、庚申塔などを含む。上伊那地域に現存する、高遠石工の中でも高い技術を持ったといわれる守屋貞治の石仏も撮影対象とする。加えて、高遠町歴史博物館の所蔵品と高遠石工研究センターの方や学芸員による高遠石工に関する講座の動画撮影を行った。
撮影場所は、「高遠石仏探訪マップ」「伊那市高遠町・長谷周辺の石造物探訪マップ」「高遠の石仏 付 石造物」から選定した。また、撮影場所までの道中で発見した石造物も撮影した。撮影は19ヶ所で行い、約300基以上の石造物の資料を収集した。(2023年12月21日時点)
以下の表5-1、は、石造物の撮影場所、撮影した石造物の種類、数をまとめたものである。
(2) 撮影方法
対象とする石造物を前後左右の4方向から静止画で撮影を行う。格子に囲まれているものや、崖や川付近など近づくことができない場合は、前方のみ撮影を行う。一眼レフカメラを使用する。特に仏像については、碑文、台座、持物、印相、表情をクローズアップして、1体1体の特徴や魅力が伝わるように撮影を行った。
また、高遠石工に関する講座については、高遠町歴史博物館が主催する第27回歴博講座を対象として動画撮影を実施した(図5-1)。講座内容は、伊那市誌編さん委員、駒ケ根市立博物館専門委員の北澤夏樹氏による「地形・地質からみた長谷・高遠地域」と、高遠石工研究センターの熊谷友幸氏による「深まる高遠石工の世界―貞治仏調査結果から―」の2講座である。
2.Webページの作成
本学のデジタルアーカイブ研究所が運営している、「地域資源デジタルアーカイブ」にて、収集したデータをもとにwebページを作成する(図5-2)。このWebページは、下のQRコードから閲覧できる(図5-3)。
Webページは、撮影場所ごとにページを作成する。ページは、タイトル、サムネイル画像、概要(歴史、石造物の特徴や説明など)、収集した石造物の画像、所在地を知らせるためのマップで構成されている(図5-4)。石造物の画像は、横移動させて画像を切り替えて閲覧することができるようになっている。
第6章 結 言
本研究では、地域文化遺産の保存と普及を目的とした高遠石工の石造物のアーカイブ化を行うとともに、高遠石工の歴史と当時の石造物に対する人々の信仰心から、今に残る石造文化財の価値を明確にし、石造物デジタルアーカイブを行うことの意義について考察をした。
石造物造立が活発化した江戸時代は、天災や病に苦しめられた時代であった。そのため、人々は生命を脅かすものに対抗するため、神仏への信仰が一般化し、石造物を通じて無病息災などを祈り、守り神として人々に希望と安心をもたらしていた。これらの石造物は、造立当時の人々の生活や信仰心、時代性を反映しており、高遠地域で今なお数多く残されていた。そして、江戸時代から強まっていった信仰心や民間信仰は、今の私たちの生活や文化、行事にも受け継がれていることが分かった。そのため、高遠石工の活動跡として残る石造物は、歴史的・文化的価値を有し、高遠地域そのものの価値を高める遺産であるといえるため、後世に繋げていくためにデジタルアーカイブを行うべきである。
また、撮影中には地域住民の方から声をかけていただき、貴重なお話を伺うことができた。その際、高遠石工の存在やその石造物が今でも大事にされ続けていることを痛感した。このような地域住民の遺産に対する愛着や関与があるからこそ、私達がその意思を受け継ぎ、地域の文化遺産を残していくことが地域貢献に繋がるのではないかと感じた。
そして今回、デジタルアーカイブに取り組むうえで、もっと撮影場所の下調べを入念に行うべきであったことが一番の反省点であった。撮影場所の選定は、石仏探訪マップや文献から行ったが、そこには地区名や所在を示した大まかな地図の情報しかなかったため、実際に行ってみると目的地にたどり着くまでに相当な時間がかかってしまった。特に自然の中に安置され管理があまり行き届いていない石造物については、Googleマップ等の検索エンジンを用いてもマップ上に掲載されておらず、場所を特定することができなかった。そのため、専門的に研究に従事している高遠石工研究センターなどの機関に確認を取り、石造物がどこにあるのか、周囲に目印とするものはあるのか等を聞き、場所を明確にしておくべきだった。アーカイブ化を行ううえで、石造物は自然に溶け込んでいるため、建造物とは違い発見しにくい。そのため、意識を巡らせながら町を探索することも大切だと感じた。また、道中が険しい場所もあり、車でのアクセスが困難で徒歩での移動も多く、目的地までたどり着けずに撮影を断念した場所もいくつかあり資料収集に苦労した。そのため、デジタルアーカイブ化を行う際には、知識や技術だけでなく、根気と体力も不可欠であると感じた。
本研究を通じて、高遠石工について探求し、石造物を目指し高遠を巡ることで、故郷の見え方が大きく変わった。自分が生まれ育った地域こそ、価値ある遺産や風景が当たり前すぎて見過ごしてしまっていたことに気づき、その価値を再確認することができた。だからこそ、遺産を記録し、多くの人にその魅力を伝えていくことが重要であると考える。
今回、約300基の石造物をアーカイブしたが、まだまだアーカイブ化するべき石造文化財が沢山ある。高遠石工遺産を保存し後世に残していくこと、高遠地域の発展に繋げていくためにも、地域遺産にもっと興味関心を持ち、デジタルアーカイブする人材が増えていけば良いと考える。
参考文献
1) 松沢邦男.庚申塔と道祖神-見て、歩きの手引き-.ほおずき書籍, 2001, 166p
2) 高遠町誌編纂委員会.高遠の石仏 付 石造物.高遠町誌刊行会, 1975, 215p
3) 小山矩子.信州伊那へ―石匠 守屋貞治の石仏を訪ねて―.文芸社, 2016 , 139p
4) 坂口和子.石仏巡り入門-見方・愉しみ方.大法輪閣, 1997, 239p
5) 田中清文.高遠石工 石匠列伝.伊那谷石造文化財研究所, 1998, 352p
6) 高遠町誌編纂委員会.石仏師 守屋貞治.小松総合印刷, 1977, 346p
7) 石川純一郎.地蔵の世界.時事通信社, 1995, 352p
8) 松沢邦男.庚申塔と道祖神.ほおずき書籍, 2001, 166p
9) 木戸ひろし.再発見!高遠石工.ほおずき書籍, 2015, 235p
10) 石川純一郎.地蔵の世界.時事通信社, 1995, 352p
11) 市川智康.図解・仏像の見分け方.大法輪閣,1992, 192p
12) 笹本正治.再発見!高遠石工.ほおずき書籍,2015,235p
13) 伊那市高遠町・長谷周辺の石造物マップ.
https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/bunka/takatoishiku.files/map.pdf(2023/8/10 閲覧)
14) 石仏探訪マップ
https://www.inacity.jp/kankojoho/kanko_news/174t_knk.files/map_takato.pdf
(2023/8/10 閲覧)
15) 日本地図ジェネレーター.
https://www.start-point.net/maps/map_maker/ (2023/10/1閲覧)
16) 名古屋刀剣ワールド.“江戸時代日本史 |ホームメイト”.
https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-edo/(2023/10/6 閲覧)
17) 伊那市.“市指定文化財:伊那市公式ホームページ”.
https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/bunka/shishiteibunkazai.html (2023/12/8閲覧)
18) 伊那市.“伊那市の文化財の概要”.
https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/shogaigakushu_news/rekishibunka.files/02.pdf (2023/12/8閲覧)
19) 文化庁.“伊那市【長野県】‐歴史文化構想”.
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/rekishibunka/pdf/92756301_01.pdf
(2023/12/8閲覧)
20) 伊那市公式ホームページ.“高遠石工:伊那市公式ホームページ”.
https://www.inacity.jp/kurashi/shogaigakushu_bunka/bunka/takatoishiku.html (2023/12/26閲覧)
21) 長野伊那谷観光局.“高遠石工のふるさと伊那谷”.
https://www.inadanikankou.jp/special/page/id=1150 (2023/12/26閲覧)
22) 「日本で最も美しい村」連合.“長野県伊那市高遠町たかとお-「日本で最も美しい村」連合.https://utsukushii-mura.jp/map/takatoo/ (2023/12/26閲覧)
23) 伊那市観光協会.“おいでな伊那―一般社団法人伊那市観光協会公式サイト”.
https://inashi-kankoukyoukai.jp/ (2023/12/26閲覧)
24) 伊那市デジタルアーカイブ.https://adeac.jp/ina-city/top/ (2023/12/26閲覧)
25) 高遠石工と天才仏師 守屋貞治を追って.https://stone-c.net/report/8032 (2024/02/13 閲覧)
論文資料
【研究論文】岐阜和傘の歴史と技術のアーカイブ
〜岐阜市文化資源デジタルアーカイブの構築〜
研究概要
1,はじめに
卒業研究のテーマを決める中で、現在住んでいる岐阜市について関心を持ち、岐阜市を知っていく中で岐阜県の伝統工芸品である岐阜和傘を初めて知り、岐阜市にはまだあまり知られていない伝統工芸品があるかもしれないと考え、そこから若い世代や知らない方に岐阜和傘を知ってもらえる様にデジタルアーカイブを通して伝えたいと考えた。本研究では、岐阜和傘の技術と歴史を中心に、岐阜和傘以外の伝統工芸品と長良川の関係性をアーカイブし、より多くの人に伝える事が本研究の目的である。
2,研究の方法
研究対象である岐阜和傘とその他の伝統工芸品の歴史や技術などの資料を集め、文献調査を行う。次に、文献調査で分かった事をまとめ、分析しまとめていく。文献調査だけでなく岐阜和傘の資料や岐阜和傘に関連する施設などを実際に訪問し、撮影をさせてもらう。文献調査や撮影などを基にデジタルアーカイブを作成し、活用の方法とデジタルアーカイブをする事の意義を考察、提案する。
3,研究の結果(考察等)
本研究では、最初に岐阜和傘の歴史やその他の岐阜市の伝統工芸品の歴史・技術を知る為に文献調査を行った。そこから分かった岐阜市の伝統工芸品の共通点として長良川に沿って伝統工芸品が生まれている事が調査で分かった。
長良川は、岐阜県北部の大日ヶ岳から南へと岐阜県内を横断し、三重県桑名市で揖斐川に合流し、伊勢湾へと流れ込む。全長は166kmで、流域には、86万人が暮らしている。長良川は江戸時代では、物流の手段として使われていた。長良川は、伊勢までたどり着く事から関西から関東まで荷物を運ぶ事ができ、物流の要として使われていた。その為、出来た品物や材料などが手に入れやすい事から長良川の流域で数多くの伝統工芸品が生まれた。
その事から、岐阜和傘・岐阜うちわ・岐阜提灯の関係性が分かった。また、長良川の役割や歴史を知る事で、岐阜和傘の成り立ちと深く関係している事が分かった。
また、文献調査を進めるにあたって岐阜市和傘の現状の課題点が見えてきた。昨今は、和傘よりも洋傘が主流となっており、和傘の需要が減少しており、最近では舞台での小道具や結婚式の前撮りの小道具として使われる事が多くなった。そこで若い世代の方にも和傘をより身近に知ってもらう為にもデジタルアーカイブを通して岐阜和傘の歴史と技術を知ってもらう事が需要だと考える。その為に現在は、岐阜和傘に関連する場所や施設などを撮影し、ネットに上げる事を行っている。また、文献調査も並行して行う。
4.おわりに
岐阜和傘の普及の為に様々な取り組みが行われてきているが、現状はまだ若い世代に「岐阜和傘」の普及がないと考える。若い世代に「岐阜和傘」を知ってもらう為にもインターネットを通して、「岐阜和傘」の普及に努める。Mata,
関連の場所での撮影が出来ていないので、撮影を重点的に行いながら、岐阜和傘の歴史や技術、長良川の伝統工芸品の関連性と歴史の文献調査を行っていく。
参考文献
(1)岐阜傘に関する調査研究
(2)加納町史 下巻
(3)密柑水の文化センター 機関誌『水の文化』50号「江戸時代から続く岐阜・加納の和傘づくり」
https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no50/05.html
(4)和傘CASA
研究資料
岐阜和傘の歴史
・岐阜和傘の成り立ち
1756年(宝暦6)、加納藩主・永井直陳は下級武士の生計を助けるため和傘づくりを推奨した。岐阜で和傘を製造するにあたって、分業体制の確立に加え、美濃和紙の生産地に近く、周辺の山間地で良質の竹が採取できるなどに加えて、加納は位置的にも原材料に恵まれた事もあり、加納の和傘は栄え、最盛期の昭和20年代半ばには年産100万本を超えている。
・岐阜和傘と長良川
岐阜和傘を搬送するにあたって、長良川は大きな役割を果たした。搬送経路としては、長良川から伊勢湾の桑名に出て、廻船によって江戸・大阪などの大消費地へと搬送する事が可能となったため、広範囲に和傘を販売することができ、岐阜和傘が栄えた一因となった。
岐阜和傘とは?
・岐阜和傘の特徴
岐阜和傘は、畳むと細く収まる傘「細物」を特徴として、傘の製造に優れた技術を有し、豊富な装飾技法を継承している。
・和傘の種類
「蛇の目傘」→細みかつ色柄が豊富で女性が使用する事が多い
「番傘」→太めの骨や白の和紙で作られる男性用で、雨傘としても作られ、
わしには水除けの油が引かれる。
「舞踊傘」→日本舞踊や歌舞伎などで使われる
「野点傘(のだてかさ)」→野外のお茶会などで使われる
など様々な和傘が存在している。
・岐阜和傘が認められて…
2022年3月には、国の伝統的な工芸品に推定されている。
岐阜和傘の現状と課題
・岐阜和傘の今
現在、岐阜和傘を製造販売するのは加納地区に3件のみとなっている。最盛期だった頃と比べ、洋傘の普及に伴い、需要が減り、今の岐阜和傘の主な収入源としては、歌舞伎や日本舞踊などでの貸し出しや結婚式での貸し出しが主となっており、和傘を普段使いの傘として買う人は減少している。岐阜和傘は一つ一つが手作りで分業制で出来ているからこそ一本一本の値段が洋傘に比べると高く、中々手に届かないのも一つの原因となっていると考えられる。
⇓
その現状を打破しようと様々な事が取り組まれてきている。最近だと岐阜市に岐阜県で唯一の和傘専門店である「CASA和傘」というショップが出来た。このショップでは「岐阜和傘」をブランド化し、現代に合わせ、洋服に合うデザインの岐阜和傘を店頭やオンラインショップ等で販売している。また、公式のホームページでは買った方の写真や感想などが掲載されていたり、岐阜和傘の種類等も掲載されており、和傘をより身近に普段使いしやすいサービス等が提供されている。
研究内容(仮)
岐阜和傘の普及の為に様々な取り組みが行われてきているが、現状はまだ若い世代に「岐阜和傘」の普及がないと考える。若い世代に「岐阜和傘」を知ってもらう為にもインターネットを通して、「岐阜和傘」の普及に努める。
◎岐阜和傘の歴史と人をアーカイブする
⇒「岐阜和傘」はどういう物なのかどの様な歴史なのか、今現在どの様に作られているのか作っている人をアーカイブし、公開する事で岐阜和傘について知ってもらう。
(例)職人の方の作業風景やインタビューを行いアーカイブする
岐阜和傘や岐阜の伝統工芸品にまつわる資料などをアーカイブする
◎岐阜和傘を通して長良川周辺にある伝統工芸品についても調べ、マップにする
⇒長良川周辺で生まれた岐阜うちわや岐阜提灯などを調べ、紙のマップにしたり、ウェブでのマップを作成する
(例)そこにある伝統工芸品についての歴史や豆知識などをタップして見れるようにする。
資料
論 文
岐阜和傘の歴史と技術のアーカイブ
〜岐阜市文化資源デジタルアーカイブの構築〜
第1章 緒 言
1. はじめに
卒業研究のテーマを決めるにあたって、現在住んでいる岐阜市について関心を持ち、岐阜市を調べていく中で、岐阜県の伝統工芸品である岐阜和傘が岐阜市で作られてきたことを初めて知った。岐阜和傘の技術と歴史をもっとより多くの人に知ってもらいたいと考えた。また岐阜和傘以外にもまだあまり知られていない伝統工芸品があるかもしれないと考えた。そこから調べてく中で岐阜うちわ、岐阜提灯の2つがある事が分かった。この二つの伝統工芸品と岐阜和傘の成り立ちなどを調べていく際に、この3つとも長良川付近で作られている事が分かった。そこから若い世代の方や知らない方に岐阜和傘や岐阜和傘以外の伝統工芸品を知ってもらえる様にデジタルアーカイブを通して伝えたいと考えた。本研究では、岐阜和傘の技術と歴史を中心に、岐阜和傘以外の伝統工芸品と長良川の歴史的関係性を調査し、デジタルアーカイブを通じてより多くの人に伝える事が本研究の目的である。
2. 岐阜和傘の歴史的変遷
上記でも述べた通り、岐阜和傘をより多くの人に知ってもらう事が本研究の目的である。岐阜和傘は最盛期の1950年頃は600件以上の問屋があり、月に120万本から130万本まで生産されていた。しかし、現在は職人の高齢化や後継者が少なく、お店を畳む人が多く岐阜和傘を扱うお店も全盛期より大幅に減った。また、もう一つの原因として挙げられるのは、洋傘の普及だ。昭和20年頃日本は敗戦し、終戦を迎えた。それに伴い生活様式が大きく変わった。和傘の需要低下が本格的に進んだのは、終戦直後の昭和23年~25年をピークに急激に落ち込んだ。その背景としてあるのは、生活様式が変わった事に伴い、洋傘の普及が始まった事が和傘の需要低下に拍車をかけた一つだ。その他にも、服装の変化として、着物から洋服へと変わった事、交通機関の発達、なども挙げられる。また物資不足だったのも原因の一つと考えられる。そして、昭和30年には洋傘の生産と和傘の生産が逆転し、急激に低下した。現代においても、傘というと洋傘の方が日常使いのイメージが強い。一本一本人の手で作られており、単価が高く手に出しにくい。しかし、洋傘の場合は大量生産に適しており、単価も安いものから高いものまである。また、洋服に和傘は合わせづらいという事もある。これは和傘が洋傘よりもデザインの幅がない事が原因だと私は考えている。この様に和傘は現代の生活様式には合わなくなっている。また和傘を作っている会社のホームページはあるが、岐阜和傘について作られたサイトは少ない印象がある。この岐阜和傘での問題は他の岐阜市の伝統工芸品出も同じだと考えている。今回取り上げる岐阜うちわ、岐阜提灯でも現代の生活様式に合わず、生産量なども最盛期に比べると随分減った。岐阜和傘を中心に岐阜市の伝統工芸品をより多くの人に知ってもらえる様にするには、インターネットの活用が最適と考えた。そこで、デジタルアーカイブを用いて、岐阜市の伝統工芸品の和傘について歴史的変遷と共に周知する事が問題の解決だと考える。
3.目 的
本研究の目的は、「岐阜市の伝統工芸品をより多くの人にデジタルアーカイブを用いて知ってもらう」事だ。岐阜市には伝統工芸品が数多くある。本研究では、岐阜和傘の技術と歴史について、デジタルアーカイブを中心に岐阜うちわ、岐阜提灯と長良川の関係性をアーカイブしていく。
第2章 岐阜市の歴史
1.岐阜市について
岐阜市は、岐阜県の県庁所在地であり、人口は42万人で、岐阜県の市町村の中で一番多い人口だ。パーセンテージで表すと、岐阜県の20%が住んでいる。の主な産業としてはアパレルが挙げられる。市内中心部を清流長良川が流れており、金華山がそびえている。歴史も長く、岐阜市が歴史に登場したのは旧石器時代で、最初は岐阜市の北部から東部にかけた台地上に営みがあり、縄文、弥生、古墳時代にはほぼ全域に営みは広がっていった。その証拠として、紀元前1300年頃の石器や遺跡などが見つかっている。応仁・文明の頃には、斎藤道三が美濃国を手中にして、井口と呼ばれた稲葉山山麓に城下町を形成。永禄10年には、織田信長が美濃国を手中にし、「井口」から「岐阜」と改めた。その後、「楽市楽座」を行い城下町を発展させた。その後は合併が繰り返され、今の岐阜市が出来たのは1889年(明治22年)7月1日、その後2006年に柳津町と合併し、2019年に130周年を迎えた。本研究では、岐阜市の伝統工芸品を紹介してきたが、岐阜市には他にも様々な伝統文化や産業がある。その一つとして、岐阜市の伝統文化である長良川の鵜飼がある。長良川の鵜飼は、その歴史と伝統に培われた技術が評価され、国の重要無形民俗文化財に指定されている。また岐阜市を代表する産業として、アパレル産業が挙げられる。岐阜市のアパレル産業は満州から引き揚げられた人達が中心に軍服を売る店を立ち上げ、そこから発展していき、日本でも有数のアパレルの産地となった。また、岐阜市には様々な史跡が残されている。城の跡地が残っている所もあり、金華山の上にそびえる岐阜城跡は、岐阜城を含む金華山一帯が「岐阜城跡」として国史跡に指定されている。国史跡とは、日本の歴史を正しく判断する上で欠く事が出来ない遺跡の事であり、岐阜城跡地は岐阜市内の国史跡としては4件目に登録された。岐阜市は岐阜県の中心地として栄えながらも伝統と歴史のある町であり、自然にも恵まれている。
2.岐阜市の伝統工芸品について
岐阜県には、国の指定を受けた伝統的工芸品が6品目あり、その中の2つの伝統的工芸品は岐阜市にある。岐阜市には5つの伝統工芸品があり、内訳としては、国から指定された伝統的工芸品は、岐阜提灯、岐阜和傘の2つで、岐阜県から指定された郷土工芸品は、岐阜渋うちわ、のぼり鯉・花合羽、美濃筒引き本染め・手刷り捺染の3つが指定されている。本研究では、この5つのうち岐阜和傘、岐阜提灯、岐阜うちわについて取り上げていく。まず伝統工芸品とはどの様なものかを説明していく。一般には伝統工芸品と言われる事が多いが、それとは別に「伝統的工芸品」という呼称がある。伝統的工芸品は「伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法)」(以下から「伝産法」と略す)で定められている。この伝統的工芸品の「的」には、「工芸品の特長となっている原材料や技術・技法の主要な部分が今日まで継承されていて、さらに、その持ち味を維持しながらも、産業環境に適するように改良を加えたり、時代の需要に即した製品作りがされている工芸品」の意味が含まれている。「伝統的工芸品」には、法律上で次の要件が必要になる。
・主として日常生活で使われるもの
冠婚葬祭や節句などのように、一生あるいは年に数回の行事でも、生活に密着し一般家庭で使われる場合は日常生活に含まれる。
・製造過程の主要部分が手作り
すべて手作りでなくてもよいが、製品の品質、形態、デザインなど製品の特長や持ち味を継承する工程は「手作り」が条件だ。持ち味が損なわれない様な補助的な工程には、機械を導入する事が可能だ。
・伝統的技術または技法によって製造
伝統的とはおよそ100年間以上の継続を意味する。工芸品の技術、技法は、100年間以上、多くの作り手の試行錯誤や改良を経て初めて確立すると考えられている。伝統的技術、技法は、昔からの方法そのままではなく、根本的な変化や製品の特長を変えることが無ければ、改善や発展は差支えない。
・伝統的に使用されてきた原材料
「伝統的技術または技法によって製造」と同様に、100年間以上の継続を意味し、長い間吟味された、人と自然にやさしい材料が使われているか。またすでに枯渇したものや入手が極めて困難な原材料もある場合は、持ち味を変えない範囲で同様の原材料に転換する事は、伝統的であるとされている。
・一定の地域で産地を形成
一定の地域で、ある程度の製造者があり、地域産業として成立していることが必要。ある程度の規模とは、10企業以上または30人以上が想定されている。
以下の要件を全て満たし、伝産法に基づいて経済産業大臣の指定を受けた工芸品の事を指す。今回取り上げる岐阜提灯、岐阜和傘は伝統的工芸品で、岐阜うちわは郷土工芸品に分類されているが、3つとも伝統工芸品である事には変わらないので、ここでは3つとも伝統工芸品と呼称していく。それでは、いつ伝統的工芸品と郷土工芸品について指定されたのかというと、岐阜提灯は平成7年4月5日、岐阜和傘は令和4年3月18日に伝統的工芸品として岐阜渋うちわは平成4年3月30日に指定されている。
3.岐阜市加納地域に地域性
加納の地名の由来は、荘園が誕生した時代に盛んぼる。荘園とは、功績のあった貴族やお寺に与えた土地が荘園である。今の茜部には茜部の荘という東大寺の荘園があり、その荘園の管理者は、荒地を開墾し、その土地を国に言わずに自分の土地にして、年貢を手に入れていた。しかし、隣の荘園との境にぶつかると、正式に権限が欲しいため、開墾した土地を正式に届出を出し、そこから国に年貢の一部を納めた。その様な経緯から、元の荘園に後で加えて納めたことから「加納」という地名が出来た。加納は岐阜県稲葉郡に存在した町で旧城下町でもあった。加納城が出来たのは、1600年11月出来ヶ原合戦後、家康は西方の脅威に備え、交通の要衝を理由に加納城の築城を命じられ、加納城が築城された。加納城初代城主には奥平信昌が任されたという。また、加納は加納城が築城する前は、中山道の宿場町としても栄えた。中山道は、1601年から7年間で他の4街道(東海道、日光街道、奥州街道、甲州街道)とともに整備された会堂であり、古くは都と東国を結ぶ東山道と称されていた。加納宿は守山宿から東海道の草津宿を経て京都三条に大橋に至ると69の宿があり、そこまでを「木曽路69次」とも言われている。美濃路には16宿が設けられていて、そのうちの最大の宿だと加納宿は言われていた。加納は加納城を中心に、侍屋敷と宿場町から成り立っていた。侍屋敷は加納城周辺(丸の内,東西の丸,長刀堀等)で、宿場町は本町一丁目~九丁目,天神町,広江,新町,柳町,安良町,八幡町等22町からなっていた。()そこから明治16年には、東加納町と西加納町が確立。その後、明治30年には、東加納町と西加納町、下加納町が合併し、加納町となった。その後、昭和に入り、加納町は岐阜市と合併した。加納の特産品としては、岐阜和傘があり、加納に数多くの国に指定された史跡が残っている。加納城だけでなく、加納宿、加納天満宮、加納八幡神社などがある。加納天満宮は、祭神は菅原道真公で加納城が築城される前から祀られていた古社で、慶長年間に現在の場所に移設された。加納天満宮は、学問の神様としても有名で、戦炎で焼け残った拝殿は、文化7年創建され、三十六歌仙,六歌仙,等の宝物や市文化財指定の山車(鞍馬車)があり、天神祭りやみそぎまつり、提灯まつりなどが開催されている。平成15年10月には、御鎮座400年と官公御神忌1100年の記念事業として本殿造営工事がされた。また、町政時代の名所として、1962年に竣工された旧加納町役場が存在しており、武田五一設計で、鉄骨鉄筋コンクリート造2階建ての近代建築で、国の登録有形文化財にも登録された。しかし、耐震性の問題などから2016年に取り壊され、その跡地は現在中山道加納宿まちづくり交流センターとなっている。この中山道加納宿まちづくり交流センターでは、加納宿を中心とした中山道の歴史の継承を図り、地域のまちづくりの活動の場という役割で令和2年10月14日に開館した。屋内には和傘や加納城のジオラマなどの展示が展開されており、街歩きなどで中山道を訪れる方へのトイレの提供や休憩スペースとしても利用が出来る様になっている。この様に加納を知る事ができる施設もある。また、旧加納町役場以外にも加納小学校の正門は、赤いレンガ造りが有名で「赤門」と呼ばれており、明治32年4月の開港同時に設置された。市内最古の門であり、平成7年10月には「岐阜の宝百選」にも選ばれた。加納は、1940年の1月23日に岐阜市への編入案が可決されたが、編入案が可決する条件として、岐阜駅、東海道本線下に地下道を設ける事、「加納」という地名を残すことを提示した。この条件を承諾した事で、岐阜市に編入した今も加納という地名は残っている。
4.長良川という自然環境
長良川は、岐阜県北部の大日ヶ岳から南へと岐阜県内を横断し、三重県桑名市揖斐川に合流、伊勢湾へ流れ込む。その全長は166kmで、流域には86万人が住んでいる。高知県の四万十川、静岡県の柿田川と並んで日本三大清流と言われており、名水百選にも選ばれている。また、長良川は上流約1㎞の水浴場があり、全国で唯一河川の水浴場として、「日本の水浴場88選」に選定されている。また、長良川にはダムや工場群が無く、水の美しい川として有名だ。長良川は水が美しい清流の為、鮎を中心に川の魚が良く捕れる。鮎は、澄んだ川の象徴と言われている。夏を告げる旬の魚だ。柳の葉のようなスリムな体をしていて、鮎の身からスイカの匂いが漂う為に「香魚」とも呼ばれる事もある。鮎は北海道から沖縄まで生息していて、澄んだ清流を好む。また、鮎は「年魚」とも呼ばれ、一年で命を閉じる。
おいしい鮎が育つためには、エサとなる上質なコケ(藻類)が必要となる。太陽光線 がコケ(藻類)の生える石まで届けばコケが豊富に育つが、泥や落ち葉などのゴミに遮られるとあまりコケは育ちにくい。しかし、長良川は、本流にダム(河川法で規定される高さ15m以上のモノ)が無く、大雨で自然に川の底が洗われやすいため、コケ(藻類)が育ちやすい環境にある。また、鮎は1日あたり自分の体重の半分の重さのエサを食べる。その為、鮎は縄張りを作るのは、他の鮎からエサ場を守る為だという。その為、たくさんの鮎が育つには、広範囲に美しい川が必要となる。また、鮎のエサとなるコケは、水中の二酸化炭素や窒素、リンなどを吸収し、水を綺麗にする役割がある。鮎がコケを食べる事で、次々に新しいコケが育ち、水を綺麗にし続ける。この循環がある事で、長良川の水の美しさを保ち続けることが出来る。鮎は水を綺麗に保つ役割を果たしている。長良川は、宮内庁の御魚場が定められていて、鵜飼の鵜匠が捕った鮎は皇室や伊勢神宮へ納められている。鮎の他にも、長良川の流域には、伝統工芸が多くある。
5.美濃和紙との関係性ついて
本研究でも取り上げている岐阜和傘や岐阜提灯、岐阜うちわ以外にも様々な伝統工芸がある。例えば、「美濃和紙」もその一つだ。美濃和紙の紀元はおよそ1300年前、天保9年(737年)ころで、奈良時代の「正倉院文書」の戸籍和紙が美濃和紙であったことが記されている。美濃和紙の原材料は、和紙の原料となる落葉低木楮、三椏、雁皮で、幹を使うのではなく、皮の部分の繊維を利用する。そして、良質の冷たい水が豊富にある事が、和紙を作る上で大事になってくる。美濃市は、その2つが揃っており、都からも近い場所だった為、和紙の産地として栄えた。
民間でも広く和紙が使われるようになったのは、室町・戦国時代の文明年間以後だった。美濃の守護職土岐氏は、製紙を保護推奨、紙市場を大矢田に開いた。紙市場は、月に六回開かれていたため、六斎市と呼ばれていて、現在も行われている。この紙市によって、近江の枝村商人の手で、京都、大阪、伊勢方面へ運ばれ、美濃の和紙が全国に知られるようになった。そして、慶長5年に徳川家康からこの地を拝領した金森長近は、長良川河畔に小倉山城を築城した。
慶長11年には、現在も残る町割りが完成した。こうして江戸時代には藩の保護や一般需要の増加もあり、美濃和紙は、幕府・尾張藩御用達となっていった。明治維新により、紙すき業に必要だった免許の制限がなくなり、製紙業が急増し、国内の需要や海外市場の進出などもあり、美濃は紙と原料の集積地として栄えた。しかし、濃尾震災と太平洋戦争の影響で、物資不足、人材不足などが生産に大きく影響し、陰りを落とすようになった。その影響は大正時代にも続いて行く。機械抄きが導入し、戦後には石油化学製品の進出が続いた。美濃では日用品を主とした素材を中心に生産していたため、打撃が大きく、昭和30年には、1200戸あった生産者が、昭和60年では40戸に減ってしまった。現在では、20戸程度になっている。美濃和紙は機械で漉く和紙を含め、美濃で作られた和紙全般を指す。
美濃和紙の中でも重要文化財指定の材料、道具を使い認められた職人が漉いた和紙のみ「本美濃和紙」と呼ぶことが出来る。上品な色合いや、薄くても布の様に丈夫で太陽の光に透かした時の美しさから。本美濃和紙は江戸時代以来最高級の障子紙として高く評価されてきた。美濃和紙の長い歴史の中で伝統の技が受け継がれてきたことなどが評価され、本美濃和紙は、昭和44年に国の重要文化財に指定され、平成26年には、ユネスコ無形文化遺産(人類の無形文化遺産の代表的な一覧表)に日本の手漉き和紙技術(石州和紙・本美濃和紙・細川紙)が登録された。
前述にも書いた通り、和紙の製法には「手漉き」と「機械抄き」がある。
〈手漉き〉
手漉きは、伝統的な「流し漉き」「溜め漉き」の技法を使用し、職人が一枚一枚丁寧に漉いている。仕上がった紙には四方に手漉きの特徴である「耳」がある。また、職人の手作りの為、一点として同じものはない。手漉きの技法には、前述でも述べた通りに2種類の技法がある。「流し漉き」は日本独特の技法で、靱皮繊維(雁皮・三椏・楮など)の紙料にネリ(植物性粘液)を混ぜ、簀桁ですくい上げ、全体を揺り動かしながら紙層をつくり、簀桁を傾けて余分な紙料を流しながら漉く。繊維が絡み合うため、横にも縦にも破れにくい紙が出来る。「溜め漉き」は、中国古来の紙漉きの技法。日本独自の流し漉きと違い、ネリを用いず一枚ごとに簀桁の中の水を簾の間から自然に落として漉き上げるので、「機械抄き」では製造できない厚さのある紙を造る事ができる。証券や賞状などに用いられる局紙は溜め漉きで漉かれている。
〈機械抄き〉
「機械抄き」は和紙の伝統的な技法である「流し漉き」の手法を機械に置き換えて製造する方法。比較的均一な紙を造ることができ、洋紙ほどではないが大量に生産をする事が可能である。しかし、伝統的な原料から製造するので、「手漉き」と同様に天然原料の持つ光沢や風合いを活かした美しく強靭な紙を造る事ができる。本来は「手漉き和紙」こそが「和紙」という存在であったとされている。しかし、日本古来の「手漉き」が色々な道具や手法を取り入れて進歩し、現在に至ったという事を考えると「機械抄き」も「和紙」の形の一種と考えられている。
第3章 和傘の歴史
1. 和傘について
世界で初めて傘が登場したのは、約4000年前の古代エジプトやペルシャで、当時の壁画にもその様子が残っている。
当時は、今の様に雨をしのぐ道具として使用しておらず、太陽の日差しを遮る事を目的とした日傘として使われだした。また、現在の様に開閉機能はなく、常時開きっぱなしだった。その後、傘はヨーロッパに渡り、富の象徴として多くの帰属が使用する事になった。13世紀頃(西暦1201~1300)のイタリアでは、傘の骨組となるフレームが考案され、18世紀頃になると現在のような傘の形状になった。そして、これまで日傘として使われてきた傘だったが、次第に雨避けとして傘をさす人が
増えていった。日本で最も古く傘についての記述があるのは、日本最古の歴史書である「日本書紀」に登場した。日本書紀で記述されている傘は、現代の傘の形状ではなく、「かぶりがさ」と知られる笠である。また、古墳時代には笠をかぶった埴輪なども残されている。
この当時の笠の材料は、イグサ、ヒノキ、竹などが使われている。この被り笠は現在も屋外の労働に、雨や日よけとして広く東南アジア各地でも使われている。一方、軸を中心に頭の上に広げる「傘」が日本に伝来した時期については詳しく分かっておらず、古墳時代の後期、鉄明天皇の時代には、百済から仏具の傘(天蓋)が日本に献上したと記憶されている。
和傘は平安時代前後に仏教やお茶・漢字等と同じく中国から伝来したと言われている。平安時代に登場する和傘は現在のような形ではなく、傘(蓋・笠)であり、天蓋のような覆う形のような物で、貴人に差し掛けて日除けや魔除け、権威の象徴として使用されていた。また、この時代では傘は開いたままで閉じる事は出来なかった。開閉が出来る様になったのは、安土桃山時代で、その頃には、製紙や竹細工の技術の進歩により、和紙に油を塗り防水性を持たせ、開閉できる「和傘」が作られるようになった。
和傘が広く一般に使われだしたのは分業制の発達した江戸時代中期のことで、江戸時代の浮世絵にも傘をさしている町人の姿が多く見受けられた。生活必需品として、広く普及していた事が伺える。普及するにつれ、和傘はただの日常品としてだけでなく、装いにアクセントを付けるファッションの小道具でもあったので、美しさも兼ね揃える様な様々な技巧やデザインを凝らした和傘が生まれた。和傘は、日常使いだけでなく、歌舞伎や日本舞踊、茶道の中でも取り入られてきた。また、傘に屋号をデザインしたものを客に貸与する事で、雨具としてだけでなく、宣伝の道具としても使われた。
和傘は、和紙、竹、木などの自然素材で作られている傘の総称となる。和傘は柿渋や油などを塗って防水加工した和紙などが用いられている。その和紙を数十本の骨組みで支える構造となっている。柄と骨部分には主に竹や木が使用されている。和傘の種類は、以下の種類がある。
・番傘(ばんがさ)
江戸時代に誕生した和傘。特徴としては、シンプルな構造と無骨な重厚感が挙げられる。持ち手は太い竹を使用し、傘布に使われる油紙は厚く、基本的に無地で、洋傘と比べると大振りで重量がある。番傘は、もともと商家が屋「〇〇の十三番」を入れて使用していた事から番傘と呼ばれるようになった。
・蛇の目傘(じゃのめがさ)
歌舞伎役者が舞台で使用することでおなじみの蛇の目傘。特徴は、骨組みの細さと装飾的な趣向である。江戸時代に軽量化されたことで、腰に差して使われていた。番傘に比べるとデザイン性があり、細身の骨を使用していて、女性でも使いやすい傘だ。中を白く、周辺を黒・紺・赤などで太く輪状に塗った模様が、蛇の目に見える事から、「蛇の目」と呼ばれている。
・日傘(ひがさ)
日傘は傘布に油による防水加工をしていないため、雨傘としては使用できないが、和傘独特の風合いや、程よく日光を遮り、透過する見た目が非常に美しいため、夏場に活躍する和傘だ。特徴としては、一般的に雲龍紙を使用したものが定番だが、一本ずつ表情の異なる手絞りの和紙を使ったものから、華やかな型染和紙を使ったものまで、多種多様だ。ろくろ部分には、飾り糸が付けられている。
・舞傘(まいがさ)
名前の通り主に舞台で使用される和傘で、和紙のものから絹を使った高価なものもある。デザインは、舞の邪魔にならないように基本的に無地の物が多いが、「助六」と呼ばれる紫地に白い輪状に色抜きしたものから渦巻き模様などもある。舞傘も防水加工はされていないが、日傘としても活用可能である。
この様に、和傘には雨傘としてではなく、日傘や舞傘、宣伝の為にも使われてきた。
次に、岐阜和傘の制作過程を述べていく。和傘の制作は大きく分けて、轆轤・柄作り、つなぎ、張り、仕上げの工程がある。一般的な轆轤作り以外の工程は現在も手作業で行われている。また、和傘は「分業制」で作る事が特徴で、この制度がある事で、大量生産と品質の向上が図られてきた。
傘張りは、以下の工程で作られた。
①親骨先端の軒と軒糸に、帯状に軒紙を張る。(軒付け)
②親骨と小骨を繫いだ中節と中糸の上に中置紙を張る。(中置紙張り)
③軒から中心にかけて、平紙を親骨に張る。(平張り)
④頭轆轤に紙を巻き、親骨とつないだ部分に、カナヘラやカナオサエヘラで天井紙を押し込み、ひだを作りながら張る。更に数度頭轆轤に紙を巻き張り、下部を天井紙と接着する。(天井張り)
⑤小骨の手元轆轤と繫いだ部分に、手元紙カナヘラやカナオサエヘラでひだを作りながら張る。(手元紙張り)
この工程で傘に和紙を張っていく。
2.岐阜和傘の成り立ち
岐阜和傘は、主に加納地区で作られてきた。岐阜和傘の起源として、今現在考えられているのは2説ある。
①寛永16年(1639年)藩州明石藩主戸田丹波守重(7万石)が加納城に移封された時、一所に明石から傘屋かね右衛門一家を連れ、傘張りを始めさせた。(文化 2 年〔 1805〕 6 月の久運寺留書の記事より )。金右衛門が加納にきたという事実はあるがそれが直接に傘産業を興したとはまだ傘が一般庶民には使用禁止されていたので家中の需要に応ずるのみで商品として製造販売されなく、あまり需要がなく発達したとは考えられにくい。
②宝暦 6 年(1756)永井伊賀守尚陳が加納に移封されたとき、わずか 3 万 2 千石と 10 万石の城下町にとって財政が苦しく、家臣たちは生きていくために、“武士は食わねど高楊子”といって生活は苦しいが武士は内職が許された時代ではなかったので、目立たない内職として傘骨削り、轆轤作りに従事し、また藩主の奨励が出たことにより地場産業として確立していった。また永井氏の時代、天保年間 (1781~ 88)には都会で傘の需要が高まってきた時代で産業として伸びた時期と思われる。
(引用元:岐阜大学地域課学部,地域学実習報告書,2004,3,第7章加納の和傘産業と現状とこれから,p.22)
この様に、岐阜和傘の起源は諸説ある。また①は、藩主の移封では、浄化の商工業者が従われるのは通例で、その中で金右衛門が一緒に来たのもあり得る事から、この金右衛門が加納で傘を広めたといえるかもしれない。加納にある久運寺の過去帳には、初代金右衛門から3代目まではっきりと傘屋長次郎と記されている。しかし、金右衛門が傘を加納で発達させたかは記されていないため不明である。また、戸田氏は7万石といえども領地はだいぶ輪中地帯にあり、災害が度々続き、財政が苦しかったと考えられる。その為、戸田氏が移封された頃は加納で岐阜和傘が産業として成立するほどではなかった。一方、宝暦5年に加納城の藩主となった永井直陳の頃は、傘の需要が増え、産業として成立する基礎が確立されてきたと考えられる。寛永の歴史的起源と宝暦の産業的起源の二つが岐阜和傘の起源であるといえる。
加納で和傘の産業が本格化したのは、永井直陳が加納城藩主をしていた時代である。石高の減少や度重なる水害による財政難のため、武士に和傘の内職を薦めた。本格化した頃には、武士は傘骨削り、埴輪作り、柄竹作りなどをし、加納町民・農閑期の農民は傘張り、仕上げをするなどといった分業制が生まれてきた。この分業制があったからこそ加納で和傘が栄えたともいえる。
文政9年になると宮田吉左衛門(江戸席酒造家で宿老)と森孫作(脇本陣の年寄)が加納藩より領分傘問屋を申し付けた。この狙いとしては財政難に苦しむ藩役人が城下の傘作りに専売制を実施し、江戸積産業を育成して、その利益を回収しようとした。この統制は全体で5万本を超えていったが長くは続かなかった。また、この江戸積については、従来仲買人制度の頃から行われており、統制の時期に始まったものではない。
加納傘の生産量はその後年々増えていき、安政6年の4月の「加納領傘銀桟留出来数取調帳によると、傘生産者が加納の町内に35人で、その中の上位の3業者の主な販路として、江戸、京都、など遠隔地で出荷し、それ以外の業者は岐阜・名古屋など近辺に出荷していた。その時の加納で作られた傘の生産量は、業者によってばらつきはあるが、全て合わせると加納町内だけで、49万1380本を生産していた。
明治維新の後、当時の加納藩主と重役は東京へ移住したが、一般武士はほとんど残り、傘生産に従事した武士も多く残った。明治5年頃には、上加納の中村源之助が絵日傘を神戸のイギリス商人と取引し、杉山新七は小型の絵日傘を製造して海外輸出を試み、この年は年間150万本の生産を記録した。明治12年には、オーストラリアのシドニーで万国博覧会が開催され、加納の赤塚源次郎が加納傘13種を出品した。この事が岐阜和傘の海外進出への基礎を築き上げた。その後、東海線開通により、郵送時間の短縮、包装堅固などの企業利益からほとんどの業者が製品郵送で往来使っていた水運から鉄道を使うようになり、東京が主な取引先だったが、他府県の直接販売に成功し、北は北海道、南は宮城県まで京阪地方にも直接販売を拡張していった。明治36年第五回国内勧業博覧会が大阪で開催されるとき、加納傘問屋から多数出品をし、加納傘の精美にして安価であるため飛ぶように売れ、それ以降も出店をし、加納傘は1日1万本から2万本へと著しく生産量が増加した。しかし、大正元年に入ると、大阪の松坂屋が原価を無視した宣伝がされ、傘は飛ぶように売れ、同様の事を松坂屋だけでなく、三越、大丸でも行われ、京都、東京にも波及した。しかし、この事態は都市の傘小売店に大影響を与え、問屋や製造元までに影響は広がった。その結果、安価に傘が大量に売られた事で粗製品であるように思われ、実際粗製品が市場に出回り、評判が悪くなった。昭和に入り、当時の岐阜和傘同業組合の会長だった赤塚源八は県当局から助力を得て、取引上の欠陥、製品、業界の改良、回復をし、以前あった組合を解散させ、昭和10年に新たに「岐阜県傘商業組合」を誕生させた。その後、昭和20年代半ばには、生産1000万本を超えている。その後は洋傘の普及、交通機関の発達、生活様式の変化により、和傘の需要は戦争直後で物資不足だった昭和23年~25年をピークに急激に落ち込み、洋傘の生産と和傘の生産が逆転した。
3.長良川と岐阜和傘の関係性について
長良川は岐阜和傘にとって欠かせない存在だ。長良川は、公共交通機関が発達する前、運送の手段として使われてきた。
各地で城下町や門前町、宿場町などの建設の為に大量の木材が運ばれたり、幕府・大名の御用物資・年貢米などの郵送、各地の商品生産との流通や荷船による船運の役割などにも長良川は活躍してきた。長良川流域には各地に川湊ができ、大小の船が頻繁に往来していた。
また、長良川が伊勢湾に繋がる事から東京や大阪にも出やすかった。その為、岐阜和傘の原材料である和紙や竹なども頻繁に運送されていた。また、加納町が長良川に近い事もあり、出来た和傘をすぐに東京や大阪に出荷出来る位置にあった。また、長良川は水運としての役割だけでなく、文化の発達の役割もしていた。長良川の流域には多くの伝統文化が生まれた。清流の水を使い染める郡上本染、長良川と津保川の水運や水を使う関市の刃物産業、長良川で捕れる鮎を取る漁法鵜飼などが挙げられる。その内の一つが岐阜和傘である。長良川流域には上述でも述べた通り様々な伝統文化が誕生してきた。その中には、岐阜和傘の原材料となる美濃和紙、周辺の産地で取れる良質な竹、エゴの木、柿渋・亜麻仁油・桐油などがあった事と運送の事も合わせると岐阜和傘を作る環境が整っていた。長良川があったからこそ岐阜和傘は発達してきたのである。
第4章 デジタルアーカイブと地域活性化
1.デジタルアーカイブについて
今回の研究では、デジタルアーカイブを活用している。デジタルアーカイブとは、「デジタル技術を用いて作成されたアーカイブという意味の造語」(特定非営利活動法人,“デジタルアーカイブとは”,https://jdaa.jp/ ,最終閲覧日:2023年12月26日 )だ。アーカイブは、古文書や公文書館というのが元来の意味である。デジタルアーカイブの対象は、公的な博物館、図書館、文書館の収蔵資料、自治体・企業等の文書・設計図・映像資料などを含め有形無形の文化・産業資源など多岐に渡る。また、完成されたものだけでなく、そのプロセスに関する資料も対象となる。
デジタルアーカイブはそれらを収集するだけでなく、デジタル形式で記録し、データベースの技術を用いて保存、蓄積をして、ネットワーク技術を用い検索を可能にすることで持続的に活用するまでがデジタルアーカイブである。この様に蓄積したデータは、研究や学習支援、地域の振興、防災、経済の発展、新たなコンテンツの創作などの活用が可能となる。この事からデジタルアーカイブは地域循環型社会の社会基盤として重要視されている。
デジタルアーカイブにする事で、文字、図表、画像、映像、音声などの様々な情報を統合して扱う事が出来、保存や複製をしても劣化しない事が特徴である。また、分野を横断した関連情報の連携・共有も可能となり、ネットワーク技術を使い、時間や場所にとらわれず情報やコンテンツへのアクセスも簡単に行える事からデジタルデータのメリットや特徴がデジタルアーカイブの役割を担っている。デジタルデータで記録する事で、長年の経験や研鑽により培われた個人の技術などは、言葉や文字にも表しにくいため継承が困難になる事も少なくない。しかし、デジタルデータを活用する事で、形式知可出来る可能性があり、技術の継承や知識の共有などに役立てる事が出来る。また、文化財や文化遺産がアーカイブされると考えがちだが、地域の文化や伝統芸能、生活の記録は、貴重な地域資産としての価値があり、産業技術や職人の技術などを中心とした伝統産業、日常の生活、テレビ、ファッションなども社会全体の財産を記録として残す事が求められている。また、過去だけでなく今も残す事も必要である。今を記録し、残していく事で、震災や自然災害の復興に役立つことも重要視されている。これらがデジタルアーカイブの役割である。デジタルアーカイブの活用事例として多いのは、博物館、図書館、公文書館などの公的な施設が多い。特に博物館は、デジタルアーカイブを利用したデジタルミュージアムを各地の博物館や大学で行っている。岐阜女子大学でもデジタルミュージアムが行われており、内容としては、全国各地の文化情報を取り扱っている。
また、デジタルアーカイブのメタデータを提供し、検索・閲覧・活用できるプラットフォーム「ジャパンサーチ」もある。日本国内で保有する様々な分野のコンテンツを提供している。利活用の例としては、検索機能を提供したり、インターネット上でギャラリーを作る事が出来る。
2.岐阜県とデジタルアーカイブの活用例について
ここでは、実際に岐阜市ではどの様なデジタルアーカイブが活用されているかを述べていく。
①岐阜市digitalarchive写真貸出システム
このサイトでは、岐阜市の「観光振興を目的とした広報活動に利用しても羅う事を目的としたデジタルアーカイブを活用したサイトである。デジタルアーカイブの対象は、岐阜市の伝統文化である鵜飼を始め、長良川や金華山、史跡・旧跡、町並み、博物館など岐阜市が対象である。写真貸出システムというサイト名の通りに写真を利用する際には、利用申し込みをする必要がある。
②岐阜県図書館
岐阜県図書館では、岐阜県関連資料や地図資料等を図書の検索と同じように「資料検索」のページからキーワードで検索できるようになっている。岐阜県図書館では、ウェブサイトで公開しているデジタルコレクションで、パブリックドメインを付している画像は、申込書等の手続きが条件を守った上で不要となっている。
③岐阜市歴史博物館
岐阜市歴史博物館では、ウェブサイトに館蔵品一覧を公開している。館蔵品一覧では、岐阜市歴史博物館が所蔵する資料をテーマごとに紹介している。テレビ放映や刊行物への掲載、インターネット公開、展示パネルでの刑事での目的で利用する場合は、申請を行う必要がある。
④岐阜県博物館 デジタル展示室
ここでは、岐阜県博物館の収蔵品がインターネット上で無料で見れるようになっている。カテゴリに分かれており、収蔵品の写真は、様々な角度から見れるようになっている。所蔵品の説明もされている。
岐阜県でデジタルアーカイブを行われているのは、公的な施設が多かった。今回だと博物館や図書館だとほとんどの所では、所蔵されている作品が家にいても見られる様になっていた、また、データでの貸し出しや画像を静止画だけではなく、様々な角度から見られるような工夫をしている事が分かった。
3.伝統工芸品のデジタルアーカイブの活用事例について
ここでは、実際に伝統工芸品のデジタルアーカイブ化をし、どの様な活用がされているのかを国立工芸館の一例を基に述べていく。
・国立工芸館
国立工芸館では、2020年10月に石川県金沢市に移転開館した国立工芸館が所蔵する一部の工芸作品を、3Dデジタルアーカイブ化をし、設置したタッチディスプレイで公開した。また、2Dでのデジタルアーカイブ化も行った。
上の写真の様に作品が展示された。実物展示では見られない展示品の器物の底などが見られるように様々な角度から見られる仕様となっている。展示品の写真だけでなく、キャプションも一緒に組み込まれている。
この様な画面になっており、タッチディスプレイの為、来館者好きな様に展示品を動かし、見る事が出来る。また、多言語にも対応している。2Dの方では、国立工芸館のコレクションの中で気になる作品画像からその作品の解説や技法を閲覧する事が出来る。検索機能が主となってくるため、年代選択から選ぶことが出来たり、分類選択など様々な角度から検索する事が出来る。
この様な画面から来館者が好きな作品を選ぶことが出来る様になっている。
作品を選択すると「解説」・「技法」・「拡大画像」を見る事が出来る。2Dなので、3Dの様に自分で様々な角度を見ようと動かす事は出来ないが、拡大したり、解説だけでなく、技法も合わせて見る事が出来る。
検索機能では、様々な方法から検索する事が出来る。年代からの検索では、選択された年代に該当する作品一覧が表示される。分類選択でも選択された分類に該当する作品の一覧が表示される。
国立工芸館では、デジタルアーカイブを展示する事によって、様々な方面から伝統工芸品について知る事ができる様になっていた。国立工芸館は当初、展示品を飾る際に鏡を使うという案もあったが、難しく物理的規約に縛られない仮想現実を用いて作品を紹介する取り組みを行った。デジタルアーカイブを用いる事で、今まで見れなかった部分を見る事ができるのは、デジタルアーカイブを活用したからこそ伝統工芸品に身近に触れて知ってもらうが出来るのである。
第5章 岐阜市文化遺産デジタルアーカイブ
1.岐阜市文化遺産とデジタルアーカイブの関係性について
ここでは、岐阜市文化遺産とデジタルアーカイブの関係性について詳しく述べていく。文化遺産とは、その国や地域またはコミュニティの歴史・伝統・文化を象徴した存在である。文化遺産は様々な種類があり、有形の物から無形の物まである。岐阜市にも様々な文化遺産がある。今回の研究のテーマである伝統工芸品から史跡や銅像、絵画など様々な文化遺産が岐阜市にある。様々な文化遺産が岐阜市にある中でその文化遺産がどこにあるのかどの様な物なのかを紹介するためにもデジタルアーカイブという方法は最適であると思う。実際に、岐阜市のホームページには岐阜市の文化遺産を紹介するページがある。
上の写真の様に、写真だけでなく、解説や史跡についての歴史もアーカイブをしている。その他にも文化財一覧では、国指定の文化財は、文化庁のホームぺージにリンクが飛ぶようになっている。
また、前述でも述べた通り岐阜市にある博物館や図書館に所蔵している作品もサイト上で公開されている。岐阜市立図書館でも所蔵している文化財をデジタルアーカイブとして誰でも見られるようになっている。
また、メディアコスモスでは、昔の地図や写真、伝統工芸品などをデジタルアーカイブをした物を今と比べたマップが一階のシビックプライドプレイスで展示されている。
この様に岐阜市では文化遺産をデジタルアーカイブをし、活用している。文化遺産をデジタルアーカイブする事で町おこしや後世に伝える役割をしている事が分かった。
2.岐阜和傘デジタルアーカイブのコンテンツ構成
ここでは、デジタルアーカイブを使って岐阜和傘のコンテンツを構成を述べていく。デジタルアーカイブを使ったコンテンツはたくさんあるが、今回は岐阜和傘の歴史・技術を知らない人、若い世代に向けたコンテンツを構成する。今回このコンテンツとして入れる要素で特に重要視して入れる要素は「歴史」と「技術」である。まず初めに「歴史」と「技術」をどの様な構成デジタルアーカイブにしていくかを述べていく。この後世でのデジタルアーカイブの撮影方法は、写真を中心に考えている。また、どの様な所を撮影するかは、岐阜和傘だけを撮影するのではなく、岐阜和傘に関わる場所や物、加納の歴史、岐阜和傘を作成している様子などをデジタルアーカイブをしていく。また、デジタルアーカイブをした物は、一つのウェブサイトにまとめたいと考えている。そこでは、「歴史」と「技術」をカテゴリに分ける。例えば、一つのウェブサイトで「歴史」と「技術」を分ける事で、検索をもっとしやすくなると考える。また、解説も詳しく書いていきたいと考える。
歴史と技術を中心にアーカイブをしていく予定だ。アーカイブで載せる写真や動画は、様々な方向から撮っていく。このウェブサイトでは、岐阜和傘の歴史と技術を知らない人や若い世代の人にも分かりやすく伝える事が目的のコンテンツにしてく。
3.岐阜市伝統工芸品と長良川の関係性のアーカイブのコンテンツ構成について
ここでは、岐阜市の伝統工芸品とアーカイブの関係性を分かりやすくまとめたコンテンツの構成にしていく。前述では、岐阜和傘を中心に取り上げてきたが、このコンテンツでは、岐阜市の伝統工芸品である岐阜和傘を始め、岐阜うちわ、岐阜提灯の共通点である長良川の関係性について写真や図、表などを用いて、若い世代の方にも分かりやすく伝えたいと考えている。まずは、岐阜和傘と岐阜うちわ、岐阜提灯の説明をするページを設ける。その後、長良川についてのページを設け、長良川と岐阜市の伝統工芸品をデジタルアーカイブでの資料を使いながら、図や表を用いて説明していきたいと考えている。
この様に図や写真を使って分かりやすく岐阜市の伝統工芸品と長良川の関係性のアーカイブをウェブサイトでまとめていく。長良川のアーカイブや図を用いながら、流域にある伝統工芸品も一緒に紹介していく事で関係性について詳しく理解してもらえる様にする。このウェブサイトで長良川と岐阜市の伝統工芸品の関係性について若い世代や知らない人にも興味を持ってもらえるサイトにする。
4.岐阜市文化遺産の活用について
ここでは、デジタルアーカイブ以外に現在岐阜市文化遺産を知ってもらえるまたは盛り上げているどの様な活用をしているかを述べていく。
・和傘CASA
和傘CASAは、岐阜県岐阜市港町にある岐阜県で唯一の和傘専門店である。長谷川てしごと町屋というお店の中に和傘CASAはある。和傘CASAでは、和傘の販売から貸出までやっている。和傘CASAは店舗からの販売もしているが、インターネット上での販売も行っている。店舗では、実際に和傘を触る事が出来たり、レンタルをしている。和傘CASAの建物には和傘以外にも提灯や活版印刷など様々な文化遺産も取り扱っている。
・岐阜灯り物語
岐阜市で行われる岐阜市の伝統工芸品とプロジェクションマッピングがコラボしたイベントが岐阜公園や正法寺等で行われる。このイベントは、毎年行われており、岐阜和傘と岐阜提灯を用いて行われる。また、連動イベントとして、岐阜駅前広場から金公園でも同様のライトアップが行われている。
ここでは、岐阜市の文化遺産をデジタルアーカイブ以外の方法で紹介しているイベントや店などについて紹介してきた。
第6章 結 言
本研究では、岐阜和傘の歴史と技術を中心に岐阜市の伝統工芸品と長良川の関係性をデジタルアーカイブを用いて、若い世代や岐阜市の伝統工芸品を知らない人に伝えていく事を目的にこれまで述べてきた。若い世代や岐阜市の伝統工芸品を知らない人に、技術と歴史を伝えるためには、紙媒体だけでなく、デジタルアーカイブを活用する事でより多くの人の目に留まるのではないかと私は考えた。
岐阜市の伝統工芸品を多くの人に知ってもらえる事で、現在問題視されている後継者不足が解消するのではないかと私は考える。岐阜和傘では、和傘を非日常の物として使うのではなく、昔の様に普段使いしてもらえる様に様々な取り組みが行われている事が本研究を進めていく中で分かった。岐阜和傘を販売している「和傘CASA」の方にお話を聞いて、岐阜和傘は普段使いをする事で和傘自体の劣化を防ぐ事が分かった。また、現在は岐阜和傘の柄を洋服にも合わせてもらえる様に様々なデザインがある。
また、岐阜市では、伝統工芸品とプロジェクションマッピングとのライトアップのイベントが毎年行われている事も分かった。岐阜和傘の技術と歴史をデジタルアーカイブをする事で、岐阜和傘を知ってもらい、現在行われている取り組みを知ってもらえるのではないかと考えた。
また、岐阜市の伝統工芸品と長良川の関係性をデジタルアーカイブにする事で、岐阜市の伝統工芸品がどの様にして誕生したのかを知ってもらい、岐阜市の伝統工芸品を知ってもらう事で現在ある問題の解決に繋がると考える。デジタルアーカイブを活用し、岐阜和傘を中心に岐阜市の伝統工芸品の普及が出来る事が本研究を通して分かった。
参考文献
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https://wagasa.shop/
2. 密柑水の文化センター 機関誌『水の文化』50号「江戸時代から続く岐阜・加納の和傘づくり」 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no50/05.html
3.マルト藤沢商店 (最終閲覧日:12月30日)
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4. 坂井田永吉商店 (最終閲覧日:12月30日)
http://kano-wagasa.jp/html/wagasa.html
5.世界農業遺産 清流長良川の鮎 (最終閲覧日:12月30日)
6.public relations office 和傘最大の生産地・岐阜市 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202306/202306_03_jp.html
7.日本洋傘振興協議会 (最終閲覧日:12月30日)
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8.岐阜市 (最終閲覧日:12月30日)
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9.加納町づくり会 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.city.gifu.lg.jp/info/kidspage/1009717/1009718.html
10.岐阜市漫遊 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.gifucvb.or.jp/outline/index.php
11.人力 (最終閲覧日:12月30日)
「人力」とは – 旧街道ウォーキング – 人力 (jinriki.info)
12.岐阜県 (最終閲覧日:12月30日)
https://www.pref.gifu.lg.jp/page/3156.html
13.環境省 (最終閲覧日:12月30日)
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14.全国鮎養殖漁業組合連合会 (最終閲覧日:12月30日)
http://www.zen-ayu.jp/ayu/#:~:text=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%8C%E6%84%9B%E3%81%99%E3%82%8B%E5%84%AA%E7%BE%8E,%E3%81%A7%E5%91%BD%E3%82%92%E9%96%89%E3%81%98%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
15.Corsoyard (最終閲覧日:12月30日)
16.岐阜大学 (最終閲覧日:12月30日)
https://www1.gifu-u.ac.jp/~forest/rilc/senngonowasi.html
17.「ふるさとの岐阜の歴史をさぐる」No.27 (最終閲覧日:12月30日)
https://gifurekisi.web.fc2.com/rekisi/no27.htm
18.太田成和(1980),加納町史 下巻
19,岡村精次,神馬仁太郎(1929),岐阜傘に関する調査研究
20,岐阜和傘の技と美 パンフレット
論文資料
1.卒論要旨
【研究】郡上白山文化における御師の歴史的役割の研究~石徹白地域における御師と現代の観光とのつながり~
1. 問題の所在
地域の文化を学ぼうとする時、その地に祀られている神社や寺院が多くのことを教えてくれる。岐阜県は、全国で一番多く白山神社が存在している。そのために、白山文化を織ることは岐阜県の文化を織ることともいえる。
白山信仰とは、加賀国、 越前国、美濃国 (現 石川県、福井県、岐阜県)にまたがる白山に関わる山岳信仰である。古くから白山は、富士、立山とならび「日本三名山」のひとつに数えられる秀麗な峰であった。また白山から流れ出る豊富な水は四方の川を満たし、それが広く田畑を潤すお蔭で、人々の生活と農事の一切が成り立っていた。このため、古代より白山は「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川、手取川、長良川流域を中心に崇められていた。奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山するようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は修験道として体系化されて、「白山信仰」が成立することとなった。(ウィキペディアより)
しかし、何故白山神社は日本全国に二千七百社も祀られているのであろうか。その陰には、御師(おし)と呼ばれた方々の先人の努力があったと考えられる。御師とは、特定の社寺に所属して、その社寺へ参詣者、信者の為に祈祷、案内をし、参拝・宿泊などの世話をする神職のことである。御師については熊野御師や伊勢御師が有名ではあるが、白山にも御師が存在したと石徹白に残る白山御師檀那場巡回帳等に記録されている。しかし、白山登拝の入り口である三馬場のうち、越前馬場、加賀馬場では詳細な御師の記録は見当たらない。また美濃馬場においても、御師の記録がなくなってきており、このままであれば御師の活動そのものが不明になる寸前である状況である。
そこで、これらの御師の記録資料をデジタルアーカイブするとともに、御師の活動について地域の方のオーラルヒストリー等を作成し、記録資料を分析、その結果として、御師は何を持ってどのように白山信仰を全国に広めていったのか。特に石徹白の白山御師の果たした役割とは何かについて明らかにすることが目的である。また現在における観光とのつながりについても考察する。
2.郡上白山文化と御師の歴史的背景
奈良時代になると我が国古来の山岳信仰に、外来の道教、仏教とくに密教の影響が見られるようになる。白山もその姿から、古くから山岳信仰の霊山として仰がれてきた。白山への禅定道は、加賀・越前・美濃の三方に馬場という白山登拝の拠点が開かれた。美濃禅定道にも、宿とよばれる行場や社がいくつかあり、白山への道は一般信者の登拝道と修験者たちが登る行者道に分かれていたようである。
美濃禅定道の石徹白(いとしろ)は、薬草や護符を配布して白山信仰を広めた御師の集落である。奈良時代に起源をもつ白山信仰の重要な宗教拠点として、かつては村人すべてが神に仕えた「御師の里」である。農閑期に諸国を旅し、白山信仰を全国に広げた御師の働きもあって、美濃馬場は「上り千人、下り千人」と称されるほど隆盛を極めました。
石徹白白山御師の場合、夏は登拝信者の先達として山の案内や宿坊を提供し、年末降雪期から春頃までは檀那場を回った。白山先達の力が衰えた江戸時代になっても、檀那場を一回りしてくると、金50両、米50俵などの寄進があったこともあるという。石徹白地区は雪深い里であり、御師活動による収入は得難い財源であったようである。主に白山薬草、雷除けの護符・牛王札や白山道略図を配布して歩いた。これにはもちろん礼金がともなうので、一巡りすると多くの金品寄進が得られることにつながった。
(1)石徹白地域における白山御師資料について
御師に関する資料は、あまり多くは残っていない。その中で、「白山山麓 石徹白郷シリーズ⑬ いとしろ白山御師資料集」を編集した上村俊邦氏に直接話を伺うことができた。また石徹白に残る白山御師檀那場巡回記録を基に上村氏と全国を訪問した水上氏にも同行いただいた。上村氏は92歳と高齢だが、資料集の内容をひとつひとつ思い出され、当時の様子を語ってくださった。水上氏が鮮明に覚えてみえることから、御師が担った役割や檀那場での歓迎の様子が伺えた。
上村氏が編集された白山御師資料集は、前白山中居神社宮司石徹白秀太郎家に所蔵される「石徹白愛之助の檀那場巡廻帳」を中心に、石徹白清住家の「定礼配札帳」、上杉茂夫家の「作州檀那帳」と白鳥町史に収録されている古記録を加え、記されている。
石徹白御師の活動記録は戦国時代からあらわれるが、特に活発になるのは江戸時代中期からである。御師の役目は、中居神社の維持管理を始め、登山案内はもちろん宿の世話から白山への代参を請けることであり、冬期間は檀那場回りが主要な役目であったようである。白山信仰における石徹白御師について、御師は何を持って、どこを、どのように活躍されていたのか。
石徹白地区は雪深い里である。御師による檀那場巡りは主として年末降雪期から春にかけてであり、白山薬草・雷除けの護符・牛王札や白山道略図を配布して歩いた。これにはもちろん礼金がともなうので、一巡りすると多くの金品寄進が得られたという。御師の里上在所は、中居神社門前集落として栄えた集落であったから、御師活動による収入は得難い財源であったようである。
記録されている御師の巡回奉加資料によると、江戸中期から明治・大正・昭和の初期までの檀那場は、美濃、飛驒(岐阜)、尾張、三河、知多(愛知)、越前(福井)、加賀(石川)、信濃(長野)を始め、甲斐(山梨)、遠江、駿河、伊豆(静岡)、相模(神奈川)、江戸(東京)、上野から、遠くは備前(岡山)にまで及んでいる。
ここまでの広範囲の御師活動が出来た背景等を現存する資料をデジタルアーカイブすることにより、読み解いていきたい。御師が「山と里をつなぐ」役割も担っていたのであれば、今日でも必要な役割と考えられる。
白山信仰や御師について語れる方が、高齢となっておられ、伝承が難しくなってきている。その記録や伝承が途絶える前にデジタルアーカイブを行う必要がある。今回の研究においては、石徹白御師に関して以下のような流れで実施していく。
3.石徹白地域における白山文化遺産について
郡上白山文化遺産デジタルアーカイブから、石徹白地域に関する白山文化遺産を抽出し記録する。また可能であれば現地に行き撮影を行う。まずは石徹白地域における白山信仰の役割や歴史を踏まえる。
① 石徹白地域に残る資料のデジタルアーカイブ
近代における石徹白白山御師の家は5軒あり、可能であれば資料の確認及び撮影を行う。(石徹白彦右衛門家、石徹白愛之助家、杉本家、上杉家、上村家)
御師に関する衣装や持ち物、資料の確認及び撮影を行う。特に檀那場に関する巡廻帳や白山登拝絵図があれば、記録として残したい。※石徹白清住家文書「定札配札帳」
1.白山信仰
白山
白山は、岐阜県、福井県、石川県、富山県の4県にまたがる山で、富士山、立山とともに日本三名山といわれることがあります。白山は主峰を持たない山で、御前(ごぜんが)峰(みね)(2,702メートル)、大汝(おおなんじが)峰(みね)(2,684メートル)、剣ケ峰(けんがみね)(2,677メートル)の3つの峰からなります。ここに別山(べっさん)も含めて、ひろく白山と総称することもあります。古来は「しらやま」と呼ばれていたようです。
白山には貴重な植物が多く、「ハクサンコザクラ」「ハクサンイチゲ」など白山の名前を冠する植物も18種類あります。昭和37年(1962)に白山国立公園に指定されたのに続き、森林生態系保護地域、カモシカ保護地域にも指定されています。国際的にもユネスコの生物圏保存地域に指定されるなど、国際的にも高い評価がされているといえます。
白山信仰のはじまり
一年中雪を頂き、長良川(岐阜県)、九頭竜川(福井県)、手取川(石川県)、庄川(富山県)の水源となる白山は、古来から人びとの崇拝の対象であったと考えられます。
白山信仰は、御前(ごぜんが)峰(みね)には伊弉冉(いざなみの)尊(みこと)(別称・白山(はくさん)妙(みょう)理(り)大菩薩(だいぼさつ)。本地仏は十一面観音で白山妙理大権現ともいう。)、大汝(おおなんじが)峰(みね)には大己(おおなむ)貴(ちの)尊(みこと)(本地仏は阿弥陀如来)、別山には小白山(こはくさん)別山(べっさん)大行事(だいぎょうじ)(本地仏は聖観音)がましますとされる、白山三所(はくさんさんしょ)権現(ごんげん)の考え方を基礎とし、神仏習合の山岳信仰として発展しました。養老元年(717)に、越の国(現在の福井市)の僧・泰澄が白山を開いたことに始まるとされています。※本地仏神は、仏や菩薩が人間を救うために仮の姿で現れたものという考え方に基づき、本来の姿である仏や菩薩のことを本地仏といいます。
馬場と禅定道
白山信仰が確立していく中で、天長9年(832)には、馬場(ばんば)と禅定(ぜんじょう)道(どう)が整えられたとされます。 馬場とは、白山を遥拝する場所のことで、この馬場から白山への登拝路のことを禅定道といいます。美濃の白山本地中宮長滝寺(現・長滝白山神社/長瀧寺、郡上市白鳥町長滝)、越前の白山中宮平泉寺(現・平泉寺白山神社、福井県勝山市)、加賀の白山本宮白山寺(現・白山比咩(しらやまひめ)神社、石川県白山市)の3つの馬場と、この馬場からそれぞれに白山へ登拝する禅定道(美濃禅定道、越前禅定道、加賀禅定道)がありました。
白山信仰の歴史
白山を開いたとされる僧・泰澄が、聖武天皇の病気を平癒したり、伝染病の流行を治めたりしたことで、白山も広く諸国からの崇敬を集めたと伝えられます。 平安時代初期から、天台・真言宗の力が増すとともに、天長5年(828)に長滝寺がいちはやく天台宗比叡山延暦寺の末寺となったことに続き、ほかの馬場が置かれた平泉寺、白山寺も延暦寺の末寺となっていきます。 平安時代中期以降は、山岳修験道の母胎として、諸国から多くの信者が白山へ登拝するとともに、時の権力者たちも信仰を寄せ、白山信仰は隆盛期を迎えます。 鎌倉・室町時代を境に、諸国の政情不安により徐々に白山神の威光は最盛期の力を失ってゆくものの、江戸時代には藩主から寄進を受けるなど、人びとの信仰を集めていました。
しかし、明治元年(1868)に明治政府が出した「神仏判然令」は神仏分離を命じたもので、神仏混淆の白山信仰は大きな影響を受けました。
2.美濃馬場と禅定道
美濃馬場・白山本地中宮長滝寺の歩み
現在の郡上市白鳥町長滝におかれた美濃馬場(ばんば)・白山本地中宮長滝寺は、養老元年(717)に越の国(現在の福井市)の僧・泰澄が白山中宮を創建したことに始まるとされます。その後、天平2年(730)に元正天皇が、本地十一面観音、聖観音、阿弥陀如来の三像を奉納したことから、白山本地中宮長滝寺と称するようになったと伝えられます。
長滝寺は、天長5年(828)に、法相宗から天台宗に改宗し、近国における総本山として勢力を増し、同寺の周辺には「6谷6院360坊」といわれるほどの塔頭や宿坊が立ち並んだと伝えられます。治安元年(1021)には後一条天皇の勅命で国家鎮護の祈祷をし、天台別院という高い格式を得ました。
美濃側からの白山への登拝拠点として、尾張・駿河方面からの登拝者たちを迎えたとされます。また、藤原秀衡が鐘楼を寄進したこと、足利尊氏が祈祷を依頼したことなどが記録されており、その時代の権力者の信仰も集めていたと推測されます。
明治元年(1868)の神仏分離令により、白山本地中宮長滝寺は、神を祀る長滝白山神社と、仏を祀る長瀧寺の2つに分離されました。 明治32年(1899)には、濃州第一とうたわれた社殿仏閣は灰燼に帰しましたが、国指定重要文化財の釈迦三尊像などかつての白山信仰の栄華を伝える宝物等が今に伝えられ、一部は龍宝殿や白山文化博物館で公開されています。
美濃禅定道
馬場(ばんば)から白山への登拝路のことを禅定(ぜんじょう)道(どう)といいますが、美濃馬場を起点にする禅定道を美濃禅定道といいます。 美濃禅定道は、白山本地中宮長滝寺を起点に、床並とこなみ社、桧峠を越え、白山中居神社へ。その後、美女下社、今冷泉いましみず社、石徹白大スギ、神(かん)鳩(ばと)社から銚子ケ峰、一ノ峰、ニノ峰、三ノ峰、南竜ケ馬場、別山を経て白山へ至る道のことで、一般の登拝者が登った道だと伝えられます。
行者(山伏や修験者たち)が通った行者道は、白山本地中宮長滝寺から、一ノ宿、二ノ宿、三ノ宿、多和宿、国坂、泉ノ宿、中須、大日宿、カウハシを経て神鳩宿で禅定道と合流しました。 美濃禅定道は、3つの禅定道の中で最も登拝者が多かった道だとされます。
その盛況さを示す言葉として「のぼり千人、くだり千人、ふもと千人」があります。史料からは、実際の登拝者はもっと少なかったと推測されますが、この道が、美濃・尾張方面からの多くの登拝者たちで賑わったことを思い起こさせます。
白山信仰の衰退とともに、美濃禅定道も荒廃しましたが、一部が復元されています。
3.石徹白と白山信仰
石徹白
石(い)徹(と)白(しろ)地区は、郡上市白鳥町に位置し、白山連峰に源を発した石(い)徹(と)白川(しろがわ)に沿った集落です。人口は316人(平成17年度国勢調査)、地区内は、上在所(かみざいしょ)、西在所(にしざいしょ)、中在所(なかざいしょ)、下在所(しもざいしょ)の4地域にわかれ、いずれも標高約700メートル以上の高地にあります。 石徹白という地名の由来は、「いしどうしろ」から転じて「いとしろ」となったとする説など、諸説あります。
地区内の寺社は、白山(はくさん)中居(ちゅうきょ)神社(じんじゃ)、安養寺(あんにょうじ)道場、白鳥山威徳寺(いとくじ)、雷鳥山円周寺(えんしゅうじ)です。地区内の文化財は、国指定特別天然記念物「石徹白の大スギ」、国指定重要文化財「銅像虚空像(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)坐像(ざぞう)」、県指定重要文化財「白山中居神社の彫刻」県指定天然記念物「浄安(じょうあん)スギ」のほか、県指定文化財7件、市指定文化財8件があります。
石徹白地区の歴史
石徹白地区からは、縄文式土器や石器類が発掘されており、古くからから人びとが生活をしていたものと推測されます。 養老元年(717)に僧・泰(たい)澄(ちょう)が白山を開いた際に、石徹白地区の白山中居神社の社域を拡張し、社殿を修復したと伝えられます。
石徹白地区は、全域が、この白山中居神社の神領でした。人びとは、社家・社人と呼ばれ、それぞれに白山中居神社と関わりあいながら暮らしました。神領ということから、無税(税金が免除)で、名字を名乗ること、帯刀を指すことが許されていました。
また、無主(むしゅ)無従(むじゅう)で、いわゆる大名領になったことはほとんどありません。石徹白地区の主要な出来事は、オトナ(頭社人)と呼ばれる12人の人びとの合議によって決められました。 このような石徹白地区で、江戸時代中期の宝暦年間には、真宗道場威徳寺の昇格を発端とし、白山中居神社の神職間の対立関係が原因の「石徹白騒動」が、明治初年には新政府の神仏分離令に端を発する神仏分離騒動が、そして昭和30年代初期には越県合併問題という、石徹白地区内を2分するような騒動が3度起きています。
社家・社人
石徹白地区の中でも、白山中居神社がある上在所(かみざいしょ)の人は社家(しゃけ)とよばれ、そのほかの在所の人びとは社人(しゃじん)といわれました。また、小谷堂(こたんどう)・三面(さつら)集落の人びとは、末社人と呼ばれました。 社家は、神に仕えることを本職とし、神頭、神主、幣司、神楽司等として、白山中居神社の神事・祭礼をつかさどりました。 社人は、平常は百姓をしていながら、白山中居神社の祭事のときに奉仕した人びとのことで、同社の維持管理を担いました。
社家・社人たちの暮らしと白山信仰
「木山三里、笹山三里、はげ山三里」といわれた白山への長い禅定道では、登拝者たちに先達(案内人)は欠かせないものでした。行者(ぎょうじゃ)(修験者・山伏等)以外の登拝者たちは、石徹白地区で1泊した後、銚子ケ峰、別山を経て白山を目指したとされます。
こうした登拝者たちの宿坊を営み、祈祷をし、登拝者たちの案内人をしたのが御師(おし)と呼ばれる人びとです。冬場は、白山神の羽織袴に帯刀を指し、雷除けの護符に牛王札、白山の薬草、白山略図を持って、各地の檀那場を回り、白山信仰を広めました。檀那場を一回りすると金50両・米50俵などの寄進があったともいわれます。
御師は、上在所の社家がなりました。社家は、神に仕えることを本職としたので、御師としての収入が、生活の支えでした。 一方で、平常は百姓として田畑を耕作していた社人たちは、石徹白地区が白山中居神社の神領として無税であったことから、収穫物は全て自分のものとなりました。 社家は、御師として、社人は、神領ゆえ無税という恩恵を受けながら、白山信仰の中で生活をしていました。
4.石徹白を2分する騒動 ~ 石徹白騒動と神仏分離騒動 ~
石徹白騒動
江戸時代の半ば、宝暦年間に、石徹白地区では「石徹白騒動」と呼ばれる事件が起きました。 騒動の発端は、宝暦2年(1752)に、真宗高山照(しょう)蓮寺(れんじ)の道場・威徳寺(いとくじ)の6代目看坊・恵(え)俊(しゅん)が、本山に対し、高山照蓮寺の掛所(かけしょ)への昇格を願い出たことにあります。恵俊は、石徹白の人びとは全て異存がないと偽りを言い、昇格を願い出ました。
ところが、恵俊の偽りを見破った白山中居神社の神主・石(い)徹(と)白(しろ)豊前(ぶぜん)は、京都へ向かい、本山に対しては強烈な抗議を申し入れ、神道の本家・吉田家に対しては、吉田家の力でもって郡上藩寺社奉行に、恵俊の偽りを吟味するよう指図してほしいと頼みました。
石徹白豊前の願いは聞き届けられ、郡上藩寺社奉行からは、神道の本家・吉田家の厳命によるものだとして、「今後は何事によらず石徹白豊前に従うように」との命令書をもらいます。しかし、石徹白の人びとは、我々は神道の本家・白川家の門弟であるとし、吉田家の命令には従えないと拒否します。結果、こう着状態となり、この一件は棚上げにされました。
宝暦4年(1754)になると、石徹白豊前は、再び京都の吉田家を訪れます。このとき、吉田家から「吉田家の命令に従わないものは神職を免ずる」という一筆をもらいます。石徹白豊前は、これを「吉田家の命令に従わないものは追放する」と拡大解釈し、横暴な行動に出るようになります。 まず、先の恵俊の一件のときに自分の悪口を言い恥をかかせた治郎兵衛を、吉田家の命令だというだけで追放・欠所にします。また、「自分の支配を受けるように、従わない場合は神職を取り上げ百姓にする」と石徹白の人びとを脅迫します。一方で、石徹白豊前は、白山中居神社の用材を伐り出す造営山や、他人の持山にまで手を伸ばし、勝手に伐木するようになりました。
石徹白豊前の横暴に堪りかねた石徹白の人びとは、郡上藩寺社奉行へ訴え出ますが、とりあってもらえなかったため、江戸の寺社奉行へ越訴します。しかし江戸の寺社奉行も、郡上藩主と親戚であったため、内密に処理されました。訴え出た人びとは、手錠をかけられ、後に追放処分されます。 郡上藩寺社奉行は、石徹白の人びとに対し、いまいちど「石徹白豊前の命令にしたがうように」と迫ります。拒否した老幼男女500余人は、欠所の上、飛騨・白川村への追放処分にされます。この中には、降る雪の中を着の身着のまま、素足で追い出された者もいました。路頭に迷い情けにすがるしかない中で、72名の餓死者が出ました。 当時の石徹白の約2/3の人びとがいなくなった石徹白では、石徹白豊前の横暴はますますひどくなったといわれます。 宝暦6年(1756)、追放された石徹白の人びとが連絡を取り合い、再度、江戸への訴訟を計画します。老中が登城するのを待ち構え、籠にむかって訴えました。訴状は受理され、江戸の寺社奉行の元で吟味が始まったものの、遅々として進みません。たまりかね、江戸の寺社奉行へ訴訟するものの、事態は変わりません。 宝暦8年(1757)には、目安箱への箱訴を決行します。3度目の箱訴でようやく取り上げられ、幕府評定所の吟味が始まります。 同年12月には判決が申し渡されます。郡上藩主・金森家は、同じ頃に起きた宝暦騒動(郡上一揆)と本騒動の責任を問われ、領地没収、断絶処分にされました。
郡上藩寺社奉行は死刑相当とされました(牢内で病死)。石徹白豊前も同じく死刑を言い渡されました。一方で、籠訴や箱訴を行なった人びとへは、ほとんど無罪に近い軽い処分だけで済みました。 こうして石徹白騒動は決着をみます。江戸時代には、多くの民衆運動が起きましたが、神職が深く関わった騒動は、白山中居神社の神領であった石徹白地区ならではの特徴です。
明治の神仏分離騒動
明治元年(1868)、明治政府が神仏分離令を出しました。白山信仰は神仏混淆(こんこう)であり、石徹白地区の人びとは社家・社人として、神と仏の両方を自然に尊び生活をしてきたので、大きな混乱をもたらしました。 石徹白地区は、「石徹白騒動」の起きた江戸時代中期あたりまでは、社家・社人とも神道一色の地域でした。しかし、いつからか真宗信者も増え、社人であっても仏教の形式による葬儀を行うものが多くなりました。
社家たちは、明治2年(1869)、いちはやく白山中居神社の神職であることを政府に求め、翌年にかけて、この地域は神地であり、住民は社家・社人のみで百姓は1人もおらず、神(しん)葬祭(そうさい)を行なう地域である、また無税の特典を引き続き与えられ神事に専念させてもらいたい、という運動を展開します。これが成功すれば、石徹白地区全域は今までのように白山中居神社の神領で、社家・社人の自治体制が維持できると考えた社家は、社人でありながら仏教徒である門徒社人たちに対し、「社家・社人たるものは神葬祭によるべし」との指令をだします。 社家は、また、白山中居神社が古来から純粋な神社であると政府に認めさせるため、白山中居神社の社殿内から仏体、仏具などを取り出し、ひそかに処分しました。
こうしたことに大いに憤慨した門徒社人たちは、泰(たい)澄(ちょう)大師以来の信仰があるから白山中居神社への奉仕は続ける、しかし、神葬祭は社家だけに限り、門徒社人へは今まで通りの仏教を認めてもらいたい、という運動を起こすことになりました。しかし、門徒社人が頼りとした本山(本願寺)も、神道国教策をとる明治政府への対応に腐心し、門徒社人たちの訴えに応ずる余裕はありませんでした。
明治3年(1870)、門徒社人たちは郡上役所へ数回に亘って訴えました。神仏分離はもっともなことであるから、以後は、われわれは社人ではなく百姓の身分になる、という内容のものでした。従来まで白山中居神社の神領としての無税の特権を失うことでしたが、それも覚悟の上だったようです。
この願いに対し、政府も、「社人希望のものは社人に、帰農をのぞむものは帰農を許可する。今後は社人と百姓を区別せよ。また、上在所は清浄の地であるから仏堂、仏具などは取り除き、仏体、仏具は帰農するものへ渡せ。土地も明確に区分せよ。」と命じました。
明治4年(1871)、帰農した社人たちは、ようやく社家から渡された仏体(釈迦如来、薬師如来、虚空像菩薩、泰澄坐像など)や鰐口などを、中在所に観音堂を営み、納めました。現在、大師堂と通称されるお堂で、虚空像菩薩は後に、国指定重要文化財に指定された銅造虚空像菩薩坐像です。
5.越県合併といまの石徹白
越県合併
昭和28年(1953)、町村合併促進法が制定され、全国で町村合併が進みました。福井県大野郡に属していた石徹白村は、独立村を目指すものの認められず、同郡上穴馬村・下穴馬村との合併協議も不調に終ったので、岐阜県郡上郡白鳥町との越県合併が協議されました。 石徹白村内では賛成派と反対派にわかれ協議が行なわれた結果、昭和31年(1956)、白鳥町と石徹白村の両町村合同会議において、満場一致で両町村合併が議決されました。
しかし、この後も、賛成派と反対派の対立は続き、両県の職員や県会議員等を巻き込んでの活発な運動が展開されました。あくまで石徹白村の越県合併に反対する福井県は、合併の法定期日を過ぎても合併議決を行なわなかったため、内閣総理大臣の裁定を受けることとなりました。 昭和33年(1958)3月、新市町村建設中央審議会小委員会が、総理大臣あてに、石徹白の越県合併を認める答申を出します。そして9月になりようやく、石徹白村を白鳥町へ編入する処分が総理大臣によりなされます。 こうして5年の歳月を経て、石徹白村と白鳥町の越県合併は実現し、10月15日新しい白鳥町が誕生しました。
※ 合併前の石徹白村の内、上在所・西在所・中在所・下在所集落は白鳥町と合併、小谷堂(こたんどう)・三面(さつら)集落は上穴馬・下穴馬と合併しました。
いまの石徹白
「岐阜県郡上市白鳥町石徹白」、これが現在の石徹白地区の地名です。平成16年3月1日に、郡上郡7町村が合併し、郡上市が誕生しました。石徹白地区は、半世紀の間に2度の合併を経験していることになります。 そんないまの石徹白地区については、渓流釣りやスキー場、スイートコーンやほうれん草、あるいは、国指定特別天然記念物・石徹白大スギ等に代表される豊かな自然のイメージを持たれる方が多いのではないでしょうか。
しかし、石徹白地区内を縦断する県道に沿い、上在所へ入る手前に、しめ縄が飾られています。これは、しめ縄以北の上在所は、神道の地域であるという印で、明治の神仏分離令以降、飾られるようになったものです。また、地区内には、白山を開いたとされる僧・泰澄にちなむ伝承が残る場所が、たくさんあります。
石徹白地区は長い歳月を、白山信仰と共にありました。ですから、石徹白地区の歴史や生活文化、年中行事等は、白山信仰の影響を受けながら作られ、変化し、現在の形になっているものと考えられます。こうした、白山信仰との関係の中で培われた石徹白地区の歴史や文化を「白山文化遺産」と位置づけ、市では平成17年度に調査を実施しました。その調査結果の概要は、次のコーナーのとおりです。スキー場やスイートコーンだけではない、別の石徹白地区の魅力が見えくることと思います。
② 石徹白御師の家「清住家」資料のデジタルアーカイブ
清住家に残る御師に関する衣装や持ち物、資料の確認及び撮影を行う。特に檀那場に関する巡廻帳や白山登拝絵図があれば、記録として残したい。また御師の子孫である石徹白氏に話を伺えるとなお良い。※石徹白清住家文書「定札配札帳」
③ 石徹白地区に残る資料のデジタルアーカイブ
近代における石徹白白山御師の家は5軒あり、可能であれば資料の確認及び撮影を行う。(石徹白彦右衛門家、石徹白愛之助家、杉本家、上杉家、上村家)
※各家に残る個別の檀那場諸祈願巡廻帳等
④昔と今の石徹白
石徹白の歴史的建造物・まちなみ調査結果
資料集
石徹白の四季
春
秋
冬
新年から春
昔の石徹白
4.御師のオーラルヒストリーからみる役割について
1. いとしろ白山御師白山資料集
実際に御師に関する資料は、あまり多くは残っていない。その中で「白山山麓石徹白郷シリーズ⑬いとしろ白山御師資料集」を編集した上村俊邦氏に直接話を伺うことができた。その際には、石徹白に残る白山御師檀那場巡回記録を基に上村氏と全国を訪問した水上氏にも同行いただいた。
上村氏は92歳と高齢だが、資料集の内容をひとつひとつ思い出され、当時の様子を語ってくださった。また水上氏が鮮明に覚えてみえることから、御師が担った役割や檀那場での歓迎の様子が伺えた。「たくさんのお札を残していて話も聞けた。まるで御師が訪ねてきたような気がすると言われ歓迎された」と振り返ってみえた。
上村氏が編集された白山御師資料集は、前白山中居神社宮司石徹白秀太郎家に所蔵される「石徹白愛之助の檀那場巡廻帳」を中心に、石徹白清住家の「定礼配札帳」、上杉茂夫家の「作州檀那帳」と白鳥町史に収録されている古記録を加え、記されている。石徹白御師の活動記録は戦国時代からあらわれるが、特に活発になるのは江戸時代中期からである。御師の役目は、中居神社の維持管理を始め、登山案内はもちろん宿の世話から白山への代参を請けることであり、冬期間は檀那場回りが主要な役目であったようである。記録されている御師の巡回奉加資料によると、江戸中期から明治・大正・昭和の初期までの檀那場は、美濃、飛驒(岐阜)、尾張、三河、知多(愛知)、越前(福井)、加賀(石川)、信濃(長野)を始め、甲斐(山梨)、遠江、駿河、伊豆(静岡)、相模(神奈川)、江戸(東京)、上野、遠くは備前(岡山)にまで及んでいる。
福井新聞 2017年12月30日より抜粋
岐阜県郡上市の山間部にあり、半世紀前に福井県から越県合併した旧石徹白(いとしろ)村で白山信仰を全国各地に広めることに尽力した「御師(おし)」たちの活動を知ってもらおうと、石徹白郷土史研究家の上村俊邦さん(86)=岐阜県郡上市=が、「いとしろ白山御師資料集」をまとめた。御師が残した古文書を現代語に読み解いた書き起こし文、自ら足跡をたどった紀行文で構成。泰澄大師による白山開山1300年の節目に発刊し、上村さんは「石徹白御師が白山信仰をどのように全国に広めたかを知り、果たした役割を考えてもらえればうれしい」としている。
石徹白は、白山への登拝ルートである三禅定道(ぜんじょうどう)のうち「美濃禅定道」の要衝で、白山中居(ちゅうきょ)神社が残る。御師の活動は泰澄の開山以前から白山が信仰の対象だった時代までさかのぼるとの説もあるが、記録は戦国時代から残り、江戸時代中期に最盛期を迎えたという。
御師は春から夏にかけて、神社の管理や、参拝者の宿泊の世話、道案内などを行い、冬の間は全国に白山信仰を広めた。信仰が浸透すると、雪解けまで信者が多い集落「檀那場(だんなば)」を巡回し、白山麓の薬草や雷よけの護符、登拝案内図である白山道略図を配布して礼金を持ち帰った。
1958(昭和33)年に大部分が岐阜県白鳥町に合併するまで福井県の自治体だった元石徹白村役場職員の上村さんは、80年近く前の幼少期に御師が春先に巡回から集落に戻ってくる様子を見ていたことなどから、関心を持っていたという。
資料集は元白山中居神社宮司宅に残っていた明治時代の「檀那場巡廻帳」を中心に江戸や大正時代のものを現代語に書き直した。御師が訪問した檀那場の名称のほか、「白山御祈祷之札(ごきとうのふだ)」の頒布といった巡回目的、各地で受け取った寄付金や経費も記されている。檀那場は東京や神奈川から岡山まで広範囲に及び、石川や福井も巡回していたことが分かった。
紀行文は、2011年~15年にかけ静岡や愛知、奈良、岡山など御師の足跡を上村さんがたどった記録。長野では「たくさんのお札を残していて話も聞けた。まるで御師が訪ねてきたような気がする、と言われ歓迎された」と振り返る。節目の年に発刊し「福井でも御師を知ってもらえれば」と話している。資料集は郡上市図書館や白山文化博物館に寄贈した。
① 上村氏のオーラルヒストリー
1.動画資料
2.文字資料
② 水上氏オーラルヒストリー
檀那場を探訪された水上氏のオーラルヒストリー
平成23年から27年までの4年間に上村氏と水上氏は、檀那場を現地調査する等全国各地を探訪された。その場所毎に関係者に会って話を聞いたという。
そこで一緒に探訪された水上氏に協力いただきながら、オーラルヒストリーを行い、御師の果たした役割等を聞く。
1.動画資料
2.文字資料
私は、水上精栄(みずかみせいえい)と申します。生まれは、昭和30年4月7日です。今は、68歳になります。ここの少し下の実家で生まれました。高鷲町鮎走古屋(あゆばしりふるや)というところです。それで小学校、中学校は、高鷲村で過ごしました。そして、高校へは、八幡町の郡上高校へ3年間行きました。それから、各務原市の岐阜大学の工学部に就職し、同時に大学へも通いました。たまたま、職場が研究室だったものですから、工学部の土木工学科の研究室で、交通工学や河川工学の部屋におりました。最終的には、河川工学の研究室にお世話になりながら。一応、職員でしたので。もう一つの組織が、今は「ものづくりセンター」という名称になっています。そこと同時に研究室の仕事をしていました。
それで各務原の時は5年間、そのあとは岐阜市の折立の方へ、本部と工学部、農学部が移動しました。今は折立で、総合大学にてやっておりますが、そこでずっと定年までおりました。結婚して、家族は今も岐阜市におります。私は定年後に、こちらに引っ越して、親の土地、休耕田をもらいました。実家にしばらく住んでいたのですが、出ないといけなくなり、住むには、ここはちょうど僕にはいいなぁと思って。ちょうど田んぼが7つぐらいありました。ユンボを買って、整備してビオトープを作りたかったので、7つくらいの池を作って、そこに蛍とか、トンボとか、魚とか飼ったり、昆虫とかを眺めながら、余生を過ごそうというつもりで。楽しく過ごせるか分かりませんが、私なりには楽しく過ごそうと思って。
ここに小さなログハウスを建てて、今年で8年目になります。高鷲に来た時は、色々高鷲のことが分からないので。歳が若い人たちが住んでみえるし。高鷲の郷土を知りたい、何か色々なことをやってみたいという地域貢献になれば、やりがいがあるなと。始めにドローンの会社を仲間たちと作ってやりまして、ドローンの教室で働いたりもしました。ドローンの資格も取って、少しは撮ったりもしました。今は休んでいて、また始めたいとは思っています。それを2年間ぐらいやって、その後やめました。その後、農水省の農泊の補助金を2年間もらって、それも農山間地域の宿泊をしたり、滞在型宿泊施設を計画するのですが。あと文化とか歴史を、郷土料理を見てもらったり、そういうのに関わりながら、農泊を始めたんですが、それは2年で終わりました。今は、若い人に「たかすのす」というので、引き継いでいるので、非常にありがたいなと思っています。
その後は、今は高鷲の文化財保護協会というところに入って、そういう高鷲の文化財を勉強したり、守ったりしています。たまたま、県の文化財保護協会の遵守員になったので、高鷲の文化財保護協会の遵守をしたり、報告書を書いたりしています。それに、関わったり。それと同時に、岐阜市にいる時から、もうひとつ文化と自然に関することをやりたかった。高鷲自然文化研究会というのを、先生達と立ち上げて高鷲のシンポジウムを5年くらい続け、報告書を2回くらい書いて、今は休んでいる状態です。今は、代表ということでやっています。
以上のように、楽しみながらやっていますけれども、今日のテーマは「白山信仰」の関係ですから。以前から、白山信仰には興味がありまして、定年になったら、白山信仰の勉強をしたいということで50代の頃からやりたいなと。白鳥に住んでいる上村俊邦先生のところへ、勉強しに行っていろいろ本を見せていただいたりしながら。御師の話や活躍についても聞きました。全国に御師が白山信仰を広めたり、そういう話をしながら。そうなると是非、現地にも行ってみたいなという話にもなりまして。それで定年前から、御師の里巡りをしたり、富士山、白山、立山の三霊山巡りの旅を楽しみながらしてきました。そんなに、詳しくは調べられてなく、ほとんど遊びながらですので体験して感じてくるという旅をしました。
あと四国の八十八箇所巡りを車でやりました。それは、結構秘仏集合の里や白山神社も調べながら、楽しんできました。そんなような人生を送っていますので遊び人と言われています。
-そもそも、白山御師ってなんですか?
白山御師ですか。なんですかと言われると、皆さんご存知でしょうが、要するに信仰の地域ですね、山岳信仰の地、ここだと白山の神様が、石徹白にそこから白山に行くんですけれど、そういう人の手助けをする人とか。あと御師というのは、祈祷師、御祈祷師とも呼ばれているらしいので、御師を兼ねて、祈祷師が御師になったり、修験者が御師になったりもしていると思うのです。そういう白山信仰を広める人ですかね。白山信仰の行事を自分で行って信仰を広めたり、先達と言いますか、白山へ案内をしたりとか色々なことをやられたんだと思うのです。それを石徹白では、専業と言いますか、現金収入になって続けてこられたところだと思うのですが。そんなところですかね。
-御師は何年頃から、いつぐらいまで活動してらっしゃったのでしょう?
どうなんですかね。江戸時代中期ぐらいから、盛んに出ていたと思うんですけど。祈祷師ですと、そういう山岳信仰が始まる頃からいましたので、もっと前からの始まりだと思うんですけども。そんなところで。あまり詳しくは勉強しておりませんので、その程度で。今、結構そういうことを調べようと思うと、インターネットでね、ウィキペディアで見れば一般的なことはわかるので、あまり頭には入れずに。必要な時は見ながら。今、さらにチャットGPTで調べれば、全部文章を作ってくれる時代なので。すごい時代です。それで勉強できると思うんですけど。
-上村俊邦さんを訪ねられて、ご一緒にまわろうと思われた経緯は?
私自身は、こちらの美濃の白山文化のルーツを知りたいという希望があり、人生のテーマにしたいということなので、そういう話をしました。基本的には、私は上村先生の弟子になって、観光しながら。上村さんも、結構旅行が好きみたいで。なんとか費用を捻出しながら、私は。私が車を運転して、観光がてら、そういうことをやりましょうということになって、やったんですけどね。結構、旅館で食べる食事ですとか、お酒も、上村先生は好きですので、楽しかった思い出があります。そういう地域の人と色々会話するのも大事なんですけれど、なかなか人がいないので。ちょっとそこら辺が伺えないところもあったのですが。これがちょっと残念。 時間があまりゆっくり調査できるような旅ではなかったので、でも楽しかったという思い出です。
-事前に次はどこの檀那場に行こうとか、打ち合わせされてアポ取ったりされたんですか?
それは、上村先生が全部そういうのを調べられているので、僕には言わずに。私は、後からまた勉強しようという気があったので。とにかく付いて楽しく行くために、全部はいはい と言って、付いて、運転しながら。一応、足跡は全部地図に残してありますので、後から調べたりもできますし。写真もたくさん撮りました。そういうのを残したので。その程度の旅ですけれど。
-何カ所か訪問されて共通するところとか、感じることはありましたか?
御師の共通点とか。基本的には山岳文化ですので。結構、山奥まで信仰が広がって。白山神社は、山奥にあったり。四国の剣山にも、たくさん白山神社があって、ずっと上に上がっていくところに白山神社があって。探すのにも、夜までかかって写真を撮ってきた覚えもあります。
山が中心なんですけど、結構東海一円に山の御師手帖があったりして。静岡県も多いし、長野県にも多いですし。そういうところに行きました。平地部にもあるんですよね。滋賀県藤原市とか。静岡県も静岡市の中でも平地部に白山神社が多いですよね。それは、たぶん自然に広がっている可能性もあります。なかなかそういうところは、色んな神社が競合しているから。そんなには、行ってないと思うんですけど。山岳部の本当に奥深い山奥の信仰になっているなと。興味深いなと思っています。
-木地師の話も出ていませんでしたか?
木地師はね、滋賀県の東近江市の蛭谷というところが木地師発祥の地で、そこの惟喬親王が基でそこから木地師が発祥して、全国へ動き、広がっています。木地師も山岳系なので、高鷲なんかも木地師の伝承が残っていますけど。まぁ、郡上全体に残っています。
木地師が、郡上の方にも記録が残っていたりして、それで重複しますよね、白山御師が辿った道と。結構つながりがあって、木地師の家に行ったのですが、喜んで対応してくれて。仲間というかそういう意識があったんじゃないかと思います。そういう情報をお互いに取り合いながら、行われたんではないかと思われますけど。
-目的を現地に行かれた時お伝えすると、皆さん好意的に対応くださったんですか?
そうです。皆さん喜んでくれて。本当に、結構話をしてくれましたね。それで白山のお札、御寶印かな、まだ持っているお宅もあったりして。愛知県の奥三河の方だったかな。ちょっと感動したといいますか。それだけじゃなくてそういう色んなお札を持っているんですが。神仏習合ですから。その中に白山の札をちゃんと持ってみえたということもありましたし。興味深かったというか、そういうことですね。
-岡山も行かれていますよね?東海地区が多いですが、岡山にも。
岡山の作州、今ちょっと出てこないですが、美濃との関係があって。津山市に美濃町というのが残っていて。そういう、戦国時代かな、森家が城主になっているのかな。そういう関係なんだと思うんですけど。知り合いというか、つながりもあって行ったりしたのかもしれないですね。詳しいことはわからないですが。そういう人を訪ねて御師が出かけたんですかね。資料館の学芸員の人に話を聞いたんですかね。資料をくださった記憶は、あるんですけど。
もうひとつ津山出身の、私のボスが津山あたりの出身なのであそこは美濃を作ると書いてなんて読むんでしたかね。美作(みさく)というまちがあって。余談かもしれませんが、そういうところもつながりがあるので興味があります。
白山は戦いの神ではないと思うんです。私は、平和の神だと思ってるんですけど。侍の人達が白山神社をもっていったことがあったようで。由緒にもそういうことが書いてあったりもしましたので、そういう風に広がったのでそこに行ったとか。御師の人達が行けるところは、色んなところへ行って、白山信仰を広めた誇り高い人達じゃないかと思うんです。
白山信仰は、全国で有名というか立派な信仰です。白山神社の宮司の若宮多聞さんが、石川県の講演会の時に、「白山信仰は日本一だ」と言われて、驚いたというか。やっぱりそれくらい若宮さんも思っているのかと。そういうことをやっている人とか、御師の人達は誇り高い、誇りを持っています。僕も白山は素晴らしいと思っているので。白山信仰はいいなと思いますね。
-どこか訪問された時、薬というか歯の痛みの話がある場所があったのでは?
歯の神様と書いているところもありましたし。高鷲にも合戸に泰澄が作った祠で、歯の神様って残ったりしていますね。白山の神様は色んな神様になっている。病気の神様はあまり聞かないんですけど。当然、水分神の神様なので水の神様だし、山の神様だし、農業の神様ですね。東北なんか行くと要するに黒航海の神様。北前船とかそういうところに港の神社があったりして。神様として航海祀られているし。漁業の神様にもなっていたりしているので。
そういうことが行くとわかる。そのために行かないと本当の地域の信仰がわからないと思います。白山信仰はなぜ広まったのかという、それを調べたいというか、そういう気持ちになったので。
-石川、福井、岐阜は当然白山神社が多いんですけれど新潟とかも多いですよね?
新潟は多いですよ。あまり僕、本は読まないので読めばわかるかもしれない。ただ新潟は米どころだから、たぶん農業の神様として広がったんじゃないかと私は思うんですけれど。ちょっと調べてないので。新潟の一番中心に白山神社がありますよね。
-燕市は行かれたんでしたか?
燕市は通ったかな。ずっと北陸を通って能生というまちだったかな。茅葺きで立派な白山神社があって。歴史があって結構有名らしいんですけどね。そういうところにも行きました。
-水上さんが何年かかけてまわられて、一番印象に残っていることやこれはしまったというようなお話はないですか?
佐渡島にも結構白山神社があって、12とかありましたかね。港に白山神社があって。それで船の白山丸という名前がついていて、大きな船が作ってありましたね。白山信仰の関係だと思うんですけど。そこは詳しく調べないとわからないですが。そういう白山丸という船まで作って今は祭りに出ているとか。当時は、栄えた港で興味深かったですね。
あとは四国で一番南の高知、半島は足摺岬。そこに白山洞という白山神社が祀られてて。白山洞門は海の波で削られていて洞があって、その上に白山神社が祀られていて。里には、しっかりした白山神社があり、そこには弘法大師が開いたって言うことが書いてありましたね。弘法大師も白山信仰を受け入れていたのかなと。どうやってあんな遠いところに神様を運んできたというか。まぁ色んな修験僧が広げたりとあるので。弘法大師が作りましょうと言って、修験者と一緒にやったのか、色々勝手に想像はします。想像をするのは楽しいですから。
-修験者の方と御師の関係やつながり、またどう違うのかがわかっていないので教えてほしい。
僕もあんまり勉強はしていないので。そういうことを勉強しようと思って、修験学会に入ったりしています。御師は地元の人が、白山の道とかよく知っている人が多いのかもしれない。修験者が、住み着いて御師になったりすることもあるかもしれない。修験者というのは真面目にそういう能力を修行して身につける人や、若い頃から弘法大師さんみたいにやっている人もいるし。泰澄も白山修験と言われています。色んな関係で行っているんですけど。
結構落人みたいな人が逃げ込んで、そこには侍もいるし、京都から来た貴族的な人もいる。戦に負けて、山奥に入って修行してそういう色んなものを身につけて有名な修験者になったということがあったり。そういう人が多いんじゃないかと思うんですけど。よくわかりませんね、こういうことは書いてない気がしますね、想像する訳です。
-行かれていた時も山岳修験学会に出席されてと残っていましたが、今も行かれているんですよね?
今も行っていますよ。去年は飯田市で修験学会があって。すべて聞いてられないので、興味がある講演会や発表は参加して。最後に、現地は修験の人達が多いので、登山が得意な人達ばかりで山へ登ったり、修験のお寺を見学したりできて、面白い。全国に行きますし、また街の中ではやらない、修験の場でやるので楽しい。あとは色々交流できますし。専門はなかなか難しい話はできないんですけど、勉強になりますし。高橋教雄先生に今も入ってもらっているんです、私から誘って。市民学会では、やっぱり美濃とか郡上が知られてなくて。白山信仰というと、どうしても加賀の白山信仰になっちゃうので。越前も歴史はあるのにあまり弱い。全部加賀白山になってしまうものですから、そういう悔しさもあって。高橋先生と僕で一緒に発表して。やっぱり、全国に認められないと研究者にね、弱いという。
高橋先生に感化いただいて、僕も研究は出来ていないんですけど、一杯白山のことを発表しました。そういう中で、色々九州の研究者の人とか、九州に別山大行事がたくさんあるんですよね。ちょっと不思議なんですが。別山大行事は別山の神様なので。なんで九州にあるのかということが話題になって、その先生が郡上へ下見に来たこともあったりして。未だにそれはよくわからないんですけど。不思議なことが結構ね、面白いというかロマンがあったりしていますけど。そういう全国を調べないと物足りないといいますか。中だけでやっているとちょっと弱い。
-水上さんは、白山信仰をライフテーマにされていますがやっぱり広めていきたいという想いでしょうか?
そうですね、自分の文化ですから。高鷲も白山文化の里だと思っているし。泰澄大師が、鮎走の白山神社に来て、何日間か泊まられて、大日に登ったという記録があったり。高鷲の地名は泰澄大師がつけたという、ひるがのとか切立とか。そういう伝承が残っているので、一番身近なところでもありますし。私の地域の白山神社の由緒にそういうことが書いてある。非常に興味を持つには一番良い。そういうことをやられていればいいんだけどなかなかやられていないので。今ほっておくと消えていくという、そういう状況があるんで。誰かやってくれたらいいんですけど、なかなかそういうことが成されないものですから、なんとか関わって少しでも遺せればいいかなという気持ちもある。
-100年先も白山信仰が残って伝わると良いですか?
そうですね。今の時代はよくわからない、ここまで来ると。AIの時代になると、ちょっと難しいかもしれない。白山信仰の神仏習合の神様も仏様を受け入れるという。受け入れるという文化は大事ですし。多様性を受け入れるという文化です。戦争が起きないという考えにもつながるので、白山信仰は、私は平和の神だと思う。あと神仏、要するに多様性を受け入れる神様である。これが大事なんじゃないかと思う。
-今の時代にもいいですね。
よろしい。世界で受け入れられるというか、それが遺せれると。この岐阜県から、発信できるといいし。白山として、白山信仰の地域として石川県、福井県、岐阜県、富山あたりと。私が別にやることではないかもしれないけど、そういう想いだけはしている。
-高鷲も色々あると思いますが、石徹白の白山御師がそんなに活躍していた背景はどうだったんでしょう?
石徹白の人に聞けば一番いいかもしれないが。石徹白って特殊なところなんでしょうね。歴史的に言うと勝山の平泉寺が発祥で、越前の国だったからね、石徹白は。泰澄大師が白山を登る時に、たぶん勝山だと白山が見えないからね。直接白山に登る道がわからない、当時は。九頭竜川を上っていってそういう説が当然あるんですけど、石徹白まで来ている。源流ですよね。九頭竜川の源流は石徹白ですので。そこへ来て、それで集落があって、そこから白山を目指しているという。それで石徹白は中居神社、勝山の白山神社に対して中間にあるというそういう説ですね、それは僕も理解できるので、そういう歴史があるし。
もっと古い歴史だと、石徹白の記録にですね、478年雄略天皇の時代ですけど、石徹白の白山御鎮座日記という記録の中に、雄略天皇の命を受けて大彦命が。大阪ですかね、雄略天皇が白山に向かうということで、滋賀県に来て、岐阜へ来て長良川を上がっていって、郡上へ入って高鷲へ来て。高鷲の神社に来ている。奥住の宮というのとすむの宮というのを訪れて、それから石徹白に入ったと。
古くから白山というのは有名な山だったんだと思うんですけど。そこから始まっているし。石徹白の人達は神様を守るためにそこに住み着いているという考えもあるでしょうし。残念ながら石徹白は何も出来なかった。今はお米が採れるでしょうけど。あそこは水がなかったんですよね。そういう信仰のまちとして生きていかないといけないし、それが大事なことなので。そういう風で御師が活躍し、御師の仕事を見いだしてというか。特徴的だと思うので命をかけて、全国へ白山信仰を広めたり、色んな薬草や地元の物を売って、現金収入にして生活の糧にしていたと思いますので。そういう神様にお仕えする村という風で発展、発展まではいかなくても続けてこられたんだと思います。
-財源というか生活がかかっていますよね。持っていく物はお札とか薬とかどんな物を持っていったのでしょう?
お札とか薬草とか祈祷するための呪術だったかな、そういう物とか。箸なんかも書いてあったかな。何かの神様の物だから、みんな買ってくれると思うんですけど。
-いらっしゃる方がみえれば宿みたいなこともされていたのですか?
そういうね、定宿という宿が長野県の新野だったかな。ありましたね。定宿は最初、常にと書いた宿だと思ったら、正しいというか定着した宿だと思うんですけど。定宿と言うのがありましたね。詳しくは調べてなかったんですが。だからそういう白山神社があって、白山信仰の人達がいるから。やっぱり色々な物をそこで信仰を深めるために行った時に快く泊めてくれるところが定宿だと思うんですけど。そういう風にちゃんと受け入れてくれるネットワークができていたというか。
富士山のてっぺんにも白山神社があるんですよね。僕見たんだけど、疲れてて、大疲労で、行こうと思ったんだけど。疲れもあるけれど、知り合いがもうおじいさんだったので。また今度登ろうと思っている。白山神社なんですね。それはもうびっくりですね。それで当然三霊山ですから、なるほどなという風に思うんですけど。入り口の西の富士宮の浅間神社が国宝になっているかな。古い神社が別のところにあって。そこにね、定宿があったんですよね。そういう資料に残っているので、調べにいったんですが、よくわからなかったんですけど。定宿って言うのがあるんですね。すごいそういう活動の力、信仰の力はすごいというか。楽しみながらいけるというのが観光なんでしょうね。光を観る、それが観光なんです。昔だと観光の始まりですから。まさしく信仰で広めるというのは、やりがいがあるんでしょうね。
-三霊山の中でも富士山や立山に比べて白山は認知されていないのですか?
三霊山としては認知されていると思いますよ。立山の人達が、三霊山巡りを結構している。立山の研究者、学芸員の人が結構調べて、立山の人がわざわざ白山巡って富士山巡って帰って行くというルートを作ったという記憶がある。立山は死に場所ですよね。死んでいくところ。立山で死んで富士山に登ると生き返るんですよ。生き返るために修験の人は登った。富士まで登ると富士は不死ですから死なない、長生きする。長生きしたいという風に広まっているので、三霊山巡りとしてはうまいことなっている。白山自体は、三河の人が結構白山巡りをしている。白山禅定道は三河の辺りからも、愛知県から美濃加茂を出て。そこから、郡上街道って書いてあるんですよね。それが石徹白まで色々な集落を巡って、白山に入って福井へ降りたという。色々なコースがあるんですけど。
-白山は愛知県の津島から見えると書いてありましたが。
白山は、そこがすごいんですよ。伊勢湾から見えます。若狭湾からも見える。両方から見えるというのはすごいですよ。あと白山に登って、夜太平洋側を見るとわかるんだけれど、灯りがね、春日井辺りが結構明るく見えるんです。名古屋辺りは影になるかな。美濃加茂、春日井、そして高鷲も見えるんです。高鷲の牧歌の里の建物が見えるんです。
-見えると拝みたくなりますよね。
そう、春日井なんかは白山という山があるし、そこから拝めるし。白山神社の中に遙拝所があって、そこで拝んだり。そういう風で船の神様にもなっているので、ふなあてっていうのか。漁をしている時に迷子になってウロウロしていると白山が見えると。そこで、どこにいるかわかって、命が助かったとも聞きましたし。東京からは見えないですけど、東京の白山神社にも遙拝所が作ってあって、白山の方向を向いて拝むところもありましたし。
白山という信仰は面白いですよね。うまく話が通じるというか設定がされているというか。祈祷師が祈祷されながら、うまいこと話すんだと思うんですが。白山というと、浄化するという意味で色々な苦労をされた人が白山に詣りたくなるんじゃないですかね。
-もし泰澄大師にお会いできるとすれば、何か聞きたいことはありますか?
聞きたいことはいっぱいあるかも。本当に高鷲まで来たんですか。本当に千日修行、百日修行しましたかとかね。そういう色々な話を聞けると有り難いですね。ただ、泰澄大師が水を出したかどうかは疑問があるんですが。そういうのを利用してもいいし。白山信仰の集団はいたんだと思いますが、全国回っているし。
一番弟子の臥行者が切立のお寺を開いたと残っているし。石動山の出身なので、修験の山なので、泰澄さんの弟子としてこっちに来たというのもわかるなと思う。文化としていいんじゃないかと。文化として大事だから実在しなくてもいい。平和な文化であるということで。ずっと続けてきたというのは大事だと思うし。
-最後に水上さんが思う白山信仰を教えてください。平和の神や多様性の神とは、お聞きしましたが。
それは誰でも言っていると思う。私なりにそう思って、まとめたいとは思うのですが、なかなか。想像でやろうと思うんですが。
-これからもずっと続けられるんですね。
やれればいいなと思う。一緒に発信できる活動もしていけると良いですね。そんなようなことです。
-御師が出かけている檀那場ではなく、来る方のことも伺いたい。白山に登って来るために御師の家に泊まるでしょ。その辺の話を伺いたい。
檀那場から白山にお詣りして。一般的には三河の方から、白山神社があってみんなお詣りしたいということであれば、定宿の人とかお金持ちの人とか、お金が結構いりますよね。そういう費用のある人が、先達さんを中心にグループになって、お金を出し合って、来れない人は代参っていうのかな。代わりにお参りしてくださいと言うことで、なんかたぶんみつむろを預けて。こちらだと長滝へお詣りして、祈祷していただいたり、色々な物を寄進したりして御利益があるということです。そこに泊まって色々話を聞いたり、寺巡りをして帰る人もいるし。元気のある人は石徹白まで登って、更に元気な人は白山詣りをして帰っていく。そんな話で良いのかな。
-御師の家に泊まるんでしょ?
そうね、御師の家に泊まって色々お話を聞いて、その中で祈祷を受けたり、ご馳走を食べたりして。それで御師の人の生活の面でもね、今で言う旅館ですよね。長滝だと神仏習合でお寺さんが沢山あったので、僧坊、お寺の行事として安く泊まれるところは沢山あったのだと思うのですが、石徹白の上在所は神様なので。神の宿、御師が神様の行事で色々なことを教えてもらって帰って行くということですかね。
-白山の案内をするんでしょ。
先達で白山の神様にお詣りして。一番上の神様にお詣りして帰ってくるということなんでしょうけど。先達は、色々祈祷したり、途中で祈祷したりして。まず別山、ここだと別山神ですよね、白山神だと。ここら辺りは主祭神が別山神ですよね。別山まで行って帰ってきた人が多いと思うんだけど。別山で神事をして先達がせんきょして帰ってきて御利益があるという話じゃないですかね。たぶん、白山だけではなく、行きとか帰りに色々な観光地を巡ってきたりして、お土産を沢山買って地元へ帰って話をしたり、お土産を渡したりしたんじゃないですかね。
そういう中で、白山神社が広がっていったんじゃないですかね。うちにも白山神社が欲しいという風なこともあったかもしれませんし。そのように白山神社が広がっていき、白山信仰が栄えたというか。今は、なかなかこの時代になるとそういうことが出来ていないので残念ですけど。もうちょっと研究者が郡上にいると。高橋先生が非常に詳しいですけど。難しいという。高橋先生の話を聞きながら、これからも交流していけると良いと思います。そんなようなことで。
水上さん、本日はありがとうございました。
③佐々木さんオーラルヒストリー
1.文字資料
[稲葉0:00:10]今日は、佐々木アケミさんに、ちょっと…主に魚の話をちょっとしてもらおうと思うんですが、普段は敬語を使って、喋ってますけど、幼馴染やもんで、ちょっと郡上弁でやらさせてもらいますので、よろしくお願いします。ということでいきましょうか。
ほんで、え~…普段ならかしこまって、いろいろと、かしこまって聞くんですが、まぁちょっとそれは、まぁごめんしてもらって、おまんの小さいときから、特に魚を中心にして、あの~…話がしてほしい。
それで、恩地はその~小さいときに井普請で、川に田んぼ…なんや、川の田んぼの川が、に魚がたんとおったけど、今おらんが、おらんってことはないかもしれんが…そのへんからなんか思い出しながらちょっとしゃべってほしい。
[佐々木0:01:25]喋れすったって、(笑)
[稲葉0:01:28]ほんで、ほら、まあ田んぼの川よ…昔は、あの~…なんや魚の名前なんかもちょっと出してってほしい。ほんで、アマゴは…イワナおらなんだよな?
[佐々木0:01:41]イワナおらん。まぁ、あのアマゴと鰻と…今いるクソンボ、なぁ。おいてしまどじょう。どじょうは田んぼに多かったけども沼田ら田んぼに、そこらはおったな。アカダスはあんまり谷におらなんだ。ほんであの、井普請なるとあれやった。やっぱあの…今のこんにあのなんていうんかな。
用水が整備される前はほんっとに鰻もとれたし、アマゴもよけおったけども今、用水を
みんなをかまってまったもんで、魚もおらんよーになってまったわ、ずいぶん変化してまった。
[稲葉0:02:24]その用水っていうのは…結局、U字溝っていうんか。うにの。なんていうんか、とよっていうんかや。んで魚がやっぱりそんでは住めんのかな。
[佐々木0:02:36]そやなあ。住処がのーなったやな。んで、ほんでも、おれんたの小さいときにはあれやった、あの…6年生か中学校くらいは、あの~ここらへんの用水も沖釣りかけると鰻も釣れたでな。
[稲葉0:02:51]ほんで…川の一部だけが、昔のまんまの川でもだしかんのやんな。
[佐々木0:02:58]ほやなあ。やっぱ、そんだけ、今…釣り人口も多いし、あと魚取ったりするもんも多いもんで、余計あれでないかな。
[稲葉0:03:13]あの~…なんやな、クソンボか。やっぱり、クソンボが多かったんかや?
[佐々木0:03:22]そやなあ。クソンボが多かったなあ。あの時分は、ここらへんの前の川でも、昔はおむつ洗うとこが一番川の下やったんなあ。んでそこでおむつ洗うと、やっぱクソンボがボーっと出てきたで、その時分からクソンボ、クソンボっていうくらいやもんで、そのクソンボは食わなんだでなあ。
[稲葉0:03:38]名前…そうゆうのでクソンボっていうんやろか?
[佐々木0:03:40]そうやろ。本当はヌルバエ、ヌルバエっていうんやけどな、あれは。
おむつの…からが流れる、あのうんこをこう…下でくったもんで、クソンボ、クソンボそういったし、ほんで、よけとれても食わなんだ。
[稲葉0:04:01]ほんであの~…おおかわっていうんか。この裏に、牛道の川があるやけど、あの~…小学校くらいの時から、でーな魚がおったってのをちょっと思い出しながら、
[佐々木0:04:17]やっぱおれんた、おれんた川ガキって言われたくらいやもんで、夏休みになると毎日川に行っとったけど、やっぱ、あの~牛道川では、アジメが多かったなぁ。アジメ、カブ。そいて、鮎はあんまり放流せなんだもんで、数はおらなんだけど、今組合員がよけ多なったもんで、あの~鮎の放流もよけするけど、昔はそんだけしなんだもんで、数はおらなんだ。
んで琵琶湖の鮎を入れよったもんで、お盆時分に、あの~水はけるともうすぐおらんでなった琵琶湖の鮎は。今はもうしきんじょの鮎やし、あれが変わってまったもんで、10月や11月でも鮎はおるけど…
[稲葉0:05:01]ほうと、小学校時代も、ある程度は鮎は入れとった?それは琵琶湖と?
[佐々木0:05:08]入れとったんや。琵琶湖や。今あの~イナバヒサシ君のとこの前に前カゴを置いてなぁ、あそこにこう…トラックかなんかで持ってきてや、あそこに一時期置いといて、そいて、うちの親父んたが組合員やったもんで、バケツで持って川に放流しに行ったんなあ。あの時分で恩地でも、どうやろ4,5人、4人か5人くらいしか、そんに魚釣りか鮎をするものはおらなんだもんでなあ。
[稲葉0:05:36]ほんで、そん時、鑑札ってあったんか?
[佐々木0:05:37]あったあった。おれんた中学校でもあったな。あの時分には、今あの春になると、雑魚そういって、あもうつりやそうゆう雑魚の鑑札。そいで6月頃になると鮎掛けの鮎の鑑札ってべっこやった。
[稲葉0:05:56]いくらくらいやった?
[佐々木0:05:58]1,500円くらいなかったかな、中学生は。
[稲葉0:06:27]ほんで、鮎の鑑札とアマゴなんかとは違ったわけか?
[佐々木0:06:09]違ったんや。今はもう組合員のしょうと一緒になってまったけど、昔は雑魚そういって、あもう今のその雑魚やんな、鮎掛けがはじまると、友釣りのしょうそいって、鑑札がべっこやった。
[稲葉0:06:27]ほんで、その~…やっていい期間っていうんか。それは?
[佐々木0:06:34]まったく今とそ~変わらんなぁ。
[稲葉0:06:37]ていうと、1月?
[佐々木0:06:39]いや、2月の1日やったかな。昔のことははっきり覚えがないけど、アマゴは2月から、鮎はやっぱり6月頃かやと思ったけどなあ。
[稲葉0:06:52]そしゃ、アマゴはその、6月7月と釣ってもええんかや?
[佐々木0:06:55]ええんや。ええんや。
[稲葉0:07:00]最近あの~…禁漁区とかってやるや?昔はあーゆうのはあったんかや?
[佐々木0:07:06]あった。昔からあった。今のあの、阿多岐の1の滝から3の滝まで禁漁区やった。昔からやったなあ、あれは。
[稲葉0:07:19]おいたらその~…昔のアマゴと今のアマゴってのは、違うんか?
[佐々木0:07:26]今のアマゴは放流が多いでな。養殖。ほんで、この頃有名なったサツキマスか、昔はそれほど~、あの、ほんっとのここらへんで育てた天然なアマゴやもんで、下らなんだけど、今のアマゴは養殖でした放流のアマゴやもんで、11月頃水がでると、いっぺん川を下るんや。あの全部ではないけど。そいつが海で大きくなって昇ってくるやつが今のサツキマスになる。
[稲葉0:07:59]んで、そのまた1年経ったら、それが下ってくんか?
[佐々木0:08:04]いや、どうやろ。ここらへんで産卵してそれは死ぬ。ほんで、そいつらが下るんかどうかは俺は魚でないでわからんけど、放流したやつの今ようするにあのかけ合わせ、かけ合わせやというもんで、今あの、しらめ系統とあもうけいとうのかけ合わせみたいな感じやもんで。あの、そうゆう川へ下る性質が戻ってきたんでないかな。
ほんで今いうあの、九頭竜の周りで釣るサクラマスもあれも、ヤマメの小さいやつが海に下ってって昇ってきたやつがサクラマスになるんやな。
[稲葉0:08:41]んで、その大きくなるにしたがって名前が変わるんか?
[佐々木0:08:46]いや、あれは、サクラマスは、たしかカジワラタクさんかなんかのあれが名付けた。今のサツキが咲く時分に昇ってくるもんで、サツキマスってそう言ったんや。
たしか俺、自分の県知事のカジワラタクさんか誰かがつけたんでないかと思ったけどな。
[稲葉0:09:10]昔あんまりその~おってもその名前を言わなんだってことか?
[佐々木0:09:13]そりゃーせなこと知らなんでないかな。みんな今みたいなええ竿も糸もなかったもんで。大きいやつを釣れても、あの切られたり、なんかして、取り込むことがあんまりできなんだもんで。八幡のまわりではちろちろ大きいやつが釣れよったんやよ。ほやけど、サツキマス、サクラマスとは言わなんだでなあ。あの時分には。あまごの大きいやつって言いよっただけで。
[稲葉0:09:36]ほいたらその当時、竿ってのは、ようするに今とどうゆう風に違ったんや?
[佐々木0:09:40]昔はこうゆう、おれんたが小さい時には、せな竿を買ってもらえんもんで、あの~今のどこやった為真のまつい時計店に売っとる一本の延べ竿みたいなもんでやりよったけど、ちょっとよおなってくると今度はつなぎ竿やんなぁ、竹でできた。にほん、にほんのもとにこうずいぶん詰まってある奴や。今みたいな良い竿ができたのってまだ最近やでなぁ。
[稲葉0:10:05]あの、郡上竿はどう違うんや?
[佐々木0:10:06]あれ、郡上竿は竹竿やでなぁ。あのあれがええってもんもおるけども、あれはまた重たいもんでなあ。たしかに、かかった時には飛んでくるにはいいけども、重たいんよ。
[稲葉0:10:29]ってことは、あんまり長い竿でもないんか?
[佐々木0:10:23]ほんで、今あの郡上竿っていうのは重たいもんで長さはないんや。アマゴ釣りでも、6mある竿はないんじゃないかな。ほとんど短い竿でやりよったんや。
[稲葉0:10:44]ほんで、牛道と川と本流の川ではまた竿は違う?
[佐々木0:10:49]いや一緒やけど、ほんでもやっぱ、あの~…おれんたの小さいころの若い人はやっぱ、今の郡上竿でも、あのもっと長いやつを持つ人もおったけど、それに9mってやつはなかったなぁ。まず、よおわたって8m、ほいて7m、6mなぁ。
[稲葉0:11:11]ほんで長靴っていうんか、ほら川に入ってく、胴長っていうんか。あれが主流やった?
[佐々木0:11:18]あれはまだ最近やな。おれんたが小さいときは藁草履やったでなあ。藁草履を履くか、ほんで、今あのおれんた美濃市におる時分あしながそいって、あの、うしおが履くこんな小さい藁草履よ。ほんここまでのなぁ。あいつをここらへんにはなかったけど、俺が美濃市におる時分には、あれを履いてやりよった。
[稲葉0:11:42]ってことは、冷たい川やと、そうおれなんだってこと?
[佐々木0:11:46]ほうや。ほんでも、長靴履いてやったこともあるけどなぁ、やっぱさぶいで。今みたいにカッパをそうええものがなかったし。
[稲葉0:12:01]ほんで、牛道の場合に、鮎はどの辺まで、釣れるっていうんか?
[佐々木0:12:10]やっぱ牛道小学校の下のまんせきくらいやったなあ。
[稲葉0:12:16]はらぐちのほうへ入っていくとだめか?
[佐々木0:12:18]あれ昔、今のあの県会議員の、「のじまいくちゃん」がいっぺん入れてくれんかすったもんで阿多岐のけいじの周り入れたことあった。やっぱ数いれなんだもんで大きい鮎がおったけど、数はおらなんだ。
[稲葉0:12:33]水が冷たいもんでやっぱ、下りてくんか?
[佐々木0:12:35]そんなことはないと思う。
[稲葉0:12:39]アマゴはどうなんやろ?
[佐々木0:12:41]アマゴも今あーゆう、あの養殖して放流したやつはある程度弱いで下るんでないかな。昔はほんと、ここらの川でも十分アマゴがおったやな。俺とうちの親父と兄貴と、7月頃そこらへんの用水へ夜アマゴつきにいくとずいぶんつけたで。鰻も入ったことあるしよぉ。今こうち整理で用水をみんなあーゆう風にしてまったで、あかんけども、昔ほっとにおった。
[稲葉0:13:19]ほんで、あの~、牛道だと、阿多岐ダムできるわあ。んで、そのあとに、長良かこうぜきができるんやけど、その…なんていうんかな、川がそうやって変わってくると、やっぱ魚ってのもちょっと違ってくるんかな。
[佐々木0:13:37]違うと思うけどな。やっぱ今牛道小学校のとこいくと阿多岐川と六ノ里の川と、こう交わったとこでやっぱ阿多岐のダムの関係で水が死ぬっていうんかな。あれしとるもんで、あそこではや水の温度差がどえらい違うでなぁ。阿多岐の方はぬくといし、六ノ里の方から流れてくる水はほんっと冷たい。
[稲葉0:14:02]ちちことか、かぶなんか多少?
[佐々木0:14:05]やっぱだいぶ少のうなったなぁ。おれんた小さいときにはほんとに、夕方になるとかぶなんか大きいかぶが石の間から頭出しとったでなあ。あれは夜行性やもんでよ。
[稲葉0:14:21]んで、やっぱりだいぶ最近は少ないんか?
[佐々木0:14:25]少ないなあやっぱ。あんだけ川を工事して、構うとやっぱ魚もおらんよぉになるし、鰻も住むとこがないしなあ。おれんた小さいとき夏になると、下島って橋があるが、あそこから中西のお宮まで水泳にくるやら。あそこ道路やったもんでなぁ。ほんで、あそこで水泳パンツ履いて、下島の橋から宮の下まで足を川のなか一回もつけずに、こう、いけたでなあ。そんだけ大きい石がごろんごろんしとったけども、今そんなとこは、ひとつもないでなぁ。あんだけ大きい石を持っててまったもんでよ。どっか持ってたか壊してまったんかどうなんしらんけど。
ほんで今、ここらへんの牛道の川なんか大体、下のばんが出てまっとるわなあ。今ひどいめでかけると、もう下のばんが出て待っとるもんで、砂利は持ってく、石は持ってくもんでよ。おれんた小さいときと比べると川がものすごい低くなってまったもん。
[稲葉さん0:15:27]ダムの影響やろうかえ?
[佐々木さん0:15:28]ダムじゃないと思うよ。工事で大きい石をどかしてまったもんであれでないかな。
[稲葉0:15:37]ほんでほら、昔は桶釣りを入れて、鰻をとったけど、今でもどうなんや?
[佐々木0:15:44]今でも去年はやらなんだけど今年もやるつもりはないけど、まぁ釣れんようになったもん。
[稲葉0:15:54]で、それは鰻がおらんよーになったんか?
[佐々木0:15:56]おらんくなったんでないかな。じき5,6年前ものすごい釣れたよ。いっぺん俺こっさで大きいやつ鰻がこのくらいあったあの2kgあったでな。このくらいあったで。
[稲葉0:16:11]んで、鰻ってのはやっぱ、ほら海からくるわけやろ?
[佐々木0:16:14]おお、それもあるし、今あの、放流もする。よけではないけど。
[稲葉0:16:22]ほと、その桶釣りを入れる人も最近はおらんよーになったってこと?
[佐々木0:16:26]ほやなあ。釣れやぁみんな入れるんやけど釣れんもんでいれんもんでないか大体なぁ。
[稲葉0:16:34]ちょっと桶釣りの話を、仕掛けをちょっとしてほしいんやけど、そもそも桶釣りってどうやってやるんやっていう話が。そこちょっと話をしてほしい。
[佐々木0:16:45]話っていうのは?
[稲葉0:16:47]ちちこ、かぶを
[佐々木0:16:49]おれんた小さいときには被せ網でちちこをとって、ちちこをさいて、こういれといたけど、今はもうクソンボばっか。あれは、なんでやしらん生臭いにおいがあるんかしらん、あれが食いつきが一番いいいなぁ。
[稲葉0:17:04]ほんで、そのクソンボを、ちょっと大きめな針に刺いて、その針をなんや、あの~柳の木かなんかに縛っとくんか?
[佐々木0:17:15]それは昔は差し込みってやつやな。あれは今そう使うものはおらん。おれんた、あのなんていうんかなすてばり、そいって糸を長くして、重りをつけて、それで、鰻のおりそうなとポッポッと入れておくんや。
[稲葉0:17:28]そしたらその、反対の糸はどこにするんや?
[佐々木0:17:31]反対側の糸はこう石の上に持ってきて、あの、この、その糸にこう巻いてあるやん、板に巻いて、石の上に置いて、重石をポッと載せるんや。
[稲葉0:17:42]なるほど。板まいた板をまぁ、置いて
[佐々木0:17:46]置いて、その上に、鰻がひっぱってかなんように大きい石をポンっと載せておくんや。
[稲葉0:17:52]それは前の日に何時ごろ入れるんや?
[佐々木0:17:55]夕方やな。暗くなってから。
[稲葉0:17:57]とるんか?
[佐々木0:17:58]おれんた、若いころ4時ごろ、暗いうちには行ったなあ。ほんでなければ、まいて死ぬってそいってなぁ。暴れるもんで。暗いうちにいった。
[稲葉0:18:12]どのくらいとれたんや?
[佐々木0:18:15]子どもの頃はそう鰻の針はあったけど、糸のええやつが無かったもんで、まず、どうやろな…4割とればいいほうやったな、切られてまって、あの時分うちのお袋が働きにあの、土方にいきよったもんで、せめんの袋の糸なぁ、あいつしかなかったもんで大きい鰻は切ってくもんでよぉ。まずそう大きい鰻はとれなんだ。切ってってまうもんで。
[稲葉0:18:47]針と糸を縛るすこぶり、とかなんとかって言ったけど、
[佐々木0:18:52]あぁ、それは重石を要するに餌だけでは流れていくもんでちょっとこのくらいの長細い石を見つけて、それにすこぶりで、餌よりそれくらいの上のところにすこぶりで、置いて鰻がくるとスッとくると抜けるようにしとったんやなぁ。すこぶりやもんで。
[稲葉0:19:19]ほと、この辺でもまぁ、天然の鰻っていうんか。そうゆうのはあんまり食べれんようになったってこと?
[佐々木0:19:25]ほやなぁ。昔はここらへんにおったやつは、ほとんど天然やったけどなあ。ここらへんにおったやつは、今もう太短いこのくらいの鰻やったけど、今はもうこんなに長い鰻が放流しとるもんでなぁ。かにくい鰻ってそういってよ。大きくなるやつや。
昔ここらへんで釣れるやつはごま鰻そういってこのくらいで、このくらいで、大きいてもこのくらいやった。あれほんっと昔からおる鰻やったでなぁ。一時期、だいぶ前になるけど鰻の病気がでて、一時期粥川の鰻でもおらんようになったやろ。あれからもうここらへんの用水にはおらんくなったってまったなぁ。
[稲葉0:20:09]じゃああとなにがおったんや昔は?昔おって今おらんなったもんってあるんか?
[佐々木0:20:14]昔おって今おらんような、おれんた、今のなんやらクロイカってもんはここらへん牛道にはおらなんだでなぁ。
[稲葉0:20:21]クロイカって知らんけど?
[佐々木0:20:23]アカダスは赤いでクロイカっていうと黒いんよ。また種類が違うけど、あれは今の大和の周り安久田行けばちろちろおるっていうけど、クロイカは。
[稲葉0:20:45]ほと、今のあの鮎掛けっていうと、まぁ、放流したのがほとんどで、そのなんていうんか鮎で伊勢湾から上ってくるような鮎ってのはそう?
[佐々木0:20:58]やっぱここらへんまでは来るっていうけど、俺はほんと分からんけど、美濃市の周りやあそこらへんはまだ天然は昇ってくるわなあ。
[稲葉0:21:13]よう、あの水が冷とうて死んだとか…?
[佐々木0:21:17]あぁ冷水病かぁ。あれはまた、水の冷たさと関係無いらしいよ、どうも。今の、豚コレラや今のコロナ渦と一緒で、やっぱあーゆ病気がぴょこぴょこ出るもんでそうゆうものは、やっぱ養殖やらなんやらしとるとでるんやないかな。あのものは。
[稲葉0:21:42]ほしたらよ、昔の鮎掛けの方法っていうんか、なんか喧嘩せんようになったみたいな話を聞くけど、その辺なんかちょっと。
[佐々木0:21:51]やっぱたしかにそうやな。昔のここらへんで川の中を見ると、やっぱ縄張りのある鮎はまっ黄色で石をこうバカーンバカーンってこうやって餌をはむんよ。やっぱそこへ死にかけみたいなおっといても、すっとかかってきたけど、今は縄張り意識がないもんで、群れで動きまわるもんで、おっても早ぉかかってこんのやなぁ。
[稲葉0:22:19]で、それってのは養殖の鮎やもんで群れになっているんか?
[佐々木0:22:23]そうやと思う。やっぱあのそうゆう風な鮎をこう循環送りさせるもんで、そうゆう風になってくるんでないか。
[稲葉0:22:32]ってことは、友釣りっていうのは、まぁ喧嘩をさせる釣り方なんやろ?ほと、他の方法は良くなってくることはあるんか?
[佐々木0:22:44]あれ下の周りで今のなんじゃやあれほれ、毛鉤で釣るあれもあるけど。あれもあんまり小さいうちは釣れるけど大きくなると、あんまり毛鉤では釣れんやろなあ。
[稲葉0:23:03]あとなんや、魚で何がおるんや?鮎とアマゴと、で、イワナっていうのはこの大川にはおらんのか?
[佐々木0:23:15]今は結構増えたってことはないけど、やっぱあれ、ちったー混じって入るでないかなと思うけど、ちろちろは釣れるらしい。
[稲葉0:23:25]ほしゃあ、アマゴとイワナとはどう違うんや?
[佐々木0:23:30]アマゴは、どう違うっと…
[稲葉0:23:37]模様は一緒やら?
[佐々木0:23:38]模様は全然違う。
[稲葉0:23:39]まぁ楯にこう?
[佐々木0:23:44]いや全然ない。アメマスやらアマゴとイワナと掛け合わせみたいなやつはあるけど。イワナはまたちょっと違うなあ。
[稲葉0:23:53]で、イワナってのは、虫を食べるんやろ?
[佐々木0:23:57]虫でも蛇でも食べるっていうなぁ。流れてくるものは。
[稲葉0:24:02]その辺が結局、アマゴはもっと、何を食べる?
[佐々木0:24:08]アマゴはやっぱり、イワナと一緒やけど、イワナはもっと冷たいとこにおるもんで、餌がそんだけないんやなぁ。ほんで、おれんた中学校に入った時に阿多岐のもんと一緒になったやな学校が。その時に阿多岐の山越ってやつがイワナを釣りにいかんかってそいって俺を誘ってくれたんよ。ほんで、阿多岐はこっちに板倉の川があって、左側ひゅんぼの川や。板倉の川の方へ釣りに行くと、イワナしか釣れんのよ。ほんで、ひゅんぼの川の方釣りに行くと、アマゴしか釣れんのよ。奥にはアマゴ、こっちのひゅんぼの谷はアマゴしかおらんし、板倉の谷はどんたけ奥まで行ったってイワナしかおらなんだ。どうゆう関係なんやしらんけど。
[稲葉0:24:52]水がのくとい、つめたい関係ある?
[佐々木0:24:54]大抵そうやと思うやけどなぁ。NHKのテレビなんかでも、イワナは水のないところでも上がっていくで、どうゆう関係なんや知らんが、たしかにイワナはちょっと生命力が強くて、こうゆう陸に出とたって、ちいとの内は生きてるでなぁ。
[稲葉0:25:15]イワナは何で釣るんや?
[佐々木0:25:17]餌や。
[稲葉0:25:19]その餌は?
[佐々木0:25:20]おれんたが阿多岐行きよった時には6月頃やったもんでキャベツの蛆とか、大根の葉っぱにつく黒い蛆、あーゆうのを持って行ったなぁ。
[稲葉0:25:31]それは、アマゴは無理か?
[佐々木0:25:33]アマゴでも食うと思うよ。
[稲葉0:25:37]ほんで、お前よぉやりよる金箔かや。あの話、金箔とは何ぞやっていうのを?
[佐々木0:25:44]金箔ってのは、今あのおれんた使いよるナデムシとはまたちょっと少し違うんやなぁ。
[稲葉0:25:51]それは何?川におるんやろ?
[佐々木0:25:53]川におるんや。
[稲葉0:25:54]どうゆうとこにおるんや?
[佐々木0:25:55]金箔っていうのは砂利わらにおるんや。砂利わらを足でごそごそっとすると流れて網にかかるんやけど、今おれんた使っている毛虫ってやつは流れの強いとこの石にへばりついているの毛虫ってそう。
[稲葉0:26:16]へちまでとるんか?
[佐々木0:26:17]へちまでとるんや。
[稲葉0:26:20]で、金箔はどうやって?
[佐々木0:26:21]金箔は金箔獲る専門の籠を作って、ほんで下方へ流すように足でこう砂をかいてく。
[稲葉0:26:32]毛虫も金箔も、そのアマゴを獲るときには餌として使えるんか?
[佐々木0:26:37]使えるけど、時期が違うんやなぁ。
[稲葉0:26:40]ほー、それはどうゆうことよ?
[佐々木0:26:41]金箔は、解禁時分に獲れるけど、餌で。
[稲葉0:26:45]解禁ってのは2月頃か?
[佐々木0:26:47]2月の15日か。から3月の15日まで獲れるけど、それ過ぎると今度羽化してしまうもんで、もう獲れんのよ。ほんで、獲れんようになると、今時分になると、今今度ケムシがおおきぃなってくるもんで、獲って釣るんや。
[稲葉0:27:02]ほと、まぁアマゴなんかも川におる時は、そうゆうのを食べているんか?
[佐々木0:27:06]そやそや。
[稲葉0:27:12]なんで金箔っていうんや?
[佐々木0:27:13]金箔、銀箔っておるんやで。金色をしとるで金箔っていうでないか。ほんで、オデムシの大きいやつは銀箔ってそいうわ。銀箔はまた、今のイワナやあーゆうもんしか食わ。んアマゴはあんま食わんなぁ。金箔はアマゴが食うけども、銀箔は食わん。
[稲葉0:27:33]ほったら、昔はほら、ミミズをどうのこうのしたけど、もうそんなことはやらんのか?
[佐々木0:27:38]今ミミズで釣るものはそうおらんのでないかなぁ。ほんでも今のサツキマス釣るものはもうミミズがいいとそいって、は大きいミミズ使う。シマミミズの大きいやつを。
[稲葉0:27:58]今までに後ろにあるけど、一番大きい魚でないけど、どこで何釣ったんや?
[佐々木0:28:06]こっちにあるやつは、あれは今の荘川のとこで釣ったあれヤマメの大きくなったやつや。こっちがサクラマスのアマゴの大きくなったやつやな。
[稲葉0:28:21]それやっぱ、おおかわやんな?
[佐々木0:28:23]ほやほや。あれは見頃から上がってきたんやなぁサクラマスは。
[稲葉0:28:27]それ、何月頃や?
[佐々木0:28:29]あれ秋やったな、たしか。やっぱあの見頃でもヤマメがダムに入って大きくなって産卵に上がってくるんやなあれなぁ。
[稲葉0:28:48]ほと、こっちの長良川水系では、あんまりそうゆうのはおらんのか?大きいのは。
[佐々木0:28:52]いや今のサツキマスはやっぱ大きくなる。大きいやつは50cmぐらいになるんでないか。あれで42cmやで、こっちも42cmやったやなぁ。
[稲葉0:29:09]鰻なんかはどうやった?
[佐々木0:29:11]どうと?
[稲葉0:29:12]大きいっていうか、
[佐々木0:29:14]俺は今まで最高に獲ったのはこっさで2キロってやつを獲ったけど太かった。ビール瓶くらいあったよ。
[稲葉0:29:22]そうゆうのっては、何年くらい経つ?
[佐々木0:29:25]どれくらい経つんやろうなぁ。結構経つんでないかな。あれは。
[稲葉0:29:22]ほんで、お前はある程度そのなんや、魚獲ったやつを、要するに市場かどっかの料理屋に持ってって、っていう話なんやな?
[佐々木0:29:46]おう、昔は。
[稲葉0:29:49]それは結構なんや、金にはなったんか?
[佐々木0:29:52]結構なったなあ。もう今やっぱそんだけ需要がないもんで、鮎はやっぱあの冷凍がきくもんで、わりかし人気があるけど、アマゴは冷凍が効かんもんで、冷凍はできるんやけど、戻した時に鮎みたいに固くない。クタクタなんよ。
[稲葉0:30:22]ほしたら、その食べ方としては一番どんな方法がいい一番いい?
[佐々木0:30:25]そりゃあアマゴが大きいやつは、素焼きにして醤油かけて食うと一番美味いなぁ。そうか、ちょっと小ぶりのやつは今の山椒と一緒に煮るとか。
[稲葉0:30:38]アマゴは?アマゴでない、あの鮎は?
[佐々木0:30:41]鮎はやっぱあの…塩焼きか、小さいやつはフライ。でちょっとあれなやつは開きにして食べると美味い。
[稲葉0:30:57]ほんで、イワナとアマゴではやっぱり、アマゴの方が美味いんか?
[佐々木0:31:02]そりゃ美味いなあ。ほんでもイワナは味はあるんやろな骨酒にすると美味いやでなぁ。
[稲葉0:31:10]骨酒ってのは、どうゆう風にするん?
[佐々木0:31:12]あれはあの、素焼きに、カリカリになるくらいまで焼くんや。
[稲葉0:31:18]ほして、それをなに、あの皿に置いといて、
[佐々木0:31:23]皿に置いといて、熱い酒をだってやるやろ。
[稲葉0:31:26]熱くなければだしかんのや?
[佐々木0:31:27]熱くなければあかん。
[稲葉0:31:29]ほいて、それを飲むという?それ、アマゴでやったってだしかんのか?
[佐々木0:31:33]アマゴはあんまり美味くないなぁ。
[稲葉0:31:35]どうしてや?
[佐々木0:31:37]やっぱ味が違うででないかなぁ。
[稲葉0:31:39]油があるんか?
[佐々木0:31:40]油はあんまりないと思うけども、独特な味があるんでないかな。アマゴとイワナでは。ほんで、アマゴとイワナを釣ってきて、一緒に煮て食ったって、やっぱイワナは美味くない。アマゴのほうが美味い。今骨酒の話をせやぁ、ここらへんで今でもおるけど、カブでも骨酒にできるんやなぁ。あれ美味いもん。カブの骨酒も美味い。
[稲葉0:32:10]ほしゃあ、今そのカブとチチコなんかはどうやって食べたらいい?
[佐々木0:32:14]チチコはやっぱ、今あの山椒のあれで煮て食うと美味いなぁ。
[稲葉0:32:21]カブも大体?カブは違うんか?
[佐々木0:32:23]カブもいいけど、カブは頭ばっかで骨が固いもんでなぁ。今のあの唐揚げに二度揚げにして食うか。今のあの海の魚のなんや、ガシラでなんやらと一緒でよ、味はあるけど頭が大きくて身があんまり無い。あの今いうアカダスも刺されると痛いけど゙、あれも煮て食うとわりかし美味い魚やよ。
[稲葉0:32:55]どじょうもあんまり記憶にないけど、食べ方ってのは?
[佐々木0:33:01]昔はめっちゃ食ったなどじょうは。俺ちょうど恩地の田んぼでうちのお袋が昔やもんで、ぬまたの田んぼ耕しにいく。あれについてって、田を興すと、どじょうがおったもんで獲ってなぁちょっと1日か2日、飼っといて、煮て食ったことある。あかごの方の田んぼはぬまだんごがおったもんでなぁ。
[稲葉0:33:23]結構おったもんなぁ?どじょうがな。
[佐々木0:33:27]おったおった。随分お袋に付いていったなぁあの時分に。
[稲葉0:33:37]そして、あのほら、タマゴを持っている…なんや、
[佐々木0:33:42]アジメか。
[稲葉0:33:44]おう。とか、あーゆうのは、まぁいろんな魚でも卵を持っとるが。
[佐々木0:33:52]アマゴもあれ秋やし、アジメも秋やでいいけど。今いう、なんじゃ、チチコやカブはもう産んでが生きるくらいやなぁ。種類によって、春先に卵産むやつと秋に卵産むやつがおるでなぁ。アマゴや鮎やイワナは秋やし。
[稲葉0:34:26]で、あのどこにいるんよ?
[佐々木0:34:30]石の隙間やな。自分が入れるくらいの、あのとこ隙間に産み付けとる。石の空洞なったわっかに。昔はカブの卵で随分アマゴが釣れたもんで、カマタマって獲りってええ金になりよったらしいけど、今はもう禁止になったもんで。カブも大分増えてきたんでないか。
[稲葉0:34:57]もう1つ、あのかんのしみに、あの石かつで、あの魚獲りの方法をちょっと知っとりゃ。
[佐々木0:35:04]あれはあの、ここらへんではあんまりでんけど、俺が美濃市におる時分には、あの美濃市の河原であの石カチはしたなぁ。
[稲葉0:35:15]いつ頃、どうゆう風に?
[佐々木0:35:17]寒い時よ。寒いときに河原の水ザーッと流れてくる浮いてる石を大きいハンマーでドーンとふさぐと、あの気絶するんか浮き袋があれするんかどうかな、ポッと出てきた。
[稲葉0:35:34]それは、そのハンマーの、こうゆう大きいハンマーやろ?
[佐々木0:35:37]おれんた小さい石やもんでこのくらいの重たいハンマーでやったけど、前いっぺんテレビ見とったら白鳥のものがこんな大きいハンマーで大きい石叩きよったけど、あーんなことでは出んと思ったけども。
[稲葉0:35:49]あれは結局その石がこうなんていうの、地震でないか、なんや?こう、
[佐々木0:35:56]あれ俺脳震盪を起こすんでないかなって思うなぁ。
[稲葉0:35:58]石から出てくるなんていうんや、その振動が魚に伝わるんか水を通して。
[佐々木0:36:07]ほんで、このくらいの石を叩いて、出てこなその石をポッと起こすと、中でポッと腹を上にして浮いとる。びっくりして息のないやつはスッと出てきて浮くけど。ここら辺ではあんまり石カチなんていったって、そんだけあーゆう浮き魚がおらんで。チチコやカブやあーなものは、まずあれでないでなぁ。
[稲葉0:36:29]で、それは今禁止されとるやろ?
[佐々木0:36:34]禁止ってのは書いてないで、ええんでないかな。あれは雑魚しか獲れんでなぁ。アマゴやあのものはそう浮いてこんで。
[稲葉0:36:47]じゃ、この辺でしかない獲り方ってなんかあるか?
[佐々木0:36:53]この辺でっていうと…?
[稲葉0:36:57]あっ。あれを頼むわ。あのなんや、小さい水をダムでないけど、止めておいて、
[佐々木0:37:01]たけわか。
[稲葉0:37:02]あれはどうゆう風にする?
[佐々木0:37:03]あれはやっぱ、どうゆう風にするって、やっぱ普段でーなとこかけとって入るもんでないで、例えばふちの頭で魚がこう登れんようなとこを、登れんようなところに作るんや。ほんで要するにその、なんていうんかな、たけ、たけわけってそうんか。登れないとこにその仕掛けを作って、ほんで登れるようにして、んで、この…なんていうんかな、魚のこう落ちるとこに水がこう流れてく方にしといて、そうと、板、たけわけの板に伝わってこう登ってくるわけよ、ほいて、そこの落ちるところが竹を分けたみたいにしとるもんで、たけわけ、たけわけってそうんや。
[稲葉0:38:01]じゃ結局上ってきよって、ポンポラリンって落ちていくってことなんか?落ち込むとこがもう二度と出てこれんように、
[佐々木0:38:08]また下に箱があるんや。
[稲葉0:38:11]ほんで、それは結局魚のなんや水を登ってく風習を利用しとるんか?
[佐々木0:38:17]習性を、ほんでこう板を当てて、その板に沿って、あの、こう板に沿って、あの、ずーっと流れていくと、その水に登れんもんで、その水がダーッと伝ってきて、ポロンと落ちるんや。
[稲葉0:38:41]あれって、ほんで、鑑札でないけど、縄張りがあるんか?
[佐々木0:38:46]あれは、おれんたも今申請出したけど、やっぱ毎年かけるとこ申請して受けるんや。
[稲葉0:38:56]獲れるときは結構獲れる?
[佐々木0:38:58]獲れる。大和の周りはどえらい入るらしいけど、牛道は、そうざっこがおらんもんで、そんだけ、たんとは入らんけども。ただ、牛道でたきがけ、あれはアジメが多いもんでなぁ、入るに。チチコも入るけども。アジメも入るし、アカダスも入るし。
[稲葉0:39:27]そういやぁ、ほんで1日とか2日ごとに見に行くんか?
[佐々木0:39:31]ほや、朝晩見に行くなぁ。
[稲葉0:39:36]聞いた話では、昔その、ある程度その清水のような水が湧き出ているとこがなんかええみたいな話を、
[佐々木0:39:42]あれは、アジメ穴やぁ。アジメ穴は要するにあの秋にアジメが卵産みに入る伏流水へ入れると、アジメが入るんやけど。
[稲葉0:39:56]もう、そうゆうとこがわからようになった?
[佐々木0:39:58]今もう下の川のガンが、バンが出てまっとるでないなあ、もう。ほんでも、あんだけ増えるってことは、どっかで産むことは間違いないで、ただ伏流水ばっかでないかもわからん。砂利の中に産むんかもわからん。
[稲葉0:40:23]あと何の魚がおった?獲り方をちょっと聞いときたいんやけど。
[佐々木0:40:28]ここらへんでは、それくらいやなぁ。おれんた小さい時にはもう、川へ、川っていうか用水、今の田んぼのあぜ道の横のとこで、クソンボ釣りやあーゆうもんには行ったけど。
[稲葉0:40:51]今ふせあみってもうせんのか?
[佐々木0:40:53]ふせあみ、あるよ、売っとるよ。売っとる、売っとる。
[稲葉0:40:56]子どもはやらんのか?
[佐々木0:40:58]いや、夏になると結構やりよるよ、子どもが。
[稲葉0:41:05]あの、ふせあみってのはやっぱりチチコとかカブの要するにその石に止まってるやつを、
[佐々木0:41:10]かぶせて
[稲葉0:41:11]かぶせて獲るもんで、ふせあみっていうんか?
[佐々木0:41:15]おん。ふせあみ、かぶせあみっていうなぁ。
[稲葉0:41:17]あっ、かぶせあみか、そうか。鯉はどうなんや?
[佐々木0:41:27]鯉はおらんなぁ、ここらへんは。ようあの本流いくと川鯉はおるけどな、川鯉に黒鯉はおるけど、ここらへんはおらんなぁ。
[稲葉0:41:42]ほと、やっぱり一番大きい魚っていうと、なにか?
[佐々木0:41:46]アマゴかイワナやな。ま、川魚で一番大きいっていうと、川でおると川鯉くらいやろなぁ。
[稲葉0:42:04]あの、イグイってのはどうなんや?
[佐々木0:42:07]イグイはあんまり大きくならんなぁ。大きくなったって30cmもなるようなやつはそうみん。
[稲葉0:42:15]で、イグイってやつはそう食べんのやろ?
[佐々木0:42:18]ここらへんでは食べんけど、信州のまわりでは食べるんやろな。信州のまわりで、今あの、卵産みに上ってくるやつをヤナっていうんかあれでせき止めて、食べるとこができるでなぁ。ここらへんはもうイグイ食うもんは、そうおらんな。ほんでも川魚の好きな人は食わっせるらしいけど。
[稲葉0:42:38]あれはどうなんや、あの、骨が多いでだしかんのか?
[佐々木0:42:41]生臭いでじゃないかな?
[稲葉0:42:45]魚にしてみると一番可哀そうやな、バカにされてなぁ。せっかくあんだけ大きい普通なら喜ばれて食べてもいいんやけど。次で、魚でないけど、山の、猪と鹿と、あのあたり最近なんか豚コレラっていうんか。あれどーゆう風になってきたんや?
[佐々木0:43:17]豚コレラはもうだいたい収まってきたんでないかな。死ぬがとも死んだけど結構山行くと、猪のあの、はめあとがチロチロあるでみんなが死んでまってはおらんと思うけど、生き残っとるやつもおると思うけど。
[稲葉0:43:35]あれは、ほんで今の人間と一緒であの、あのーなんていうんか伝染病なんか?
[佐々木0:43:40]そうや、伝染病やな。
[稲葉0:43:42]んで、山いくと、死んでもおるんか?
[佐々木0:43:46]あれは病気にかかると、水が飲みたいんかしらん、谷むろや水の飲み場で死んどるっていうで、山の中であんまり死んどるやつは見たことないなぁ。
[稲葉0:43:56]ほんで、やっぱりかなり減ってまったんか?
[佐々木0:43:59]減ったなぁ。一時期どえらいおったでなぁ。
[稲葉0:44:04]ほんで、獲ろうとしても、あんまりもう獲れんのか?
[佐々木0:44:07]獲ったって、売れんもんで獲らんのや。
[稲葉0:44:13]ほいたら、そのカモシカとか、なんやニホンカモシカとか、まぁそうゆうのはどうなんや?
[佐々木0:44:20]ニホンカモシカは特別天然記念物やで撃っていかんけど、今日の新聞でも、どこやらでカモシカ撃って捕まっとった。肉は持ってきて、食った。角はアクセサリーにするやらどうやらで捕まっとったけど、今の鹿は、やっぱ角は持ってくるけど。
[稲葉0:44:41]それは、その、伝染病は関係ない?
[佐々木0:44:46]関係ない、鹿はなぁ。
[稲葉0:44:50]ほしたら、熊はどうなんよ?
[佐々木0:44:52]熊も結構減ったんでないかな。餌が、あの、秋になると、餌があるとないとどえらい違うで。
[稲葉0:45:05]で、やっぱり熊はなにを食べとる?
[佐々木0:45:07]熊はやっぱ、今はよぉ、俺はほんと見たことないでしらんけど、よぉ春になると、あの、なんや、春にはよぉ咲くヤマゼン。こぶしの花を食ったり、ほんで、新芽を食ったりするらしい。ほと、ドングリや栗がなる時分にはそれを食うらしい。熊ってのは雑食性やもんで、あの、鹿の倒れたやつやなんかも食うって話や。
[稲葉0:45:39]ほんで、なんやこの、里へ下りてくるっていうんか、あーゆうのは昔とは違って?
[佐々木0:45:46]やっぱり餌がないでやろなぁ。
[稲葉0:45:50]ってことは山が荒れとるってこと?
[佐々木0:45:52]荒れとる。ほやろなぁ。
[稲葉0:46:00]一時には、あの、猪、おまんた、結構な数、獲ってきとったけど、あれどれくらい獲った?
[佐々木0:46:09]どのくらい?小さいやつ入れて、7、80獲ったんでないか、あの時分で。
[稲葉0:46:16]5,6人でか?
[佐々木0:46:17]ほやほや。あの時分、穴場のまわり、巣の潜り、いくと、いくらもおいでたもん。おった、ほんで、増えすぎたもんで、それから豚コレラが流行ったんやなぁ。いっきに減ってまった。
[稲葉0:46:30]逆にいうと増えすぎたんか?
[佐々木0:46:31]増えすぎたんや、大抵。んで、増えすぎて、食うもんないもんで、今のあの豚小屋のまわり来て、豚コレラにかかって、死ぬもんで厳しくなったんやなぁ。
[稲葉0:46:51]キヨミさん何分経った?
[キヨミ0:46:53]45分。
[稲葉0:46:55]45分か。他になにか言っておきたいことはございませんか?
[佐々木0:47:00]言っておきたいことか。
[キヨミ0:47:05]聞いときたいことがある。河口堰ができた後と前でだいぶ変化あるか?
[佐々木0:47:12]ここらへんはあんまり関係ないなぁ。
[稲葉0:47:16]それはなに、魚を放流するもんで、関係ないんか?
[佐々木0:47:21]あのサツキマスもサクラマスも、サツキマスも来ることは上ってくることはくるんやで、そう河口堰は関係ないと思うけど、たしかに数は少ないかもわからんな、上がってくる。
[稲葉0:47:34]ほんで、いや、鰻なんかは、あれは放流はしとらんやろ?
[佐々木0:47:39]鰻放流するんや。
[稲葉0:47:41]するんか。あぁ、ほすると分からんよな。
[佐々木0:47:43]ほんでもやっぱ、あの海岸へ、こうゆうシラスが来るくらいやで、上ってくることは上ってくるとは思うよ。ここまで来るうちにどうにかなるかもわからんしな。俺んた、あのー、美濃市におる時分に6月頃かな、あの、鰻の笛があるんや、このくらいの、鰻笛ってやつが。あいつに鉄砲ミミズを詰めて、あのー…夕方、美濃市の長良川とこ、こう入れとくと朝、網に入れると、これくらいの鰻いっくらも入ってた。そいつが大きくなって上ってくればここらへんにおると思うけど。うじゃうじゃ入っとったよこのくらいの鰻が。
[稲葉0:48:32]ほいたら、魚釣りの昔と今では違ってきたってのは、なんや?
[佐々木0:48:41]道具がいいやつと、あの、道具がいいやつと、そして、なんていうんかな、どこでも行ける車があるし、そうゆうことやな。
[稲葉0:49:04]お前あんまり提灯釣りはやらなんだんかな?
[佐々木0:49:06]提灯釣りはせん。癇癪が起きるもな。引っかかってばっかおるで。
[稲葉0:49:16]あの、エンドウエイチさんかや。あの人提灯釣りって、まぁあの
[佐々木0:49:22]よぉ奥行きよざったなぁ。あの今の久沢の周りの奥や、きよみの周りよく行きよざったなぁ。
[稲葉0:49:26]今あーゆう人っておるんか?
[佐々木0:49:29]あーゆう人まずおらんな、今。あの、エンドウさんは、ゆきしろかんすいかなんやらって、俺持ってざって、新聞もよぉ出しよざったけど、よぉ遠いとこ行きよざった。単車で。
[稲葉0:49:44]あの人は、大体白山の、大体あのー、周辺って山を全部行っとる感じやったもやな。それも50の単車で。
[佐々木0:49:53]あそこの娘がそう言ったん。朝さぶいもんで、父ちゃんカッパの下のここに新聞紙を当てて、単車で行きよったって。よぉあの時分な、50の単車でひるがのまでよぉ上って行ったわ。
[稲葉0:50:07]俺、九頭竜ダムでよ出会ったぞ。「おーい」っていうで、誰やしらんって思ったら、エンドウさんやった。
[佐々木0:50:12]あの久沢の、あの奥の周りも行きよざったもん。しまいには、もう歳とらしたんかしらんが、あそこで泊まる魚釣りのお客が来るもんで、うちの俺んた、結構アマゴ頼まれたもんあの人に。焼いて食わっせるんか、どうなんかしらん。しまいにエンドウさんも歳とったもんで、行かっせんようになったもんでな。好きやったあの人も。
[稲葉0:50:43]そしたら、この辺の川でちょっとおい、ここだけ違う魚おるぞってとこはないか?よぉ獲れるとか、
[佐々木0:50:52]せなとこあったら、俺が気付く。
[稲葉0:50:57]あの、九頭竜の、ほら面谷川って、まったく魚がおらんが。やっぱ、あそこはほんとになんもおらんのか?
[佐々木0:51:04]おらんと思うよ、やっぱあれ。ほんでも今だいぶ経つで、ダムに直結しとるで、鰻くらいは、上ってくるかもわからんな。まるっきり水が悪いわけでないで、あれは鉱山の水が流れたっていうやで。
[稲葉0:51:22]綺麗な水なんやけど、やっぱり魚おらんで。
[佐々木0:51:28]あれ、久沢の周り行くと、川にあの、今のあそこらへんにほれ、ワカサギがおるもんで、ワカサギがよぉ川に上ってきとるけど、面谷の川で一回も見たことないな。随分冬になると、面谷の周りに行くけども、まず見んな。鹿や猪が川の中入っとるくらいで。
[稲葉0:51:58]特に、まぁあーゆう深いとこ行ったとこは、やっぱ穴場が多いか?それとも…
[佐々木0:52:04]深いとこって?
[稲葉0:52:05]いや、まぁ遠くっていうんか、山の中の川よ。お前も昔あのほら、勝山から上ってって、
[佐々木0:52:14]あぁ、手取か?1回行ったことあるな。
[稲葉0:52:19]ほいて、もう1つは、その手前の谷、谷峠とか谷部落とかって、お前なんか山芋掘りにあかうさぎ山のどうのこうのに行きよったが、
[佐々木0:52:31]あれ谷流れとったかや?
[稲葉0:52:34]おん。なんか、あかうさぎ山いくほうにジンとなんか話をしよったら、あっち行ったって言った。
[佐々木0:52:39]あの、勝山から今手取抜けてく道のダムの温泉のへんから右入ってった谷かな。まだ壊れかけみたいな家があった。
[稲葉0:52:50]おぉ、そうそうそう。昔、人が住んどって、あれ、あの~…谷、谷なんとかっていう。
[佐々木0:52:59]地名はしらんなぁ。いっぺん行ったことがある。あの手取も遠くてえらかったもん。手取も行ったし、今のあそこのどこや、かみおかのあっちも、びわ側の方行ったけど、ヤマメが多いもんであかんのやな。ヤマメが多いし、魚が美味くないもん。
[稲葉0:53:28]じゃあ石徹白の川もあんまり
[佐々木0:53:30]あんまりうもぉない。
[稲葉0:53:32] 冷たいでダメか。じゃあおがみは?
[佐々木0:53:37]おがみもあんまり。とにかく、俺は人から聞いたけど、この日本海に流れる川と太平洋流れる川では魚の種類が違うんよなぁ。ほんで、日本海側で流れる谷には、ヤマメ系統が多い。ほんで、こっちの太平洋側流れる川はアマゴ系統なんや。ほんで向こう行くとみんなヤマメやわ。あのパールマークはあるけど、赤い斑点がないんやな。赤い斑点があってもヤマメでも、ここのなんていうんかな線のそばに赤い斑点がスっとあるだけで、ほんで釣ってきても、腹を裂くときに身が柔らかいもんでうまいこと裂けんのよ。
[稲葉0:54:27]それやっぱり水が冷たいから?
[佐々木0:54:29]冷たいでや。あの、あれやったよ白鳥の魚釣りの上手な人が今のあの、あそこよ、久沢。久沢でないむくみか。むくみのあの、今のあの、むくみのほうの谷へイグイがどえらい獲れたもんでイグイ釣って持ってきて、うちで煮て食ったら、誰も食わなんだ。猫も食わなんだってって言わっしゃる。水が冷たいもんでなぁ。今ちょうめ行くと、九頭竜の今のにぐれや、今の、ほれ、いちののの周りの川に大抵ツキがついとるわ。このくらいのツキが。ダムから上がったやつがなぁ。川がきれーいに動きよる。ツキがつくもんで。
[稲葉0:55:16]ほしたらよ、あの、アマゴは魚籠入れるやん。ところが、あのー…なんや、鮎よ。魚籠入れるってことはないや。あれはまぁそんなようなもんなんか。
[佐々木0:55:31]鮎は生きた囮で、鮎を引っ掛けならんが。ほんで、生かしておかないかん。アマゴは釣ったって、そのアマゴで釣るわけでないで、要するにこうゆうとこ、魚籠入れるんや。
[稲葉0:55:48]そうか、いやー。あのー…はよぉダメになるで、生かいておくってことやないか。
[佐々木0:55:54]それもある、それをみんなやりよるな。みんなあしばこ持って、アマゴ釣りしよる。
[稲葉0:00:00]ほしゃ、アマゴをそうゆう風にしたら、またせーなことはめんどくさい話か。
[佐々木0:00:00]生かして、そりゃめんどくさい。昔、アマゴで商売しとった人はよ、釣れると、あのー…1匹1匹タオルで水を拭いて、入れよざった。どうしても水がつくとクタクタになるでなぁ。商売にする人はそうやってやりよざった。
[稲葉0:56:42]キヨミさん、なんか、ご質問はございませんか?
[キヨミ0:56:50]せっかくやでその、餌入れの説明をしてもらえるか?餌入れよ。
[稲葉0:56:56]これか。
[キヨミ0:56:57]これ作ったんやろ?
[佐々木0:56:58]これ自分で作った。
[稲葉0:56:59]ちょいちょい。
[佐々木0:57:00]なんじゃよ。
[稲葉0:57:01]いやいや、これなんよこれ、あのこれ、
[佐々木0:57:02]竹や。
[稲葉0:57:05]ほんで、これは節で?
[佐々木0:57:09]これ節でない。これ、あの、うん。
[稲葉0:57:12]下へ入れて、で、その中でさっきのそのなんや、
[佐々木0:57:18]うん。けむしを入れとくんや。金箔も。金箔はまたこれに入れるとよ、伝ってきて逃げていくんや。モゾモゾモゾモゾ。ほんで、やるとき、こぉポンポンポンって下落としといとく。ほんでなければ、上上がってきて,
ポコっと出ていってまう。今そんだけの入れとるもん、そうおらんわ、みんなプラスチックのな、あれをしとる。
[キヨミ0:57:54]網の角度ってなんかあるんか?
[佐々木0:57:56]これは好きずきやな。俺はあんまり角度つけんけども、角度つけとる人はここやってしとるでな。
[稲葉0:58:02]そこ入れるために角度あるんか。
[佐々木0:58:04]俺はこうやって、この角度は好きやもんで、ここへ入れるけど、このくらいの角度のやつもある。
[キヨミ0:58:15]これ自分で作られたんか?
[佐々木0:58:17]枠、これ、網は違うけど、枠とこれは自分で作った。今、この、ここに鹿の角の流行りでな。みんな鹿の角をここに入れとる。
[稲葉0:58:31]まあええわ、ほら、なんていうんやな、ここが木で
[佐々木0:58:35]枠で。木枠で。
[稲葉0:58:36]あれは何の木で?
[佐々木0:58:39]あれは、モミの木と、あの、ガヤが一番ええっていうけど、ガヤはあんまり無いもなぁ。モミの木は、ポキっと折れるけど、ガヤはねばいもんで、ポキっと折れんっていうけど。
[稲葉0:58:57]これは?これなにに使うん?
[佐々木0:59:00]これは、アマゴ釣りや。まぁ俺歳取ったもんで、これ2本見えとらん。はかま作って。もう歳取ったら重たいもん持てんもん。
[稲葉0:59:19]目は見えるか?これ、つけると。
[佐々木0:59:21]目はもうほんで、老眼鏡かけとる。
[稲葉0:59:23]あぁ、そうか。ふーん。
[佐々木0:59:22]食い散らかすと、10分か20分捕まっとらんと、目が見えんで。
[キヨミ0:59:34]釣れる仕掛けなんてあるんか?釣れる仕掛け。
[佐々木0:59:37]いやーそれは別にないな。食い気があるときに行くと誰でも釣れるけどなぁ。食い気がないとだしかん。やっぱ、水の、昔からいうに水での3日そいって、3日過ぎるとだしかん。降り始めが一番釣れるなぁ。3日続くともう釣れんっていうもんで、もう餌食って腹いっぱいになるかどうなんかしらん。
[稲葉1:00:05]ほいたら、天気の、いや雨降りのどうのこうのっていうやん、あれいつが?
[佐々木1:00:11]あれ雨後に釣れるそういうもんで、アマゴアマゴって言っとるんよ。雨後に釣れるもんで、アメゴアメゴっていう人もおるなぁ。
[稲葉1:00:24]ほしゃあ、朝と夕方とか、そうゆうの?
[佐々木1:00:27]そりゃ、朝早いほうがええ。ほいで夕方と。若い時にはもう3時半頃行って川で待っとったよ。ほんで。
[稲葉1:00:39]それは、普通の虫が飛ぶやつを食べるもんで、っていうそんなような関係なんか?
[佐々木1:00:45]それもあるし、やっぱ明るくなってくると、食いたいもんで食い気があるんでないか。
[稲葉1:00:54]風のある時はだしかん?
[佐々木1:00:56]だめやな。ほんでも上手なもんに言わせると、川の中が風が吹いてないと、っていうものがおるでな。釣るものがおるで。あれやっぱ重りをだいぶ重とぉして、やっとるんよ。ほんでなければ、風でブーっと浮いてまうでなぁ。
[稲葉1:01:13]魚は関係ないわけか。釣る方が風が、
[佐々木1:01:21]それから今のサツキマスを釣るにはあの、重たいもんで、深いとこへせを流すもんで、風が吹いとったって、水の中風が吹いとらんもんで、重たい重りで流すもんで、詰まる率も多いんかなぁ。
[稲葉1:01:37]ほいたら、雪が降っとるときはどうなんや?
[佐々木1:01:39]雪は降っとるときはもうあれやもん。禁漁の時期やで。
[稲葉1:01:54]あっそか。そういやぁ、あの100年後にお前の子孫がこれを聞いた時に、えーちょっと、100年後のお前の子孫にちょっとメッセージを入れてみてくれんかぁ。
[佐々木1:02:08]子孫はたいていおらんわなぁ。
[稲葉1:02:09]いやわからんで。
[佐々木1:02:11]おらんなぁ。今の長男に子どもはないし、
[稲葉1:02:14]いや意外に。まぁ、あの、なんや娘からいろんなところからまた周り回って、それがお前のような、あの、魚釣りになったとするとやよ、ちょっとなんかアドバイス。
[佐々木1:02:30]100年後なんて、わからんで。
[稲葉1:02:35]いや、まぁ、魚はこうなんよっていう。
[佐々木1:02:47]まぁ、メッセージもなにもないですが。コロナが落ち着いてくれんことには。今年の鮎の解禁も近こぉなってきたけど、どうなるわからんしな。商売がみんな休みやでなぁ。料理屋が。
[稲葉1:03:06]あぁ、そうか。料理屋が休みなもんで、まぁ魚の商売がならんってことが、まぁ1つか。
[佐々木1:03:10]そやなぁ。
[稲葉1:03:13]あ、新聞にも載っとったもなぁ。あの鮎の。
[佐々木1:03:17]4万やったか、1キロ。
[稲葉1:03:19]結局売れんのやろ?
[佐々木1:03:21]ん?あれは競り。競りで買っとったんや4万円。
[稲葉1:03:26]あ、そうか。いやなんか、その出しても売れんっていうのは新聞に載っていたような気がした。
[佐々木1:03:39]やっぱ飲食業があれでなければ、鮎も売ったって出るにかぎらんよ。
[稲葉1:03:49]はい、まずはありあとうございました。
[佐々木1:03:52]いえ、こちらこそ。
[稲葉1:03:53]えーっと、今日は2021年の5月の13日、木曜日です。で、わたくしと佐々木は現在69歳。えー…佐々木は10月やった?
[佐々木1:04:11]俺9月。
[稲葉1:04:12]9月か。俺の方が8月で、まぁ70なるやら。まあそうゆうときにちょっと収録をしました。以上です。あっ、場所が、ここが岐阜県郡上市白鳥町恩地。
[佐々木1:04:32]593番地。
[稲葉1:04:34] 593番地です。まぁ100年後にここがあるか、どうか。
[佐々木1:04:40]大抵ないと思います。
[稲葉1:04:42]まぁ、そゆことです。以上、終わります。
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[佐々木1:04:46]ありがとうございました。
[稲葉1:04:48]はいまぁこんなようなことで。いやこれが化けるんや。すごい資料になってく可能性がある。
[佐々木1:04:56]何にもならん資料かもわからん。
[稲葉1:05:00]いや、おれんたが今100年前の時に、この話があれば、
[佐々木1:05:20]どーやろな、サラッサラの川になってまわんか、大抵なぁ。
[稲葉1:05:26]いや、その前にどこの家に住んでいるよって話で、おまんとこはどうやろ、うちの前はおるおらんって、はやよ、結構なところがよ、嘘やろって思うくらいやで。
[稲葉1:05:47]はい、ご苦労さんでした。
④朝日澄雄さんのオーラルヒストリー
[稲葉0:00:03]こんにちは。今日は、朝日澄雄さんのオーラルヒストリーを録る、ということで、えー、朝日さんの、朝日さん、ここなんといったらいいですか?あの別荘?
[朝日0:00:20]あぁ、そうだね。私の隠れ家というか。
[稲葉0:00:25]そこへお邪魔をしまして、色々と話を伺いたいと思います。今日は、3月の22日なんですが、まぁ、そんなことと、朝日さんにまぁ、秘密やら名前やらからまず伺いたいと思います。朝日さん、よろしくお願いいたします。早速ですが、自己紹介をちょっとお願いいたします。
[朝日0:00:51]はい、分かりました。朝日澄雄です。よろしくお願いいたします。
私は1944年、えー昭和19年8月27日生まれです。私の産まれたのがちょうど戦時中でありまして、名古屋の北区で産まれました。で、あの、ちょうど戦時中で、ですね、僕が産まれた時は、ほんとに食べ物があの頃無かったもんですから、今日死ぬか明日死ぬかっていうくらいのほんと、栄養失調で産まれたそうです。で、僕も生まれて、うちの家族は、あのー、親父、お袋、それから兄弟、7人兄弟ですけれども。僕が産まれた時は、あの私が5男で産まれて、僕の上に1人、姉さんがいてですね、6番目だったんですね。そうゆうことで本当に、それも僕が産まれて9年間で、6人ということですから、ほんとに、あの、両親もですね、随分苦労されたと思うんですけれど。そうゆう中で、まず戦時中でありましたので、親父もその出身地が、郡上市大和町の大間見です。で、大間見で、あの親父がちょっと、こっちの方に来まして、そして疎開先を探しにきたんですけれど、郡上では、大間見の方では無かったもんですから、今の美並村の所の昔カッパラっていったんですけど、そこに見つけてですね、そこへ疎開を致しました。で、僕のすぐ1個下の妹がいるんですけど、そうゆうことで、僕が、その来た時には、まぁ、うちのお袋の親戚のカワシマヨシコって人がいたんですけれど、その人が愛知県中島郡の祖父江町の森下の生まれです。その人に私は面倒を見てもらったと、いうことですね。ほんと、僕も親父の話を聞くと、生まれた時はほんと栄養失調で、今日死ぬか明日死ぬかっていうような、そうゆうことだったんです。
そうゆう中で、その、美並の所に朝鮮の人がみえて、その人が豚を飼っとって、その豚汁の上みの、あの脂だらけのとこをちょっと流して、それで、飲ましたらちょっと肥えてきたっていうことで、そうゆうことも親父から聞きました。
で、僕も生まれた時に、あのお袋の在所の中島郡祖父江町のところで、えー、お坊さんにみてもらったんらしいです。その時は、「あっ、この子は、あの、坊さんに縁がある。」と、で、坊さんになると、この子は出世するようなことを、親父から聞きました。で、そうゆうことを親父から僕の小学校の頃に聞いたんですけど、そうゆうことで、それはまだ僕も小さかったもんですから、うわの空で聞いとったんですけど、まぁ、そうゆうことは親父から話を受けました。
で、私も小学校の頃、に名古屋でまぁ友達同士で遊んでた時でも、親父がちょうど鉄工所を、やっていましたもんですから、親父もですね、えー、今の大間見から10歳の時に、えー、こぞうに出かけたのが中島郡の祖父江町の方の鉄工所に行ったらしいんです。で、それで、工場へ行って随分、こう苦労をして、ですね、そこの親方の紹介で、今の、あのーお袋、朝日カズコですけども、で、お袋は名古屋の方で看護師、看護婦をやっとったようなことを僕は聞いたことがありますけども、そうゆうご縁で、えー紹介してもらってですね、そして親父は結婚したと。
[稲葉0:05:17]お父様の名前はなんていうんですか?
[朝日0:05:19]あの、朝日シゲジです。はい。ほんで、お袋の名前が朝日カズコ。
で、小学校の時にですね、僕がちょうど小学校6年生の時にそろばん塾に行っとりまして、そろばん塾から帰ってきたら、12月の5日やったんですけど、その場で倒れとったんです。で、その日に亡くなったんです。で、病名は脳溢血ってことで、両方のこの血管のこれを大動脈を切ってですね、頭にバーッと血が上っちゃって倒れたということで、その時は名古屋は寒かったですね、12月5日ですから、ほんで、それで倒れて、僕が帰った時にはもう寝とったんです。で、あのー顔が真っ青で寝とって、そして、あのー医者を呼んで、あの、やってもらったら、まだまだ医学は進んでいませんので、で、注射を打ったんですね、そしたら、打ったらすぐにもう早く亡くなったんです。もう、あの、僕が帰ってきたそろばん塾から帰ったのが、6時ごろ帰ってきて、ほんで、僕がお袋が9時半か10時頃亡くなった、その日の。
僕はすぐそれを聞いて、みんな、ちょっと近所に連絡してこいって言われて、僕が連絡ずーっと回ったんですけど、その時「いや、さっきまで話しとった。さっきまで話しとった。」って話ばっかで、なんであんな元気な人が亡くなったんだってことで、近所の人みんなびっくりしとった。
[稲葉0:07:00]それは、あの何年ごろ?
[朝日0:07:02]えーっと、僕が小学校6年生ですから、えー19年で生まれて、小学校6年生やと7つ上がり13歳ですか。ね、そうゆうことで、で、いってですね、で、すぐ、こう亡くなって、そんで、お袋もですね、すごく信仰心が深かったんでね、で、前から、こう、あのー血圧は高かったんらしいですけども、で、あの、よく、あのー京都の伏見稲荷だとか、それから、今のあのーなんだ、えー、「どっこいしょじょどっこいしょじょ」って上がっていく、あのー、ちょっとお待ちください。どこだったかな?
[稲葉0:07:56]それは名古屋ですか?
[朝日0:07:58]いや名古屋じゃないです。あのー、山を、あのー、あっ御嶽山だ。御嶽山の山を登って、そうゆうところで白衣を持ってですね、白衣にかんバンバンした。僕が見たんですけど。で、わしが死んだら、この白衣を着させてくれ、着させてくれって言って、あのいったんですね。そして、我々兄弟が名古屋におった時に長男次男がこんな、ねぇ縁起の悪いこと言うなって言って、あのー、お袋によく言ってたんです。そうゆう風なお袋で、まぁ、今思い出したと。そうゆうことですね。
[稲葉0:08:43]ほと、お父さんは、その後は1人だったんですか?
[朝日0:08:47]そうですね。ほんで、うちも兄弟はたくさんいますので、で、その中で、あの、お手伝いさん、昔でいうと女中さんですけど、今でいうとお手伝いさんを1人雇って、そして、あの、面倒みてもらった。で、それで、うちのおかあも会社をやっていますので、そうゆうなかで郡上の方からも何人の人が来て、一緒に食事してですね、で、まぁおったんですけど、そうゆうことが僕の小学校時代の思い出っていうのがね。僕もほんとに親父、お袋、それから兄弟みんなに可愛がられて、まあ育ってきた、ということで。
また、僕の友達もですね、あの頃まだ、昭和20何年ですから、日本のみんなが生活が苦しい中で、うちは仕事やっていましたので、みんなから財閥の子だとか、それから、社長の息子だとか、そういう風に、こう言われたりね。だけど、僕は、その頃、もうそうゆうこと言われること自体嫌で、ねぇ、親父は偉いけども、俺はもう、ただの普通の人間だと。んで、親父が褒めてくれるのは嬉しいけれど、その息子であって、ねぇ、だから、そうゆうのはまた、別問題ということで、よく友達にそれは言い返していたんですね。
で、そして、みんなと一緒に田んぼだとか、いろんなところ飛び回って遊んだり、それから、よくザリガニ、今でもね、ザリガニを釣ったり、カエル捕まえてそれを餌にしてザリガニ獲ったり、それから、田植えが終わったときに、ところにモコモコっと出てくると中に穴が空いとるんやね、そこ手を突っ込んで、獲るとザリガニが獲れたり。まぁ、そのようなことをして、あとは庄内川でしゅわい釣りやったり、そうゆうようなことをして、あとは友達同士でソフトボールやったり、そうゆうようなことして遊んどったっていうことが記憶にありますね。よく、あの庄内川へ夏は泳ぎに行ったり、で、ついたちに1回ナマズの大きいやつ釣ったことがあるんですけど、それをナマズを釣ったり、そのようなことをして、あの頃は、今と違って、遊ぶものもないですから、そうゆう外で、いろいろ、こう遊ぶというのが、我々の日課みたいだったんですね。
そして、小学校卒業して、お袋が亡くなった。そうゆう寂しさもあって、今度あの、中学校入ったんですけど、最初僕は、野球が好きだったもんですから、野球部入ったんですね。1年生の時に。そしたら、やっぱし先輩の人がね、まぁ厳しい先輩がおってですね、それで、もうちょっと言われたんやねいろいろと。僕は小学校の頃は、そうゆうこと言われたことはあんまないもんですから、それでもう嫌になって、すぐ辞めちゃったんですね、野球をね。で、野球辞めて、まぁ、普通の、あの、中学生みんなで遊んどったんですけど。僕が中学2年生になった時に、あの、やはり、こう、あのー中学校入ったらやっぱし、こう放課の時にサッカーをね、やってましたもんですから、サッカーおもしろかったもんで、んで、ある1級上の先輩の人が、僕に「おい、お前サッカー部入らんか。」ってことで、まぁ誘われて、そして僕がサッカーをやったんです。
[稲葉0:12:35]それは1年生ですか?2年生ですか?
[朝日0:12:37]2年生の時。2年生上がってからね、であの、サッカーやって、そしてまた、僕の友達もサッカーやって、で、サッカー部はね、あの頃おおちゃくかったんですね。いろいろとね、おおちゃかったもんですから、んで、1年間やって、ほんで、愛知県大会でも、優勝は志賀中は、僕は志賀中学、ねぇ、北区の志賀中学ですけども、優勝してですね。名古屋市大会で。そうゆうこともあったんですけど、あまりにも、サッカー部おおちゃくいもんですから、3年生の時にサッカー部解散なっちゃって。で、なっちゃってですね。そして、その時は、僕もやりませんので。で、後はまた元に戻ってですね。そして、まぁ友達と遊んだり、いろんなことして、あったんですけども。まぁとにかく、あの、中学校2年生の時は、おおちゃくなるので、やはりそうゆう時期ですから。まぁ僕もそう仲間にちょっと入ったこともあるんですけども。まぁ、そうゆうことで。
まぁ、あのー今の3年生の時過ごして。そんで、高校進学する時にですね、その時ちょうど名古屋市の中学の3年生ですけども、名古屋市のその、みんなの、サッカーの人達集まって、そしてチーム作って、他の愛知県だとかいろんなところで試合やるってことで、選抜チームがあったんです。で、その時に話があって、僕もその中学2年生の時にやっとったもんですから、僕と友達、ねぇ、タナカカズユキくんだけども、その人と一応メンバーに入って、で名古屋市の選抜チームの1回試合をしたと。それも憧れの、あの頃は名古屋の鶴舞公園、今でいうと、鶴舞(つるま)ですけども、そこでやったと。
で、卒業して、で、あの、まぁ、今の野球の名門校、名古屋のね。中京商業高等学校ですけども、今はそっから名前が変わって、中京高校、今、中京大学中京、中京大附属中京高校というように名前がどんどんが変わって、そこの僕は中京商業の時に卒業したんですけども。まぁ、あの頃は野球は名門ですから、野球部はプロ野球へどんどんいったよね。で、中日も入ってるし、それから、あの巨人にも入ったり、それから南海だとか、いろんなところに先輩だとかそうゆう人達が活躍されたということは聞いております。で、僕の中京商業入った時には、甲子園で1回優勝すると、応援歌ができるんです。その応援歌が、僕の時は9番まであったんですね。ってことは、甲子園で9回優勝したということです。春夏合わせて、とにかく全国優勝すると1つの応援歌ができる。それが9回、で、あってですね。で、僕の時には、あの、ちょうど、甲子園の時にもキャッチャーは木俣、木俣は中日ドラゴンズ入ったんですけども、もう1人は、ピッチャーは林ってピッチャーおって、その人は南海、あの頃南海ね、大阪のそこに入って、で、やってきたんです。
僕もサッカーで、僕は1年生の時にサッカー部入ってですね。えー、やったんですけども、とにかくその、初め、僕も入って、とにかく先生が、全日本の先生だったもんですから。その友達が、「こうゆう、いい先生がいるから」中商来んかってこと言われて。ほんと僕は、あのうちの会社は、鉄工所ですから、ほんと僕は工業高校行こうと思ったんです。で、工業高校行こうと思って、その時には、僕の兄貴が、レスリング部入っとったもんですから、僕はそこで、レスリングやろうと思って、おったんですけども、僕の友達のカトウマサカズっていう子が、こうゆう先生が来たんだから、朝日お前も中商行って、サッカーやらんかってこと言われて、んで、僕も気がそうかってことで僕も気が変わって、中商に入って、で、サッカーやったんですね。僕も1年生入った時には、サッカー部は40人くらい、こう来るんですね、サッカー部にね。それも今の三河の方っていうのはサッカーみんな、盛んだったんですから。で、大府高校だとか、かるいざきだとか、いろんなところの三河の学校から同じに入ってきて、そうゆう中で、僕もサッカー部入って、で、一生懸命やったんですけど。
最初、入学してから5月の時にちょうど鶴舞で、鶴舞公園でその、サッカーの試合があって、その時に、今からメンバー選ばれた人が、あの、明日鶴舞来いってことで、メンバーずーっと呼ばれたんですね。僕まだ1年生ですから、当然名前は呼ばれないと思っておったんですけど、最後に「朝日」って言われたんですよ。「えっ、誰?」って、びっくりして、で、僕も呼ばれて、鶴舞公園、で、1泊して、あくる日に試合だったんですけども。その日はちょうど雨がじゃんじゃん降って、暑かったです。じゃんじゃん降って、前の日にね。で、それであくる日は雨が止んだんだけど、ほんとにね、暑くて。その時、先生は、ちょうど試合が前半終わって、後半の時に、「おい、朝日お前出ろ。」って言うんですね、試合に。僕もびっくりして、当然僕も鶴舞まで行けん、そうゆう風で、僕は思っとって、それが行って、すぐに試合に出させてもらえるなんて、ほんとに僕もびっくりして、嬉しかったんですけども。で、いざ、後半になって、行ったら、心臓はドキドキドキドキしてくるわ。ねぇ、ほんで、足はガタガタガタガタ震えてくるわ。もうほんとうにね。まぁ後半のキックオフなったんだけども、初めの5分か7分くらいまで、全然、もう、浮足だっちゃって、全然できなかったんだけど。そうゆう中で、まぁ、それでも段々試合にのめり込んで、まぁ一生懸命やったんですけども。
[稲葉0:19:30]その時のサッカーのポジションは?
[朝日0:19:31]ポジションは、昔はフルバックっていって、今でいうとディフェンダーですね。ゴールキーパーの前です。の、前で僕は右のフルバック。んでフルバックで、今は、右のディフェンダーの方でおったんですけど。そこで、やってですね。そして、それがもう6月に入ってきて、あの、あとたいが試合がちょこちょこあったんですけども、その時、初めは前半出たり、後半出たり、ちょこちょこしとったんですけども、もう7月に入った時には、レギュラーで定着しまして。そして、その、8月になると、あの国体予選があるんです。国体予選ね。で、その時も、僕はレギュラーで出てですね。その時は、もう、愛知県であの頃強かったのが、刈谷高校だとか、それから豊田西高だとか、熱田高校、半田高校、それから僕たちの中京商業と。だから、僕らいつも、準々決勝か準決勝、の、だから僕は準決勝で負けたんかな。で、その場で負けまして。で、国体は、1年生の時はダメで。その次の大きな大会というと1月の正月から始まる、全国高校サッカー選手権大会、それも、その年の時は、準決勝で負けたんですけど。僕が、まぁ1年経って、2年生になった時に、今度は、3年生がたくさんおったですから、その時は強くて、愛知県でもいろんな大会出ては、優勝したり、いろんなことして。
でも国体を、まぁ、国体は出たんですけど、決勝で刈谷高校と試合やって、で、あの時は3-2で勝ったんかな。それで、愛知県で優勝して。その後は東海4県なんです。東海4県は、愛知県は、中京商業。それから、三重県は上野高校。それから岐阜県は、岐阜工業高校。それから、あの、静岡県は、藤枝東高校と。ほんで、その内4高出て、3高しか出れないです。国体は。1回勝たないとダメですから。最初に戦ったのは、あの、岐阜の岐阜工業高校と中商と戦ったんですけども。その時に僕たちは勝って、で、まぁこれで国体決まると。決勝戦は、藤枝東とやって、その次は3-2で負けたんですけども。僕たちもそれだけの実力はあったんですね。で、その藤枝東がその年の国体の優勝校なんです。国体のね、僕も国体でいけるってことで、ほんとに、まぁ嬉しかったですね。もうほんとに、ねぇ、サッカーやってて、よかったなぁと思って、で、まぁ僕も帰ってきて、家帰って、実はこうやって出れるんだということで。
10月のまぁ、10月入った時に、今度は、国体へ行ったんですけども、その頃は今と違って、新幹線が無いんです。ねぇ、だから名古屋駅へ朝、たしか、あれ9時半か10時やったかな集合して、東京まで8時間くらいかかったですから。で、東京へ行って、そっから上野まで行って、時間を待ち合わせて、国体列車に乗って、そして秋田まで行ったと。で、秋田へは朝着いて、そして、あのまぁ、秋田駅のところの食堂入って、食事して、それから今度電車乗り換えて、それから、西目村まで行きました。西目村は、今の僕の記憶では、そんなに大きな町ではなくて、まぁ白鳥と白鳥駅みたいなあんなような感じです。で、そっからちょうど電車降りてから、100mくらいパレードしてくれるってことで、ブラスバンド前に来て、僕たちはそこずーっと歩いてですね、左右の2階から、ね、「おーい」とかっていう声もみんなやってくれて、そうゆうイメージがものすごく強いですけど。で、それから歩いてから、バスが待っとって、そのバス乗って、宿舎まで行きました。
それから今度は、練習をしてですね、ちょうど国体行った時にですね、先生が言った言葉が、ほんと国体やと、開会式があるんですよ。開会式が僕ら出れると思ったら、出れなかったんです。で、先生が、「オリンピック行ってもなぁ、開会式出るとなぁ、僕たちすぐ試合があったから、試合があるときは、開会式行くと疲れるから、んだから、開会式は出れない。」ってとで、ほんとあの時は、ガクッときたですね。もう、そうゆう開会式のお客さんいっぱいおる中で、開会式の練習までしていきましたから、そうゆうことで、ちょっと、まぁ寂しかったんですけど。
それで、終わって、あくる日に試合があったんですね。それが、今の秋田県の西目村っていうとこですね。今でいうと本荘西目村かな、そこで試合をやりました。1回戦でやったのが、北海道のモヌマヒガシ高校、と試合をやりまして、その時出たんですね、試合に。まぁ通常どおり。で、やった時に、前半の時に、ボールが高くバーっと上がった時に僕がその場でジャンプして、ヘディングをやったんですけども、相手が僕にバーンとぶつかってきて、後ろバーンと倒れたんですね。その弾みで、今と違って、下が土ですから、ですから、それで、あの、手をバンッとついた時に激痛が走ったんでね。ほんで、走っても「痛い!」と思ってやったけども、それでも5分くらい頑張っとったんだけど、まぁ先生が気がついて、「朝日、出てこい。」ってことで、出たら、フラーっと、こう、ね、脳震盪を起こして、手がちょうどこうね、くの字になっちゃって、骨折だったんです。で、そのまますぐに行ってですね、病院行って、ギブスはめて、帰ってきたんですけど。1回戦は勝ったんです。で、勝って、2回戦は、大阪の明星高校とやってですね、それは今度は、会場が変わって、本荘っていうところ、秋田県の本荘市、そこで試合やって、その時、ちょうど雨降りだったんやね。その2回戦では負けたんですけど、そうゆうことで、まぁ国体行って、で、まぁ僕たちの先生は、あの名古屋クラブでやっていましたから、で、名古屋クラブが出て、だから僕は決勝まで、秋田国体のいいところ見させてもらったんだけど。そうゆうことで、後は、帰りは、また僕は手は左手ですから、左手をまぁ三角につって、帰ってきたんですけど、そして、帰ってきたと。
[稲葉0:27:33]その時は、今の日本のサッカー界の、「釜本」も、その大会におったんですか?
[朝日0:27:41]そうですね。あの人は、京都の山城高校、の出で、僕と同じ歳なんです。で、その時は、もう秋田国体の時に一緒だったんです。あの人は、その頃からものすごく有名だって、で、あの人は、その、ユースってあるんですね、高校生の上手い人が集まってくるユースがあるんですけど、そのユースのメンバーにも入っていたんです。だから、非常に優秀な選手で、その人が、まぁおったってことは、僕も知っています。はい。
で、そうゆう中で、それから、また名古屋に帰って、今度は国体終わりましたから、今度、全国大会の予選がある。すぐね。僕左手つっとって、で、先生から、ねぇ、「左手つっとっても、足は動かせるだろ。サッカーは足でやるんだから、ねぇ、ボールは蹴れるだろ。軽くなら。」ってことで、練習出てこいってことで、もうほんとに左手つりながら、ボールは軽く蹴っとったんですけども、で、その時にも医者行って、もうギブスはめ込み、それから、取ってからも、またリハビリせないかんですから、そんなような状態で、で、11月後半かな、終わりから12月にかけて、あの、全国大会の予選があるんですね。それはもう、1回戦で勝てば、シード校ですから、2回戦から始まったと、2回戦で勝って、当然勝ちますけども、2回戦、3回戦、準々決勝までは、僕は、もうベンチにおったたんですけど、準決勝から出よってことで、僕はもう左手にサポーター巻いて、もうガンガンのサポーター巻いて、試合に出ました。で、準決勝は、愛知県の熱田高校に勝って、決勝戦は、刈谷高校に負けたと。それも、僕たち優勢だったんだけども、延長、延長で負けたんやね。延長戦、延長戦。で、とにかくゴールキーパーがちょっと弱かったですから、ゴールキーパー、トンネルされるわ、そうゆうことで。まぁそうゆうね、苦い経験があったんですね。だから、ゴールキーパーだけ上手かったら、僕たちは完全に全国大会も出てます。で、先生も、その僕たちの、その技術的なものは、もうほんとに評価は、されてましたしね。
[稲葉0:30:25]当時のルールは、今のルールとちょっと違って、オフサイドがなんか違ったんですか?
[朝日0:30:30]いや、あのオフサイドは今とちょっと違う、かなだけども、よく似てます。はい。よく似てます。あの、だから、あの、まぁ今とね、全然フォーメーションは全然違うんだよね。フォーメーションがね。んで今は、もうバックでも前行ったり、いろんなことをして、やるんですけども、もう僕たちは、大体、こうルールが大体あってですね。サッカーの面白いのは、ボールどこ蹴ってもいいんですよ。前蹴ろうが、横蹴ろうが、後ろ蹴ろうが、要は相手のゴールにその、どうゆう風に攻めていくか、ねぇ、それは、その学校、学校のやり方ですよ。で、熱田高校は、キックアンドダッシュでボールをバンバン前蹴ってきて、我々はパスを回しながら、相手を、こう躱して攻めていくっていう、そうゆう戦法ですね。学校によって、全然違うんです。で、僕たちはそうゆうことで、先生から教えられたことを忠実に守ってですね。そして、まぁ決勝戦で、延長、延長で負けたんですけも。まぁそれで、僕の高校2年生は終わってですね。
今度3年生になった時には、その、もう僕たち、1年先輩の人が、もう7人ゴソっと抜けたんですね。7人。その時に僕たち最初40人入ったんだけども、途中やめる、どんどんどんどんサッカー部辞めたり、ねぇ、ほんで、レギュラーなれんって、やめたり、いろんなことあった。練習も厳しいですから。ほんで、結局残ったの3人しか残ってなかった。で、2年生も、まぁ30人ほど来たんですけど、みんな辞めちゃって。で、2年生はレギュラー1人、で、3年生3人。あと全員1年生ですよ。で、だから、僕たちの先生、ミズノ先生がその、ずーっと、こう見てもらって、僕が2年生まで見てもらったんですけど、先生は3年間の約束のあれが終わってですね、僕は知らなかったですよ。で、僕が3年生になった途端に、来なくなったんですよ。で、今と違って、コーチがいないんです。で、まぁおったの、キャプテンとマネージャーと、あと副キャプテンだとか、そうゆう人がおって、やってたんですけど、前は先生が毎日こう練習を見に来てくれたんだけど、先生がいなくなって、で、あとは僕は3年生になった時には、副キャプテンの役で。キャプテンはオカモトっていう子がキャプテンだったんだけど、ちょこちょこ休むんですよ、練習をね。ほうすると、やっぱり下級生に示しがつかん、っていうことで、今のミズノ先生が僕に「お前、あの、ほんとはキャプテンやってほしいんだけど、オカモトに責任を持たせれば、あれも当然練習出てくるだろうと、自覚持って。」ということを言ってたんやな。でも、相変わらず、まぁ昔とそう変わらんと。あの、サッカーは上手かったんですよ。で、そうゆうことで。
で僕もまぁ、あの副キャプテンなったけども、ほんと僕がキャプテンだった。1年生が40人くらい入ってきて、そして、まぁあの、練習をやったんです。先生はいない。だから僕はもう、全部僕とマネージャーで、練習のスケジュール作って、やったと。で、その時に僕もやっぱし、そのゴールキーパーが弱いと、もう、ね、あの大きい大会には出れないということで。とにかくゴールキーパーをしごこうと。と、いうことで、あの、センターフォワードでおった1年生のね、シロヤマってのがおったんだけど、それはよく体がちょっとガッチリして、大きかったもんですから、それを、あのゴールキーパーにしようと思って。で、僕はそれに話したんやね、で、「お前、あのゴールキーパーやらんか?」って言ったら、「僕は、もうゴールキーパーなんて。」って言うもんで、「ほんならお前サッカー部やめろ!」「ほんなら、やります!」ということで、で、そうゆうことで、強引にサッカー部に入れた。いやいや、強引にゴールキーパーやらした。その時に、すごく僕はしごいたんだね。で、ちょっと体が硬かったもんですから、柔軟体操、柔軟体操でも、僕はその前に、あの体操部の、ねぇ、こと知っていて、「ササキ」っていうんだけど、それに、「柔軟体操、上からやっても大丈夫か?」って言ったら、「大丈夫だよ、絶対に、あの骨なんか折れんせんし、筋も切れんで大丈夫だ!」ってことで。ほんで、体硬いもんですから、やはりスポーツは体がねぇ、やっぱし硬いと、あの、まぁいろんな、ねぇ、ことで怪我をするもとになるし、だからまずは柔軟体操で、5人くらいで、バーっと押さえてね。足はバンっとつかえて、後ろへガーっとして、もう足を広げて、もうほんとに、もう悲鳴が出たよ。ほんで、あとは、あの、練習の時に、ゴールポストをね、ゴールポストをこう触るんだけど、ジャンプしてね。それをあの、「50回やれ!」ってことでやって、1回でもかすったら、また0から。0からで。ほんで、それで1回かすった、はい、また0!また1!2!それでやって、ほんとにね、もうフラフラ。あとは、今度は砂場に連れてって、で、セービングの練習、横跳びのね。で、ボールをこっちやったり、こっちやったり、上やったり、いろんなことしながら、もうしごいたんやね。それで、ほんとにね、あの今OB会で、もう2年前亡くなったんだけど、OB会で会うとね、「朝日さん!今朝日さんとこれだで!」もういつも会う度に。そのかわりに、もう僕のいうことは絶対に聞いたからね。「何言っとる?!」っていうことで言うとパッと、そのねぇ、引き下がったりしとったんやけど。まぁそうゆうことで、ゴールキーパーをとにかく、あの上手なゴールキーパーしなかん!ってことで、ほんで、しごいたんです。
で、1年生が7人、3年生が3人、2年生1人で。僕も3年生の1人ですけど。とにかく僕は、1年間で愛知県で優勝のできるチームにするんだ。と、ね、で、みんなの前で誓って、ですね。「やる気があるものは出てこい!」と、「やる気の無いものはサッカー去れ!」と、ということを言って、それから猛練習を始めたんですね。まぁ、とにかく1年生はまぁ、主ですから、その中で、その、たまたまボールをね、あの無くなったことがある。で、1つか。で、あんまりボールも無かったもんですから、あの頃ね。ほんで、1年生たるんどると、もう叱りつけてやったんですね。ほんで、ある時、1回全員30分くらい正座させて、それも、あの土の上で正座して、で、その土を払って座るもんなら、全部そこへ石ころ集めてきて、「座れ!」ってことで。まぁそうゆうようなことで、んで、「立て!」って言って、立って、すぐそのままグラウンドをバーっと走るんですね。みんな、もう足が痛いわ、それでも僕も千頭きってですね、心を鬼にして頑張ったですね。で、ある時は僕の同級生のもんが、やはりこう後輩から、言われて、僕に言ってくるわけですよ。だけど僕もとにかく、全国大会行けるだけのチームにするんだっていう気持ちがあってですね。その、まぁ同級生のもんと口論になったり。で、それで、まぁ、あの最初のうちは2回戦、3回戦、負けたんだけど、だんだん力を付けてきて、そして、くれには、あのほんとに全国大会の決勝まで行きました。で、あの、初めは弱かったですから、普通はシード校で組むんだけど、4校ね。シード校ではなく、1回戦から、ずーっといって。で、1回戦で勝って、2回戦ずーっといって、決勝までいってですね。で、決勝の相手が刈谷高校です。で、前半は、0-0で。もう、その決勝戦に、ミズノ先生は招き入れたんですね。それまで全部、自分たちでやったんです。今と違って、監督おって、コーチおってって、こうゆう風じゃなくて。全部自分たちの練習スケジュールから全部作って、もうやったと。2年間のことを思い出しながら、練習をやってですね。そして、まぁ、ちょうど全国大会の愛知県の決勝で、僕たちは負けたんです。その時は、後半にバタバタっと入れられて、5点入れられちゃって、で5-0になった。前半は五分だったんですよ。で、このままやと、やったんだけど、やはり、向こうの実力は1枚も2枚も上で負けたんですけどね。それで僕はサッカーを卒業ですから、そこで終わり、と。
で、そして、ちょうど、まぁ年が明けて、1月の後半になってくると、今度は、就職か、ねぇ、進学かってことで、あって、その時に、僕と一緒の先輩の人がトヨタ入って、サッカーで、ですね、その時に僕にも声がかかって、お前トヨタ来て、サッカーやらんかってことがあったんですけど。ちょうどミズノ先生と、ハシモト先生がみえて、で、「朝日、お前どうするんや?」と、で、僕が「就職します。」と言ったら、「ほんとはな、大学行くんか。」と、中京大学ね。「大学来て、そして卒業したら、高校のサッカーの監督やらんか。」という風に言われたんです。で、僕は先生に向かってですね、「先生、大学は、特待生ありますか?」って聞いたんですよ。その頃、あの中京大学そう強くなかったですから、「いやー、特待生無いんだぁ。」って言って、「じゃあ、先生、僕は就職します。」っていうことで。それで、もう先生にトヨタへ、あのトヨタ自動車に就職したんですね。
試験も受けて、で、トヨタ入って、で、まぁサッカー。その頃は、ねぇ、当然、あの部活やってると、当然、その練習がありますので、だから、3時頃から練習やるんかなぁとか思ったんですよ。まだ高校生ですから、甘い考えを持っていて。そして、就職したら、なーに、みんなと一緒です。朝8時から、トヨタはあの頃、4時が定時で。朝8時から4時までで。それから残業が2時間くらい。で、6時まで練習して、で、それから、そのまんま7時から練習ですから、で、着替えて、それで歩いてグラウンドまで20分くらいかかったもんですから。で、行くと、もう着替えて、すぐ練習ですわ。で、昼にご飯食べて、そしてあの頃食べ盛りですから、で、その、練習終わって、終わると、9時、9時過ぎる。で、練習終わって。それから寮まで帰ると、寮はもう食堂が閉まっとるんです。で、閉まっとるもんですから、中は入れない。もう腹が減ってる。それで、外へ出てって、あの頃は、スガキヤのラーメン、1杯20円の3分でできるやつが、湯かけて、ねぇ。あれを買って、で、それを作ってもらって。それから、オダマキだとか、ソーセージだとかを、ちょっと食べて。給料も安いですから、ねぇ。だからそうゆうのを、ちょっと食べて。まぁ空腹、もうほんと空腹だったんです。で、たまたま練習終わって帰ってきて、食堂空いていると、今度、2人分の、全部ご飯もおかずも、全部2人分持ってきて、もうそれ食べたり。もうそうゆうようなことであったんですけど。朝も、まぁあのどんぶりで飯食べるんですけども、もうパンっとすくって、キュッと取られるのね、ちょっと、そうゆうようなことがあってですね。
で、昼も、トヨタはもう時間は厳しいですから、8時にピシッと、ほんで5分前にサイレン鳴って、で、サイレン鳴ったらすぐ、手袋はめて、ラインに待っとると。で、8時になったら、サっと並んでいく。それも今度は、あの午前中の12時まで。その間に、トイレ行きたいとか、なんかあるじゃないですか。そうすると、その班長来るまで出られないんですよ。班長来ると呼んで、代わってもらって、その間トイレ行ってくると。終わって帰ってくると、班長と交代して、またずーっと作業。それで、今度は12時まで。12時のサイレンが鳴るまで、ずっと仕事。で、今度は、12時から1時まで休憩。55分なるとまた、サイレン鳴るんですよ。そうしたらまた、全部職場へ戻って、手袋はめて、1時になるまで待っとって、1時になったらサっと仕事。ということで、それから4時、5時、6時まで、ほんとに、みなさんの普通の作業と、全く変わらないことやっとってですね。こっちは体力がだんだん持たなくなって、練習をちょこちょこ休むようになるんやね。で、休んで、そんでご飯食べて、あとはねぇ、ちょっとパチンコ行ったり、なんかして、あったんだけど。そうゆうことしながら、8月ぐらいまで、2月の、3月ちょっと一週間前から、あのいろんなことありますので、それから、ずっといったんですけど。で僕もこれはダメだと。で、これでは体が持たんから、だからもう辞めようと、ということで、で、もう腹を決めて。9月に、あの頃、あの、全国の、実業団の、サッカーの大会があるんやね。で、それに向かって、今度あの8月、9月、8月じゃなかったかな、9月に入ってからかな、愛知県で予選があったんです。で、そのこと分かって、僕毎日練習したんですね。で、行くとまた、レギュラーすぐなれて、僕も、とにかく、まぁやるだけのことはやって、みんなから惜しまれるくらいで、ねぇ、成績を残して、辞めようと。いう決心してですね。で、毎日いったらすぐ、レギュラーなれて、決勝までいったんです。愛知県で。実業団でね。で、そこまでやって、で、あの1位、2位が全国大会、東京のとこで試合するってことで、その時点で僕は、辞める決心したもんですから、それで僕はもう辞めると。そうゆうことでそれで言ったら、みなさんから惜しまれて、「なんで朝日、お前辞めるんだ。」と。ねぇ。「お前、せっかく実業団の試合できるのになんで辞めるんだ。」と、言われて。でも僕の決心はここで辞めると。そうゆうことで、潔く辞めて、名古屋へ帰ったんやね。
で、名古屋の地元へ帰って、その時には、まぁ、僕も、親父が僕が中学校2年生の時に再婚をしたもんですから。だから、その、まぁお袋との、その、折り合いもちょっと悪かったもんで。僕が帰ってくると分かっとって、んで、親父とお袋と、姉さんと妹、それから連れ子が1人いましたもんですから、僕の2つ下のね。で、その人たちと石川橋行っちゃったんです。で、僕が帰ってきて、名古屋におって、今度僕は、兄貴夫婦のところでまぁ、世話になってですね。で、そこで、まぁお世話になったんですけども。まぁそうゆうことで、ちょっと、やはりお袋がいなかったままってことで、その頃ほんと僕も厳しかったですね。うん。人生がね。
で、そうゆうことであって、ほんで、僕もちょうど、名古屋帰った時に、僕の1年先輩のマネージャーをしとった「スザキ」という人がいたんです。その人がミシン会社、ねぇ、「シンガーミシン」というアメリカの会社ですけども、そこに務めていたんです。で、僕も、その、辞めることをあの人知っていたから、僕に声掛けて、「お前うちの会社来んか。」ということで、言われて、いったのが、シンガーミシン。で、うちが鉄工所ですけども、全然はちゅじゅ違い、のところで、で、そこで、就職して、初め1年間は事務をしとったんですね、事務員で。
で、1年経った後に、マネージャーから呼ばれて、「明日から営業に回れ。」と、いきなりです。明日から行けと。どこ行って、いいか分からんし、で、今みたいに、いろんなことを講習を受けてからやるんじゃなくて、あの時は明日からやると。で、僕もその先輩方の、僕はあの頃シンガーミシンはね、あの部品運びしたり、それから、あの集金を全部その、お客さんを全部事務がやらないといけないし。それもあって、僕もどこ行っていいか分からんし、で、その、大須を名古屋駅からずーっと、こう東西に切って、それを港の方、が僕の担当やと。と言われて、先輩のそうゆうお客さんのところへ回ったり、いろんなことしながら、まぁ集金、集金先を教えてもらって、集金したり、時間があったら、今度はどこへ行っていいか分からんもんですから、喫茶店入って、職業欄の電話帳。あれ引っ張ってきて、縫製工場のあれを出して、そこで、あとは、あの、ネーム屋さんとか、シャチ屋さんとか、それからスーツだとか、ベビー服だとか、婦人服だとか、いろんなとこが、テント屋さんとか、ネーム屋さんとか、いろんなところがあるんです。そこへ全部手帳に移して。で、あの頃は名古屋は、あの、スーパーカブ、乗とって、それでスーパーカブであちこち回ったと。 で、あと僕も学校じゃサッカーやっとって、そうゆうようなことあんまり無いですから。そうして、一番最初に行った時に、ねぇ、カタログを持って、行ったんですけど、「こんにちわー。」って言ってですね。そしたら、上がっちゃってねぇ。向こうの人出てきた時に。もう、言葉はうわずっちゃうわ、顔はポーっと赤くなるわ、もう、ね。だから最初は名刺置いて、カタログだけ置いて、もう営業っての逃げてきたような感じだったんね、初めはね。それで、まぁ置いて、もう、すぐ逃げたくらいにして、あとはお客さん集金回ったり、部品を届けたり、まぁ、そうゆうことをしながらやったんですけど。
で、ちょうど、3ヶ月か4か月経った頃に、今度僕も、電話かかってきた、ねぇ。電話かかってきたやつを僕に貰って、僕の1台売った、2台売ったって。自分の実力で売ったのって、1台も無いです。電話かかってきたやつで、こうやったってことで。それで大阪からねぇ、その営業マンのベテランをまぁ、派遣してもらって、そのベテランの人に2週間付いてもらって、1週間は休みやったかな。それを3回くらい繰り返して。で、それで、ベテランの営業マンですから、まぁ上手ですよ。で、そうやって、こう付いてもらって、回って。そうしてその中で、自分はだんだん覚えていくと。で、そうゆうことですね。で、教えてもらって、終わって。その、しばらくした時に、あのー、僕も豊橋のまわり、こう行ったり来たりしてましたので、その時に、そこへ、部品だとかなんか、いつも電話の注文あって、そこへ届けたり、いろんなことしとったんですね。そこは大きな縫製工場だって、そこへ通ってたんですね。んだら、ある日行ったら、ミシンが20台ダーッと新品になってるんですよ。僕は、ビックリおこして、「何ですか?」って言ったら、同じシンガーミシンの中でも、商売やってる人がいて、そこから入ったみたい。で、部品だけうちから買った。そうゆうことで、もうそれでショック受けてね。すぐマネージャーに言ったら、マネージャーもそこへ行って、やって、んだら、もうね、もう入っちゃってるから、全然ダメだよね。で、その時はね、ほんとに人生灰色だったですわ。ずっと売れないとこへ、そんなことあったら、ほんとにね人生灰色で、ガクッてきて、もう辞めようかな、って思ったくらい。そうゆうことあってね。で、しょうちに今度は、愚痴をね、こぼしてたんですよ。
で、それでまたある時、まぁ、ずーっとね、回っとって。ある時、百貨店に、帽子を、ねぇ、卸せる会社があったんです。名古屋市やで。で、そこへ、たまたま僕は飛び込みで行ったんですよ。で、ちょうど社長さんとお会いできて、「おい、ちょうどうちもな、ミシンがな変えようと思ったとこなんよ。」で、話したら、「おう、6台買うわ!」って、話やった。えっ?!6台っていったら、ほんとにね、1台でも売れんのに。ほんで、棚からぼたもちが落ちたみたいな、そんなね、もうほんと嬉しかったですね。ほんで、それで、もう急いで帰ってきて、で、マネージャーに報告したら、「ほ?!嘘だ?!」ってことで、やー褒めてもらって、そうしたら、「朝日!お前な、こうやって売ったんだから、祝ってやる。出前取れ!」って話やった。そん時僕はね、ええかっこしたんですよ、あん時。「僕1人なら要りません。」と、ほんで、あの時8人か9人営業所にいたもんですから。「みんなに奢っていただけるんなら、私も喜んでいただきます。」と、そう言ったらね、ほんで、そうしたら、みんなも喜んでくれて。ねぇ。みんなでこう祝ってくれた、ってのは、ほんとに僕は嬉しかったですよ。で、それで、まぁそうゆうことがあって、それから、また、ねぇ。また、こう、あの営業に回ったりするんですけど、玄関払いだとか、いろんなこと、こんなんしょっちゅうですから。そうゆうことがほんとに繰り返しあって。で、1年経って、2,3年の時に、だんだん自分の力ですよ、1台、2台と売れるようになって。そして、あの、うちの、その営業の、ねぇ。セールス会議があって、その時に「朝日くん、お前今月何台売るんや。」こうあるんです。ノルマを自分で言うんですよ、何台、何台。で、それを全部出しちゃうと、もうこの次はオッケーでも、あくる月はダメですから。だから2,3台ちゃんと持っとらないかん。ほんとに。で、そうゆうことで、初めは3台とか、5台になって、で、だんだん7台になって、ほうすると必ずね、売れん時もあるんですよ。12月売れるんだけど、2月だとか、ねぇ、ニッパチっていって、8月だとか、売れないんですよ。こうゆう時は。ほんで、その営業は、売れないでは済まされないんです。そうすると、ミシンがありますので、会社のね。これを自分で売ったことにしたんですよ。このミシンは僕は、売ったことにして。それをあれを全部、伝票に書いて、ほんでエフを付けて、ベタンっ貼るんです。ほんで貼って、3ヶ月以内に、これ償却しないかん。売らな。それを、やって最高12台くらいまで、こう、倉庫に積んだんですよ。こうやって。会社の、営業所の中倉庫があって、そこに積んだ。僕の名前書いて。それを、だから、それをどうしても売らないといけない。で、だけども売れない。ほんとに悩んだんですよ。
それで、僕も、そうこうしているうちに、僕も立正佼成会、入って、僕の友達は、佼成年やってましたから。で、その友達はもう悪でね。僕もちょっと中学時代悪だったけども悪で。そして、その子と、まぁ正月、3日間ずっと飲んで。で、それから、まぁちょっと会わなかったですね。その間に、彼が立正佼成会に入ってたんです。で、会った時にね、ほんで、僕はちょうど中学校2年生の先生が創価学会やってたんです。その先生から電話あって、僕も創価学会のとこ行って、行ったらね、すぐ、こうみなさん入信ですよ。それで一応僕はおまんださんだけ貰ってきたんだけど、それをやる気は全然無くって、タンスに入れとったんです。で、入れとって。で、それで僕の友達は立正佼成会へ入って。で、夜ね、ちょうど青年のリクリエーションがあった時に、守山の瓢箪山の方まで、レクリエーションってことで、ちょうど僕は、夜そこの家に泊まって、話をして、「じゃあ俺佼成会入るわ。」と、「やるわ。」と言って、それから、その皆さんと一緒に行ったんやね。そこでは、もう男女の若い青年がおって、もうみんな元気よくやっとって、ほんで一緒に瓢箪山行って、そこでいろんなゲームやったりして、遊んで、帰ってきて。そうして、「じゃあ佼成会やるわ。」ということで。それが、4月の10日、4月の10日の時、僕は19歳、だから昭和38年ですね。昭和38年の4月10日に。いや、39年だ。39年の4月10日、に、入会させてもらって。僕は19歳、で、佼成会へ行くようになったんですね。で、その佼成会は名古屋の今の、あれはどこだったかな、ちょっと忘れたんですけど、中川区のとこなんですよ。そこへ通うようになって、その中で講座があったりなんかして、青年部の。その中で、男女が、同じいろんな境遇の話をしたり、悩みなり、悩みごと話したり、いろんなことで、こうあったんですね。
[稲葉1:00:06]それって週に1回くらいですか?
[朝日1:00:07]いやー、あの頃はね、週に2回くらいあったんですね。で、毎週日曜日は、もう名古屋協会まで、しょっちゅうこう行ったんです。そうゆうことで、その中でだんだん、あのいろんなことを教えてもらうようになって、ある時、その、やはり、こうね、人様のお付き合いの中で、僕のお袋のことが話が出てきたんやね。で、やはり、僕とお袋の間ちょっといろいろありまして、上手くいかなかったと。ほんで、僕も石川橋の方行っちゃって、それがその法座の中でのテーマになって、んで、自分が変われば相手が変わるということを、主任が言うんですよ、男の人がね。何で俺が変わらないかんのやと。俺何にも悪いことしてないよと。お袋が死んで、後からきたんだけども、何で俺悪いことしとらん、何で俺が変わらないかん。俺のどこが悪いんやって、いうことで、いやそうじゃないんだと。ねぇ、やはり自分が下がって、相手と接することによって、相手はこちらの鏡なんやということを、教えてもらって、そうして、そうなのかなってことで、半信半疑、あの今まで話もしたことなくて、それを自分は石川橋まで行って、そしてお袋と直にね、話をするんだけど、なんか初めはね、なんかね、おかしなもんですよ。ねぇ。そうゆう気持ちで行くんだけど、いざ面と向かうとね、言葉が出てこない。今まででこうゆう風にね、あったのが。で、それが、とにかく自分で努力して、こう自分が変われば相手は変わるんだということで、『いちげんさんげん』ということを教えてもらって、自分の1げんが3げん世界まで及ぼすんだと、ということを教えてもらって、それで2回、3回繰り返して行く内に、今まで行ったこと無かったんですよ。ほんで行く内にだんだん打ち解け合って、話ができるようになって、ほうして、あっ、多少は良くなったんですね。ほんなら、お袋から、ある時ネクタイ送ってもらったんですね。あっ、そうゆうことなんか、ということで、ちょっとは自分でもね、自信になったちゅうのかね、こうゆう風に変わってきたってのが、そうゆう心のあれが出てきて。
それから今度は、いろんな青年の悩みだとかそうゆうことをずーっと話は聞いてますので、そうゆう中である時また、きょうがくわんだいね、きょうがくわね、きょうがくがあって、そうゆう中で仏教のあれをだんだん勉強してきて、で、仏教の『三法印』ってことで、『諸行無常諸法無我涅槃寂静』。『諸行無常』ていうのは、世の中常に変化しとるんだと、全然変わらないものは無いんだと。『諸法無我』っていうのは、自分1人で生きていけれないんだと、みんなと一緒に共存の中で、生きていくんだと。それも、その人間ばっかでなくて、すべてがそうなんだと。この2つを自分が理解すると、その『涅槃寂静』苦しみの無い境地に行けるよ、この2つを無視すると、『一切皆苦』だよ、すべてが苦だぞと。とゆうことを教えてもらって、やはりそれはお袋と自分の間でも、自分が拒否しとる内は、なかなか交わらないんですよ。だから、自分が努力して、初めは上手くいかないんだけど、接することによって、相手はこちらの気持ちがだんだん分かってくれて、こうなるんだなぁってことは、ほんとにこう、まぁ薄々とそうなんだなぁということを思うようになったんですね。そうゆうことを、そうこうする内に、法座の中で、手取りに行くんですね、同じ仲間をね、手取りにいく。青年は青年のとこにね。そん時にうちの家内がね、僕は名古屋北区でいましたので、んで、家内も北区におったんですよ。で、それで法座の中で知り合って、そうゆう中で、今度手取りに行くようになって、一緒にスーパーカブ乗ってね、ほんであちこち行きよったんだけど、それも自分のカブでなくて、会社のスーパーカブで行ってそれで家内と一緒に。
[稲葉1:05:13]で、奥さんを後ろに乗せて?
[朝日1:05:14]後ろに乗せて。後ろに乗せて、ほんで、僕が運転して、あちこち行くようになって。用事が無ければ僕が1人で行ったり、来れる時は一緒に行ったり。そして家内と仲良くなってったというのは、そうゆうことですね。で、そうゆうことをやっとって、とにかく、営業、会社の営業の時にも、いろんなことがあってですね。そうこうしている内に僕が家内と結婚しようということになって、で、家内と、ねぇそれでプロポーズして、その時に僕が思ったのが、今のまんまでいいのかな、と。今のままミシン会社で営業しとっても、ええかなと。僕はあん時ちょうどね、帰りに、たまにはスーパーカブ会社置いて、バスで帰ってくる時もありますので、その時にちょうど栄でちょうどバス待っとって、で、ずーっと周り見ながら、ちょうど僕はね、やっぱしね、その、よくねピラミッドを思い出すんよね。頂点にいける何でもそうだけど、底辺はたくさんあるんですよ。ずーっと上がって、頂点にいけるのはほんの一握りの人が頂点にいけるんだってことをサッカーを通じとって思ったんやね、で、サッカー部高校でもたくさんサッカー部ある。その中で頂点、愛知県で1位になるのは、そりゃあもうなかなか難しい。また全国いくと、また底辺があって、そうゆうことをよく先生からも教えてもらって、で、その頂点へ行く、その為には自分努力しないかんし、自分には向いとるか向いてないかもよくね、ある。ある時先生がね、こうゆうことをおっしゃったんやね。高校の先生がね。高校の先生が僕もあの、まぁミズノ先生だけど、あの頃トクヒロタカシだったんだね。その先生がオリンピックの話、ほんで中学校の時に僕がオリンピックの選手になるっていったら友達から笑われる、と。絶対、背は僕とそう変わらんから低いですから。お前んたなにがオリンピックいけるだ、とみんなから逆に言われると。だから、そうゆうものはここに潜めてこう。胸にちゃっと入れて、そうしてと俺はオリンピック選手になるんだ、というそうゆうあれを持って、そうすると自分は努力すると、ほんで夢が無いと、努力のあれが違うって。で、夢を持てと。と、言われて、そして、そうゆうことを教えてもらって、あぁそうかと。それを僕はフッと思い出して、そうやなぁ。俺もとにかく、その、人生生きるような自分になりたいということで、やはりそうゆう夢を持って、で、家内と結婚する時に、僕はこのまま営業しとったら、どうかと。
ちょうどうちの会社があの頃朝日炭鉱だったんですけど、朝日炭鉱が、その今名古屋とそれから扶桑町、扶桑工場あって、いやいや岐阜工場、岐阜工場あって、その時に親父が、僕に「おいお前な、朝日フォージ手伝わんか。」と。という話があったんですよ。で、ちょうど岐阜工場は出来たばっかで、それで、お前ちょっとやって手伝わんかってこと言われて、で、その事聞いてたから、僕も親父にそう言ったんですね。会った時に、僕は実はこうゆう風で結婚したい、と。親父もその話が出てきて、帰ってこいと。で、僕はそれで帰る決心をして、まぁ朝日炭鉱に帰ったんですね。それが25日。あれは僕はたしか23歳だったかな、23,4だったかな。24で結婚したから、23歳だったね。の年にまぁ帰ってきて、2月の20日で会社辞めて、で、うちが締め切りは25日だったから、26日から、うちの会社を名古屋でね。そうしたら今のあの頃専務しとった長男です。長男が僕に「おい!澄雄ちょうどな運転手が1人辞めたから、お前トラックの運転手やれ!」って言われてさ、まぁ2,3ヶ月やれば運転手もくるやろうで、2,3ヶ月やらんかって話で、2,3ヶ月ならええわってことで、ほんで引き受けたんやね。ちょうどヒノレンジャーの3トン半だったんですよ。それで、まぁ引き受けて、運転したんやね。そしたら今と違って、パレットとかなんかがあんま無いんですよ。製品はバラバラにバーバーっと、トラック荷台開けて、仕切りは角材ね。長いやつで角材をこう仕切って、そんなとこでこう入れていくんですね。卸すのは全部スコップで。スコップで。で、それを3トン半とかね、多い時はまぁ5トンくらい積んで、走ったこともあるんだけど。それでまぁ岡崎だとかいろんなとこで配達するわけですわ。まぁそれで、大同メタル、ねぇ、美並にあるんだけど、あそこ本社黒川なんですよ。名古屋北区のね。で、そこへ、メタルとかなんかをね、積んで、あそこに卸したり、手で卸ろしたり、ベアリングメーカー、あの頃昔は東洋ベアリング。今のNTNだけど。そこの時にも、番線で縛ったやつを下からみんな放り投げて、荷台積むわけですよ。もーほんとにえらかったですね。で、それもやって。
[稲葉1:11:54]腰は大丈夫やったかな?
[朝日1:11:55]腰は痛かったですね。ほんで、全部卸さないかんし、積まないかんし。ほんで、それからあの、バラバラのやつはね、番線縛れんやつはバラで卸すわけですよ。今度スコップでやらないかんですよ。ある時あの岡崎のとこへ行くと、それを、田んぼ道通ってかなかんもんですから道が狭いんですよ。僕はヒノレンジャーで通れないから、だから今度はしゃーない向こうの2トン車をこう来てもらって、それを移し替えなんですわ。まあこれもえらくてね、あんまり僕もえらいもんですから。あの頃長男が今会長ですけど、専務やった時にまぁ話して、とにかくこれえらいと、ダメだと、なんとかこれをねパレットにしてくれんかと、パレットにね。で、それを頼んで、そうしたら、NTNにお願いしたら、そこへ台を借りるようになって、持ってったら、台を積んで帰ってくると。今度そこに台を積んで、リフトで載せるように、僕はこうお願いしてやってもらったんやな。そしたら今度他のところも全部パレットだとかね、ドラム缶とかね。そうゆうものに積んで、持っていけるようになった。また向こうで開けるようになって。でそうゆうことでちょっとずつこう改善を。あまりにもえらいですから、1人では。で、そうゆうことをやって、家内と結婚して、その時に親父が今の岐阜の御嵩町、御嵩はあの可児郡御嵩町ですわ。そこへ新築の家を作ってもらって、その隣が次男の兄貴夫婦。こっちは僕と家内と新居ということで、で御嵩町に新居を。
[稲葉1:14:05]朝日さんは5男でした?
[朝日1:14:06]5男です。
[稲葉1:14:08]と、3男と、4男は?
[朝日1:14:11]名古屋は3男、今本社、前あった本社が3男。4男が、可児の広見ってとこに4男がいて。長女は、まぁお袋と一緒におったけども、結婚して愛知県の方にいっとったんですね。で、次女はまだ結婚してない。で、僕はそれで、まぁおって、それからレンジャーに乗ってヒノレンジャーに乗って、通っとったんですね。名古屋行って製品積んで、扶桑行ったり、岐阜の工場行ったり、お客さんのとこ行ったり、いろんなことやっとったんですけど、でその時に、ちょうど僕は、ちょうどもうね、家内のお母さんも家内も僕がトラック運転してるのをやっぱ心配するわけですよ。事故をね。事故を心配するもんで、何とか僕に、トラックを降りてくれんかと、なんとか他の仕事やってくれんかと。ということを再々言われとったんやね。そん時に僕もそうだなぁそうだなぁってことで、僕も結婚してですね、ちょうど長男が腹に入った時に、僕もまぁほんとは3ヶ月のつもりでやったのを3年くらいやったんだから、十分これは言うことはできるんだからってことで、今度兄貴にそう言って。
僕はちょうど現場にね、扶桑工場の現場でオオツボさんって人がおって、あの人はね短気なんですよ。うちはグループでやってるから、3人グループで仕事やるんやね。そん時にオオツボさんは鉄を焼いて、プレスをきってやるんだけど、手が遅いから、生産性がどうしても低いわけですよ。あの頃は、受け取りで作った分だけお金もらうような、そうゆうシステムだったもんですから、それで、僕はオオツボさんとは仲良かった。よく話したりね。で、それで、そうゆう話は僕は聞いて、ほんなら俺ちょっと現場やろかなぁ、とそう言ったらね、ならオオツボさんがね、「おっすぐやってくれ。」ってことで言われて、ほんで僕はちょうど兄貴に、兄貴は専務だったんですから専務に実はこうゆう風で、俺もちょうど現場をやりたいなって言ったら、ちょうど専務もですね、オオツボさんがいろんなことで罵ったりするもんですから、悩んどったんやね。そこへ僕がそのことを言ったから、すぐ乗り気になって、「うん。お前すぐやってくれ。」って話になって、7月の1日から僕はプレスを現場でやるようになった。その時に愛知機械のゼロヨンイチというギアだったんやね。ギアのあれはホンダのスーパーカブ、スーパーカブの一番大きいギアだったんですよ。それを月に5万個か4万個か5万個か。毎月やったんやねずっと。それで手が遅いもんですから、あの頃生産性も悪かったもんですから、いつもいつもピンチピンチでこうきとったのを、僕は現場入って、やっぱしこう若いし、前スポーツしとったから、手も早かったんだね。それでもう僕も1週間か2週間くらい経ったら慣れてきて、早くバーっと打つようになってですね、今扶桑工場の中でも、生産をね上げた数字が出るわけですよ。会社の中トップになっちゃって、ほんで同じ人たちおるんだけど周りに、僕に言うんだよね。「お前には勝てんなぁ。」ゆうて。やっぱり僕もそうゆう小さいころから仕事場みとるし、そうゆうことで、ある程度は分かってるし、そうゆうことで運動もしとったから、運動神経も良かったんでないかなぁと思うんだけど。まぁそうゆうことで生産をずーっと上げるようになった。
ほんでそれでやっとって、そしたらちょうど、8月だった1年経った、ちょうど1年経った時やね。1年経ったに僕の友達から電話あった。僕のサッカーのあゆみやから電話かかってきて、そん時ちょうどねいつもだったら事務員がいろんな話でくるんやね、兄貴がくるわけです。俺にね。「おいお前アユミから電話だぞ。」ってことで、「はい!」ってことで、ちょっとライン止めてもらって、そして電話口いって、電話してから戻ってきたんやね。戻ってきて、そん時ちょっとアラジエがちょっと寸法がちょっと大きかったもんですから、やっぱりこう中に変えて、ちょっとね。だからそれを直そうと思って、ちょうどこう左手パッと置いて、そん時にペダル踏んじゃったんやね。ほんとはいつも切ってからいくんだけども、切らずにいっちゃったんです。それを手を置いた時に、プレスがバンッと下りてきて、そして薄いですから、これを8ミリくらいに潰しちゃった。手をこう、こうね。そしてここに手袋2枚はめてるから軍手を。それひっくり返って。それで僕はちょっと脳震盪みたいなの起こして、それを3人組でやってますから、それですぐに兄貴のとこへ、専務のとこへ連絡とって、僕を扶桑工場の神尾外科ってとこへ、すぐ近いですけど、そこへ行って、向こうでハサミで軍手を切って、そして見たら、ここ潰れとったと。手がね。それを今度はすぐに僕の家内の御嵩のね兄貴のとこに連絡入って、兄貴がすぐいって。僕に怪我したと、いうことですぐ印鑑無いと手術できんので、印鑑持ってすぐ来てくれってことで兄貴と一緒に神尾外科へ走って、僕はその頃もう、すぐ寝て、ベットにいて、もう手術。
[稲葉1:21:20]そん時意識はあったかな?
[朝日1:21:22]あのね、あったね。ほんで、やった瞬間はね、ブワーっと熱かったんです。手がね。ブワーっと熱くて。痛いんだってのは無い。うわーっとこうきたんやね。それからしばらくしてから、ガーッとこうきたんやね。しばらくしてから、その場はそうではなくて。それから医者へ行って、切ってもらって、軍手を切ってもらって、まぁ手術してですね。んだら、その終わったら、もうとにかく全身麻酔ですから。全身麻酔やってもらって、で、手術終わって、気が付いたらベットにおったと。気が付いてからが、もうすごく痛かった。ほんとにね。手が包帯グルグル巻いて、全然見てないですもん、どんな状態か。包帯グルグル巻きで、そうして、もうとにかくちょうどね海のこう波がね、ザバーっときて、スーッといって、またザバーッとこの繰り返しなんですよ。手がガガガガーっとこうくる、うわあってやつが、スーッと引いてって、またガガガガーっと、こうゆう、この繰り返し。もう痛くて痛くて。そりゃあねこんなもんやったらね、少々どんなことやられたって、この痛みに勝るものはないと思ったねこれは。ほんとに痛かったね。それで、手術した夜も寝れなかったんです。寝れなかったです全然。痛み止めの注射を打ってもらうんだけど、効かないんですよ。もう5分も効かんから、すぐまたグワーってくる。看護婦呼んではね、家内に言ってさ、呼んではね。とにかく痛み止めの注射を打ってくれと。もう打てないんですよね、あれですから。だから打ってくれない。もう痛くて痛くて痛くてね。ちょうどその時は、僕の長男が産まれて1歳の時ですね。1歳。7月の、ちゃう8月の1日ですから、長男が8月2日生まれですから、ちょうど1歳の時に、こうなって、そしてもうほんとに痛くて、1週間、違う違う違う1週間ばかりじゃない、2,3週間眠れなかったですね。で、その時に、いつも手袋とって、包帯とって、洗剤するじゃないですか、洗剤して、ザーっと縫ってるですから、その時に最初はね、看護師さん手を見るなっていう。見ると何でやとショックをうけるから。で僕は、ショックうけるから手見るなって言われて、だけどたまにパッて見たらね、ほんならもう指が無いわけですわ、2本ね。これであるのは親指と人差し指と小指です。ほんで、中指と薬指が無いんです。これがあって、ここにね、もうザーッとこれはみんなそうだけど、ずーっとこう縫ってるね、こう。こう縫って、こう縫って、ここもこうね。これはベロンとめくれたんですけど、これはもう動かない。それで、あって、それからもう手を見た時に、手はボンボンに腫れて、もうグローブはめてるみたいに。パンパンに腫れちゃってね。で、そうゆうことがあって。
で、ちょうど1ヶ月ぐらいを過ぎた時に、ちょうどあの僕の名古屋協会の佼成会のことあって、本部のだんさんがあったんですよ。だんさんね。1ヶ月経った時にだいぶ痛みもだいぶね、収まったから先生に「がいやくしても、いいですか?」って言ったら、「いいですよ。」ってことで言われて。僕も東京まで行く、佼成会の本部、東京なんですよね。名古屋からね。僕はそれに行くつもりでおって、ちょうど扶桑町からタクシー乗って、電車乗って、名古屋駅に来て、名古屋行ったんやね。そのタクシーに乗った時に、また微妙な振動があるんやね。微妙な振動。普通は元気だったら全然感じないんですよ。微妙な振動がある。ものすごい痛いんですこれが。それでもうグワーって痛くて、そして今度僕は電車乗って、栢森から名古屋駅まで名鉄電車乗ったんだけど、これも痛いんですよ。もうこれはとてもでないが、東京まで行けれん、ということで、家内にそう言って、東京行きは僕は辞退したと。ちょうど家内のお姉さんが名古屋におったもんですから、そこへ泊って。家内だけ東京に行ったんだけど、それは僕は行かなかったです。もうほんと痛くて痛くて、普通元気良かったら、何の関係ないですよ。だけど、こうゆう怪我をするとものすごく感じるんですよね。
[稲葉1:26:58]今ではどうですか?
[朝日1:27:00]今はもうおかげ様で。どうってことないです。
[稲葉1:27:03]あのよく無くなったところが痒いとかそうゆうことはあるんですか?
[朝日1:27:10]あんまり無かったですね。ちょっと痒いとここう掻いて、初め指がね、こっちだんだんだんだんこっちずーっと引っ張られるんです。こうゆう風に、で、これも自分でくっくっくっくっ下して、自分でこうやって、ここへこうやって、それからマッチをここへやって、挟んで、今度広げるように広げるようにこうやったんやね。今度マッチをやって、それをやったら、今度は茶わんを縦に持って、ほと縦のとこ開かないかん。ここ持って、力入れんでもここ落とすくらい、こうやって。ここはね、ピシーピシーって割れるんですよ。離れるんですよ。離れては、またやって、また治っては、またこれをやって離れては、こうゆうことの繰り返しだった。ほんで僕は恥ずかしいから包帯巻いてたんやね。いつも包帯巻いて、包帯巻いておって。そうゆうことがあって、それから僕も1ヶ月ちょっと過ぎてから、職場へ復帰して、現場はできませんので、だから今度は生産の、生産管理ですね。お客さんから仕事のあれを全部帳面に移して、みんな割り当てて、生産をするようにそうゆうものを、予定を作ってね。そうゆうことをやったんですね。で、そん時に僕も営業を前やってたから、お客さんのとこ行っては、打ち合わせ行ったり。仕事のね、次のお話をしたり、こうゆうことを出来たんやね。今まで自分がやっとったんだけど、今度は人にお願いをせないかんわけですわ、生産をね。なんとか納期優先ですから、納期間に合うようにせなかん。中にはね「お前やってみろよ。」とこうやって言われたりさ。僕前はね、すぐそうゆう売り言葉に買い言葉、であったんだけど、そうゆうことあったんだけど、手があってからやっぱしお願いせないかん。前みたいにこうゆう自分のね、「何?!」ってこうゆうことじゃなくて、話をして、相手を納得して、やってもらうように。だから随分自分のあれとは、葛藤があったんですね。葛藤がね。で、それでお願いしながらお願いしながら、下がってお願いして、佼成会でも下がり指導があるんですけど、また下がって、お願いしながらお願いしながら、そうゆうことでまあやったんやね。
そうしとる時に、たまたま親父がね、招集かかったんですよ。ちょうどやって1年か1年ぐらい経ってるかな。昭和でいうと49年か、昭和48年の暮れにオイルショックあったでしょ。オイルショックがね。ほんで49年。49年の時に、何月頃やったかな、あれ秋くらいだったかな、号令がかかったんですよ。我々兄弟に。ちょっと名古屋集まれって。
[稲葉1:30:37]家族会議ですか?
[朝日1:30:38]家族会議。家族会議。そん時に男連中みんな、来い。で、僕たちも行ったんやね。何事が始まるかしらん思って。なら親父が、ワンマン社長ですから。ね。「実はなぁ。」で始まるんですよ。いつものあれだわ。実はなぁ、っていうとなんか突拍子もない話なんよ。ほんでそん時に「実はなぁ、俺のなぁ。」その在所やね、うちの親父は大間見ですから大和町のね。あっちにな、白鳥のとこでな、あそこで工場をな、買ったんだわ。で、そうゆう話なんですよ。誰もみんな知らんですよそうゆう話。我々男兄弟5人誰も知らん。それから始まるんですよ。ほんで、誰がいくって話よ。そうすると、長男が扶桑工場の専務、次男が岐阜工場の工場長。普通でいくと、3男だから、3男、俺あんな田舎やだって言うしさ。田舎だし、雪は降るし、とてもでない、やだ。名古屋におるでしょ、やだ。次4男だわ。4男も俺もやだって。ね。ほんで次5男だから、僕のところなんよ。俺後ろ向いてもおらんよ誰も。で、ねえ。それで、もう渋々、僕はもうね断れん。後ろいないから。僕は来るはめになったんやね、こっちへね。それが昭和49年、昭和49年の10月くらいやったかな。ほんでその時に来るはめになって、僕は家内にそう言った。「実はな、こうゆう風で。」家内知っとるから、一緒におったからみんなね。会議の中に。家内も行きたないんだって。僕は名古屋生まれの名古屋育ちで、結婚して御嵩の方へ行って、今度は郡上でしょ。だんだん山奥になってる。まぁそうゆうことで、それで、まぁ親父が言うことだし、佼成会でも親孝行の話をよく聞いてたから、だから自分で引き受けたんやね、で、引き受けて、そうしてまぁよっしゃなら行くと決めて、そうしたらね、話聞いてからね、1週間以上僕は寝れなんだね。言ったことはいいけど、失敗して、ノコノコ帰れんしさ。みんなの手前があるでしょ。お前行ったから、何だお前ようやらんのかとかさ、そうやって言われると、それ嫌で嫌でさ。上手くいけばいいんだけど、失敗したこと、悪いことばっか考える。失敗したらどうしようなぁ、どうしようかなぁとかね、家内にも言えんしさ。あんまり不安なこと言うと、また益々嫌になっちゃって、ダメだから、それで自分自身にぐっと堪えて、で、とにかく口出しせんなと、先生のことを思い出した。ここに秘めよと、いうことで、それでおったんですね。
ちょうどその年その年が変わってから、親父のとこへ、正月に毎年毎年親父のところみんな集まるんだね、兄弟全部ね。で、そうゆう時に親父から、実はな、1月7日からうちは仕事始まるもんで昔はね、その時に郡上からな、5人、5人だったかな。ミノシマ君と、カワイクニオと、フルタケイイチと、それからオカダ君と、それから、4人か5人か、5人。岐阜工場へ、研修に来るわけですよ。こっちへ来ないかんもんですからね。初めは3月からこっちに来る予定だった。それで研修で3ヶ月間くらい岐阜工場へみんな行ったんやね。そしたら、年開けてね、こっちの人はみんな酒を飲むんだわ。酒を。ね。ほんで4男が、4男のミツヒロっていうんだけど。それが、その寮行ったらしいの、寮ね。工場の中にあるから、パッて開けたら、押し入れ開けたら、酒の一升瓶がズラーっと並んどったっていう。もう毎日あれは酒飲んどるぞって話で。
[稲葉1:35:50]ところで、朝日さんは酒はどうですか?
[朝日1:35:52]飲まないあんまり。
[稲葉1:35:54]そうですか。もしなんだったら、僕は飲んでいますから
[朝日1:35:59]僕はまぁ飲まんのだけど、酒がね、ズラーっと並んどったっていうから、それ聞いてさ、えらい。まぁそんなようなことあって、ほんで、そんで3月の予定がですね、今のオイルショックで、仕事が無いときてる。だから伸びたんやね。3月から5月に。
[稲葉1:36:21]それは、昭和40?
[朝日1:36:24]昭和45年。で、3月までやったけど、これを5月まで伸びたんやね。そうしたら郡上のね、カワイクニオおったんだけど、それが俺にね、僕がちょうど岐阜工場の方へ、今度そのこっち工場長ってことで来るから、いろんなね仕事の内容違ったから、来とったんやね岐阜へね。ほんなら僕をね、ちょっと呼ぶんよ。「今度来るのお前か!」って「工場長お前か!」ってこうくる。言い方こうやよ。「お前が工場長か!」ってこうゆう話なんよ。ね。そうすると、「そうや。」ほんなら、「俺はな、お前な3月まで、いつまで、いつになったら帰れる。」ってこう話よ。ね。ほんで、俺知らん言うてね。「俺はよ帰れんと百姓があるで、百姓せなかんで、はよ帰らせてくれ。」って話でしょ。そんな事僕に、俺に言われても分からんで、それはまあ親父に聞かんと分からんですもん。俺帰るぞって、そう言ってた。それはまた僕は親父に言って、親父から話あったんだよね。で、それでこっさのイヌイさんって人、イヌイコウタロウさんね。その人を通じて話をやって、一応5月まで、で、岐阜工場でやって、で5月の連休明け、ゴールデンウィーク、明けから白鳥へ来ると。
で、来た事はいいけど仕事は無いってやつよ。あの頃うちは底だったからね。で、十分扶桑と岐阜工場で十分間に合うし、それでも仕事が足らんくらいだから。ほんで、お客さんもだよ、今度NTNからこれだけちょっと出すわって1万個くらいくれたんやね。あと何にも無い。すぐ終わっちゃう。3日まで終わっても。あと次の仕事無い。それで僕は、やったことはいいけど、仕事は無いもんで、だから、みんな言うんだよね。俺らどうしたらええんや、どうしたらええんやって、僕も困っちゃう。で、だからその当時はちょうどね、ローリングのね、リング作ったんやね。大きいリングをね。その時にツーシーターやったんよ。いっぺん焼いて、あだちを作って、冷まして、もっかいそれを焼いて、それを今度ローリングかけてバーッと伸ばす。こうゆう仕事やったんやね。それを岐阜工場でやったもんで、岐阜工場でそれを、それを行って、そしてそれをもらってきて、担当者と話しながら、あだちはこうだこうだってことで図面書いて、これを何個何個何個ってことでその仕事を貰ってきて。鋼材も岐阜工場取りに行って、それこっち運んできて。で、そうゆうことで、もうほんとにあの頃何をやっても、で仕事は無い。で、今度当然仕事無いと給料に跳ね返ってくるわけですわ。ね。ほと、みんなから、ね。給料が安いもんで、何とかしてくれ、貯金がどんどんどんどん減ってくってちゅうわけよ。これ聞いてもさ、僕もどうすることも。で、俺はね、無い袖は振れんちゅうんやね。仕事の無いものはどう探しても無いんだと。これはね、我慢せないかんのやと。んだら、いつまで我慢せればいいって話よ。で、それ分かればいいですよ、分かればいいですよ、分からんですよ。世の中全体が衰退ですから、だからほんとに1年間えらかったですね。1年間。ほんとに。いつも岐阜工場行っては、新しい仕事貰ってきては、ねえ。また僕はここで寝泊まりせないかんですから。1週間に1回くらい帰ってきては、こうきて、ずっとここにおって、また帰ってきてやね。そうして経費かかるわけですよ経費というのは。新しいからね。いろんなもんやるとみんな金になるんですよ全部ね。
で、それとあと親父がたまに来ると、みなさんから僕のとこに面接来るんじゃなくて、イヌイコウタロウさんのとこいくわけよ。俺工場長やっているんだけどさ、向こうへいくわけなんよ。ほんで電話かかってきてさ、実はってこうくるんだよね。僕のところにね。イヌイさんと話して、オッケーもらったから、使ってくれって話なんだ。「何?!」で、それをイヌイさんと親父とツーツーで話してるから、俺も逆らうことはできないわけだわ。そうかといって仕事はない。どうしたらいいか、ってことでね。ほんっとにあの時はえらかったですね。もう。ほんなら今度は売上が上がらないから、今度経費がしっかりかかるからね。で、今度は兄貴から電話かかってくるわけ、「お前な、こんなことしとったら会社潰れちゃうぞ。何とかせぇ。」何とかせぇったって、無いものはね、何にもできないんだと。ね。出来んでは済まされんで何とかせぇ。だからあとは、時間短縮だとかね、休みを増やすとかね。それしかできないすよ。ほうするとそれが、ほんとにね、えらくてね。
で、それでもう思ったね。そうしたら僕はその時フッと思ったのは、佼成会の開祖様。佼成会作った時に、ちょうど妻子、自分の奥さん、子どもを新潟のとおか町に預けて、そして自分は法華経を、僕ら法華経ですから、法華経をこうせいりょくだって、その広めないかん。しんに様に。それを会長先生は男で、副会長さん女のわくそさんだけど、妙佼先生っていう人なんだけど、妙佼先生が副会長、の時に、会を作った時に、今の先生に向かって、汝はお前は法華経をこうせい部分の親子あるんだと。で、妻子を全部自分に最初全部預けろと、で、10年間法華経一本にやりなさいと。それからその時にはマスコミのテレビだとか、新聞とか、こうゆうのは一切ダメだと。三部経をこれをしっかりと読誦してやりなさい。あとは、一生懸命、こうせいるふしなさいというごしんじがかかったんやね。ごしんじというのは、神からの、ね。あれがかかったんやね。開祖様を通じて。その事を思い出した。立正佼成会の開祖先様も、開祖先様も昭和13年の3月5日ですよ。ほんで、アサヒフォージも昭和13年の1月の7日なんですよ。一緒なんですよ。出来たのがね。ほんでそのこと僕も思い出して、開祖様も会も作った時には、その10年間ですよ。10年間こうゆう修行しなさいってこと、僕ちょうど青年で入ってたもんで、研修会とかれんせいかいあるんですよね。聞いてたんですよ。協会長から、その話をずーっと。だからそれを思い出した。佼成会の開祖様もこのような修行をされたんだと。まだ、開祖先様のことを思うと、俺はまだ足元にも及ばんぞと。だったらこれは、僕はねやっぱし仏様から与えられた試練だなぁと僕は思ったんだよ。試練だと。これを乗り越えないかんと。で、その為には、やはり自分はね、しっかりと今の生活、従業員のみなさんのこれ、いろんなことをしっかりと自分がと心に秘めて、頑張らないかんってことをほんとに思ったんですね。ほんで、だから、自分が、もうとにかく自分は縁があって、ここに来たんだから、郡上へ。だから、俺は親父に、親父の顔に泥塗っちゃいかんと。この事をものすごく思ったんですね。で、初め僕は失敗してノコノコと帰れるか、と。こうゆう事をね、頭の中でパーッと渦巻いたんですね。ほんとにそう。それで、もうそうゆうことばっか思いながら、で、家内は御嵩でしょ。僕は単身で来とったからね。そうこうする内に、年が明けて、人はもう25人くらいになったのかな。もう、だんだんだんだん人が。僕のめいせい工場他のところから来るやつだから。もうそれで親父はどんどん人入れるし、僕たちずっと入れんけども、親父は入れてくるもん、なんともならんし。ほんで、だから、面接うちいくと、イヌイさんのとこいっちゃうからさ、あそこからこう回ってくるから。親父が来る度に、俺は愚痴をこぼしよった。
ほんで、親父が来る時は、親父扶桑工場だとか、岐阜工場来るもんで、そこへ僕は迎えにいくんだね。で、迎えにいって、親父載せて、そして帰ってくるわけですよ。それで、来る。また僕はまた親父載せて帰る。そうすると今度は、車無い時は、越美南線で帰ってくる。美濃太田からこう帰ってくるとかね。まぁ、そんなようなことを繰り返していた。ほんとにあの時はね、もう前途が暗かったですね。前ね。でも、これもやっぱし仏様が、俺に与えてくれた試練やと、ね。これをどう乗り越えるか。ここを乗り越えると、また明かりが見えてくるんやで、この試練をどう乗り越えるか。絶対甘い考えなら、全然ダメなんですよ。で、それで、それから、そうゆうことで、1日1日がほんとにね、暗かったですね。
で、僕は鮎釣りが好きだったからね、魚釣りがね。だから、5時になったら、5時前に帰ってきて、仕事帰っちゃってさ、5時のサイレン、ウーって鳴ったら、単車ブーンって、すぐ川へまぁ、走ってってね。あの頃、川へ逃げたっていうんかな、そうだったんですね。そうやって、朝は6時半頃には、川に行って、7時半頃帰ってきて、8時から仕事と。こんなようなことを繰り返しながら、そのシーズン終わっちゃって、夜はまた、あの、踊りですよ。ねぇ、踊りも、白鳥踊りあちこちあったから、でその従業員の1人ホソダって子がおって、その子が踊り上手かったんやね。ほんで、一緒に踊り行っては、最後まで踊って、で、帰ってきてから特訓ですわ。手がこれが悪いとか足がいかんとか、もういろんな特訓受けながら、そうゆうことやったんですね。で、すべて終わって、そうしたら今度は、その年冬が来たら、雪が今度ブワーっと降ってくるでしょ。雪がね。なんじゃこの、雪は降ってくるわ、年開けて、もっとどんどん降ってくるわね。ほんなら、今度従業員の1人のオカダっていう子がおってね、最初からおった子。僕に「工場長、心配しんでも春になれば消える。」って言わっせる。な。じゃあお前、春は分かるけども、春いつ来るんや、って。もう、ほんとにあの時はね、もう、仕事は無いし、雪は降ってくるし、ほんとにね、心細かったね。
[稲葉1:49:56]それは、ほんで、オイルショックと、まぁ創業したてということで、まぁ両方でなかなかスタートがしにくかったってこと?
[朝日1:50:04]そうそう。仕事じゃないです。ちょうど、今、ねぇ。コロナで、あったでしょ?もっとひどいから。うん。もっとひどい。で、だから、仕事も無い。そうかといって、ねぇ、従業員やらんわけにもいかんし。ほんで、ぎんこうちょうももらった。ほんで、だんだんだんだん今度仕事が、だんだん、ちょっと、こう、ちょっとずつ増えてくる。で、また、あの、白鳥工場で、お客さんから、あのスーパーカブ、あの、あのね、シビック1台買うと、ねぇ、ほうすると、あの、スクーターみたいな、スクーターじゃない、ローラー、スローローターっつって、こう持ってって、後ろへ足を蹴って、あの走るやつあったんですよ。で、あれがちょっとこうあって、ねぇ。それが1個10円なんですよね、加工費がね。1個10円。で、それ一応さんに変わっとる数値がね、昔のやり方だと。それをね、やらんか、って話や。で、ほうすると、赤ってこと分かっとるんやけど、ねぇ、やらんわけにいかんですよ。仕事無いから。それで、僕は、このやったんやね。従業員からさ、小さいもんで、やれはせんわね。で、線が取り出せんそう言うん。ほんで、どうしたらいいんだってことで、こう、僕に電話かかってきて、ちょうど親父がいたもんですから、親父にこれどうやって作ったらいいんやって、僕も現場体験短かったから、親父に相談したら、ほんだらなに、これをこうひっくり返してやったらどうだ。と、こうゆう話があって、前は従来通りだと、ここに段差があるもんで、出す時引っかかるんやね。これひっくり返すことによって、こっちが平になって、上から被せてくるもんで、上手くポンポンとつくだけだから、そのことがその発想で、フッとこう思って、あっそうかってことで。それで、あの、すぐ、フォルダーをまぁ、せんばんこ巻いて、すを作らせて、それに変えたんや。そうしたら上手くできるようになったんです。で、制作費もちょっと上がって。
だから、その時に、親父が言ったのが、「お前な、あの、安い仕事はバカの仕事。ね。んで、儲かる仕事誰でもやるぞ。だから、それはな、みんな競争相手がたくさんおって、そんなことしとったら、その、会社がね、上手くいかんよ。で、安い仕事だとみんな手を出さないから、だから、これを、儲かるように、安いから安いんじゃない儲かるようにするためにはどうしたらいいんかってこと考えろ。」と。これをね。だけど、単価は変わらんですよ。生産性上げるか、人件費を抑えるか、ね、材料ぶるまにもっとよくするか、そうゆうことしか無いわけですよ。値段決まってるから。で、だから、そうゆうことで、親父から言われたこと、ピーンときて、これを、カバーひっくり返ることによって、その製品出すのを簡単に出せるようになるから、生産性上がるなぁと。ほんで、あの、あまりにも軽いから、うち鋼材を切って、こうせんたんきゅうでやっとるですよ。ほうすると、3本、普通は6本とか10本いるんだけど、3本入れたら1日以上あるからさ、3本か4本にしといて、だんだんそれでも半日あるわけですよ。4時間くらい。ほんで、またそれを昼からと、そうゆうことで、とにかく、なんでもいいからやると。ということだったんですね。で、それが、ほんとにね、その初めのころはそれで、それでなんとか、1年経った頃には、だいぶ景気がずーっとこう上がってきた時に、ちょうど、うちのね1年経った昭和51年の6月に、竣工式をやったんですよ。竣工式をね。で、それから、今度は、白鳥の町長さんとか、白鳥の今の区長さんとか、いろんな人を呼んで、ほんで、お客さんも来てもらって、ほんで、をやったっていうのが6月だったんですね。で、それが、きっかけですね。今回のなんかあります?
[稲葉1:55:06]いや、あの今の話で十分で。で、後は、その会社の経営が、まぁ波に乗っていく?
[朝日1:55:15]そうそう。まだ、これでもってとこで。
[稲葉1:55:18]まぁ、とりあえず離陸をしていく、という?
[朝日1:55:20]そうそうそう。まだ、離陸っていうか、ちょうどエンジンがかかって、スタートのしかけですね。そうゆうことですね。
[稲葉0:00:02]それでは2回目を始めますが、今日は4月の15日です。2021年の4月の15日。前回に引き続きまして、2回目として、また続きを朝日さんに話をしていただきたいと思います。朝日さん、またよろしくお願いいたします。で、前回あの、途中でしたが、またあのダブってもいいんで、ちょっとゆっくりとその辺りの工場の話からお願いいたします。
[朝日0:00:39]分かりました。前回は、工場が競売にかけて、それで、たしか郡上ガスに落としてもらって、で、その後をうちが買ったと、いうことですね。それが、昭和55年だと思うんですけど、55,6年か。そうゆうことで、今の工場を使わせてもらって。で、それから、うちも従業員がおかげ様で順調に増えてですね、まぁ今日に至ったんですけど。そうゆう中でも、たかさごふじさんのことでもあったり、最初に工場を買った時に来た、祈祷師ってのが美並のヤマダさんですけど、その人は最初に今の白照神社ですね。神社を直せと。ということを言われて、そん時は神社はもっと小さくてですね、ぺんぺん草が生えとったんですよ。だから、ぺんぺん草が生えるということは、やはりそれだけ神仏を台無しにするっていうか、そうゆうような感じですから、まず神社を直すってことで、神社を直しました。それが今の白照神社です。白照神社ってのは、名前は、白鳥を照らす神社、ということで、ほんとは祈祷師さんは、朝日神社でもいいっていわれたんだけども、やはり僕はそれは会社の名前を神社に使うってことは僕もあんまり賛成はしなかって、僕も佼成会やってましたもんで、佼成会の協会長に頼んで、アソウ協会長やったんですけど。頼んで、名前みてもらう時には、白鳥を照らす神社で、照らすというのは、アマテラスオオミカミ。あそこ元々伊勢神宮伊勢神宮入っとったんですね。んで、伊勢神宮のアマテラスオオミカミを取って、白鳥を照らす神社で、それで神社を直したんです。その時に神社と、それから今の神社の中はいってるあれは、すわこ、すわこの方は農業の神様です。白鳥というのは、農業とか林業が盛んなところで、だから白鳥を照らすってことで、農業の神社で、農業の神様。うちは、鉄をやって、鍛冶屋ですから、それは大垣の南宮大社、南宮大社はそうゆう、鉄をね、だからカンナとか、それからノコギリだとか、そうゆうものの神社ということで、それで今の大垣南宮大社、だから3体入ってるんです。あそこにね。それを祀ってですね、やってたら、仕事の方も順調にずーっと増えていきまして、ほんとに、まぁありがたい話で、きたんですけども。そうゆう、やはり神仏を敬うってことも、非常に大切なことでないかなぁという風に僕は思いました。
で、それで、だから工場がこちらの方も広く、たしか7,500坪くらいあるんですよね。坪数とすると。だから工場の、材料置き場なんかも、こっち側に持ってきたり、そうゆうことで、環境は随分良くなってきました。で、やってた中で仕事の方も順調に増えてきてですね、で、お客さんが来てもほんとにお客さんも喜んでいただけるようになったと。で、そうゆうことですね。で、やはりね、駐車場もどんどんどんどん、従業員も増えていきまして、駐車場もできたし、そういう点では、今の住民のみなさんにも迷惑をかけなくなったし、そうゆうことで、ありがたいなという風にやっとったところで、今度設備の問題ですね。で、設備で、働く環境が悪いと、ある従業員が言ってきて、これは人間が働く環境ではないってこと言われて、そこで今のCT炉。CT炉というのはセラミックチューブ炉ということで、そのセラミックスのパイプね、パイプがあって、その中へ材料通すことによって、加熱して、それでスケールが付かない、先切っちゃいますので、環境も良くなって、熱いあれも無くなって、非常に良くなったんです。
それをやったことはいいんですけど、今度は金型がもたなくなっちゃって。金型がね。従来と全然変わっちゃったもんですから、それでその金型も探すのに、あっちこっち探してですね。ほんで、トライしてはエラー、トライアンドエラーとの繰り返しの中で、やったんです。やったことはいいんだけども、それでも従業員が、もう頼むよ、と。型作っても作っても全部ダメになっちゃってるんで、なんとかしてくれって言われても僕も今探している最中です。その時にちょうど岐阜工場の兄貴が富山の不二越、の材料があって、その鋼材のね金型材の。これを使ってくれってってこう貰ってきたんですね1mずつ80マルと100マルを1mずつ貰ってきたんですよ。そのふじこしっての僕も全然信用無かったです。そこの会社は。だけどもそのことで、いろんなね鋼材やっても全部ダメだったから、僕もやぶれかぶれで、それいっぺん使ってみよってことでそれでやったんやね。そしたら、あ、これいいよって話だったんですよ。いいぜ。そうかってことで、それに目を向けてやったんです。だら、もちが良くなったんです。前とは全然やり方は変わりましたから、良くなったんだけども。
今度は、大体、こう鍛造屋とかこうゆう仕事っていうのはね、みんなね職人の仕事なんやね。で、勘でやってる仕事が多かったんです。そうゆう中で今度は、もつ時はものすごくもつんだけど、もたん時はダメだという話になってきて、これは金型の熱処理に問題がある。だから今度は今まで勘でやっとったものを今度は全部データ化して、そしてきちっとやろうってことで。今度あのロムを扶桑工場にあったロム持ってきて金型の、焼き入れる、それでうちの方でちょっとそうゆうこと詳しい人がいたもんで、カニヤっていうものだけど、それでそれを作って、そしてみんなデータ化して、温度管理して、時間もキープして、やったんですね。で、油に入れて、なましろも、きちっと時間かけてなましてきた。そしたら非常にこうね、良くなって、それであー良かったなぁと。シーティーロを入れたことはいいんだけども、親父はもっと入れろ、もっと入れろって言われたんだけど。だけど僕も金型のことと、いろんなことあったもんですから。ちょっと渋っとったんやね。もう2台発注しちゃって、それちょうど間に合ったんです。で、間に合って、金型も変えて、今までは大きい製作所のやつ使ったけども、不二越材に変えたら良くなった。それでうちの生産性もグッとこう上がってですね、そして品質も非常にこう良くなって。お客様にもこう喜ばれて。で今度それをどのように横広げにもってくるか、ということになってきて、それをある品物からベアリングだとか、いろんな自動車部品にも、どんどんこう広げていったんですね。そうゆうことでまあほんとに良かったんです。
で、そうゆう中で次は金型は良くなった。ほんで今までは旋盤でこう作ったんだけども、NC旋盤出てきてですね、そして金型をNC旋盤作れば、いつも同じ金型が出来るんでないか、ってことで。で、それで親父にもそうゆう話したんですね。そしたら親父に叱られてね。こんなカチンカチンの金型がね、そんなNCで削れるか!ってことで、そうゆう事言われて、いや削れんなと。ということで、今までやったことのないことですから、で、それで無理やり頼んで、1台入れてもらったんだよね。そしたらうちの従業員中でフルタって子がいて、その子にこのMCせんばんのことをこうね来て教えてもらって。その人も、全然ねやったことないもんで、もうXとかXYプラスこうこうゆうことになるもんで。で、その時ちょうどね北海道の方へ慰安旅行あったんだけど、フルタ君に話したら、慰安旅行行ってもね、そのことばっか頭になって、慰安旅行ちょっとも楽しくないと。で、そうゆうことでそれから帰ってきて、その子がやるようになって、そしたらそのあくる年に今大和のタナカ君って子が名古屋の専門学校でてきて、その子がNC旋盤をタナカ君が引き継いで、やるようになったんやね。その子はもう向こうで勉強してきているから、スムーズにこう上手くこうね、バトンタッチできたんです。それで金型を作って、だから非常に良い生産性もグーッて上がってきて、コストも下がってきて、だから今度は親父はそのシーティーロを2台入れろ、また次から次へとこう入ってきたんんですね。そうすることによって工場の環境がどんどんどんどん良くなってきて、そしたら今度はやはりそうゆう風になってくると仕事の環境も変わったもんですから、求人も入ってくるようになったんです。今までは求人もね、いくら募集しても人が入ってこなかったけど、環境が変わって、ね。そして仕事もやりやすくなる。そうすることによって、すごくこう従業員も入ってくるし、学校からも従業員が来てくれるようになったと。いうことで、非常にこうありがたい改革ができまして、そしたら次はまた金型のうちはね、いろんな異形品がありますので、形状が複雑な。それを今度はNCのNCフライスの削るやつですね。その話をまた親父に持ってったら、こんなあれでドリルで削れるかってこと言われたんだけど、いっぺんに削れなくても、ねえ。少しずつ削ればいいんでないかと。で、これ自動でプログラム組めば夜中でも削ってくれるんだから、ということでそれもなんとか親父に入れてもらって、そしてそれでやったら上手くいったと。今度はそれを組むプログラム、プログラムの自動プロとかあるんですけど、それを今度はなんとかコンピューターで出来ないかってことで、またその話になったんよ。ほすると今度はそれを使う事はいいんだけど、プログラム組むって人もいなかったもんですから、今のタナカ君にそれやってもらって、そして今の自動のNCフライスは別の人にこう、その子が指導しながらやってもらうと、ゆうことで、ほんとにね初めは綱渡りみたいなことをやっとったんですけど、それがだんだん当たり前になってきて、そしてまぁ今日にダーっときたんですけどね。なにか僕は1つこうやろうとすると必ず新しいことですから、やったこと無いことばっかをこうやるもんですから、いろんなことがね非常にこうね、僕も心配するんだけども、そうかといって、なんとか工場の中を改革して、なんとかもっともっといい物をできないかなぁということで、まぁやってきたっていうのはほんとですね。そのおかげ様でお客様からも信用を得て、仕事はどんどんこう受注が入ってきて、新しい仕事に取り組むことができたんですね。そして切断工場も足らなくなって、新しく工場できて、そこへ今度は切断機入れて、それで材料切ってやるようになった。だから僕も考えてみると、1歩1歩、1つ1つを確実にそれをこなしていく。きちっとなったら、もう次のステップ。でステップをこう階段上るみたいに、きちっきちっと踏んでやってきたっていうのはほんとですね。
[稲葉0:15:58]ほんで、今度新しく工場が大島の方、そこで結局切断をするんですか?
[朝日0:16:05]いや、今のところで。だけども今度新しいね、大島のね、工業団地があるんですけども、そこは今の工場をみんな向こうへ鍛造工場を向こうへ移そうと、という息子の計画ですね。今のここの工場は、今度は機械加工しようと。鍛造品というのはあくまでも完成品ではなくて、鍛造した後には必ず、制作って旋盤加工ですね。旋盤加工して、そして焼き入れて、研磨して、そんで組み立てて、カーメーカーにいくわけです。そのうちの一番最初のところですから、それプラス今度機会加工までやって、焼き入れまでやって、そしてお客さんに提供しようと。今はおかげ様でね、ハブユニットといって、ハブベアリングですね。タイヤのところにつくハブです。それもメーカーによって全部違うんですね。それを今のNCフライスであったり、そうゆうことで全部できますので、機械も小さい機械をだんだん大型にしてきて、で、やはり今一番大きいプレスでは、2,800トン。それから2,000トン、1,600トンという風にだんだんだんだんプレスも大きくなって、そしてまぁ良い製品ができるようになると。今でもハブといってもタイヤは車の部品ですから、タイヤのとこ付くんです。で、タイヤは4つありますので、だからそれも外輪と内輪とあるとね、×2だよね。だからすごく量が多いんです。よく売れる車というのは、月に何万台と作りますから、×2ですから、2万台作って、4万個あるとか。全然量がバッとこう増えてますので、それを今うちが鍛造したやつを今度は機械加工持ってって、そこで制作して、焼きいれて、それからベアリングメーカーはいって、組み立てたらカーメーカーいくと、ということで、毎晩みんなね日産だとか三菱とかマツダだとか、こうゆうところがあって、トヨタは入ってなかったですね。トヨタっていうのは、やはり光洋精工がありまして、そこはまあやってなかったもんですから。でも、ホンダさんとかそうゆうところで、十分間に合って、やるようになってですね。で、それでうちも実績作ったんです。で、うちはなぜハブがこれでグッと伸びたかというと、まあうちの社長命令でですね、もう試作品を1週間で作れと。1週間で。図面が来て、図面こうゆうものできないかってことで加工図面がきて、それでうちで鍛造図面書いて、プログラム全部作って、試作作って納めるまで1週間。ということで、そんな鍛造メーカーさんいないんですよ。無いんですよ。だいたいもう1ヶ月だとか、金型作るのみんな外注先でやるとか、いろんなことがあったんだけども、うちの場合は全部社内で作りますので、だからそれで1週間で納品して、で、出す。そうすると早いもん勝ちなんですよね。ほんでうちでやったやつもすぐやって、ベアリングメーカー持ってって、そして全部試作で全部テストやって、それでオッケー出るまで大体半年くらいですけども、その間にまたお客さんとの、カーメーカーがね、向こうがね、やって決まるんですけど、あとコストだとか、コストも非常に数が多いですから、コストは厳しいわけです。それをいかにね、コストを安くして、そして良い物を作って、お客さんに満足してもらうものを届けると、いうのを真剣にやってましたね。
[稲葉0:20:39]今あの会社の従業員って何名くらいみえるんですか?
[朝日0:20:42]今現在は185名くらいいますね。で、今度は今の大島工業団地ですけどもそちらの方へいくと、またこちらの方もまた加工の方にいきますので、加工は全部NCとかそうゆうライン組んでやらないかんですから、まだまだ従業員も100名とか150名とか、それくらいは増えてくる、まぁ将来的にね、と思います。
[稲葉0:21:13]1番最初は何名からスタートされたんですか?
[朝日0:21:17]1番最初は9名からスタート。僕入れて9名です。でそれもみんな郡上というところはこうゆうね、工業ってのは少なかったですね。大体まぁ百姓とそれから今の山のね山仕事だとか土方だとか、大工さんとか、こうゆうことが主だったんですけど、うちみたいな工業が来て、やる時にも、あんまり無かったと思うんですけど。そうゆう点で。でも一番僕はね、前あの30代の時に青年がくしょ入ったんだけども、その時に郡上は北高と郡上高校と和良みんこうとみんな普通科なんですよね、あっても農業と林業とそうゆうことで、工業高校無いんですよ。だからね、うちは工業ですから、その辺のところは非常にね、厳しかったんですね。でも郡上の人は高校卒業して、そして専門学校行って、名古屋のね。電気工業高校あったんだけども、そうゆうところ行って、また帰ってきてって人もいて、で、そうゆうことで非常に助かってですね、で、その人は優秀ですから、郡上の人はみんなね、ほんとにね仕事は真面目に取り組んでくれるし、優秀な子が多かったもんですから、そうゆう点にはありがたかったですね。
で、そうゆうことで今順調にきて、そして僕は、僕の思いってのは、まず1人の人を徹底的に育てると。だから例えばメンテナンスの場合でも1人の人をしっかりと育てて、そして今度育ったら、次へいくと。だから遅いんですけども、それは確実なんだよね。で、例えば保全もそれから生産技術も、1人の人にやってもらって、その人にしっかりと勉強してもらって、それから次の人をこう入れてく。だからうちは郡上は非常にね、さっき言ったように工業高校だとか電気科だとか、いろいろありませんけども、でもうちは白鳥とそれから美濃と土岐、それから岡山、アメリカに3つ、それからインドネシアとありますけど、うちの保全だとかそれから今のメンテナンスね。そちらの方は白鳥がトップですよ。アサヒフォージの中で、トップです。だからうちもそうゆう子がアメリカ行ったり、あっち行ったりして指導したり、なんかしましたね、過去にね。それで郡上市は優秀なんですよね。だからやはりそうやってしっかりとね、仕事に対して打ち込んでもらうと非常にありがたいなぁという風に思っています。
で、そうゆう中で今度は次は、今度は音の問題ですね。工場のね。もう前も言いましたけど、音がやかましいとか、煙が出るとか、それから振動がくるとか、洗濯ものにシミがつくだとか、いろんなこう苦情があってですね。で僕は次にやったのが、離型剤ですよ。どうしても鍛造ってのは打ちますから、その時に離型剤といって、金型から製品を出さないかんですから、それをかけることによって、金型を冷やし、製品をスムーズに取り出せる、そうゆう物が液があるんですね。それ前は油でやってたんですよ、油で。油だと熱がありますから、煙がバーッと出るわけですよ。で、それを水溶性に変えたと。で、水溶性でも黒煙だと、黒煙で前やった、普通はみなさん黒煙でやってたんですよ。黒煙だと作業着が真っ黒けなっちゃうし、工場も真っ黒けなっちゃうし、こりゃいかんとってことで、僕は2,800トン入った時に、水溶性の黒煙にしようかなぁ、白にしようかなぁと、白色。ねえ。そのことを迷って、僕も半月くらい迷っとったかなぁ。いやぁもう白で!ってこうなって、で白から黒は簡単に変わるんですね。黒から白になかなか変わらんわけですよ。新しい機械ですから、工場設備全部新品ですから。基礎も全部。だから白から黒は変えれるけども、黒を使っちゃうとなかなか白に変えれないから。だから僕は白でいけってことで、白でやるということを決めて。そしたらみんなから絶対失敗するぞと。みんな黒に慣れてるからね。絶対失敗すると。いや失敗したら黒に変えればええってことで、そして僕は白にバンッと挑戦したんですよね。そして僕もその立ち会ってですね、濃度を薄めて、やはり水溶性ですから水で薄めれるんやね。でそうゆうことでやったら、そしたら上手くいっちゃったんです。これは作業者に聞いたら、調子ええよってこう言ってくれるから、これは良かったってところで、ほんとホッとしたんですけど、そのことをやることによって工場の環境が良くなるんです。それを僕はそう出して、じゃあ他の工場はみんなね、信用せんから、白鳥だけをどんどんどんどん白に変えてったんです。今まで黒の離型剤から白に変えて上手くいっちゃって、そして僕のちょうど次男がちょうどその頃岡山に工場作ったんですね。でそれで次男が、僕は白鳥工場の白鳥方式でやるってこうゆう宣言したんだよね。だから、あそこも新しい工場ですから、最初から白でやると、いうことで、白鳥も岡山も上手くいっちゃったんですね。そしたら今度はアメリカの工場を、黒になったやつを工場の中をみんなクリーンにして、綺麗に洗って、そしてそれを白に変えたんです。なら上手くいったから。そしたら今度は他の美濃だとかそれから今の土岐だとか、今は土岐だけど、昔は岐阜の御嵩にあったんですけども。その工場もだんだんだんだん白に変えて、今アサヒフォージでは、白が主流です。だから1つの挑戦がですね、ほんとにやったことやったことが成功して、ほんとに良かったなぁという風に思っています。
[稲葉0:28:55]それは周辺の住宅にも影響があるんですか?
[朝日0:28:58]それも今まで煙が出とったやつが油でやっとったやつを水溶性に変えた。それからそれを白に変えた。で、従業員の作業服も綺麗な作業服で通勤できるわけ。そうするとそうやってくるとみなさんの工場周りの環境も当然良くなってきて、で、その苦情がガッと減ってですね、あとは工場の音の問題。音の問題も前はスレエトでやっとったのをヘーベル50、100ミリとかそうゆうもので囲ってやることによって、音のあれも出なくなって。だから1つ1つの、だから振動もですね、その機械入れた時に下にゴムのパッキンを入れて、ゴムでも厚いね、高圧に耐えれるパッキンに変えて、そしてやったら振動も無くなって、んでその今まででとったところも、ちょうど5月の連休だとか、それから夏のそうゆうお盆休みだとか、そうゆう時にひいて、そしてだんだんこう解決して。今ではおかげ様で振動も無くなって、そして音もあんまりこうやかましい音じゃなくて、で、日直で夜も寝られるようになって、非常にありがたいですね。ほんで煙も出ないし。そうゆうことで順調にこうずっと上がってきて。
[稲葉0:30:38]朝日さん、そこにあの特許証があるんですが、その特許の話をちょっとしてもらえませんか。
[朝日0:30:44]その特許今これここにちょっとね、ショットブラストのシステムの、システムですから。ショットブラストというのは金属を鍛造して製品作るとどうしても酸化されるわけですね。熱を加えてやっていますから。その酸化鉄をとらなかんですよ。酸化鉄ってのはね、砂みたいで非常に硬いんです。で、そのままでやると今度は機械加工でバイトをぬかないとか欠けるとかいろいろとありますので、加工する時には必ずショットをかけるんですね。それをかけると小さい、ほんと小さい鉄の玉をぶつけて、ぶつけてこう回転させながら、で、それをショットというんですけど、それをそれをやると、製品をワンパレット、ガーっと開けますから、開けると音が出るんですよ。またショットかけてからまた音が出る。その音が前いっぺん測ったら、120~150ほうくらいの、ものすごいやかましいんですよ。傍におれんくらい。で、それを今度はやると、周りが住宅ですから、必ず苦情がもうくること分かってるんです。で、それでうちもハブの最後のショットを美濃工場でやったんだけども、白鳥で全部やらないと、なんか問題が起きた時にね、すぐ来いって言われてもなかなかね行けんから、僕は社長に「白鳥で完成までやりたい。」と言ったら、会長がですね。「お前な、やることはええけどもな、24時間やれるか。」って話だわね。ほんで「お金がお前いくらかかると思っとるんだー!」ってこと言われて、お金の問題もあるしね。その生産性の問題もあるし、だから僕はそこでちょっと議論したんですね。で僕は売り言葉に買い言葉で、やったるわぃ!ってことで、まあそれでやったんですけど。その時に、もうこれはね、どうしたらいいかってことで、その帰ってきてから、で、加工はヤマシタ工務店に頼んで、それからショットブラストのメーカーは、あるんですけど、そのメーカー呼んできて、それから棚も作って、まぁみんな呼んできて、4社で話したんやね。ショットブラストは新東工業。棚は村田機械。それから加工はヤマシタさん。それから僕と、4社で話をして、僕はこうやってやりたいんだと。俺やるんだと言って作ったんやね。ほんで例えば24時間じゃなくて、12時間だと2台いるわけですよ、ショットがね。だけど1台で24時間できれば1台ですんじゃうと。24時間できるから。そうすれば、2台買う、その時出なかったのがお金の話が出なかったんですよ。費用いくらかかるってこと、それだけ出なかった。それが非常に良くて、で、それで設備やったら大体いくらだったかな、全部で9,000万くらいかかったかな。1機がね。で、それでやったんですね。で、やったらうまくいっちゃってですね、それでもう、あのダッコも使わなくてよくなったし、それからその時ちょっとだけ問題点があったんです。その鍛造に入れたそのパレットのまんま開けますので、そのパレットをその台の上載せる。台がね。台があって、台は別のやつに移し変えてやってたんだけども、そうすると移し替えるだけの手間がかかるし、移し替えるとまたね傷が付くんですよね。どうしても鉄と鉄ですから、1個あの1.5キロだとか2キロありますので、それを無くさないかんと。いうことで、そのまんまをちょっとね台を工夫して、上にあげて、パレット載せても開けてもおってかないように。だからちょっといろんな工夫してですね。上にバーザイこうやっといて、それに引っかかってパレット下に落ちないとか。いろんなことを工夫してですね、で、やったんやね。そしたらほんとに上手くいっちゃって、で、それでやったら上手くいって、移し替えもないし、だからそうゆうことでそれもできて。
そして今の近くの松井特許事務所の人が、ちょうどその前に僕は友達で、近くの白鳥のところにかねこふとん店のかねこ社長と僕は仲良かったもんですから、話とったら、ちょうどカネコ布団店も特許とったんやね。その話聞いて、そうかと、松井特許事務所は近いもんですから話してすぐ来てくれて、僕はその人も面識はあったんです。で、それで、これ特許とれるかって言ったら、「あっやれますよ。」ってことでさ。じゃあやってくれるか。ってことで、そしてやったら上手く特許を取れて、その話僕は役員会で出したんやね。そしたら社長もですね、同時にきよるんですよ。あのニキとバリニキとね。普通は2工程でやるんです。それを1工程でやるってこと。そのことは前からうちもやってたんだけど、じゃあこれがとれないかってことで、それでやったら上手く図面書いてやって、社長もとったんです。そしたら今度は朝日工業の社長もですね、ローリングのやつをこれもうちも取れんかって、みんなやったら、朝日工業もとってですね。うちには僕と社長と朝日工業と3つ特許がうちもね、おかげ様で取れて、あるんですけども。ほんとにね松井特許事務所のおかげ様で、そうゆう風で特許も取れて、だからお客さんが来ると、これはどうですか。これうちの特許ありますよ、という話はするんですけども、お客さんもみんな感心して、帰ってかれるんですよ。みんなそれで悩んでるんです。もうどうしても音は出る、環境だとかいろんなことやって、全部自動ですればいいし、それを上手く24時間もできるようなそうゆうことを考えて、だからいろんなねことを言われることはプレッシャーを受けるんだけど、人間っていうのは困らないことにはね、発想は出てこないんですよね。順調でやってる時にはね、上手く発想は出てこないです。だからもうどうしても住民の人達のそうゆうことがあったり、いろんなこと考えて、みなさんに迷惑をかけないようにはどうしたらいいんかってことを真剣に考えないとできないっていうのは現実ですね。今このショットブラストもそう。これもほんとに今、今ではもうそれがもうだんだん量が増えますから、白鳥では2機あるし、で岡山にも2機あるし、全部24時間でできますわ。今の自動棚で、棚から自動的にもってきて、またかかったものを、またその棚にもっていくと。いうことでほんとに今のところはおかげ様で上手くいったなぁという風に思ってますね。はい。
[稲葉0:38:58]今出た社長というのは、朝日さんの息子さんのことなんですか?
[朝日0:39:02]いや、社長って僕の長男ですね。今長男は、今年は2021年の3月の27日に亡くなったんです。ほんでその社長が会長やったんだけどね。親父の、僕ら兄弟の長男ですから、今年の3月の27日に亡くなったんですけど、その頃にはずっと名誉会長で頑張っとって、85歳で亡くなったんですけども。3男の朝日工業の社長もだよ。今年の3月の5日に亡くなったんです。ほんで3月に、2人とも亡くなったんですよ。でそうゆうとで、まぁね亡くなって、今ではまぁ名誉会長やってたんだけど、僕らの現役の頃は社長だったから、社長社長って話したんだけど。
[稲葉0:40:02]そうしますと、今度朝日さんのお父さんはいつまで?
[朝日0:40:09]親父は、とにかく今の大和町の大間見を出て、そして中島郡祖父江町の方へ行ってですね。そして丁稚奉公して、10歳の時に行ったんかな。でそれからそうゆう農機具の昔の鍛冶屋ですね。そこへ、丁稚奉公いっとって、22くらいの時に、20歳くらいかな。時に一応奉公明けってことで、そこを辞めて、そして久保田鉄工入ったんですね。で、久保田鉄工入って、そしてそこで班長までやったらしいです。班長やっとって、そして班だから自分の部下がいるわけですよ。で、給料の話になって、交渉行ったら、生産上げたら給料を上げてやる、というそうゆう約束をしたらしいです。で、生産上げたら、「あっ、もう出来たんか。」って言われて。そしたらコストを下げると言われてさ、給料上げるどころか、ね。受け取り制度ですから、下げると言われて、それを言うたら、みんなが怒っちゃって、その責任をとって、僕は辞めると。いうことで、久保田鉄工辞めて、名古屋で自分で企業を起こしたと。それが昔の朝日です。朝日鉄工、それから朝日炭鉱になって、朝日炭鉱有限会社になって、それから株式会社になって、名前を変えて今カタカナのアサヒフォージになったと。いうのがこうゆう歴史あるんすけどね。
[稲葉0:42:00]いつまで元気だったんですか?
[朝日0:42:02]あれはね、親父は平成10年に亡くなったから。
[稲葉0:42:08]あっそうですか。何歳ですか?
[朝日0:42:10]ほんで、だからちょうど還暦、違う違う還暦でないは、米寿。米寿で85歳だったんかな、86歳。ちょうど、そうゆうことで、ちょうどその時はねうちがね、60周年だったかな。で、やった時にその犬山のホテルで、ね。米寿の祝いこうやってやりおったら、「あのな、米寿の祝いするとな、死ぬからいかん。」と言われたんですよ。で、それは迷信だって僕は騒いどったんやね。その年に亡くなっちゃった。ちょうど犬山の観光ホテルでやったんだけど、その時にちょうど60周年やった時に、米寿のこともやって、それが4月にやったもんですから、で、6月に亡くなったんです。そうゆうことで、親父が言ったとおりになっちゃったなぁってことで思ったんですけど。それが平成10年だったんですね、6月の5日に亡くなったんですけど。はい。よく覚えています。
[稲葉0:43:23]そうすると今朝日さんの兄弟では、あのーー、次男。
[朝日0:43:29]次男は、もう全部、今は2021年ですけども。僕の兄弟は全部会社を退いて、今3代目。親父が初代で、我々が2代。今3代目になったんですけどね。次男もそれから3男が、朝日工業の社長がさっき言ったように亡くなって。あと4男と僕と。うちは7人兄弟ですから、長女はもう3年前に亡くなって、今は次女は半田にいますけど、今、だから7人から3人家族、4人になったんですけど、はい。そうゆうことですね。
だから、今ほんとに考えてみても、いろんなことを挑戦する時ってのは、僕もね、自分のね頭の中でシミュレーションするんですよ。これをやって、自分でいろんなことをこう考えるんです。いろんなこんな、郡上店のね、こうなったらどうだ、こうやどうやとか、そうゆうことを考えて、これはいいなと自分で判断したら、それを役員会に持ってきて、話するんです。必ずね、反対者が必ずあるんですよ。何をやるにしても。満場一致ってことはまず無かったですね。僕は5男ですから、ね。いつも上からダンダンって言われる。でもそれに対して、ね。それを言われるから真剣に自分もやろうというそうゆう気持ちになってね。やはりプレッシャーはかかりますけども、それを上手く克服できて良かったなぁと。だから今の工場も今綺麗になったし、すべてがそうゆう中で、すべてにもう何をやるにしても必ず横やりが入ってですね、あったんですけども。それはあくまでも仕事上の上ですから。仕事とプライベートはまた別ですから。僕もそれを従業員に言うんですよ。やはり仕事とプライベートは別だから、仕事は仕事。プライベートはプライベートと。だから今どうしてもね、僕が見てると郡上の人たちというのは、横のつながりがありますので、こんなこと言ったらね、後でこう言われやせんかとかね、あーだこーだ言われやせんかとかね、そうゆうことがね僕はこう思うんだよね。というのは1つあるのは、いやらしいとか、そうゆう言葉をつかうんですよ。あくまでも仕事ですから。仕事はやはりお金を稼ぐとこですから。それとプライベートは僕はよく朝礼の中でも別にせえと、僕はよく言いました。
で、そうゆう中でやはりね、僕らもそうだったけど、僕はスポーツやってたから。スポーツの場合でも、個人スポーツと団体スポーツとあるんだよね。で、個人ってのは、自分だけ良ければ良いんよ。ボクシングにしてもそれから水泳にしても。こうゆう個人のスポーツは自分が強ければ、あとどうでもいいんですよ。だけども団体スポーツというのは、みんながレベルアップせないかんのですよ。そうすると、例えば僕はサッカーやってたからそうだけども、サッカーでも1人でずば抜けたって、周りがダメなら全然ダメなんですよ。だからみんなのレベルをなんとか上げてきて、そしてそれの集まりが、試合でこうやるんですけど、やはりまず個人個人のレベルアップをはかる野球もそうだけど、はかってきて、それを束ねるのがキャプテンであり、監督であり、ということで僕はね、やはり高校時代に、中学高校そうだったけど、サッカーやってきて非常に良かったなぁと。だから自分だけね、ええかっこしても、ダメなんですよ。だからみんなの底上げをはかってきながらはかってきながら、やってくと。それを束ねれば、ものすごく強い、そうゆう会社になるんでないかなという風に僕は思っています。会社は雰囲気が非常に大事なんでないかなと僕は思いますね。おかげ様で白鳥工場はみんな育ってますので。
で、もう1つは、よくあるのは、よそからこう呼ぶんだよね。例えば会社の中でも部長級だとか、そうゆう風の役職の人達をよそから連れてくるんですよ。それは、僕はあんまり好きじゃないんですよ。その会社にいなければ別ですよ。で、ある中でよそから来た人いきなり部長になっちゃうと、じゃあ今まで頑張ってきた人達はどうなっちゃうんだと。自分が出世が止められちゃうんですよ、そこでパパパパッと。僕はそれはね、僕は嫌ですね。だから僕は全部下から育てて育てて、そしてその次を入れて、そしてこの人が下の面倒見ながら、育てていくと、僕はこのやり方ですね。他の工場は違うんですよ。よそから連れてきたり、こうすると、やはりね、僕はあんまり好きじゃないですね。だから、育てろと。その代わり自分も真剣になっていろんなね。だから僕はね人を育てるには4つある。1つは、その人が向いてるか向いてないかっていうことがね、まず1つ。2つめは、時間がかかるんですよ。時間がね。だからすぐできることと難しいことはずーっと時間かかる。3つめは、お金がかかるんですよ。講習に行ったり、いろんなことでお金がかかるんですよ。4つめは、こっちは我慢せないかん。こっちの我慢。いつになったら、どうなんだろ、だからそれをグッと我慢して、その人を信じて、そして育てていく。だから僕は人を育てるには4つのこれをね、やらないと人は育たんなぁという風に僕は思っています。
だから僕も岡山に、1人あの電気3種とった子いるんだけど、岡山の工業高校あったんやね。津山工業高校。で、僕はその子を1人採用したんだけど、採用する時に「電気3種取りたいか?」って聞いたら、「取りたいです。」って言われたの。そうかと。じゃあ行くんなら名古屋来るかと。名古屋の朝日工業あるので、そこで働いて夜間行けと。夜間の電気学校行けと。分かりましたってことで名古屋来て行ったんやね。あそこ2年ですから、卒業して、電気3種は取れなかったんです。取れなかったんだけども、2年行って、そして帰ってきて、そしてうちから白鳥工場から、その人いって、そこで3年くらいかかったかな。で、そこで電気3種とったんですね。うちはどうしても電気2種3種いるもんですから。とったんですね。だからものすごく本人はね、感謝して、で、今その気になってですね、今岡山の課長で頑張ってますけど、若いですから、そうゆう頑張ってやっていますわ。僕が行くと、いつも挨拶きますわ。「こんにちわー!」って挨拶きて、「おっ頑張っとるかー?」って言うと、「頑張ってます!」って言って、元気良くね。だからやはり人のやる気を起こすってのは、下積み生活必ずありますので、それを克服して、そして次のステップ次のステップということで。だから岡山の電気けんとった人も、あちこちのそうゆうねセミナーだとか研修とかこうゆうこと行きながら、やっとったんですけどね。だからやはり僕はさっき言ったように、4つ。その人がまず素質があるか。2つめには、やっぱし時間がかかるよ。3つ目は、お金がかかるぞ。4つ目には、こちらが我慢せないかんと。ということをね、これを僕はそうゆう風に信じてやっています。はい。
[稲葉0:53:17]朝日さん、ここに本をおさえたんですが、本の話は大体これで入りましたかね?
[朝日0:53:24]まだかどうか。ね、やっぱしね、ここの中でパッと見て、逆境に勝る教育は無し。やはりね、いろんなことそうだけど、逆境ってのはじゃあなにが逆境だと。やはり自分の家のいろんなこともあるだろうし、それに対して、逆境に負けるのか、それを乗り越えるのか。だけど神仏はだよ、その人にとって、乗り越えない逆境は与えないんですよね。神仏は。それをそうゆう風にとるのか、これあかんと最初から辞めちゃうのか、だからいろんなね、例えばサッカーでもプロ目指してる人もいるだろうし、いろんな人がいると思うんだけど、やはりその中には、スーっていく人ってのはまず稀ですよ。みんなね。例えばスポーツの世界でも、入って順調にずーっと出れる人ってのは稀で、みんなね、1回や2回3回ね、もう辞めようとかね、もうねこんなん続かんとか、そうゆう人は必ずいるんですよね。だから今ではね郡上のね、あそこの辻下さんの、ね。池江璃花⼦。あの子の場合でも良かったんだけど、白血病にかかって、そしていっぺんグーっとこうきたんだけど、それを克服して乗り越えてきた。素晴らしいよね。そうゆうね、池江璃花⼦もそうだけど、だからみんなね、そうゆうね、だから僕はこれ、逆境に勝る教育無しと、このことによって、みなさんの感謝ってことでみんなのね。だから俺1人じゃないんだと、みんなが協力してくれたおかげ様でこうなったんだというね。だから僕は会社でもそう。僕個人は大したこと無いんだけど、みんながね、みんながそれに協力してやってくれたおかげ様で今日があるなという風に思いますね。だから、ここに逆境に勝る教育無しって書いたんですけど、こうゆうことはね、ほんとにそれに負けずに、その為には自分も反省もせないかんし、自分のどこが違うんだと、もっと自分はこうせないでないかとか。
だから僕は、この本の中で一番最初に書いてあるのは、まずね、夢。夢ですね。まず自分は夢を持つ。まぁねクラーク博士じゃないけど、『青年よ、大志を抱け』じゃないけど。やはり夢を持つ。ほんで夢を持ったら、それに対し今度自分の気ですね。気=エネルギー=心ですけど、やはり気というのは、やっぱし病気でね、見舞いに行くとさ、気をしっかり持ってねとかさ、そうやって励ましてくるんだけど、まず気ですね。だから夢を持って、その気になって、その気になってはじめて、次は向上心ですよ。現状に満足しない。必ず、ね。次のステップ次のステップ、ステップを踏んでって、そして向上心を持って、やっていく。ということが大事だから。僕はここで7箇条こう書いてあるんだけども、最初にでとるのは夢ですよね。夢から次なんだったかな、夢から今の気。気ね。
気から、1番最初かな。本にあるんだけど、温故知新ですね。温故知新は古きは温めて、新しきを知れ。温故知新でもね、今の若い子は、過去はどうでもいいって言うんだよね。過去はどうでもいい。今、それから未来に向かっていくんだと、いうことを僕は聞いたことあるんだけど、これ大きな間違い。自分は産まれたってことはね、産まれて成人しても、産まれた時は過去ですよ。現在ってのは、ほんの一瞬ですよ。ほんの一瞬。過去がいっぱいここにねあって、その過去の中には、失敗もありゃ、成功もありゃ、頭にきたことありゃ、嬉しいこともありゃ、楽しいこともありゃ、いろんなこと過去なんですよね。それを温めて、だから過去で失敗をしたことを、じゃあ次はこの失敗をあれにして、未来に向かっていくと。だから過去を壊しちゃったら全然ダメですよ。だから僕は温故知新ってことこれ書いたんだけど、やはり過去を大事にして、それをバネにして、そんで未来に向かってくと、現在未来という風に、という意味で、温故知新なんやね。
次は継続は力なり。それをもう3日坊主はダメなんですよ。それをずっと心に持って、その気持ちをずーっと持ち続けると。僕がちょうどサッカーやってた時に、ちょうど僕が先生がその僕と背が一緒くらいで、167くらいの痩せた先生でね。その人が、俺はね中学校の時に先生から話聞いたんだけど、僕はとにかくオリンピック選手になりたいと。口で言うと、みんなからバカにされるんですよ。お前がオリンピック出れるわけないだろってこう言われる。だから口に出すんじゃなくって、胸に秘めよ。秘めてそれを持ち続けろと。持つから努力する夢があって、夢があるから努力するんだって。僕はこれね、北高で話したんです。たしかあれ70周年の時にちょっと講演してくれんかって言われて、郡上北高で講堂でねこのことを話した。だからみんなに、ね夢を持て。口で出すな。出すとみんなから言われるから。言われるの嫌だったら黙ってろ。それで自分の夢をその中でどうしたらいいか、こうしたら、もっとこうしたらいいかな、もうせないかんかったな、お金かかれば貯金せないかんなとかさ、いろんなことで努力するんだよね。だからそうゆうことで僕は継続は力なり。夢を持ってね。で、あとは神仏を敬う。やはりね神仏を敬うってことは、現自分がここにいるってことは、両親がいるわけですよ。自分のね親の。その親もまた両親がおるわけですよ。3代遡るとすごく人数おるでしょ。10代遡ったらもう、ものすごくすごい人数なんですよね。だからそうゆう中で、やはり神仏というのは、目に見えないけども、だけどもその中にその教えがあるんですよ。教えね。神と仏と書くんだけど、仏様は、あくまでも元祖はお釈迦様なんよね。釈迦如来。神は、日本でいうとアマテラスオオミカミさんとかそうゆう。そうゆうやはりこう自然界。人間っていうのは、目で見えるものは信用するけど、目に見えないものに左右されてくんやね。1つ例を挙げると、じゃあ空気見えるか空気。空気見えないです。でも空気が動くということは、風ですよね。空気が動いて風なんですよね。風がこうくると、ヒューっとくるから、冷たい風だ暑いなとかいろんなことが分かるんだけど、これをじゃあ目に見えるかっていったら、まず見えないです。そこの中に酸素があったり、いろんなことがあるんですけど。そうゆうことで学校で習ってわかるようになって、だけど空気がじゃあ目に見えるか。そうゆうものに左右される。水もそうですよ。水蒸気が上がって、それが冷気に触れて、またおってきて、雨になるんですけど。そうゆうこの自然の動きってのは、これじゃあ引力もそうやね。宇宙行くと初めて分かって、引力無いもんでフワフワフワフワこう浮くんだけど。だけどもここに地上におるってことは、引力があるから、みんなおれると。そうゆうことで、人間は目に見えるもの信用するんだけど、目に見えないもの、だけどその中に真理があるんやね。僕は真理をやはり自分は学んでもらいたいなという風に思います。最後にそれをやったら今度社会貢献です。社会に貢献する。やはり僕もカンボジアに学校をね、中学校ですけど、作ったんですけど、あの何年前かな。前にカンボジアで作った。
[稲葉1:03:45]それ場所の名前は分かりますか?
[朝日1:03:47]名前はどこだったかな。これありますけど。それからこれ、ちょうど白山のところが1300年祭。泰澄さんね。1300年祭あった時に、僕はちょうど長男次男がおって僕は5男ですから、おった時に、今度1300年祭あるでなぁ。僕が「100万やろかな。」って言ったら、次男の人が、「お前な、1300年祭だぞ。100年でないぞ。」って言われてさ、その時に「0が1つ足らん。」って言われて、ほんで僕も1,000万にして、まあねそれを寄付させていただいて。そしたらそれがあるところに話したら、これはやっぱし郡上市の、郡上市に出した方がいいっていう話を聞いて、郡上市に持っていったんですね。そして市長さんに話をして、まぁやったんですね。そしたらそれが教育委員会に来て、教育委員会が今の韋駄天と善財童子とこの2つのレプリカを作るということで、それにお金を使ったと。それのあれで僕も紺綬褒章を頂いたんやね。そうゆうことで、令和元年10月30日にいただいたんだけど、それが宮内庁が作って、それが岐阜へ来た、県庁に、岐阜県庁。岐阜県庁から郡上市きたんですね。郡上市から連絡あってそして、日付は令和元年の10月30日だけど、僕がいただいたのは令和2年にいただいたんですね。そうゆうことで、うちに置いてありますけど、おかげ様で、そんな気持ちは何にも無かったんですよ。とにかく1300年祭ってことで、やったんだけども、それがおかげ様でいただけたということで、ほんとにありがたいな。自分が思わなくても、周りのみなさんがね、そうゆう風に助けていただいたり、いろんなことを評価していただけるなぁということを思います。
僕がもう1つあるのが、あそこの大島工業団地。これは2023年を目標に、今2021年ですから、あと2年後を目標に工場を作ってですね、そして鍛造をいっぺんではなくて、徐々に徐々に向こうへ持っていって、で、やっていきたいなと。それ今僕の世代ではなくて、次の世代の3男の息子がそうゆう気持ちで頑張っているから、それを陰ながら応援していきたいなぁという風に思います。
[稲葉1:07:00]朝日さん今の長滝白山神社ですが、そこは泰澄大師が由来があるんですが、泰澄大師とちょっとあの次の話をちょっとしてもらっても。
[朝日1:07:15] 泰澄大師のタイっていうのは、泰という字書くんですね。それは僕の、僕のお袋は小学校6年生で亡くなったんです。朝日カズコっていうんですけど、亡くなって。で、親父が再婚したんですね。したのが僕の中学校2年生の時にきたんだけど、その人の名前がヤスエっていう名前。ヤスは泰澄大師の泰っていう名前だったのね。江は江戸の江で。で、僕は澄雄ですから、澄っていうね、こうゆう字書いて泰澄の澄ですよ。なんかね、そうゆうことで、僕が郡上へ来た時に僕は5男ですけど、ここは3番目の工場で、本当は3男が来なかん。まぁ日本の伝統からくるとね。僕はここ来たこと、おかしいなぁと思ったんだけど、今となって考えると縁があってきたなぁという風に思います。泰澄さんが1300年祭のことあって、僕はあの白鳥の薬王山正法寺の人と親しいもんですから、その話したら、福井県の鯖江の方に、泰澄大師さんの出があるってことで、僕はそこ行ったんですね。そこ行ったら本人もこう書いてますけど、朝日山観音ってあるんですよ。ね。で僕はそのお寺に行って、朝日山観音って書いてあるんですけど、朝日という苗字はたくさんいますかってこう聞いたら、いないっていうんだよね。じゃあどうして、これ朝日山観音ですかって聞いたら、ちょうど観音様の御開帳した時に朝日がパーッと照ったんだって、ほんで照ってそれを縁で、これは朝日山観音、観音菩薩という風につけたんだってこと。あぁそうかってことで。やはり僕は朝日という苗字あんまり好きじゃなかったんだけど、だけどそうゆうことを聞いてくると、朝日という苗字も、ね、いい苗字だなぁと。澄雄との澄というのも、今の泰澄さん。それから今の比叡山。比叡山の延暦寺を作った人は最澄さん。最澄さんが比叡山の延暦寺を作った。だから澄っていうのはやっぱしね、初めから作るような人というのは僕のイメージで、フッと思ったんだけど、考えてみたら、僕も白鳥工場来てよ、5男で産まれたんだけど、白鳥工場はゼロからスタートですよ。親父の出身地である、ここを立ち上げてきた。それから今のCT問題もそう。NCフライスもそう。いろんなことがね、みんな立ち上げてきた。今度ショットブラストもそうだけど、僕はそうゆうものを、そうゆう因縁があるんかなぁと僕は最近ちょこちょちょこ思う時があるんやね。だから俺はそうゆうね、0スタートの、0からスタートの人間かなぁと。僕はそうゆう因縁で産まれたんかなぁという風には思いますけどね。だから今の澄という字も、その泰澄さん、それから比叡山には最澄さん。みんな作った人ですから、そうゆうことを思います。
[稲葉1:11:15]朝日さん。この映像を我々は100年残したいんです。100年先に朝日さんの100年後の家族になんかメッセージがありましたら、ひとことお願いしたいんですが。
[朝日1:11:39]いや、僕もね、それをね、100年後の家族どうなっているか分からん。日本そのものがどうなっているかも全然分かりませんけど。その時に、じゃあうちがやってる車でもね、もう今のこうゆう時代なのか、車も空飛ぶ時代なのか、電気になっちゃうのか、分かりませんけども。でもその100年先には、みんなさっきも言ったけど、ブワーンとしてるから分からんですよ。だから、その年その年をしっかりと頑張ってやっていく。それから時代の流れ、今ちょうどコロナが、去年、一昨年か、一昨年の暮れにコロナが中国武漢で始まって、で去年日本に来て、で、今年と。ちょうどこれ思うとね、僕が白鳥工場来たのが、30歳ですから。30ってことは、1975年か。に、白鳥工場来たんやね。1973年はちょうど、オイルショックですね。第1回オイルショック。オイルショックは、73年の暮れにきて、74年で5年が一番そこだったんですね。僕は75年にこう来ているから。で、1年経って、76年の6月に今の会社の竣工式あったと。思うと、ほんとにそうゆうね、ちょうどオイルショックから今日にまでにちょうどね、何年になるんかね?
[稲葉1:13:27]75年からですか?
[朝日1:13:28]75年で、今21年。
[稲葉1:13:31]48年くらいですかね。
[朝日1:13:32]46年。46年47年前がオイルショックだったんですね。そうすると、ほんとにね、こうゆうことってのは時代は繰り返していくから、今のコロナ、100年前は、スペイン風邪なんですよ。スペイン風邪あった時はみなさん肺炎で亡くなってるんやね。僕も親戚を大間見なんだけど、大間見の人肺炎で亡くなってる人結構いる。調べたら。ちょうど3代遡った時に100年くらいいっちゃうから。大間見で肺炎で亡くなっている人いるんですよ。だから、そうゆう時代ってのは移り変わってくるかなぁと。ちょうど今コロナで、あの変異したコロナとか、いろんなことがあって、やっと今年、我々もワクチンが打てて、これが収まってくるのはまだ来年くらいかなぁとは思うんですけど。ちょうどオイルショックみたいなこうゆうようなことかなぁと、僕はそうゆう風にちょっと思うんですけど、だからこれから50年先、ねぇ、また100年先。今言われたように、どうゆうような世界になるか。
だからあのね、大変という、オイルショックも大変だったんだけど、コロナ渦でも大変ですよ。大変という字を漢字で書くと、大きく変わると書くんですよ。大きく変わると書いて、大変なんですね。だから、これによって、世の中ガーっと変わるんやね。だから今学校でも、鞄持って学校行きよったけど、今パソコンで、そうゆうことで、学校の授業全部受けるとか。また企業もだよ。会社行かずに、自分の家からやるとか。いろんなもんにこう変わりつつあるんだね。前はそうゆう想像もしてなかったことですよ。してなかったことが大変という字のごとく、大きく変わる。で、例えば努力という字、努力という字は、女へんに又の力と書く。これをね、僕なりきり分解するんですよ。そうすると、女性のお産の意味しとるせんかなぁと。女性のお産。努力というのはそれくらい自分の子どもを産む時に、ガーっと力んで、その際苦しんで、ある人は生死彷を徨う人もいるんだけど、それぐらいやって、それのまた力と書くんですから、よっぽど頑張らないと努力に入らんなぁ、という風に思いますね。それから、青年。青年っていう字は、青い年って書きますよね。これは僕は、僕なりきりですよ、稲穂に例えると、ツンツンになるんですね。田植えしてから、スーっときて、ツンツンですよ。だから、これが青年なんですね。だんだんだんだん実ってくると、いろんなものが、米が出来てくると、頭を垂れてくるんですよ。だから、『実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな』ということわざがあるけど、あぁそうだなぁと。僕も自分なりきりね、そうやって字を分解するんだよね。ほんで男っていうのは、田んぼの田に力と書くんやね。昔は百姓があったから、だから、あっそうか男は田んぼの田に力か。そうゆう風にね、字をバラすと面白いんです。その字の意味がね、ある。ということを僕は思うねぇ。だからいろんなことをバラしてみるといいですよ。だから徳という字、徳という字ね。徳という字は、彳に十書いて、四書いて、今は心だけど、昔一入ってたんですよ。だからあーゆう会議だとかは、一入れる。一書いて心。これバラす、面白いよ。四十、四十。四の上が十だから、四十一、いっしんに一の心だから、いっしんに行ずること、これは徳だよね。その徳の上に悪と書くと、悪徳商法になるんすよ。悪いことは一生懸命考えてくる。人を誤魔化すことも。ほんで善と書くと、ねぇ善と。こうと書くと、徳を積むとか。こうゆう字になる。だから徳という字をポンと書いても、徳でも良い徳と悪い徳とあって、悪徳商法なんてほんとにそうやないですか。なんとか相手を誤魔化そうとかさ、そうゆうことを一生懸命、あれも努力しとるんすよ。あれ。どうしたら相手ひっかかってくれせんかとかね。だから僕はそうゆうね、字の上にこれをつけたり、これをバラしたり、いろんなことをすることをね、ある人から教えてもらって、そうゆうこと考えるようになったね。だから字は面白い。徳という字、ほんで、功徳ってあるでしょ。そうゆう風に、やはり漢字というのは上手くできとるなぁと僕は思いますね。はい。
[稲葉1:19:33]あと、なんかあの話ならんことは、無いかなと。
[朝日1:19:37]いやー、だから僕はこの中でね、まぁ、いろいろあるんですけども。僕もほんとに、あの、なんか僕はもうねやっぱしね、現場第一主義だったね。現場。だからね、その僕は常に現場を見てる、で、現場の中で人の動きを見たり、いろんなことね。そんで、やはりね、みんなから苦情が来たり、いろんなこと来るから、その場はほんとに嫌ですよ。頭にきたりね、何でこんなこといちいち言われないかん。嫌ですよ。だけども、それをぐっと飲み込んで、で自分は冷静によーく考えるってことが大事じゃないかなぁと僕は思いますね。そりゃあみんな勝手なこといいます。なんだけども、それに腹を立てて、あーじゃこうじゃなくて、それを自分でいっぺんドーンと受けて、そしてそれを自分なりきり解釈して、それを悪い方悪い方でいくと、悪い方いっちゃう。良い方行けば良い方行くし。だからね、人生は、心の1つの置き所。喜べば、喜びが、喜びながら、喜びを集めて、喜びにくる。これを逆にいくと、ねぇ。悪いことは、ねぇ、頭にくると、ねぇ、それが来ちゃうんですよ。で、やはり物事をええ方に考える人と、悪い方に考える人では、出発が違いますので、こっちいくと、こっちいっちゃう。だから、ねぇ人生は心1つの置き所。全部心から発信しますから、何もかも全部心から。だから、心1つの置き所で、喜べば、喜びが、喜びながら、喜びを集めて、喜びにくる。良いことばっかですね。これは逆に、悪に出たら、そんなこと、こう、ぞーってくるしねぇ。それから、やはりね、その、人っていうのは合う合わんがあるので、顔を見るのも嫌って人もおるしさ。声を聞くだけでも嫌っていう人もおるしさ。それは、やはり仏教でいくと、いんがかほうってね、いんといん。それが結果となって、それを報いとして、くる。最後は自分に返ってくるということですね。僕はそうゆうことで、だから、僕はそうゆうことを思いますね。はい。後はなんか?
[稲葉1:22:52]はい。いいえ。あの、1時間、半でしたか、今回2回目は。前回2時間ほど。3時間、あの約3時間半、録らせていただきました。ありがとうございました。いや、なかなか貴重な意見を聞きました。ありがとうございました。ぜひともこれを100年残しますので。
[朝日1:23:23]なんか参考になればね。ぜひね、参考にしていただきたいなとゆう風に思います。
[稲葉1:23:29]いや、今のも参考ですが、100年後も参考にするために、やってますんで。
[朝日1:23:33]はいはい。まぁそうゆうことでね、だからみなさんが、こうゆうことを、まぁちょっとしたことでもいいから、欠片でもいいから、自分に受け止めてもらって、そしてそれを活かしてもらいたい。要は、人生は自分1人では生きていけないからさ。みんなと共存の中で生きているんだから、そうゆうことで、自分だけが良ければいいってもんじゃなくて、やはりみなさんと共々に生きて、ねぇ、人生を楽しんでもらいたいなと思うんですね。
[稲葉1:24:11]今日はどうもありがとうございました。
[朝日1:24:12]ありがとうございました。足りないもんで、ほんとに申し訳なかったなぁ。これでよろしいでしょうか?ありがとうございました。
資料
白山御師の研究プレゼンデータ
☆郡上白山文化における御師の歴史的役割の研究20230617
平成18年の「教育基本法」(1)改正により,「教育の目的及び理念」には「伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」との文言が加えられた。また,学校教育法第二章第二十一条(義務教育の目標)第三項(2)にも同様の内容が規定されており,学習指導要領の各教科に反映されている。平成29年告示の小学校学習指導要領解説社会編(3)「教科の目標」には次のように示されている。「地域や我が国の国土の地理的環境,現代社会の仕組みや働き,地域や我が国の歴史や伝統と文化を通して社会生活について理解するとともに,様々な資料や調査活動を通して情報を適切に調べまとめる技能を身に付けるようにする」。
また,教育基本法が改正された同年同月に「地方分権改革推進法」(4)も成立された。「地方にできることは地方に」という方針の地方分権が本格的にスタートしたのである。これにより,平成の大合併と言われる大規模な市町村合併が行われ,愛知県では平成23年4月1日までに15の新たな市が誕生した(5)。これらの合併について全国町村会(6)は調査を行い,プラス面とマイナス面を挙げている。そのうちのマイナス面には,「地域の個性(歴史,文化,伝統)の喪失による不安」の項目が挙げられている。また,市町村合併は全国の公立学校の配置にも影響を及ぼした。少子化が追い風となり,平成元年に全国で24,608校あった小学校が,平成30年には19,591校まで減少したのである (7) 。
これらの市町村合併及び学校の統合は,子どもたちの学びに少なからず影響を与えている。小学校第3・第4学年の社会科授業では,教科書検定制度のもとで編集される検定教科書に加えて市町村教育委員会等が発行する社会科副読本が使用されているが,この副読本の内容にも変化がみられる。本来子どもたちの通学圏内である「身近な地域」を対象として作られる副読本であるが,合併や統合により該当の地域が広域化したため,学ぶ内容が「身近」ではなくなっているのである。例として,第4学年の社会科単元「きょう土の伝統・文化と先人たち」ではその対象が町から市に変わった。そもそも児童・生徒が学ぶための子ども向け地域資料が少ない。さらに2020年からのコロナ禍により地域を学ぶリアルな体験の場が減少している。また,教育現場の教師においては,多忙な業務のなかで各地域の資料を収集し教材開発することは時間的な制約があり難しい。
コロナ禍では学校がやむなく休校となり,地域行事が中止になる等,外出自粛が余儀なくされた。その反面,デジタル化やICT教育が進むこととなり。結果として,2019年より国の政策として始まったGIGAスクール構想が後押しされた形となった。教科書や社会科副読本等の電子版が活用され,一人一台の端末が配布されるとともに,授業では電子黒板が使われ,アーカイブ画像(8)の使用や,遠隔地の学校との交流授業等(9)が行われるようになった。自らの地域文化を紹介し,他地域との比較により新たな発見をする相互学習が可能となった。こうした時代背景を鑑み,教科書を始めとする各種教材は今後デジタル化の方向に進展するだろう。デジタルを活用することで地域の枠を超えた幅広い学びの形が加速することとなる。その一方で地域学習の初めの段階では,身近な地域として我が町を知ることが必要ではないかと考える。
地域学習の現状と課題
市町村合併によるプラス面,マイナス面については全国町村会の調査(6)や愛知県の調査結果(10)で確認することができる。その調査のマイナス面のひとつに「地域の個性(歴史,文化,伝統)の喪失」が挙げられているが,このことは,社会科副読本にも影響を与えている。子どもたちが最初に学ぶ地域学習材として,社会科副読本の役割は大きい。なぜなら,昨今,各家庭の地域活動への参加度合いは異なり,子どもたちの知識や体験に差が生じているからである。さらに地域に特化した子ども用の郷土資料や学習材が少ないため,書物やコンテンツを通して個別に学ぶことも難しい。
教員の立場からは,本来,地域資料を教材化するにあたり,教師自身が地域社会と向き合い地域の土地や産業,人々の様子を見て歩き,地域の人の話を聞くことにより学習指導要領の内容に関わる地域の事象を自らの目でとらえ地域教材の開発を進める必要がある(11)。しかし,近年大きな社会問題となっている教員の過剰労働を鑑みるに教材開発に大幅な時間を割くことは難しい。青木,堀内(2014)は,多忙化の質的変化を比較し,その特徴や実態調査の課題を整理している。それによると,教員の多忙化には,いくつかの特徴と多義的な多忙感(負担感)があるという。多義的と言うのは,煩瑣な処理を要求されることにより,その量の多さや費やす時間の長さにより重要な仕事について十分に果たせない等,いくつかの理由が入り混じった多忙感である(12)。こうした教員の多忙感が教材開発を妨げる要因であり,それに加えて,そもそも子ども用の地域資料が少なく入手が困難であるということもあり,学校現場で地域資料が活用されない現状となっている。
児童・生徒は,地域を学習することで,身近な地域の認識を深め,親しみや愛着を持つことができる。地域の一員としての自覚を持ち,将来の地域資源を生かす担い手として期待される。地域で育つ彼らには,土地の歴史や成り立ちを知っておいてほしい。そうした知識や先人から受け継いだ知恵が自然災害対策としても役に立つ。
教員に関しては,デジタル化された地域資料があれば資料収集の負担が軽減され,授業研究の補助資料として活用しやすくなる。また,赴任先が地元でなくても,デジタル地域資料によって,その土地の概要を把握することができ,児童・生徒とコミュニケーションがとれる。地域の子どもたちとコミュニケーションをとる中で,教えあい,学びあうことで互いに認識が深まるものと考える。
デジタル紙芝居
紙芝居 ~ 一本松は見ていた ~
「一本松は見ていた」
♪一本松は見ていた。いかだが河を下るのを。おじいちゃんのおじいちゃんが、ぼくと同じだった頃♪
① 私は木曽川のつつみの上からずっと長岡村の人たちを見ていました。あなたのふるさとがまだ長岡村と呼ばれていたころのお話をしましょう。
② やっとこせ~、よ~いっとな~。
耳をすませてごらんなさい。
いせいのいい木遣りの歌が聞こえてきますよ。木曽の山でとれた材木は、いかだに組まれて木曽川を下って運ばれました。二十年に一度の伊勢神宮の せんぐうに使われるご神木が運ばれるときは、たくさんの村人が集まって、とてもにぎやかになりました。
♪みよ池のほとりに、白いお馬があらわれた。おばあちゃんのおばあちゃんが、私と同じだった頃♪
③ たくさんの馬が飼われていた馬飼には、洪水で木曽川のつつみが切れてできた大きな「みよ池」がありました。
耳をすませてごらんなさい。真夜中になるとみよ池のほとりにあらわれる白い馬の足音が聞こえてきますよ。
④ 耳をすませてごらんなさい。女の子たちは、おはじきやお手玉をしてあそびました。子どもが多いので、子もりは大切なお手伝いでした。
みよ池には、ヒレ、ジュンサイ、マコモ、ガマ。水草が生え、花が咲き。
カモ、セキレイ、カワセミ、クイナ、美しい小鳥が歌いました。
フナ、ナマズ、モロコ、センパラ、ウナギにどじょう、たくさんの魚がとれました。
♪桃のお花が咲く道を、魚つり 子どもが走っていく、「こやす地蔵」のかげから、どんぐりやまのたぬきがみてました♪
⑤ 耳をすませてごらんなさい。子どもは今も昔もあそびが大好き。桃の花が咲いた道を、元気な子供たちが魚をつりに走っていきます。
⑥「どこへいくのかな」どんぐり山の狸が、おじぞうさんといっしょに、 子どもたちを見ていますよ。川にかこまれた長岡村は、桃や梅の花が咲きほこる、「桃源郷」とよばれる美しい村でした。春になると船に乗って、お花見をする人がたくさんやってきました。
♪さとのき、桑の実、さつまいも、 こどものおいしいおやつです。
おびしゃ、もちなげ、どんど焼き、 白髭神社のおまつり♪
⑦ 耳をすませてごらんなさい。げたをはいた子、ぞうりの子、はだしの子、みんな元気に笑っていますね。
⑧ 白髭神社では、その年かざった かど松やしめかざり、書き初めをやいた火でもちをやいて食べる「どんどやき」がありました。
矢をいって、その年の作物のできを占う「おびしゃ」、わざわいが起きないように、健康にすごせるようにもちをまく「もちなげ」。子どもたちが楽しみにする行事がありました。
♪馬飼、四貫、拾町野、西鵜之本に神明津、とどめき川と木曽川に囲まれた村の物語♪
⑨ 耳をすませてごらんなさい。長岡村の東を流れる佐屋川は、大雨が降ると川の水がぎゃくりゅうして、ゴボゴボとぶきみな音を立てました。川があふれる前ぶれだったのです。村の人から「とどめきがわ」とよばれていました。
⑩ 長岡村は、木曽川よりも低い土地でしたから、大雨が降ると村中が海のようになってしまいました。
朝、子どもたちは、ひざまで水につかりながら学校に通うこともありました
♪おばあちゃんが私に昔話をしたように、いつか私も長岡の昔話をするでしょう♪
⑪ 長岡村のお話は、これでおしまいではありません。あなたがこのお話をだれかに話し、そのだれかが他のだれかに話し、そのだれかが他のだれかに話したら、このお話はずっとつづいていきます。
⑫ 耳をすませてごらんなさい。
長岡に住む人たちの声が聞こえてきますよ。
私はいのります。あなたが、この長岡に生まれてよかったと思いながらおとなになっていってくれることを。 長岡の一本松
地域資源デジタルアーカイブ(稲沢市 祖父江町 長岡地区)
■水屋〈稲沢市指定文化財〉 (みずや 〈いなざわししていぶんかざい〉)
■地泉院 (じせんいん)
オーラルヒストリー (地泉院住職の話)
長岡地区(神明津)にある地泉院(4040)は 約600 年の歴史があり古文書等にもたびたび登場する。地泉院の本尊は 奈良時代行基菩薩作の子安延命地蔵尊であり 弘法大師空海が日本に伝えた真言密教のお寺である。尾張徳川候も篤く帰依され 本尊に納めてある御厨子は尾張徳川家御寄進のものと言われている。新型コロナ感染症の流行以前は 地域の小・中学生が学校行事として訪れ 住職へインタビューを依頼していていたが ここ数年は行われていない。メディア露出はほとんどされることがないお寺であるが 今回は地元の子どもたちの学習目的と長岡地区のアーカイブを残したいという思いに共感いただき 音声での記録を引き受けていただいた。
住職へのインタビュー内容は全部で6問である。事前準備として 質問項目を用意しお渡しした。質問内容は お寺で行われている行事や 古文書などに書かれている既知の内容を口頭で確認する形である。収録場所は地泉院内であり 日常的に講和をされている場所で落ち着いた環境で行うことができた。
6つのテーマについて 住職の一人語りの形でお話しいただいた。聞き手は同地域在住で 住職とは幼馴染の方に依頼した。地元の方であってもこれまで聞いたことのない話や 改めて確認できたことなどがあったようで 収録時間の約1時間を過ぎても話は続いた。近年 大方のことはインターネットで調べられるが こうしたローカルな話は 地域に代々居住している人々の口伝により語り継がれることが多い。特にかつて大水の被害があった地域は 水害により形を留めている資料が少なく 口伝情報が大変貴重である。これらの音声資料は 小学校の学習材として使用する目的であるが 地域の大人にも伝えていきたい内容である。音声を記録する意義は その土地の言葉や話し方によるニュアンス イントネーションなどを伝えることがある。ただし 地元の人でなければわからない土地の名前や言い回しなどが含まれるため 文字起こしの際にはキーワードを補足することとした。一つの質問を5分程度と短く設定したのは 子どもたちの集中力や授業内での使用を考慮したためである。
Q.「十万体地蔵流し」について
地蔵流しは,昭和4年(1929年)に,今の東海大橋のあるところに渡船場があって,愛知県の人が岐阜県に行き,岐阜県の人が愛知県に来るという船に乗って,渡船場があったわけですが,その船が,沈没しまして多くの方が亡くなられた。亡くなられて,その時に船を漕いでいた船頭さんが毎晩夜になると首を絞められると,ちょっと怖い話ですが,首を絞められて何日も寝ていない。地泉院のその時の住職,21世の大僧正榮順大和尚※のところに,なんとかしてくださいと相談にみえた。そうしたら,榮順僧正が「それは魂が救いを求めとるから,供養して救ったらなあかん」と言うことで,早速「今からお地蔵さんを刷れ」と言って・・・
今用意してきましたけど,こういうお地蔵さんを(和紙にお地蔵さんの画のある手の平サイズのもの)刷ってね,「地蔵流しで供養する今から来い」と言って,供養して,地蔵流しをして,そうしたらその船頭さんは夜寝れるようになりまして,で毎年供養を,地蔵流しをやるということになってずっと供養してきまして,数年経ってくるとね地蔵流しに参加した人がいいことが起きるということになってきまして,例えば子が長年授からなかった人が授かったりとか,良縁に恵まれたりとかね。そういうことがあってですね,そこらへんからいつの間にかね,塔婆にもね,安産祈願とかね,家内安全とかね,そういうことも書いて流すようになったんですね。
そういうことで,ずっと続いて,最初の頃はですね,中堤(ナカテイ)と言って木曽川と長良川の堤防ね,あそこまで,私の小さいことまでは行っていた,だから40年ぐらいまではみんな船に乗って,中堤に行って,一日がかりで供養をやっていたんですがね,今じゃ絶対許可がおりないです。そういうことをやっていてですね,それが今やることに関して許可が大変で,ですね,今は数年前から池でやっております。地泉院の中の今蓮があるところの池で,蓮が終わると何もなくなるので,そこで供養してというようなスタイルに変わっておりますね。
Q.具体的にはどういうことをされるんですか?これを流すんですか?
最初お経をあげて,時間が来たらみんな一枚ずつね,お地蔵さんの真言を唱えながら,オン カカ,カビサンマエイ ソワカ,オン カカ,カビサンマエイ ソワカと1枚ずつね。このお地蔵さんに亡くなった魂が救われていくわけで,
(先ほど)言うのを忘れたんですが,日ごろ私たちは色んな衆生,生きとし生けるもの,豚さん,牛さん,鶏さん,お魚,貝,魚介類そういう命をいただいているんで,すべての生きているものに対しての供養をするように昔からなっている。よく養鶏業者の人とか,牛さん豚さん飼っていらっしゃるそういう人たちも昔は地蔵流しに参加されて一緒に供養していたんですね。あらゆることの供養ということでね,続いております。今年で,令和5年2023年,今年の11月で95回目ですね。なんとか100回まではいきたいと頑張っております。
※大僧正榮順大和尚(ダイソウジョウエイジュンダイワジョウ)
Q.神明津には現在も水屋が残っている。地泉院も水害対策をしていたか。
うちに限らず,この地域は水害に悩まされた地域で,うちのお寺に限らずこの地域の仏壇というのは下の部分がすごく高いんですよね。なんとか水に浸かっても仏様だけは守るという考え方で,畳の上から1メートルぐらいあるような,うちの本尊様を納めるのも高くは作ってあるんですけども,今のまさに地面と同じぐらいの高さしか堤防の高さはなかったみたいなので,本当に大水が来ると堤防から手を洗えるというくらいのそれくらいのやわな堤防だったので,切れますよね。それでダーッと入ってきて,それでうちに定期的にみえる堤防とかの設計される方がおっしゃっていましたけど,そういう昔の被害が多いんで,この木曽川の堤防というのは,A級クラスで今3段になってますかね,すごい強靭な堤防を作ってあるので,まずよっぽど現在は大丈夫でしょうというお話しです。
Q.尾張徳川家からの寄進について。
家紋と言わず お寺は寺紋(ジモン)と言います。寺の紋と書いてじもんです。なんでそうゆう風になったかというと 寺に伝わっていることによりますと まさに関ヶ原の合戦の時に徳川軍は清州城におりましたよね。そっからみんないろんな方面に分かれていって その一派が木曽川に差し掛かった時に地泉院に一泊しているんですね。一泊していて戦勝祈願をしました 勝てるように祈願して関が原に向かったという話しなんですね。関が原で徳川軍は勝ったので そのお礼に本尊様を納める御厨子(オズシ 本当に大きいんですけど その御厨子を御寄進していただいた その時から葵の紋が寺紋になったということです。
そこにも江戸時代の瓦ありますけど 葵の紋がついていたり 本尊様を納めている御厨子も宮大工さんに聞くと 現代にこの同じの作ってもらうといくら位かかりますかと聞いたら 1億5千万はかかるとおっしゃっていたので すごいものを御寄進していただいているんですね。まぁ本物か噓かっていう話に仮になったとして 昔 江戸時代とかに偽物の葵の紋を付けると打ち首でしたので まぁ偽物ではないと思います。実際古いものとかに葵の紋が付いていたりね。あと 海津のお寺とかですね まさにうちと同じような境遇のお寺が 行く前に行脚して?帰った後 関ヶ原の戦いで勝ったということで御寄進を受けて復興されたお寺もあったりするので 海津と言えば有名な松平藩?高須藩の松平のお殿様 大河ドラマでも出てきましたけどね 高須城がある。高須城というのは尾張徳川家の中でも上の位で 実際 尾張徳川藩が世継ぎがなくなると二代ぐらいその高須藩から送られてお殿様になってますからね 地位としてはすごい高いですけどね 高須城※って昔あったんですけどね。
そういう感じもあって 徳川家といろいろ関係があったんじゃないかなと さっきの大水の話じゃないですけど このお寺も散々大水に浸かっていますので そういう資料がなくて 公の資料から言い伝えでしかそういうことはわかっていないんですけど。そいう関係で葵の紋があります。よくお参りに見えた方によく質問は受けます。
Q.「地泉院の大松」について
非常に大きな大松で すごく大切にされていたんですが 地泉院の土地はそもそも もっと西の方に木曽川の方に境内地はもっと広かったらしくて 聞くところによると半分ぐらいは堤防になってしまったらしい まさにその部分に大松があってその堤防の拡張により残念なことに切らなくてはいけなくなってしまったという話がありまして 今だったら反対運動が起こるでしょうけど その時代は国がいうとそれで通ってしまうような感じだったんじゃないでしょうかね。写真を見てもすごくデカいですよね。恐ろしいくらいデカい。すごくもったいないですよね。
Q.「北向地蔵」について
尾張名所図会っていう江戸時代の旅行ガイドみたいなもの 観光ガイドですね。そういうのがありまして そこの中に地泉院が出てくるんですけども その中に下馬地蔵(げばじぞう)ということで 載ってまして
地泉院の本尊様の前を通っていくときに馬から降りてちゃんと手をあわせていかないと 馬から落ちると あまりにそうゆうのが続くから 本尊様を北向きにしろということをしたということを言われております。仏様・神様というのは 基本的に南か東向いてお祀りするというのが基本なんですけどね。例外の北向き地蔵さんとか 北向き不動尊とか。たまに書いてあったりしますけど 基本は南か東を向いてお祀りするのが お札とかもね 仏様・神様の分身であるお札とかも南向きか東向きでお祀りするのが本来なんですけれども あまりにみんなが恐れたもんでひっくり返した それもまぁ今はもちろん元に戻していますけどね。それぐらい霊験あらたかだったんじゃないでしょうかね。
Q.神明津の渡し舟について
神明津という名前は 神明社が 大きな神明社が堤防のところにありますけど その神明をとって 津というのは港 船着き場 渡船場とか ようは港ですね そういう意味があって神明津というこの土地の名前だと思うのですが そこの神明社は昔からお伊勢参りで 木曽川を船でワァッと渡って 長良川も昔つながっていたからそうですね。船で行ってお伊勢参りに行く途中に 必ずそこの神明社に降りてお参りしてからお伊勢さんに向かっていたという そういう由緒ある神社なんですね。
なかには金毘羅山も 金毘羅山のお社も昔あったんですよ。それが数年前になくしちゃったみたいなんですけど 私も知らない間に。金毘羅山っていうのは 四国の香川に金毘羅山ってあるんですけどね 金毘羅大権現はですね 海上交通の守り神 海の神様という そういう神様なんですけど
まさにこれから海に向かっていく 水に関するものなんで それで金毘羅山を祀っていたんじゃないかと思いますけどね。昔は橋がないので 渡し船というのがものすごく重要で 必ずみんな 実際うちにお参りにみえる方 岐阜県の方も まだ生きていらっしゃるんじゃないですかね 小さい頃は渡し船に自転車乗せてここまでお参りに来たという そういう話を今でも もうぎりぎりぐらいじゃないですかね。親に連れられてお参りに来ましたというのはちょこちょこまだ聞きますんでね。
以上のオーラスヒストリーからも長岡地区が昔から水との関係が深い地区だということがわかる。水の恩恵を受けると同時に 大水に悩まされた歴史があった。音声収録後の雑談のなかでは 神明津と藤ケ瀬の間に流れていた「間の川」の話(八開村史P.248 248(4242)に記述あり)になった。図1 6 1 図1 6 2 のように かつての長岡地区は四方を川に囲まれた輪中地域であった。旧八開村(現愛西市)の古老によると 現在でもこの「間の川」の痕跡がわかる場所があるという。幼少期には,,間の川とつながっていた佐屋川でよく魚を取っていたとこのことである。また,,神明津より南東に「川北」という地名があるが,,この川とは「間の川」のことであり,,その北側に位置することから「川北」という地名になったのだという。
小史「一本松の子ら」(図66–11)や「みよ池の里」(図66–22)の寄稿文にも,,現在は存在しないこれらの川の名称や当時の様子を知る人々の思い出話しが書き記されている。
史実では,,明治3333年(19190000年)※に佐屋川は締め切られたとあるが,,現在7070代の方が幼少期に佐屋川で魚を取ったというのは昭和時代である。このことがわかる記述が小史『一本松の子ら』にあった。下記に抜粋する。※または明治3232年(19891989年)
(略)明治二十九年の鵜多須切れのあと,,明治三十二年に佐屋川がしめ切れられたのですが,,その後も昭和十年頃に埋め立てられるまでは拾町野から川北の手前まで,,深い沼と砂丘のような高い堤防となって残っていました。鵜野本の東側あたりは堤の下からすぐ深くなり,,東の岸近くには葦もはえていましたが,,夏,,泳ぎにいったりすると,,途中,,中程で少し足のつくところがあるぐらいで,,あとは背の立たない程の深さでした。(略)
この他にも小史には様々な川との思い出が記録されており,,それらの記録をつなぎあわせると,,豊かな昔の長岡の風景が思い起こされる。地域の方から当時の様子を聞き取り,,記録することで過去の土地の様子が甦るのである。そうした土地の記憶は,,後世の人々にとっても必要となるだろう。これらはかつて,,子から孫へと語り継がれた話であるが,,現代では,,そのような風習も薄れ,,時代と共に風化してしまうのではないかと懸念する。
2019年44月2727日の中日新聞の見出しに「佐屋川 本当に流れていた?」とある。大見出しは「22本存在?11本は廃川」である。この記事は「わが街探偵団」という特集で,,購読者からの質問に記者が調査するというものである。質問者は稲沢市在住の当時3131歳,,質問を要約すると「大昔,,佐屋川という大きな川が流れていたのは本当か,,川の跡がところどころにあるという噂をきいた」という内容である。
記者はこの問いに対して,,「川はかつて稲沢市祖父江町馬飼付近から木曽川に分流し,,弥富五明付近で再び合流した。江戸中期の地誌「尾張徇行記」によれば,,川幅が「二百三十九間(約四百三十五メートル)にわたった所もある」としている。さらに地元の専門家を訪ね「明治三十年代に水害対策で分流点が締め切られ廃川となった」と記している。分流点というのは,,馬飼付近のことであるのか。稲沢の昔ばなし「砂山の化かし狐」の祖父江の拾町野・沼山(図88–11)のハンドライティング図では馬飼の辺りから佐屋川が流れている。しかし,,名古屋大学附属図書館所蔵の木曽三川流域大絵図高木家文書(図55.)や今昔マップoon the webn the web(2211)の18881888年代(明治2121年頃)の長岡(図99–22)では,,馬飼よりも北に位置する拾町野から分流している。
中日新聞の記事は,,現在,,祖父江町よりも南に位置する蟹江町に流れている佐屋川に言及し,,これが廃川の名残なのか,,または別の川として22本あったのか,,“大河”の謎は深まった」と締めくくっている。
こうしたことも,,地元の方から話を聞き,,記録として残すことで全貌が見えてくるのではないだろうか。かつての佐屋川の記憶を持った方々の話を記録に残し,,次世代に伝える必要がある。
■白髭神社(しらひげじんじゃ)
■史跡 とどめき川 渡船場跡(しせき とどめきが とせんじょうあと)
■ 旧佐屋川野田渡船場跡 (きゅうさやがわのだとせんじょうあと)
■愛知県営西中野渡船場 (あいちけんえいにしなかのとせんじょう)
資料
令和5年度 教師の養成・採用・研修の一体的改革推進事業(現職教員の新たな免許状取得の促進)
事業の内容
【現状の課題】
〇教員には、学校段階間の接続を見通した常に義務教育9年間全体を俯瞰する視点を持ちつつ指導する力や、教科横断的な視点で学習内容を組み立てる力など、複数の学校種・教科等にわたる幅広い理解に基づいた総合的な指導力を教職生涯において身に付けることが、より一層期待されている。
〇また、教育DX(Digital Transformation)は、教員がオンライン技術を活用して、学びのあり方やカリキュラムを革新し、同時に、業務や組織、プロセス、学校文化の変革など、時代の変化に対応した教育ができる人材が求められている。
【目指す姿】
〇子どもたちの学び(授業観・学習観)とともに教師自身の学び(研修観)を転換し、「新たな教師の学びの姿」(個別最適な学び・協働的な学びの充実を通じた、「主体的・対話的で深い学び」)を実現する。
〇具体的には、受講者のニーズに応じて柔軟に講習内容を組み合わせたり、自律的に学ぶことができるオンライン講習(以下「自律的なオンライン講習」とする)を取り入れたりするなど、教員が主体的に学ぶことができる教えないで学べる学習環境をデザインする。
〇今年度は、これらの自律的なオンライン講習と教えないで学べる学習環境をデザインすると共に、実務経験3年以上の中学校教員を対象に新たなキャリアとして「小中一貫教育コーディネータ」を位置づけ、その人材を養成することを通して、小中学校免許状併有を促進し、学び続ける教師を推進する。
事業概要
〇本学が連携する教育委員会からの情報提供により、岐阜県においては、中学校教諭が小学校教諭免許状を併有している割合が74.9%と高い状況であるに対して、沖縄県においては、僅か6.8%と大変低い状況となっている(平成28年度調査)。
〇そこで、全国の教員を対象に(特に沖縄の教員を対象に)小学校教諭2種免許状を取得するに当たり現職教員が取り組みやすいようにオンラインでの講習を開発し、下記の観点で免許法認定講習等のプログラムを開発し実施する。
(※本学は沖縄にサテライト校を開設しており、現職教員を中心として100名近い学生・大学院生が学んでいる。)
〇なお、原則3年で教員免許状を取得できるよう講習を開設する予定であり、令和5年度は初年度として3科目を開設し、令和4年度と併せて合計5単位の講習を開設する。
〇今後、教育のデジタルトランスフォーメーション(DX)が加速する中、本学は、ニューノーマル時代に求められる学びの在り方に対応するため、現職教員を対象として、本学における今までの「オンライン教育の実績」と「膨大な教育リソース(デジタルアーカイブ)」を最大限に活用する、e-Learningを主体とした授業として展開する新しい遠隔教育を推進する。
① 小中連携の新たなキャリアとしての小中連携教育コーディネータの養成カリキュラムの開発(新規)
〇中学校教諭等の免許状を有する者が,小学校において相当する教科等の教諭となることができる制度として,小学校等の専科担任制度がある。本制度については,平成14年の教育職員免許法の改正により,従前は,小学校で担任できる教科は音楽,図画工作,体育,家庭に限定されていたところ,全教科及び総合的な学習の時間に拡大された。
〇本制度は,教員が新たに他校種の免許を取得する必要もなく,学校にとって活用しやすいものであると思われるが,小学校教諭の免許状を有していない中学校教員は,大学における養成課程において小学校における教科の指導法等について学修していないことから,小学校における指導に困難を伴うことがあるとの指摘もある。
〇そこで,実際の小学校における指導に当たっては,小学校の養成課程の内容を学修するために,小中連携教育コーディネータという新たなキャリアを取得することにより,小中連携教育がスムーズに行うことができる。
〇本事業においては,複数の学校種・教科等にわたる幅広い理解に基づいた時代の変化に対応した総合的な指導力を持った人材として,小中連携教育コーディネータのカリキュラムを開発する。
② 自律的なオンライン講習のデザインと教えないで学べる学修環境の設計(継続)
〇新しい社会のGlobal・Innovationに対応した継続性を必要とした生涯学習の実現や将来の“afterコロナ”時代への対応も含め、対面授業を基本としつつe-Learningを組み合わせたオンライン講習を実施する。
〇そのための「インストラクショナルデザイン指導力」を高めると共に、従来の講義形式から脱却し、教育リソースとオンライン講習を融合した“教えないで学べる学習環境”の設計を行う。
〇授業の設計に関して「何をどのように教えるか」がカリキュラムである。それに対して、カリキュラムを構築するための方法論が「インストラクショナルデザイン」である。
〇今後、広く深く学びを継続し、学び続ける教師として、「インストラクショナルデザイン」に基づいて自律的な学びを設計する「インストラクショナルデザイン指導力」を高める。
〇このような自律的な学びを、受講生自らが本講習を受講することで身に付けることができるよう、講習を設計する。
〇設計には、キャロルの学校学習の時間モデルを活かし、授業の質を高め、授業理解力を助けることを行う。
〇そのことは学習機会や学習持続力を高める手法にもなり、学習環境にもなる。
〇「教えないで学べる」ことは、これらの手法や学習環境を整備することによって実現するものであり、学習者の学ぶ意欲を促し、自律的に継続して学ぶ力を付けていくことである。
〇講習の目的は「教えること」ではなく、学習者が「自ら学ぶ」ことを手助けし、学習者に「行動変容」が起こることである。「教えない」講習が主体的な学び手を前提として、よりフレキシブルな学習環境を提供すると共に、本講習の対象者である大人の学習であるアンドラゴジーの原則を踏まえるカリキュラムとする。
本学としては、インストラクショナルデザインや e-Learningの学び次のように考えている。
・インストラクショナルデザインは、カリキュラムを効率的に教えるために、学習者の特徴や与えられた環境、リソースなどを考慮し、最も効果的で魅力的な教育方法を選択することであり、実行と評価を繰り返すことで、研修の成果を高めることができる。
・e-Learning のみでの学修は、いつでも、どこからでも学修ができるため、教えないで学べる完成型として位置付ける。すでに社会には多くのオンラインでの学修機会があり,学び方として定着しつつある。
③ キャリアステージに対応した教員に求められる資質能力の構造化(継続)
〇教員として不易とされる資質能力と新たな課題に対応できる力並びに組織的・協働的に諸問題を解決する力を中心にキャリアステージに対応した教員の資質能力を明確化し、資質能力とのカリキュラムマップを作成すると同時に講座のタキソノミーテーブル(教育目標分析シート)を作成することによりオンライン講習の学習目標の再定義と構造化を図る。
〇そのために、今回の講習においては、各科目の各講で担当教員により学習到達目標並びに課題を設定する。これらの課題を各担当教員によりタキソノミーテーブルに分類する。
〇このように、改訂版ブルーム・タキソノミーという分類を通してカリキュラムを分析・構造化することにより、カリキュラムの教育目標では、どのような性格の知識の習得を目指しているのか(内容的局面)、またその知識をどのように認知させようとしているのか(行動的局面)の、それぞれについて可視化し、カリキュラム開発者や授業者以外の第三者に説明することを可能にする。
④ 学習環境としての教育リソースの整備(継続)
〇教員自身が時代や社会、環境の変化を的確につかみ取り、その時々の状況に応じた適切な教育の提供を行うためには、教員が自ら課題を持って、主体的に講座に参加する体制の確立が必要である。
〇そのためにも教育実践に関する調査研究や教育資料をデジタルアーカイブ化することにより、教育リソース(デジタル化された教育資料)を縦横に使いこなし、“新たな学びの空間”を創造するための知識やツールを提供する。
〇ここでの“新たな学びの空間”とは、学習者が主体的に学びを深めることができる学ぶための材料である教育リソースを含んだ、対面、オンライン、教育リソースを活用した学びを行っていくその学びの学習環境である。
資料
1.20230322 一体的改革公募要項
2.20230322 一体的改革実施要項
3.一体的改革事業計画書(岐阜女子大学_20230227)
令和4年度 関連事業
令和4年度 現職教員の新たな免許状取得を促進する講習等開発事業
令和5年度 教師の養成・採用・研修の一体的改革推進事業(現職教員の新たな免許状取得の促進)
教育政策の動向と新たな教師の学びの姿
髙口 努 氏(信州大学理事(元文部科学省大臣官房審議官))
第2回 評価検討委員会
協議事項(メール並びにヒアリング)
令和5年度現職教員の新たな免許状取得を促進する講習等開発事業第2回評価検討委員会_協議事項
【委員からの回答まとめ】